作家の墓
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★エミリー・ブロンテ/Emily Bronte 1818.7.30-1848.12.19 (イギリス、ハワース 30歳)2005
★シャーロット・ブロンテ/Charlotte Bronte 1816.4.21-1855.3.31 (イギリス、ハワース 38歳)2005

Church of Saint Michael and All Angels, Haworth, West Yorkshire, England
※ちなみにブロンテ姉妹の末っ子アン・ブロンテ(Anne Bronte)は1820.1.17-1849.5.28。享年29歳!







ハワースは急な坂だらけ。駅からハーハー言いながら
町の中心へ向かう。左右に古い町並みが続く
ヒースクリフ(by『嵐が丘』)という
名の住所があった!さすが地元!
町外れの石垣を越えると、ムーアと呼ばれる
荒涼とした広大な原野が視界に広がる


夕暮れの寂しい丘。しかしここを越えると… 紫のヒースが… いたる所に咲き乱れている!

見渡す限り、ヒース!ヒース!ヒース! 右も左も、ヒース!!ヒース!!ヒース!!




「ゴオオーッ!」そして吹き飛ばされそうな突風!まさに『嵐が丘』 やがてすべてが夕闇に包まれていく






翌朝、聖マイケル教会の墓を訪れた

姉妹に関する資料を展示

僕は最初、この柱のメモリ
アルを墓と思い込んでいた
次にこっちを墓と思った(名前刻んでる
し)。これらは全て記念碑で墓じゃない

写真中央の石柱の下に光っているのが墓!
帰り際に教会内部の全景を撮っていて偶然気づいた
コチラ!地下納骨堂のどれが彼女達
のものか、今はもう分からないらしい

「(最高の恋人について)その人といることは、一人でいる時のように自由で、しかも、大勢でいる時のように楽しいの」(シャーロット・ブロンテ)
※小説『ジェーン・エア』から。一緒にいても1人で時間を使っているように束縛されず自由で、しかも2人っきりなのに皆でワイワイ騒いでるように楽しい--同性であろうと異性であろうと、誰かを語る時にこれ以上の誉め言葉はないんじゃなかろうか!「理想の恋人は?」と訊かれて返答に困る人は、この言葉をぜひ。世の恋愛小説は、このたった一行のことを書く為に丸一冊費やしているといっても過言じゃないッス!
※アン・ブロンテの墓所はNorth YorkshireのScarborough,にあるSaint Mary's Churchyardとのこと。

「この全世界がことごとく、あの女の存在したことを思い出させる備忘録だ。恐ろしい備忘録の集積だ」(『嵐が丘』/エミリー・ブロンテ)
『ヒースクリフもヒンドリもキャサリンも“永遠に苦しみ尽きざる”カイン族であり、エドガーやイザベラは“眠り、飲み、食う”アベル族だ』(ボードレール)



★アンドレ・マルロー/Andre Malraux 1901.11.3-1976.11.23 (パリ、パンテオン 75歳)2002
The Pantheon, Paris, France

  

作家、考古学者、美学者、政治家という様々な顔を持つ。パリ生まれ。1923年(22歳)、文化遺産の調査で訪れたインドシナで現地人に共感、フランスからの自治を求める民族独立運動に協力する。32歳で発表した小説『人間の条件』(1933)がゴンクール賞に輝き、国際的な名声を得た。隣国スペインの内乱では反フランコの立場を明確にし、共和政府側の国際義勇軍飛行隊パイロットとして参戦。第2次世界大戦に従軍し、ドイツ軍の捕虜になるも脱走。その後、反ナチスのレジスタンスに身を投じる。1959年(58歳)から10年間、文化相に就任して各国との文化交流に努めた。日本の美術・風土をこよなく愛し、那智の滝(熊野)の美しさを絶賛した。

「切腹とは、死ぬことではない。死を行なうことである」(アンドレ・マルロー)



【 スティーブンソンをたずねて三千里編 】

★ロバート・ルイス・スティーブンソン/Robert Louis Stevenson 1850.11.13-1894.12.3 (サモア、アピア 44歳)2001

Stevenson Family Estate Grounds, Vailima, Samoa

ぬおおっ!あの山の頂上に墓があるのか!?






12月といえば南太平洋サモア諸島は雨期のド真ン中。「なんじゃ、この道はァーッ!」山に入って最初に目に飛び込んだのは、小川と化した山道だった。「ウヘ〜ッ」思わずひるんだのは右写真。確かに橋が谷にかかっているんだけど、板は外れているし、苔で覆われツルッツル!まったく使い物にならず、デス・トラップ状態。仕方なく、滝下の小川にジャブジャブ入っていくことに。冷たかった!

「ギョエ〜ッ!道が無くなっちょる!」小川なら濡れれば済む事だったが、難儀したのが倒木。山道の至る所で巨木が倒れていた。人間が動かせる重さではなく、ある時は乗り越え、ある時は泥んこになって地を這った。中でも最難関だったのが右写真。倒木&土砂崩れで道の向こうが見えない。枝は堅くて折れず、体をクの字にしたり、ヘの字にしながら、ジワジワと時間をかけて突破した。色んな虫に刺されるし、全身擦り傷だらけになるし、もう泣きそう。伸ばした手の先にグッチャリ潰れたカタツムリがいた時は、さすがに帰ろうと思ったよ。

「あ、あ、あれが墓かァーッ!」登り始めて1時間半、突然視界が開け、ついに山頂が見えてきた!

ようやく墓前に。感動の対面だったが最初に出た言葉は「あんさん、なんでこんなケッタイな所に…」。右写真は墓から下界を撮ったもの。分かりにくいが遠方に町や港がうっすら見えている。長き墓マイラー・ライフの中で、肉体的に最も印象深い墓参となった。巡礼というより探検に近いものだったな〜。

ロバート・ルイス・スティーブンソンは1850年11月13日にスコットランドのエディンバラに生まれた。父は灯台の建築技術者。1867年(17歳)からエディンバラ大学で土木工学を学び、ついで法律学を学ぶ。大学では日本人と知り合って約10年前に刑死した吉田松陰(1830-1859)の生き方を知り感動する。子ども代から天性の文学好きで、1874年(24歳)に処女作となるエッセイ『南欧に転地を命ぜられて』を雑誌に発表した。1875年に25歳で弁護士の資格を得たが、やがて真剣にものを書き始める。
スティーブンソンは少年時代から病弱で、若くして結核をわずらっていたため、温暖な気候を求めてよく旅をした。これらの旅の体験が作品に昇華されていった。
1876年(26歳)、ベルギーからフランスまでカヌーで旅行し、3年後にこの体験を『内陸舟行』(1878)にまとめる。フランスでは10歳年上の雑誌ライター、アメリカ女性ファニー・オズボーン(36歳/1840?1914)と友人になった。ファニーは人妻で二児の母だったが、不実な夫と別居中だった。彼女はアメリカに夫を置き、3人の子どもを連れて欧州にきたが、この年に次男を亡くし傷心の中にあった。ファニーには文才があり、ペンで生計を立てており、作家を夢みていたスティーブンソンを励ました。彼女がアメリカに帰国すると、恋に落ちたスティーブンソンも後を追おうとしたが、両親はこれを認めなかった。
1878年(28歳)、南仏のセベンヌ山地を徒歩で旅し、翌年に旅行記『ろばをつれて』(1879)を発表。
1879年(29歳)、渡米のための旅費を貯めたスティーブンソンは、反対する両親や友人たちを押し切って、ファニーの後を追って大西洋を横断した。北米大陸を横断してカリフォルニア・モントレーへたどり着くと、ファニーはスティーブンソンの想いに心を動かされ、夫と正式に離婚した。
1880年(30歳)、ファニーとサンフランシスコで結婚。同年、スティーブンソンは妻子を連れてイギリスに戻り創作に励む。
1881年(31歳)、エッセー『若き人々のために』を出版。この夏、スコットランドで休暇中に、妻の12歳の連れ子ロイドが雨の日の退屈を紛らすため、たくさん書き込みを入れた「宝島の地図」を描き始めた。この地図を楽しげに眺めていたスティーブンソンは、秘密の地図を題材にした冒険物語のアイデアがひらめき、後の『宝島』に繋がっていく。
1882年(32歳)、夏目漱石を心酔させた軽妙な短編小説集『新アラビア夜話』を刊行。同年、吉田松陰の小伝をふくむ文芸批評『人と書物考(わが親しめる人と書物)』、旅行記『平原横断』執筆。
※『新アラビア夜話』…19世紀のロンドンを舞台にボヘミア王子フロリツェルを主人公とした、奇怪な冒険物語「自殺クラブ」、宝石綺談「首長のダイヤモンド」、仏詩人ビヨンの放浪生活に取材した「一夜の宿」などが収められた短編集。ユニークな着想と磨き込まれた文体とが見事に融合し、漱石を感服させた。

