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我が大恩人ドストエフスキー!愛してます!どこまでも付いていきますッ! |
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ペテルブルク市内のドストエフスキー像は待ち合わせ場所としても有名 | 道を教えてくれたお父さん |
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ドストエフスキーが思想犯として拘禁されていた ペトロパヴロフスク要塞。ここからシベリアに移送された |
夕陽で真っ赤に染まったペテルブルク市街。8月に訪れると 午後10時が日没だった。高層ビルがなく、古都の趣がある |
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ドストエフスキーが最後に住んだ家は彼の博物館に。 ペテルブルクに28年暮らし、20回も引っ越しをした。 彼の部屋は2階の10号室で6部屋からなる |
入口は不思議な作り。 半分地下になっている (クズネーチヌイ横町) |
博物館外壁のレリーフ。 レーピンが描いたドスト エフスキーの姿がもと |
玄関にあったドスト エフスキーの帽子! |
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ドストエフスキーが愛用したルーレット。 小説のネタになるほどハマッてしまった |
彼の煙草もきちんと保存&公開 |
巨匠自筆の手紙。ロシア語が読めれば これがなんの手紙か分かるのだが… |
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ドストエフスキー家の食卓!ここで 彼は家族とテーブルを囲んでいた |
ロシアの青年が書斎の入口にたたずんでいる! 机に向かう作家の姿を想像しているのだろう! |
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ぐおお!ここがッ!あのッ!ドストエフスキー大先生 の書斎ッ!この机で“カラマーゾフ”が書かれたッ! ※完全に“夜型”で2本のロウソクで執筆したとのこと |
書斎の時計は逝去した 時刻で停止(ユリウス暦 1881年1月28日20:38 |
書斎の奥にある赤いソファーで絶命した。壁の絵は 『システィナのマドンナ』(ラファエロ)を拡大した複製画 |
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アンナ夫人の仕事部屋。夫人は長年に わたって夫の原稿を清書してきた |
博物館の売店にあった絵葉書。この建物が 『罪と罰』のラスコーリニコフの家のモデル |
文豪のデスマスク。 合掌!! |
逝去した文豪。描いたのは 天才イワン・クラムスコイ |
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ペテルブルグのロシア文学博物館は文学ファンの聖地。文豪達の遺品がたくさんあり、ドストエフスキーも眼鏡や財布が展示されていた |
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ペテルブルク中心部を4.5kmにわたり西東に貫くネフスキー大通り。エルミタージュ美術館からドストエフスキーの眠るアレクサンドル・ネフスキー大修道院へと続く |
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アレクサンドル・ネフスキー大修道院の入口 | 正門をくぐると左右に墓地がある。向かって右が目的地 | 墓地内の標識。チャイコフスキーの名前もある |
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1987年 墓巡礼第一号。僕の 巡礼ライフはここから始まった |
花に囲まれたドストエフスキー。 18年後(2005)に再巡礼! |
ドーン!! |
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「どひー!」涙の墓タッチ。あのヒーロー にここまで接近することが出来る! |
この土の数cm下に彼が! |
3度目の巡礼。この時はたくさんの人だかり! 次々と団体さんが来て1対1になれず(2009) |
胸像の真下にも花がいっぱい (2009) |
作家であり人道主義者。人間の繊細な精神を徹底して洞察し、人類の本質を捉え、“世界文学上でもっとも偉大な心理学者”と呼ばれる。人々が内面に抱えた様々な矛盾を、愛を土台に文字で描き尽くし、“写実主義的ヒューマニズム”の金字塔を打ち立てた。 1821年11月11日、モスクワ生まれ。父は慈善病院の医師で領地も持っていた。15歳で母を病気で亡くす。17歳の時にサンクトペテルブルクの工兵士官学校へ入学。父は非情な性格であったため、ドストエフスキーが18歳の時に、治めていた領地の農民たちの恨みをかって惨殺されてしまう ドストエフスキーは卒業後に勤務した工兵局が肌に合わず約1年で退職し作家を目指す。1846年(25歳)、虐げられた無力な民衆に共感を込めてペンを握り、貧乏な下級役人の悲恋を描いた処女小説『貧しき人々』によって批評家から「第二のゴーゴリ現る!」と絶賛された(詩人ネクラーソフは感動のあまり朝4時にドストエフスキーの家を訪ね、祝福するため叩き起こした)。 ●帝都ペテルブルグからシベリア流刑地へ 華々しく作家デビューを果たしたドストエフスキーであったが、ロマノフ王朝による帝政に反発し、次第に政治運動に目覚めていく。1849年(28歳)4月、農奴制廃止を訴え、社会主義理論を探究する青年知識人の地下サークル(秘密結社)に加わっていたドストエフスキーは、当局側の潜入スパイの密告によって“危険分子”として仲間と共に逮捕・投獄された。ペトロパヴロフスク要塞に収監された彼を待ち受けていた判決は死刑。 同年12月22日、処刑当日。ドストエフスキーを含む同志21名は、処刑場のセミョーノフスキー練兵場に移された。銃殺刑であり、3本の柱が立てられる。死刑囚はヨコ3列、タテ7列に並ばされた。ドストエフスキーは第2列であり、死は目前に迫っていた。 そして、今まさに銃殺刑にされるというその直前に急ぎの使者が現れ、“皇帝陛下の寛大な慈悲によって”死刑執行は中止となった。刑罰は4年間のシベリア流刑に減刑された。 実は逮捕から処刑中止もすべて皇帝の寛大さを示す仕組まれたパフォーマンスだったが、「数分後に殺害される」という境遇に置かれたことは決定的な体験となった。 その後、西シベリアのオムスクで4年間の過酷な強制労働に従事し、鞭で打たれ一切のプライバシーを奪われた環境で精神がズタズタになっていく。ドストエフスキーは心の救済を求め、その拠り所となったキリスト教に開眼。無神論的社会主義者からキリスト教的人道主義者へと変化した。流刑地の犯罪者たちは、同じ人物がときに卑劣であったり英雄的な行動を取る二面性を持っていたことから、ドストエフスキーの人間観察の眼が養われていった。 また、罪を犯した受刑者達の様々な事情や心の呵責に接したことで、ドストエフスキーは常人の何倍も人間の苦悩に詳しくなった。 1854年(33歳)に服役を終えると、続けてモンゴル国境付近の兵卒勤務を命じられた。35歳、同地で知り合った若い未亡人と結婚。1859年(38歳)、10年ぶりにサンクトペテルブルクへの帰還を許される。 再びペンをとったドストエフスキーは1861年(40歳)に兄ミハイルと月刊の文学政治雑誌「時代」を創刊。シベリアの囚人生活を克明に描写した『死の家の記録』を連載し文壇に復帰。同年、苦悩と救済をテーマにした『虐げられた人たち』連載開始。翌年、初めての外国旅行。 1864年(43歳)、「時代」が当局から発禁処分にされると評論誌「世紀」を刊行。ここに代表的中編小説となる『地下室の手記』を掲載した。同作では近代文学史上初めて、社会への反逆心を持つ自虐的な“アンチヒーロー”が描かれた。同年、肺病で妻が他界。兄も逝去し、残された債務を背負ったドストエフスキーは極度の貧困に苦しむ。 ●名作、続々! 1865年(44歳)から『罪と罰』の連載を雑誌でスタート。翌年、ドストエフスキーは借金の代償として「短期で別の新作を完成させよ」「さもないと全作品の著作権を譲渡してもらう」と悪徳出版社に迫られ、実体験のルーレット地獄を題材に『賭博者』を口述筆記により26日間で完成させた。 その際知り合った速記者アンナ・スニートキナと再婚。同年、『罪と罰』を脱稿。債権者の追撃は止まず、ドストエフスキー夫妻はジュネーブやフィレンツェに脱出。この外国での4年間の逃避行の中で、1868年(47歳)に『白痴』が、1872年(51歳)に『悪霊』が完成した。 同時期にロシアへ帰国し、ようやく文豪として収入が増し生活が安定する。1880年(59歳)に作家人生の集大成となる最後の小説『カラマーゾフの兄弟』第1部を完成。翌1881年2月9日、サンクトペテルブルクで家族に看取られながら60年の生涯を閉じた。『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』の4大長編が書かれた約15年間は“傑作の森”といえよう。 トルストイは『白地』について「その値打ちを知っているものにとっては、何千というダイヤモンドに匹敵する」と讃えた。 ロシアが誇る大作家でありながら、人道主義の立場から反権力であった為、スターリンの独裁支配にあった1924年から1953年まで『貧しき人々』以外の多くの作品が発禁処分にされた。 ・『罪と罰』…貧しい大学生ラスコーリニコフは、高利貸しの老婆を殺害。奪った金を社会のために役立てようとするが、合理的に説明できない罪の意識に襲われ苦悩する。そんな彼に“聖なる娼婦”ソーニャが救済の道を指し示す。人間回復の書。 ・『白痴』…無欲でどこまでも他人に優しく、無垢・純粋さゆえに人々から“白痴”呼ばわりされるムイシュキン公爵。彼が不遇な女性ナスターシャを救おうとして悲劇が起き、無思慮な人々に翻弄され本当の精神的危機に陥る。 ・『悪霊』…魂を悪霊に支配されたように暴走していくテロリストの青年たち。悪魔的主人公の代名詞スタブローギンの不気味な存在感がヤバすぎる。恐ろしい野郎! ・『カラマーゾフの兄弟』…強欲の権化である父親、粗野だが男気のある長男、クールな無神論者の次男、善良で美しい魂を持つ三男、遺産を狙う私生児が織りなすカラマーゾフ家の人間模様。やがて父親殺しの事件が起き、人間の業や矛盾が露わになっていく。作者は三男のアリョーシャにロシアの未来を託した。 『白痴』には処刑直前の人間の心理が次のように書かれている。「処刑前の5分間について彼は時間の割り振りをした。まず友達との別れに2分間ばかりあて、さらに2分間をもう一度自分自身の人生を振り返る為にあて、最後の1分間はこの世の名残りに、周囲の自然風景を静かに眺める為にあてたのです」。これは間違いなくドストエフスキーが28歳の時に直面した銃殺刑の恐怖が書かれたものだろう。こんな体験をして、4年間もシベリアで強制労働をさせられたのに、出所後に創刊した月刊誌でまた体制批判を展開して当局から発禁処分を受けている…この筋金入りの反骨心! 人間の残酷さや弱さを全面に出しながら、それでもなお人類を信じていたいという彼の切実な叫びは、マジで読む者の胸を締め付ける。どの作品も他の作家の追随を許さぬ緊迫した心理描写が見事。同時にシニカルなユーモアも随所に炸裂し、読み手をニヤリとさせるのがメチャメチャうまい。深刻な内容でも退屈さとは無縁だ。 僕は彼が作中に描くお人好しなアンチ・ヒーローたちを愛してやまない。人の悲しみを知りすぎる優しさがドストエフスキーにはある! ●筆者初めての墓巡礼〜1987年、墓マイラー開眼 ・「死んでやるわ」「でも、可哀想だな」「誰が?」「生命がさ」(『地下室の手記』) 処刑場や流刑地で文字通り生と死の狭間を垣間見た彼が書いた作品は、どれも血文字で書かれているようだ。 1987年8月9日、ロシアのサンクトペテルブルク(当時はソビエトのレニングラード)に眠るフョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキーの墓前に僕は立った。我が怒涛の墓巡礼ライフはこの地から始まった。ときに19歳。10代最後の思い出に、青春時代の命の恩人であるドストエフスキーに、どうしても直接感謝の気持ちを伝えたかったんだ。彼の小説を通して、青春期は怒りを感じていた人間の弱さや負の面を、それらも含めての人間であり、愛すべきものと思えるようになった。 この墓参体験がとにかく強烈だったッ!それまでドストエフスキーの作品に強く影響されながらも、作者本人は架空の人物のようでリアリティがなかった。だけど、実際に目の前の墓と正面から向き合ってみると、「嗚呼、本当に彼は実在したんだ!」と全細胞が打ち震えた!芸術の雷、アートサンダーが直撃!その瞬間、これまで小説で感銘を受けてきた様々なセリフに、いっきに熱い血が流れ込んだ。それは驚天動地のエキサイティングな体験で、結局この感激が忘れられず、シェイクスピア、ゲーテ、ゴッホ、ベートーヴェン、手塚先生、黒澤監督…と巡礼の虜になってしまった。 第1部が完成しただけで遺作となった『カラマーゾフの兄弟』は、未完とはいえ2年を費やした大作。非常に読み応えのある傑作だ。彼が構想を練っていた第2、3部も非常に気になる。僕は死んだらあの世で真っ先に彼に続きを聞きに行くつもり。これは死後の最大の楽しみッス!(笑) ※ドストエフスキーは持病のてんかんに生涯苦しんだ。 ※「ドストエフスキーは、どんな思想家が与えてくれるものよりも多くのものを私に与えてくれる。ガウスよりも多くのものを与えてくれる」(アルベルト・アインシュタイン) ※黒澤明監督「あんな優しい好ましいものを持っている人はいないと思うのです。それは何というのか、普通の人間の限度を越えておると思うのです。それはどういうことかというと、僕らが優しいといっても、例えば大変悲惨なものを見た時、目をそむけるようなそういう優しさですね。あの人は、その場合、目をそむけないで見ちゃう。一緒に苦しんじゃう、そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持っていると僕は思うんです」 ※村上春樹が愛する3大小説…『カラマーゾフの兄弟』、『グレート・ギャツビー』(フィッツジェラルド)、『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー)。 ・「人間というものは、不幸の方だけを並べ立てて幸福の方は数えようとしないものなんだ。ちゃんと数えてさえすれば、誰にだって幸福が授かっていることが、すぐ分かるはずなのにね」(『地下室の手記』) ・「僕は君に対してひざまずいたんじゃない、人類全体の苦痛の前にひざまずいたんだ」(『罪と罰』) ・「青年は笑っていましたけれど、やはり泣いていたのです…なぜならロシア人は泣くべきところで、笑うことが非常に多いからです」(『カラマーゾフの兄弟』) ※生涯の年表(他サイトへのリンクです。素晴らしい出来!) |
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「お立ちなさい!今すぐ、これからすぐに行って四辻に立って、身をかがめて、まずあなたが汚(けが)した大地にキスしなさい。だってあなたは 大地に対しても罪を犯したんですから!」(『罪と罰』)…『罪と罰』のクライマックスに登場した“あの”センナヤ広場で、大地に懺悔の接吻!! |
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「僕、あなたに会って人生が変わったんですよ〜ッ!」 |
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中世の街並みがそのまま残るストラトフォード |
シェイクスピアの生家! |
髑髏を見つめ自己問答するハムレット。シェイクスピア公園 にはマクベス夫人やフォルスタッフなどの彫像がある |
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トリニティ教会 | 16年ぶりの再会になる | 朝9時からすごい人だかり! |
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壁には彼の彫像がある |
昔はこれが墓と思っていた |
足下のこっちがお墓! |
この写真だけ1989年撮影。帰国後 に現像したらピンボケで卒倒した |
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こうして400年も前の人物と時間を共有出来る幸せ。それもシェイクスピアとだよ!? 中学・高校の頃はこんな幸福がこの世にあるなんて思いもしなかった。 |
