啄木と金田一京助 | 16歳の啄木 | JR盛岡駅の文字“もりおか”は啄木のものだ |
「石川啄木生誕之地」 | 啄木はこの常光寺(岩手)で生まれた | 啄木が生まれた部屋(2012) | 部屋に境内の生誕碑と同じ掛け軸が |
1歳から18歳まで過ごした宝徳寺(岩手) |
復元された「啄木の間」。“啄木”のペンネームは 境内の樹木を叩く啄木鳥(きつつき)からきている |
夕暮れの岩手山。啄木もこの景色を見た |
故郷渋民(しぶたみ)の石川啄木記念館 | 啄木が小学校代用教員時代に家族と間借りしていた斉藤家 | 盛岡市内の「啄木新婚の家」(見学無料) |
“啄木一族の墓”は立待岬に | 岬に登る道の海側に啄木は眠っている |
1998 初巡礼。はじめまして、啄木さん! |
2009 11年ぶりに巡礼。墓域全体が高くなっていた! 階段の数が倍になり、石垣も底上げされていた! |
2014 5年ぶり、3度目の巡礼。早朝に訪れた |
2009 小雨巡礼 |
2014 可愛らしい小花が献花されていた 前面に「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」 |
墓石の背後には啄木の手紙の一節が刻まれ ている「おれは死ぬ時は函館へ行って死ぬ」 |
啄木の墓から函館の街並みが一望できる | この日の津軽海峡からの風は穏やかだった | 素晴らしい景観の地に眠っている |
すぐ近くに義弟の歌人宮崎郁雨の墓。 啄木の妻の妹ふき子と結婚した |
墓所の前の坂道を登っていくと立待岬に。 水平線が丸みを帯び、地球が円とわかる |
津軽海峡。対岸は青森の陸奥 |
明治後期の歌人・詩人・評論家。本名は石川一(はじめ)。1886年2月20日、岩手県南岩手郡日戸村(現盛岡市玉山区日戸)に生まれる。父は同村の常光寺住職。母は南部藩士の娘。翌年、父が近隣の渋民村の宝徳寺住職となり家族で移住したこの渋民村が、後に啄木が詠む「ふるさと」となった。渋民小学校を首席で卒業し、地元では神童と呼ばれる。盛岡の中学では4歳年上の先輩金田一京助(後の言語学者)から文学の面白さを教えられ、文芸雑誌『明星』を熟読して与謝野晶子に影響を受けた。
1901年(15歳)、『岩手日報』紙面に啄木の短歌が初めて掲載される。啄木は高まる文学熱と情熱的な初恋の中で学業がおろそかになり、カンニングが2回連続で発覚し落第決定に。1902年、啄木は16歳で自主退学し上京する(退学勧告を受けたという説あり)。 啄木は『明星』に投稿した短歌が掲載され、文学で身を立てるつもりでいたが、与謝野鉄幹・晶子夫妻の知遇を得たものの仕事は何も見つからず、家賃を滞納して下宿を追い出され、半年も経たずに帰郷。翌1903年、17歳の時に初めて“啄木”の号を名乗り『明星』に長詩を発表し注目される。 1905年(19歳)、処女詩集『あこがれ』を刊行。一部で天才詩人と評価されたが、父が金銭トラブル(宗費滞納)で住職を罷免され、また5月に自身が中学時代からの恋人(節子夫人)と結婚したことで、両親と妻を養わねばならず文学どころではなくなった。盛岡に帰った啄木は、翌1906年、20歳で小学校の代用教員として働き始め、年末に長女が生れた。 1907年(21歳)、住職再任運動に挫折した父が家出。函館の文学同好会から原稿依頼があったことを機に、4月に心機一転を図って北海道に渡る(妻子は盛岡で生活)。函館商工会議所の臨時雇い、代用教員、新聞社社員などに就くが、どの仕事にも満足できず、函館大火もあって9月から札幌で校正係になる。その後、小樽、釧路を流浪。函館で出会った文芸仲間・宮崎郁雨(いくう)は啄木の良き理解者で、家族を北海道へ呼び寄せる旅費を出してくれた。 1908年(22歳)、どうしても文学への夢を捨てきれない啄木は、郁雨に家族を預けると旧友の金田一京助を頼って再び上京する。金田一は啄木を援助する為に愛蔵の書籍まで処分した。啄木は作家としての成功を夢見て次々と小説を書いたが、文壇でことごとく無視される。夢が打ち砕かれた啄木は、彼にとって気持ちを吐き出すための“玩具”、すなわち三行の短歌に日々の哀しみを歌い込んだ。 1909年(23歳)、前年に与謝野鉄幹に連れられて鴎外の歌会に参加したことをきっかけに、雑誌『スバル』創刊に参加。しかし、相変わらず小説は評価されず、失意の中で東京朝日新聞社に校正係として就職する。 親友(宮崎郁雨)に預けたままの家族から、“肩身が狭いので早く呼び寄せてくれ”と促されると、浅草で娼妓と遊ぶなど自由な半独身生活を送っていた啄木は、家族がいては小説の構想に集中できず作品が書けないなどと、家族を迎えるまでの約2ヶ月間の苦悩を『ローマ字日記』に記した(後にこれは日記文学の傑作として文学史に刻まれることに。ただし啄木は遺言で燃やすよう夫人に命じていた)。家族の上京後、遊興に費やされた借金など生活苦から妻と姑との対立が深刻化し、妻が子どもを連れて約一ヶ月盛岡の実家へ帰ってしまう(金田一の説得で戻る)。年末に父が上京、同居。 1910年(24歳)、新聞歌壇の選者に任命されるも、暮らしは依然厳しかった。貧困生活の中で左翼的な思想に傾いていた啄木は、6月に大逆事件(天皇暗殺未遂事件=後に当局のデッチ上げと判明)が起きると、新聞の校正係という立場もあり、事件に関する多数の記事や公判記録を読み込み、この裁判が政府による謀略と確信。国家による思想統制・言論弾圧を深く憂慮して8月に「明治国家の強権が閉塞的な社会状況を生みだしている」と評論『時代閉塞の現状』を書く(死後に発表)。また、“林中の鳥”という匿名で、『所謂(いわゆる)今度の事』を書き上げ新聞に掲載を依頼したが却下された。 「いわゆる“今度の事”について。政府はアナーキストをテロ信奉の狂信者の如く評しているが、実はアナーキズムはその理論において何ら危険な要素を含んでいない。今の様な物騒な世の中では、アナーキズムを紹介しただけで私自身また無政府主義者であるかのごとき誤解をうけるかもしれないが…もしも世に無政府主義という名を聞いただけで眉をひそめる様な人がいれば、その誤解を指摘せねばなるまい。無政府主義というのは全ての人間が私欲を克服して、相互扶助の精神で円満なる社会を築き上げ、自分たちを管理する政府機構が不必要となる理想郷への熱烈なる憧憬に過ぎない。相互扶助の感情を最重視する点は、保守道徳家にとっても縁遠い言葉ではあるまい。世にも憎むべき凶暴なる人間と見られている無政府主義者と、一般教育家及び倫理学者との間に、どれほどの相違もないのである。(中略)要するに、無政府主義者とは“最も性急なる理想家”であるのだ」。 8月末に朝鮮が併合され、「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」と記す。 10月、長男の真一が生まれたが、わずか3週間で病死。啄木は夜勤で長男の臨終に立ち会えなかった。「生れて虚弱、生くること僅か24日にして同月27日夜12時過ぐる数分にして死す。恰(あたか)も予夜勤に当り、帰り来れば今まさに絶息したるのみの所なりき。医師の注射も効なく、体温暁に残れり」。 12月、「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人々」「手套を脱ぐとき」の5章551首からなる三行書きの短歌を収めた処女歌集『一握の砂』を刊行。平易な言葉で日常の悲喜こもごもの感情を素直にうたいあげた短歌は、好感をもって歌壇に受け入れられ生活派短歌と呼ばれた。 《一握の砂》 20選(カジポン選) 1.東海(とうかい)の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 2.たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず★ 3.草に臥(ね)て おもふことなし わが額(ぬか)に糞して鳥は空に遊べり 4.やはらかに積れる雪に 熱(ほ)てる頬を埋むるごとき 恋してみたし 5.路傍(みちばた)に犬ながながと呻(あくび)しぬ われも真似しぬ うらやましさに★ 6.新しきインクのにほひ 栓抜けば 餓えたる腹に沁むがかなしも 7.はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る★ 8.友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ 9.ふるさとの訛なつかし 停車場(ば)の人ごみの中に そを聴きにゆく 10.石をもて追はるるごとく ふるさとを出(い)でしかなしみ 消ゆる時なし 11.今夜こそ思ふ存分泣いてみむと 泊りし宿屋の 茶のぬるさかな★ 12.ごおと鳴る凩(こがらし)のあと 乾きたる雪舞ひ立ちて 林を包めり★ 13.死にたくはないかと言へば これ見よと 咽喉の痍(きず)を見せし女かな 14.葡萄色(えびいろ)の 古き手帳にのこりたる かの会合(あひびき)の時と処(ところ)かな 15.朝の湯の 湯槽(ゆぶね)のふちにうなじ載せ ゆるく息する物思ひかな 16.あさ風が電車のなかに吹き入れし 柳のひと葉 手にとりて見る 17.ほそぼそと 其処(そこ)ら此処(ここ)らに虫の鳴く 昼の野に来て読む手紙かな★ 18.夜おそく つとめ先よりかへり来て 今死にしてふ児を抱けるかな 19.おそ秋の空気を 三尺四方(さんじやくしほう)ばかり 吸ひてわが児の死にゆきしかな 20.かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれし児の肌のぬくもり ※18〜20は我が児への追悼歌。 1911年(25歳)、前年に続いて大逆事件の公判を追っていた啄木は、独自に手に入れた陳弁書から“(主犯とされる)幸徳は決して自ら今度のような無謀をあえてする男でない”と判断していた。それだけに、被告26名中、11名死刑(半世紀後に全員無罪の再審判決)という結果に大きな衝撃を受ける。この頃の詩稿が死後の詩集『呼子と口笛』になった。以下、啄木の日記より。 『1911年1月18日(死刑宣告当日の日記) 今日ほど予の頭の昂奮していた日はなかった。そうして今日ほど昂奮の後の疲労を感じた日はなかった。2時半過ぎた頃でもあったろうか。「2人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」「あゝ24人!」そういう声が耳に入った。「判決が下ってから万歳を叫んだ者があります」と松崎君(記者)が渋川氏(社会部長)へ報告していた。予はそのまゝ何も考えなかった。たゞすぐ家へ帰って寝たいと思った。それでも定刻に帰った。帰って話をしたら母の眼に涙があった。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考えながら丸谷君を訪ねて10時頃まで話した。夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」と書いてあった。』 『1月24日(判決の6日後) (新聞)社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。幸徳以下11名のことである、あゝ、何という早いことだろう。そう皆が語り合った。夜、幸徳事件の経過を書き記すために12時まで働いた。これは後々への記念のためである。』 『1月25日(死刑翌日) 昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載った。(処刑された)内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割った−その事が激しく心を衝いた。昨日12人共にやられたというのはウソで、管野(幸徳の妻)は今朝やられたのだ。かえりに平出君(特別弁護人)へよって幸徳、管野、大石等の獄中の手紙を借りた。平出君は民権圧迫について大いに憤慨していた。』 啄木は慢性腹膜炎の手術後に肺結核を発症。夏に妻も肺カタル(炎症)になったことで環境の良い都内小石川に転居。この引っ越しを援助してくれたのは、2年前に啄木の妻の妹と結婚していた函館の義弟、宮崎郁雨。9月、妻に「君一人の写真を撮って送ってくれ」という無記名の手紙が届き、それを郁雨が出したことを知った啄木は激怒。不貞の証拠として妻に離縁を申し渡し、大恩人の郁雨に絶交を叩き付ける。 12月、腹膜炎と肺結核を患い、発熱が続く。 1912年(26歳)、年明けに漱石から見舞金が届く。3月に母が肺結核で亡くなり、翌月に啄木もまた肺結核で危篤に陥った。以下の日記は死の約二ヶ月前に書かれた最後のもの。 『2月20日 日記をつけなかった事12日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられていた。39度まで上がった事さえあった。そうして薬をのむと汗が出る為に、体はひどく疲れてしまって、立って歩くと膝がフラフラする。そうしている間にも金はドンドンなくなった。母の薬代や私の薬代が一日約40銭弱の割合でかかった。