1883年(33歳)、スリルとサスペンスに満ちた冒険物語『宝島』を発表、子供たちの心をつかみ、スティーブンソンは一躍有名になる。『宝島』は児童文学の古典となった。同年、カリフォルニアの鉱山キャンプに滞在したときの印象を記録した『シルベラドの反抗者』を執筆。
※『宝島』…児童文学の傑作。海賊キャプテン・キッドの宝の地図を手に入れた少年ジム・ホーキンズの冒険を描く。船を乗っ取った片足の悪党ジョン・シルバーたち海賊を知恵比べで出し抜く物語。児童文学ではあるが、けっこうハードな戦闘シーンが多く、思いのほか人が死ぬ。死の描写は大人の読者に人生を考えさせるものがある。
1884年(34歳)、ウィリアム・ヘンリーとの合作で戯曲『組合長ブロディー、もしくは二重生活』を執筆、ロンドンで初演される。主人公ウィリアム・ブロディーは前世紀に実在したエディンバラの市議会議員で、石工ギルドの組合長。昼は実業家、夜は盗賊という2つの顔を持っており1788年に処刑された。
1885年(35歳)、詩才が発揮された65篇の童謡集『子供のうたの園』を発表、子供向けの最良の詩集のひとつとなった。
1886年(36歳)、二重人格を扱った衝撃的作品、代表作となる中編恐怖小説『ジキル博士とハイド氏(The Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde)』を発表。現代の文壇には自
己分裂をテーマした作品が少なくないが、『ジキル博士とハイド氏』はその先駆けとなる作品。分裂していく自我の描写は、後世の文学だけでなく医学(心理学)にも大きな影響をあたえた。同年、幼いデービッド・バルフォアと誇り高き無法者アラン・ブレックの冒険小説『誘拐されて』を出版。
※『ジキル博士とハイド氏』…人間の中にある善悪の2つの側面を分離する薬を発明した高名な医師ヘンリー・ジキル博士は、自身が実験台となり薬を飲んでは凶悪なエドワード・ハイド氏に変身し、人目をさけて快楽を追い求める。やがて自らの意志にかかわりなく睡眠中に変身してしまうなどハイドが常態化し、ついに殺人を犯すまでに至り、博士は逮捕寸前に死をもって決着をつける。ちなみに初稿は妻ファニーのダメ出しを受け焼き捨てられている。

1887年(37歳)、父が他界し、これを機に妻子とアメリカに移住。エッセー『思い出と肖像』、詩集『下生え』発表。
1888年(38歳)、健康回復を期待して温暖な転地先を探し、サンフランシスコから船で南太平洋に向かい、ハワイ諸島に滞在する。同年、冒険物語『黒い矢』発表。
1889年(39歳)、冒険物語『バラントレー家の世嗣』、そして義理の息子ロイドとの合作小説『違う箱』を発表。
1890年(40歳)、南太平洋の島々の気候が健康のために良いと考え、10月に家族とともにサモア諸島のウポル島に土地を買って移住し、残りの生涯を同地ですごした。スティーブンソンはサモアの島民に世界の様々なことを話して聞かせたため、「ツシタラ(語り部)」として島民から愛された。弁護士出身ということもあり、島の争いを調停するなどの仕事もした。彼はサモアで健康を取り戻していった。同年、詩集『バラッド』を発表。
1893年(43歳)、短編物語『島の夜話』を発表。
1894年12月3日、妻との会話中にワインの栓を抜こうとして脳溢血の発作を起こし、2時間後に他界。享年44歳。倒れる直前まで口述していた小説『ハーミストンのウエア』(未完)が遺稿となった。没後、翌年に友人へ宛てた書簡集『バイリーマ便り』、1896年に『南洋にて』刊行。
他界20年後の1914年、妻ファニーがカリフォルニアで没した。享年73歳。翌年、ファニーの遺灰を娘がサモアに運び、スティーブンソンの隣に埋葬した。そしてファニーのための銘板に、彼女のサモア人の名前Aolele(空飛ぶ雲)が描かれた。
病気療養のため各地を転々としながら詩や小説を執筆したスティーブンソン。その作品は、繊細な感受性、ロマンチックなものへの憧れ、華麗な文体を特色とする。『宝島』のような児童向けの冒険ものだけでなく、様々なジャンルで巧みな文章の腕をみせ、旅行記や自伝作品も好評を博した。スティーブンソンが最後の4年間を過ごしたウポル島の旧邸は、1944年に「ロバート・ルイス・スティーヴンソン博物館」として開館された。

〔墓巡礼〕
スティーブンソンの墓は南太平洋中部のサモア諸島(旧称ナビゲーターズ諸島)にある。位置的には、東にパプアニューギニア、西にタヒチ、南にニュージーランド、北にハワイ、そのすべてから数千キロも離れている。この諸島の東部はアメリカ領サモアで、西部の島々が独立国のサモアとなっている。諸島全体の人口は約20万人、そのうち4分の3以上がサモア独立国の住民だ。サモアの面積は2785km2で神奈川県より少し大きいくらいの国家。住民の大半はポリネシア人やその子孫。1722年にオランダ人が来航し、ドイツの保護領、ニュージーランドの信託統治領を経て1962年に「西サモア」として独立した。1997年、国名を「サモア」に改称。経済の中心はココヤシ、カカオ、バナナ栽培などの熱帯作物農業と観光、漁業。
2001年12月9日、船でサモアの首都、ウポル島のアピア港に入った。スティーブンソンの亡骸は、アピアの街の南側にある「ロバート・ルイス・スティーヴンソン博物館」の裏山、標高472メートルのバエア山の山頂に葬られている。ガイドブックの地図を見ると港からは約4km、「これなら歩いて行ける」と意気揚々と出発した。真っすぐ南に伸びるクロス・アイランド・ロードを1時間歩き、スティーヴンソン博物館に到着。背後の山に墓所に続く登山道がの入口が見えた。博物館のオバサンに「お墓まで何分くらいかかりますか」と聞くと、「普段なら1時間もかからないけれど、今は雨季で道が悪いし、暴風雨で倒木が出ているから行けないかも知れない」とショッキングな言葉。サモアの雨季は11〜4月であり、12月はまさに雨季の真っ只中だった。空には厚い雲が垂れ込めていた。「たどり着けなかったとしても、とにかく行けるところまでは行こう。次にサモアにいつ来られるかわからない」、僕は山に入った。

山道は途中で2手に分かれ『SHORT TRAIL(近道)35分、LONG TRAIL(遠道)45分』とあった。近道は傾斜があったが、行けない角度ではない。いつスコールが来てもおかしくない天気だし、近道に突入した。山の中はところどころが増水して小川になっており、それを飛び越えながら先に進んだ。大雨の後の、むせ返るような植物の匂い。熱帯の密林が左右から迫ってきて緑にのみ込まれそうだった。山道はあちこちで木の枝に行く手を阻まれ、それらを手でどけたり、腰をかがめてくぐり抜けながら進軍。15分後、「ひょえ〜、これが噂の倒木か」と立ちすくんだ。完全に木が道を塞ぎ、向こう側が見えない。人為的に折れた枝は見当たらず、誰かが通った気配はない。引き返すのは時間がかかりすぎるし、遠道の方に倒木がないという保証はない。「この先で、スティーブンソンは寂しがっているに違いない」、そう思うと早く墓前に行きたくて気が急いた。倒木の枝を少しずつ折って人間1人がくぐれるスペースを作り、地面を這って反対側に出た。少し進むと再び同じ様な倒木。何度かこの作業を繰り返して、ついに前方の木々の間から山頂の小さな丘と墓らしきものが見えた。「うおおおおお!」、一気に体が軽くなりラストスパート、家屋の形をした白い墓石にたどり着いた。「ほ、本当に、この南の島の山中に彼の墓があった!」。スティーブンソンの墓はそれまで写真でも見たことがなかったので、墓所に続く山道とわかってはいても、どこか半信半疑の自分がいた。墓石を手で触りながら「夢ではない」と存在を確認、『宝島』『ジキル博士とハイド氏』など故人の作品の感想や感謝を伝えた。スティーヴンソンの墓標には彼の詩の銘板があり「墓にはこう刻んで欲しい 彼、憧れの地に眠る」などが刻まれていた。

「Requiem」
Under the wide and starry sky
Dig the grave and let me lie
Glad did I live and gladly die
And I laid me down with a will

This be the verse you grave for me
Here he lies where he longed to be
Home is the sailor, home from sea
And the hunter home from the hill

「鎮魂歌」
広大な星空の下
墓を掘り私は横たわる
私は喜びと共に生き、喜びと共に死に
ゆったりと身を横たえる

墓にはこう刻んで欲しい
彼、憧れの地に眠る
船乗りは海から故郷を望む
狩人は丘から故郷を望む

墓前からはアピア市街と太平洋が一望できた。晴れていたらさぞかし美しいだろう。「スコールになっても下山できそうだな」。しばし、彼の側で時を過ごす。下山後、改めてスティーヴンソンの旧邸を利用した「ロバート・ルイス・スティーヴンソン博物館」を訪れた。1階は大広間のダイニング、2階が寝室。彼の直筆書簡や愛用の机、タイプライター、ピアノ、食卓、ベッド、死亡証明書など見学した。故郷エディンバラ風の立派な洋風邸宅だ。
「さあ、港に戻ろう。また1時間歩くか」。日本からサモアへの直行便はなく、気軽に来られる場所じゃない。墓参が実現し、言葉に言い表せぬほど幸福感に包まれていたが、豪雨後の山道を上り下りしたこともあり、さすがに足が疲れている。15分ほど歩いたころ、黒い軽トラが横に止まった。家族で乗っており、運転席から父親が「街に戻るんだろ?荷台に乗るか?」と声をかけてくれた。彼は荷台を指差している。逆ヒッチハイクだ!こりゃ助かる!荷台で足を伸ばし、風に吹かれながら島の景色を眺めた。お陰で、ものの5分ほどで街に着いた。御礼を言うと、父親は「サモアを楽しんでくれ」と笑顔、走り去る車から奥さんが手を振ってくれた。なんて良い人たちなんだ!世界各地を旅したスティーブンソンがこの島を永住の地に選んだ気持ちがわかった気がした。
※ネット情報によるとタクシーで街から片道約800円とのこと。



