若き黒澤 | 『七人の侍』は超最高ッ!! | こっちは「クロサワ」 |
1990年の第62回アカデミー賞で、スピルバーグ(右)とジョージ・ルーカスから名誉賞を受け取ったクロサワ(80歳)※181cmと長身なので迫力がある。 受賞コメント「この賞に値するかどうか、少し心配です。なぜなら私はまだ映画が良く分かっていないからです。だからこれからも映画を作り続けます」 |
世界のクロサワここに眠る(1999) | 監督の墓はお寺の墓地の左側、一番奥の方(2009) | 文人・芸術家が数多く眠る鎌倉は監督の永眠地にふさわしい |
★少年時代 日本映画界を代表する映画監督“世界のクロサワ”。小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に、その作品は各国の映画人から熱烈に支持されている。 1910年、明治末期に現東京都品川区東大井に4男4女の末っ子として生まれる。身長181cmの黒澤は明治生まれの男としてはかなりの巨漢だった。父は元軍人で体育教師、兄は活動写真の弁士(無声映画の解説係)。8歳の時に転校先の小学校で、後に共同で『酔いどれ天使』『素晴らしき日曜日』の脚本を書くことになる植草圭之助と知り合う。翌年、担任の先生に絵を誉められ絵を描くことが大好きになる。 1923年(13歳)、14万人もの犠牲者を出した関東大震災に遭遇、黒澤の家も倒壊する。その直後、黒澤は4歳年上の兄に焼け跡を見に行こうと誘われ、後の人生に大きく影響を与える衝撃的な体験をする。 ●『恐ろしい遠足』(自伝『蝦蟇(ガマ)の油』より) 兄は、尻込みする私を引っ立てるようにして、広大な焼け跡を一日中引っ張り回し、おびえる私に無数の死骸をみせた。黒焦げの屍体も、半焼けの屍体も、どぶの中の屍体、川に漂っている屍体、橋の上に折り重なっている屍体、四つ角を一面に埋めている屍体、そして、ありとあらゆる人間の死に様を、私は見た。私が思わず眼をそむけると、兄は私を叱りつけた。「明、よく見るんだ」。いやなものを、何故、むりやり見せるのか、私には兄の真意がよくわからず、ただただ辛かった。 特に、赤く染まった隅田川の岸に立ち、打ち寄せる死骸の群を眺めたときは、膝の力が抜けてへなへなと倒れそうになった。兄は、その私の襟を掴んで、しゃんと立たせて繰り返した。「よく見るんだ、明」。私は、仕方なく、歯を食いしばって、見た。眼をつぶったって、一目見たその凄まじい光景は、瞼に焼き付いて、どうせ見えるんだ!そう思ったら、少し、腹が坐ってきた。 兄はそれから、隅田川の橋を渡り、私を被服廠(ひふくしょう)跡の広場へ連れていった。そこは、関東大震災で一番人の死んだ処である。 見渡すかぎり死骸だった。そして、その死骸は、ところどころに折り重なって小さな山をつくっている。その死骸の山の一つの上に、座禅を組んだ黒焦げの、まるで仏像のような死骸があった。兄は、それをじっと見て、しばらく動かなかった。そして、ポツンと云った。「立派だな」。私も、そう思った。その時、私は死骸を嫌というほど見過ぎて、死骸も、焼け跡の瓦礫も区別の付かないような、不思議と平静な気持ちになっていた。 (略)その恐ろしい遠足が終わった夜、私は、眠れるはずはないし、眠ったにしても怖い夢ばかりを見るに違いない、と覚悟して寝床へ入った。しかし、枕に頭を載せたと思ったら、もう朝だった。それほど、よく眠ったし、怖い夢なんか一つも見なかった。あんまり不思議だから、その事を兄に話して、どういうわけか聞いてみた。兄は云った。「怖いものに眼をつぶるから怖いんだ。よく見れば、怖いものなんかあるものか」。 今にして思うと、あの遠足は、兄にも恐ろしい遠足だったのだ。恐ろしいからこそ、その恐ろしさを征服するための遠征だったのだ。 黒澤は最高の兄を持った。彼はこの“遠足”を通して「よく見る」ことの重要性を学び、13歳にして大人顔負けの人間観察力が培われた。 ★黒澤青年 中学に入ると、黒澤は電車賃を浮かせて本を買っては読み耽るようになった。以下は文学についての黒澤の言葉。 「世界中の優れた小説や戯曲を読むべきだ。それらがなぜ“名作”と呼ばれるのか、考えてみる必要がある。作品を読みながら湧き起こってくる感情はどこから来るのか?登場人物の描写やストーリー展開に、どうして作者は熱を入れて書かねばならなかったのか?こういったことを全て掴み取るまで、徹底的に読み込まなくてはならない」 「自分の人生経験だけでは足りないのだから、人類の遺産の文学作品を読まないと人間は一人前にならない」 「(ドストエフスキーについて)あんな優しい好ましいものを持っている人はいないと思うのです。それは何というのか、普通の人間の限度を越えておると思うのです。それはどういうことかというと、僕らが優しいといっても、例えば大変悲惨なものを見た時、目をそむけるようなそういう優しさですね。あの人は、その場合、目をそむけないで見ちゃう。一緒に苦しんじゃう、そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持っていると僕は思うんです」 ※このドストエフスキー評にある「目を背けず一緒に苦しむ優しさ」を、まさに黒澤監督も持っていると思う。それは“恐ろしい遠足”で身につけたものかも。この“優しさ”があるからこそ、世界中に黒澤ファンがいる。また、黒澤が文学を読めと訴え続けたのは、読書を通して多様な価値観と出合い、他人(作者)の立場になって世界を見る力を養えということだろう。そこから異なる意見への寛容さが生まれるし、それが人間にとって一番大切なことだと言いたかったんだと思う。 1928年(18歳)、画家を志し美術学校を受けるも不合格。しかし、静物画が二科展に入選する。翌年、日本プロレタリア美術家同盟に名を連ね、白土三平の父から洋画を学ぶ。1933年(23歳)、黒澤が慕っていた兄がリストラ反対を訴える労働運動で挫折し、愛人と心中する。黒澤はボロボロに打ちのめされた。同年、長兄も病死。その後3年間、黒澤は画家を目指し、アルバイトで画材代を稼いでいたが、自分の絵描きとしての才能に疑問を抱き始めていた。 1936年(26歳)、そんなある日、黒澤の目に運命を変える新聞広告が飛び込んだ--「助監督募集」!黒澤は自殺した弁士の兄から、たくさん良い映画を教えられていた。 かくして、5名の募集枠に500人が申し込んだ狭き門を黒澤は突破し、晴れてP.C.L.映画制作所(現東宝)に入社する。山本嘉次郎監督をはじめ、様々な監督の下で助監督を務め、並行して脚本を書きまくった。 「山さんは、監督になりたければ先ずシナリオを書け、と云った。私もそう思ったからシナリオを一生懸命書いた。助監督は忙しい仕事だからシナリオを書く暇はない、というのは怠者だ。一日に一枚しか書けなくても、一年かければ、三百六十五枚のシナリオが書ける」(黒澤) ★監督デビュー 1943年(33歳)、黒澤は助監督の腕を高く評価され異例の速さで昇進し、『姿三四郎』で監督デビューを果たした。本作品は迫力満点の決闘シーンで大ヒットした。翌年、戦時ゆえ戦意高揚映画を撮らねばならない制約下で、女子工員の青春を生き生きと描いた『一番美しく』を監督。この作品でヒロインを演じた矢口陽子と黒澤は翌年結婚し、同年に長男・久雄が生まれる。 終戦直後に完成した『虎の尾を踏む男達』は、歌舞伎の「勧進帳」を題材にしたもの。娯楽性を出す為にオリジナルの道化を登場させたことから、「歌舞伎を愚弄している」と怒ったGHQの日本人検閲官によって公開禁止となった。 黒澤は33歳の『姿三四郎』以降、55歳の『赤ひげ』までほぼ毎年のように作品を撮り続けた。1945年に『続姿三四郎』を公開、1946年の『わが青春に悔いなし』では京大の滝川事件をモチーフにし、原節子を主演に迎えた。1947年、貧しいカップルの一日を追った『素晴らしき日曜日』のラストには「未完成交響曲」(シューベルト)のコンサートをもってきた。ここには戦後の荒廃した国土を生きる民衆には芸術が必要なのだという切実な思いが込められていた。 ★三船との出会い そして1948年(38歳)!黒澤は別映画のオーディションに落ちたデビュー1年目の若手俳優、三船敏郎に一目惚れし、『酔いどれ天使』に抜擢した。結核に侵されたヤクザと酒飲みでお人好しの町医者との交流を描き、観客は三船の圧倒的な存在感に度肝を抜かれた。黒澤いわく「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」。以降、黒澤&三船のタッグは計16本にも及んだ。 『酔いどれ天使』の撮影中に黒澤の父が他界。死に目に会うことが出来なかった黒澤が放心状態で街を歩いていると、どこからか明るい「カッコウワルツ」が聞こえ、胸中の悲しみがいっそう深まった。その体験から、『酔いどれ天使』の中でも、肺結核で苦しみ闇市をさ迷う三船の背後にカッコウ・ワルツを流して悲劇性を浮かび上がらせた。 翌1949年には『静かなる決闘』と『野良犬』、1950年(40歳)には『醜聞』と『羅生門』というように、2年連続で2本ずつ精力的に撮影した。演出上の挑戦も多く、『羅生門』では雨の土砂降り感を出すために、墨汁入りの雨を数台の消防車で降らせたという。1951年(41歳)、ドストエフスキー原作の『白痴』を完成させる。舞台をロシアから北海道に変え、純真さゆえに狂人扱いされる主人公を描いた。ロシア文学LOVEの黒澤にとって渾身の力作であり、当初は4時間半もあったが、松竹首脳が“長すぎる”という理由で大幅カットを要求され2時間46分に。黒澤は山本嘉次郎監督への手紙の中で「(フィルムを)切りたければ縦に切れ」と、悔しさ溢れる胸中を吐露した。 ★『羅生門』が世界で絶賛! 『白痴』公開の4ヶ月後、イタリアから“ヴェネチア国際映画祭で『羅生門』が金獅子賞(グランプリ)に輝いた”とビッグ・ニュースが届く。まだ戦争の爪痕が各地に残る中(敗戦から5年)、日本映画が世界から評価されたことが、日本人の沈んだ気持ちを明るくさせた。もしあと半年受賞が早ければ、『白痴』はオリジナルのまま公開されたかも知れない(こんなに残念なことはない!)。金獅子賞の授賞式では、日本人関係者は受賞できると思っていなかったので誰も出席しておらず、主催者は“日本人によく似た”ベトナム人を壇上に上げて授与した。