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たった一晩家に置いただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢った。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかった。』 啄木が26歳の若さで死に至る最晩年の様子は、親友の金田一京助、若山牧水によって書き残されている。 《亡くなる10日前…金田一京助》※一部要約 石川君はその時、『ひょっとしたら自分も今度はだめだ』と言った。『医者は?』と聞くと、『薬代を滞るものだから、薬もくれないし、来てもくれない』という。また『いくら自分で生きたいと思ったって、こんなですもの』と言って、自分で夜具の脇をあげて腰の骨を見せた。ぐっと突立った骨盤の皿。私は覚えず恐い物に蓋をするようにして、『これじゃいけない、何よりも、とにかくまず好きなもので滋養になるものを食べて、少し太る様にしなくちゃ』と言ったら、『好きなものどころか!米さえ…ない』と顔を歪めて笑った。(金田一は処女出版『新言語学』の脱稿直後。自宅に引き返して家族に本の収入が近々ある事を話し、自身の一ヶ月の生活費、十円札を持って駆け戻ってくる)『ほんの少しですけれど』と私が、うつむきながら手を差し出した時、石川君も、節子(妻)さんも、黙って何とも言わなかった。『無躾だったかしら』と心に気遣いながら二人を見ると、石川君は枕しながら、片手を出して拝んでいた。節子さんは、下を向いて畳の上へぽたりと涙をおとしていた。 私は私で胸がいっぱいになり、誰ひと り物も言わず、しばらく3人は黙りこくって泣いていたのだった。石川君が一等先に口を切って、『こう永く病んで寝ていると、しみじみ人の情けが身にこたえる』『友だちの友情ほど嬉しいものがない』というので『私の言語学が脱稿したので(無理をした金ではない)』と話すと、自分の著述でも出来たように喜んでくれた。 《前々日…若山牧水》 死ぬ前々日に石川君を見舞ふと、彼は常に増して険しい顔をして私に語った。『若山君、僕はまだ助かる命を金の無いために自ら殺すのだ。見たまえ、そこにある薬がこの2、3日断えているが、この薬を買う金さえあったら僕は今すぐ元気を回復するのだ、現に僕の家には1円26銭の金しか無い、しかももう何処からも入って来る見込は無くなっているのだ』と。 《臨終記…若山牧水》 細君たちは口移しに薬を注ぐやら唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしていたが私はふとその場に彼の長女(6歳)の居ないのに気がついて、探しに戸外に出た。そして門口で桜の花を拾って遊んでいた彼女を抱いて引返した時には、老父と細君とが前後から石川君を抱きかかへて、低いながら声をたてて泣いていた。老父は私を見ると、かたちを改めて、『もうとても駄目です。臨終のようです』と言った。そして側にあった置時計を手に取って、『9時半か』と呟くように言った。時計は正に9時30分であった。 屋外で満開の桜が散っていくのと歩みを合わせるように、4月13日に啄木は果てた。啄木の借金は全63人から総額1372円50銭(現在の約1400万円)に達していた。2日後、浅草等光寺で葬儀が営まれ、漱石も参列する。死の二ヵ月後、、妻が次女を出産。その6日後に194首を収めた第二歌集『悲しき玩具』が刊行され、各方面で激賞された。9月、節子は遺児2人を育てるために、函館に移っていた実家に帰った。 生前に啄木が函館で暮らしたのは4ヶ月のみだが、よほど風物や生活が気に入っていたらしく、「死ぬときは函館で…」と語っていた。翌年の一周忌を機に、節子夫人の希望で遺骨が函館に移されたが、5月に2人の子を残して夫人も26歳で病没。遺児は節子の父が養育した。 1919年、友人たちの尽力で新潮社から全集3巻が出版(その後、5回以上全集が出ている)。1922年、渋民に全国最初の啄木歌碑『ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな』が建立された。 没後14年目の1926年、函館山の南東端の津軽海峡を展望する素晴らしい景観の地、立待(たちまち)岬に宮崎郁雨が『啄木一族の墓』を建立した。墓石の前面には『東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたわむる』(一握の砂)の一首が彫り込まれている。その後、1930年に長女・京子が急性肺炎のため24歳で他界、半月後に姉の後を追うように次女・房江が肺結核のため18歳で亡くなるなど、石川家の悲劇は続く。京子は早逝したが二児(晴子、玲児)をもうけており、さらに啄木のひ孫が生まれている。ひ孫の名は真一(しんいち)であり、生後24日で他界した啄木の長男と同名だ。 《悲しき玩具》 30選(カジポン選) 1.呼吸(いき)すれば、 胸の中(うち)にて鳴る音あり。 凩(こがらし)よりもさびしきその音! 2.途中にてふと気が変り、 つとめ先を休みて、今日も、 河岸をさまよへり。 3.本を買ひたし、本を買ひたしと、 あてつけのつもりではなけれど 妻に言ひてみる。 4.家を出て五町ばかりは、 用のある人のごとくに 歩いてみたれど――★ 5.何となく、 今朝は少しく、わが心明るきごとし。 手の爪を切る。 6.途中にて乗換の電車なくなりしに、 泣かうかと思ひき。 雨も降りていき。 7.しっとりと 酒のかをりにひたりたる 脳の重みを感じて帰る。 8.新しき明日の来(きた)るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど――★ 9.よごれたる手を洗ひし時の かすかなる満足が 今日の満足なりき。★ 10.何となく、 今年はよい事あるごとし。 元日の朝、晴れて風無し。★ 11.すっぽりと蒲団をかぶり、 足をちぢめ、 舌を出してみぬ、誰にともなしに。★ 12.百姓の多くは酒をやめしといふ。 もっと困らば、 何をやめるらむ。★ 13.あやまちて茶碗をこはし、 物をこはす気持のよさを、 今朝も思へる。★ 14.古新聞! おやここにおれの歌の事を賞めて書いてあり、 二三行なれど。 15.笑ふにも笑はれざりき―― 長いこと捜したナイフの 手の中(うち)にありしに。 16.この四五年、 空を仰ぐといふことが一度もなかりき。 かうもなるものか?★ 17.そうれみろ、 あの人も子をこしらへたと、 何か気の済む心地にて寝る。 18.『石川はふびんな奴だ。』ときにかう自分で言ひて、かなしみてみる。 19.真夜中にふと目がさめて、 わけもなく泣きたくなりて、 蒲団をかぶれる。 20.話しかけて返事のなきに よく見れば、 泣いていたりき、隣の患者。★ 21.看護婦の徹夜するまで、 わが病ひ、 わるくなれとも、ひそかに願へる。★ 22.まくら辺に子を坐らせて、 まじまじとその顔を見れば、 逃げてゆきしかな。★ 23.或る市(まち)にいし頃の事として、 友の語る 恋がたりに嘘の交るかなしさ。 24.ひさしぶりに、 ふと声を出して笑ひてみぬ―― 蝿の両手を揉むが可笑しさに。★ 25.五歳になる子に、 何故ともなく、ソニヤといふ露西亜名(な)をつけて、 呼びてはよろこぶ。★ 26.ある日、ふと、やまひを忘れ、 牛の啼(な)く真似をしてみぬ―― 妻子(つまこ)の留守に。 27.かなしきは我が父! 今日も新聞を読みあきて、 庭に小蟻と遊べり。 28.児を叱れば、 泣いて、寝入りぬ。 口すこしあけし寝顔にさはりてみるかな。★ 29.ひる寝せし児の枕辺に 人形を買ひ来てかざり、 ひとり楽しむ。 30.庭のそとを白き犬ゆけり。 ふりむきて、 犬を飼はむと妻にはかれる。★ |
“北海道3時間旅行” お盆休みを利用し、旅費を節約するため“18きっぷ”で乗れるローカル電車だけを使い、大阪から啄木の眠る函館に向かった。正直、これは無謀だった。2日掛かりで函館駅にたどり着いた頃には、腰が鉄板のようにコチコチだった。追いうちをかけるように、墓はよりによって丘の上。レンタサイクルを鬼の立ちこぎで進ませ、坂を登り、執念で啄木に迫る僕。それを横目に、十数名の観光客がタクシーを連ねて墓前に乗り付けた。「お、お、おのれ…」仕事を空けられぬ為、啄木と語るのもそこそこに、とんぼかえりで大阪に戻る。北海道の滞在時間、わずか3時間。通常、本州の人間にとって北海道旅行は何日も前から大騒ぎする大イベント。僕の場合はまるでトライアスロンだった。函館名物の海鮮もラーメンも夜景もなかったけど、それでも啄木に会えた嬉しさで帰りの列車では感極まっていた。 |
兼好法師遺跡(ゆいせき) | 兼好法師像 | 自筆の書 |
1999 | 2005 |
墓はとても形の良い自然石。横には「契り置く花とならびの岡の辺に 哀れ幾代の春をすぐさむ」の歌碑があった |
鎌倉時代末期の歌人、随筆集『徒然草』の著者であり当時の和歌四天王の1人。本名卜部兼好(うらべのかねよし)。三男。家は代々吉田神社の神官を務め、“うらべ”という名の通り朝廷に占いで仕えていた。この時代、皇室では天皇の位を巡って2つの系統(大覚寺統=後の南朝、持明院統=後の北朝)が争っていた。1301年、18歳の時に大覚寺統の後二条天皇が即位し、兼好は天皇の機密文書を取り扱う“蔵人”という官職に就いた。職務を精力的にこなし、1307年(24歳)には“従五位左兵衛佐(さひょうえのすけ)”まで位をあげていくが、翌年に天皇が崩御、新しく持明院統の天皇の治世となった。大覚寺統の中で出世した兼好に冷たい風が吹く。彼はこうした宮廷内の出世レースに虚しさを覚え始め、ひいては世の全てに無常の念を抱くようになった。そして1313年(30歳)、それまで築いてきたキャリアを全部捨てて出家する。 それからは、洛北修学院、木曽、鎌倉などで隠棲生活を送りつつ和歌三昧の日々を送った(師は二条為世)。34歳ごろから歌人として知名度があがり始め『続千載集』『続後拾遺集』『風雅集』など勅撰に18首が選ばれている。 1331年(48歳)、京都双ケ岡(ならびがおか)に定住。数年前から書き溜めてきた243段からなる随筆集『徒然草』が完成する(室町幕府が開かれた1336年に完成したとする説アリ)。同年、楠木正成が挙兵。翌々年には足利尊氏や新田義貞が挙兵し鎌倉幕府が崩壊するなど、時代は南北朝の動乱の世に入っていく。一方、兼好はそんな世間の騒ぎはどこ吹く風、別世界の住人のようにヒョウヒョウと歌合(うたあわせ)に参加し、公家から武家まで幅広く交際した。 1344年(61歳)、尊氏の弟・直義が高野山に経文を奉納し、その際に尊氏や高師直(こうのもろなお)らと共に歌を詠んだ。兼好の文才に惚れ込んだ師直は、人妻への恋文を兼好に代筆してもらったという。 1346年(63歳)、自撰家集『兼好法師集』が完成。以下、同歌集から3首-- 「こよろぎの磯よりとほくひく潮にうかべる月は沖にいでにけり」(大磯から遠くに浮かんでいるあの月は、引き潮に乗り沖へ出てしまったようだ) 「雲のいろに別れもゆくか逢坂の関路の花のあけぼのの空」(滋賀石山寺の参詣で逢坂の峠を越えていると、夜が明けるにつれて、山の嶺から離れていく雲や美しい山桜が見えてきた) 「うちなびく草葉すずしく夏の日のかげろふままに風たちぬなり」(風に吹かれて草葉が涼しげになびいている。夏日が陰り風が起こったようだ) 最晩年の兼好については、1350年(67歳)に伊賀の地で没したというのが通説だったが、『続古今集』の写本制作などさらに翌々年まで活躍していた事実が判明し、少なくとも1352年(69歳)まで生きていたことが分かっている。 没後、現代に至るまで何度か「兼好ブーム」が起こった。特に1704年(約350回忌)には、墓の場所を伊賀から本人が希望した京都双ヶ岡(ならびがおか)に改葬しようという運動にまで至った。この時、注目を浴びた歌がこれだ。 「契り置く花とならびの岡の辺に 哀れ幾代の春をすぐさむ」(ずっと一緒にいようと約束した花と並んで丘の辺に〔=双ヶ岡の辺に〕幾年も春が過ぎて行くんだろうなぁ) こうして墓は双ヶ岡の長泉寺に移された。ただ、伊賀からではなく、双ヶ岡のニの岡西麓から改葬されたとする説もある。いずれにせよ、本人の願いは叶い、墓の側には桜まで植樹された。この桜は世代交代を重ねながらも現存し、今も春に満開の花を咲かせている。また、長泉寺には木像の兼好像や、直筆と伝わる歌集や徒然草が納められている。 『徒然なるままに、日暮らし硯(すずり)に向かいて、心に映りゆく由無し事を そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂おしけれ』(なんとなく戯れに一日硯に向かって、心に浮かんだ事をとりとめもなく書き始めたら、まるで何かに憑かれたように筆が止まらない)--あまりに有名なこの序文で始まる徒然草は、枕草子、方丈記と並んで日本三大随筆にあげられる。約700年も昔に書かれた人間観察記が、今の僕らにもピッタリと当てはまるこの妙!現代は暮らしが便利になって鎌倉末期とは生活環境が全く違うのに、日々の喜怒哀楽や自然を愛でている気持は中世とまったく変わっていない。兼好のユーモアは吹き出すほど楽しいし、教訓話には思わず襟をただしてしまう。 