★ラディゲ/Raymond Radiguet 1903.6.18-1923.12.12 (パリ、ペール・ラシェーズ 20歳)2005&09
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France

 
たった20歳で病死してしまったラディゲ

 
2005 2009 オレンジ、ピンク、赤、いろんな色の花が咲いていた

1903年、パリ近郊に生まれる。少年期から大の読書家で、心理小説を熟読し非常に早熟だった。15歳の時に詩才がジャン・コクトーに認められ、文学者との交流が始まる。16歳から処女小説『肉体の悪魔』を書き始め、これを18歳で脱稿。1923年、出版社が派手に宣伝を展開して『肉体の悪魔』を刊行した結果、少年と人妻のロマンスという過激な内容がフランス社会にセンセーションを巻き起こした。
続けて『ドルジェル伯の舞踏会』を書き上げたが、ラディゲは腸チフスに感染し、病床でドルジェル伯の校正をしつつ出版を見ることなく絶命する。わずか20年という短すぎる生涯だった。死の翌年、『ドルジェル伯の舞踏会』が刊行される。コクトーは自分より4歳年下だった親友ラディゲの死に打ちのめされ、悲しみを抱えて10年も阿片に溺れ続けた。

“死が悲しいのは生命と別れることでなくて、生命に意義を与えるものと別れることである。恋愛が我々の生命であるときは、一緒に生きていることと、一緒に死ぬこととの間に、どんな相違があろう?”(『肉体の悪魔』)



★ゴーリキー/Maxim Gorky 1868.3.28-1936.6.18 (ロシア、モスクワ 68歳)2005
Kremlin Wall, Moscow, Russian Federation










ゴーリキー 子どもと一緒に ゴーリキーとトルストイ ゴーリキーとチェーホフ

 
ペテルブルグのロシア文学博物館にあったゴーリキーの愛用品や手紙類

  
赤の広場、クレムリンの壁(レーニン廟の裏)に沿ってゴーリキーの墓がある。墓前にはカメラを持ち込めない為、超望遠で激写!

本名アレクセイ・マクシモビチ・ペシコフ。ペンネームの“ゴーリキー”はロシア語で“つらい、苦しい”の意。5歳の時に父を、9歳で母を失ったゴーリキー。11歳からは、商店勤め、イコン作りの弟子、ヴォルガ川の汽船の皿洗いなど様々な職業に就く。孤独感から19歳で自殺未遂。しかし、その後は作家として大成した。
「信じるんだ。こんなちっぽけな人間でも、やろうとする意志さえあれば、どんなことでもやれるということを」(ゴーリキー)。

・「性格が丸いのは、あんまり世間の荒波にもまれすぎたんで、それで丸くなっちまったのさ」
・「わしはただ、人にいいことをしなかったのは、悪いことをしたと同じだと言ってるだけだよ」
・「自分で自分を尊敬できるような生活、しなきゃならねぇということだ…」〜以上『どん底』から



★モリエール/Moliere 1622.1.15-1673.2.17 (パリ、ペール・ラシェーズ 51歳)1989&05&09
★ラ・フォンティーヌ/La Fontaine 1621.7.8-1695.4.13 (パリ、ペール・ラシェーズ 73歳)1989&05&09
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France

ラ・フォンティーヌ モリエール


1989 2005 2009 2人は大人気!

モリエールは17世紀の劇作家。多くの作品はドタバタ喜劇でありながら、人間心理の奥底をつく見事な描写力で、現在に至るまで世界最高の喜劇作家と賞賛され続けている。大胆不敵な彼は聖職者さえ皮肉の対象にし、国王から5年間の上演禁止処分をくらっている。一方、ラ・フォンティーヌも同時代の寓話作家で、数多くの機知に富んだ文章を残している。墓は両雄が並ぶ何とも壮大な光景だ。



★フローベール/Gustave Flaubert 1821.12.12-1880.5.8 (フランス、ルーアン 58歳)2002
Rouen Cemetery, Rouen, Normandy, France



この墓地は、入口からフローベールの墓まで、丁寧に矢印付きの案内板が出ていた!クーッ、まさに墓地の鏡!全世界の墓マイラーが随喜の涙を流さずにはいられない墓地だ。世の中すべての墓地がここと同じようだったら、どんなに世界は素晴らしいものだろう!



【 メリメをたずねて三千里編 】

★メリメ/Prosper Merimee 1803.9.28-1870.9.23 (フランス、カンヌ 66歳)2004
Cimetiere du Grand Jas de Cannes, Cannes, France
「カルメン」の作者メリメの墓にGO!!

この人に、会いに行く


カンヌ駅前の観光案内所で墓地の場所を尋ねると、路線バスの3番線が墓地の前に停まると教えてくれた。「歩いて行けない事もないが、
山の上なのでバスを使った方が良い」とのことだった。“やったー!今回は楽勝だーッ!”そう思ってバス停にたたずむこと20分。駅前だというのに
他の路線のバスも一台も通らないので不審に思い、通りがかった若者を呼び止めた。彼はバス停にある黄色い貼り紙を指差し「バスは来ない」。
僕が絶句していると、「今はカンヌ映画祭の真っ只中。会期中は路線が変更され、街の中心を通らないんだ」と続けた。ちゅどーん!この貼り紙を
デジカメで撮って、案内所に戻り職員に見せると「すまん、知らなかった。バス停がどこに移動したのか分からない。」…貴様ーッ!観光案内所の
職員だろうがァーッ!街のバス事情くらい把握しとケーッ!と言いたかったが、そんな仏語を知るハズもなく、地図をもらって歩くことにした。




本年は第57回


ここが映画祭の会場だ(駅のすぐ側)。すんげー人ごみ!
自分は映画ファンなので本来なら大興奮だけど、墓巡礼の
妨害になったので愛憎の入り混じった思いで見つめていた。
皆、ひと目スターを見ようと入り口付近に群がって
いる。今年はマイケル・ムーアが来てるハズなの
で、自分も思わずゲートに吸い寄せられていった。
カンヌの招待券は超プレミアチケット。迷った
ふりをして中に入っていこうとしたら、この
オジサンに追い出された。そりゃそうだ(笑)。


スターのブロマイド屋

街のあちこちにあった映画祭の宣伝看板

ブラピのハンサム生写真はいっぱいあったが、
ダンプカーのムーア監督は1枚もなかった…残念。
テロの警戒で、至る所警官だらけ!


ホントに山の上だった。着いた頃は汗だく! 墓地の向こうに地中海が見える
ゲフゥ!もらった地図には細い道が載っておらず、ほとんど役に立たないことが判明。結局、分かれ道に差し掛かる
度に人が通るのを待って尋ねるという、大変な墓巡礼になった。だがしかし、真の試練は到着後に待っていた…!



あまりに広すぎて気が遠くなった 古くて字の読めない墓石も多数
墓地は数万人が眠るケタ外れに広大なものだった!しかも山の斜面にあるので、昇り降りばかりでゼーハーゼーハー。この中からメリメ
の墓を自力で探すのは不可能なので管理人事務所を目指した。しかし、“目指した”といってもこれがチョ〜大変。事務所の場所が分から
ない!平地であれば墓地に入った瞬間に事務所の建物が見えるんだけど、ここは坂道で視界が途切れているうえ、たくさんある樹木が
邪魔になって遠くが見えな〜い!誰かに尋ねようにも人影が見えず、心細さは頂点に。約1時間後、やっとこさ管理人事務所を発見した。

「ウ、ウ、ウソだ…ウソだと言ってくれ〜ッ!」
正午の暑さでフラフラになりつつ、ようやく探し当てた事務所はひと気がない。
ちょうどおばさんが通りかかったので、「あのう…ここって事務所ですよね?
お昼休みなのかな?」「確かに事務所だけど、今日は祝日で閉まってるわ」。
「もうダメ。万策尽きた…」






事務所の手前にある花屋さん
僕が半ば放心状態で途方に暮れていると、
おばさんが手を叩いた。「そうだわ!あそこに
見えるお花屋さんで訊いてみたら!?」
ダーッ!「墓場に仏」とはまさにこのこと!なんとお店の子は管理人の自宅の
電話番号を知っていた!しかも、店には墓地マップと何冊もの埋葬者ファイル
があり、彼女は電話をかけてメリメが載っているファイルを訊き出してくれた!