『羅生門』完成時に大映の永田社長は「こんな訳の分らん映画を作りやがって」と激怒し、制作した重役たちを左遷したが、受賞の知らせを受けると一転して制作したのは自分だと胸を張った。ともあれ、永田社長はその後海外の映画祭に積極的に出品し、多くの賞を得ることに(1982年、『羅生門』はヴェネチア国際映画祭50周年を記念して過去のグランプリ作品から最高傑作として“獅子の中の獅子”賞を受賞した!)。 翌1952年、『羅生門』は第24回アカデミー賞特別賞(現・外国語映画賞)も獲得した。その1ヶ月後、GHQがお蔵入りにした例の『虎の尾を踏む男達』が7年ぶりに日の目を見た。同年9月、末期ガンの役人が民衆の為に力を尽くす『生きる』を発表。志村喬の名演が観客の涙を誘い、ベルリン国際映画祭で上院特別賞を受賞した。 ★『七人の侍』誕生! 1953年は黒澤映画が公開されなかった。監督デビュー以来、1年を通して未発表というのは初めてのこと。スランプなのか?NO!ずっと、ある大型時代劇を撮影していたのだ。上映時間、3時間半。1954年(44歳)に公開された、世界映画史に燦然と輝くその作品の名は『七人の侍』!農民達が野盗(野武士)の襲撃から村を守るために雇った七人の侍の物語。集団を映しながらも一人一人の生命の重さを描き切った傑作。雨、汗、泥、血、それら全てが画面全体から客席へ雪崩れ込み、大地が割れんばかりのパワーが冒頭から最後までみなぎっている。映画を見たというより体験したという感じ。総制作費2億1千万円(当時の一般映画7本分の制作費)のこの大作に挑んだ心意気を、後に黒澤はこう語った「観客に腹一杯食わせてやろうと。ステーキの上にウナギの蒲焼きを載せ、カレーをぶち込んだような、もう勘弁、腹いっぱいという映画を作ろうと思った」。『七人の侍』は世界の映画人の心を鷲掴みにし、海外ではリメイクの『荒野の七人』をはじめ、『地獄の七人』『黄金の七人』『宇宙の七人』など“七人もの”が数多く制作された。スピルバーグいわく「映画の撮影前や制作に行き詰まった時には、もの作りの原点に立ち戻るために必ずこの映画を見る」。同年、公開から半年後に『七人の侍』はヴェネチア国際映画祭の銀獅子賞に輝いた。 1955年、反核映画『生きものの記録』が完成。1957年、シェイクスピアのマクベスを戦国時代に置き換えた『蜘蛛巣城』とゴーリキー原作の『どん底』を公開。1958年(48歳)、痛快娯楽活劇『隠し砦の三悪人』を生み、この作品からジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』のキャラクター、R2-D2&C-3POを誕生させた。『隠し砦の三悪人』は観客から喝采を浴び、ベルリン国際映画祭・銀熊賞監督賞に選ばれたが、例の如く撮影期間の大延長によって制作費が膨らんだ。翌年、これに悲鳴を上げた東宝は黒澤に“黒澤プロダクション”を作らせ、以降は共同制作という形にして制作費の削減をうながそうとした。 50代になった黒澤の手腕はますます冴え渡っていく。1960年の社会派サスペンス『悪い奴ほどよく眠る』では、結婚式で始まる冒頭シーンを、フランシス・F・コッポラが『ゴッドファーザー』で参考にした。1961年(51歳)、黒澤が“娯楽を追求した”という『用心棒』では、時代劇として初めて「ズバッ」という刀の斬殺音を入れ、翌年の『椿三十郎』ではコメディ・タッチでありながら戦慄の決闘シーンで締めるという、油が乗り切った演出で観客を唸らせた。三船は『用心棒』でヴェネチア国際映画祭最優秀男優賞を受賞。1963年(53歳)、実際にこの映画の手口を真似した事件が起こり、ルーカスが「サスペンス映画の最高傑作」と讃える『天国と地獄』が完成。翌年、江戸の庶民を助けた名医を描いた『赤ひげ』(山本周五郎原作)の撮影をスタート。黒澤の徹底した“完全主義”の結果、巨大オープンセットでの撮影期間は約1年に及び、またしても予算が大幅オーバー。怒った東宝は専属契約を解除した。『赤ひげ』は1965年に公開され、三船は2度目のヴェネチア国際映画祭最優秀男優賞を受賞したが、これが黒澤と三船敏郎の最後の顔合わせになった。「三船無くして黒澤は無く、黒澤無くして三船は無い」と言われた蜜月は去った。 ★冬の時代 ここから黒澤の暗黒期が始まる。1966年、米国の映画会社と合作する予定だった『暴走機関車』が、キャストまで決まった段階で中止になり(カラー撮影を希望する黒澤と白黒を要求する米側が衝突)、1969年にはハリウッド大作『トラ!トラ!トラ!』で日本パートを監督するはずが、キャスティングのミスからストレスを抱え込み、現場スタッフとも激しく対立して降板。あれほど多作だった黒澤が4年間も作品を発表しないという異常事態に、有志が赤坂プリンスホテルに集い「黒澤明よ映画を作れの会」を催した。同年、木下惠介、市川崑、小林正樹らと共に四騎の会を結成。 1970年(60歳)、資金捻出のために自宅を抵当に入れ、四騎の会制作で5年ぶりの新作となる初カラー作品『どですかでん』(山本周五郎原作)を発表。だが、娯楽性よりも芸術性を重視した作風が観客に受け入れられず興行的に失敗し、翌年暮れに浴槽でカミソリ自殺をはかる。傷は首筋5カ所、右手6カ所、左手10カ所の計21カ所にも及んだ。 黒澤は巨額の制作費を恐れた日本の映画会社から干された形になり、再び映画制作から遠ざかる。その黒澤に「映画を撮りませんか」とカムバックの手を差し伸べたのは、なんと冷戦下で対立していたソビエト連邦(当時)だった。黒澤は『白痴』『どん底』など、ロシア文学の映画化によってソ連でも人気が高く、資金提供を申し出たのだ。1975年(65歳)、黒澤は零下45度という過酷な撮影環境の中にあって2年がかりで最後まで撮り終え、『デルス・ウザーラ』を発表。大自然との共生を謳った本作品はモスクワ映画祭金賞を受賞し、翌年には第48回アカデミー賞外国語映画賞に輝いた。同年、日本政府から文化功労者に選ばれる。しかし、それでもなお日本の映画会社は黒澤に冷たかった。相変わらず制作資金の提供はなく、新作を撮ることが出来ない黒澤。 ★ライフワーク〜『乱』 次回作として構想していたのは、シェイクスピアの傑作「リア王」をもとにした大型戦国絵巻。黒澤は『乱』の制作費をかき集める為に自ら奔走した。東宝に交渉した際、『乱』はストーリーが暗すぎるという理由で受け入れられず、代わりにエンターテインメント色を出した『影武者』を撮る。この『影武者』がカンヌでグランプリに輝き大ヒットに。監督いわく「『乱』の制作費を捻出する為に、私は『影武者』を作った。『影武者』で大量の武具を作っておけば、『乱』で再びそれを使えるからだ」。(実は『影武者』も撮影途中で資金不足になった。この時、援助してくれたのが『スターウォーズ』のジョージ・ルーカス&『ゴッドファーザー』のコッポラだった!)。そして『デルス・ウザーラ』の5年後、1980年(70歳)に『影武者』が公開される。『影武者』はカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得し、興行的にも配収27億円という日本記録を叩き出した! しかし、『影武者』が当たったにもかかわらず、重いテーマの『乱』はコケるとソロバンを弾いた東宝は資金提供を拒否。なおも国内の映画会社は沈黙。またしても5年の月日が流れる。今度黒澤を助けてくれたのはフランス政府だった。仏は映画を第一級の芸術と認めていて、映画制作に国家が補助金を出している素晴らしい国。ジャック・ラング仏文化相は黒澤に資金を提供する時にこう言った「日本で黒澤さんのような人が映画資金の調達が出来ないというのは不思議だ」。黒澤は答える「日本の映画界の首脳部は、新しいことはやろうとしない。映画を愛していないし、理解しようとしない。首脳部から私はむしろ嫌われている」。 黒澤より一つ年上の映画評論家・淀川長治は、日本の優れた芸術をいつも海外が先に評価して、慌てて日本の評論家が真価を認めるという繰り返しを嘆いていた。 ※黒澤が他界した時も、仏の大統領が日本政府より先に追悼声明を出している。 1985年(75歳)、黒澤渾身の『乱』が完成!脚本に10年、制作費26億円、武士のエキストラはのべ12万人、使った馬はのべ1万5千頭!「あなたの最高傑作は」という質問には、常に「それは次回作だ」と答えていた黒澤が、「『乱』こそぼくのライフワークだ」と語った。本作品は天の視点から人間の業を描いた壮大な叙事詩となった。同年、フランス政府は黒澤に芸術分野で最高位となるコマンドゥール勲章を授与(レジオン・ドヌール・オフィシェ勲章は前年に授与済)。その2ヶ月後、日本政府から文化勲章が贈られた。『乱』は翌年のアカデミー賞で監督賞にノミネートされ、衣装デザイン賞を受賞した。 ※黒澤は「反戦映画を撮るんだ」と『乱』に臨んだ。 ★『乱』以降 さらに5年後。1990年(80歳)、米国アカデミー協会は「世界中の映画ファンを楽しませると共に映画制作者に影響を及ぼしてきた功績」に敬意を払い、黒澤に“特別名誉賞”を贈る。第62回アカデミー賞授賞式の壇上でスピルバーグとルーカスにエスコートされた黒澤は「この賞に値するかどうか、少し心配です。なぜなら私はまだ映画が良く分かっていないからです。だからこれからも映画を作り続けます」とスピーチ。その謙虚な姿勢が映画人の胸を打った。同年、スピルバーグの協力で『夢』(米ワーナー・ブラザーズ配給)を発表。ここに来て、ついに松竹が動き翌91年に『八月の狂詩曲』を、そして1993年(83歳)には東宝と組んで監督30作品目となる『まあだだよ』(内田百闌エ作)を世に送り出した。 淀川長治は『まあだだよ』をこう評した。「若い映画ファンの多くが、この師弟の物語を観て“時代おくれ”“照れくさい”“ついていけない”と言う。馬鹿かと思った。なぜ監督の、美を一途に追い求める姿勢が分からないのか。日本中が今、この温かさを受けつけなくなった。怖いし、悲しい。干からびた地面からは、このような枯れ木の若者が伸びるのか。この映画、乾いた土に水の湿りを与える」。 ★巨星堕つ 1997年(87歳)、三船敏郎が77歳で他界。その8ヶ月半後、1998年9月6日に黒澤も脳卒中により永眠。次回作として『雨あがる』『海は見ていた』の脚本を既に用意していた。享年88歳。遺作『まあだだよ』のクライマックスでは百閧フ教え子たちが集まり、恩師の喜寿を大いに祝った。大勢の弟子に祝福されるシーンは、黒澤に育てられた“黒澤組”のスタッフたちが黒澤を慕う光景に見える。