「我々を苦しめに来るものを快く迎えてやれ。それに平然と堪えている風を見せて逆にそいつを苦しめてやるのだ」(『アントニーとクレオパトラ』)。ウィリアム・シェイクスピアは英国史上最も偉大な劇作家であり詩人。様々な個性を持つ登場人物が運命にぶつかっていく姿をとおして、人間の根源的な心の動きに迫った。生涯を記した完全な資料がないものの、断片的な事実から実像が垣間見える。 シェイクスピアは1564年4月26日にロンドンの南西約150km、イングランド中部ストラトフォード=アポン=エイヴォンのホーリー・トリニティ教会で洗礼を受けた。当時の習慣から実際に生まれたのは2、3日前とみられており、命日が4月23日であることなから、古来から誕生日も23日と伝承されてきた。8人兄弟の3番目。父親は皮革加工や農産物の仲買で成功し、町長に選ばれるほどの人物だったが、13歳頃から家運が傾き始め、学校を中退し、肉屋に奉公に出されたという。つまり、小学校レベルの教育しか受けていない。 1582年、18歳のときに豪農の娘アン・ハサウェーと結婚。妻は8歳年上で既に妊娠三ヶ月だった。翌年、娘が誕生。さらに双子も生まれた。ここから7年間ほど、シェイクスピアの動向は一切記録に残っていないが、20歳頃からロンドンで暮らし始め、劇団員として下積みを重ねつつ、戯曲の習作を書いていたようだ。詩人としては、20代後半に書いたソネット(詩)で3つの4行連と1つの2行連句の新たなソネット形式を編み出している。 1592年(28歳)、同時代の先輩作家がシェイクスピアのことを妬んで「他人の羽毛で着飾った成り上がり者」「うぬぼれ屋」と記していることから、この頃には新進の劇作家、俳優として大成功を収めていたことが分かる。そして、シェイクスピアの才能は戯曲を書き進めることでさらに花開いていく。まず15世紀イギリスの内戦、ばら戦争を題材にした『ヘンリー6世』『リチャード3世』を執筆(シェイクスピアにとって約百年前の戦争)。続いてローマ史劇『タイタス・アンドロニカス』を書いた。30代になると『リチャード2世』『ヘンリー4世』『ヘンリー5世』『ジュリアス・シーザー』などの史劇を書き、『ヘンリー4世』に出てくる好色で肥満漢の老騎士フォルスタッフは、機知に富む憎めない男として人気を集めた。1595年(31歳)、イタリア・ベローナを舞台にした若い男女の悲劇『ロミオとジュリエット』上演。喜劇作品では、恋愛騒動の『じゃじゃ馬ならし』『から騒ぎ』『お気に召すまま』、妖精が登場する『真夏の夜の夢』、狡猾な高利貸しシャイロックが登場する『ベニスの商人』など手がけていく。 1599年(35歳)にロンドンのテムズ川岸に劇場グローブ座が建設され、シェイクスピアが俳優として5年前から所属している「宮内大臣一座」(のち改称「国王一座」)はグローブ座を本拠地とした。主要作品の大半がこの劇場で上演された。 30代後半から作家として円熟期に入り、人間観察眼がますます冴え渡り、最高傑作の四大悲劇が書かれていく。1601年(37歳)に内省的主人公の心の葛藤が描写された復讐劇『ハムレット』、1604年(40歳)に嫉妬が取り返しのつかない破滅を呼ぶ『オセロー』、1605年(41歳)に国の存亡を背景に壮大なスケールで父娘の情や裏切りを描いた『リア王』、1606年(42歳)に自らの野望に自滅していく武人を緊迫・劇的展開で見せる『マクベス』が発表された。『アントニーとクレオパトラ』(1607)は“ロミオとジュリエット”と異なり、中年の情愛が掘り下げられている。これ以降、シェイクスピアはロンドンを離れて故郷ストラトフォードに帰ることが増え、芝居の上演回数は減っていった。1609年、10年前に書いた詩を全154篇収めた「ソネット集」が出版される。 晩年を代表する傑作戯曲は、1611年(47歳)に人間の心が憎しみから赦しへ至る過程を描いた『あらし(テンペスト)』。様々な経験を経てきたシェイクスピアは、善意や英知、芸術を介して人々が和解し救済される希望を暗示している。『あらし』を最後の作品に考えていたのか、主人公プロスペローがラストで魔法の本を地中に埋めて島を去る姿は、本作でペンを置き、ロンドンを去る作者と重なる。美しい抒情詩風の本作はこう締めくくられる「我らは夢と同じ糸で織られているのだ。ささやかな一生は眠りに始まり眠りに終わる」。翌年に上演された史劇『ヘンリー8世』は未完作を他人が加筆したものであり、『あらし』が事実上の遺作となる。 ストラトフォードで2番目に大きな屋敷を購入し、地元の名士として余生を過ごしたシェイクスピアは、『あらし』発表から5年後の1616年、感染症により52歳で他界した。亡骸はかつて洗礼を受けたホーリー・トリニティ教会に埋葬された。孫は4人いたが子を残さなかった為、直系子孫は断絶した。 生涯に書いた戯曲は37編。没後7年にシェイクスピアの友人の手で最初の全集が刊行され、巻頭で同世代の劇作家ベン・ジョンソンが「(シェイクスピアの価値は)一代ではなく万代のもの」と予言、事実、国境を超えて作品が広まっていった。 シェイクスピアが眠るホーリー・トリニティ教会は鉄道のストラトフォード=アポン=エイヴォン駅から歩いて20分ほど。市街地を抜けたエイヴォン川の川沿いに建つ。墓は外の墓地ではなく、教会奥の祭壇前の内陣にあり、左から妻アン、ウィリアム、長女スザンナの夫ジョン・ホール、スザンナの順で埋葬されている。シェイクスピアの墓の側の壁に、右手に羽ペンを持った執筆中の胸像が据えられている。この羽ペンは年に一度誕生日に交換される。墓石の碑銘にはシェイクスピアが自ら選んだ以下の詩が刻まれている。 “Good friend, for Jesus' sake forbear,To dig the dust enclosed here.Blest be the man that spares these stones,And cursed be he that moves my bones.”(良き友よ/イエスのために/ここに葬られし/我が亡骸を掘り返すことなかれ/この石に触れざる者に祝福を/我が骨を動かす者に呪いあれ) シェイクスピアが活躍した時代、演劇は民衆から高い人気があったにもかかわらず、知識人たちは当時の演劇を低俗な娯楽とみていた。だが、シェイクスピアはその深く鋭い人間観察眼と、悲劇性と喜劇性をおりまぜた巧みな筆致で、人間の幅広さを鮮やかに描き出した。卓越した才能で戯曲を芸術に昇華させた。登場人物の多くは、運命の女神に断固として服従を拒否する。そして、人生の不運を受け入れるための器を持たないことでさらなる悲劇を呼び込む。だが、そこがいい。人生の醍醐味。不器用に戦いもがく彼らに乾杯!「どうとでもなれ、どんな大嵐の日でも時間は経つ」(『マクベス』) ・「人生は動く影、所詮は三文役者。色んな悲喜劇に出演し、出番が終われば消えるだけ」(『マクベス』) ・「過ぎてかえらぬ不幸を悔やむのは、さらに不幸を招く近道だ」(『オセロー』) ・「(両家の)名前が一体なんだろう?我々がバラと呼んでいるあの花の、名前がなんと変ろうとも、香りに違いはないはずだ」(『ロミオとジュリエット』) ・「もうよい、意地の悪い運命の女神に悲しみの涙を施して、これ以上つけあがらせることはない。我々を苦しめに来るものを快く迎えてやれ。それに平然と堪えている風を見せて逆にそいつを苦しめてやるのだ」(『アントニーとクレオパトラ』) ・「この巨大な地球さえ、もとよりそこに棲まうありとあらゆる物がやがては溶けてきえる…我らは夢と同じ糸で織られているのだ。ささやかな一生は眠りによってその環を閉じる」(『あらし』) ・「狂ったこの世で狂うなら気は確かだ」(『リア王』) ※教会では当時の出生記録(洗礼日)と埋葬記録も展示されている。ミサや結婚式があると入られないので、墓参は余裕のある日程で。 ※英詩人コールリッジ「千万の心持てるシェイクスピア」 ※英歴史家カーライル「インドを失うとも、シェイクスピアは失うべからず」 ※シェイクスピアは小学校程度の教育しか受けていないため、かつては「正体は哲学者フランシス・ベーコン」等々、“シェークスピア別人説”があった。だが同時代の作家が才能を讃えており実在は確実。 ※グローブ座は晩年1613年に焼失し、再建されるも、1644年に清教徒によって破壊された。約350年後の1997年、グローブ座跡地に往時の姿を再現したグローブ座が復活した ※1950年代から夏の夕方にNYセントラル・パークの野外劇場でシェークスピア劇「シェークスピア・イン・ザ・パーク」が上演され、夏の名物となっている。 ※日本国内では1883年に『ジュリアス・シーザー』が最初に完全翻訳された。 ※「不運ばんざい!運の女神に見放され、この世の最低の境遇に落ちたなら、あともう残るのは希望だけ、不安の種も何もない!」(シェイクスピア) |
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2000 一本の万年筆が添えられていた | 2009 午後の陽光に包まれた墓地。妖精が出て来そう | 大作家にふさわしい、紙の形に彫られた墓標 |
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墓石の上には無数のペンが!作家志望の墓参者が置いていくのだろう |
・「ああ、愚かな人間よ、ノアの洪水はまだ退いてはおらぬ、優に世界の3分の2をまだ覆っているではないか」 ・「おぬしは気が狂うが当然じゃ、何でまだ狂わぬ?どうして狂わずに堪えてゆける?おぬしが狂えぬのは、天がまだおぬしを憎んどるからか?」 ・「見よ!神々は全て善を為し、人間は全て悪を為すと信ずる者ども、これを見よ!知らざるところなき神々が悩める人間を忘れ果てている時、人間は、よしんば愚かしくとも、自ら何を為すかを知らずとも、心優しい愛と感謝に溢れている事が分からぬか」 “(遺書を書き終わって)今から以後、何ヶ月か何週か分からぬが、いずれにせよみんな私の丸儲けだ。私は自分の寿命よりも生きるわけだから。これでばっちり死と破滅の穴へ飛び込む用意は出来た、さあ、矢でも鉄砲でも持って来い!” 〜以上『白鯨』から アメリカ文学の最高傑作『白鯨』の著者。15歳で父を亡くし家計を支える為に学校を辞め、銀行員、農場手伝い、商店勤め等の仕事に就く。20歳の頃、海への好奇心から英国行きの貨物船に乗り込み、22歳の時には捕鯨船へ。1年後、船上生活の辛さに耐えかねて船を脱走、南太平洋の島で食人種の村に迷い込み1ヶ月を過ごす。やがて他の捕鯨船に救い出されたが横暴な船長に反抗し、タヒチで投獄される。次に米国の捕鯨船で半年間働いた後、ハワイで商店勤めをし、その後、米国軍艦に乗り込みボストンで除隊になった(25歳)。 まるまる20代前半をかけた海の放浪が終わり、27歳で人生体験をもとにした処女作を発表。当初は人気作家だったが、作風が重く深刻なものになるにつれ人気は低迷、筆では食べていけず47歳の時に税関史となった。世間は彼を忘れ、最後は半ば発狂し、失意のうちに死す(72歳)。死後30年を経て、長編『白鯨』を中心に、ようやくその作品群が再評価され始め、現在では世界文学史上の大巨人として名を連ねている。 小説『白鯨』はただの海洋冒険小説ではないッ!白蛇、白鹿など、自然界に現れた白い生物は、昔から聖なる存在として崇められてきた。地上最大の動物であり、しかも白色の“白鯨”は、「神」や「運命」の象徴だ。片や、捕鯨船“ピークォド号”の船乗りたちの国籍はオランダ、中国、インド、フランス、アイスランド、マルタ、イタリア、タヒチ、デンマーク、ポルトガル、英国、アフリカ諸国etc…、つまり船は世界の縮図であり、船乗りは全人類の代表だ。船長エイハブはかつて白鯨との戦いで片足をもぎとられる深手を負い(運命に敗北した)、以来、復讐の為に“世界の果てまで”白鯨を追跡している。 ピークォドの船乗り達は、出航後しばらくしてから航海の目的が捕鯨ではなく白鯨との一騎打ちと知って驚愕する。誰もが“白鯨と戦って勝ち目はない”“自殺行為だ”と絶句するが、エイハブの熱く、激しく、鬼気迫る演説「貴様らは皆エイハブだ!」で、「白鯨上等!」「相手に不足なし!」という一種の熱狂状態へと変わっていく。 『白鯨』は生と死の物語。この作品は絶対に長編でなければならなかった。長期間を登場人物と過ごすことで、キャラの命の重みが増すからだ。短編では感情移入する前に決着がつき、白鯨との死闘で誰かが死んでも、死傷者X名という“数字”として受け止めてしまう。だが長編であれば、夜の甲板で星を見ながら船乗りの過去話に耳を傾けることもあり、酔い潰れた男が漏らす一言に胸を打たれたりする。何度も一緒に飯を食う。だからこそ、誰かが死ぬ度に「あいつが、人の良いあの男が逝ったというのか」と、底なしの喪失感にとらわれる。“もう船に奴はいない”。この感覚は長編小説なればこそ! ※ちなみに、『白鯨』の主要キャラ、一等航海士スターバックはシアトルでコーヒー店の名前になった。店の看板が海をイメージしてるのはそのため(3人で創業したので“スターバックス”と複数形になった)。 ※『白鯨』は神の象徴である巨大クジラに、様々な人種・国籍の船乗りが乗り込んだ捕鯨船ピークォド号が挑む。それはまるで、神VS人類代表の様相! |
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史上最強の風刺作家。いかなる権力者も彼のペンの前ではミジンコ以下! | 聖パトリック大聖堂の司祭だった |
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聖パトリック大聖堂にはデスマスクが展示され、床に金色の墓があった。壁面にはスウィフトの言葉「旅人よ、自分の道を行け」が彫られていた |
(以下、ガリバーが旅を終えてロンドンの我が家に帰ってきた部分) “…我輩がヤフー族の一匹(妻のこと)と交尾して、既に子までなしている事を考えると、恥辱、当惑、恐怖に襲われた。家へ入るやいなや、妻は我輩を両腕に抱いて接吻した。だが何しろこの数年間というもの、この忌まわしい動物に触れられた事などほとんど無かったものだから、たちまち一時間ばかりも気を失ってぶっ倒れてしまった。(中略)今日でさえ、妻子には我輩が食べるパンに手を触れたり、ひとつ容器から物を飲むことなどは断じてさせない” 『ガリバー旅行記』の物語で小人の国のエピソードしか知らない人は、光速で本屋へダッシュして欲しい!巨人国やラピュタ編しか知らない人も同じ。この作品の真骨頂はラストの『馬の国』にあり、これを読まない内は他のいかなる作品にも寄り道してはダメっす!この章に関してのみ言うならば、スウィフトはドストエフスキーを凌駕している! 晩年、スウィフトが発狂したことは当然の帰結かと。 〔墓碑銘〕 スウィフトは休息に入った。 そこでは激しい憤怒に 胸を切り裂かれることもない。 もしできることなら彼を真似てくれ、 世界に夢中になっている旅人よ、 人間の自由のために尽したこの男を。 『わが国(英)の国民は、自然のお目こぼしでこの地球上を這いずり回ることを許されている害虫どもの中でも、特に悪質な種属だ』(スウィフト) ※ガリバー旅行記に出て来たヤフーという野蛮人は、その後ヤフー=ならず者という意味として定着し、あるプロバイダーが「俺たちはならず者だぜ」とその名を社名に冠した。 |
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この教会墓地にヘッセは眠っている 僕もカインの血族であることを真っ先にカムアウトした |
墓前にリンゴがあったので驚いた。実は、日本以外で 食べ物を供えている墓はヘッセが初めてだった |
“孤独は独立だ。私はそれを望み、長い年月をかけて獲得した。それは冷たかった。しかしまた静かであった。星のめぐる冷たい静かな空間のように、驚くほど静かで偉大だった”(『荒野のおおかみ』) “この酒場の彼らは私のように孤立脱線したやからで、破産した理想を肴にじっと考え込んでいる酔いどれだろう。ここに私は錨を下ろした。ここなら1時間は辛抱できた。2時間でも。”(『荒野のおおかみ』) “帰宅して自分の部屋の戸を開けた。私の小さな仮の故郷で、肘掛け椅子と暖炉とインキ壷と絵の具箱と、ドストエフスキーとノヴァーリスが私を待っていた。他のまともな人が帰宅すると、母や妻子や犬猫が待っているように”(『荒野のおおかみ』) “僕の同郷人の三分の二はこの種の反動的な扇動新聞を読む。朝晩この調子の文句を読み、毎日説得され、警告され、けしかけられ、不満や憎しみを掻き立てられる。そういうあらゆるお膳立ての狙いと結果はまた戦争なのだ。次の来たるべき戦争だ。何から何まで簡単明白だ。どんな人間にだって分かることだし、ものの1時間も考えれば、同じ結論が出るだろう。ところが、誰もそうしようとしない。誰も次の戦争を避けようとしない。誰も自分の子ども達のため、幾百万という大量殺害を阻止しようとしない”(『荒野のおおかみ』) 「まさか君だって、真っ直ぐ立って歩くし、9ヶ月で生まれるからというだけの理由で、そこいらを走り回っている2本足全部を人間だなどと言うつもりはないだろう?」(『デミアン』) “どれもが死のうとする意思、無常の痛切な告白であった。しかも、どれもが死にはせず、変化するだけだった。絶えず新しく産み出され、絶えず新しい顔を与えられた”(『シッダールタ』) 文芸愛好者の耳元でヘッセは選民思想を執拗に囁き続ける。傲慢ともとれる思想だが、同時に心をくすぐる思想であることも確かだ。額にカインの刻印があることが、すなわち誇りとなるのだから!ヘッセ文学は世界の孤独者のバイブル。ノーべル文学賞受賞。 |
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ゲーテの肖像画は多数ある。個人的に好きな4枚を並べてみた。右端、優しそうで良いよね |
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フランクフルトの生誕地 | 「ゲーテハウス」(博物館)として公開(2015) |
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こちらは親友シラー。正義感が強く、誠実な人柄が愛された。45歳の死が残念すぎる! |
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ミュンヘンのゲーテ像(2002) | ミュンヘンのシラー像(2002) | フランクフルトのゲーテ像(05) | マインツのシラー像(05) |
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ウィーンの巨大ゲーテ像。街の中心部にあり、これが一番有名なゲーテ像かも(2002) |
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ドイツ各地にゲーテとシラーの銅像はあるけど、2人一緒なのはこのワイマール国民劇場の物しかしらない。 後ろから見るとゲーテがシラーの肩を「ヒシッ」と掴んでいて、すっごい仲良しなのがよく分かる |
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ゲーテの家 | シラーの家 |
2人の家は歩いていけるほど近所。壁も同じイエロー系。ゲーテは 10歳年下の親友シラーが先に他界した時、ずっと号泣していたという… |
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ゲーテ&シラーの墓。苦労して独のワイマールまで来たのに、霊廟は工事中。入口の扉にはCLOSEDの白い札があり、僕はブチ切れモードに。実はこの5年前にも訪れているのだが、仏のアルルで賊に荷物を全部盗まれ、この廟内を写したフィルムも一緒に消えた。故に僕はこの時の2人の墓写真を持っていないのだ。え〜い、やっとれんわ!ウッキー!(そういうわけで、右写真はポストカードのもの) |
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左がゲーテ | 右がシラー |