「このページって言ってたの」 「あったわ!ほら、プロスペール・メリメ!」 「キャーッ!ここ!ここよ!!」

このあたりの… 下り坂道沿いに眠っているハズ…!ドッキン、ドッキン。




「ふぬーっ!ついに発見!」 本のオブジェが作家っぽいゾ!
「歩いている犬は飢死にはしない」(『カルメン』)

メリメは冗談好きな作家で、女装した自分の肖像画を巻頭に飾って、「あるスペインの有名な女優が書いた作品の“翻訳”」といって出版したり、
バルカン地方の民謡集(これも嘘、完全にメリメの創作。真実味を持たせる為にわざわざ注釈まで付けた)を出し、まんまと騙されたプーシキンが
ロシア語に訳すという騒動もあった。そんなメリメだからこそ、文学史上最も自由気ままに生きるキャラ、カルメンを生み出せたのかも知れない。

(メリメは教えられたブロックの一番奥の方にひっそりといた。一輪の花もなく、長い間、巡礼者が来た形跡はなかった…。哀ッ!)

「あ、あ、会えましたーッ!」「よかったわね♪」
謁見に成功したことを報告に行くと、マドモアゼル・セシルは閉店の用意をしていた。なんと、この日の営業は12時半迄だったのだ!自分が
最初に店へ駆け込んだのは正午過ぎ。もしあと30分遅かったら、既にこの店は閉まっていて、間違いなくメリメに会えずじまいだったろう。
間一髪…本当に幸運だった!「終わり良ければすべて良し」墓巡礼ほどこの言葉がよく似合うものはない。メリメよ、いい思い出を有難う。



★ジョセフ・コンラッド/Joseph Conrad 1857.12.3-1924.8.3 (イギリス、カンタベリー 66歳)2005
Canterbury Cemetery, Canterbury, Kent, England



広大な墓地を走り回り、奇跡的に発見した!日没が迫っていて、もうダメかと…!



★ヴァージニア・ウルフ/Virginia Woolf 1882.1.25-1941.3.28 (イギリス、ロッドメル 59歳)2005
Cremated, Ashes scattered, Ashes buried on the grounds of Monks' House, Rodmell, England (のこと?)
本名:Adeline Virginia Stephen




駅で情報収集したかったのに無人駅だった… 牛に道を尋ねろというのか? 民家を発見し荷物を預かってもらう





この川に彼女は入水した。合掌


ロッドメル村は最寄のサウスエース
駅から遠くに見える丘の上だった!

ゼーハーゼーハー。1時間歩いてロッドメル
の看板をついに発見!途中、一度も看板が
なく、道が正しいかどうか超不安だった










この修道院(今はウルフ記念館の
ようだ)の庭に遺灰が撒かれた


ホンゲーッ!開館は水・土の
午後のみ!週に2日だけなんて、
あまりにハードル高すぎだ!
(そしてこの日は日曜日…)
「おや?門が開いてるぞ?」訪れたのはお昼時。
なんと管理人と友人家族がバーベキューをしてた!
「入ってきちゃ困る」という管理人に、「記念館は
入れなくてもいいから、どうか墓参させて下さい!」
管理人「じゃあ10分だけ」。
やった!僕は小躍りして奥へ
案内してもらった
(画像は庭にあったリンゴの木)



どれだけ海外ネットを検索しても発見できなかった
ウルフの墓が、とうとう目の前に!感無量!

「嗚呼、ウルフ様!」
単に遺灰が撒かれただけでは
なく、胸像が載っていた
道を教えてくれた
好青年。優しかった!

村を去る時、いつまでも牛が
見送っていてくれた




★アガサ・クリスティ/Agatha Chiristie 1890.9.15-1976.1.12 (イギリス、チョルシー 85歳)2005
Cholsey Churchyard, Cholsey, Oxfordshire, England

  


「ミステリーの女王」「死の公爵夫人」と呼ばれたイギリスの推理小説家、劇作家。意表を突く巧みなストーリー展開と、ポワロとミス・マープルというユニークな2人の探偵の活躍で知られる。
1890年9月15日、アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ(旧姓ミラー)はイングランド南西部の保養地デヴォンシャーのトーキーに、3人姉弟の末っ子として生まれた。父は実業家。親の教育方針によって正規の学校教育は受けられず、母親から学ぶ。同年代の友人がいないアガサは使用人と遊んだり、庭で空想上の友人と一人遊びをして過ごし、内気な少女に育った。父の書斎で様々な書籍を読みふけり、幅広く知識を得る。「私が物書きを始めたのは学校に行かず家で学んだからです。お話を作り、いろんな役を演じていました。退屈こそ創作の原動力です」。
1901年、11歳のときに父が他界。この頃から詩や短編小説を投稿し始める。インフルエンザにかかったときに読む本がなく、自分で書き始めたことがきっかけ。
1909年、19歳で初の長編小説『砂漠の雪』を書く。
1914年(24歳)に1歳年上の空軍大佐(当時大尉)アーチボルド・クリスティと結婚。7月に第一次世界大戦が勃発し、10月から地元の病院にボランティアの看護師として志願し負傷兵を助けた。この頃から処女作『スタイルズ荘の怪事件』を書き始め、2年後に完成している。
1917年(27歳)、薬剤師の資格を得て、この経験がのちに毒薬を用いた小説に役立つ。
1918年11月、第一次世界大戦が終結。
1919年(29歳)、娘ロザリンド・ヒックスが誕生。娘は85歳まで長寿した。
1920年(30歳)、方々の出版社で断られた『スタイルズ荘の怪事件』がようやく出版され、これが商業デビュー作となる。同作に登場した“灰色の脳細胞をもつ男”=ベルギー人の私立探偵エルキュール・ポワロは、以下33の長編と54の中短編で活躍。クリスティはミステリー作家としてスタートし、パズルとトリックに重点を置いた推理小説を半世紀以上も書き続けた。
彼女は執筆についてこう語っている。「初日はいつも憂鬱です。椅子に座って既にある物語に取り掛かります。あらすじは書きためてあります。あとはただ書けば良いのです」(創作ノート73冊が現存)。
1924年(34歳)、 『茶色の服の男』で初めてまとまった収入を得、ロンドン近郊の田園都市サニングデールに家を買い「スタイルズ荘」と命名。
1926年(36歳)、意外すぎる犯人に読者が驚嘆した傑作『アクロイド殺害事件』を刊行、クリスティはこの作品によってベストセラー作家の仲間入りを果たし推理作家の地歩を固めた。一方、私生活では4月に最愛の母が他界。さらに夫アーチボルドから「好きな人ができたので離婚してほしい」と告げられ衝撃を受ける。そしてクリスティは同年暮れに有名な失踪事件を起こす。12月3日、夫の浮気を知ったクリスティは、自宅から忽然と姿を消し、自分の車を沼のほとりで発見させた。夫は妻殺しの容疑をかけられ世間は謎の失踪事件に騒然となる。彼女はイギリス北部の保養地ハロゲートのホテル(現オールド・スワン・ホテル)に夫の愛人ナンシー・ニールの名字を使い“テレサ・ニール”の名で宿泊しているところを11日後に発見された。
※失踪の原因は“夫の愛を取り戻したかった”説、“夫を懲らしめたかった”説、“世間の反応を知りたかった”説など諸説あるが、『アガサ・クリスティ自伝下巻』では“記憶喪失症によるものと診断された”と書かれているとのこと。