最後の作品が『まあだだよ』であったのは、映画人生の大団円といって良いだろう。 死の翌月、政府から映画監督としては初となる国民栄誉賞が贈られた。黒澤他界の2ヶ月後に淀川長治も世を去る(奇しくも淀川最後の解説は、『用心棒』をリメイクした『ラストマン・スタンディング』)。淀川の棺には愛用の眼鏡やチャプリンの写真が収められ、黒澤監督が愛用したひざ掛けがかけられた。翌年、米タイム誌は「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に黒澤を選出した。 1943年〜1965年の22年間に23本も撮っていた黒澤が、資金不足のために1966年〜1998年の30年間に7本しか作ることが出来ず、それらも旧ソ連、フランス、アメリカという海外の協力で完成したことを考えると、日本の映画会社の冷淡さ、日本政府の映画文化への過小評価に涙が出てくる。仲代達矢いわく、「黒澤監督はトルストイの大長編小説『戦争と平和』の映画化を計画していた」。これは観たかった!もし国家予算で黒澤を援助していたら、『戦争と平和』をはじめ、さらに20本ほど後世の人類への遺産が生まれていたに違いない。 最後に一言。なんといっても命は大切。もし黒澤監督が61歳の時に試みた自殺が未遂でなければ、その後の『影武者』『乱』『夢』など6作品はこの世になかった。嗚呼、生きていればこそ!骨太の社会派ヒューマンドラマから痛快娯楽時代劇まで、様々な名作を後世に残してくれた黒澤監督に心から感謝ッ! ●黒澤語録 ・「撮影する時は、勿論、必要だと思うから撮影する。しかし、撮影してみると、撮影する必要が無かったと気がつくことも多い。いらないものは、いらないのである。ところが、人間、苦労に正比例して、価値判断をしたがる。映画の編集には、これが一番禁物である」 ・「毎日、植草と私は、破いたり丸めたりした原稿用紙に囲まれて、渋い顔で睨み合っていた。もう駄目だ、と思った。投げ出そう、とも考えた。しかし、どんな脚本でも、一度や二度は、もう駄目だ、投げ出そう、と思うときがある。そして、それをじっと我慢して、達磨のように、そのぶつかった壁を睨んでいると、何時か道が開けるという事を、私は沢山脚本を書いた経験から知っていた」 ・「観客が本当に楽しめる作品は、楽しい仕事から生まれる。仕事の楽しさというものは、誠実に全力を尽くしたという自負と、それが全て作品に生かされたという充足感が無ければ生れない」 ・「些細なことだといって、ひとつ妥協したら、将棋倒しにすべてがこわれてしまう」 ・『影武者』の撮影初日に、現場にビデオを持ち込んだ勝新太郎と衝突、勝は降板した。黒澤いわく「監督は二人要らない。カットがどう繋がるかは僕の頭にしかない。だからビデオで撮ったって参考にならない。監督が二人もいたんじゃ映画はできないよ」 ・コッポラ監督の『地獄の黙示録』を見て→ 「戦いは残酷だから恐ろしいのではない。その残酷さが時には美しく見えてしまうから恐ろしいのだ」 ●妥協を許さない黒澤 ・延々と繰り返される演技リハーサル。それだけで数ヶ月に及ぶのもザラ。『乱』で寺尾聰は天守閣から夕日を眺める約30秒のシーンで黒澤から「OK」をもらうまで約8ヶ月かかった。また、髑蜑は「哀れ、老いたり」のセリフを50回も言わされてようやくOKが出た。 ・ロケ時の“雲待ち”。俳優や全スタッフを待機させ、希望した天候になるまで何日も待ち続ける。 ・大道具や小道具をカメラに写らないところにまで作り込む。 ・撮影用の馬を数十頭も買い取り(普通は借りる)、鉄砲の音に慣れさせるなど長期間調教してから使う。 ・撮影に邪魔な民家があると住人に立ち退きを迫った。 ・『天国と地獄』では列車を使って身代金を渡す約4分間のために、列車を丸ごと借り切り、8台のカメラで同時撮影を敢行。 ・『羅生門』の森のシーンでは、ギラギラした人間の欲望を浮き彫りにするため、従来の常識を破って太陽にカメラを向けた。そして森の枝葉を黒いスプレーで塗ることで陰影を強調させた。 ・『七人の侍』では百姓たちの古びた農家の質感を出すために、木材の表面を燃やしてから水で洗って木目を浮かび上がらせ、着色後にワックスで艶を出し、それからオープンセットを組んだ。百姓の衣装は着物を一度土に埋め、数日後に取り出しからタワシでこすって古さを出した。若い男女が出会うシーンでは、毎日山から集めた野菊を数台のトラックで運搬し、場の全員で地面に埋め込んだ。また、村人を本物らしくする為に家族構成表を作成し、カメラが回っていない時も家族単位で行動させた。これによって、実際に家族のような空気が生まれた。 ・『デルス・ウザーラ』では“ロシアの黄金の秋”を撮るために、人工の紅葉を森の木々に1枚ずつ貼り付けていった。 ・『赤ひげ』の撮影開始前に、黒澤はスタッフを集めてベートーヴェンの“第九”を聴かせこう言った「最後にこの音色が出なかったら、この作品はダメなんだ。このメロディーが出なかったら」。 ・脚本段階で登場人物の肉付けを徹底的に行う。生まれた場所、家族構成、趣味、体格、生活環境から歩き方まで、大学ノートにどんどん書き込んでいった。また、数名で脚本を書き、一番面白いものを選んで内容を深めていった。 ・『乱』で炎上した“三の城”はCGではなく4億円をかけて築城した高さ18mの本物の城。ベニヤ板ではない。 ・『乱』の後半の合戦シーンでは、スタッフが必死で掻き集めた700名のエキストラを前に「200名足りない」と撮影を中止した。 ●黒澤トリビア ・『夢』に登場する川面の撮影方法はタルコフスキー監督から伝授されたもの ・『シンドラーのリスト』(スピルバーグ監督)で赤い服の少女だけがカラーになる演出は、『天国と地獄』の煙のシーンを模したもの。 ・サム・ペキンパー監督が多用するアクション・シーンのスローモーションは、『七人の侍』で民家に立てこもった悪党が志村喬に討たれるシーンから来ている。 ・『生きる』『用心棒』『酔いどれ天使』などで庶民にタカるヤクザの醜さを怒りと共に描いており、黒澤はヤクザが大嫌いだった。 ・肉料理、煙草、そしてジョニーウォーカーやホワイトホースといったウイスキーを深く愛した。 ・山田洋次監督が晩年の黒澤を自宅に訪ねると、黒澤とは作風が正反対であり、ライバルと言われた小津監督の『東京物語』をビデオで観ていたので驚いたという。 ・サタジット・レイ監督のインド映画『大地のうた』を、黒澤は最も評価していた。また、大林宣彦監督の『さびしんぼう』を好んで見ていた。 ・黒澤が激怒した際に使う最大の罵倒は「このでこすけ!」。 ・「オーストラリアに滞在していた時に、現地で黒澤監督特集が催され、そのおかげで日本人観まで好転した。パスポートだけでなく芸術の力で私達がいかに守られていることか」(井上ひさし) ●黒澤LOVEな映画人 ・スピルバーグ監督「黒澤監督は私の人生の師であっただけでなく、私たちの世代にとって父と仰ぐ存在でした。監督の作品から受けた恩恵と影響ははかり知れません。しかもその影響は現代映画に関わる人すべてに及んでおり、ジョン・フォード監督も黒澤監督の大ファンだったんですよ。以前、黒澤監督と東京の天ぷら屋で、朝まで映画について語り合ったことは一生忘れません」 ・マーティン・スコセッシ監督「黒澤監督は常に前衛的な挑戦をする人でした。壮大な叙事詩をスクリーンに紡ぎ出す才能を持ち、作品はさながら18〜19世紀の絵画のようでした。黒澤監督の演出はとても大胆で力強く、画面からは熱いエネルギーを感じます。私は今でも黒澤作品を見る度に“恐れ入りました!”と思うんです」※スコセッシはDVD『天国と地獄』の解説を担当。 ・イーストウッド監督「クロサワは自分の映画人生の原点だ」※彼はカンヌ映画祭の会場で「ミスター・クロサワ。あなたなしでは今日の私はなかった」と黒澤の頬にキスをした。 ・スウェーデンの名匠ベルイマン監督「私にとってクロサワだけが神だった」 ・ジョージ・ルーカス監督「黒澤監督の『天国と地獄』はサスペンス映画の最高傑作だ!」 ●黒澤映画、我が心のベスト10 (1)乱(2)七人の侍(3)白痴(4)どですかでん(5)椿三十郎(6)生きる(7)用心棒(8)羅生門(9)隠し砦の三悪人(10)夢 ●黒澤映画、このセリフが好き!5選 ・「人を憎んでいる暇はない。わしにはそんな時間はない」〜生きる※主人公は胃ガンで余命5ヶ月 ・「泥沼にだって星は映るんだ」〜酔いどれ天使 ・「これは…俺だ!俺もこうだったんだぁ!」〜七人の侍※親を殺された赤ん坊を抱いた菊千代 ・「身ひとつで生きていけるのは鳥やケダモノだけだ」〜乱 ・「俺が貴様にどんな悪いことをしたというのか?」「じゃあ、どんないいことをしてくれたね?」「…」「人にいいことをしなかったのは、悪いことをしたと同じだ」〜どん底 ※世界最大のクロサワ監督ネット資料館「黒澤デジタルアーカイブ」(圧巻の充実資料!) ※外部リンク『有名人が好きな黒澤作品』→ 宮崎駿「七人の侍」「生きる」「隠し砦の三悪人」「蜘蛛巣城」 スティーブン・スピルバーグ「生きる」「七人の侍」「蜘蛛巣城」「乱」 ジョージ・ルーカス「隠し砦の三悪人」「七人の侍」「用心棒」「蜘蛛巣城」「デルス・ウザーラ」「影武者」 マーティン・スコセッシ「天国と地獄」「椿三十郎」「酔いどれ天使」「七人の侍」「乱」 手塚治虫「七人の侍」「生きる」「羅生門」「赤ひげ」「デルス・ウザーラ」「隠し砦の三悪人」「生きものの記録」 |
「ここに」 | 「埋めてチョ!」 |
僕の場所をわきまえぬこの満面の笑顔を深くお詫びしたい。しか〜し!僕には正当な理由があった!な、なんと監督のお隣が空いていたのだッ!奇跡ッス!監督のヒューマニズムに心酔している僕にとって、この墓所は聖地の中の聖地!“監督のお側で眠れるかもしれない”そう考えると、理性など吹き飛んで当然。僕はネットを通して、この場所だけは誰にも譲れぬという『この場所とっぴ宣言』を、全世界へ向けて発布したい!!(1999) |
2009年秋、10年ぶりに墓参!黒澤監督の隣は… | お寺の倉庫になっていたぁああ!ギャース!(滝泣き) |
ロシア人墓地らしく建物はタマネギ型の屋根 | 大きな岩が丸ごと墓石になっていた!十字架の根元の絵は聖母子像 |