青年期に朝廷へ出仕し、鎌倉幕府、後醍醐天皇、室町幕府と次々権力者が入替わっていく栄枯盛衰を目の前で見てきた兼好だが、栄華の儚さを知り人生の無常を筆で刻みながらも、けっして陰に篭もることなく、笑いあり毒舌あり、語り口の面白さで読み手を魅了してやまない。評論家の小林秀雄は「徒然草が書かれたという事は、新しい形式の随筆文学が書かれたというような事ではない。純粋で鋭敏な点で、空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件なのである。僕は絶後とさえ言いたい」と手放しの絶賛だ。 読んでいると当時の習慣や風俗がとてもよく分かり、和歌の名手で高い教養を持ち、当代最高の“知の宝庫”兼好が、後世の僕らの為にタイムマシンを用意してくれたみたいだ。 好きな段に軽く触れると-- 山里の中で苔むした風流な庵を見て感心していると、側にあったミカンの木が厳重に柵で囲まれていることに気づき一気に興醒めする第11段、有名な山寺に参詣した高僧がふもとの末寺だけ巡礼して参拝した気になり、山中の本寺に行かずに得意気に帰っていく第52段、猫又(化け猫)が出ると噂される夜に歌会で遅くなって帰途についた僧侶が、猫又に襲われて腰を抜かし大騒ぎになったが、それは寺の飼い犬が僧侶の足音を聞いて嬉しくて飛び掛っただけという第89段、出雲を訪れた高僧が逆さまになったコマ犬を前に“さすがは出雲だ、これはきっと深い由縁があるのだろう”と涙にむせんでありがたがっていると、神官が“ありゃまた子どもが悪戯しおったわい”と元に戻して去っていく第236段など、悲喜こもごもの面白い話がいっぱいある。“命があるものを見ると、人間ほど寿命が長いものはない。カゲロウは朝生まれて夕べを待たずに死に、セミは春や秋を知らずに逝く。しみじみと一年を暮らすだけでも、この上なくのどかなものじゃないか。(略)人間は長生きすると名誉や保身に走って醜くくなるから40歳までに死ぬのが理想的だ”(第7段)などど書いてるのに、自分はちゃっかり70歳近くまで長寿しているところがこれまた憎めない。 最後に兼好がいっそう身近になる和歌を紹介。同じ和歌四天王の頓阿(とんあ)に送ったものだ。 「夜も涼し 寝覚めの仮庵(かりほ) 手枕(たまくら)も 真袖(まそで)も秋に 隔てなき風(兼好) 夜は憂し ねたく我が背子(せこ) 果ては来ず なほざりにだに しばしとひませ(頓阿) 普通に訳すると「涼しい夜だ。仮の庵でまどろんでいると手枕や袖の間を風が吹いてゆく」「辛い夜です。妬ましいあなたはついに来なかった。なおざりでも良いから、少しは訪ねて下さい」と一見恋のやり取りになるんだけど、この歌にはトリッキーなメッセージがある。 「よもすずし/ねざめのかりほ/たまくらも/まそでもあきに/へだてなきかぜ」 「よるもうし/ねたくわがせこ/はてはこず/なほざりにだに/しばしとひませ」 それぞれの文節の頭文字を繋げると、兼好の場合は「よ・ね・た・ま・へ(米給へ=米を下さい)」になり、後ろから繋げると「ぜ・に・も・ほ・し(銭も欲し)」という無心の文になる。頓阿の返句がまた楽しく「よ・ね・は・な・し(米は無し)」、「せ・に・す・こ・し(銭少し=お金なら少しなんとか)」。 2人の友情がにじみ出てくる良い歌だね〜!(*^o^*) ※鎌倉を2度訪れ、横浜市金沢区の上行寺内に庵があったと伝えられている。 『吉凶は人によりて日によらず』(吉田兼好) |
与謝蕪村筆「奥の細道屏風」 | 蕪村筆「奥の細道画巻・那須野」 | 蕪村筆・芭蕉翁 | 深川・採茶庵のリアル像 | 中尊寺の芭蕉像 |
大阪天王寺・芭蕉の墓前で一句 「春の日に 芭蕉を訪ねて 三千里」 芭蕉十哲の一人、志田野坡の 弟子が野坡20回忌に建立(1999) |
こちらは本墓となる滋賀県・義仲寺の墓!“芭蕉翁”とある(2002) 側に芭蕉が植えられ初夏に花が咲く※芭蕉の開花は5年に一度 |
右端が芭蕉。左端で陽に照らされ 輝いてるのが源義仲 |
東大阪市の吉田墓地。150回忌に門人が建立 | 当時1歳11カ月の我が子と巡礼。もう墓マイラー(2011) | 背後から。奥に見えるのは花園ラグビー場 |
大阪天王寺・梅旧院の山門(2014) |
左端「芭蕉翁」とある。不二庵二柳(ふじあん・じりゅう) が再建。中央の「不二庵」は二柳の墓 |
大阪・浄春寺の門前に「芭蕉翁」の石碑。 1793年、芭蕉100回忌で建立された(2014) |
大阪市中央区の終焉之地碑。幹線道路の分離帯 にあり、みんなビックリ。1934年建立(2014) |
「此附近芭蕉翁終焉之地」 |
石碑は身長1メートル@4歳と同じ背丈(2014) |
こちらは奥の細道に同行した愛弟子、河合曾良(そら)の墓。 長野県諏訪市の正願寺に眠っている。実に良い環境! |
『曾良の墓』の案内板つき! 辞世の句も書かれていた |
境内にはなんと曾良の銅像まであった! (2009) |
本名、松尾宗房(むねふさ)。伊賀国上野(三重県)出身、幼名金作。6人兄妹の次男。井原西鶴、近松門左衛門と並んで、元禄3文豪に数えられる(西鶴は2歳年上、近松は9歳年下)。松尾家は準武士待遇の農民。12歳の時に父が逝去。18歳で藤堂藩の侍大将の嫡子・良忠に料理人として仕える。藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩には文芸を重んじる藩風があnnnり、芭蕉も良忠から俳諧の手ほどきを受けて詠み始めた。20歳の時に『佐夜中山集』に2句が入集。22歳、師と仰いでいた良忠が没し、悲しみと追慕の念からますます俳諧の世界へのめり込んでいく。(京都で俳諧の勉強を積んだとも) 1672年(28歳)、初の撰集『貝おほひ』を伊賀天満宮(文芸・学問の神)に奉納。伊賀俳壇で若手の代表格として地位を築いた芭蕉は、仕官を退き江戸へ出て、さらに俳人として修業を積む。31歳、号の桃青(とうせい)を名乗る。1677年(33歳)、俳諧師の免許皆伝となり、宗匠(そうしょう、師匠)となった彼は、江戸俳壇の中心地・日本橋に居を定める。しかし、プロの俳諧師になったとはいえ、俳句の指導だけでは生活が苦しいので、副業として4年近く神田上水の水道工事の事務を担当する。 当時の俳壇では、滑稽の機知や華やかさを競う句ばかりが持てはやされていた。しかし芭蕉が目指したのは、静寂の中の自然の美や、李白・杜甫ら漢詩人の孤高、魂の救済などを詠み込んだ世界。“笑い”や“楽しさ”を求める俳句ではなく、自然や人生の探究が刻み込まれた俳句。芭蕉は自身の手で、俳諧を深化させ精神と向き合う文学に昇華していく。 1680年(36歳)、江戸の俳壇には金や名声への欲望が満ちており、宗匠たちは弟子の数を競い合うことに終始していた。この状況に失望した芭蕉は、江戸の街中を去って、隅田川東岸の深川に草庵を結び隠棲する。宗匠間の価値観では、日本橋から去ることは「敗北」と見なされたが、芭蕉の弟子達は深川への移転を大いに歓迎し、彼らは一丸となって師の生活を支援した。草庵の庭にバショウを一株植えたところ、見事な葉がつき評判になったので、弟子達は「芭蕉庵」と呼び始め、彼自身も以降の号を“芭蕉(はせを)”とした。※この頃から禅を学ぶ。 「芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞く夜かな」(芭蕉の葉が嵐で激しく揺れ、庵でタライの雨もりを聞く夜です) 1682年、年末の江戸の大火(八百屋お七の事件)で芭蕉庵は全焼したが、翌年弟子たちが皆で再建した。 1684年(40歳)、前の年に郷里・伊賀で母が他界したことを受け、墓参りを旅の目的に、奈良、京都、名古屋、木曽などを半年間巡る。この旅の紀行文は、出発時に詠んだ「野ざらしを心に風のしむ身かな」の句から『野ざらし紀行』と呼ばれる。 ●『野ざらし紀行』から 「野ざらしを心に風の沁む身かな」“行き倒れて骨を野辺に晒す覚悟をしての旅だが、風の冷たさがこたえるこの身だなぁ” 「馬に寝て残夢月遠し茶の煙」“馬上でウトウトし夢見から覚めると、月が遠くに沈みかけ、里ではお茶を炊く煙が上がっているよ” 「僧朝顔幾死返る法の松」“朝顔が何度も死と生を繰り返すように僧は入替わるが、仏法は千年生きる松のように変わらない” 「命二つの中に生きたる桜かな」“お互いに今までよく生きてきたものだ。2人の生命の証のように、満開の桜が咲き香っているよ”※滋賀・水口の満開の桜の下で20年ぶりに同郷の旧友・服部土芳と再会した時の句。 「手にとらば消ん涙ぞ熱き秋の霜」“母の遺髪は白髪だった。手に取れば秋の霜のように熱い涙で消えてしまいそうだ” 「死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮」“死にもせずこの旅が終わろうとしている。そんな秋の夕暮れだ” ※1686年(42歳)頃の句 「古池や蛙(かわず)飛込む水の音」(『蛙合』)※この有名な句は直筆の短冊が現存している。 「名月や池をめぐりて夜もすがら」“名月に誘われ池のほとりを恍惚と歩き、気が付けば夜更けになっていた”(『孤松』) 「物いへば唇さむし秋の風」(『芭蕉庵小文庫』) 1688年(44歳)、前年の暮れに父母の墓参で伊賀へ帰省し、年が明けて高野山、吉野・西行庵、奈良、神戸方面(須磨・明石)を旅行。この紀行は『笈(おい)の小文(こぶみ)』に記された。 「若葉して御目の雫拭はばや」“若葉で鑑真和尚の盲いたお目の涙を拭ってさしあげたい”(『笈の小文』)※奈良・唐招提寺で鑑真和尚像を見て。今、この木像は国宝になっている。300年前に芭蕉が感動したものを、21世紀の僕らも見入っている…なんかクラッとくる。 同年秋には長野県に向かい、こちらは『更科(さらしな)紀行』となった。旅に明け暮れ、風雅に興じる日々を重ねてゆく芭蕉。だが何か納得がいかなかった。旅が楽すぎるのだ。訪問先では土地の弟子が待ち構えていて最大限のもてなしをしてくれる。過去の偉大な詩人達は、こんなぬくぬくとした旅で詩心を育んだのではない。もっと自然と向き合い魂を晒す本当の旅をしなくては…。 1689年3月27日(45歳)、前年は旅尽くしであったのに、年頭から心がうずき始める。“ちぎれ雲が風に吹かれて漂う光景に惹かれて旅心を抑えきれず”“東北を旅したいという思いが心をかき乱し、何も手がつかない状態”“旅行用の股引(ももひき)を修繕し、笠ヒモを付け替え、足を健脚にするツボに灸をすえている始末”“話に聞きながらまだ未踏の土地を旅して無事に帰れたなら詩人として最高の幸せなのだが…”。彼は「芭蕉庵」を売り払うなど旅の資金を捻出し、万葉集や古今集といった古典に詠まれた歌枕(名所)を巡礼する目的で、弟子の曾良(そら、5歳年下で博学)を供に江戸を発った。この『おくのほそ道』の旅は、福島県白河市(白河関)、宮城、岩手、山形、北陸地方を巡って岐阜・大垣に至るという、行程約2400km、7ヶ月間の大旅行となった。知人が殆どいない東北地方の長期旅行は、最初から多大な困難が予想されており、「道路に死なん、これ天の命なり」(たとえ旅路の途中で死んでも天命であり悔いはない)と覚悟を誓っての旅立ちだった。 -------------------------------------------------------------- ●『おくのほそ道』から名句&エピソード集 「月日は百代の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり」“月日は永遠の旅人であり、去っては来る年も、また同じ旅人である” 江戸→東北→北陸→中部地方へ!歩きまくった! 3月27日江戸を出発。「草の戸も住替る代ぞひなの家」“この芭蕉庵も主が代わることになった。越してくる一家は女児がいると聞く。殺風景な男所帯からお雛様を飾る家に変わるのだなぁ” 4月中旬、蘆野(栃木県那須郡)。「田一枚植て立去る柳かな」“その昔、西行法師が腰を下ろした柳の木陰でしばし感慨に耽っていると、いつの間にか田植えが終わって、ポツンと取り残されていた。さぁ、私もここを立ち去り旅を続けるとしよう” 4月20日、白河の関(栃木と福島の境)。廃されて朽ち果てた関所を通って行く。“ここをこえると陸奥(みちのく)だ。昔々、平兼盛(かねもり)も能因法師も、みんなこの関所を越えて奥州に入ったのか…”と、遠い平安時代の歌人達に心を重ねる芭蕉。 ※僕らにしてみれば芭蕉自身も300年前の人なのに、彼が“昔は…”と、さらに700年前に思いを馳せるのが、何とも人間の歴史を感じさせる。 4月末、浅香山(福島県郡山市)。芭蕉が敬愛する平安時代の歌人藤原実方(さねかた、左遷された清少納言の恋人)が家に飾ったという“かつみ”の花を探し、土地の人にどの花が“かつみ”か尋ねるが、誰も知っている者がいない。沼地に足を運ぶなど、「かつみ、かつみ」と日が暮れるまで探してヘトヘトになった(すべて実方への怒涛の愛から来ている)。 5月1日、飯塚(福島・飯坂)。大変な一夜を過ごす。宿の寝床は土の上にムシロを敷いただけで灯火もない。真夜中に激しい雷雨になり、雨漏りに濡れて目が覚める。「臥せる上より漏り、蚤・蚊にせせられ眠らず、持病(腹痛)さへおこりて、消え入るばかりになん」“蚊やノミに食われまくるわ、タイミングが悪く腹痛まで起きるわで、気を失いそうになった”。 