1927年、スタイルズ荘を売却する。
1928年(38歳)、失踪事件の2年後にアーチボルドと離婚、元夫は愛人と再婚する。彼女はその後もアガサ・クリスティの名で書き続けた。
1929年、長兄が49歳で他界。
1930年(40歳)、クリスティは母、兄の死と離婚のショックを振り切るため世界中を旅した。そして中東を旅行中に、14歳年下のイギリスの有名な考古学者マックス・マローワン(1904-1978/当時26歳)と出会い、同年9月に結婚。「とても幸せでした。私たちはすぐに打ち解けて、一番の親友になりました。2人で語り合う前から、互いに理解し合っていると感じました」。以来、夫とともに毎年イラクとシリアへの旅にでかけ、クリスティが撮影したムービーが現存する。クリスティは旅行で視野が広がり、精神的にも回復し、思考停止の状態から目覚めた。彼女の名作推理小説は長旅から生まれた。「あのとき私は作家になったのだ」。
旅を素材にした作品として、1934年(44歳)の『オリエント急行殺人事件』(クリスティは1931年にイスタンブール発のオリエント急行に乗り、大雪で2日間立ち往生している)、1936年(46歳)の『メソポタミア殺人事件』、1937年(47歳)の『ナイルに死す』(1933年に夫とエジプト旅行に行き、乗船したナイル川クルーズ船に触発された)、1938年(48歳)の『死との約束』がある。
また、イギリスの田舎の小村に住む老女ミス・マープルが素人探偵として活躍する『牧師館の殺人』を発表し、こちらもポワロ・シリーズと並んで人気を博す。ミス・マープルは人間の性格に目をつけて推理することを得意とした。12の長編と20の短編に登場し人気を集めた。
※クリスティはなぜ彼と再婚したか問われて「だって考古学者なら、古いものほど価値を見出してくれるから」と答えたという。
1936年(46歳)、『ABC殺人事件』を発表。
1938年(48歳)、グリーンウェイの別荘を購入。以後、毎夏の休暇を過ごす。
「グリーンウェイはなんと美しいことか。静かな生活を取り戻し、家族と過ごせることに感謝しています」
「私は世間の目にさらされて非常に辛い思いをしました。できるだけ静かに過ごしたかったのです」。
1939年(49歳)、夏に英南部バー島を舞台のモデルにした最高傑作『そして誰もいなくなった』を発表。9月に第二次世界大戦が勃発。
「戦争中に年月の経過の実感はなく、悪夢を見ているようでした。現実世界が停止し、悪夢が広がったのです」
「戦争中の作品を振り返って見たら、信じられないほどたくさん書いていました、当時、自分は空襲で命を落とすだろうと思っていたのです」
1941年(51歳)、『白昼の悪魔』を発表。モダンな白い船のようなマンションに引っ越し。
1943年(53歳)、ポワロ・シリーズ最終作『カーテン』、ミス・マープルシリーズ最終作『スリーピング・マーダー』を執筆し、死後出版の契約を結ぶ。マープルシリーズ『動く指』を執筆。孫マシュー・プリチャードが誕生。
1944年(54歳)、マープルシリーズ『ゼロ時間へ』を発表。
1950年、姉マーガレットが71歳で他界。
1952年(62歳)、11月25日に書き下ろしの戯曲『ねずみとり』がロンドンで上演され空前のヒットとなり、現在に至るまで世界最長のロングラン公演が続いている。
1953年(63歳)、『葬儀を終えて』を発表。戯曲『検察側の証人』も大成功し、後日ニューヨーク演劇評論家サークル賞を受賞。
1956年、大英勲章第3位(CBE)叙勲。
1962年(72歳)、マープルシリーズ『鏡は横にひび割れて』を発表。晩年になっても衰えないアイデアと筆力で新作を発表し続けた。
1971年(81歳)、大英勲章第2位 (DBE) に叙されデイム(男のナイトに相当する勲位)の称号を受ける。
1973年(83歳)に最後に書いたミステリー作品『運命の裏木戸』を発表。
1975年(85歳)、没後の公開を定めていた、ポワロが世を去る『カーテン/ポワロ最後の事件』の発表を許可。1920年のポワロのデビュー作から55年が経っていた。
1976年1月12日、高齢で風邪をこじらせ、静養先オックスフォードシャーのウォリングフォードの自宅にて85歳で永眠。墓所はチョルシーのセント・メアリ教会。10月に『スリーピング・マーダー』が刊行され、翌年『自伝』が刊行された。
「太陽と風と温かい朝食とコーヒーの香り、そういうものを楽しんでいると死にたいとは思えません。でもこの年になると、あの世があるなら行ってもよいかとも思うのです」
2009年、創作ノート『アガサ・クリスティの秘密ノート(上・下)』公刊。

1920年のデビューから85歳で亡くなるまで長編小説66作、中短編を156作、戯曲15作、推理小説のほかにメアリ・ウェストマコット名義のロマンチック小説6作、アガサ・クリスティ・マローワン名義の作品2作、その他3作を執筆した。1年間に3〜4冊を刊行するなどケタ外れの執筆量であり、しかも各作品ごとに独創性や新鮮さを維持した。
作品の特徴は卓抜した着想と展開、殺人のトリックが奇抜にも関わらず無理がないこと、人間の性格からくる葛藤が巧みに導入されている点など。旅から得た様々な知識が背景描写に使われて臨場感もある。
クリスティ作品は2009年までに世界103カ国で翻訳出版され、推定4億冊を売りあげており、これは聖書、シェークスピアに次ぐ数字という説もある。ユネスコの文化統計年鑑(1993年)では「最高頻度で翻訳された著者」のトップに位置。ギネスブックは「史上最高のベストセラー作家」に認定している。作品の多くは映画やテレビドラマになり、エルキュール・ポワロやミス・マープルが活躍した。

※エルキュール・ポワロ(架空の人物)…1865年ごろ、ベルギーの貧困家庭に生まれる。身長163cm、体重50kgと小柄。大変おしゃれで、口ひげはろうでかためてピンとはねあげている。首都ブリュッセルの市警本部に定年まで勤続。第1次世界大戦で足を負傷し避難民として渡英し、滞在先のスタイルズ荘で女主人毒殺事件に遭遇、ロンドン警視庁に協力して解決する。これが転機となりロンドンで私立探偵事務所を開設し、1930年代以後はホワイト・ヘブン・マンション203号室に召使いジョージと暮らし、1975年の「カーテン」で世を去った。生涯独身。会話から人物の思考傾向・行動傾向を探り、つねに整理整頓を心がけ、秩序と対称性を偏愛し四角が大好き。エルキュールの名はギリシャ神話の英雄ヘラクレスのフランス語読み。

〔墓巡礼〕
アガサ・クリスティの名はとても有名なのに、片田舎チョルシーには“アガサ記念館”も彼女を讃える石碑も何もない。「ホントにこんな土地にお墓があるの?」と、実際に自分の目で見るまで信じられなかった。でも、それこそが、平穏で静かな生活を望んだアガサの求めていたものかも。教会の裏手、壁際に傾いた彼女の墓石がポツンとある。

〔参考〕『アガサ・クリスティの世界』(2019/イギリス knickerbockerglory制作)ほか。







★プルースト/Marcel Proust 1871.7.10-1922.11.18 (パリ、ペール・ラシェーズ 51歳)2002&09
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France




美食家でもあった 2002 スタイリッシュな墓 2009 花が表面に反射して美しかった

大長編『失われた時を求めて』の作者。「紅茶とマドレーヌ」をお供えするのを忘れた。不覚!
本名バランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルースト。

プルーストは職に就かず報われない恋に生きたゲイだ。20年かけて1作書いただけ。でも今ではシェイクスピア以来の大作家だ。彼は人生を振り返り苦しんだ月日こそ自分を形成した最良の日々だと悟る。幸せな月日はムダに過ぎて何も学ばない。(映画『リトル・ミス・サンシャイン』から)



★ジェームズ・ジョイス/James Joyce 1882.2.2-1941.1.13 (スイス、チューリヒ 58歳)2002

Fluntern Cemetery, Zurich (Fluntern), Switzerland

  

ジョイスはアイルランド人だが、墓はスイス。墓の側で本人の彫像が物憂げに腰掛けていた。



★マルグリット・デュラス/Marguerite Duras 1914.4.4-1996.3.3 (パリ、モンパルナス 81歳)2002&09
Cimetiere de Montparnasse, Paris, France





前面に“MD”のイニシャル(2002) 7年後。あれ?以前は白かった気が… MDも判別し辛くなっていた

多くの男性にとって戦慄の書『ラ・マン』の作者。傷口に塩を擦り込むようなあの作品はトラウマになる…。



★ダニエル・デフォー/Daniel Defoe 1661-1731.4.26 (イギリス、ロンドン 70歳)2002
Bunhill Fields Cemetery, London, England
※没年は1731.4.21、4.24説もアリ

ロンドン中心部の非常に古い墓地だ

『ロビンソン・クルーソー』の作者。デフォーはただの冒険作家ではない。社会批判の論文をいくつも発表し、43才の時には宗教者(英国国教会)の非寛容を風刺した『非国教徒処理の近道』が権力の怒りを買い、扇動罪によって3日間さらし首にされた後投獄されている。あの時代に教会に反旗をひるがえすとは、たいしたもんだよ!

“人生の不幸は人類の上層と下層に最も多い”(『ロビンソン・クルーソー』)
“我々が感じる不満の全ては、我々が持っているものに対して感謝の念を抱くことがないことから生じている”(『ロビンソン・クルーソー』)




★ディケンズ/Charles Dickens 1812.2.7-1870.6.9 (イギリス、ロンドン 58歳)2002
Westminster Abbey, London, England

 

『クリスマス・キャロル』『二都物語』『大いなる遺産』『オリバー・ツイスト』など人気作は数知れず。作品を通して社会改革を訴えた。



★モーパッサン/Maupassant 1850.8.5-1893.7.6 (パリ、モンパルナス 42歳)1989&09
Cimetiere de Montparnasse, Paris, France

1989 発見に時間がかかった 2009 実に20年ぶりの再訪!

モンパルナス墓地には多くの文人、芸術家が密集して眠っているが、
なぜか彼だけが道路を隔てた“離れ”の墓地に眠っていた。

「(美しい月を見て)あれだ。それなのに俺たちは愚にもつかぬことに腹を立てている」(『ピエールとジャン』)




★ゾラ/Emile Zola 1840.4.2-1902.9.29 (パリ、パンテオン 62歳)2002
The Pantheon, Paris, France



書き手の主観を排除した自然主義文学の創始者。自らナチュラリズム(自然主義)という言葉を生み出した。リアリズムを重んじた結果、作中の登場人物にあまりに救いがなく、僕はそんなに好きではない。新聞を読めば社会に悲惨はごろごろしており、わざわざ小説として読む意味がないと思った。だが、熱い正義感を持った文学界の巨星であることは確かだ。マネたち印象派の画家を真っ先に評価したのも彼であり、セザンヌとも深い親交があった。
※最初の埋葬場所はモンマルトル墓地。



★カポーティ/Truman Garcia Capote 1924.9.30-1984.8.25 (ロス、ハリウッド 59歳)2000&09
Westwood Memorial Park, Los Angeles, Los Angeles County, California, USA

2000 セレブの墓地に眠る 2009 下から2段目が彼

クールな文体で戦後アメリカ文壇の寵児となったカポーティ。代表作は犯罪ルポルタージュ『冷血』。カポーティは「冷血」を書き上げた後は、何を書いても完成させることが出来なかった。小説家としての想像力が事実(ノンフィクション)に負け、ペンが動かなくなったのだろう。作家としては「冷血」の成功は不幸だったのかも知れない。



★ジョージ・オーウェル/George Orwell 1903.6.25-1950.1.21 (イギリス、サットン・コートニー 46歳)2005
All Saints Churchyard, Sutton Courtenay, Oxfordshire, England
本名:エリック・アーサー・ブレア(Eric Arthur Blair Orwell)

Appleford駅から往復約2時間歩いた

すぐ近所にある原発を眺めつつね

ダンプのおじさんは墓地を知らず、僕の
代わりに民家に聞きに行ってくれた!