ソ連の映画監督。水、火、霧に精神性を持たせた映像詩人。検閲と戦いながら独自世界を追求し、カリスマ的人気を誇る。「僕の村は戦場だった」で世界に認知され、人類の救済をテーマとした「惑星ソラリス」「鏡」「ストーカー」「ノスタルジア」を監督。1984年、表現の自由を求めて西側に亡命、2年後に病没。遺作は反核映画「サクリファイス」。 映像詩人タルコフスキーの墓は、パリからずっと南のサント・ジュヌヴィエーヴ・デ・ボワにある、亡命ロシア人の墓地(ロシア正教会)に。僕は彼が作品中に好んで描いた水流や霧の映像が大好きで、ミニシアターでリバイバルがあると必ず足を運んでいる。墓は鉄道やバスを何度も乗り換え、苦労してたどり着いたので感動もひとしおだった! ※パリからRERのC線を利用して、Sainte-Genevieve des Bois駅で下車し、そこからバスで行けます。路線番号をメモり忘れたのが痛い。地域のロシア正教会はここだけと思うので、バスの運転手さんに聞いてみて。 ●タルコフスキーが1972年に選んだ映画ベスト10※参考ブログ 1.田舎司祭の日記 (ロベール・ブレッソン) 2.冬の光 (ベルイマン) 3.ナサリン (ルイス・ブニュエル) 4.野いちご (ベルイマン) 5.街の灯 (チャップリン) 6.雨月物語 (溝口健二) 7.七人の侍 (黒澤明) 8.ペルソナ (ベルイマン) 9.少女ムシェット (ブレッソン) 10.砂の女(勅使河原宏) |
代表作『惑星ソラリス』『ノスタルジア』 |
2002 真新しい花束が捧げられていた |
2009 右後方の植木が7年間で成長している |
メトロの切符は「これを使って会いに きて」というファンのメッセージらしい |
ヌーヴェル・ヴァーグの旗手の一人。「大人は判ってくれない」で長編デビュー。作品に愛の主題を貫き「柔らかい肌」「突然炎のごとく」「アメリカの夜」「アデルの恋の物語」「隣の女」を監督。他に異色SF「華氏451」。俳優としてスピルバーグ「未知との遭遇」の科学者を演じる。脳腫瘍で他界。享年52。 僕はトリュフォーが作った作品を愛してやまない。何より人間トリュフォー自身がすっごく大好き。フランスの植民地主義を糾弾したイタリア映画『アルジェの戦い』がベネチア映画祭で金獅子賞を受賞した際、怒ったフランス代表団は退場したが、その時ただ一人だけ会場に残ったのがトリュフォーだった。死後30年以上経った今もなお、花に囲まれている墓を見て、どんなに多くの人が彼の誠実な人間性に惚れ込んでいるのか良く分かった。メルシー・ヴォク、トリュフォー!! (余談。スピルバーグの『未知との遭遇』のクライマックスで、宇宙人とコンタクトをとる科学者に扮していたが、監督が本業とは思えないほどの名演だった) 「映画製作は幌馬車の旅。初めは良い旅を望むが最後には目的地に着くだけでよくなる」(トリュフォー) |
代表作『突然炎の如く』『アデルの恋の物語』『アメリカの夜』 |
ラトビアのリガ生まれ。27歳で作った傑作『戦艦ポチョムキン』において、対立するショット(主にクローズアップ)をつなげて緊張感を生み出すモンタージュ理論を確立。晩年に超大作『イワン雷帝』を残す。映画史における最重要人物の一人。作曲家プロコフィエフに音楽を依頼しており両者は芸術上の同志だった。 ※エイゼンシュテインは写楽のファンだった! |
代表作『戦艦ポチョムキン』『イワン雷帝』 |
池上の本墓 | 世界のミゾグチ | 京都の分骨墓(2005) |
溝口健二は、黒澤明、小津安二郎と並ぶ日本の三大映画監督の一人。撮影スタッフに対し、小道具、セット、衣装など、全てにわたって完璧を求めたことから、「文句を言う(ゴテる)ばかり」だと、現場では“ゴテ健”というあだ名で恐れられた(徹底して時代考証にこだわる為に撮影が進まず、困ったスタッフが偽物の史料を作って誤魔化すこともあったという)。
浅草生まれ。小学校を出たあと職を転々とし、22歳の時、俳優を希望して日活に入る。彼は助監督(この当時は雑用係)にされたが、1922年、日活のお家騒動で多くの監督や俳優が退社したことで監督に昇進(24歳)。25歳、第一作の『愛に甦る日』を発表。同年関東大震災で撮影所が壊滅し、活動の拠点を京都に移す。その後、時代は戦時に突入、映画界は国策映画が中心になり、溝口の創作活動は中断。約10年間にわたるスランプ時代が訪れる。復活したのは亡くなる4年前の1952年(54歳)。ベネチア国際映画祭で国際賞(監督賞)を受賞した『西鶴一代女』で、世界のミゾグチとなった。彼はこの作品で名女優の田中絹代を得、翌年も彼女とタッグを組んで『雨月物語』を撮り、翌々年には『山椒太夫』を創り上げ(共にベネチア国際映画祭銀獅子賞受賞)、ベネチア国際映画祭において3年連続受賞という大記録を打ち立てた。56歳、溝口はスター嫌いで有名だったが、社の方針で美形俳優・長谷川一夫と組むことになり、対立が功を奏して情念のこもった傑作『近松物語』を生み出す。撮影後に白血病を発病し、急速に容態が悪化、58歳で京都に永眠する。生涯に監督した作品は90本。ただし残念ながら戦火もあって現存するのは33本のみだ。
溝口は長回しの撮影方法で知られる。カットを入れずにいっきに撮るのだ。その結果、演技の流れが中断されずに済むが、少しでも失敗すると全部やりなおさねばならないリスクがある。この緊張感によって、追い詰められた役者は迫真の演技を見せたのだった。 また、白黒の映像美が他の映画作家より突出して素晴らしく、『西鶴一代女』以降の代表作を通して、世界の映画ファンはカラーよりも美しいモノクロ映像がこの世に存在することを知った。 ※溝口を語るとき、女優の田中絹代と共に忘れてはならないのが、天才カメラマン宮川一夫の存在だ。宮川は『雨月物語』の7割をクレーン撮影するなど、移動撮影に超絶的テクニックを振るった。また、ワンシーン・ワンカットの名手であり、『新・平家物語』冒頭の群集シーンでは、その自在なカメラワークが「到底ワンカットと思えない」と、トリュフォーやゴダールが映写室に入ってフィルムを確認したという。
池上の寺墓地では、若い僧侶が監督の墓まで案内してくれた。墓の左隣には、“墓は隣同士で”と約束していた新派の名優・花柳章太郎が仲良く並んでいた。 「小津さんは自分の好みの中でしか仕事をしなかった。その上、好みを自分で知りぬいていた。だから幸福だったでしょう。しかし、溝口さんは一生自分がなにをやりたいかもわからず、ただ、無茶苦茶に頑張った。苦しい一生だったと思います」(大島渚)
京都満願寺には分骨があり、そちらへは1960年代に来日したJ.L.ゴダールが墓参したという。 |
代表作『雨月物語』『山椒太夫』『近松物語』『西鶴一代女』 |
イタリア東部のリミニ出身。1938年(18歳)、故郷を出てローマで記者となり旅芸人一座と巡業を体験。1945年(25歳)、ロベルト・ロッセリーニ監督と『無防備都市』の脚本を共同執筆し、映画界に入った。助監督を経て1950年(30歳)に『寄席の脚光』で共同監督デビュー。1952年(32歳)『白い酋長』で初の単独監督。同作で組んだ音楽監督のニーノ・ロータはフェリーニ作品に欠かせない作曲家となる。1953年(33歳)、ネオレアリズモを取り入れた『青春群像』が高く評価されヴェネツィア国際映画祭・銀獅子賞を受賞。翌1954年(34歳)、妻ジュリエッタ・マシーナが主演したヒューマニズム作品『道』がアカデミー賞外国語映画賞を受賞した。1957年『カビリアの夜』で再び同賞を受賞。1960年(40歳)社会批判で注目された『甘い生活』がカンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールに。これ以降は自伝的作品が多くなり、実験的な演出を進んで取り入れた。 1963年(43歳)、スランプに陥った映画監督の苦悩を描いた『8 1/2』、1974年(54歳)、少年時代の思い出を綴った『フェリーニのアマルコルド』を発表し、両作もまたアカデミー賞外国語映画賞に輝く。1979年ニーノ・ロータが他界。1980年(60歳)に『女の都』、1983年(63歳)に『そして船は行く』、1985年(65歳)に『ジンジャーとフレッド』を完成させ、1992年にアカデミー賞名誉賞を受賞。翌1993年、心臓発作のため73歳で他界した。葬儀は“国葬”とされ、ローマのサンタマリア・デリ・アンジェリ教会で執り行われた。チネチッタ・スタジオの巨大セットで知られ、「映像の魔術師」「スタジオの魔術師」の異名を持つ。 社会の繁栄の中にあって精神の退廃を描いたフェリーニ。イタリアが世界に誇る名匠は、アドリア海に面した故郷の街に眠っている。墓には泉があり、巨大な黄金の船が航海していた。いろんな墓をこれまで見てきたが、墓の一部が泉になっているものは初めてだ。小鳥が次々と水を飲みにやって来るのを見て、とても微笑ましく思えたよ。(『道』でジェルソミーナに扮した愛妻ジュリエッタ・マシーナも一緒だった) ※「夜空の星だって、道の小石だって何かの役に立っている。この世界に役に立ってないものはない。自分の方がいてあげてるんだ」(『道』) ※「人生は祭りだ。共に生きよう」(『8 1/2』) |
代表作『道』『カビリアの夜』『8 1/2』『甘い生活』『アマルコルド』 |
ナチス占領下で抵抗する市民の姿や、レジスタンスをかくまって銃殺される神父を描いた『無防備都市』は、イタリア・ネオレアリズモ運動(社会問題をテーマに世論を啓発する運動)の出発点となった。名女優イングリッド・バーグマンはこの映画に激しく魂を揺さぶられ、なんと夫と子どもを捨て、まだ会ったこともないロッセリーニのもとへ(妻子がいるのに)走ってしまった。たった1本の映画で見る者の人生を変えてしまった男、それがロッセリーニだ。 |
代表作『無防備都市』『戦火のかなた』『ドイツ零(ゼロ)年』 |
ド迫力の円覚寺の山門 | 山門をくぐって右手の墓地に眠っている |
1999 墓石に彫られたのは「無」の一字。 墓前には1本の缶ビール。男前な墓! |
2009 10年後に再巡礼。墓域に変化はなかったけど、酒と花がたくさん供えられていた! 日本酒6本、ビール3本、ウイスキー1本、日本茶1本の計11本! |