5月2日、笠島(宮城県名取市)。笠島(かさしま)は芭蕉の大好きな西行法師が藤原実方(ふじわらのさねかた)の墓前で歌を詠んだ場所。何としても行きたかったが、実方の墓があるという村里へは大雨で道がぬかるみ歩くに歩けない。体力の限界になりついに墓参を断念した。「笠島はいづこ五月のぬかり道」“嗚呼、笠島は一体どこなのだ…五月雨(さみだれ)の泥んこ道でどうにもならず無念だ”。 ※平安歌人藤原実方(999年没)は天皇の前で書家藤原行成と喧嘩し陸奥守として左遷、落馬して馬の下敷きになり死亡した。芭蕉は元祖墓マイラーの1人。敬愛するを実方を探しに宮城・笠島の近くまで行くが大雨で断念。この500年前に西行法師が実方の墓前で「朽ちもせぬその名ばかりを留めおきて 枯野のすすきかたみにぞ見る」(周囲はすっかり荒れ果て実方の名だけがこの地に残る。枯野に生えるススキがまるで実方の形見のようだ)と詠んでいて、芭蕉は西行LOVEだから、余計に現地にたどり着きたかった。ちなみに、芭蕉が没した2年後(1696)、弟子の天野桃隣が師匠の悲願を果たすため実方の墓にたどり着き、こう詠んでいる「五輪折り崩れて名のみばかり」(五輪塔は折れて崩れ実方の名だけ土地に残っている) 5月7日、宮城県多賀城市。奈良時代の石碑を見て感激する芭蕉。“古歌(こか)に詠まれた名所は数多いが、実際に訪れると山は崩れ、川の流れが変わり、道も変更され、石は土中に埋まり、木は老いて若木と交代している。時が経って名所の跡が不確かなものばかりだ。しかるに、この石碑はまさしく千年前の記念碑であり、旅の苦労も吹き飛び、感激の涙がこぼれ落ちそうだ”。 5月8日、塩竃(しおがま)神社。義経を守って共に戦死した和泉三郎(奥州藤原氏の三男)の寄進物を見て感じ入る芭蕉。“社殿前の石灯篭に「文治三(1187)年、和泉三郎が奉納した」と彫られている。三郎は勇義忠孝の士。今から500年も前に生きていたその人物の面影が目に浮かんできて、私は心を奪われた”。 5月9日、日本三景の松島。宿は二階建てで、部屋に居ながらにして松島を一望することが出来た。“風や雲の中で旅寝するようなもので絶妙の心地であった。同行の曾良は句を詠んだが、私は松島の絶景に感動するあまり、一句も詠むことが出来なかった”。 5月13日、岩手県平泉。義経が自害した土地を訪れたが戦場の跡は草むらと化していた。“杜甫の詩に「国破れて山河あり(国は滅んでも山河は昔のまま)」とあるが、本当にその通りだ。私は笠を置いて腰を下ろし、時が経つのも忘れて、ここで起きた悲劇を思い涙に暮れた”。「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」“今は夏草が生い茂るだけのこの地は、英雄達が夢に殉じた跡なのだ”。 5月15日、尿前(しとまえ)の関所。宮城の鳴子温泉から山形に抜けようとして、滅多に旅人が通らぬ関の番人から不審尋問を受ける。ようやく解放されたものの山中で日没となり、付近の人里で宿を借りた。天候が荒れて3日間も山に閉じ込められるハメになる。「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」“ノミやシラミに食われるうえ、枕元では馬が小便する音まで聞こえる壮絶な一夜だ”。 翌日、山刀伐(なたぎり)峠を越えようとしたが、宿の主人は道が険しくガイドなしでは無謀という。案内を引き受けたのは腰に刀を差した屈強な若者。「高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くが如し」“木々は薄暗く生い茂り、鳥の声ひとつせず、夜道を行くようだ”。芭蕉は“何か危険な目に遭いそうで心配だ”と内心ビクビクで後について行った。「踏み分け踏み分け、水を渡り、岩につまづいて、肌に冷たき汗を流して」ようやく最上地方に出た。山越えを終えた若者“実は、この道はいつも山賊が出て面倒が起きるのですが、今日は何事もなく幸いでした”。「後に聞きてさへ、胸とどろくのみなり」“後に聞いても胸の鼓動がいつまでも収まらなかった”。 5月27日、山形県・立石寺。「素晴らしい必見の山寺があるんですよ」と地元の人に教えられ、30キロも道を引き返して立石寺を訪れる。山麓の宿に荷を預け、夕暮れの本堂に登る。土も岩も古色(こしょく)を帯び、なめらかな苔が覆っている。岩の上を這い上がってようやく本堂を拝んだ。「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」“夕暮れに静まり返るなか、セミの声だけが岩に染み入るように聞こえてくるよ”。 6月3日、山形の新庄から舟で最上川を下る。「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」“最上川が五月雨で増水し、凄まじい急流になっている”。途中で下船して出羽三山に登り、再び舟で下って6月中旬に最上川の河口・酒田港へ出る。「暑き日を海に入れたり最上川」“暑い一日を最上川が海に流し入れてくれたよ”。 6月17日、この旅の北端となる象潟(きさかた、山形と秋田の境)に到着。かつてこの地で歌を詠んだ西行法師や能因法師に気持を重ねる。象潟は松島や平泉と並んで芭蕉にとって旅のハイライトであり、“西行法師も同じ景色をここに立って見たんだなぁ…”と感無量になった。 この後、酒田に戻って北陸街道に入り加賀(石川県)を目指して歩き続ける。道行く人に金沢までの距離を聞くと「130里(500km)くらいですよ」と言われ、一瞬めまいに襲われる。 7月2日、市振(いちぶり)の関(新潟と富山の境)に到着。“越後(新潟)を抜ける9日間は、暑さや雨にやられて疲労がピークに達し記録をつけられなかった”と芭蕉は弁明。「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」“夜の荒海、波音の彼方に黒々と見える佐渡ヶ島に、天の川が横たわり掛かっている”。 7月15日、金沢。芭蕉は当地に住む愛弟子の一笑との再会を楽しみにしていたが、彼は前年冬に36歳で他界していた。「塚も動けわが泣く声は秋の風」“墓よ動いてくれ、この寂しき秋風は私の泣く声だ”。芭蕉は血涙慟哭する。 7月下旬、多太神社(石川県小松市)。源平時代に付近の合戦で討ち取られた老将・斎藤実盛(木曽義仲の恩人)の兜を前に一句「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」。※きりぎりすは今のコオロギ。 8月上旬、山中温泉を過ぎたあたりで曾良は腹の病気になり、伊勢長島の親類の家で療養することになった。3月末からずっと一緒に旅をしてきた曾良がいなくなり、とても寂しい芭蕉。しかし旅はまだ続く。加賀市の外れにある全昌寺に泊まり、福井に入る計画を立てる。翌朝旅立つ為に堂を降りると、背後から若い僧侶達が紙や硯(すずり)を抱えて、必死で追いかけてきた。“「ぜひとも一句を!ぜひとも!」こちらも慌てて一句をしたためた”。 8月14日、敦賀(福井県)。この夜の月は実に美しかった。近くの神社を散歩すると、松の木々の間から月光が射し込み、白砂が一面に霜を敷いたように輝いていた。宿に戻って“明日の十五夜もこうだろうか”と亭主に尋ねると“北陸の天気は変わりやすく明晩のことも分からぬのです”との返事。翌日は 亭主の予想通り雨降りだった。「名月や北国日和(ほっこくびより)定めなき」。 8月末、行程の最終目的地、岐阜大垣に到着。病気が治った曾良が迎えてくれた。“久しぶりに会う親しい人たちが昼も夜も訪ねてきて、まるで私が生き返った死者の様に、その無事を喜びねぎらってくれた”。 9月6日、伊勢に向かう為に大垣を出発。新たな旅の始まりだ。※ここで『おくのほそ道』は終わっている。紀行文のラストが川舟に乗り込む芭蕉の後ろ姿。旅をこよなく愛する、芭蕉の生き様を象徴した終わり方だ。 『おくのほそ道』 ---------------------------------------------- ●晩年 『おくのほそ道』の旅の途中で、芭蕉の中に「不易(ふえき)流行」という俳諧論が生まれる。目標とすべき理想の句は、時代と共に変化する流行(流動性)を含みながらも、永遠性を持つ詩心(普遍性)が備わっているもの、とした。 1691年(47歳)、東北への旅の後は、しばらく弟子・去来が京都・嵯峨に構える別荘「落姉舎(らくししゃ)」と、芭蕉が愛した源平時代の武将・木曽義仲の墓がある滋賀大津・義仲寺の庵に交互に住んだ。この頃、『嵯峨日記』を記す。48歳、江戸へ戻る。 1693年(49歳)、江戸に戻った芭蕉を待ち受けていたのは、“ぜひ句会に御出席を”“当句会の審査員を”“この歌の出来はどうでしょうか”、そんな来客の嵐だった。過密スケジュールに心身が疲れ果てた彼は、門戸に「来客謝絶」と貼って1ヶ月間すべての交流を断った。そして新たに「軽み」の境地に至り門戸を開く。「軽み」とは“私”を捨てて自然に身を委ねること。肩の力を抜き自由な境地で自然や人間にひょうひょうと接していく達観の域に、芭蕉は分け入った。 ※この頃の句 「秋近き心の寄るや四畳半」“寂しげな秋の気配が漂うと、四畳半で語っているうちに互いの心がしんみり寄ってゆく”(『島の道』) 「梅が香にのつと日の出る山路かな」“早春の夜明け前、梅が香る山路の先に大きな赤い朝日がのうっと昇りはじめた”(『炭俵』) 1694年、俳諧紀行文『おくのほそ道』が完成。同作は400字詰め原稿用紙50枚たらずであるが、芭蕉は練りに練って3年がかりで原稿をまとめ、2年をかけて清書を行ない、この年の初夏にようやく形になった。5月、江戸を出発して西国の弟子達へ「軽み」を伝授する旅に出るが、4ヵ月後に大坂で病に伏し、御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方にて、10月12日午後4時に永眠した。享年50歳。病が癒えれば、芭蕉は初めて九州の地へ足を延ばすつもりだった。 遺言は「私を木曽義仲公の側に葬って欲しい」。この言葉に従って、没した夜に弟子10名(去来、其角他)が亡骸を川舟に乗せ、淀川を上って翌日に義仲寺に到着。14日夜に門弟80人が見守る中、義仲の墓の隣に埋葬された。遺髪は旧友・服部土芳の手で故郷の伊賀に届けられ、松尾家の菩提寺・愛染院に造られた「故郷塚」に納められる。芭蕉没後8年目の1702年、『おくのほそ道』が刊行された。 芭蕉の忌日は「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」の句にちなみ“時雨(しぐれ)忌”と呼ばれ、毎年11月の第2土曜日に法要が営まれている。また、大阪市中央区久太郎町4丁目付近に“芭蕉終焉の地”の石碑がある。 芭蕉が生涯に詠んだ句は約900句。紀行文はすべて死後に刊行された。“侘び・さび・細み”の精神、“匂ひ・うつり・響き”といった嗅覚・視覚・聴覚を駆使した文章表現、そして「不易流行」「軽み」。この芭蕉の感性は多くの俳人を虜にし、いつしか『俳聖』と呼ばれるようになった。 最期の句は死の4日前の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」“旅先で死の床に伏しながら、私はなおも夢の中で見知らぬ枯野を駆け回っている”。芭蕉が敬慕してやまない偉大な先人たち、西行、李白、杜甫らと同様に、彼も旅の途中で果てたのだった。 ※生前に刊行された芭蕉一門の撰集は6冊の歌選集のみ。『冬の日』(1684)…蕉風が確立、『春の日』(1686)…「冬の日」の続編、『阿羅野』(1689)…さびの句、『ひさご』(1690)リアルな描写、『猿蓑』(1691)…芭蕉晩年の俳論を反映、『炭俵』(1694)…軽み強調。同年芭蕉没。死後の『続猿蓑』(1698)を入れて“俳諧七部集”と呼ばれる。 ※芭蕉忍者(隠密)説…伊賀の里の出身者であり、歩く速度が異様に速く、『おくのほそ道』の内容に不自然な点があることから、伊達氏の仙台藩の動向を調べる任務を負っていたのではと一部で指摘されている。出発前は「松島の月が楽しみ」と言っているのに、いざ松島に着くと一句も詠まずに一泊で素通りし、なぜか須賀川では7泊、黒羽では13泊もしている。そもそも江戸を出る時から、同行人の曾良の日記「3月20日出発」と、芭蕉の「27日出発」でズレている。こうした両者の記録違いは約80ヶ所もあるという。芭蕉の任務が諸藩の情報収集であれば長旅の連続も理解できる。だがこれらは取るに足らないことだ。隠密だろうと何だろうと、彼が詠んだ名句は本物だ。 ※芭蕉は門弟の杜国(とこく)を“心も身体も”愛していた。芭蕉は彼を幼名のまま「万菊丸」と呼び続け、「寒けれど二人寝る夜ぞたのもしき」と残し、2人で伊勢から吉野まで花見にも行った。その思いは『おくのほそ道』後の晩年まで変わらず、万菊丸と会えない日が続くと、『嵯峨日記』に「夢の中で杜国を思い出し、涙で目がさめた」と、センチな想いを綴っている。 ※没後、門下からは、豪放な其角、美濃派の支考や加賀千代、伊勢派の涼菟(りょうと)や乙由(おつゆう)など多数の俳人がでた。 ※さまざまのことを思い出す桜かな(芭蕉) ※芭蕉像は大量にある!