 
ついに謁見!墓石には本名のエリック・アーサー・ブレアとしか彫られてないうえ、バラが育って墓を隠している
ので、かなり難易度の高い巡礼だった(駅からも遠いし)。「ジョージ・オーウェル」の名は完全に封印されていた。

彼はインド、ベンガル出身の英国人。人が人を支配することに強く反対し、欧米列強の植民地支配や全体主義社会を
徹底して批判した。政治的良心をペン先から刻んだ代表作は、『動物農場』『カタロニア讃歌』『1984年』。




★イプセン/Henrik Johan Ibsen 1828.3.20-1906.5.23 (ノルウェー、オスロ 78歳)1994
Cemetery of Our Saviour, Oslo, Oslo, Norway

ノルウェーの国民的作家なので、さすがに墓も大きい

個性重視の近代演劇の生みの親、イプセン。彼はそれまでのロマンチックなだけの演劇ではなくリアルな作品を目指した。『人形の家』では
保守的なダンナに“うちの小リスちゃん”“かわいいヒバリ”と呼ばれていた妻ノラがブチ切れる--「私は何よりもまず人間よ!」。




★D.H.ロレンス/David Herbert Lawrence 1885.9.11-1930.3.2 (USA、ニューメキシコ州 44歳)2002&09
D.H.Lawrence Ranch, San Cristobal, Taos County, New Mexico, USA

 

なんとロレンスの遺灰は祭壇のセメントに溶け込んでいる!(2009)

こちらはウエストミンスター
寺院(ロンドン)の記念碑(2002)



★大デュマ/Alexandre Dumas pere 1802.7.24-1870.12.5 (パリ、パンテオン 68歳)2002
The Pantheon, Paris, France



『三銃士』『モンテクリスト伯』などを通して国民的作家となった。名前はアレクサンドル・デュマだが
子どもも同じ名前を名乗ったので、混乱を避ける為に「大デュマ(デュマ・ペール)」と呼ばれている。




★マーガレット・ミッチェル/Margaret Mitchell 1900.11.8-1949.8.16 (USA、アトランタ 48歳)2000&09
Oakland Cemetery, Atlanta, Fulton County, Georgia, USA

 




1896年からあるアトランタの古い墓地 2000 墓地には彼女の墓まで案内板がある 2009 ミッチェル家の墓域全景

 


9年前に墓参した時は気付かなかったけど、墓の正面にはマーガレットの名前がなく、
墓石の裏側に彼女の名と生没年が彫られていた(右写真の庭師さんが教えて下さった)
仕事の手を止めて案内して
下さった優しい庭師さん

『風と共に去りぬ』の著者。保守的な南部で女性が作家になることは周囲の反発をうみ、
執筆活動は苦労をともなった。40代で自動車事故のために世を去った。




★ナボコフ/Vladimir Vladimirovich Nabokov 1899.4.23-1977.7.2 (スイス、クララン 78歳)2005
Cimitiere de Clarens, Clarens, Vaud, Switzerland



映画化もされた『ロリータ』の作者。



★サミュエル・ベケット/Samuel Beckett 1906.4.13-1989.12.22 (フランス、モンパルナス 83歳)2002&09
Cimetiere de Montparnasse, Paris, France

2002 2009

現代演劇の金字塔『ゴドーを待ちながら』の作者。

「挑戦しては失敗する。それでもまた挑戦しよう。今度はもっと上手に失敗するように」(ベケット)




★小デュマ/Alexandre Dumas fils 1824.7.27-1895.11.27 (パリ、モンマルトル 71歳)2002
Cimitiere de Montmartre, Paris, France Plot: Division 21



フランスの小説家・劇作家。大デュマの子。世相を見つめた問題劇のジャンルを開拓。小説「椿姫」、戯曲「金銭問題」「私生児」など。
棺の上にデュマ本人の彫像が横たわっていてびっくりした。肖像彫刻付きの墓は、英国やフランスなどの王族の墓でしか見たことない。




★ジョージ・エリオット/George Eliot 1819.11.22-1880.12.22 (イギリス、ロンドン郊外 61歳)1989
Highgate Cemetery (East), Highgate, London, England
本名:Mary Ann Evans



ジョージと名乗っているが実は女流作家で本名はメアリー・アン・エバンス。19世紀の
英国社会は、女性がペンを持つことを良しとしなかったので、彼女は男性名で執筆していた。




★ハーディ/Thomas Hardy 1840.6.2-1928.1.11 (イギリス、ロンドン 87歳)2002
Westminster Abbey, London, England [body minus heart]



『テス』はナスターシャ・キンスキーの主演で映画化された。ウエストミンスターにはハーディの身体が納められたが、
心臓だけはDorsetのStinsfordのSaint Michael's Churchに埋葬されている。




★ストリンドベリ/Johan August Strindberg 1849.1.22-1912.5.14 (スウェーデン、ストックホルム 63歳)2005
Norra begravningsplatsen (Northern Cemetery), Stockholm, Stockholms Lan, Sweden

 

黒い十字架は初めて見た!



★キップリング/Kipling 1865.12.30-1936.1.18 (イギリス、ロンドン 70歳)2005
Westminster Abbey, London, England



『ジャングル・ブック』の作者。英国初のノーベル賞作家でもある。遺灰はロンドン郊外の
有名なゴールダーズグリーン火葬場からウエストミンスター寺院へ移された。




★ドーデ/Alphonse Daudet 1840.5.13-1897.12.16 (パリ、ペール・ラシェーズ 57歳)2005
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France



代表作『アルルの女』。



★ブラム・ストーカー/Bram Stoker 1847.11.8-1912.4.20 (イギリス、ロンドン郊外 65歳)2002
Golders Green Crematorium, London, England



本名エイブラハム・ストーカー(Abraham Stoker)。『ドラキュラ』の作者!



★カレル・チャペク/Karel Capek 1890.1.9-1938.12.25 (チェコ、プラハ 48歳)2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic



「ロボット」という名の生みの親。語源はチェコ語で“労働”を意味する単語robota 。反ヒトラーSF『山椒魚戦争』。
他界4カ月後、ドイツ軍はプラハを占領。チャペクの死を知らないゲシュタポが自邸に踏み込んだ。




★マルキ・ド・サド/Marquis de Sade 1740.6.2-1814.12.2 (パリ、シャレントン 73歳)2009

Buried in Charenton, France

サド侯爵は名前がサディズムの語源に


サドはこのシャレントンのどこかに埋葬されたと伝えられている ちょうど日没になり墓地がオレンジに染まった
メトロのPorte de Charenton(シャレントン・ル・ポン)駅を上がると、複数の墓地が集まっている。いつか墓所が特定されることを願っている。

「哲学の勝利とは、あの運命という妙ちきりんな気まぐれ者の犠牲者にならない為の予防策を教えることだ」(『美徳の不幸』)

「いったい神が秩序を愛し、美徳を愛する者であると誰が証明できる?神は絶えず不正と無秩序の手本を示してきた。表面いかにも美徳を熱愛しているように見せかけておいて、その実、神は人間に戦争とペストと飢饉とを送り、どこから見ても欠点だらけな一個の世界を創ったんだ。神自身悪徳によってしか行動しないのに、どうして悪徳の持ち主である人間が神に嫌われるといえるのか。それに我々を悪に引きずり込む衝動は神の手から授かったものではないか。神が無益なものを我々に与えるはずがないではないか!」(『美徳の不幸』)

神に対するサドの怒りと失望は凄まじい。彼はそれだけ優しい人間だったのだと思う。善人が貧乏くじを引く残酷な社会が許せなかったんだ。



★シドニー=ガブリエル・コレット/Sidonie-Gabrielle Colette 1873.1.28-1954.8.3 (パリ、ペール・ラシェーズ 81歳)2009&15

奔放な女性作家

 
フランスで最も有名な墓地のメインゲートに近い場所に眠っている(2009) 朝一番に巡礼(2015)

成功した女性作家の1人。バイセクシュアルであることを隠さず、“性の解放”を訴えた。代表作『ジジ』の
ブロードウェイ版オーディションでオードリー・ヘップバーンを抜擢したのは彼女。小説『青い麦』の作者。




★レイモンド・チャンドラー/Raymond Thornton Chandler 1888.7.23-1959.3.26 (USA、カリフォルニア州サンディエゴ 70歳)2009
Mount Hope Cemetery, San Diego, San Diego County,California, USA Plot: Div. 8 Sec 3

炎天下のサンディエゴ。名前の一部が芝生に埋まっていた為、墓を探して何度もこの前を素通り…。
発見した時は2時間が経過していた。男のタフさを試そうとするチャンドラーからの挑戦状と僕は受け取った!