1923年、20歳で松竹キネマ蒲田撮影所にカメラ助手として入り、4年後に監督デビュー。ユーモアを織り交ぜながら小市民の家庭生活を淡々と描くことで、人生の悲哀を浮き彫りにしていった。小津監督は「人間」を全面に出すために移動撮影をやめ、カメラを低位置に固定し、人物を真正面から撮影するという独特の「小津スタイル」を確立させた。余計なセリフや感情表現を排し、その場の空気だけで場面のすべてを語る演出は、今でも世界中の映画人に影響を与えリスペクトされている。昨今の大作映画に多い、過剰演出や目まぐるしく視点が切り替わる画面に慣らされた僕らには、半世紀前の小津スタイルが却って新鮮に映る。墓前には缶ビールが供えられていた。監督は大のビール好きとして有名で、撮影現場での昼食は、いつも生卵入りビールだったそうだ。60歳の誕生日に人生の幕を閉じた。 ※「遺言も遺書も残さず、ただ鎌倉の墓に『無』と記すよう求めた」とのこと。 ※「どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う」(小津安二郎) |
代表作『東京物語』『生れてはみたけれど』 |
演技を鬼指導している小津 | はっちゃけた小津(笑) |
なかなか場所が分からず、 見つけた時は感動したッ! |
かわいいリスがフォード監督の 墓の回りを駆け巡っていた(2000) |
西部劇の神様、ここに眠る!(2009) |
モニュメントバレーの「ジョン・フォード・ポイント」 | この場所を好んで多くの撮影が行なわれた(2009) |
フォード監督はジョン・ウェインと組んだ西部劇作品のイメージが強いけれど、『怒りの葡萄』のように重厚な社会派ドラマも多く作っている。アカデミー監督賞の受賞4回は史上最多。墓地では墓のすぐ側をリスが走り回っていた。 本名 ショーン・アロイシャス・オフィーニー |
代表作『怒りの葡萄』『駅馬車』『わが谷は緑なりき』『男の敵』『荒野の決闘』 |
2000 | 2009 | 巨大霊廟に眠る |
これぞ映画監督の墓!なんてカッコイイ墓なんだろう! |
道を尋ねたことが縁で一緒に墓参 することになったヴィロンスカさん |
彼女はキシェロフスキ 監督の大ファンだった! |
彼女は「大好きな監督の墓を教えてくれた 御礼がしたい」と、僕を家に招待してくれた |
食事の用意。なんて 親切な方なんだろう! |
お部屋にはモナリザが。 芸術家肌のヴィロンスカさん |
カナッペをご馳走してくれた!食べてる間、 墓参りでポーランドに来て、こうして民家 で食事をしている事が信じられなかった |
お土産でくれた謎の帽子、 トマト、巨大ハム、黒パン! 素晴らしい出会いだった |
ワルシャワ生まれ。アンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキーが通ったポーランドの名門ウッチ映画大学に学ぶ。1979年(38歳)、『アマチュア』がモスクワ国際映画祭で金賞。1989年(49歳)、聖書の十戒をモチーフとした10編のドラマ『デカローグ』を製作、キューブリックから絶賛された。同作の一部を劇場用に編集した『殺人に関する短いフィルム』がカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞。『ふたりのベロニカ』もカンヌで好評だった。 1993年(52歳)、フランス政府の依頼を受け「自由・平等・博愛」をテーマとした『トリコロール三部作』を製作。『トリコロール/青の愛』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、『トリコロール/白の愛』がベルリン国際映画祭で監督賞に輝いた。未来を期待される中、ダンテ『神曲』をモチーフにした作品を構想中に心臓発作のため54歳で急死。 存命なら今の映画界の牽引役の一人になっていたハズ。長生きして頂きたかったです。 |
京都生まれ。父は扇子職人。少年時代から映画狂だった山中は、1927年(18歳)、母校の一年先輩のマキノ正博(日本映画の父マキノ省三の息子)を頼ってマキノプロに入社する。翌年、嵐寛寿郎プロに移籍し、助監督の傍らでシナリオを執筆。20歳で脚本『鬼神の血煙』が映画化される。山中の才能を見抜いた嵐は、1932年、『抱寝の長脇差』で監督デビューさせた。この処女作は映画評論家に激賞され、いきなり「キネマ旬報」の年間ベスト入り。23歳の山中は若き天才監督として一躍注目を浴びた。以後、監督作の全てを自ら脚本・原作を書いた。また、より良い脚本を生み出す為に、会社の枠組を超えて8人の脚本家で「鳴滝組」(ペンネームは梶原金八)を結成し、互いに切磋琢磨した。鳴滝組は時代劇の字幕を分かりやすい現代語で書くなど銀幕を革新していく。 翌年からは活動の場を日活に移し、話題作を作り続ける。映画もサイレントからトーキーに移って行く。素早い場面転換、テンポの良いストーリー展開、切れのある演出、絶妙のタイミングで入る字幕などで山中は観客を虜にした。彼の映画には偉人や聖人君子は登場しない。描かれるのは貧しい浪人、気弱なやくざ者、不器用だがどこか愛すべき男たち。彼らの悲喜こもごもを、暖かく優しい目線で見守っている。1935年(26歳)、『国定忠治』、痛快娯楽コメディ『丹下左膳余話・百万両の壺』、山中の最高傑作とされる『街の入墨者』(現存せず、無念!)を発表。27歳、『河内山宗俊』公開。 1937年、京都から東京のPCL(東宝)に入社。7月7日、日中戦争が勃発。重苦しい世相を反映してか、前年から次第にニヒリズムが押し出していた山中は、貧乏長屋の人間模様を通して紙風船のように儚い人の世を描いた『人情紙風船』を発表。この作品の完成試写当日、撮影所の庭で雑談中に召集令状が届く。開戦から一ヵ月でもう中国戦線に徴兵されたのだ。この時山中は手が震えて煙草に火を点けられなかったという。「『人情紙風船』が俺の最後の作品では浮かばれんなァ」と言い残し10月に出征。 3ヶ月後(1938年1月)、6歳年上の友人小津安二郎監督も召集され、両者は南京郊外の句容で再会する。帰国後にどんな映画を撮りたいか熱く語り合った。同年4月、山中は徐州会戦を前に遺書を書く「『人情紙風船』が遺作ではチトサビシイ。負け惜しみにあらず。最後に、先輩友人諸氏に一言。よい映画をこさえて下さい。以上。1938年4月18日」。人情紙風船の出来に不満があったのではなく、戦争さえなければ好きな映画をもっと撮り続けることが出来たのに、という無念の叫びだ。 中国軍の黄河決壊作戦で一ヶ月も洪水に浸かっていた山中は、7月に急性腸炎を発病。中国河南省開封の野戦病院で9月17日午前7時に息をひきとった。わずか28歳10ヶ月の短すぎる生涯だった。 当時のフィルムは可燃性で何度も火災にあった上、映画会社自身も映画をアートとして見ておらず、あまり保管に気をつけていなかった。その結果、山中の作品は23本中たったの3本(「丹下左膳余話・百万両の壷」「河内山宗俊」「人情紙風船」)しか現存していない。そしてその残った3本の全てが日本映画史に輝く傑作だ。山のように新作のアイデアを抱えたまま、野戦病院のベッドで死んで行く山中は、どんなに悔しかっただろう。戦争がなければ、後世にどんな名作が生み出されていたろうかと思うと残念でならない。 1941年の三回忌の際、菩提寺の大雄寺に大きな山中貞雄之碑が建てられた。碑文「その匠意のたくましさ、格段の美しさ、洵(まこと)に本邦芸能文化史上の亀鑑(手本)として朽ちざるべし」と記したのは小津。式後、小津は山中を最初に絶賛した評論家にこう呟いた「山中ほどの仕事をしてもそれが僅か六百文字内外に詰められてしまうのかと思うと寂しいな。しかし俺達が死んだってこんな碑は建ちっこないんだから、まあそう考えれば幸福な奴さ」。墓には終焉の地となった、中国の病院跡の土が納められた。毎年9月には今も墓前にファンが集まり「山中忌」が催されている。 ※「すごい才能なんだヨ。本当に早く亡くなっちゃって日本映画の大きな損失だね。」(黒澤明。山中より一つ年下) |
墓地の壁際奥に眠っている。享年90歳と、かなり長寿だった監督。 ウィキの最新画像によると、その後カルネ監督のパートナーである Roland Lesaffreという俳優(男性)も一緒に埋葬されているようだ |
墓の上に日本の鳥居が描かれたプレートが。 なぜ?理由をご存知の方、ご連絡を! amicale des anciens→退役軍人の会
croiseur emile BERTIN→フランスの巡洋艦
camarade→同志、仲間
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ナチス支配下のフランスで反ファシズムの姿勢を貫く。3時間を超える大作『天井桟敷の人々』は、1840年代のパリを舞台にした人間ドラマ。ナチス占領下のフランスで撮影されたことで、戦争に対する人間の文化的抵抗精神の象徴として映画史に刻み込まれている。日本でもキネマ旬報のアンケートで「洋画史上の最高傑作」に選ばれた。墓は坂の多いモンマルトルの生垣沿いに。 |
2000 | 2009 | 前列右から3番目がカサベテス監督 |
『白い巨塔』、『あゝ野麦峠』、『皇帝のいない八月』、『戦争と人間3部作』など社会派エンターテインメント作を世に送った山本監督。墓石背後の壁面には次のように彫られていた--「映画は真実を伝える眼であり、政治や社会の不正を批判し、本当に大衆の幸福を願うものでありたい。私たち創造者は、常に創造者としての見識を高めなければならない」。 |
2000 | 2009 |
墓前までゾフィーが迎えに来た!!(あえてゾフィーっていうところが感動的!よく分かってる!) |
キングギドラ、レッドキング…“特撮の神様”の墓はロマンが爆発している |
「ゴジラ」や「ウルトラマン」を生み出し、日本の特撮映画をいっきに世界最高峰のレベルにした“特撮の神様”。「特撮」という言葉も円谷が創った(従来は「トリック撮影」と呼ばれていた)。福島県出身。本名は“英一”。3歳で母を亡くし、父が離縁となり祖母に育てられる。15歳の時にパイロットに憧れて飛行学校に入るが、翌年に同校は墜落事故を起こして廃校となる。その後、現東京電機大学に入学。1919年(18歳)、映画会社(天然色活動写真)の人間と知り合ったことから、同社に入り撮影技術を学んだ。25歳、衣笠貞之助の「狂った一頁」(1926)で撮影助手を務める。翌年、林長二郎(長谷川一夫)のデビュー作「稚児の剣法」でカメラマンとしてデビューし、松竹に移籍。29歳、撮影中にクレーンから転落し、看病してくれたマサノ夫人と結婚。この頃、尊敬するおじの名前が「一郎」だったことから遠慮して「英二」を名乗るようになる。31歳、日活に引き抜かれ移籍。