福島県白河市・白河関の森公園(曾良もいる)
宮城県石巻市・日和山公園(曾良もいる) 三重県上野市・近鉄上野市駅前
三重県伊賀町・役場前
江東区・芭蕉庵史跡展望庭園(隅田川の河岸) 江東区深川・採茶庵跡 足立区郷土博物館
滋賀県大津市・京阪石山駅前 三重県津市・丸之内商店街(歴史散歩道) 栃木県黒羽町・芭蕉の里(珍しい馬上像)
山形県・山寺(曾良もいる)
岩手県平泉・中尊寺金色堂、その他まだまだいっぱいある!
※義仲寺の境内には弟子の又玄(ゆうげん)によって「木曾殿と背中合せの寒さかな」と刻まれた句碑が建つ。義仲寺近くの竜ケ丘俳人塚には蕉門十哲の1人内藤丈草ら俳人17人の墓がある。芭蕉の墓は滋賀県大津市の義仲寺、三重県伊賀市の愛染院の他、大阪だけで6カ所ある! 以下はコチラのサイトの情報から。
浄春寺:大阪市天王寺区夕陽丘町…1793年、芭蕉100回忌で門前に建立。同寺には田能村竹田、麻田剛立など文化人が多く眠る。 梅旧院:大阪市天王寺区夕陽丘町…不二庵二柳が建立。二柳の墓もあり。境内の「芭蕉堂」は二柳が円成院から移した。浄春寺の前。 円成院:大阪市天王寺区下寺町2丁目…芭蕉十哲の志太野坡が1734年建立。1783年、不二庵二柳が再建。1694年の芭蕉最後の旅で当寺訪問。 四天王寺:大阪市天王寺区四天王寺1丁目…1761年、志太野坡の門人・湖白亭浮雲がに野坡20回忌で建立。隣りに野坡の墓。 鉄眼寺:大阪市浪速区元町1丁目…正式には瑞龍寺。芭蕉と十哲・宝普(宝井其角)の碑。 吉田墓地:東大阪市吉田4丁目…1843年、芭蕉150回忌に門人が建立したっぽい。墓地前に花園ラグビー場。 芭蕉関連のお薦め資料・鬼サイト3選→ http://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/oku/aaipi01.htm 芭蕉の銅像が大集合 http://www.bashouan.com/index.htm 芭蕉庵ドットコム http://www.ict.ne.jp/~basho/works/reference.html 芭蕉の俳句・検索システム http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/Default.htm 芭蕉俳句全集 http://www.intweb.co.jp/basyou/naruko_hagurosan.htm 尿前の関、山刀伐峠など充実画像
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墓のすぐ側にゲートボール場があり、超盛り上がっていた。この「歌塚」の下に人麻呂の遺髪が収められているという |
17時14分到着。心なしか寂しい時刻表 | 無人駅の駅舎の隣に人麻呂生誕地の碑 | 正式な生誕地はもっと山里にある。ひたすら真っ直ぐ歩く |
ここが本当の生誕地 | なんと、生誕地にも遺髪塚が!墓マイラーには嬉しい新発見 |
墓所から前方を見る。向かいの山中に柿本神社がある |
人麻呂を祀った戸田柿本神社 |
千年前の地震で沖合いの島が沈んだという (その島にオリジナルの墓があった) |
おったまげたのはこの「人丸塚」。京都壬生寺の新選組の墓所内にあった! なぜ?どういう経緯でここに!?人麻呂の灰塚なんだって!(2008) ※「人麻呂」→「人丸」→「火止まる」で火除けのご利益があるらしい |
柿本朝臣(あそみ)人麻呂。万葉集第一の歌人で「歌聖」と称えられ、持統朝(686-702)・文武朝(697-707)のもとで活躍した飛鳥時代の宮廷歌人。三十六歌仙の一人で、万葉集には長歌19首・短歌60余首、計80首以上が収められている。最初に記載された「草壁皇子挽歌」が詠まれた689年からの10年間に最も活躍した。出生地は近江、石見、大和・新庄町柿本など諸説ある。 人麻呂の身分については、古文書(正史)に官位の記載がないことから下級役人とする説(5位以上なら記録アリ)と、皇子や皇女の追悼式典で故人を称える「挽歌」を詠むなど、公の場で皇族に関する歌を詠むことを許されている事から高級官僚だったとする説に分かれている。 690年に天皇の行幸に従って吉野を訪れたほか、702年に紀伊へ入っている。歌で詠まれた地名から、彼が宮廷と距離を置いた708年以降に四国(讃岐)・九州(筑紫)、近江、東国、山城へと旅をしたようだ。 ●2人の女性 人麻呂の歌に触れると、真っ直ぐに人を愛する力、人の死に対する胸が張り裂けんばかりの悲しみ、こういった人間のエネルギーに圧倒される。 彼の妻は持統天皇に仕える官女で、飛鳥・軽の里(奈良県橿原市)に住んでいた。大きな壁を乗り越えて結婚しており、2人は深く愛し合っていた。しかし、妻は病に倒れ夫と子を残し先立つ。万葉集には人麻呂が「泣血哀慟(きゅうけつあいどう)した」とある。血の涙が出るほど泣き叫んだのだ。 人麻呂は妻の死を使いの者から知らされた時のことをこう記す。「私は打ちひしがれ、混乱し、千分の一でも悲しみが紛れることもあろうかと、妻がいつも足を運んでいた市場に出かけて、耳を澄ましてみた。しかし、妻の声どころか、山鳥の声さえ聞こえず、道行く人にも妻と似た人など一人もいない。もう為す術がなく、ただ繰り返し妻の名を呼び、ひたすらに袖を振り続けるしかなかった」。 「妻が形見に遺した幼な子が、何かを欲しがって泣くたびに、与えるものもなく、子を脇に抱えて、昼は心寂しく過ごし、夜はため息をつき明かし、いくら嘆けど恋焦がれても逢う方法がなく、霊山に恋しい人の魂が戻ると人に教えられて、岩を踏み分けて登ったが、妻の姿は影すら見えなかった」。 以下、人麻呂が妻を想って詠んだ歌を紹介。万葉集に出てくる「妹」(いも)は妻や恋人をさす言葉だ。 『秋山の 黄葉(もみぢ)を茂み 惑ひぬる 妹(いも)を求めむ 山道(やまじ)知らずも』 (秋の山に紅葉があまりに繁っているので、迷い込んでしまった妻を捜し求めようとしても、私にはその道が分からない) ※万葉の時代、死者の霊は山で生活すると考えられていた。人麻呂は恋しさから彼女の故郷の里山に入って、この切なくも美しい歌を詠んだ。 『黄葉の 散りゆくなへに 玉梓(たまづさ)の 使を見れば 逢ひし日思ほゆ』 (紅葉が散る季節になると、文の使いを見るにつけ、妻と逢った日を思い出すよ) 『去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年離(さか)る』 (去年に見た秋の月は、今も変わらず照らしているが、一緒に眺めた妻は遠くへ逝ってしまった) 『淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す』 (淡路島北端の岬から大和を思い、旅立ちの時に妻が結んでくれた上着の紐を浜風に吹き任せているよ) 『夏野行く 小鹿の角の 束の間も 妹が心を 忘れて思へや』 (夏の野を行く鹿の、抜け替わった角ほど短い一時でも、けっして妻の真心を私は忘れない) 後年の人麻呂は、下級の国司(地方官)として石見(いわみ)国(島根県)に赴任する。これは、単なる人事異動ではなく、何らかの懲罰人事として都から左遷されたとみる説が多い。華やかな宮廷から遠く離れ嘆いていたが、やがて彼はこの新天地で心から愛することができる女性と巡り会い再婚している。人麻呂は都へ出張で向かう時に、しばしの別れ(片道29日)を嘆いて次の歌を詠んだ。 『(略)この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろず)たび かへりみすれど いや高に 里は放りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎えて偲ふらむ 妹が門見む 靡(なび)けこの山』 (都に向かう途上で、曲がり角ごとに何度も振り返ってしまう…既に遠く村里は離れ、山も越えてしまった。今ごろ妻は夏草のようにしおれているだろう。妻のいる我が家が見たいので、どうか山よ横に平になって欲しい) 『石見のや 高角山の 木の際(ま)より わが振る袖を 妹見つらむか』 (妻が住む石見の高角山の木の間から、私が袖を振っていたのを彼女は見てくれたのかなぁ) ●謎の死 人麻呂は奈良期の作品が見当たらないことから、平城京への遷都前後に他界したと見られている。死因は諸説あり、不慮の事故死、疫病死(斎藤茂吉)、持統天皇への殉死、刑死(梅原猛)など様々だ。この様に説が分かれるのは、万葉集に記された「人麻呂が死に臨んで自ら傷(いた)みて詠んだ」辞世歌や、妻&友人による追悼歌が穏やかでないからだ。人麻呂の最後の歌は以下のもの。 『鴨山(かもやま)の 岩根(いはね)し枕(ま)ける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ』 (鴨山の岩を枕に死につつある私を、妻は今ごろ何も知らずに待ちわびているのだろうか) そして妻の依羅娘子(よさみのをとめ)が、人麻呂の死んだ場所に駆けつけて詠んだ歌が続く。 『今日(けふ)今日と わが待つ君は 石見津(いわみづ)の 貝に交じりて ありといはずやも』 (今日か今日かとお帰りを待っていたあなたは、石見津(浜田川の河口)の貝に混じっているというではありませんか) さらに、人麻呂の友人が水底の彼の心を代弁した詠んだ歌が出てくる。 『荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げけむ』 (荒波に打ち寄せられる石を、枕にした私がここにいる事を、誰が妻に知らせてくれたのだろう) どれも異常な内容だ。妻と友人は、人麻呂の亡骸が水底に沈み貝に混じっていると嘆いている。梅原猛は人麻呂の最後の歌が「自傷歌」と呼ばれていることに注目した。万葉集で他に「自傷歌」を詠んだ人は、反逆罪で刑死した有間皇子だけであり、人麻呂も何らかの政争に巻き込まれて失脚し、石見国に配流され、最終的に水死刑に処せられたと推測されている。 「歌聖」人麻呂は他界後に神となった。島根県益田市の「柿本神社」は創建が724年というから、早い時期から彼が神格化されたことが伺える。人麻呂が辞世で詠んだ「鴨山」は、益田市の高津沖にあった「鴨島」のこと。この島は人麻呂の死の約300年後(1026年)に大地震&津波で水没し、今は存在しない。 奈良・天理市櫟本(いちのもと)。和邇下(わにした)神社の西にゲートボール場があり、敷地の奥に樹木に囲まれた人麻呂の墓・歌塚が建つ。この地は人麻呂の生地と伝えられ、かつては奈良時代に創建された「治道山柿本寺」があったが、明治初年の廃仏毀釈の犠牲になって、現在は境内の人麻呂墓を残すのみとなった。この墓には赴任先の石見国から、妻が人麻呂の遺髪を持ち帰って埋葬したという(遺言で故郷への埋葬を希望したらしい)。現在の碑は1732年のもので、表面の「歌塚」の二文字は、第111代・後西天皇の皇女・宝鏡尼の筆による。 人麻呂墓の伝承地は多く、奈良では新庄町の柿本神社、大和高田市根成柿、吉野郡吉野町などに墓所があり、島根にも遺髪塚がある。 ●歌人としての人麻呂 人麻呂が生きた当時は、仏典と共に文字が入って来て百年が経ち、歌が口承から記載へ転換し始めた革新の時代。人麻呂の歌風は、枕詞や序詞、対句を自在に活用した格調高いもの。彼は140種あまりの枕詞を駆使したが、これらの半数は人麻呂が創造したものとされている。声調が美しく整った調べは人々の心を震わせ、『古今和歌集』では「歌聖」と讃えられた。修辞を画期的に進化させ、対句を美しく練り上げ、長歌(ちょうか)の完成者と呼ばれている。※長歌…5音7音でずっと繰り返し一番最後を5・7・7で結ぶ歌。 人麻呂は従来の和歌より遥かに規模の大きな長歌をつくり、5・7の定型を確立し、末尾を5・7・7に統一した。長歌とセットになった反歌には複数の短歌が続くものが多く、長歌の内容をさらに膨らませる構成になっている。 古代の朝廷では、葬儀と挽歌(追悼の長歌)は不可分だった。宮廷歌人の人麻呂もまた、儀式の為に作歌したが、それまでの歌人と異なり、単なる儀礼や慣習を超えた世界にある、ナマの感情を豊かに歌い上げた。同時に人麻呂は、公の立場で歌ったものではない、一人の人間として愛する者を失った慟哭も、数多く残している。 『万葉集』の長歌265首のうち最短は7句。一般には十数句から二十数句だ。しかし、人麻呂は149句という空前絶後の『殯宮(ひんきゅう)挽歌』(万葉集第2巻)を作歌しており、これは質量共に他を圧倒する“和歌のエベレスト”と呼ばれている。『殯宮挽歌』で追悼されたのは、696年に42歳で他界した天武天皇の皇子、高市皇子。皇子は壬申の乱で戦闘の総指揮をとって大活躍したことから、人麻呂は躍動感溢れる描写を挽歌に詠み込んだ。