チャンドラーは男の美学を探偵小説に込め、1939年(51歳)に発表した『大いなる眠り』など、
探偵フィリップ・マーロウの活躍を描いたハードボイルド作品が大ベストセラーになった。

「男は強くなければ生きていけない。しかし、優しくなければ生きていく資格がない」(『長いお別れ』)



★セシル・スコット・フォレスター/C.S.Forester 1899.8.27-1966.4.2 (USA、カリフォルニア州フルトン 66歳)2009
Loma Vista Memorial Park, Fullerton, Orange County, California, USA Plot: Cornoita Lawn Lot 22 Grave 12



更新中。海洋冒険小説の巨匠。『アフリカの女王』の作者。



★フィリップ・K・ディック/Philip Kindred Dick 1928.12.16-1982.3.2 (USA、コロラド州 53歳)2009
Riverside Cemetery, Fort Morgan, Morgan County, Colorado, USA Plot: Section K, block 1, lot 56





彼は双子だった “電気羊”がお出迎え! ドヒーッ!この放水をモロに浴びた!

更新中。映画『ブレードランナー』の原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の著者。墓参中に全方向から放水が始まり僕はズブ濡れになった!



★H・P・ラヴクラフト/Howard Phillips Lovecraft 1890.8.20-1937.3.15 (USA、ロードアイランド州プロヴィデンス 46歳)2009
Swan Point Cemetery, Providence, Providence County, Rhode Island, Plot: Group 281 Lot 5/585 Blackstone Blvd




鍵、眼鏡、ペンなどが供えられている。
鍵は小説『銀の鍵の門をこえて』にかけてあるのだろう
彼の墓には“I AM PROVIDENCE”と刻まれていた

ラヴクラフト家の墓は墓地の奥に並んでいる


コズミック・ホラー(宇宙的恐怖)で知られるSFファンの神、ラブクラフト!作品から生まれた
“クトゥルフ神話”は後輩作家に補完され、巨大なクトゥルフ・ワールドを構築している。




★ロバート・A・ハインライン/Robert Anson Heinlein 1907.7.7-1988.5.8 (USA、カリフォルニア州 80歳)2009
Cremated, Ashes scattered at Carmel, California, USA




遺灰はここカルメルの海に撒かれた

日没後の海岸でハインラインに思いを馳せる

ひと気のない海岸で燃えていた焚き火の残り火が、
ハインラインの弔いの火にも見えた

更新中。SF小説の大家。『宇宙の戦士』『夏への扉』など名作多々あり。



★オー・ヘンリー/O. Henry(William Sydney Porter) 1862.9.11-1910.6.5(USA、ノースカロライナ州 47歳)2009
Riverside Cemetery, Asheville, Buncombe County, North Carolina, USA



更新中。本名ウィリアム・シドニー・ポーター。短編小説の名作を多く残した。



★ダシール・ハメット/Samuel Dashiell Hammett 1894.5.27-1961.1.10 (USA、ヴァージニア州アーリントン 66歳)2009
Arlington National Cemetery, Arlington, Arlington County, Virginia, USA Plot: Section 12, Lot 508, Grid Y/Z-23

  
ハメットは2度の世界大戦に従軍したのでアーリントンの軍人墓地に眠る。視界の彼方まで墓標が続いていた…

『マルタの鷹』などハードボイルド推理小説の名手。冷戦中、左翼思想を持っていたことをにエリア・カザンに密告され、赤狩りの犠牲になる。
ハメットは法廷で黙秘を貫き、同志の名前を最後までばらさず、法廷侮辱罪で投獄された。尊敬せずにはいられない、信念の人だ。




★パール・バック/Pearl Sydenstricker Buck 1892.6.26-1973.3.6 (USA、ペンシルバニア州 80歳)2009
Green Hills Farm, Perkasie, Bucks County, Pennsylvania, USA /dublin Rd. off 313W Perkasie

パール・バックの家 彼女の書斎


 
墓に続く道。小川の側を歩いて行く 墓石には英語の他にも中国語で名前(?)が刻まれていた

更新中。中国を舞台にした長編小説『大地』の作者。この作品のおかげで西欧人によるアジア人蔑視が薄れたという。



★ソール・ベロー/Saul Bellow 1915.7.10-2005.4.5 (USA、バーモント州 89歳)2009
Morningside Cemetery, Brattleboro, Windham County, Vermont, USA /South Main Street

  

  

更新中。『この日をつかめ』の作者。ノーベル文学賞を受賞。

“私は苦しみと結婚して、ちょうど夫婦のように一緒に寝たり食べたりしていて、もし喜びと交わりを持てば不義を犯す事になると思っていた”(『この日をつかめ』)
“人は自分の愛するものと同じ価値しかない”(『この日をつかめ』)




★アーサー・ミラー/Arthur Asher Miller 1915.10.17-2005.2.10 (USA、コネチカット州 89歳)2009
Roxbury Center Cemetery, Roxbury, Litchfield County, Connecticut, USA /North Street (Route 67) Roxbury






広大な墓域にまだ3人くらいしか眠っていない ミラー家の墓石は渋い岩ッコロ 手前にあるアーサーの墓標

更新中。戦後アメリカ演劇を代表する戯曲『セールスマンの死』を執筆。マリリン・モンローの元夫(3番目)。
米国社会の「赤狩り」を魔女裁判にたとえて告発した『るつぼ』でマッカーシズムに戦いを挑んだ。




★ウィリアム・S・バロウズ/William Seward Burroughs 1914.2.5-1997.8.2 (USA、ミズーリ州 83歳)2009
Bellefontaine Cemetery, Saint Louis, St. Louis city, Missouri, USA

 








バロウズ家の塔型の墓石。右側面にウィリアムの名前がある

墓塔の右前にウィリアム個人の墓

墓塔の背後になぜか折れた
ロシア正教(?)十字架があった

更新中。『裸のランチ』の作者。数々の奇行で知られる。



★E・R・バロウズ/ Edgar Rice Burroughs 1875.9.1-1950.3.19 (USA、カリフォルニア州 74歳)2009
Burroughs Office Building, Tarzana, Los Angeles County, California, USA Plot: Under the walnut tree/18354 Ventura Blvd.

  
E・R・バロウズの代表作『ターザン』にちなみ、彼が住んでいた街にはターザン関係の道路や噴水がいっぱい!
町の名前も住民投票で「ターザナ」になったのがスゴイ

バロウズのオフィス。あらゆるターザン映画のポスターがあった オフィスの庭のこの木の根元に遺灰は撒かれた!

エドガー・ライス・バロウズは『ターザン』の生みの親。SF作品“火星シリーズ”でも人気を博した。



★テネシー・ウィリアムズ/Tennessee Williams 1911.3.26-1983.2.25 (USA、ミズーリ州 71歳)2009
Calvary Cemetery and Mausoleum, St. Louis city, Missouri, USA /5239 West Florissant Avenue



ピュリツァー賞を2度受賞した劇作家

墓石には1953年の戯曲『カミノ・レアル』からの以下の言葉が刻まれていた
「The violets in the mountains have broken the rocks!」
背面は本名のトマス・ラニアー・
ウィリアムズ&ロシア正教の十字架

劇作家。『欲望という名の電車』『熱いトタン屋根の猫』『ガラスの動物園』など様々な名作を残した。同性愛者で知られる。
本名はトマス・ラニアー・ウィリアムズ(Thomas Lanier Williams)で、学生時代に南部訛りゆえ「テネシー」の愛称がついた。
「人間ってものは、知り合いになってみればどんな人間でも、そんなに恐ろしいもんじゃない」(『ガラスの動物園』)
「痛みは生きている証拠だ。苦しい時の方が色んなことがよく分かる」(『熱いトタン屋根の上の猫』)

  
この墓地は緑がとても美しかった!お墓参りというよりピクニックにきてる感じ♪



★ジャック・ロンドン/Jack London 1876.1.12-1916.11.22 (USA、カリフォルニア州 40歳)2009
Jack London State Historic Park, Glen Ellen, Sonoma County, California, USA

ジャック・ロンドンの家。内部は見所いっぱい ジャックの書斎。本がたくさんあり居心地最高 なんとこの自然石が彼の墓だという

更新中。自然をこよなく愛した作家。



★シドニー・シェルダン/Sidney Sheldon 1917.2.11-2007.1.30 (USA、カリフォルニア州ロス 89歳)2009
Westwood Memorial Park, Los Angeles, Los Angeles County, California, USA Plot: Columbarium of Tenderness

 
似たような形のお墓ばかりで見つけるのが大変だった!