1933年(32歳)、『キング・コング』が日本で公開され円谷は特撮技術に驚愕する。フィルムを取り寄せ特撮シーンの全てのコマを研究した。翌年、J・Oトーキー(東宝)に移り、1935年(34歳)に海軍のドキュメンタリー映画「赤道を越へて」で監督デビューを果たす。日独合作映画「新しき土」(1937)において、円谷は別の場所で撮られた背景をセット後方のスクリーンに映して撮影する合成撮影法(スクリーン・プロセス)を完成させた。戦争の拡大につれて、1940年(39歳)に「燃ゆる大空」、1942年に「ハワイ・マレー沖海戦」など戦意高揚映画の特撮部門に関わっていく(この頃、合成カメラのオプチカル・プリンターの国産化に成功)。1944年には軍の教育用映画の特撮スタジオの責任者を引き受け、これが原因となって戦後(1948年)にGHQから公職追放指定を受けてしまう。4年後に追放が解除されると、フリーとして映画界にカムバック。翌年に本格的特撮映画「太平洋の鷲」(1953)を制作。 そしてッ!1954年に53歳で日本初の怪獣映画となる「ゴジラ」を本多猪四郎監督と組んで完成させた!ゴジラは大ヒットを記録し、邦画初の全米公開映画となった。1956年、「白夫人の妖恋」「空の大怪獣ラドン」でカラー特撮に挑戦。1959年に円谷特撮の集大成となる「日本誕生」で日本神話の大作ファンタジーを作りあげる。1961年(60歳)には反戦思想を前面に出した「世界大戦争」で、全世界が核の炎に包まれる衝撃的な結末を描き出す(フランキー堺が神がかりの熱演!)。 ※円谷は戦意高揚映画に関わったが、当時はすべてのメディアが軍の支配下にあり、映画の撮影フィルムも国家による統制品であったことから、映画会社は一般の映画を作るためにも軍に逆らうことは出来なかった。円谷が戦後に作った「ゴジラ」は完全に反核映画であり、「世界大戦争」では庶民の目から見た第3次世界大戦を描いた。この映画のラストでは核でドロドロに溶けた国会議事堂が映り、次の言葉で締めくくられる「この物語はすべて架空のものであるが、明日起きる現実かも知れない。しかしそれを押しとめよう!我らすべてが手をつないで!まだそれが起こらないうちに」。
1963年(62歳)に円谷特技プロダクションを設立。翌年から円谷プロ初のTV作品「ウルトラQ」の制作をスタート。同番組は半年分の放映に2年の制作期間を費やすことになる。1966年(65歳)、ついに特撮テレビ映画「ウルトラQ」が放送開始!大きな話題を集めたことから、同年7月に今度はカラーで撮影した「ウルトラマン」を茶の間に届けて空前の怪獣ブームを日本列島に巻き起こした。翌年(66歳)、『キングコングの逆襲』が公開。若い頃の円谷の口癖は「まずキングコングを見ろ」だったが、偶然にもキングコングが、円谷にとって最後の怪獣映画の演出となる。2年後の1969年、遺作「日本海大海戦」が完成。年明けの1月25日に喘息の発作から狭心症になり他界する。享年68歳。円谷一家はカトリック教徒であり、遠藤周作と同じ府中カトリック墓地に眠っている。円谷は大人からサインを求められると「子供に夢を」と書いていた。
※親分肌の人柄から若い連中から「オヤジ」と慕われていた。
※今の映画界では一般的なクレーン撮影を最初にやったのも円谷。また、飛行機の模型を逆さに吊って、カメラを逆さまにして撮影したり、飛行機を固定して背景の方を回転させることで急旋回のカットを撮るなど、様々な撮影技法を編み出した。 |
実家の「松風苑」は沖縄で有名な老舗の料亭だ | 離れの2階が仕事部屋 | 金城さんの書斎がそのまま保存されている! |
机の上には怪獣フィギュアがズラリ!(ファン手作りのものも!) | こっ、こっ、これは…! | ノンマルト!激レア過ぎる! | ノンマルトと金城さん! |
ガッツ・ペン! | 隣の部屋は金城さんの資料室になっていた | うおお!科特隊メンバーのサインじゃあ! |
壁一面に本棚があった | 芥川、川端、鴎外など日本文学が並ぶ | 故郷で書いていた沖縄演劇の脚本 |
那覇市唯一の公営墓地・識名霊園。僕は金城さんがここに眠っていると思っていたけど、違っていた! |
『琉球新報』の説明→真地バス停を基点にすると、北東方向に位置し、近くには「くしばる公園」と名付けられた小さな公園がある。公園側から墓群に向かう階段を登りきると、道が左右二股に分岐するが、右側を道なりにゆく。道は蛇行をするが、道の突き当たりに墓所はある。なお、この墓所は、いわゆる模合墓で、血縁者ではない他家との共同使用になっていて、「金城家」等という標記は特にされてはいない。 ※墓の袖部分に「一九五二年十二月二十三日改築」という改築記録が刻まれている。 |
金城(きんじょう)哲夫は初期ウルトラマン・シリーズの名脚本家で円谷プロの文芸企画室長(企画立案担当)。沖縄県出身。玉川大学の学生時代から脚本に興味を抱き始め、1963年(25歳)に円谷プロダクションへ入社。1966年(28歳)、『ウルトラQ』に参加して第3話「宇宙からの贈りもの」(ナメゴン)、第13話「ガラダマ」(ガラモン)、第19話「2020年の挑戦」(ケムール人)など計12話の脚本を担当。放送は視聴率30%を超え、特撮の大ブームを起こした。そして半年後の同年7月、白黒からカラー特撮となった伝説の『ウルトラマン』が放送開始され、金城は第1話「ウルトラ作戦第一号」(ベムラー)を共同脚本した。『ウルトラマン』では第1話の他、第26話「怪獣殿下」(ゴモラ)、第30話「まぼろしの雪山」(ウー)、第33話「禁じられた言葉」(メフィラス星人)、第37話「小さな英雄」(ジェロニモン、ピグモン他)、最終回「さらばウルトラマン」(ゼットン)など計14話を担当。金城は単純に“悪い怪獣を退治する”というストーリーで終わらせず、メフィラス星人は戦いをやめてウルトラマンにこう語りかける「よそう、ウルトラマン…宇宙人同士が争っても、しようがない…私が欲しいのは地球の心だったんだ」。“小さな英雄”では科学特捜隊のメンバーが「どうせ俺がいなくてもピンチになればウルトラマンが助けにくる」といって自分を見失う。そして最終回ではヒーローのウルトラマンが死ぬ!こうした、子供向けと簡単にくくれない脚本は、翌1967年(29歳)の『ウルトラセブン』でさらに研ぎ澄まされていく。
※『ウルトラマン』の敵は“怪獣”だけど、『ウルトラセブン』では“星人”。本能だけで暴れる巨大生物を「退治」するのではなく、独自の価値観と文化を持つ知的生命体である“星人”との戦いだ。一気に物語が奥深くなった。 金城はセブンでも、第3話「湖のひみつ」(エレキング、ピット星人)、第8話「狙われた街」(メトロン星人)、第14話「ウルトラ警備隊西へ」、第25話「零下140度の対決」(ガンダー、ポール星人)、第42話「ノンマルトの使者」(ノンマルト、ガイロス)、最終回「史上最大の侵略」(パンドン、ゴース星人)など、計13話を執筆。人類を互いに人間不信に陥らせて自滅させようとするメトロン星人の回では、以下の最後のナレーションがファンの間で語り草になっている「人間同士の信頼感を利用するとは恐るべき宇宙人です。でもご安心下さい、このお話は遠い遠い未来の物語なのです…。え、何故ですって?…我々人類は今、宇宙人に狙われるほど、お互いを信頼してはいませんから」。主人公・諸星ダンは第3話にしていきなり変身アイテムのウルトラアイを敵が変身した美少女にまんまと盗まれ、ガンダーの冷凍攻撃では変身前にウルトラアイを落として探しに戻ったり(この時に寒さに震えながら言うセリフ「基地に着けば、温かいコーヒーと、スチームが俺を待ってるぞ」が良い!)、クールに見えて完全無欠ではない人物像を描き出していた。 ※共同脚本は『ウルトラマン』では担当回の半分(7話分)だったが、『セブン』になると共同は1本だけで、あとは全部が単独脚本だ。
金城脚本の最高傑作は「ノンマルトの使者」と「史上最大の侵略」だろう。ノンマルトでは、「人類こそが地球の侵略者で、地球はもともとノンマルトのものだった」という、ヒーロー・ドラマではあり得ないような衝撃的内容だった。ノンマルトは人類から地上を追われ、海底に都市を築いて暮らしていたが、ウルトラ警備隊から“侵略宇宙人”と見なされ、無抵抗のまま皆殺しにされてしまう。何が善で、何が悪なのか分からなくなる。人類が常に正義とは限らないことを子供に教えた作品は、一般のドラマや映画を見渡してもそうそうない(しかも主題歌やCMを除くと20分ちょい。その短時間で描いてしまうのがスゴイ)。最終回では、ダンはこれまでの戦いのダメージと疲労が蓄積し、ウルトラの国(M78星雲)の上司から、「今度変身したら死ぬ」と警告される。しかし、ウルトラ警備隊の仲間が敵に誘拐され、“ただ友を救うために”最後の変身をする。自分の命より友の命を優先したダン。ダンが「僕は…僕はね…人間じゃないんだ、M78星雲から来たウルトラセブンなんだ!」とアンヌ隊員に告白する場面は、BGMにシューマンのピアノ協奏曲が流れる、シリーズ屈指の名シーンだ。クライマックスの戦いでは、アンヌを通してセブンがダンであることを知った隊員たちが、「頑張れセブン!」ではなく、「頑張れダン!」「負けるな諸星!」「ダンが危ない!」と、ダンを応援する。これは泣ける…。素晴らしい最終回だった。
『ウルトラセブン』では、ダンが何かの問題に直面した時、M78星雲の宇宙人である自分と、地球人として生きている自分との間で価値観が衝突し、悩むシーンが出てくる。人類にとっては“宇宙怪獣”でも、ダンにとっては同胞なのだ。金城の生涯を振り返ったドキュメンタリー『金城哲夫 西へ!』によると、沖縄から東京に出て来た金城は、大和民族の中で暮らす琉球民族としての自分のアイデンティティに思い悩んでいたという。沖縄は征服される側であり、先のノンマルトも、いつの間にか大和文化に呑み込まれた琉球文化へのレクイエムだという。既に『ウルトラマン』の後半で、メフィラス星人の「貴様は宇宙人なのか!地球人なのか!」という問いかけに金城の葛藤が現れているが、この延長線にあるものが、セブンの最終回で正体を明かしたダンにアンヌ隊員が語る「たとえ宇宙人でもダンはダンに変わりないじゃないの、たとえウルトラセブンでも」だろう。“ダンはダンに変わりない”は、大和民族であろうと、琉球民族であろうと、自分は自分であり金城哲夫に変わりない、それを金城が叫んでいるようだ。 ※金城はまた、そういったシリアスな背景を持ちながらも、第14話では敵の宇宙ロボットの名前をキングジョー(=金城)としたり、沖縄弁のチブル(頭)から名付けたチブル星人や、残波岬が由来のザンパ星人など、脚本で遊び心を見せた。さらにエキストラとしてチョイ役で主演することも度々あった。