以下、その一部を抜粋。恋愛歌とは全く別種の、人麻呂の荒ぶる気迫がここに炸裂している。 『…御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 旗の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風の共 靡くがごとく 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく…』 (軍を激励する陣太鼓の音は雷鳴と聞きまごうばかり、吹き鳴らす角笛の音も、荒れ狂う虎が吼えるているかと誰もが怯えるほどで、軍旗がなびく様子は、春の野火が風に煽られ一斉になびくようで、弓先の音は雪林に烈風が吹き巻くかと思うほど恐ろしく、引き放たれた無数の矢は、大雪が乱れ降るようで、長く抵抗してきた者どもは、水霜の如く消え行くように思われ、云々) ●最後に…特選3歌 『あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む』 (山鳥の長く垂れた尾のように長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう) ※有名なこの歌は『小倉百人一首』で人麻呂の作となってるが、『万葉集』(11巻)では作者未詳になっている。 『天(あま)の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ』 (雄大な天の海に雲の白波が立ち、月の舟が星々の林に漕ぎ入っていくのが見えるよ) ※人麻呂歌集から。この歌集は約360首からなるが、人麻呂が感動して集めてきた歌も多いようだ。 『東(ひむがし)の 野に炎(かぎろい)の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ』 (東の野原に燃える朝陽が昇り始め、振り返って西の空を見ると残月が沈みつつあった) |
墓に向かう道すがら。眼下には雄大な琵琶湖が! |
ぐおっ!道に迷った!山をひとつ間違え、写真の 奥に見える寺から戻って来るはめに。ヒーッ! |
「光が差していない…」ほんと にこのケモノ道を行くのか? |
や、やっと会えた。なんちゅう山奥!(2002) | 2012年に再訪。案内柱が折れている… | 「紀貫之朝臣之墳」とある |
平安前期の歌人・随筆家。三十六歌仙の1人。幼名は阿古久曽。幼少時に歌人の父を失う。紀(きの)氏一族は元々和歌山を拠点に栄えた豪族。若い頃から漢文学や書をよくし、宮中で詔書(天皇の文章)の起草を担当した後、900年(32歳)に宮廷の書籍を司る「御書所預(みふどころのあずかり)」に就任。20代前半から何度か歌合(うたあわせ)に加わって宮廷歌壇で注目を集めていたことから、905年に醍醐天皇が日本初の勅撰和歌集『古今和歌集』全20巻の制作を決めた時に、4人の撰者の1人に選ばれた(撰者の中では最年少37歳)。 『古今集』の選定作業が始まって間もなく、年長で筆頭撰者だった従兄の紀友則が他界し、その後は若手歌人のリーダー格だった貫之が選定の中心となった。貫之はまず可能な限り古歌や各家集を収集し、次にそれぞれの歌を四季・恋・雑などに分類、名歌を並べていった。この方法は後世の和歌集制作の規範となる。貫之は『古今集』の冒頭に文学史上最初の歌論『仮名序』を執筆。貫之は『古今集』に最多99首が収めらた歌人として名声を築き、また文学者としても不動の地位を手に入れた。※“最多”と言っても撰者本人というのが微妙なんだけどネ(汗)。 ●歌論『仮名序』 「“やまとうた(大和歌=和歌)”と申しますものは、人の心を種にたとえますと、それから生じて口に出て無数の葉となったものであります。この世に暮している人々は、さまざまの事にたえず接しておりますので、その心に思うことを見たこと聞いたことに託して言い表したものが歌であります。花間にさえずる鶯(うぐいす)、清流にすむ河鹿(かじか)の声を聞いてください。自然の間に生を営むものは、どれもが歌を詠んでいます。力ひとつ入れないで神々の心を動かし、目に見えないあの世の人の霊魂を感激させ、男女の間に親密の度を加え、荒らぶる武人の心さえも和やかにするのが歌であります」 貴族の間では貫之の歌が最も重宝され、彼もそれに応えて多くの屏風歌(屏風を飾る絵と一緒に書かれる和歌)を詠んだが、名声に反して朝廷での官位は生涯低かった。その背景には紀氏全体の不遇と没落が影を落としている。貫之が生まれる10年ほど前に皇位継承を巡って皇子同士で政争があり、兄方の母が紀氏、弟方の母が藤原氏だった。普通なら兄が皇位に就くものだが、権勢の拡大を狙う藤原氏は皇室に猛烈な圧力をかけて弟を天皇にした。しかも弟がまだ8歳だったことから藤原氏(藤原良房)が皇族出身以外で初めて摂政に就き、権力を欲しいままにする。 紀氏をはじめ、小野氏など兄側についていた貴族達は、摂政の座を手に入れた藤原氏に片っ端から地方へ飛ばされ失脚。この様なことから貫之が『古今集』の中で六歌仙に選んだ歌人は、地方をさ迷う事になった小野小町、「応天門の変」で死罪になった大伴氏(伴大納言)の一族・大伴黒主、三河に左遷された文屋康秀、妻が紀氏の在原業平(13年間も昇進しなかった)など、権力者によって辛酸を舐めさせられた人ばかり。六歌仙はその歌が素晴らしかったこともあるが、貫之の心情的な共感や哀れみが深く影響していると言っていい。 ※『竹取物語』は日本最初の仮名物語であり、制作された年代からも作者は紀貫之と言われ、かぐや姫に言い寄る嘘つき&ケチ男の車持皇子(くらもちみこ)は藤原不比等が露骨にモデルとされている。 930年(58歳)、貫之は当時としては高齢の約60歳で土佐守に命じられ、都を出て四国へ向かった。赴任期間は4年。土佐の滞在中に醍醐天皇の勅命で『新撰和歌集』を編纂した。 635年(63歳)、土佐での任期を終えて帰京するまでの55日間を『土佐日記』として綴った。これは歴史的な作品となる。当時の日記は男が漢文で記すものであり、内容は単に儀式の記録やメモ程度のもので、個人の内面世界(人生観)が語られることはなかった。もちろん「文学」とはほど遠い。貫之は女の作者を装って、日本文学史上初めて平仮名で日記を書き、そして感情の赴くまま自由に筆をふるった。冒頭の「をとこもすなる日記といふものを…」“男が書くという日記というものも女の私もつけてみようかと思う”で始まるこの作品は、和文(日本語)の文学の先駆けとなり、のちに紫式部や清少納言らが刻む女流文学の土台となった。 『土佐日記』の中で魂を解放した貫之は、とても親しみやすい横顔を見せる。酔っ払いのことを「一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みて遊ぶ」“一という字さえ知らない男が足で十という字を書いている”と面白く例えたり、ダジャレを言ったりグチをこぼしたりお色気があったり、どこにでもいる普通のお爺さん。長い船旅の描写はとてもリアルで、読み手も同行している錯覚を味わう。船客の船酔いの様子、室戸市羽根の沖合いで男の子が「はねって鳥の羽?」と尋ねまわって大人たちが笑う場面、4年間に鎮圧した海賊の報復にビビリまくっての夜中の船出、読んでて全く退屈しない。日記の最後の一文は「とまれかうまれ、とく破りてむ」“ともかくこんなものは早く破り捨ててしまおう”。こんな言葉で締めくくられた文学史の金字塔を愛さずにはいられない。 【土佐日記/和歌10選〜旅立ちから都入りまで・登場順】 ※ユーモアにあふれる土佐日記だが、冒頭から最後まで貫いているひとつの悲しみがある。それは都で生まれた幼い娘が土佐で亡くなったこと。子に先立たれた親の悲痛な嘆きが繰り返し語られ、読み手は胸を打たれてしまう。 ●船出の日〜旅立ち 『都へと思ふをものの悲しきは 帰らぬ人のあればなりけり』 (ついに都へ戻る時がきたのにこうも悲しいのは、一緒に帰るはずのあの娘が死んでしまったからだ…) 『あるものと忘れつつなほ亡き人を いづらと問ふぞ悲しかりける』 (あの娘が死んでしまったことを忘れて「どこへ行ったのか」と尋ね、ハッと気づいた時の悲しさはたまらない) 『棹(さお)させど底も知らぬわたつみの 深き心を君に見るかな』※見送りの人々へ (棹をさしても海の底が分からぬように、そんな深い御好意をあなた方から感じました) ●船歌〜船上や港で 『照る月の流るる見れば天の川 出づる水門は海に然りける』 (月が空を流れて海へ落ちてゆくのを見てると、天の川が流れ出る河口はやっぱり海のようですね) 『立つ波を雪か花かと吹く風ぞ 寄せつつ人を謀るべらなる』 (波を雪や花に見間違いさせるのは、吹き付ける風のいたずらでしょう) 『都にて山の端に見し月なれど 波より出でて波にこそ入れ』 (周囲が山の京の都では、山際に出入りする月を見たけれど、ここでは波から昇り波に沈んでいくよ) 『波とのみ一つに聞けど色見れば 雪と花とに紛ひける哉』 (波は耳で聞くと一つの音なのに、目で色を見ると、白い波が雪や花に見えるなぁ) 『麻をよりてかひなきものはおちつもる 涙の玉を貫かぬなりけり』 (麻をよって糸にしても、落ちる涙の玉を貫きとめることは出来ません) 『忘れ貝拾ひしもせじ白珠(しらたま)を 恋ふるをだにも形見と思はん』 (忘れ貝なんか拾わない。白珠のように美しかったあの娘を恋しく思う気持ちは、死んだ娘の形見なのです) ●エピローグ〜京の家に戻って 『生まれしも帰らぬものをわが宿に 小松のあるを見るが悲しさ』 (この家で生まれた娘が他所で死んで帰ってこないのに、留守中に新しく生えた小松を見るのは何と悲しいことか) この当時、地方で勤めを果たして都へ戻って来た役人は出世するのが一般的だったが、貫之は平安京に帰ってから数年間は何も職が無く、官位も8年後(943年)にようやく従五位下から従五位上になった。ときに71歳。この昇進の遅さは、やはり藤原氏との抗争に敗れた紀氏出身者という事情だろう。貫之はその2年後の945年に他界した。享年73歳。死の20年後に清少納言が、32年後に紫式部が生まれた。 ※貫之は『古今集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の全てで最多入集歌人となり、勅撰集には総計475首が入っている。子の時文(ときぶみ)も歌人となり『後撰和歌集』を編集した。現存する貫之の歌は1064首という。 『春の野に若菜つまんと来しものを 散りかふ花に道はまどひぬ』(古今集) (若菜を摘もうと思って春の野原に来たけれど、散り交う花に魅せられ道に迷ってしまったッス) 『人はいさ心も知らず古里は 花ぞ昔の香ににほひける』(小倉百人一首) (人の心は移ろいやすくて先が分からないけれど、古里の梅の香りは昔のままずっと変わらないよ〜) ●墓 貫之は天台宗中興の祖・延暦寺の良源と親交があり、墓も比叡山の山中に建つ。比叡山ケーブルカーの「裳立(もたて)山」駅から登り下りのある山道を約300m歩いた場所(10分くらい。細い山道なのでもっと遠くに感じる)に、彼の髪や爪が埋められた塚がある。貫之はこの山から見える風景を愛し、当地を墓所に選んだそうだ。塚は『土佐日記』の旅立ちの地、南国市から贈られた五色玉石で敷き詰められていた。途中の山道からは琵琶湖が見え、谷を挟んで無道寺明王堂も見える。※塚の上の石碑は明治元年(1868年)のもの。 |
「子規居士之墓」 背後の竹藪に風情がある (2008) |
墓前で献句しようと超熟考(1999) ※この頃の竹藪は凄い |
複雑だった日本語が易しくなったのは彼のおかげ!それまで一部の 文学者のものだった日本語を、誰でも書ける平易な日本語に変えた |
正岡子規は明治の俳人・歌人・写生文家。近代日本語の創造者。1867年10月14日愛媛県松山の生まれ。本名は常規(つねのり)、幼名は「升(のぼる)」。性格は底抜けに明るく、屈託がなかった。1884年(17歳)、東京大学予備門(のち第一高等中学校、東京大学教養学部)へ入学、俳句を作り始める。1889年(22歳)、同窓生の夏目金之助(漱石)と共通の趣味(寄席)を通して無二の親友となり、文学的・人間的影響を与えていく。子規は54種類以上もあった自分の雅号から「漱石」を譲った。