ドイツの詩人、小説家、劇作家、自然科学者、政治家。1749年8月28日、商業都市フランクフルトに生まれる。父は帝室評議員、母は祖父が市長という裕福な家に育った。初恋は14歳、グレートヒェンという年上の女性で、失恋に終わったが彼女の名前は後年『ファウスト』のヒロイン名になっている。 1765年(16歳)から3年間、ライプツィヒ大学で法律学を学ぶも、関心は文学や絵画に向かい、居酒屋の娘への恋心を投影させた喜劇(「恋人のむら気」)や詩集『アネッテ』を18歳で書いた。翌年結核を患って帰郷し、自宅で療養。1770年(21歳)から1年間、現ストラスブールにて法律学の勉強を続けた。ここでも興味は、芸術学、音楽、化学、解剖学に向いた。当地でゲーテは近郊の牧師の娘フリーデリケと相愛になり、「野ばら」「五月の歌」などの抒情詩が生まれた。純真なフリーデリケは結婚を望んだが、まだ自由でいたいゲーテは彼女の元を去り、罪の意識が詩劇『ファウスト』のグレートヒェンの原型となった。同時期に5歳年上の気鋭の文芸批評家ヘルダーと親交を結び、ヘルダーが文学の革新を目指して感情の直接的な表現を説いたことから影響をモロに受けた。 フランクフルトに戻ったゲーテは弁護士を開業し、翌1772年(23歳)に実務経験を最高裁で積むためヴェッツラーに住んだ。1773年(24歳)、法律の仕事に従事しながら、中世に実在した騎士ゴットフリート・フォン・ベルリヒンゲンを描いた史劇『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を脱稿。ベルリヒンゲンはドイツ農民戦争で一揆の先頭に立ち、皇帝や教会の権威に立ち向かった英雄だ。苦難の中で信義を貫くヒーローを描いたこの戯曲は、ドイツ最初の国民劇として絶賛された。 1774年(25歳)、ゲーテは2年前にヴェッツラーで体験した悲恋をもとにした小説『若きウェルテルの悩み』を出版する。彼はヴェッツラーの舞踏会で出会った16歳の少女シャルロッテ・ブッフを深く愛したが、ロッテが友人の婚約者であるこを後日知った。絶望的な恋に身を焦がし、そして苦悩から逃れる為に出会いから3カ月、ヴェッツラー到着から5カ月で同地を立ち去った。ゲーテは想いを断ち切れず、帰郷後も胸に短剣を当てるようなことをしていたが、ヴェッツラーを離れて50日後に親友イェルーザレムが人妻への片想いに悲嘆してピストル自殺した事件が起こった。多感なゲーテは打ちのめされたが、自らの恋を小説に昇華することで、精神的危機を乗り越えることが出来た。ゲーテいわく「この小説を若いときに読んで、これは自分のために書かれたのだと感じたことがないような人は不幸だ」。ウェルテルは善良で明るい青年だったが、婚約者のいる女性を愛したことから精神が崩壊し、銃口を自らに向ける---。 息苦しい旧社会の因習に反抗し、人間個人の愛で対決する革命的姿勢に、感情のはけ口がなかった同時代の若者は熱狂的に共感した。国境を越えてヨーロッパ最大のベストセラーとなり、青い燕尾服と黄色のチョッキという主人公ウェルテルの服装でピストル自殺する若者が続出、各地で発禁処分になった。本作はフランスのロマン主義にも火をつける。 ゲーテ自身、生涯に一度しか読み返せなかったといい、その理由を「あの小説は危険な花火だ。読み返すと当時の危うい精神状態に引き戻されてしまう。それが怖い」「私は生きた、愛した、ひどく悩んだ…それがあの小説だ」と述べている。 『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』『若きウェルテルの悩み』は、伝統・権威・理性よりも「感情」を重視し前面に出す新たな文学運動「シュトゥルム・ウント・ドラング」(疾風怒涛)の代表的作品となり、ゲーテは「ウェルテルの詩人」として名声を轟かせた。この頃、ライフワークとなる劇詩『ファウスト』を書き始めている。 1775年(26歳)、ゲーテはワイマール公国の若い18歳の領主カール・アウグスト公から同国へ招かれた。当初は短期滞在の予定だったが、ワイマールは当時のドイツの学問と文芸の中心地であり、好奇心を大いに刺激されたことから、他界するまで同地を活動の本拠地とした。ワイマール滞在の最初の10年間は、創作欲よりも吸収欲が勝り、わずかに詩(「魔王」など)を書いただけでひたすら知的生活を深化させていった。地質学、鉱物学、骨学、気象学など科学研究も積極的に行った。恋愛面では才色兼備のシュタイン夫人と親しくしている。1780年(31歳)、フランクフルトにてフリーメイソンに入会。1782年(33歳)、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世により貴族(男爵)に列せられ、ワイマール公国の宮廷顧問を経て宰相、内閣首席も勤めた。 1784年(35歳)、ゲーテは75年後のダーウィンの進化論『種の起原』(1859)を予見するかのように、従来はヒトにはないと考えられていた他の哺乳動物の顎間骨(がくかんこつ)が、胎児の頃には類似したもの(前顎骨)があることを発見。後年にはすべての植物が一つの「原植物」から発展したものと考えた『植物変態論』(1790)を発表している。 1786年(37歳)、宮廷生活に物足りなさを覚え、シュタイン夫人とも気まずくなったゲーテは、知見を広げるため、そして新たな精神的飛躍を求めて偽名でイタリア旅行に出発した。各地を訪問してローマに落ち着き2年間滞在した。古代ギリシャ・ローマの文化に触れたゲーテはシュトゥルム・ウント・ドラングの感情過多路線から離れ、静かだが格調高くバランスが整った古典主義に美を認め移行していった。 1788年(39歳)、ワイマールに戻ったゲーテは、宮廷の人々に距離感じて反発し、23歳の一般女性クリスティアーネ・ウルピウス(造花工場の労働者)と同棲、翌年に息子を授かった(クリスティアーネは内縁の妻となる)。社交界では身分違いの恋愛を非難されたが、そのような反応は無視した。同年、戯曲『エグモント』を執筆。1791年(42歳)、宮廷劇場の総監督に就任し、仕事に誇りを持って22年間も担当する。 1794年(45歳)、ゲーテに転機が訪れる。劇作家シラーと親交を結んだのだ。ゲーテは科学研究に没入して文学から遠ざかっていたが、シラーに「あなたの本領は詩の世界にあるのです」と説得され、創作意欲が再び燃え上がった。シラーは10歳年下だったがドイツ古典主義の雄であり、両者は詩集を共同制作するなど意気投合。ゲーテはシラー編集の文芸雑誌“ホーレン”に、詩『ローマ悲歌』、傑作教養小説『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』(1796)、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』(1797)などを寄稿した。2人の交流は1805年にシラーが肺病で他界(享年45)するまで11年間続き、両者で文学史に時代を築いた。ゲーテはシラーの訃報に際し、「自分の存在の半分を失った」と倒れ込み、病に伏せった。 翌1806年(57歳)、ナポレオン軍がワイマールに侵攻し、泥酔した兵士たちがゲーテ宅に雪崩れ込んで来た時、クリスティアーネは身を挺してゲーテを守った。戦乱で将来が不安定なこともあり、ゲーテは彼女と正式に結婚した(同棲から18年)。 1808年(59歳)、ナポレオンがヨーロッパ諸侯を集めた際、ゲーテはアウグスト公(プロイセン軍連隊長)に従って参加した。ナポレオンはゲーテより20歳年下で当時39歳。『若きウェルテルの悩み』を愛読しており、ゲーテと対面した瞬間「ここに人あり!(Voila un homme!)」と感激した。 ゲーテが生きた時代は天才作曲家の時代でもあり、様々な作品に詩が引用された。年齢を比較すると、モーツァルト(1756-1791)は7歳年下、ベートーヴェン(1770-1827)は21歳年下、シューベルト(1797-1828)は48歳年下になる。シューベルトは31歳で没しており、ゲーテはこの3人の誰よりも長生きした。「ファウストに曲をつける権利があるのはモーツァルトだ」「(ベートーヴェン“運命”の迫力に)みんなが一斉にあんな音を演奏したら建物が壊れてしまう」という言葉が残っている。モーツァルトは詩『すみれ』に曲を付け、ベートーヴェンは戯曲『エグモント』、2つの詩『海の静けさ』『楽しい航海』に曲を付けた(後者はメンデルスゾーンも序曲『静かな海と楽しい航海』を発表)。1812年にゲーテとベートーヴェンは対面。2人で散歩中に皇太子の一行と遭遇し、帽子を脱いで頭を下げるゲーテに対し、ベートーヴェンは「皇太子は世の中に何人もいるがベートーヴェンは1人だけだ」と礼をせず、逆に皇太子一行から挨拶されゲーテは驚愕している(ちなみにベートーヴェンの『第九』はシラーの詩)。シューベルトは約600曲の歌曲のうち約70曲がゲーテ作品を題材にしており、シューベルト没後に『魔王』を聴いたゲーテは「全体のイメージが眼で見る絵のようにはっきりと浮かんでくる」と感動した。最も作曲家に愛されたゲーテ作品は『ファウスト』で、オペラだけで約50作もある。20世紀に入ってからは、マーラーが『交響曲第8番』(1906)の後半でファウスト第2部を合唱に使っている。 シラーは生前、ゲーテに『ファウスト』の執筆を促していた。ゲーテは友の亡き魂に応えるかのように、他界翌年に劇詩『ファウスト(第1部)』(1806)を脱稿し、その後も『親和力』(1809)、『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』(1821〜29)、『イタリア紀行』(1816)、自伝『詩と真実』(1811〜33)、イスラムなどオリエントに接近した抒情詩集『西東詩集』(1819)等、次々と書き上げていった。科学者としては1810年(61歳)にニュートンの光学説に真っ向から反論した『色彩論』を発表し、地質学者として生涯に集めた鉱石コレクションは1万9000点に達している。針鉄鉱(しんてっこう)=ゲータイト(goethite)はゲーテの名にちなんで知人の鉱物学者が命名したもの。 プライベートでは、1816年(67歳)にクリスティアーネが尿毒症で他界(享年50)。その5年後に、マリーエンバートの湯治場で17歳の少女ウルリーケに人生最後の恋をし、求婚までしたが失恋した(55歳差!)。この悲恋からは最後の恋愛詩『マリーエンバード哀歌』が生まれ、詩集『情熱の三部曲』としてまとめられた。1830年(81歳)、一人息子アウグストがイタリア旅行の途中で急死し(享年41)、ゲーテは妻に続き子にも先立たれる。息子を失い、あまりのショックから大量の血を吐いて倒れた。 晩年、ドイツではロマン派文学が人気を集め、国粋的傾向を示した作家たちはゲーテやシラーを心の師としたが、1827年(78歳)以降のゲーテは、「詩は人類の共有財産」と初めて“世界文学”という概念を提唱しており、バイロン、ユゴー、スタンダールなど他国の文学も愛し、「ロマン派は病気だ」と批判した。「科学と芸術は全世界に属する。それらの前には国境など消え失せてしまう」。 死の前年となる1831年(82歳)、“ウェルテル”を刊行した20代半ばから書き続けてライフワークとなっていた劇詩『ファウスト』第2部を脱稿し、同作は完成した。ゲーテが描いた学者ファウストは、知的探究を続けても内心の欲求が満たされぬことに絶望し、悪魔メフィストフェレスに魂を賭ける契約をして人生のあらゆることを体験し尽くそうとした。最終的にファウストの魂はグレートヒェンに救済される。『ファウスト』は約60年という長大な執筆期間を反映し、作家の人生と連動している。青年ゲーテの激しい疾風怒濤の作風から、古典主義の調和の美に進み、晩年の円熟した知の世界へ到達。生涯を象徴する大作となった。「シラーと出会っていなかったら、『ファウスト』は完成していなかっただろう」(ゲーテ)。1832年3月22日、肺炎を患っていたゲーテは寝室の椅子で朝食後に他界した。最後の言葉は「もっと光を!(Mehr Licht!)」。享年82。他界の翌年『ファ ウスト(第2部)』が出版された。 【墓巡礼】 「空気と光と、そして友達。これだけが残っていれば、気を落とすことはない」。ゲーテは愛をもって自然や人間を深く観察しており、作品からは人間中心主義の力強い意思が伝わってくる。どんな悲しみや苦痛も、すべて作品へ生産的に転化させるのが凄い。実にタフ。僕が初めてワイマールで彼を巡礼したのは1989年の夏。ベルリンの壁が崩壊したのは同年秋。ワイマールは共産圏の東ドイツに属し、東ベルリンから行き先の宿を手配しないと鉄道の切符も買えないという不自由さだった。ワイマール駅から街中を南下し、歴史墓地の丘の上にゲーテの霊廟、アウグスト大公家墓所があった。入口でチケットを買い、薄暗い地下に降りるとゲーテとシラーの墓が並んでいる。“墓”といっても墓石ではなく、木棺がそのまま床の上に置かれているので驚いた。地中に埋葬されている墓よりも故人の存在を強く感じ、生前にエールを送り合った親友2人の棺が並ぶ光景に胸が熱くなった。ちなみに、1989年の墓写真は旅の後半にフランスで荷物を全部盗まれたので手元にない。まだネットのない時代、墓写真は僕にとって憧れのヒーローにいつでも会える生ブロマイドだ。どうしてもゲーテの墓写真が欲しくて1994年に再び墓所を訪れた。そして愕然とした…霊廟全体を保存工事する為まさかのクローズド!日本からここまで来るのにどんなに大変か分かっているのかドイツ政府!ワイマールまで行って、中に入れないとは…本気で涙が流れた。その4年後に霊廟は世界遺産に認定されており、それに向けた補強工事と思う。時代は21世紀に入って2005年、三度目の正直でついに僕は撮影に成功した。カメラはデジカメになり、盗難対策で3枚のチップを入れ替えて撮影した。現在は撮影禁止になっているらしく、ギリギリのタイミングといえる。もちろん、最大の目的は墓前で感謝の言葉を伝えることだけど、あまりにハードな経緯があったので、今でも写真を見返す度に感無量になる。 ●ゲーテ語録 「建築とは氷結した音楽なり」 「一人の人を愛する人は、すべての人を憎むことができない」 「太陽が素晴らしいのは、すべての塵を輝かせることだ」 ※英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を少年時代に習得。 ※森鴎外はゲーテを愛読し、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を翻訳、1913年に日本初の『ファウスト』完訳を行なった。尾崎紅葉の辞世の句は「泣いてゆく ヱルテルに会う 朧かな」。1964年、資料館 として東京ゲーテ記念館が開館。 ※ゲーテはフランス革命後のギロチン合戦に閉口して保守的な立場を取ったが、マルクスは「ゲーテは偉大な詩人であるだけでなく、最も偉大なドイツ人の一人である」と讃え、レーニンは亡命時に『ファウスト』をカバンに入れていた。 ※『グリム童話』編者のヤーコプ・グリムは近代言語学の祖。グリムが刊行した『ドイツ語辞典』の序文には「彼(ゲーテ)の著作から僅かでも欠如するよりは、他の人々の著作から多く欠如したほうが良い」と記されている。 ※ゲーテとクリスティアーネの間には5人の子供が生まれたがみんな早逝し、唯一成長した長男アウグストも40代で病没した。3人の孫には子がなく、1885年にゲーテ家は途絶えた。同年、グリムが中心となってゲーテ協会を設立している。 ※漫画家水木しげるは、召集されて南方戦線におもむくときに、ゲーテの秘書エッカーマンが記録した『ゲーテとの対話』を持参した。 ★ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー ドイツの作家・劇作家。ヴュルテンベルク侯国、マルバッハ出身。オイゲン侯の命で陸軍士官学校に入った後、シュトゥットゥガルトで軍医となる。この頃から疾風怒濤期の詩や劇を書き始め、1781年に22歳で処女作『群盗』を発表。同作は世間の好評を得たが、内容が反体制的であると領主が激怒し医学書以外の執筆を禁じられてしまう。シラーはドレスデンに移住し、詩「歓喜に寄す」を執筆(後世にベートーヴェンが第九の歌詞に取り入れる)。29歳からイエナ大学の歴史学教授に就任。作風が古典主義に転じ、『ドン・カルロス』(1787)、『オルレアンの少女』(1801)『ヴィルヘルム・テル』(1804)などの歴史劇を書くが、1805年に肺病のため45歳の若さで他界した。 “人間追い詰められると力が出るものだ。こんなにも俺の人生に妨害が多いのを見ると、運命はよほど俺を大人物に仕立てようとしているに違いない”(『ドン・カルロス』/シラー) “世界を改革しようとした純心な人間が今まで何人も処刑場に消えたが、そういう人間は何百年、何千年と語り草になっているのに、多くの王侯は歴史の上で省略されてしまっている”(『ドン・カルロス』/シラー) “俺が神を求めた時、神は応じなかった。今度はむこうが求めても、こっちで応じなかった。このくらい公平な話があろうか。神は俺なぞ必要としない。神に創られた生き物は有り余ってるからだ”(『ドン・カルロス』/シラー) “不当な扱いを受けるのは、偉大な魂の持主にとっては気持が良いものだ”(『オルレアンの乙女』/シラー) |
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ヘミングウェイはどんどんタフガイ&ダンディになっていった |
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1960年、キューバ革命の直後。 ヘミングウェイ(61歳)とカストロ(33歳) |
くらえ!右ストレート! |
ライフルを構えた文豪の写真 なんて他に見たことないぜ! |
左写真の道がヘミングウェイの眠るケッチャム村に続く道なのだが、田舎すぎてケッチャムに行く公共の交通手段がない!タクシー利用の場合は往復10万円以上するとのことで、僕は泣く泣く墓参をあきらめた。 |
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ところが!嘆き悲しむ僕の姿を見て哀れに思ったのか、初老の男性が「私はレンタカーで明朝ケッチャム方面へ向かうが、一緒にどうだい?」と声をかけてくれた!紳士の名はフレミングさん(51歳)。デンマーク人の旅人だ。まさに渡りに船! ※(右写真)フレミングさんはアイスクリームが大好物。 |
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ケッチャムまで、なんと片道5時間!タクシー代が高い筈だ。ロッキー山脈の万年雪を眺めつつ、墓を目指してひた走る。付近は国立公園で雄大な景色がずっと続いていた。 |
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とうとう念願のヘミングウェイの墓に巡礼!フレミングさんが先に発見した。本当に来れるなんて!帰路も国立公園を突っ走る(右写真)。フレミングさんがカーステに入れたCDは“ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ”のサントラ。音楽と景色が溶け合い、夢の中を旅しているようだった。![]() |
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車を停めて休憩してると、付近の牧場の牛が全頭こちらを注目していた。2人で思わず吹き出す。 |
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午後6時、アイダホの州都でフレミングさんと別れる。往復11時間も運転してもらったし、マナーとして幾らかガソリン代&レンタカー代を払おうとしたら、「私はヘミングウェイに会えて嬉しかった」とだけ言って、財布を持った僕の手を静かに押し戻した。人はここまで優しくなれるものなのか。こんな良い人が実在するなんて!この人に出会えただけでも、この世界に生れてきて良かったと思う!(右写真)視界から遠ざかっていくフレミングさん。たまらなく寂しかった。 |
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『星の王子さま』の作者。彼は第2次大戦中に行方不明になり、遺体は発見されていない。現在、 軍人墓地前に仏政府が建てたこの記念碑が、一応、墓ということになっている。星型の花壇に感動!! |
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フランス・リヨンの街の中心部に、星の王子様とツーショットの銅像がある(すごい高さのとこに座っている)2005 |