しかし時代は金城に追いついていなかった。シリアス路線を目指した後番組の『マイティジャック』『怪奇大作戦』は視聴率が伸びず大苦戦。円谷プロの経営が傾きリストラの嵐が吹き荒れると、金城は1969年(31歳)に退社届を出した。故郷の沖縄に戻った金城は地元のテレビ番組の司会やラジオのパーソナリティーを務めるかたわらで、沖縄の伝統文化に根ざした芝居の脚本を書いた。だが、長く東京にいた金城は“ヤマトンチュ”(大和人)と見なされ、周囲との温度差が生まれていく。沖縄海洋博の演出は金城にとって久々の大仕事だったが、そこでも自分の構想が実現できず、理想と現実の狭間でもがき、次第にアルコールの量が増えていった。そして1976年2月。実家「松風苑」の離れの仕事部屋(2階)の鍵がかかっていたことから、泥酔したまま窓から入ろうとして転落し、4日後の2月26日に脳挫傷により永眠した。まだ37歳の若さだった。 「明けの明星が輝く頃1つの光が宇宙へ飛んでいく。それが僕なんだよ」(セブンの別れの言葉)
※金城は一話ごとの脚本家というより、シリーズ全体のコンセプトを担って各話のシナリオをチェックするメインライターだった。また、一般の脚本家は戦闘シーンを特撮チームに任せっきりだったが、金城は戦い方まで詳細に指示していたという。
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左からマキノ雅弘監督、牧野省三監督、牧野家一族の墓 | 日本映画の父! | 戒名は「荘厳院浄空映画雄飛居士」 |
等持院の墓地の前には牧野監督の立派な銅像がある。この地に撮影所があった | 松之助主演の『豪傑児雷也』(1921) |
ちなみにこちらは京都市中央区にある『日本映画発祥の地』。当地で実業家の稲畑勝太郎が日本で 初めて映画(シネマトグラフ)の試写実験に成功した。※立誠小学校跡地(旧・京都電燈株式会社) |
日本初の映画監督で多くの映画人を育てた“日本映画の父”。京都生まれ。私生児のため芸妓の母の手ひとつで育てられ、幼少から芸事に親しむ。やがて母は芝居小屋「千本座」の経営者となり、省三が後を引き継いだ。26歳の時に旅役者の尾上松之助(後の日本初の映画スター)に惚れ込み座長を引き受けてもらう。1908年(30歳)、パリでカメラを購入した横田商会(日活)が千本座で活動写真を上映し、それが縁で省三は活動写真の制作を依頼される。彼は一座の役者で『本能寺合戦』を撮影。これは映画監督による日本最初の劇映画となった。翌年、松之助が主演の『碁盤忠信・源氏礎』を制作すると、豪快な立ち回りが話題になって爆発的にヒットとなった。観客の嗜好を掴んだ省三は、スピーディなアクション・シーンで人々を虜にし、歌舞伎や講談、狂言などあらゆる題材を3日に1本という超ハイペースで撮りまくった。松之助は激しい動きを得意としたので忍術映画を多く制作し、中でも『児雷也』(1914)は空前のメガ・ヒットとなった(両者は12年間に約700本でタッグを組むことに)。やがて映画産業が東京で盛り上がってくると、省三は京都映画界の衰退を憂慮して1921年(43歳)に日活から独立、等持院の敷地にマキノ映画を設立する。一連のリアル路線のチャンバラ映画で劇場は大入りになった。「1スジ(筋、脚本)、2ヌケ(現像処理)、3ドウサ(演技)」をモットーに、何よりも物語の脚本を重視し、プロデューサーとしても若い脚本家の育成に努めた。俳優の個性を引き出す能力にも優れ、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵など、すべて省三が育てたスターだ。1925年(47歳)、「マキノ・プロダクション」を設立。この頃から、所属のスター俳優が次々と独立して省三のライバルとなり、経営は苦しい状態が続く。そして最大の悲劇が省三を襲う。1928年、全霊を込めた大作『実録忠臣蔵』を編集中にネガが引火して撮影所が全焼してしまったのだ。莫大な負債を抱えたまま、翌年、失意のドン底の中で過労による心臓麻痺のため“映画の父”は50歳で他界した。死後マキノ・プロは倒産。まさに、映画に生き、映画に殉じた人生だった。合掌。
※息子のマキノ雅広も映画監督。俳優の長門裕之と津川雅彦は孫。
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左からマキノ雅弘監督、牧野省三監督、牧野家一族の墓 | 20歳で『浪人街』を完成 | 夕陽を浴びるマキノ監督 |
京都生まれ。本名牧野正唯(まさちか)。ペンネームは正博→雅弘→雅裕→雅広と4回改名したが一般には雅弘で知られる。“日本映画の父”牧野省三を父に持ち、4歳から169本の映画に子役・女形で出演。1926年、18歳の時に撮影した『青い眼の人形』で監督デビュー。早撮りの名手と言われ261本を世に送った。監督として高い評価を決定づけたのは、1928年に20歳で発表した群像劇『浪人街・第一話 美しき獲物』(キネマ旬報ベストテン第1位)。スターなしのリアル・ドラマ路線を追求し“髷(マゲ)をつけた現代劇”と呼ばれたこの映画は、脚本・山上伊太郎、撮影・三木稔との20代トリオで作られた。その翌年、父の省三が『忠臣蔵』編集時に撮影所全焼の悲劇にあい心労で他界。マキノプロは倒産し、父の莫大な借金を背負った彼は、録音機材を研究してトーキー録音機を考案。日活、大映、嵐寛プロなど各映画社を渡り歩く。早撮りで(一本28時間というのも)撮りまくって借金は完済。1938年(30歳)、父の悲願だった『忠臣蔵』を撮影。東宝では長谷川一夫の主演作を大ヒットさせた。翌年には“傑作時代劇ミュージカル”として今なおカルト的な人気を誇る『鴛鴦(おしどり)歌合戦』を世に送った。戦後は弟が設立した東映に参加。一時、薬物中毒でスランプに陥るも、40代に入ると『次郎長三国志』『雪之丞変化』など娯楽時代劇をどんどん撮り始め、1964年(56歳)の『日本侠客伝』で東映任侠映画の基本スタイルを確立。傑作『昭和残侠伝・死んで貰います』などを生み、1972年に64歳で映画界から引退。それから21年後に85歳で他界した。俳優の長門裕之、津川雅彦は甥。 ※長男のマキノ正幸は沖縄アクターズスクールの主宰者。 |
理生院(りしょういん)は伊予21霊場16番札所 | 山の中腹に墓地が広がる | 伊丹監督の墓所付近の眺め。松山を一望! |
「池内義豊之墓」が万作監督 |
墓所は苔むし、ワビサビが漂う ※左奥が万作監督、右手前が十三監督 |
「池内家累代之墓」とあるのが十三監督 |
京都生まれ。「13の顔を持つ男」と呼ばれるほど多彩な才能を持ち、映画監督、俳優、CM作家、エッセイスト、イラストレーターなどの肩書きの他、本格的に料理を研究し、バイオリンを演奏し、乗り物に凝るなど(愛車は英国のベントレー)、バイタリティ溢れる趣味人でもあった。本名は池内義弘。身長183cm。父が映画監督の伊丹万作ということもあり、2歳にして銀幕にデビュー(殿様の赤ちゃん役)。13歳で父が結核で他界し、高校時代に父の故郷・松山市に転居。そこで大江健三郎と友人になる。大学受験の失敗を機に、上京して商業デザイナーとなった後、26歳で大映に入社。伊丹一三の名で正式に俳優デビュー。1960年(27歳)、日本最大の映画輸入業者・川喜多長政の娘と結婚。同年に妹が大江健三郎と結婚する。33歳、妻と協議離婚。1969年(36歳)、「伊丹十三」に改名し、宮本信子と再婚。1983年(50歳)、『家族ゲーム』『細雪』に出演しキネマ旬報賞助演男優賞を受賞。翌1984年(51歳)、妻の父の葬式を題材に一週間でシナリオを書いた『お葬式』で映画監督デビュー。本作品は日本アカデミー賞など30以上の賞に輝く(キネマ旬報第1位)。十三は映画監督業が自分の過去の経験をすべて生かせる天職と認識。その後、『タンポポ』(1985)、『マルサの女』(1987)、『マルサの女2』(1988)、『あげまん』(1990)、『ミンボーの女』(1992)、『大病人』(1993)、『静かな生活』(1995)、『スーパーの女』(1996)、『マルタイの女』(1997)と13年で10本という驚異的なペースで作品を発表し続ける。国税局査察部“マルサ”の活躍を描くなど、シリアスな社会問題をエンターテインメント作品として作り上げる作風は高く評価され「伊丹映画」という言葉(ジャンル)が生まれた。
中でも、1992年(59歳)に発表した日本映画史上最も勇気のある作品『ミンボーの女』は、従来の「ヤクザ映画」が暴力団を美化していたのに対し、主人公の女弁護士がヤクザのことを“卑怯な弱虫”と言いのけ、暴力団の卑劣さ、姑息さ、浅ましさを糾弾するなど、日本中の度肝を抜いた。十三はこの映画の中で、単なるヤクザ批判にとどまらず、市民側がとるべき法律上の具体的な対抗手段まで語った。この映画の公開から一週間後、十三は刃物を持った山口組系後藤組の5人に自宅近くで襲われ、全治三ヶ月の重傷を顔や両腕に負う。病院に搬送される十三は容体を尋ねる取材陣にピースサインで応え、「私はくじけない。映画で自由をつらぬく」と宣言。その後も多数の脅迫を受け続け、翌年には右翼の男が劇場で伊丹作品を映すスクリーンを切り裂く事件が起きた。警察から身辺警護を受けるが、タフな十三はさっそくこの経験をネタにした『マルタイの女』を作る。『マルタイの女』公開から3ヶ月後の1997年12月20日、写真週刊誌『フラッシュ』に若い女性との不倫疑惑(といってもレストランで一緒に食事をする姿と、女性の一方的な証言のみ)が掲載されると、十三は伊丹プロが入る東京麻布のマンションから謎の投身自殺をとげる。「死をもって潔白を証明する」とする遺書が見つかったが、これはワープロで打たれたものであり、作家業もした十三なら思いを込めた最後の言葉を自筆で残すはずだし、何より山口組に襲撃されてもVサインで応える豪胆な男が不倫疑惑程度で自殺するとは思えず、事件当初から他殺説が根強く語られている。2007年、松山市にイラストなど遺品8万余点を集めた伊丹十三記念館が開館。著書は『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『日本世間噺大系』など十数冊にのぼり翻訳本も多数。