同年、突然喀血し1週間も吐血が止まらず、医者は当時不治の病とされた結核と診断した。この病により俳号を「子規」とした。“子規”とはホトトギスのことで、口の中が赤いことにちなんでいる(血を吐くような声で鳴くからとも)。 「我が命は今より10年。政治家となろうか、文学者となろうか、我は文学者を選ぼう。政治家というものは、40歳を超えなければ、天下を動かすことはできない。朝夕の命も定まらない身で、どうして40歳を待つことができようか。しかし、文学はそうではない。40歳を待たず、30歳を待たず」(1899「病牀譫語/びょうしょうせんご」) 俳句の研究を本格的に始め、過去の数万の俳句を季語や表現の種類など徹底的に分類し『俳句分類集』にまとめる。その結果、過去の俳句は限定された言葉を形式的に組み合わせているだけということが分かった。 1892年、生活のために大学を中退し、25歳で新聞社に入社。子規は文芸担当となり、ワンパターンの形式的な俳句を新聞紙上で「月並み」と酷評する一方で、どうすれば革新できるか悩んだ。状況打破のきっかけとなったのは若い画家たちとの交流で聞いた次の言葉だった。「空想で描けば、熟練した老人が若い者に必ず勝つ。しかし、写生ならば、若い者でも老人を驚かすほどの作品を描くことができる」(1895「俳諧大要」)。 子規は俳句に写生の技法を取り入れることを思いついた。1894年(27歳)、実際に郊外の自然の中で写生的俳句を試みると、自然は刻々と変化し、月並みな組合せもなく、どんどん詠むことができた。子規は写生こそ俳壇に新たな息吹を吹き込むと確信した。「一冊の手帳と、一本の鉛筆とを写生の道具にして、吾は写生的俳句をものにしようと、眼に映るあらゆるものを捕えて、十七字に作り上げようとする」(「車上所見」)。 1895年(28歳)、前年に勃発した日清戦争の従軍記者となって大陸に渡り、5歳年上で軍医の森鴎外(1862-1922)と知り合う。帰国の際に船上で大喀血、神戸の病院に入院。「学問はまだ成らず、病魔は激しく我を攻め立てる。過去に何事も成しえず、未来に何事かを成すことも困難となった。父上、許したまえ、我は不孝(ふこう)の子なりけり」(「父の墓」)。 退院後、療養のために松山に帰郷すると、学生時代の同窓生漱石が英語教師として赴任していた。子規は漱石に誘われて、漱石が“愚陀仏庵”と名付けた下宿で52日間の共同生活を送る。この下宿に、子規の俳句革新運動に共鳴し、俳句を学ぼうとする松山の若者たちがつめかけた。子規と漱石は夜更けまで「東京で日本の文学を興(おこ)そう」と互いに抱負を語り合った。句会では若者たちが良い句を詠み、子規は「写生という技法には日本語そのものを革新する力がある」と手応えを得る。 俳句革新の思いを胸に再び上京。その途上、漱石から旅費を援助してもらって奈良旅行を楽しんだ。ここで有名な「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」が詠まれる。この句は、漱石の「鐘撞(つ)けば 銀杏散るなり 建長寺」の返句だ。 東京に戻ると、新聞紙上で「俳句は文学の一部なり」と近代俳句の誕生を宣言。根岸の「子規庵」には漱石や鴎外、松山の7歳年下の後輩高浜虚子(1874-1959)など様々な文学青年が集まった。子規の「写生」という考え方が文学仲間に広まっていく。一方、病は悪化の一途。当時の友人への手紙「小生の命は明日をもはかられぬもの。小生の事業は小生一人の代で終わることになる。頭の中にある文学思想は闇から闇へ消えて行くことになる」。年末に高浜虚子を公園に呼び出し、俳句改革の後継者になることを期待して「学問をする気があるか」と尋ねるが、まだ21歳の虚子は「嫌いな学問をしてまで名誉を求め、野心をおこそうとは思いません」と断った。子規は打ちのめされる。「死はますます近づいた。そして文学はようやく佳境に入った。しかし、書きたいと思うときに、紙が尽きてしまったということだ」。 翌年、結核菌が骨を侵す骨髄感染(脊椎カリエス)になる。動く度に激痛が走るため、歩くどころか動くことすら困難となり長い病臥生活に入る。「痛みの烈(はげ)しい時には仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は黙ってこらへて居るかする。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと、少しく痛みが減ずる」(「墨汁一滴」)。 1897年(30歳)、故郷松山で弟子の柳原極堂が、子規を元気づけるため月刊俳句誌『ほととぎす』を創刊、子規は大いに喜び、写生の技法を広める場として期待した。ところが、発刊から間もなく、『ほととぎす』は休刊の危機となる。子規はこの俳句誌を廃刊させぬよう、なんとか東京で引き継ぎ存続させようと焦る。 1898年(31歳)、高浜虚子に『ほととぎす』の存続を願う18mもの手紙を書く。3年前に後継を拒絶されたが、虚子しか頼れる者はいない。「貴兄と小生と二人でやって行かねばならぬ。もし小生病気すれば貴兄一人でやらねばならぬ。小生の心の中を察してくれたまえ。ただ貴兄の決心次第だ」。7日後に虚子から返事が届く。「大兄(たいけい)と両人でやる。石に食い付いて今後雑誌の件で挫折しない。百年の後は天晴れの大兄の後継として恥じぬようになろう」。虚子は師の想いを受け止め、雑誌存続に向け奔走した。 子規は他界するまでの3年間、六尺(約180cm)の布団の中から世界を見つめる。この布団は幼馴染みで松山中学校の同級、秋山真之(後の海軍中将)が留学先の米国から送ってくれたものだ。「病牀(びょうしょう)六尺。これが我が世界である。しかもこの六尺の病牀が、余(よ)には広過ぎるのである。僅かに一條の活路を死路(しろ)の内に求める」(「病牀六尺」)。子規は部屋から見える小さな庭を観察し続けた。「写生は天然を写すのであるから、深く味わえば味わうほど変化が多く趣味が深い」。 こうして子規は、初めて見たままを文章に綴った「写生文」を病床で完成する。「我に二十坪の小園(しょうえん)あり。」「桔梗(ききょう)撫子(なでしこ)は実となり朝顔は花のやや少くなりし八月の末より待ちに待ちし萩は一つ二つ綻(ほころ)び初(そめ)たり。」(「小園の記」より) ※「小園の記」全文 https://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/42170_12291.html 子規はこのように、日常の出来事や自然の情景を、空想を入れずに平易な口語文で書き写す写生文による文章革新運動に着手し、簡潔明瞭で客観的な文体を積極的に推進した(後年の漱石『吾輩は猫である』に影響が顕著)。 同年10月、待ち望んだ文芸誌『ホトトギス』が東京で発刊される。松山時代の『ほととぎす』は俳句誌だったが、東京の『ホトトギス』は小説も掲載され、子規は写生文『小園の記』を発表した。読者が子規と一緒に庭を見ている感覚を味わう本作は大きな反響を呼んだ。写生文は新たな日本語の表現として受け入れられた。子規は『ホトトギス』読者に写生文による日記の投稿を広く呼びかけた。子規は誰にでも書けるということを知らせたかった。農民、畜産家、大工、サラリーマン、様々な職業の人が日記を投稿した。 半世紀前、曲亭馬琴の長編小説『南総里見八犬伝』(1814〜42)の書き出しは「京都の将軍、鎌倉の副将、武威(ぶい)衰(おとろ)えて偏執(へんしゅう)し世は戦国となりし比(ころ)…」と固いものだった。書くという行為は、作家、劇作家などごく一部の人間だけのものだった。だが、江戸時代の古い日本語を近代日本語に作りかえた、平易な日本語を用いた写生文の登場で、誰もが気軽にものを書けるようになった。 これらの動きと並行して、子規は与謝野鉄幹らが始めていた短歌改革運動に加わり始め、『歌よみに与ふる書』を発表。子規は短歌においても写生をとなえ、万葉集や源実朝の「金槐和歌集」に極めて高い評価を与えた。素朴で平明な万葉調の歌風、自然をありのままに歌い込む写生的な姿勢を熱賛した。 一方、平安中期の成立後は和歌の規範ともされていた古今集を「くだらぬ集にて有之候」と罵倒し、古今集の選者であり三十六歌仙にも名を連ねる紀貫之を「下手な歌よみにて」と酷評。明治歌壇の主流だった旧派和歌の、技巧や形式にとらわれた古今調の歌を「陳腐極まる」と猛攻撃した。新古今和歌集については「ややすぐれたり」としつつも、選者の藤原定家については「自分の歌にはろくな者無之」と評すなど、勅撰和歌集の作風には否定的な考えを示した。 ちなみに、子規と鉄幹の不仲説は誤りで、“旧派にはもう力がないので自分たち新派(改革者)同士で批評しあおう”と子規が呼びかけただけ。双方が批評しあう姿を“対立”と曲解したのが真相だ。 1900年、漱石がイギリス留学に出発。 1901年、病状はさらに重くなっていくが、筆はますます冴えて、新聞紙上に随筆『墨汁一滴』を連載。 1902年、5月5日から死の2日前の9月17日までまで4ヶ月間日々の随筆『病牀六尺』を綴る。そこには、「余はいままで禅宗の悟りというものを誤解していた。悟りとは、いかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは誤りで、いかなる場合にも平気で生きていることであった」と説くに至る晩年の澄み切った心境が映し出されている。9月19日、最初の喀血から13年、長い闘病の末、子規は34歳で旅立った。短い生涯にあって俳句1万2千余、短歌1300首、漢詩3000首など、多大な業績を残した。墓所は東京田端の大龍寺。松山の正宗寺(しょうしゅうじ)にも「子規居士理髪塔」が建つ。同地には反戦軍人・水野広徳の歌碑もあり。門下から虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節など、すぐれた俳人・歌人を輩出した。 1903年、漱石が帰国。不慣れな異国生活で神経をすり減らしていた。教師になり、さらにストレスを溜めていく。 高浜虚子はノイローゼ気味の漱石に、「沈うつな思いをありのまま吐き出せば気晴らしになる」と小説の執筆を薦めた。漱石は子規の写生文の手法を小説に取り入れ、読みやすい文章を書いた。 1905年、漱石が『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に発表、大反響を呼ぶ。翌年には『坊っちゃん』を再び『ホトトギス』に発表、漱石は国民的作家となっていった。 ※子規は大の野球好き。「打者(バッター)」「走者(ランナー)」「直球(ストレート)」「四球(ファーボール)」「死球(デッドボール)」「飛球(フライ)」は子規が訳した造語。 ※東京の「子規庵」には呉竹が育っていたため、短歌を書くときは「竹の里人(さとびと)」を使用。 ※子規以降、俳諧の最初の発句が俳句となり、和歌が短歌と呼ばれるようになった。 ※参考『その時歴史が動いた〜正岡子規・余命十年で日本語を革新した男』(NHK)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト)ほか。 子規の墓を擁する大龍寺は、山手線の田端駅から徒歩15分の閑静な住宅地の中にある(根岸の子規庵から約2km)。同寺が選ばれたのは、“静かな寺に葬って欲しい”という願いを弟子たちが受けたものだ。墓石の背後には青々とした竹やぶが迫っているが、これは子規の号“竹の里人”からきているのだろう。
・漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか) ・冬ごもり世間の音を聞いて居る (句集“寒山落木”から)
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
いくたびも雪の深さを尋ねけり
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晶子 | 夫妻のツーショット! | 鉄幹(本名寛) |
1991年3月 | 2002年8月 |
2005年10月 | 2010年6月 |
仲睦まじく並んでいる与謝野夫婦。左が鉄幹、右が晶子。墓の形がおそろいでラブラブ。目のやり場に困った(笑)。 風化してかなり読み辛かったけど、墓石にはそれぞれ次の歌が彫られていた。「今日もまたすぎし昔となりたらば 並びて寝ねん西のむさし野」(晶子)「なには津に咲く木の花の道なれどむぐらしげりて君が行くまで」(鉄幹) |