「本当に大切なものは目に見えないものなんだ」(『星の王子さま』)。この作品は現在、聖書に次ぐ世界のベストセラーになっている。 サン・テグジュペリが若死にせずもっと生き続けていたら、どんなに素晴らしい本を残してくれたろう!本当に残念だ。もっともっと色んな作品が読みたかった。夜間飛行には死を覚悟して嵐の雲海の上を飛行する場面があり、その部分を思い出すだけで僕の背中には100万ボルトの電流が走る! ・満月ともろもろの星座とが、今このように雲を輝かしい波の如きものにしているのだ。 嵐は、機体の下方で、狂風、竜巻、雷電の荒れ狂う3千メートル厚さのある別の世界を形成しているのだが、星の方へ向っては、水晶と雪で作られているかと思える顔を向けていた。彼は徘徊した、宝物のようにたっぷり集められた星に交じって、彼ファビアンとその同僚以外には誰ひとり生きた人間のいない世界の中を。お伽話の中の盗賊どもと同じように、永久に出ることの出来ないはずの宝物庫に閉じ込められて。冷たい宝石の間を、いとも富んで、しかも死刑を宣告されて、さまよっている彼らであった。(『夜間飛行』) ・「一度犯した失敗は今後もう起こらないので、この先、失敗する可能性はひとつ減ったことになる」(『夜間飛行』) 「僕にあっては飛行機は自分を創り上げる手段だ。農夫が鋤(すき)を用いて田畑を耕すように、僕は飛行機を用いて自分を耕すのだ」(サン=テグジュペリ) 「愛するということは、お互いの顔を見つめる事ではなく、一緒に同じ方向を見つめる事だ」(サン・テグジュペリ) |
![]() 37歳の頃 |
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映画『カサブランカ』に出ても違和感のないカミュ |
墓は草がぼうぼうで荒れ放題だった。なんてこった! |
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文字は風雨で削れてしまっている ※外国人タレント、セイン・カミュの大叔父 |
写真を撮ってくれたのはタクシー運転手のオリビエさん |
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「帰りのバスに間に合わない!急いで!」 |
オリビエさん「バス停はどこだ!?」 |
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バス停探して走り回るオリビエさん |
結局、帰りはタダでタクシーに!! |
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これもまた大切な一期一会となった |
「アルジェリアでは太陽と海はタダだった。それで私はちっとも貧しいとは思わなかった」(『異邦人』) 「私は死にたくないという思いで死にそうでした」(『転落』) 「イエスの親たちが彼を安全な場所に移しているちょうどその時に虐殺されたユダヤの幼児たち、この幼児たちが死んだのは彼のせいでないとしたら、一体誰のせいです?」(『転落』) 「この年になると、いやでも本気のことを言っちまいますよ。嘘をつくなんて、とてもめんどうくさくて」(『ペスト』) “不条理”をテーマにペンを握り続けたカミュ。僕はその痛々しいまでの誠実さが好きだ。自動車事故の為、46歳で亡くなった。 |
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ローマ・テルミニ駅にて。 23時10分発トリノ行き夜行に乗車。 |
列車は一晩かけてイタリアを縦断し、6時半に 北イタリアのトリノに到着。まだ夜明け前で薄暗い。 |
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10月末。ローマやナポリではまだ半袖の人も多いけど、 アルプスが近いトリノでは、誰もが完全防備していた。 |
駅からは路線バスの68番を利用。墓地のすぐ前に停留 所があった。着いたのは7時。さっそく入ろうとしたら守衛に 阻止された。「開門は8時半だからそれまで待て」トホホ。 寒さに打ち震えながら門前のベンチに1時間半座っていた。 |
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墓地内の案内板。非常に広大な墓地なのだ! |
8時半、ついにゲートがオープン!視界の彼方まで 続く一本道を、少しでも早くレーヴィに会いたくて小雨 が降る中ひたすら走り続けた。寒さで足がからまる! |
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ついに出会えたレーヴィ!墓の上に紅葉の屋根があった。 | 刻まれた数字は「174517」 |
「私の人生は神の存在抜きに、神の無関心の中で生きられ、生きている男の人生なんです」 「それで平気なのですか?」 「お陰で余計な幻想を抱かずに前進出来ます」(『P・レーヴィは語る』) 生き地獄を知っている者だけが分かる、あまりに重い言葉だ。 プリーモ・レーヴィは、ナチの強制収容所アウシュヴィッツから奇跡の生還を果たしたユダヤ人(トリノから連行された約600人 のうち、生き残ったのはわずか3人のみ)。戦後、収容所の地獄の日々を記した著「これが人間か」を発表し、世界へ生命の尊厳 を訴え続けた。ところが、後に彼は自殺してしまう。理由は4つあった。 1.ナチに非道な仕打ちを受けたはずのユダヤ人が、今度はイスラエル軍としてパレスチナの人々を虐殺している。(“イスラエル 軍は撤退せよ”と声明文を発表した彼は、ユダヤ社会から「裏切り者」扱いされ孤立してゆく) 2.「ガス室はでっちあげ」と主張するネオ・ナチが欧州各地に勢力を広げている現実--“人々は過去の歴史を学ぶ意思が ないのでは”という絶望。 3.収容所で生き残るべきだったのは、自分ではなく他の誰かではなかったのか、という後ろめたさ。 4.再び同様の惨劇が起きるのではないかという恐怖--ヒトラーただ一人ではあの大量虐殺は行なえなかったのに、多くの人々は ヒトラーに全責任を押し付け、自分の問題として考えようとしない。 これら4つが襲いかかり彼は身を投げた。トリノの共同墓地にあるレーヴィの墓には、「174517」という数字が彫り込まれていた。 …収容所で体に刻まれた囚人番号だ。世間が美化し、忘却していく“不幸な歴史”を、朽ちる事のない墓石が「これは事実 なんだ!」と絶叫していた。 ヴィクトール・フランクル『夜と霧』〜「何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく 生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と」 |
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さようなら、プリーモ。貴方のことを、僕は絶対に忘れない。 |
アウシュビッツの設計図発見=「ガス室」表記、ナチス幹部署名も−独紙 【ベルリン10日・時事通信社】独大衆紙ビルトは8日付紙面で、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の舞台になったアウシュビッツ強制収容所の設計図がこのほど、ベルリンのアパートの一室で見つかったと報じた。 同紙によると、設計図は28枚の黄ばんだ紙に1941年から43年にかけて描かれたもの。「戦時捕虜収容所アウシュビッツ」と記されたページには、ホロコーストを指揮したナチス親衛隊(SS)長官のハインリヒ・ヒムラーの署名も見られる。 また、41年11月に作成された設計図には、「シャワー室」の奥にある約11メートル四方の部屋が「ガス室」と表記されている。このため同紙は、ユダヤ人問題の「最終的解決」を決定したとされるワンゼー会議が42年1月に開かれる以前に、ユダヤ人絶滅計画が存在したことが裏付けられたとしている。(2008/11/10-21:58) |
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プラハのユダヤ人墓地。 地下鉄の駅からスグだ |
男性は頭にユダヤの帽子・ キッパを乗せねばならない |
門からひたすら一本道を進む。 美しい小道! |
目標の21区は墓参者で賑わっていた |
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「ご無沙汰しております!」木漏れ日の中のカフカ! | ヘブライ語! | 1994 | 青年カフカ |
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今もプラハ市民の心に息づくカフカ | この青い壁の家に彼が住んでいた |
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初巡礼時。ハハーッ!(1994) | この時はキスマークがそれほど目立たないが…(2002) |
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2009年はキスマークだらけッ! | おそらく世界で一番キスマークが多い墓(2009) | ワイルドと語り合うマダム |
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ナルシスの極み | ワイルドは大人気。墓参の人の波が途絶えない! |
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さらに裏側もキスマークがテンコ盛り | 漢字もあった |
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決定的瞬間!今まさにコケットな女性が! | 彼女は“O”(オー)の真ん中へ! | もう、何が何だか…(笑) |
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ええーッ!なんだこのガラスは!?(2015) | 墓石を保護するためと思うけど… | たぶんワイルドは望んでないと思う… |
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それならガラスに直接キスマーク | 彫像の唇にもキスマーク | ガラスの上辺にキスマークが集中している |
“すぐれた肖像画に気づかないことは人殺しをしたも同然だ” 「(完成した)あの絵は僕よりもまるひと月若いので、少々ねたましい気がする」 “詩や彫刻や絵画に傑作がある如く、「人生」そのものにも珠玉の傑作が存在する” 「僕は彼女が大好きだが愛してなどいない。一方彼女は僕を熱烈に愛しているがそれほど好きではない」 “悪というものも所詮は自分が抱いている美の概念を実現する一手段に過ぎぬ” “お前は罪びとなのだと言われるほど、人間の虚栄心を満足させるものはない” “人間の先祖は本人の血族ばかりでなく、文学のうちにも存在している” “男はどの女とでも幸福になれるものだ、その女を愛していない限り” “人間との取引関係において運命は一瞬たりと帳簿を閉じてはくれぬ。一度の過失に何回となく償いをせねばならず、 繰り返し繰り返し代価を支払わねばならぬのだ” “物事を外観によって判断しない人間こそ、浅薄なのだ” 〜『ドリアン・グレイの肖像』から 学生時代は快楽主義者のワイルドにまんまとのせられた。ドリアン・グレイは本当に危険書だよ。 |
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ワイルドとその恋人 |
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若きカーソンさん |
著書『沈黙の春』で農薬の 乱用に警笛を鳴らした |
大企業を相手に一歩も 譲らず戦い抜いた |
小鳥に餌をあげる晩年のカーソンさん。彼女の 活動は世界的な環境保護運動の起爆剤となった |
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夕陽にほんのり照らされるカーソンさん | この墓地は墓石の向きがバラバラで探すの大変(汗) | 墓参しているうちに日が暮れた。ホタルが飛んでた〜! |
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墓地の優しい庭師さん。米国の墓地は 管理人事務所が閉まっても、住み込みの 庭師さんがいる場合は案内してもらえる |
この墓地は僕が行った墓地の中で一番鹿が多かった! 伸びた草を食べてくれるから、墓地も助かるらしい |
海を愛したカーソンさん。遺灰の半分は このメイン州沖に撒かれたという(2000) |
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上海の魯迅公園にて。園内には大きな魯迅像もある。墓石の文字は「魯迅先生之墓」。 ※ちなみに“先生”の意味はミスター。日本でいうところの先生は“老師”になる |
本名は周樹人。ペンネームの“魯”は母親の旧姓。以下、魯迅の人となりがよく分かる彼の遺言を紹介。 1.葬式の為に誰からも一文でも受け取ってはならぬ…ただし親友だけはこの限りにあらず 2.さっさと棺に入れ、埋め、片付けてしまう事 3.何なりと記念めいた事をしてはならぬ 4.私の事を忘れて自分の生活に構ってくれ…でないと全く阿呆者だ 5.子供が成長して、もし才能がなければつつましい仕事を求め生活せよ。絶対に空疎な文学者や美術家になるな 6.他人がお前に約束したものを当てにしてはならぬ 7.他人を傷つけながら報復に反対し、心の広さを主張する者、こんな人間には決して近づいてはならぬ |
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再開発で墓地が移転し探すのが大変だった。 最初の巡礼時は地元のおじさんが車で送ってくれた |
教会の裏の墓地。門は無施錠なので24時間OK。 この墓地は夜になるとホタルが飛んでいる! |
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2000 | 墓石には“ギャツビー”の台詞が刻まれていた | 2009 |
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3度の獄中生活のほか、奴隷として売られた経験もあるセルバンテス |
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首都マドリードの中心にあるセルバンテスの座像と、その正面にあるドン・キホーテ&サンチョ・パンサの像(スペイン広場) |
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プラド美術館の向かいの坂道をず〜っと上って行くと、セルバンテスの墓がここにあったことを示す 墓標がある(正確な場所は不明らしい)※ロペ・デ・ベガ通りにあるトゥリニターリアス修道院の外壁デス! |
“行って除こうと思った邪悪、正さねばならぬ非道、改めさすべき無法、直すべき悪習、実行すべき義務そういったものがどんなにひどいかを思うと、自分の行動が遅れたために世の人を待ちあぐねさせていることにせき立てられた”(『ドン・キホーテ』)
1547年、マドリードの東に位置するアルカラデエナレスで生まれる。父は貧しい外科医。1569年(22歳)、ローマで枢機卿に仕えた後、ナポリに駐屯していたスペイン軍に入隊する。2年後のトルコ軍との海戦で負傷したセルバンテスは、左手の自由を失ってしまう。1575年(28歳)、軍を退役した彼は母国スペインへ帰る途中で、トルコの海賊に襲撃され、悲惨なことに奴隷としてアルジェに売られてしまう。4度試みた脱走はことごとく失敗。5年後に家族や友人、慈善団体が大金で身請けしてくれ、ようやく自由になれた。 少年時代から読書好きだったセルバンテスは、帰国後に作家を志し、30代後半で小説、詩、戯曲を書く。それらは殆ど評判にならず彼を失望させた。1585年(38歳)には父親が他界し、彼が家族6人を養わねばならなくなり文筆業を断念。その後、海軍の食料調達係に就職するも、熱心すぎた彼は教会から強引に食料を徴発して投獄された(45歳)。次にアンダルシアで税の徴収吏となったが、50歳の時に計算ミスで投獄され、さらに回収した税金を預けていた銀行が倒産し、その責任を負う形で再び投獄…(ときに55歳)。
不運続きのセルバンテスの人生だったが、獄中生活で新作小説の構想を練り、中世騎士道物語のパロディを思いつく。1605年(58歳)、風刺精神により近代小説の幕開けとなる『才智あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の前編が出版され、10年後に後編が刊行された。
『ドン・キホーテ』…ラ・マンチャに暮らす田舎紳士アロンソ・キハーノは時代遅れの騎士道物語に熱中し、かつて騎士が行なった修業の旅を自らも行なおうとする。彼は騎士ドン・キホーテを名乗り、農夫サンチョ・パンサを従者とし、鎧と武具を身につけ、ガリガリの愛馬ロシナンテに乗って出発する。ドン・キホーテは各地で悪に戦いを挑むが、それは巨人と思い込んだ風車であったり、敵の軍勢に見えた羊の群れであったり、やることなすこと的外れなことばかり。やがてドン・キホーテは騎士道を諦めて故郷で死ぬが、サンチョだけは徐々に主人の理想主義を理解し始めていた。封建主義の理不尽さ、抑圧された庶民、ご都合主義の教会などを、明るいユーモアと強烈なブラックジョークで綴った小説。 この作品は大当たりし、出版からたった2週間でマドリードに3つの海賊版が出回るほどの人気ぶりだった(ただし、セルバンテスは版権を安く売り渡しており、ベストセラーに見合う金銭を得ることは出来なかった)。その後、1613年(66歳)に12本の短編小説で構成された『模範小説集』を書き上げる。さらに3年後(1616年)に寓意小説『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』を完成させ、その3日後にマドリードで波瀾万丈の生涯を閉じた。享年68歳。 『ドン・キホーテ』の英語版は前編が刊行の7年後、後編が5年後に出ている。後に様々な言語に翻訳され、現在は実に約700種類もの版が刊行されている。交響詩やオペラ、バレエ、映画、ミュージカル(ラ・マンチャの男)など、多様なジャンルで『ドン・キホーテ』を題材にした作品が生まれていった。
「もし人類が終末を迎えた後に、未知の知性に遭遇して「お前たちはその歴史上何を成し遂げたのか?」と問われるようなことがあったとしたら、ただこの書物(『ドン・キホーテ』)を差し出しさえすればよい」(ドストエフスキー) |
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トルストイは写真や肖像画がたくさん残っているので時代順に並べてみた。若い頃の彼(左端)はイーサン・ホークばりの美男 |