『ゲームの達人』『真夜中は別の顔』などのベストセラー作家。日本では英語学習教材で有名っすね。



★レイ・ブラッドベリ/Raymond Douglas Bradbury 1920.8.22-2012.6.5 (USA、カリフォルニア州ロス 91歳)2009&13
Westwood Memorial Park, Los Angeles, Los Angeles County, California, USA



 
2009年、ブラッドベリは既に墓を造っていた。このハリウッドの墓地は、M・モンロー、ビリー・ワイルダーなど
有名人だらけ。敷地が狭いので競争率が超高く、“空き”があれば生前のうちに墓を造っておくのがベター
4年後に再訪。2年前にブラッドベリは他界して
おり、新たに没年が刻まれていた。合掌(2012)

SF小説の大家ブラッドベリ。『華氏451度』『火星年代記』『ウは宇宙線のウ』など作品多数。



★ジョルジュ・ローデンバック/Georges Rodenbach 1855.7.16-1898.12.25 (フランス、パリペール・ラシェーズ 43歳)2015
Cimetiere du Pere Lachaise,Paris,City of Paris,Ile-de-France, France//Plot: Division 15

  

  

小説「死の都ブリュージュ」(1892)で知られるベルギー出身の作家。享年43。いわゆるゾンビ墓で右手にバラを持って復活。



★コナン・ドイル/Arthur Conan Doyle 1859.5.22-1930.7.7 (イギリス、ハンプシャー、ミンステッド 71歳)2015
All Saints Churchyard, Minstead, New Forest District, Hampshire, England//Plot: Under an oak tree, with wife

 

  

小説家・医者。推理小説「シャーロック=ホームズの冒険」で人気を博す。後年は心霊術に激ハマリ。妖精を信じていた。
※墓前にパイプが2本供えられていた!




★マルタン・デュ・ガール/Roger Martin du Gard 1881.3.23-1958.8.22(フランス、シミエ 77歳)2014
Musee Franciscain-Eglise et Monastere de Cimiez, Cimiez, Departement des Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France

  

  

フランスの作家。20世紀初頭から第一次大戦に至るフランス社会の時代的な苦悩を描いた大河小説『チボー家の人々』で知られる。
1937年(56歳)、『チボー家の人々 第7部 1914年夏』でノーベル文学賞を受賞。



★サキ/Hector Hugh Munro 1870.12.18-1916.11.14 (フランス、ソンム、ティプヴァルメモリアル 45歳)2023
Thiepval Memorial, Thiepval, Departement de la Somme, Picardie, France//Plot: Pier and Face 8 C 9 A and 16 A.



第一次世界大戦で戦死 第一次世界大戦の最大の激戦地ソンム 「ティプヴァル記念碑」(高さ43m)

わずか4カ月半に敵味方百万人以上が死傷 壁面にはびっしりと戦死者の名。「16A」に→ サキの本名「MUNRO H.H.」を刻む

後方には英仏軍の墓標 大半が身元不明の無名戦士 仏兵には仏語で「Inconnu」(「不明」)

英兵に英語で「神に知られざる者」 妻子が発見「あれ?マンロー Hがここにも!」 「MUNRO H.」、同じイニシャルで混乱

妻子が記念碑の一角に埋葬者リストを発見 僕「よくこれに気づいたのう!えらい!」 妻「16Aだから最初のが正解だね!」

「泊り客の枕もとに、オー・ヘンリー、あるいはサキ、あるいはその両方をおいていなければ、女将として完璧とはいえない」(英作家E・V・ルーカス)
イギリスの小説家サキは、本名ヘクター・ヒュー・マンロー(Hector Hugh Munro)。筆名の「サキ」はペルシャの詩人ウマル=ハイヤームの詩集『ルバイヤート』に登場する給仕から取られていると言われる。1870年12月18日にミャンマーで生まれる。父はスコットランド系でインド警察に勤務。2歳のとき、英国南部の親戚の家に滞在中、母が牛に突かれて流産、死去する。1893年(23歳)、父にならってインド警察に入りミャンマーに配属されるが、2年後にマラリアに感染し退職。イギリスに戻り、ジャーナリストに転身。1900年(30歳)、歴史書『ロシア帝国の繁栄』を出版。1902年から1908年まで『モーニング・ポスト』の特派員としてバルカン半島、ワルシャワ、ロシア、パリに赴き、その傍らで短編小説を執筆した。
1914年(44歳)に第一次世界大戦が始まると、43歳(誕生日前)で規定の年齢を過ぎていたにもかかわらず軍に志願し、軍曹勤務伍長まで昇級するが、1916年11月14日にフランスの前線で命を落とした。煙草の煙で敵に居場所が知られることを怖れて言った「その煙草を消してくれ!」("Put that bloody cigarette out!")が最後の言葉で、その直後にドイツ軍の狙撃兵に頭を撃たれたという。
サキはオー・ヘンリーとならぶ短編の名手であり、ブラックユーモアの強い、あっと驚くような機知に富んだ結末をもつ作品を得意とした。文体は簡潔で無駄がなく、気の利いた表現が随所にある。代表作に短編「開いた窓」(The Open Window)、「トバモリー」(Tobermory)、「話し上手」(The Storyteller)、「平和的玩具」(The Toys of Peace)、「スレドニ・ヴァシュター」(Sredni Vashtar)、「狼少年」(Gabriel-Ernest)など。多くが新聞に発表された。

サキの墓所である巨大な「ティプヴァル記念碑」(高さ43m)は、第一次世界大戦の最大の激戦地ソンムにある。
1916年7月1日、第一次世界大戦における最大の会戦「第1次ソンムの戦い」の火蓋が切られた。英仏連合軍のうち、フランス軍は同年のヴェルダン攻防戦で大きく消耗しており、主な攻撃はイギリス軍にゆだねられた。イギリス軍司令官はヘーグ将軍、フランス軍はジョッフル将軍、対するドイツ軍はヒンデンブルク将軍とルーデンドルフが指揮した。
開戦初日、サキたちイギリス軍はドイツ軍の塹壕(ざんごう)を突破して第二防衛線まで進む計画だったが、通信連絡が途絶して連携できず、強固な防衛陣地を前にイギリス軍はたった1日で死傷者7万人以上(攻撃に参加した歩兵の91%)を出してしまう。内訳は戦死19,240人、戦傷57,470人であり、これは戦闘1日の被害としては大戦中で最多となった。結局、ドイツ軍の塹壕を突破できないまま前線は膠着し、ここでも塹壕戦となった。
9月15日、イギリス軍は史上初めて秘密兵器の「戦車」(マークT型)を戦場に投入した。戦車は塹壕を乗り越えられるため攻撃の切り札となり得たが、49両配備された戦車のうち稼働できたのは18両で、実戦に参加できたのは5両だけであり、ソンムでは機動性を発揮できなかった(マークIV型戦車など戦車が活躍するようになったのは翌年以降)。
9月末にソンム地方は天候不良で地面が泥だらけとなって作戦困難となる。なおも英仏軍は攻撃を続けたが3カ月にわたる攻撃で消耗激しく、ドイツ軍戦線を突破できないまま11月上旬には両軍対峙の形となった。11月19日、4カ月半続いたソンム戦は終結した。
ソンム戦は大戦初期(2年前)に比べて武器の性能が飛躍的に向上し、軽機関銃が初めて登場したことから、両軍の損害は甚大なものとなった。死傷者はイギリス軍が45万6千人、フランス軍が20万人、ドイツ軍が約50万人。全軍合わせて100万人以上の損害を出したが、戦いの前後で起きた変化は、連合軍がわずかに11kmほど前進しただけだった。
「ティプヴァル記念碑」はソンムで戦死した72,337人の行方不明のイギリス軍兵士と南アフリカ軍兵士のための、英連邦最大の行方不明者慰霊碑だ。これらの兵士の90%以上がソンム戦の開戦から4カ月半(第1回ソンムの戦い)で戦死した。

記念碑は1932年8月1日、フランス大統領ルブランの立会いの下、エドワード皇太子(後のエドワード8世)によって除幕された。田園風景を見下ろす場所に建ち、複雑な形式のメインアーチが東西に並び、壁面に72,246人の将校と兵士の名前を刻む。アーチの上部には、フランス語で "Aux armees Francaise et Britannique l'Empire Britannique reconnaissant"(フランスとイギリスの軍隊に大英帝国は感謝している)と彫られている。すぐ下には1914年と1918年の年号が刻まれ、左右に分かれた側面のアーチの上端には、「ソンムの行方不明者」と刻まれている。サキは本名ヘクター・ヒュー・マンロー(HECTOR HUGH MUNRO)で壁面「16 A」に“MUNRO H.H.”と刻まれている。
現地では毎年7月1日(ソンム戦の開戦日)に記念碑で大規模な式典が行われる。記念碑のふもとには、英連邦軍300人、フランス軍300人の墓を含むティプヴァル英仏墓地がある。ここに埋葬された兵士の大部分(イギリス連邦軍239名、フランス軍253名)は身元不明で、1931年12月から1932年3月にかけて発見された後、ここに再埋葬された。身元不明の兵士については、イギリスの墓石には「大戦の兵士/神に知られざる者」と刻まれ、フランスの十字架には「Inconnu」(「不明」)の一文字が刻まれている。
墓地の奥に立つ「犠牲の十字架」には、《250万の戦死者の共通の犠牲を世界が記憶するために、ここにフランスと大英帝国の兵士が永遠の同志として並んで眠る》とある。
「ティプヴァル記念碑」は2023年に「第一次世界大戦の戦没者墓地と戦没者追悼施設(西部戦線)」としてユネスコ世界遺産に指定された。



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