墓は松山市の理性(りしょう)院。父・万作(池内義豊)の傍らの「池内家累代之墓」に眠っている。墓所は市内を見渡せる高台にあり素晴らしい眺め。周囲の真新しい墓に対して伊丹家(池内家)の墓所だけが苔むしているが、これは伊丹家のこだわりとのこと。墓前をコンクリートで固めず土のまま自然の状態にしているのも墓所では伊丹家だけ。苔の生えた墓石にはイブシ銀の風格があり、風流を愛した十三を象徴する墓所となっている。
※完全主義者の十三は、テーマとする題材を徹底して取材し、映画撮影時も俳優に一切アドリブを許さず、あらゆる小道具にとことんこだわった。
※十三はネコが超大好き。自分が描いた愛猫の絵をプリントしたオリジナルTシャツを作っていたほど。
※スパゲティの理想的な茹で上がりを指す「アル・デンテ」という言葉を、日本で初めて紹介したのが十三(『ヨーロッパ退屈日記』)と言われている。
※丸腰の十三を数人がかりで襲った山口組系組員たちは4〜6年の懲役刑。言論を暴力で弾圧した卑劣な事件にしてはあまりに軽すぎる判決だった。 ※「われわれの映画は、これからも様々な観客に出会い、各人の中でさまざまな形で完成されてゆくでしょう。私としては、それぞれの出会いが幸せなものであることを祈るのみです」(伊丹十三)
※「(終戦翌年に記す)多くの人が、今度の戦争で騙されていたという。みながみな、口を揃えて騙されてたという。私の知ってる範囲では、“俺が騙したのだ”と言った人間はまだ1人もいない。(略)“騙されていた”といって、平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙されるだろう。いや、現在でもすでに別の嘘によって騙され始めているに違いないのである」(伊丹万作) 主な参考URL:伊丹十三記念館 |
2004年に遺骨が故郷島根に改葬されたので、現在は墓碑だけが残る |
文芸評論家であり新劇運動の先駆けとなった演出家。坪内逍遙と文芸協会を設立。42歳の時に15歳年下の女優・松井須磨子とのスキャンダルが発覚して両者は退会、芸術座を結成する。トルストイを脚色した「復活」が大ヒットして全国巡演を行うなど精力的に頑張るが、抱月は間もなくスペイン風邪(インフルエンザ)で急死した。松井須磨子は抱月の死の2ヶ月後、彼の後を追って芸術座の道具部屋で自殺した。彼女は35歳だった。 |
クレール家の廟はヒョロとっした縦長 | 扉のガラス越しに接写。「Rene Clair」の名前が見える |
中央の通路は遠近感がおかしくなりそう | 同タイプの廟が無数にあり探し出すのは大変に思えた けど、幸いにも監督の墓はゲート(裏門?)の近くだった |
ブローニュの森。歩いてすぐ近くにある |
かなり広大な墓地 | 往年の映画ファンは感涙の墓 | 13区周辺にいた |
墓の上にドッコーンと大きな植木があり、肝心の名前が隠れちゃってた |
Calimesa近郊 | 遺灰はこの一帯に撒かれたとのこと! |
墓地入口のグリフィスを讃える看板 | 牧場の囲いチックなグリフィス監督の墓所 | グリフィス監督の墓には鷲(?)の紋章が入っていた |
自家用ジェット機オンリー、超大金持ち専用空港! | 一生縁がなさそうな空港っす | 遺灰はこの上空で撒かれたという |
マリブーの海岸のベンチの刻印 | ペキンパー監督の遺灰はこのマリブー海岸に…合掌 | 当ビーチには自由に入ることが出来る |
マリブーの海岸はペリカンまつり開催中! |
ヒッチコック監督の葬儀が行なわれたビバリーヒルズのGood Shepherd Catholic Church! | 葬儀後、太平洋に散骨された(写真は太平洋@ロス沖) |
なんとトランボ監督は、医学の発展の為にこのUCLAの大学病院に自分の亡骸を献体したという |
左からジャック・レモン、ビリー、ウォルター・マッソー | 娯楽映画の神様。三谷幸喜が崇拝 | 若い頃 |
墓碑の言葉は『お熱いのがお好き』から「NOBODY'S PERFECT(完璧な人間なんていないさ)」。ブラボー!(09) | 4年後に再巡礼!(2013) |
子どもの身長は1メートル。 墓石の大きさが分かる(2013) |
2012年に妻のオードリー・ワイルダーが他界していた。 墓前のベンチに「I'M RIGHT HERE BILLY」とあった |
マリリンに演技指導中 |
画面中央の塀の背後がルロイ監督の眠る「Garden of Honor」 | 残念ながら一般非公開。門は固く閉ざされていた(涙) |
向かって右がデミル監督 |
所属するパラマウントが“デミル王国” といわれるほど成功した |
デミル監督の墓参時に“野良クジャク”が いて目を疑った。ここ墓地だよ!? |
しかもこいつらが、いきなり狂った ように大喧嘩!ビビるっつーの! |
ダンディーな川島監督! | 代表作の『幕末太陽傳』(1957) |
ぬおッ!野辺地駅から下北半島に向かう 列車は、昼間は3時間に1本なのかー! |
と、いうわけで国内で初めてレンタカーを借りる ことに!プリウスに乗れたのが嬉しかったッス |
左手に陸奥湾を眺めながらどんどん北上! |
約1時間半で徳玄寺に到着! | 境内あった川島監督の顕彰碑。題字の『映画監督川島雄三の碑』を書いたのは 今村昌平監督。「花に嵐のたとえもあるぞ サヨナラだけが人生だ」は森繁久彌さんの書! |
監督の墓は白い柵に囲まれヨーロッパのお城のよう | なんともゴージャス&エレガントな墓域 | 墓石に自筆サイン |
10月1日の午後5時。巡礼を終えて下北半島を南下してゆく。美しい夕陽に思わず車を停めた |
青森県の現・むつ市出身。松竹に入り小津安二郎や木下惠介などの助監督を経て、1944年(26歳)、『還って来た男』で監督デビュー。1954年(36歳)、日活へ移籍。2年後に織田作之助原作の『わが町』を発表。1957年(39歳)、傑作『幕末太陽傳』を生み出し、撮影後に東京映画(東宝系)に移籍。並行して大映でも若尾文子を迎えて1962年(44歳)に『雁の寺』を監督。翌年、肺性心のため日活アパートの自室で急逝。享年45歳。生涯の監督作品は51本だった。愛弟子に今村昌平。 20代後半から、筋萎縮性側索硬化症を患い歩行が不自由だった。「この種の病気を抱えながら有名人になったのは、オレとルーズベルトくらいだ」(川島雄三)。 |
円覚寺の境内にある墓地の入口 | 美しい花が供えられていた | すぐ近くに小津安二郎監督も眠っている |
あの『ゴジラ』『モスラ』の監督! | 広大な墓地のかな〜り上の方。遠いので御覚悟 | 黒澤監督は親友 |
山形県の現・鶴岡市出身。とても優しい性格で、一度も俳優やスタッフを怒ったことがないという。日大芸術学部映画学科卒。1933年(22歳)、東宝の前身であるPCLに入社し、山本嘉次郎監督の助監督として映画作りを学ぶ。間もなく徴兵され、1936年(25歳)に所属部隊が二・二六事件を引き起こした。事件後、部隊ごと満州に送られ、帰国後に再び徴兵される。1945年(34歳)、終戦を中国で迎え、翌年に帰国。その帰路で原爆の被害を受けた広島を通過しショックを受けた。
約10年に及ぶ軍隊生活の間に、同じ山本門下の黒澤明が33歳で先に監督デビューを果たし(『姿三四郎』1943年)、本多は1951年(40歳)にようやく監督に昇進した。翌年、初監督作『青い真珠』が公開される。1953年(42歳)、初めて円谷英二(特撮監督)と組んで戦争映画『太平洋の鷲』を監督。翌1954年(43歳)、『ゴジラ』を世に送り世界的に名前を知られるようになる。その後、『地球防衛軍』(1957)、『宇宙大戦争』(1959)、『モスラ』(1961)、『キングコング対ゴジラ』(1962)、『怪獣大戦争』(1965)、『サンダ対ガイラ』(1966)と次々に特撮映画を監督し、1971年(60歳)にはテレビ『帰ってきたウルトラマン』の第1話と最終回を含む計5話を監督。劇場映画は1975年(64歳)の『メカゴジラの逆襲』が最後の監督作品となった。以降、他界まで黒澤の演出補佐となって『影武者』『乱』『夢』『まあだだよ』等に参加した。 ※JR駿河小山駅から冨士霊園までバスが出ている。 ※ネット上には墓前に「本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした 映画のために力いっぱいに働き十分に生きて本多らしく静かに一生を終えました 平成五年二月二十八日 黒澤明」という碑が立っているあったけど、僕は発見できなかった。ウーム、どこにあるんだろう?→読者のクロサカさんから「多磨霊園にお墓があった時代のものなので今は無いみたいです」と情報を頂きました。有難うございました!
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ドーバー海峡まですぐ近く | 教会墓地の端っこ。シンプルな墓 | 墓前に何かの骨。動物と思うけど…WHY? |
ヌーベルバーグ旗手の1人 |
右隣はエイズで他界した歌手マノ・ソロ。親交があった ようだ。シャブロルが亡くなる9カ月前の1月10日に没している。 |
マノ・ソロは享年46歳。 絵の才能もあった |
マノ・ソロのファンによるリンク先の追悼文に感動。その中にあったマノの言葉も考えさせられた「パリで35歳でエイズで死ぬってことは、チェチェンやルワンダで生きていくことよりも1000倍楽なことなんだ。少なくともぼくは、家に押し入ってきた連中にナタで頭を叩き割られるなんてことはない。「呪われた世代」とか、そういう言い回しはみんなぼくらがブルジョワだからこそ言える。ぼくは犠牲者きどりでやってきた最初のひとりかも知れないけど、アフリカでは500万人がおなじ病気で死んでいってる。西洋人は自分の殻から出ないといけないよ。これは政治的な問題なんだ。自分たちの患者だけ面倒をみて、ほかのエイズ患者は立ち入り禁止って、それでぼくたちはいったいどうなるんだろうね」 |
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