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晩年はこれでもかというくらい髭モジャに!右端は棺の中のトルストイ。まさに巨星堕つという感じだ |
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モスクワにあるトルストイ像 |
1882年から1901年にかけて、冬期に 住んでいたモスクワの家。現在は博物館 |
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ペテルブルグのロシア文学博物館に展示されてたトルストイの愛用品(ティーカップ、コート、靴、机など) |
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地方へ個人で行くのは大変なので日本語のガイドさんと車を予約。 当日の運転手はハードボイルドなウラジミールさん。スピード狂だった |
ドヒーッ!160キロ! 客を乗 せて走るスピードじゃない! |
車はボルボの3110型。いくら ボルボが頑丈でも怖すぎ! |
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10時半にモスクワを出発。片道5車線の道路を爆走 |
路肩でよく見たスイカ屋さん | 片道3時間半の道のりは、白樺の林と、どこまでも続く広大な農場が交互に続く |
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「オラオラァ」窓も開かない不整備車で 追い抜きまくり。“こ、こ、殺されるーッ!” |
途中でパトカーに…ゴホンゴホン |
田舎道を進むと突然観光客だらけの 場所に出た。午後1時半、目的地に到着! |
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まずは皆で腹ごしらえ。 ボルシチがうまい! |
メインのビーフストロガノフ |
近隣のこの教会にはトルストイの親族やアンナ・カレーニナのモデルと言われる人の墓がある |
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メインゲート。トルストイ・ファンがいっぱい | 広い敷地にトルストイ関連施設が点在 | 門から入り、左に池を眺めながら進んでいく |
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馬やアヒルがそこらにいる | 白樺の並木道は太陽が差すと本当に美しい | トルストイも手入れしていた畑や花壇 |
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夏期にトルストイが住んでいた大きな邸宅。 「トルストイの屋敷博物館」として公開されている |
2階にある客間&食堂のサロン。大テーブルやピアノが置いてある。かつて、この部屋に ツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーリキー、レーピンなどビッグな顔ぶれが集まっていた |
なんと本棚には正岡子規らの 「不如帰」(ホトトギス)があった |
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トルストイ屋敷のガイドは 美人のお姉さん。ハラショー! |
この小さな書斎机から「アンナ・カレーニナ」「戦争と 平和」という文学史に輝く名作が誕生した |
狩猟に使われたトルス トイ愛用の猟銃 |
小柄だったようで寝室の ベッドは随分小さかった |
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トルストイ屋敷からさらに林の奥へ分け入る | 100mほど進むと何かが見えてきた | なんと!この草ボーボーの盛り土がお墓だった! |
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トルストイの墓前には無数の花束が並んでいた! “ヤースナヤ・ポリャーナ”は「森の中の明るい草地」の意 |
「何かしら?」そんな感じで女の子が不思議そうに見ていた |
「ダーッ!素晴らしい作品を有難う ございます!」たまらず土下座! |
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帰途、車の底の方からカラカラと異音が聞こえ始め、160kmで車体は震えているし「何か異変では?」と 点検を提案した。路肩でチェックしたけど問題は見つからず「日本人は心配しすぎだぜ」とウラジミール。 車が多い道でも車間距離ゼロで100kmオーバー。往復の7時間は死兆星が見えていたハズ |
ゴソゴソと片手運転を するので、ハラハラしてたら 飴玉を出してくれた(笑) |
出発から11時間半。午後9時、モスクワに無事 帰還!フーッ、ウラジミールさん、ガイドのヴォン さん、スパシーバ(有難う)!※9時でもまだ明るい |
“長い年月会わずにいた恋人の顔を見ると、最初は別れていた間に生じた外見的な変化に驚かされるものの、やがて少しずつ、何年も前と全く同じにものになっていき、やがて他に二つとない、その人だけの精神的個性の表情だけが浮かび上がってくる”(『復活』) “我々は刑法を活用する前に、囚人を罰する前に、こういう不幸な人間が作られていく環境そのものを絶滅するように努めねばならない”(『復活』) “幸福な家庭はすべて互いに似通っているが、不幸な家庭はその内容が千差万別である”(『アンナ・カレーニナ』) 「教養とは一切のものから快楽を作り出すことだ」(『アンナ・カレーニナ』) 「(不倫を終わらす)解決法は二つしかないんだ。妻を殺すか、あの女を殺す。その他…あ、そうか、第三の道があった。自分を殺すんだ。そう、自殺だ。そうすれば二人を殺す必要もない」(『悪魔』) 世界文学史上の巨星。社会の不平等を批判したモラリストでリアリズム小説の大家。生涯にわたって世界の問題と向き合い、自らの道徳的完成を目指した求道者。家系は名門の地主貴族で、1828年にモスクワ南部の領地ヤースナヤ・ポリャーナに生まれる(四男)。2歳で母を失い、9歳で父と死別し、親戚の元に身を寄せる。モスクワに出てルソーの啓蒙思想に触れた彼は、19歳の時に大学を中退し、領地に戻って農奴の生活を向上させようと奮闘する。しかし、既得権益を持つ地元有力者たちの抵抗にあい、計画はことごとく頓挫する。挫折を経験したトルストイは自暴自棄になり、モスクワに戻ると何一つ仕事をせず、勉強もせず、女性を追いかけ、享楽と荒廃の日々を送る。
1851年(23歳)、自堕落な放蕩生活の中で“このままではダメだ”と思い至った彼は、兄の助言に従い精神を叩き直す為に軍へ入隊する。トルストイは砲兵隊に配属され、クリミア戦争や辺境の異民族との戦いで何度も実戦を体験し、そこで生と死について深く考察するようになる。戦闘の合間にペンをとり始めた彼は、1852年(24歳)に自伝小説『幼年時代』を執筆。続けて2年おきに『少年時代』、『青年時代』を完成させた。内面の葛藤を正直に吐露したこれらの作品は、世間で高い評価を受ける。 1856年(28歳)、ロシアはクリミア戦争で英・仏・伊・トルコの連合軍に敗北。両軍の死者は、連合軍の7万人に対し、ロシア側は無謀な作戦計画の結果、2倍近い13万人にのぼった。トルストイは自らの体験を元に『セバストポリ物語』を執筆。そこでは、最前線の過酷な状況を何も知らない軍上層部が、安全な場所から英雄気取りで命令している愚かさを告発した。また、死と隣り合わせの戦地で神や信仰について思索した彼は、宗教の本当の役割は“死後の幸福”を約束することではなく、生者にこの世の幸福を与えることこそが重要と考えるようになる。 戦争後にペテルブルクで生活していたトルストイは、以前に失敗した農奴の生活改善に再び関心を寄せていく。軍を退役して29歳、33歳と2度ヨーロッパを訪れ、ドイツやフランスの教育環境を視察し、領地(ヤースナヤ・ポリャーナ)の村に学校を建設した。農民教育の重要性を訴えた雑誌も創刊したが、官憲はトルストイを“農奴に同情的すぎる危険思想の持ち主”と見なし、家宅捜索を行ない雑誌を握り潰した。 1862年(34歳)、宮廷医の娘ソフィア(18歳)と結婚し、多くの子宝に恵まれる。幸福で安定した暮らしはトルストイの創作欲を爆発させた。領地を運営する傍らで、1865年(37歳)から大長編小説『戦争と平和』の執筆を開始。世界文学史上の金字塔となるこの一大叙事詩を4年の歳月をかけて書き上げた。トルストイは半世紀前の対ナポレオン戦争を舞台に、559人もの登場人物の目を通して人間讃歌をうたいあげた。1875年(47歳)、『戦争と平和』完成の6年後、新たに近代心理小説の傑作『アンナ・カレーニナ』を書き始め、これを2年で完成させる。描かれたのは人妻でありながら青年将校と恋に落ち、社会道徳との狭間で苦しむアンナの葛藤。トルストイは自己犠牲こそ真の愛と訴えた。 その後、宗教的な迷いを真摯に告白する一方で、教訓的な物語を幾つも書き残し、1899年(71歳)には若い娘を傷つけて良心の呵責に苦しむ青年貴族の魂の再生を描いた最後の長編『復活』を完成させた。1901年(73歳)、第1回のノーベル文学賞の最有力候補として名前があがったことから、賞を授与するスウェーデン・アカデミーに「私に決まったら賞金はロシアで迫害されているキリスト教少数派(ドゥホボル教徒。平和主義で徴兵を忌避した)のカナダ移住費に回して欲しい」と手紙を送った。ところが、選考の最終段階でトルストイの無政府主義的な思想が問題になり、文学賞はフランスの詩人シュリ・プリュドムに与えられた。それまでトルストイは著作権を放棄して金銭を受け取っていなかったが、『復活』では原稿料を受け取り、それをドゥホボル教徒の移住費としてカンパした。 1904年(76歳)に日露戦争が勃発すると、トルストイは6月27日付のロンドン・タイムズに日露両国民に向けた反戦論文『思い直せ!』を発表した--「戦争はまたもや起こった。見よ、一方は一切の殺生を禁じた仏教徒であり、一方は世界の人々の兄弟愛を公言するキリスト教徒であるというのに。今や極めてむごたらしい方法で、互いに傷つけあい、殺戮を重ねようとしている。陸に海に、野獣の如く相手の隙をうかがっているのだ。なんという悪夢なのか」。
ロマノフ王朝の圧政や、自身を含めた支配層の偽善や自己中心主義を厳しく糾弾したトルストイ。彼は“神は教会ではなく心の内にいる”など、腐敗した教会も手加減せず批判したので、ロシア正教会はトルストイを破門した。トルストイは自己の理想に生活を近づける為に、贅沢はせず身の回りの物を必要最小限にきりつめ、財産を全て妻に譲り、菜食主義を貫き、野良着を着て自ら農作業を行ない、長靴も手作りだった。その生きる姿勢と文学は国外でも多くの人々に支持され、様々な人物が田舎のヤースナヤ・ポリャーナまで彼に会うために訪れた。 最晩年のトルストイは、主張してきた人類平等の概念と、(妻に譲った)トルストイ家の巨額の富に矛盾を抱き、“資産を放棄しよう”と妻に訴える。しかし、この決意は猛反対にあい、実行に移せないまま口論の繰り返しになっていく。そして1910年11月の寒い夜、理想と現実の間で引き裂かれそうになったトルストイは心の安らぎを求めて家出をした。部屋にはドストエフスキーの遺作『カラマーゾフの兄弟』が読みかけのまま残された。 既に82歳になっていた彼は3日後に肺炎になり、それから1週間後の11月20日、故郷から200km離れた寂しい田舎駅アスターポボで息絶えた。最後の言葉は「真理を…私は熱愛する…なぜあの人たちは…」。 ヤースナヤ・ポリャーナに戻ったトルストイの棺は、彼を慕う農民たちに担がれた。モスクワから多くの市民が鉄道で葬儀に向かおうとしたが、ロシア政府はトルストイの反逆精神が広がることを恐れて、臨時列車の運行を許さなかった。それでも1万人を超える参列者が集まり、“聖人”に最後の別れをした。 ※トルストイ夫人は夫の死の9年後に同じく肺炎で他界する。彼女は死の間際に、娘に対し夫の家出のことを詫びた。「あの頃の私は自分の心がどうかなっていたの…ごめんね」。
※「少しの無駄もなく、全体の構図も、細部の仕上げも、一点非の打ち所のない作品、それが“アンナ・カレーニナ”だ」(トーマス・マン) ※「トルストイは自分では無政府主義者だと名乗らなかったが、その立場は無政府主義的であった」(クロポトキン)
※トルストイの最後の手紙は若きガンジーに宛てたもの。この頃ガンジーはインド独立運動の前に南アフリカで非暴力闘争をしていた。
「無抵抗と呼ばれている行為は、愛の法則に他なりません。愛は人間の生活の最高にして唯一の法則であり、この事は誰でも心の奥底で感じていることです。私たちは子どもの中にそれを一番明瞭に見出せます。愛の法則はひとたび抵抗という名の元での暴力が認められると、無価値になり、そこには権力という法則だけが存在します。私はこの世の果てと思われるトランスヴァールでの貴方の活動こそ、現在世界で行われている、あらゆる活動の中の最も重要なものと思います」
※今もロシア正教会からのトルストイの破門は取り消されていないという。(参考文献一覧) |
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めっさハンサム!医者であり作家。貴婦人の黄色い声が聞こえてきそう |
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こちらの写真は優しい表情でいかにも人が良さげ(32才) | トルストイとの貴重なツーショット | 44歳の若さで他界 |
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チェーホフの家博物館(モスクワ) | 愛用の鞄や眼鏡を展示 | チャイコフスキーからの手紙 | ピアノはロウソクの燭台付き。夜も弾ける |
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当時のまま保存されている書斎 | 奥に見えるのが寝室 | 博物館の受付さん。眼鏡を外してパチリ |
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こちらはペテルブルグのロシア 文学博物館にあった遺品 |
チェーホフの墓は白壁で家の形をしていた |
鉄柵の外からでも ヒシッとくっつける♪ |
「やがて新しい生活の朝焼けが見え始め、真理が勝利をおさめ、そして我々に運が向いてくるでしょう!僕はそれを待たずにくたばるでしょうが、その代わり誰かのひ孫たちがそれに巡り会うんだ。僕は彼らに心からの挨拶を送って喜ぶ。彼らのために喜ぶ!進め!友人たちに神助あれ!真理ばんざい!」(『6号室』) 「ストア学派(禁欲主義者)は富や生活の便宜に心を惹かれるな、苦しみや死を軽蔑せよと説教したが、大多数の者には何が何だか分からない。だって彼らは一度も富を知らず生活の便宜も知らなかったのだから。それに苦しみを軽蔑すべきだということは、彼らには生活そのものを軽蔑すべきだということになったから、生活を重荷に感じたり、憎んだりは出来ても、軽蔑することは出来ないのだ」(『6号室』) 1860年、ウクライナの商家に生まれる。16歳の時に父が経営する雑貨店が倒産し、一家は夜逃げ同然にモスクワへ移住する。モスクワ大の医学部に進学したチェーホフは、家族を養う為に在学中から新聞、雑誌に多数のユーモア短編を発表した。1884年(24歳)、卒業して医師の資格を得るが、結核を患って体調が安定せず、また発表した短編が好評だったことから、医師の道を進まず文筆業を選んだ。26歳、老作家から“ユーモア短編で才能の無駄遣いをせず、ちゃんと文学作品を書け”と激励され、この言葉に従って長編戯曲を書き始める。翌1887年(27歳)、初の本格的戯曲『イワーノフ』が完成。モスクワの初演は不発だったが、ペテルブルグでは大ヒットし、チェーホフの名も広く知られるようになった。
1890年(30歳)、チェーホフは極東流刑地の実態調査のため、約3ヶ月にわたってサハリンに滞在。5年後にルポルタージュ『サハリン島』を刊行し、過酷な島の様子を“地獄”と告発した。この本は大きな反響を呼び、ついにはロシア政府が待遇改善に動き出す。この取材を通してチェーホフは様々な社会問題に関心を寄せていった。
1895年(35歳)、ロシア知識階級の虚無感を描いた戯曲『かもめ』が完成。翌年の初演は大ゴケだったが、1898年に名演出家スタニスラフスキー率いるモスクワ芸術座が再演すると大ヒット。チェーホフの名声は益々高まった。劇作家チェーホフ&演出家スタニスラフスキーのタッグはその後も続き、1897年(37歳)に『ワーニャ伯父さん』、1901年(41歳)に『三人姉妹』が初演される。チェーホフは『三人姉妹』で次女マーシャを演じた女優と結婚した。 一方、結核は徐々に悪化しており、1898年(38歳)に黒海沿岸の温暖なクリミア半島ヤルタに転地療養する。翌年、『可愛い女』『犬を連れた奥さん』などの短編が書かれた。
1904年(44歳)、代表作となる『桜の園』が初演される。チェーホフが多くの作品で描いたのは、現実を直視せず、過去の栄光にすがる没落貴族の哀愁や、知識階級の現実に対する無力。これらが日常生活を通して淡々と綴られる。事件らしい事件は何も起きず、時間の経過と共に朽ち果てていく人々。孤独の悲しみがセリフを通してではなく、むしろ無意味な会話の長い間(ま)からジワジワと伝わってくる。 チェーホフの結核はさらに酷くなり、『桜の園』上演と同年に治療のため訪れたドイツの保養地で息絶える。享年44歳。最後の言葉は「イッヒ・シュテルベ(私は死ぬ)」。遺骸はロシアに運ばれ、モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。
チェーホフはロシアの文豪の中でもズバ抜けて作品数が多い。短命を意識していたのか、とにかく書き続けた。しかも、そのいずれもがユーモアと緊張感をたたえ、一定レベルの質を保っている希有な作家だ。戯曲も短編小説も、人間の心の動き、内面のドラマを叙情的に記した名品であり、根底には作者の良心と優しさが見て取れる。
僕らはチェーホフが希望と共に祝福(挨拶)を贈った“新しい生活”を生きる人類に、少しずつでも近づいていると信じたい! 「治療するなら病気でなく、病気の原因を直すべきです。病院とか学校とか図書館とか救急箱とかは、現在の体制下では人間の奴隷化に役立つだけです。民衆は大きな鎖でがんじがらめに縛られているのに、あなた方はその鎖を断ち切ろうとせず、新しい鎖の輪を付け加えているに過ぎない」(『中二階のある家』) 「幸福な人間が良い気分でいられるのは、不幸な人々が自己の重荷を黙々と担ってくれているからに過ぎないんだし、この沈黙なしには幸福なんてありえない。これは社会全体の催眠術じゃありませんか」(『ともしび』) 「本当の生活がない以上、幻に生きるほかはない。とにかく、何もないよかましだからね」(『ワーニャ伯父さん』) ※モスクワ芸術座は『かもめ』の上演成功を記念して、かもめの絵をシンボル・マークにした。 |
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チェーホフ博物館の近所の陽気なサンドイッチ屋さん |
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ペテルブルグのロシア文学博物館にあった肖像画、自筆手紙(絵も上手かったようだ)、逝去時の様子など |
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重厚な墓に立派な胸像が載っていた |
ロシアのリアリズム文学の創始者。ウクライナの小貴族の家に生まれ、19歳でペテルブルクの下級官吏となる。文学青年の彼は22歳でウクライナの農村生活を描いた小説を発表し、生き生きとした人物描写とユーモアで脚光を浴びる。1836年(27歳)、官僚社会の愚かさを笑い飛ばした風刺喜劇『検察官』を発表。これは現代に至るまでロシア戯曲の最高傑作と讃えられている。翌年、親交があり敬愛していた10歳年上のプーシキンが決闘で死に衝撃を受ける。 31歳、ゴーゴリは虐げられた者、社会的弱者に人間愛を抱き、彼らの怒れる代弁者として、『外套』では善良な小役人の死を描く。そして、旅先のローマで1842年(33歳)にロシア社会の腐敗を暴いた代表作『死せる魂』第1部を書き上げた。その後、第2部の執筆中に主人公の魂の救済をどう描くかでノイローゼになり(理想のロシアと現実にギャップがありすぎた)、1845年(36歳)に原稿を焼き捨てる。39歳のエルサレム巡礼で前向きになったゴーゴリは執筆を再開、4年後に第2部が完成。ところが1人の神父から内容を酷評されて再び原稿を焼却し、10日間の断食の末にモスクワで悶死した。最後の言葉は「梯子(はしご)を…梯子を…」。 ※この神父はとんだ馬鹿野郎だ!酷評しなければゴーゴリは命を絶たなかったし、そのまま第2部、第3部も出版されていた。天才作家を死に追いやったことを反省すべし! ※ちょっち、同性愛的傾向があった。 |
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モームの外見はマフィアのボス。ドン・モーム! |
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カンタベリーはとても美しい街 |
キングス・スクールのモーム図書館 |
図書館のバラの花壇に 彼の遺灰が撒かれた |
パリ生まれ。10歳で両親を亡くし英国にいる叔父に引き取られた。その後ドイツと英国で医学を学び医師の資格を持つが作家を志す。皮肉屋だったが読みやすいシンプルな文体と語り口の巧さで人気を博した。1915年(41歳)、写実主義小説の傑作でモームの代表作となった自伝的小説『人間の絆』を発表。1919年(45歳)、画家ゴーギャンをモデルに芸術家が一般社会で生きていく苦悩を描いた『月と6ペンス』を完成させる。短編にも優れた作品を多く残し、1921年(47歳)の『葉のそよぎ』には名作『雨』『赤毛』が収められている。最後の30年は作家活動をほとんどやめ、旅行に明け暮れた。享年91歳と長寿だったが同性愛者ゆえ独身だった。 「描かないではいられないんだ。自分でもどうにもならないのだ。水に落ちた人間は、泳ぎが上手かろうと拙かろうと、そんなこと云ってられるか」(『月と6ペンス』) 「だって僕のしたことは全てそうするよりほかなかったのだとすれば、後悔しようにも、しようがないじゃないか?」(『人間の絆』) “人間が求めているものは、明らかに快楽であり、幸福なんぞ求めてやしない”(『人間の絆』) “あらゆる屈辱よ、来らば来れ、むしろそれに直面することによって、いわば運命の手に挑んでいるのだという、一種奇妙な気持を感じていた”(『人間の絆』) 「人生への準備には、もううんざりした。今こそ、生きてみたいんだ」(『人間の絆』) ★モームが選んだ『世界十大小説』 メルヴィル『白鯨』、ヘンリー・フィールディング『トム・ジョウンズ』、ジェーン・オースティン『高慢と偏見』、 スタンダール『赤と黒』、バルザック『ゴリオ爺さん』、チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパーフィールド』、 フロベール『ボヴァリー夫人』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、トルストイ『戦争と平和』 「イギリスで美味しい食事を取るならば3食朝食を食べるべき」(モーム) |
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当時では珍しい女性作家。 ユーモアのセンスも抜群だった |
ジェーンが住み、 そして亡くなった家 |
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壁の金ピカのプレートはただのメモリアル。 手前の太っちょオジサンが見てるのが墓! |
彼女の名が刻まれている だけに勘違いしやすい |
こっちの地味な方が本当の墓 |
“虚栄心と自尊心は別のものだ。人は誇り高くても虚栄心を持たぬことがある。自尊心は自分の自分自身に対する意見の問題だが、虚栄心は他人の自分自身に対する意見と関わりがあるのだ”(『高慢と偏見』)
「君の心の庭に忍耐を植えよ、その草は苦くともその実は甘い」(ジェーン・オースティン) ユーモアとウィットに富み、格調高く文章を綴った天才ストーリーテラーで、当時はまだ珍しい女流作家だった。卓越した人間観察力を持っていた彼女の作品は、心理写実主義の頂点を極め、近世英国文学を代表する作家となった。どの作品も田舎の中流社会の出来事を描いたものばかりで、歴史上の英雄や戦争が出て来たり、都会を舞台にしたものはない。毒舌家のサマセット・モームをして「大きな事件も起きてないのに、ページをめくる手が止まらない」と言わしめた。 1775年、英国南部ハンプシャー生まれ。父親は牧師で、オースティンは8人兄弟の7番目。家族を愛していた彼女は、皆を楽しませたくて子ども時代から小説を書いていた。26歳の時に生涯に一度の恋を体験するが成就せず、翌年に6歳年下の男性から求婚されるが性格が合わず断った。1811年(36歳)、風刺小説『分別と多感』を刊行。そして1813年(38歳)に代表作となる『高慢と偏見』を発表する。物語は5人姉妹の理想の夫探し。「第1印象」だけで“高慢”な男と決めつけていた女主人公の“偏見”が消えていくさまを、細かな日常描写を通して書き上げた圧巻の心理小説。脇役まで含めた全登場人物がまさに目の前で呼吸している。あらゆる個性が詳細に描き出されており、それらは愛を持って風刺され、面白可笑しく綴られている。いずれも20代前半に書き上げており、完成から出版まで15年以上もかかった苦労の末の刊行だった。 オースティンは作品がなかなか出版されないため、失意に打ちのめされ12年間も新作を書かなかったが、刊行後に人気を得たことで気持ちを取り直し(後の英国王ジョージ4世までが彼女の作品の愛読者だった)、1815年(40歳)にこれまた傑作の誉れが高い『エマ』を発表する。こうした作品は全部名前を隠して“BY
A
LADY”(ある女性)の匿名で出版したので、近所の村人さえ彼女が作家であることを知らなかった。
穏やかな人生を送っていたオースティンだったが、『エマ』刊行の翌年に副腎機能が低下するアジソン病に感染。年が明けて療養のためにウィンチェスターに移るが2ヶ月後に他界する。享年41歳という短い生涯だった。1年後、『ノーサンガー僧院』『説得』が刊行される。墓はウィンチェスター大聖堂。 男性の作家には書けない、繊細な女性心理の文字表現。作品の人気は衰えず、死の100年後には未完の作品まで出版。近年でも映画の原作で引っ張りだこ。『分別と多感』は“ある晴れた日に”(アン・リー監督)のタイトルで1995年に公開。『エマ』は5回も映画化され、『高慢と偏見』にいたっては6回も映像化されている。最近ではキーラ・ナイトレイが主演した“プライドと偏見”(2005)が有名。 2003年にBBCが英国人75万人に“最も好きな小説は何か”とアンケートした際、第1位が映画“ロード・オブ・ザ・リング”の原作『指輪物語』(ちょうど完結編が公開中だった)で、そして第2位がジェーン・オースティンの『高慢と偏見』だった!発表から200年後も経つのに、こんなにも愛されている!ちなみに第5位が『ハリー・ポッター』、7位が『くまのプーさん』。映画『ユー・ガット・メール』の中でメグ・ライアンは『高慢と偏見』を200回も読んでいた(笑)。 ※「Jane Austenは写実の泰斗(たいと=権威)なり。平凡にして活躍せる文字を草して技(わざ)神に入る」(夏目漱石)
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青年期から晩年まで肖像が残っている |
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ペテルブルグ中心街から44番のトラムで向かう |
墓地の入口。トラムの停留所からすぐ |
これがロシア語の墓地名なので、 メモってから墓参に行って下さい! |
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都会の中だけど、緑に囲まれた素晴らしい環境 | 墓の上には存在感のあるツルゲーネフ像が立つ |
1818年、中部ロシアのオリョールに生まれる。父は軍人、母は貴族。子どもの頃に母親の領地で貧しい農奴たちが虐待され、過酷な生活を送っているのを目撃。貴族でありながら社会変革の必要性を強く感じるようになる。1843年(25歳)、詩作活動が批評家に認められる。同年、人気オペラ歌手ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドに一目惚れした彼は、彼女が人妻で子どもがいるにも拘わらず、後を追ってパリに居を構えた(その後、晩年までロシアとの往復の日々が続く)。この出国にはツルゲーネフ曰くもうひとつの理由があった。彼は後年次のように回想している--「私は自分の憎むものと同じ空気を呼吸することが出来なかった。それには性格の強さが足りなかったのであろう。私は敵に対してより強い打撃を加えるために、自分の敵から遠ざることが必要であった。その敵とは他ならぬ農奴制度である」。
1852年(34歳)、農奴が貧困の中でも美しい魂を失わずに生きる姿を、温かい視線で描いた処女短編小説集『猟人日記』を刊行。同作は世間から高く評価されたが、作品中で農奴制を批判したことで権力に睨まれ逮捕される。直接の罪状は、彼が書いたゴーゴリへの追悼文が“不穏当”であるとした検閲法違反。ツルゲーネフはペテルブルグ要塞監獄に1ヶ月投獄され、その後も流刑同然に2年間領地から出ることを禁じられた。結果的に彼が自由と引き換え書いた『猟人日記』は、9年後の農奴制廃止(1861)に多大な影響を与えていく。
その後、1860年(42歳)に恋の苦しみを描いた『初恋』を、1862年(44歳)に新旧の世代間の対立を描いた代表作『父と子』を発表し、名文家としてその名を不動のものにする。彼は『父と子』に、古い道徳や世の権威を全て否定した無神論者の医学生バザーロフを登場させ、“ニヒリスト”(信仰や道徳を全て否定する者)という言葉を初めて使用した。 進歩的な思想を持っていたツルゲーネフは、西欧文化の長所を導入してロシア全体の生活を改善すべきと考え、1871年(53歳)以降は本格的にパリに居を定める。1883年、脊髄癌を患いパリ郊外のブージバルで逝去。享年64歳。亡骸はペテルブルグに戻った。 ※二葉亭四迷が『猟人日記』を日本に初めて紹介。
「僕は、こんなに早く死ぬとは思わなかった。これは、正直言って、実に不愉快な偶然だ」(『父と子』) 「僕は毎晩庭のはずれにある菩提樹に逢引にかよった。彼女のその幹を抱くとまるで自分が自然界をことごとく抱きしめ、そして、自然界がそっくり入り込んでくるように思えて、胸がふくらみうっとりしたのです」(『ルージン』) |
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良い笑顔! | ボーヴォワール、サルトル、チェ・ゲバラ!すごい顔ぶれ! | カフェにて |
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サルトルは生涯のパートナー。お墓も一緒 | 晩年の2人 |
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1989 初巡礼! | 2002 名前の部分は横型(五角形) | 2009 名前の部分が縦型になっていた!初巡礼から20年が経ち、墓も変化している |
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(『第二の性』)
小説家で実存主義者。フェミニストとして女性の解放を強く訴え、作品はジェンダー論の先駆けとなった。ソルボンヌ大学で哲学を専攻し、1929年(21歳)、フランスで最難関の教授資格試験に2番で合格。トップをとったのは3歳年上のサルトルだった。2人は急速に親しくなり“契約結婚”を結び、生涯にわたってベスト・パートナーとなる。彼女は自伝に「今まで彼と共に過ごさなかった日々が、まったくの時間の浪費に思えた」と記す。
※サルトルとボーヴォワールの“契約結婚”…互いに他の異性との恋愛も認めるが、どちらかが会いたくなった時は優先的に会うこと。サルトルは様々な女性と噂になったが、他界するまで50年間彼女との約束を守った。 卒業後に2人は教員になるが、1943年(35歳)、ボーヴォワールは処女小説『招かれた女』で成功を掴み、以降は文筆業に集中する。翌々年、サルトルも教壇を降りて思想誌の雑誌編集長となった。ボーヴォワールの代表作は1949年(41歳)に発表した『第二の性』。彼女は社会の中の女性の役割をあらゆる角度から分析し、性差別が構造として存在している実態を指摘。社会が求める“女性らしさ”に束縛されるべきではないと主張した。 その後、1954年(46歳)に刊行した『レ・マンダラン』でゴンクール賞(仏で最も権威のある文学賞)を受賞。1980年(72歳)、サルトルが他界。その6年後に彼女も旅立った。享年78歳。モンパルナス墓地の正門近くで2人は同じ墓に眠っている。 |
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波乱に富んだ人生を送ったロマン派の巨人、ビクトル・ユゴー |
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パリのパンテオンにあるユゴーの棺。パンテオンは国葬、もしくはそれに 準ずる功績を残した者だけが眠ることを許されるフランスの聖地だ |
人道主義の詩人・作家。1802年、仏東部ブザンソンに生まれる。父はナポレオン軍の将軍。少年期から詩作に励み、15歳でフランス学士院から詩が表彰される。1822年(20歳)、処女詩集を出版。続けて小説や詩集、史劇を次々と発表し、それらに魅せられた若い作家・芸術家がユゴーの元に集まり、彼はロマン派の総大将になっていく。一方、権力者への皮肉が含まれた戯曲などは検閲の圧力で上演禁止となった。 ユゴーの名が一般にも広く知られるようになった作品は1831年(29歳)に発表した歴史小説『ノートルダム・ド・パリ』。1843年(41歳)、まだ19歳の長女が事故によりセーヌ川で溺死し、悲嘆に暮れたユゴーは約10年間も新作を発表しなくなる(ただし後述する『レ・ミゼラブル』を1845年から書き始めている)。1851年(49歳)、ナポレオン3世によるクーデタに抗議してベルギーに亡命。4年後に英国領ガーンジー島に渡った。 1862年(60歳)、この島でユゴーの代表作となる長編小説『レ・ミゼラブル』が完成する。誠実な心を持つジャン=パルジャンの生涯を綴った執筆17年に及んだ大作。ユゴーはこれまでも作品を通して社会の腐敗や内政を批判してきたが、『レ・ミゼラブル』でも世の不正義を痛烈に糾弾した。この作品の売れ行きが気になったユゴーは出版社へ「?」とのみ書いた世界一短い手紙を送った。返事もまた短い「!」のみ。『レ・ミゼラブル』は完売続出の大ベストセラーになった。 「ああ、最後の苦難、もっと適切に言えば、唯一の苦難とは愛する者を失うことなのだ」(『レ・ミゼラブル』) 「第一歩は何でもない。困難なのは、最後の一歩だ」(『レ・ミゼラブル』) 1870年(68歳)、ナポレオン3世の第2帝政が崩壊すると、15年間の亡命生活に終止符を打ち祖国に戻る。帰国したユゴーは共和主義のために戦った英雄として上院議員に選出された。彼は政治活動の傍らで執筆を続け、1885年にパリで他界。享年83歳。熱い情熱で理想主義社会を目指し、パリ市民に愛された文豪は国葬となった。遺体は凱旋門の下に安置され、ユゴー本人の遺志で貧困者用の霊柩車で埋葬先のパンテオンに運ばれた。 ※ユゴーは日本で小説家として有名だけど、本国ではフランス最高の「詩人」として認知されている。最大傑作は原始時代から現代まで人類史を歌った壮大な叙事詩『諸世紀の伝説』。 ※ミュージカル『レ・ミゼラブル』は素晴らしい作品。レビューはこちら。 |
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ユゴーは絵も上手かった。これはインクでルクセンブルク・フィアンデンの町並みを描いたもの |
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2002 |
2009 花が増えていた |
イタリア語の墓碑銘には有名な「生きた、書いた、愛した」 実際の順番は「書いた、愛した、生きた」 |
本名マリ=アンリ・ベール。フランス、グルノーブル生まれ。徹底した緻密な心理分析と背景描写により、バルザックと並ぶ近代写実主義小説の先駆者となった。 父は王党派の弁護士。7歳の時に母が他界し、父が原因と思い込み憎む。1800年、17歳の時にナポレオンのイタリア遠征軍に陸軍少尉として参加しミラノの土を踏んだ。彼は明るい陽光のイタリアの風土に心酔し、5歳年上の人妻に夢中になった。23歳から陸軍省の外交官として活躍。 1812年(29歳)、ナポレオンのモスクワ遠征に従軍するも冬将軍に襲われ敗北。その2年後に帝政は崩壊し、失職したスタンダールは愛するミラノに亡命し、芸術論や旅行記などの著述活動を開始する。35歳のときにミラノのマチルダ嬢を熱烈に愛したが失恋する。 1821年(38歳)、イタリア北部を支配するオーストリアから“独立運動派の危険分子”とみなされスタンダールはミラノから追放され、フランスへ帰国する。彼はミラノ時代に数々の手痛い失恋を経験し、その体験を元に1822年(39歳)に『恋愛論』を発表した。この『恋愛論』は10年間で17部しか売れなかった。 1830年(47歳)、七月革命が勃発。自由主義者かつイタリア通のスタンダールはフランス領事に抜擢されてイタリアに赴任し、ローマ近郊(教皇領チヴィタヴェッキア)に駐在する。同年、貧しい青年ジュリアン・ソレルが野心の為に自滅していく長編小説『赤と黒』を発表。 1836年(53歳)、自伝『アンリ・ブリュラールの生涯』を脱稿。この自伝は「おお、1880年の読者たちよ!」と呼びかけており、50年後の未来の読者に向けて書いている。自作を評価しない同時代人を相手にせず。 この年から3年間の休暇をとりパリに戻る。『パルムの僧院』の執筆を開始。 1839年(56歳)、『パルムの僧院』を完成させる。 1842年3月、休暇でフランスに戻った際にパリの街頭で脳卒中を起こし、常宿のホテルへ担ぎ込まれた。翌日(2日後?)の23日に息を引き取る。享年59歳。24日にノートルダム・ドゥ・ラソンプシオン教会で葬儀が執り行われた。 独身ということもあり、埋葬に立ち会ったのは、『カルメン』の作者プロスペル・メリメ(1803-1870)などわずか3人のみ。 墓碑銘に彫られた言葉は「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた、愛した、生きた」。アッリゴ・ベイレは本名アンリ・ベールのイタリア語読み。“ミラノ人”というのも、イタリアをこよなく愛したスタンダールらしい。彼は遺書の中で、「VISSE,SCRISSE,AMO(生きた、書いた、愛した)」と刻むよう願ったが、なぜか「SCRISSE,AMO,VISSE(書いた、愛した、生きた)」に順番が変わってしまった。 時代の反逆児を描いたスタンダールの作品群を、4歳年上のバルザックは高く評価していたが、当時の人々はほとんど注目しなかった。スタンダールは自分の作品を理解できるのは未来の“少数の幸福な読者”と考え、前述したように後世の人間に向けてペンを握っていた。実際、スタンダールの評価が高まったのは半世紀も後(19世紀末)のことだった。 「“パルムの僧院”はこれまでで最も偉大なるフランス小説だ」(アンドレ・ジード/1869-1951) “すべて恋愛は4つに分類される。情熱恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛がそうだ”(『恋愛論』) “久しい以前から、人生が僕には堪え難いものになっていますので、このたび終止符を打つことにしました”(『赤と黒』) “牢獄にいて一番の不幸は、扉にこちらから鍵がかけられないことだ”(『赤と黒』) 「愛は罪かしら」「愛さぬこそ罪だ」(『パルムの僧院』) |
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最期は行き倒れに… |
ポーが眠るボルチモアの教会 |
8時半でまだ門が閉まっていた。 必死こいて隙間から撮影。すると… |
「本当は9時からだけど可哀相 だから開けてやるよ」良い警官! |
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2000 | 2009 | バラの束が供えられていた |
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墓にあったポーの肖像レリーフ |
これは墓地の奥にある移転前の旧墓 |
長詩『大鴉』にちなんでか、本来は不吉と されるカラスが墓に。さすがはポー |
1875年、北ドイツ・リューベックの商家に生まれる。人間の心理を緻密に分析し、芸術家や精神的な葛藤を胸に抱えた主人公を多く描いた。19歳頃から小説を書き始め、1901年(26歳)の『ブデンブローク家の人びと』で文壇に名声を得る。以降、1903年(28歳)に『トニオ・クレーゲル』を、1912年(37歳)に交流のあった作曲家マーラーの死に触発された『ベニスに死す』を発表。1924年(49歳)にはサナトリウムを舞台に人間模様を描いた20世紀文学の金字塔『魔の山』を刊行する。1929年(54歳)、ノーベル文学賞を受賞。ナチスが台頭すると論戦を挑み、1930年(55歳)にベルリンでナチズムの危険性を訴えた講演『理性に訴える』を行った。ヒトラーが政権を掌握するとスイスに亡命してファシズムに抵抗し続けた。後に米国に渡ったが、大戦終結後にスイス・チューリヒ近郊へ戻り、1955年に他界する。享年80歳、葬儀の悼辞はヘルマン・ヘッセが述べた。 “これまでにも長いこと、たちの悪い気違いじみた影響を深刻に及ぼしていた悪魔が、いよいよ権力を掌握してもはや誰はばかることなく公然とその支配権を宣言したといってもいい。その為に神秘的な恐怖を覚え逃げ出したいような気持に襲われるのであった。…この悪魔の名は“鈍感”であった”(『魔の山』) |
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キャラクター造形の天才 | 2002 太陽がポカポカで気持ちよさげ。 | 2009 保存の為に囲いが出来ていた |
1799年、フランスのトゥールに生まれる。文学者として身を立てることを決意し、20代前半にパリで作品を書き始めるが全く注目されず貧困に苦しむ。創作活動に集中するには生活費のゆとりが必要と考えた彼は、26歳から金持ちになる為に印刷業など様々な事業に乗り出すが全て失敗し、逆に3年間で6万フランという巨額の借金を作ってしまう。
しかし彼はへこたれない。1834年(35歳)、バルザックはフランス社会を超リアルな写実主義で描き尽くす構想を実行に移す。自らの小説全作品を「人間喜劇」と呼んで大全集とし、主要人物を他作品にも脇役として登場させる“人物再登場”の手法で書き始めた。濃いコーヒーをがぶ飲みして夜半に十数時間も書き続け、「人間喜劇」は96編という膨大な小説となり、登場人物は2000人にのぼった。この中には、「谷間のゆり」「絶対の探究」「ゴリオ爺さん」「従妹ベット」「従兄弟ポンス」など多くの名作が含まれる。そして、全体の構想の約3分の2を完成させたところで寿命が尽きた。 晩年のバルザックは18年間も文通を続けてきたポーランドの貴族の未亡人と結婚するが、長年の創作活動と暴飲暴食の不摂生でボロボロになっていた為、家庭の安らぎにホッとしたのか結婚の5ヶ月後に他界した。享年51歳。バルザックの膨大な借金は夫人が精算した。
※バルザックは『ゴリオ爺さん』の中でパリをこう書いている→「本物の苦しみと、しばしばニセモノの喜びとに満ち溢れたこの盆地」。 ※名前オノレ・ド・バルザックの「ド」は貴族を気取った自称。 ※「バルザックは確実に天才とよぶにふさわしい人物」(サマセット・モーム) ※親友ヴィクトール・ユゴーが葬儀で述べた弔辞 「彼の人生は短かったが充実していた。生きた日数より作品の数のほうが多かった。ああ、この疲れを知らない力強い書き手、この哲学者、この思想家、この詩人、この天才は、偉大な男たちの天命である波乱と闘いに満ちた生涯を生きたのだ」 |
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パリにはロダンが制作したパジャマのバルザック像があるが、 これは借金取りから逃げる姿と言われている。 |
ドイツの劇作家・演出家。1898年、バイエルン生まれ。20歳で第1次世界大戦に従軍したブレヒトは、身をもって戦争の非人間性を痛感し、反戦平和の思想を強く持つ。1924年(26歳)にベルリン・ドイツ座の座付き劇作家となった彼は、1828年(30歳)、作曲家クルト・ワイルと組んで盗賊団長メッキー・メッサーが活躍する音楽劇『三文オペラ』を発表した。この作品でブレヒトはブルジョワ社会を痛烈に風刺し、徹底的に資本家をこき下ろす。上演は大成功し国外でも大きな話題となった。 “ブルジョア社会は弱者を「苦しめ裸にし襲い絞め食う」ことによってのみ、「ただ悪業によってのみ」生きており、そこでの御大層な道徳は食うもののない人間にとっては何の役にも立たない”(『三文オペラ』) “ブルジョアジーの支配はもっぱら犯罪を土台として生まれ、また絶えず犯罪を生み出している”(『三文オペラ』) ブレヒトはまた「叙事的演劇」と呼ばれる演出法を開拓。これは観客をあえて登場人物に感情移入させず、冷静に人物を観察させることで物語の本質に気付かせるというもの。反ナチスの活動を積極的に行なっていた彼は、1933年(35歳)にヒトラーが首相に就くとデンマークへ亡命する。その直後、ナチスはブレヒトの作品を発禁処分とした。 第2次世界大戦の間は米国で反ナチ運動を展開していたが、戦後に“赤狩り”のターゲットにされ、1947年(49歳)にチューリヒへ脱出。翌々年に東ドイツへ戻って劇団を設立した。1956年心臓発作で他界。享年58歳。 墓は遺言によって哲学者ヘーゲルとフィヒテに対面して作られた。 |
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ジョン・スタインベックの家 | スタインベックの墓への案内板 |
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「ハミルトン」と彫られた墓の前にスタインベック家の墓も並んでいた。墓域には別の「ジョン・スタインベック」がいるので生没年に注意 |
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港町ル・アーブルからバスで1時間。エトレタに到着。ここからキュベルビル村に 行きたいが路線バスがなく、旅行案内所でタクシーを呼んでもらうしかなかった。 ところが、町のタクシーは2台だけ!しかも、両方とも予約が入っていてアウト。 結局、隣町のタクシーを呼んでもらうことに…。「1時間後に来るそうよ」。ひえ〜! |
なんと、エトレタには「アルセーヌ・ルパンの家」があり公開されていた |
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タクシーを待つ間に海岸へ。画家モネが愛した 断崖絶壁や奇岩が待ち構えていた! |
青い海と絶壁の白い壁が 美しいコントラストを作っていた! |
いつかバカンスで訪れて、一日中 ここでゆっくりしたいなぁ (*^v^*) |
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やってきたタクシーはBMW、運転手はグラサンをかけたイケイケのオバサンだった! |
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走ること約15分、「Cuverville」の文字が!さらに 左下の看板は「ジードの墓まで500m」と出てる! |
キュベルビル村の田園風景。天国のような土地! 小麦畑の間を風が吹き抜けていた |
なんて、のどかなんでせう…(涙) |
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村の教会に到着!ここに眠っているはず! | 裏側の墓地の奥にジードはいた!(手前から2番目) | 嗚呼、お会いしたかったです! |
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教会の前は牧場だった! | 牛さんがすぐ側に。ドキドキ | ジードは素晴らしい土地に眠っていた |
1869年、パリ生まれ。若い頃から詩人マラルメのサロンの常連になり、1891年(22歳)、理想主義を描いた処女作を執筆。両親が厳格なプロテスタントであった為、その反動からか1897年(28歳)の『地の糧』で快楽主義を唱えるようになる。 同性愛にも目覚め1902年(33歳)に『背徳者』を執筆。1909年(40歳)に発表した『狭き門』はキリスト教にこだわるあまり自滅していく人間を描いた。1919年(50歳)の『田園交響楽』の中では、牧師によって世界の美しさを説かれて育った盲目の少女が、目が見えるようになった時に現実との矛盾に耐えきれず死を選ぶ姿を描く。 政治的にはヒトラーやスターリンの全体主義を批判し、反ファシズムを貫いた。享年81歳。ジードは死の4年前にノーベル文学賞(1947)を受賞したが、死後にローマ教皇庁は反キリスト的な彼の著作を禁書に認定した。 “人の一生は長い旅行だ。書物や人間や国々を通ってゆく長い旅だ”(ジード) |
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(オマケ)エトレタの移動遊園地で見かけた笑顔の子ども。めっちゃ嬉しそう♪ |
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コネチカット州ハートフォードにあるマーク・トウェインの家 |
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トウェインは今も大人気の国民的作家 | 正面の大きな墓標の左右には小さな墓碑が並び、トウェエインのものもあった |
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ロマン派文学の先駆者 | 『のだめカンタービレ』15巻にお墓が登場! |
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お墓のあるグラン・ペ島は海の上 | だが干潮になると歩いて渡れる!! | イギリス海峡を望むように彼は眠っている |
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何て素晴らしいロケーションの墓所なんだ! |
側の石板「偉大なフランスの作家がここに眠る 波の音、風の音だけを聞くために ここに来る人たちは作家の遺志を尊重してほしい」 |
迷信に支配された暗黒の中世が終わり、1687年にニュートン(1642-1727)が万有引力の法則を記したプリンキピアを刊行、これは科学史上だけでなく思想界にも大きな転換点をもたらした。万有引力の発見は、人間は理性を正しくもちいれば、宇宙の法則=神の法則を解明できるという可能性を示し、知識人は人間理性への強い信頼を抱くようになり、理性、科学、人間性の尊重によって偏見を打破しようとする啓蒙思想が生まれた。その一方、民衆を宗教で縛りつけ、無知のままにしてきたカトリック教会は激しく攻撃された。 そのような空気のなか、18世紀後半にスイス・ジュネーヴ出身のジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)が現れ、人間は文明化された状態より自然・原始状態の方が道徳的に優れているとの信念から「自然へ帰れ」と叫ぶ。彼は文明社会の方が原始社会より不平等がはびこっていることを批判した。ルソーは自由意志の大切さを強調し、個人の権利を情熱的に擁護。彼がとなえる民主主義理論はフランス革命の母胎となった。 ※中世が終わって生まれた啓蒙主義とロマン主義の違いについて。啓蒙主義者は、社会が常によりよき方向に発展し、現在は過去より優れていると考える。一方、ロマン主義者は、過去(特に中世)を高く評価し、近代化された現代は堕落した状態にあると考えた。ロマン主義という用語は、中世の物語を意味するロマンスに由来する。 ルソーと並ぶフランス・ロマン主義の二大先駆者の1人であり、文壇ではロマン主義文学の先駆けとなったフランスの作家・政治家のフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン。彼は1768年9月4日、フランス北西部ブルターニュ半島の港町サン・マロの没落貴族の家に生まれた。十字軍時代からの家系で父は船舶業者。翌年ナポレオン(1769-1821)が生まれ、翌々年にはドイツでベートーヴェンが生まれている。 サン・マロに面した海峡の対岸はイギリスであり、子ども時代のシャトーブリアンは、北方の海の砂と波と海鳥の声を友として育った。 1776年(8歳)、アメリカで独立宣言が採択される。 1777年(9歳)、約40km東南のコムブールの古城に移住する。 1786年(18歳)、少尉として国軍第5歩兵連隊に入隊。 1787年(19歳)、シャトーブリアンの兄が政治家マルゼルブの孫の女性と結婚。 1788年(20歳)、パリに出て文人たちと交流する。兄のツテで宮廷にも出入りした。 1789年(21歳)、1月、ブルターニュ議会に加わる。同年7月、2人の姉とパリ滞在中にフランス大革命が勃発、市民によるバスティーユ牢獄襲撃(革命の始まり)を目撃する。革命によって陸軍少尉の地位を失ったシャトーブリアンは、王党派、革命派の双方から距離を置いた。 1791年(23歳)、4月、未知なる世界を求めてサン・マロからアメリカ大陸に向かう船に乗船。目撃者によると、シャトーブリアンは神話の英雄オデュッセウス(ユリシーズ)に憧れてマストに身体を縛りつけ、波をかぶり、風に打たれながら「おお嵐よ、お前はまだホメロスが書いたほど立派ではない!」と叫んだという。東海岸を旅行、雄大な自然に圧倒される。この新大陸での見聞が、10年後に小説に昇華されていく。同年、モーツァルトが他界。 1792年(24歳)、アメリカ滞在中に「ルイ16世捕縛」の知らせを聞いて衝撃を受け、滞在5カ月で急遽フランスに帰る。帰国後、5歳年下の女性と結婚。そしてドイツに逃れていた亡命貴族がフランス王国軍として蜂起するとこれに加わり、革命軍と各地で戦うなか重傷を負う。 1793年(25歳)、ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑される。シャトーブリアンはイギリス・ロンドンに亡命、以降、7年に及ぶ貧窮生活の中でミルトンなどイギリス文学に触れて刺激を受ける。現地ではフランス語を教えたり、翻訳の仕事を見つけてギリギリ食いつないだ。同年、姉ジュリーが投獄される。 1794年(26歳)、4月22日、兄嫁の祖父マルゼルブがルイ16世を擁護したために処刑され、同日に兄も兄嫁も処刑される。同年、シャトーブリアンの母が投獄される。 1795年(27歳)、幽閉されていたルイ17世が10歳で病死すると、ルイ16世のひとつ下の弟で亡命中のプロバンス伯がルイ18世(1755-1824)を称する。 1797年(29歳)、フランス革命を考察した処女作品『革命論』を出版。 1798年(30歳)、母が釈放後に他界。母の遺言は無信仰のシャトーブリアンにカトリックへの回帰を命ずるものだった。 1799年(31歳)、母の遺志に従いキリスト教に復帰。姉ジュリーが釈放後に他界。 1800年(32歳)、前年に文芸批評誌を刊行したフォンターヌ(1757-1821/後のパリ大学総長)が、シャトーブリアンの文才をナポレオンに強く説き、その結果ナポレオンは亡命貴族軍のリストからシャトーブリアンの名前を消した。この特赦によって7年ぶりにフランスに帰国し、文芸誌の編集者となる。 1801年(33歳)、小説『アタラ』執筆。フランス文学の金字塔となった本作は、アメリカが舞台、主要人物は先住民という、当時の欧州人にとって異国情緒あふれる非常に新鮮なものだった。国内外で熱狂的な喝采をもって同書は迎えられた。 冒頭は現代の人間が読んでも旅情を呼び起こされる文章で始まる。 「フランスはむかし北米に広大な植民地を持っていた。ラブラドル(カナダ東部)からフロリダまで、そして大西洋岸からカナダの奥の湖沼地帯まで広がっていた。四つの大河が同じ山岳地帯から流れ出て、この果てしもない広大な土地を区分していた。(略)ミシシッピー河は一千里以上を流れながら楽園のような大地を潤し、フランス人はこの土地に“ルイジアナ(ルイの土地)”という柔らかな名を残した」 「ミシシッピー河の両岸は世にも珍しい光景である。西岸には見渡す限り大草原が広がり、緑の波は遠ざかるにつれて空の青の中にのぼっていくように見え、そこで消えてしまう。果てしのない草原には3、4千頭の水牛(バッファロー)の群れがあてもなくさ迷っている。時には老いた牛が水を分けて泳ぎ、ミシシッピー河の島にあがって身を横たえ、三日月型の二本の角に飾られた額や、古びた泥まみれのひげを見ると、あなた方はこの野牛のことを、壮大な河の流れや、両岸の豊かさに満足の眼差しを投げている河の神と思いこんでしまうだろう」 --本作は、当時の人々に大きなインパクトを与えた。フランス人青年ルネは情熱と不幸に追い立てられてルイジアナに向かい、ミシシッピー川をさかのぼってナッチェス族を訪れ、自分をこの部族の戦士として受け入れて欲しいと頼む。長老シャクタス(“美しい声”の意)は彼を養子とし、若い頃の生涯最大の恋、18歳で自殺した優しき乙女アタラのことを語り出す。アタラは敵対するインディアンの酋長の娘で、捕縛され処刑寸前のシャクタスを逃がしてくれた生命の恩人だった。アタラは部族を捨て、シャクタスと共に荒野に逃れるが、彼女はどうしても結婚できないという。彼女が生まれるときに、非常に難産であったため、彼女の母親が「もしこの子が無事に産まれたら、生涯処女のままマリア様に捧げます」と誓ったためだ。16歳のときに母が世を去るが、その臨終の床で、母はアタラの手を神父と自分の手で挟み、マリア像の前で「絶対に母を裏切らない」と誓わせた。そしてアタラが約束を破れば、「母の魂は永遠の責め苦の中に突き落とされる、誓いを破れば呪いをかける」と念を押した。シャクタスを深く愛するアタラは、自分の心の弱さを知っているがゆえに毒をあおいで自ら命を断った。 「神様はいまあなたに試練をお与えになっていますが、それはただ、あなたを他の人の不遇に対してもっと同情のある人にするためです。ああシャクタス、人の心は刃物で自分が傷つけられた時でなければ、傷につける樹液を出してくれないあの樹に、本当によく似ています」 「この地上では私たちが一緒におられた間は、本当に短いものでした。けれども、この一生の後には、もっともっと長い命があります。あたしはいま、ただお先に行っているだけで、神様のお国であなたをお待ちしています」 「あたしはこの宗教のお陰で絶望の苦しみにあえぐこともなく、あなたとお別れできるのです」 ※1727年にナッチェス族は支配者フランスの圧政に怒って蜂起し、約600人の仏軍兵士や植民を殺害した。3年後の1730年、その報復として仏軍はナッチェス族を大虐殺し、民族のほぼ全員を殺戮した。 ※シャトーブリアンはアメリカでフランス人の老人フィリップ・ル・コックと出会っている。この人物は若くして新大陸に渡ったフランス人で、インディアンの女性と結婚して部族の一員として一生を送った。噂を聞いたシャトーブリアンはフィリップの小屋を訪ねて2日を過ごし、彼の平穏で満ち足りた暮らしを畏敬の念とともに観察したという。 ※『アタラ』『ルネ』の主要人物が、フランス軍の攻撃で虐殺されたのは衝撃的だった。読み手は、シャクタスやルネに感情を重ね、読書中は彼らが生きているような感覚に包まれている。虐殺を生き残ったルネの孫は語る。「フランス人は仲間の仕返しをするために、あたし達の国の者を大勢殺しました」「洗礼を受けていたシャクタスと、大変不幸せだった祖父のルネは、あの虐殺事件のときに命を落としてしまいました」と語られ、この短い描写に打ちのめされた。帝国主義による侵略戦争が当たり前のように行われていた時代にあって、シャトーブリアンは自国の軍隊がナッチェス族を絶滅させたこと、その酷さを、理不尽さを、すべての読者に知らしめた。 1802年(34歳)、自伝的要素を加えた小説『ルネ』を執筆。自意識過剰な青年ルネの憂うつと絶望が描かれ、若者たちの熱狂的な支持を得た。ルネの優しい姉アメリーのモデルは、シャトーブリアンの姉ルュシル。「ああ弟よ、私がこの世であなたから離れ去ってしまっても、それは未来で永遠にあなたの側から離れないためですよ(アメリー)」。 同年、詩のように美しい文体でキリスト教信仰の復活をうたった主著『キリスト教精髄』を著す。先の「アタラ」「ルネ」は『キリスト教精髄』の一部分であり、先行して発表されたものだった。『キリスト教精髄』において、シャトーブリアンはキリスト教は神がもたらしたものゆえに素晴らしいと説くよりも、むしろ、それが素晴らしいがゆえに神から来のだと訴えた。 美文で感情に訴える『キリスト教精髄』は、文学史における歴史的事件だった。あまりに理性主義に走った18世紀の思想家に対し、19世紀の表現者として感情の力を叩きつけた。ここから近代フランス文学が始まる。 ナポレオンは革命後の混乱期においてキリスト教秩序が統治に役立つと考え、『キリスト教精髄』の社会的貢献を高く評価し、シャトーブリアンをローマ大使館秘書官に任命した。 1804年(36歳)、ナポレオンとシャトーブリアンの蜜月は2年で終わる。この年1月、王党派によるナポレオン暗殺計画(カドゥーダルの陰謀)が発覚し、激怒したナポレオンは見せしめとして3月に亡命貴族軍を率いていた王党派幹部アンギャン公ルイ・アントワーヌ(当時32歳)を逮捕する。アンギャン公は王位継承権を持つブルボン家の分家コンデ家の出身であり、高潔で勇敢な性格から、王の候補として人望を集めていた。アンギャン公は隣国バーデン公国に亡命し、イギリスから密かに資金援助を受けつつ、ナポレオン打倒の機をうかがっていたが、暗殺テロ計画そのものとは無関係だった。だがナポレオンは首謀者の一人と決めつけ、国際法を無視して200人のフランス兵を越境させてバーデンでアンギャン公を拉致し、罪をでっち上げて非公開の軍事裁判で死罪を言い渡し、逮捕からわずか1週間で銃殺刑にした。アンギャン公は他国との戦争ではなく、同じフランス人に殺されることを嘆いた。ブルボン家の御曹司を他国から拉致し、王党派の士気を挫くため冤罪で処刑するという荒っぽさにシャトーブリアンは怒り、またヨーロッパ各国の宮廷もナポレオンを危険視するようになる。 アンギャン公の2カ月後、ナポレオンは皇帝となり10年にわたってフランスを支配する。 1806年(38歳)、シャトーブリアンはアンギャン公処刑からナポレオンに反発し仲違いしていたが、ついに官職を辞す。寵愛してくれたナポレオンは終生の敵となった。その後、初期キリスト教への迫害を扱った作品を書くため翌年にかけてイタリア、ギリシャ、トルコ、パレスチナ(エルサレム)、北アフリカ、スペインと順に巡った。 1809年(41歳)、『殉教者』を脱稿。この頃、回顧録を書き始めている。 1811年(43歳)、『パリからエルサレムの旅』を発表、これによりアカデミー・フランセーズ会員に推されたが、革命批判の演説を試みてナポレオンの不興を買い、王政復古まで会員になれず活動もできなかった。 1814年(46歳)、ナポレオンが失脚し、エルバ島に流される。4月、亡命中も政治的に活発だったルイ18世が王政復古で即位。ルイ18世は貴族院が優位性を持つ両院制を規定した「1814年憲章」を発布、憲章にもとづく立憲王政を開始すると宣言した。 1815年(47歳)、エルバ島を脱出したナポレオンが復位を果たし、ルイ18世はベルギーに亡命。だが、ナポレオンは「ワーテルローの戦い」で大敗し百日天下に終わり、ルイ18世が王に復帰する。シャトーブリアンはブルボン王家を支持し、貴族に列せられ政界へ復帰するが、物怖じせず政策批判を行うためルイ18世に嫌われ、王の弟アルトワ伯(シャルル10世)を支持する過激王党派(ユルトラ)に加わっていく。同年、ナポレオン戦争を終結させたパリ条約(講和条約)が締結され、ナポレオン軍と戦ったイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン4国は、フランスの領土を縮小し、高い賠償金を課し、自国軍を駐留させる厳しい条件を突きつけた。 1820年(52歳)、シャルル10世の次男ベリー公(42歳/1778-1820)がオペラ座から出てきたところを暗殺される。犯人はパリ条約の責任はブルボン家(ルイ18世)にあると考え、血筋を断絶させることを狙った。ベリー公暗殺事件後、シャトーブリアンはルイ18世とよりを戻し、プロイセン大使、イギリス大使を歴任する。 1821年(53歳)、セントヘレナ島に幽閉されたいたナポレオンが他界(51歳)。 1822年(54歳)、外務大臣に就任。スペインの革命にフランスが干渉軍を送ることを決めたヴェローナ会議では全権大使を務める。 1824年(56歳)、9月にルイ18世が他界(68歳)。その後、ルイ16世&18世の弟にあたる正統ブルボン朝最後の王、シャルル10世(1757-1836)がフランス国王に即位する。シャルル10世は過激王党派の指導者。革命の際に被害を受けた城館の損害を亡命貴族に補償する「10億フラン法」を制定させるなど、絶対王政の復活を目指した政策を相次いで打ち出した。前王ルイ18世は貴族や聖職者を優遇する時代錯誤で反動的な政治を行ったが、シャルル10世も同じ道を選び、国民の心は離れていく。 1826年(58歳)、『イタリア紀行』、スペインを舞台にした『アバンセラージュの冒険』発表。 1827年(59歳)、『アメリカ紀行』発表。ベートーヴェンが他界(56歳)。 1828年(60歳)、シャルル10世のもと、シャトーブリアンは教皇庁大使に任命されたが翌年辞任。 1830年(62歳)、議会の多数派が反シャルル勢力(自由主義者)になったため、シャルル10世は5月に議会を解散させ、言論の統制を断行、実業家・医師などの立候補を阻止する選挙制度など「1830年憲章」を発表した。新聞は王に抗議し、7月27日に市民は街頭に怒りのバリケードを築き始めた。翌28日、軍と民衆の間で市街戦が始まり、「七月革命」が勃発。29日、軍の一部が民衆側につきルーブル宮殿が陥落。郊外にいたシャルル10世はギロチンを怖れてイギリスに亡命し、1815年の王政復古で復活した正統ブルボン朝は再び打倒された。民衆は共和制を要求したが、パリ市役所に集まった大銀行家のラフィットら自由主義政治家は、民衆や共和主義者に主導権をとられることを阻止するためパリ市委員会を結成し、31日、“太陽王”ルイ14世の弟の家系となるブルボン・オルレアン家のルイ・フィリップに統治を委ねることを宣言した。そして立憲君主制に移行した「七月王政」が始まった。共和派の反対を押してルイ・フィリップが新王になったことで、民衆革命は3日間しか実現せず「栄光の3日間」と呼ばれる。銀行家の支持で国王についたルイ・フィリップは、富豪のための自由主義的政策を推し進め、「株屋の王」といわれた。 画家ドラクロワは七月革命のパリ市街戦を題材に『民衆を導く自由の女神』を製作。七月革命はヨーロッパ各地で自由主義・民族主義の運動を引き起こし、ショパンの故郷ポーランドではロシア支配から脱するべく革命が起きたが、ロシア軍に鎮圧された。ショパンはロシアに怒り、革命をテーマとした『革命のエチュード』を作曲した。 シャトーブリアンはルイ・フィリップに忠誠を誓わず完全に政界から引退する。以降、新王政を批判しつつ、長大な自伝の執筆に取り掛かる。 1844年(76歳)、最後の小説『ランセの生涯』では、17世紀の貴族社会を退いて修道士となったル・ブチリエ・ド・ランセを描いた。 1846年(78歳)、35年をかけて執筆してきた12巻に及ぶ長大な自伝的回想録『墓の彼方の思い出』を脱稿する。晩年のシャトーブリアンはかなり貧しく、この原稿はまもなく売却されたが、「死後に出版する」という条件をつけた。そのためシャトーブリアンは「墓を抵当に入れた」と語った。タイトルが『墓の彼方の思い出』とあるように、自ら遺稿と位置づけていた。 1847年(79歳)、ヨーロッパでは前年から続く農産物の不作で民衆の生活苦が拡大。農民、労働者のほか、中小企業経営者からも社会改革、選挙制度の改革をもとめる声が強まった。ルイ・フィリップ王は自由主義と立憲王制を採用してはいたが、高額納税者だけに参政権を認め、選挙権は一部にしかなく労働者や農民の不満が溜まっていた。また、産業革命は大きな貧富の格差をもたらし、社会的な対立を引き起こしていた。 1848年、2月、パリの労働者が武装してバリケードを築き「二月革命」が勃発。国王ルイ・フィリップは退位し、18年続いた七月王政が終わる。議会は共和制を宣言して保守派のラマルティーヌを首班とする臨時政府を組織、民衆が第2共和政を実現させた。ルイ・フィリップ王は結果的にフランス最後の国王となり、イギリスに亡命した。オルレアン朝は1代限りだった。ユーグ・カペーから900年余り続いたカペー朝とその支流によるフランスの王制は幕を閉じた。 7月4日、シャトーブリアンはパリで寂しく他界。享年79歳。子どもはいない。亡骸は遺言により故郷サン・マロに運ばれ、半月後の7月19日に葬儀が営まれた。その後、サン・マロ沖のグラン・ペ島に埋葬された シャトーブリアンの死後、12月に大統領選挙が行われてナポレオン1世の甥ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)が選出され、フランスは帝政に向かって行く。 1849年、死の翌年、回想録『墓の彼方の思い出』が出版される。 〔墓巡礼〕 2018年秋、日テレ『笑ってコラえて!』のスタッフと一緒にパリから墓参に向かった。シャトーブリアンが眠るサン・マロ沖のグラン・ペ島は、引き潮のときだけ海の中に道ができ、歩いて渡ることができる全長200mほどの小島。かつては多数の砲台が据えられた海上要塞だった。満潮・干潮の時間を調べると、当日は夕方が引き潮。午後4時に現地に車で到着し、旧市街から徒歩で海岸に向かう。海辺に着くと、まずグラン・ペ島が見え、そしてモーゼの奇跡のように海中から表れた道を人々が歩いている光景が飛び込んできた。「本当に海の中をみんな歩いている!」。噂には聞いていたが、島に向かって一本の“参道”が伸びている様子は感動的なものがあった。1日の限られた時間しか行けない島に、何人ものシャトーブリアン・ファンが渡っている…胸が熱くなった。 道が見えているうちにと急いで渡ったが、200mの小島といっても丘のようになっており、島の入口からは墓が見えない。日没が近く人々が帰ってくるので、「ウ・エ、ラ・トンバ・シャトーブリアン?(シャトーブリアンのお墓はどこですか?)」と片っ端から聞きまくった。丘の上まで登ったが墓らしきものはなく、300mほど隣りのプチ・ベ島に十字架が見え、「ええっ!?あそこにシャトーブリアンの墓があるの!?」と仰天。そっちに続く道は既に水没している。ディレクターさんは「行けないんじゃないですか」と絶句。丘の上に1人のマダムがいたので、僕はプチ・ベ島を指差しながら「あそこにシャトーブリアンの墓があるのですか?」と尋ねた。彼女は「ノン、ノン、そっちよ」と東側を指差した。“何もなさそうだけど…”と東に行くと、死角になっていた場所に十字架が見えた!シャトーブリアンのお墓だ、間違いない!マダムに会っていなければ、腰まで海につかりながらプチ・ベ島に行っていた。感謝を伝え、丘を少し駆け下りると、小さな岬に彼は眠っていた。パリから400km離れており、なかなかここまでは来られない。巡礼できて感無量だ。 彼の墓は第二次世界大戦の戦火で墓石が消失し、後にコンクリートの太い十字架が建った。墓の側の崖には次の銘文を刻んだプレートがはめ込まれている。 『1人の偉大なフランス人作家がここに眠る 海と風の音だけを聞くために 来訪者よ、その最後の意思を尊重してほしい』 僕らの他に誰もおらず、墓前で追悼している間、波の音と風の音しか聴こえなかった。本当に静かだ。「そろそろ帰らないと、道が消えてしまうね」、そんなことをスタッフと話していたそのとき、ハンチング帽を被り、髭を生やした60歳くらいの紳士がやってきて、突然、お墓の前で詩を朗読し始めた!「水だけの国がある 鳥たちが国を横断する 青い、そして巣がない 人生は幸福のクリスタル」と、20世紀の詩人ジョルジュ・シェハデの詩を捧げていた。話を聞くと、パリ在住の方で、ひとりここで眠るシャトーブリアンが現実世界と繋がりを持てるように、時々ここを訪れては彼に話しかけているという。名前はパスカルさん。このブルターニュ地方の生まれだった。氏にとって墓は石ではなく人そのもの、僕と同じだ。氏は優しい笑顔でこう言った。「よく遠くからわざわざお墓参りで来ましたね。ブルターニュ人を代表し、こちらにいらして下さったことを感謝します。あなたの行動はすごく光栄です。ありがとうムッシュー」。思わず泣きそうに。 放送ではカットされたけれど、持参した岩波文庫の『アタラ』をパスカルさんに見せて、表紙にキスしたり、中の文章を見せて「日本の小説は文字が縦書きなんです、シャトーブリアンの文章を縦に読んでいるんですよ!」とかいろいろ伝えたのを覚えている。 墓マイラーはけっして風変わりな趣味ではなく、外国にも普通に墓マイラー仲間がいる。孤独じゃない。ハグをして別れた後、パスカルさんとの素敵な出会いをもたらしてくれたシャトーブリアンにもう一度御礼を言った。「メルシー、アンフィニモン(ありがとう、限りなく)」。 海の向こうはイギリスだ。いつか満月の夜に、一晩中、この小島の墓前で波音を聴きながら過ごしたい。 ※墓参が終わり、大変だったのはその夜。宿のロビーでディレクターさんが何やらこそこそと電話で話していた。耳をそばだてると「今日、めちゃくちゃ良い出会いがあって、もう番組的には十分に成立するから帰国を早めようと思ってる」みたいなことを言っていた!えええーっ!まだロダンやラヴェル、サティの巡礼が残ってるやん!「行こうよ、行こうようっ!」と説得。その後、なんとか無事に巡礼できたものの、放送ではボツに。11箇所を墓参してオンエアされたのは、ジュール・ヴェルヌ、ジョルジュ・サンド、シャトーブリアンの3人だけという…。ですが、ナポレオンやゴッホという超有名人の墓をカットしてでもその3人を残した日テレさんの判断は、完成された番組を見ると英断だった。長ければ良いというものではない。さすがはプロのテレビマン。お蔵入りした映像にいつの日か光が当たることを祈ってます…(笑) ※シャトーブリアンのお墓がこんなに素敵な場所にあると知ったのは、漫画『のだめカンタービレ』15巻を通してだった。作者の二ノ宮知子先生のお陰です!2006年に読んで以来、ずっと墓参したいと思ってて、12年後に笑コラの企画で実現した。 ※シャトーブリアンの肖像画をベルサイユ宮殿国立美術館が所持している。 ※シャトーブリアンはナポレオンをネロに例えた批判を書き、パリから追放されたことがある。僕はその日付が分からず本文に反映できなかった。 ※シャトーブリアンは牛一頭から3〜4%(約4kg)しかとれない希少部位・最高級のヒレ肉(フィレ肉/テンダーロイン)を好み、さらにその中でもたった600gという中央の最も太い部分をこよなく愛した。ここを使ったステーキを料理人に作らせたことから、彼の名を冠するようになり、彼はあまりの美味しさにシャトーブリアンばかり食べたという。脂肪が少なく、肉質に優れたまさに最高級のステーキ。 〔参考資料〕『アタラ/ルネ』(岩波文庫)、『世界文学小辞典』(新潮社)、『シャトーブリアン 世界文学大系25』(筑摩書房)、『世界人物事典』(旺文社) |
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