晶子の旧姓は鳳(ほう)、本名晶(しょう)。大阪堺に生まれる。女学校時代から源氏物語や枕草子など古典を愛読する文学少女で、10代半ばから短歌を作り始める。二十歳頃に新聞で与謝野鉄幹の歌を知り深く感銘を受け、1900年(22歳)、4月に鉄幹が『明星』を創刊すると同誌で歌を発表した。8月に初めて鉄幹と会い恋心が爆発、翌夏には鉄幹を追って家出同然で上京し、鳳晶子の名で第一歌集『みだれ髪』(6章399首収録)を刊行、その2ヵ月後に妻と別れた鉄幹と結婚する。時に晶子23歳、鉄幹28歳。女性が自我や性について語ることがタブーだった保守的な明治の世にあって、愛の情熱を自由奔放かつ官能的に歌い上げた『みだれ髪』は一大センセーションを巻き起こした。 「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」(熱くほてった肌に触れず人生を説くばかりで寂しいでしょう) 「みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす」(みだれ髪を綺麗に結いなおして朝寝するあなたを揺り起こす) 「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ」(春は短く命に限りがあるからと弾ける乳房に手を導く) 「罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ」(罪多き男たちを懲らしめる為に我は肌も髪も美しく作られた) 彼女は封建的な旧道徳に反抗したことで伝統歌壇から批判されたが、愛に根ざす人間性の肯定は民衆から熱狂的な支持を受け、『若菜集』の島崎藤村と共に浪漫主義文学の旗手と称された。 それから3年後の1904年(26歳)、日露戦争の最中にロシアの文豪トルストイがロマノフ王朝に向けて発表した戦争批判が日本の新聞に掲載され、敵国国民の反戦メッセージに深く感動した晶子は、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟に呼びかける形で『明星』9月号にこう応えた。 「君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに、おほみづからは出でまさね かたみに人の血を流し、獣(けもの)の道に死ねよとは…」 (弟よ死なないでおくれ。天皇自身は危険な戦場に行かず宮中に安住し、人の子を獣の道におちいらせている) この反戦歌は発表と同時に、日露戦争に熱狂する世間から“皇国の国民として陛下に不敬ではないか”と猛烈な批判にさらされた。文芸批評家・大町桂月は「晶子は乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と激しく非難したが、晶子はこれに反論すべく『明星』11月号に「ひらきぶみ」を発表、“この国を愛する気持ちは誰にも負けぬ”と前置きしたうえで「女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。当節のように死ねよ死ねよと言い、また何事も忠君愛国や教育勅語を持ち出して論じる事の流行こそ、危険思想ではないかと考えます。歌は歌です。誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」と全く動じることはなかった。 晶子は非難に屈するどころか、翌年刊行された詩歌集『恋衣』に再度“君死にたまふことなかれ”を掲載する。 その後も女性問題や教育問題などで指導的活動を続け、1911年(33歳)には日本初の女性文芸誌『青鞜』発刊に参加、「山の動く日来(きた)る。(中略)すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」と賛辞を贈ってその巻頭を飾り、43歳で文化学院の創設に加わり自由教育に尽くした。また、文学者としては短歌だけでなく、『新訳源氏物語』を始めとした古典の現代語訳にも多くの著作を残す。 1930年代に入って満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退と軍国化が進み、日増しに言論の自由が奪われていく中で、晶子は1936年(58歳、死の6年前)に国家の思想統制についてこう書き残した。「目前の動きばかりを見る人たちは“自由は死んだ”と云うかもしれない。しかし“自由”は面を伏せて泣いているのであって、死んでしまったのではない。心の奥に誰もが“自由”の復活を祈っているのです」 ※自由が泣いている、こんな表現もあるのか…! 明星派の歌人として生涯にわたって鉄幹の仕事をサポートし(鉄幹は57歳の時に先立つ)、家庭では11人の子を育て、太平洋戦争の真っ只中の1942年に63年間の人生を終えた。 ・鉄幹について…「一体今の新流の歌と称しているものは誰が興して誰が育てたものであるか。この問いに己だと答えることの出来る人は与謝野君を除けば外にはない」(鴎外) ・「われ男(を)の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子」(鉄幹) ・『明星』は啄木、高村光太郎、北原白秋らを世に送った。 |
絵も銅像も古くて表情がよく分からないけど、若い頃はたいそう美形だったそうな |
この山里が西行終焉の地 | 西行の歌「願はくは花の下にて春死なむ」を汲んで、墓の周辺に桜が千本植えられた |
かろうじて「西行上人之墓」と読み取れる | 晩年の西行が見つめた景色は今も変わらず | あまりの自然の美しさに思わず合掌 |
西行庵の跡地を示す立札。ここで味わう花鳥風月は最高だろうなぁ (*^v^*) |
訪れたのは5月3日。新緑の季節の上、前日に雨が降ったという こともあり、あり得ないほど木々の葉が青々と輝いていたッ!! |
最澄創建の東山区・雙林寺(そうりんじ)にも供養塔。中央が西行。 右は後白河法皇に仕え、鹿ケ谷の山荘で平家打倒の密議に参加し、薩摩国鬼界ヶ島へ 俊寛らと流された平康頼(やすより)。のちに赦されて京都へ戻った。 左は南北朝時代の歌人頓阿(とんあ)の墓と伝えられる(2012) |
本名佐藤義清(のりきよ)。和歌山県那賀郡打田町出身。生命を深く見つめ、花や月をこよなく愛した平安末期の大歌人。『新古今和歌集』には最多の94首が入選している。宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠んだ。
祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となる。西行は御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚には彼と同い年の平清盛がいた。北面生活では歌会が頻繁に催され、そこで西行の歌は高く評価された。武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人だった。さらには、鞠(まり)を落とさずに蹴り続ける、公家&武士社会を代表するスポーツ「蹴鞠(けまり)」の名手でもあった。「北面」の採用にはルックスも重視されており、西行は容姿端麗だったと伝えられている。 武勇に秀で歌をよくした西行の名は、政界の中央まで聞こえていた。文武両道で美形。華やかな未来は約束されていた。しかし、西行は「北面」というエリート・コースを捨て、1140年、22歳の若さで出家する。出家の理由は複数あって、(1)仏に救済を求める心の強まり(2)急死した友人から人生の無常を悟った(3)皇位継承をめぐる政争への失望(4)自身の性格のもろさを克服したい(5)“申すも恐れある、さる高貴な女性”との失恋。彼は歌会などを通して仲を深めた鳥羽院の妃・待賢門院(崇徳天皇の母)と一夜の契りを交わしたが、「逢い続ければ人の噂にのぼります」とフラレた--等々、こうした様々な感情が絡み合った結果、妻子と別れて仏道に入ったようだ。阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから「西行」を法号とした。 西行は出家を前にこんな歌を詠んでいる。 『世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ』 (出家した人は悟りや救いを求めており本当に世を捨てたとは言えない。出家しない人こそ自分を捨てているのだ) “出家”という行為自体は珍しくないことだが、西行が官位を持っていたのにそれを捨てたこと、しかもまだ20歳過ぎで若かった点などから人の注目を集めたらしく、時の内大臣・藤原頼長(後に保元の乱で敗死)は日記に「西行は家が富み年も若いのに、何不自由ない生活を捨て仏道に入り遁世したという。人々はこの志を嘆美しあった」と記している。西行が延暦寺など大寺院に出家したのではなく、どの特定の宗派にも属さず地位や名声も求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い、和歌を通して悟りに至ろうとしたのも通常と異なっていた。 ※西行を語る文献には、出家時のことを「妻子を捨てて出家した」とだけ書いているものが多い。これのみでは彼がとても冷たい男に見える。実際にはちゃんと弟に後の事を頼んでいるし、こんな後日談もある。出家の数年後、京を訪れた西行は、5歳になったはずの娘が気になって、こっそり弟の家の門外から中の様子をうかがった。ちょうど子どもが遊んでいて、髪が伸びて可愛らしく成長していたんだけれど、彼を見るなり「行きましょう。そこのお坊様が怖いから」と中に入ってしまった(これはツライ)。この娘は後に有力貴族九条家の娘・冷泉の養女になって西行も喜んだが、冷泉が嫁いだ時に相手の夫が自分の侍女にしてしまったので、「娘を養女に出したのは小間使いにさせる為ではない!」と西行は彼女を連れ出して妻の所に戻したという。西行は妻子のことをずっと見守っていたんだ。 出家直後は郊外の小倉山(嵯峨)や鞍馬山に庵を結び、次に秘境の霊場として知られた奈良・吉野山に移った。西行は長く煩悩に苦しんでおり、いわゆる「聖人」じゃなかった。彼は出家後の迷いや心の弱さを素直に歌に込めていく。 『いつの間に長き眠りの夢さめて 驚くことのあらんとすらむ』 (いつになれば長い迷いから覚めて、万事に不動の心を持つことができるのだろう) 『鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てて いかになりゆくわが身なるらむ』※伊勢に向かう途中で (浮き世を振り捨てこうして鈴鹿山を越えているが、これから私はどうなっていくのだろう) 『世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都はなれぬ我が身なりけり』 (世の中を捨てたはずなのに、都の思い出が煩悩となり私から離れない) 『花に染む心のいかで残りけん 捨てはててきと思ふわが身に』※吉野で。10万本の桜がある。 (この世への執着を全て捨てたはずなのに、なぜこんなにも桜の花に心奪われるのだろう) 1146年(28歳)、東北地方に歌枕(和歌の名所)を訪ねた。初めての長旅だ。平泉に本拠地がある奥州藤原氏は西行の一族。一冬を過ごし、過ぎ行く年の暮れに次の歌を詠む。 『常よりも心細くぞ思ほゆる 旅の空にて年の暮れぬる』 (いつもの年より心細く感じるなぁ。旅の空の下で年が暮れていくよ) 1149年(31歳)、旅から帰った後は真言霊場・高野山に入って庵を結ぶ。当時の高野山は落雷の火災で大きな被害を受けており、復興の為の寄付(勧進)を各地で集めて周る僧・高野聖(ひじり)が多く集まっていた。西行も彼らに加わり、出入りを繰り返しつつ約30年間を当地で過ごす。 1156年(36歳)、都にて『保元の乱』が勃発! この時代の朝廷権力の流れは、白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)。※天皇が退位すると「上皇」になり、上皇が出家すると「法皇」になる。 白河はトンデモ法皇で、老いてから若い養女(待賢門院)に手を出し、お腹に子(崇徳)を身篭らせたまま孫(鳥羽)と結婚させている。白河の次男・堀河天皇が22歳で早逝すると、5歳の鳥羽天皇を即位させ白河が後見人となる院政をスタート。鳥羽が19歳になって自己主張を始めると強制退位させて上皇(肩書きオンリー)にして、まだ5歳の崇徳を即位させ法皇自身が実権を握り続けた。 白河法皇が死んでから鳥羽上皇の巻き返しが始まる。鳥羽は白河と全く同じことをした。鳥羽は法皇となって白河の子である崇徳(当時22歳)を強制退位させて上皇にし、まだ3歳の実子・近衛を即位させ、近衛が早逝すると近衛の兄・後白河を擁立した。そして鳥羽法皇が死ぬと、崇徳上皇VS後白河天皇の「保元の乱」が勃発する。源氏の主力は崇徳側に、平家の主力は後白河側についた。戦は後白河の勝利となり、崇徳は讃岐に流される。続く平治の乱で源氏の残党を破った清盛は、平家全盛の時代を築いていく。この後、後白河は法皇となって5人の天皇を30年間背後で操り、同時に武家間の対立を煽って巧みに立ち回ったことから、源頼朝は「日本一の大天狗」と評した。
1168年(50歳)、保元の乱で讃岐に配流され、4年前に無念を叫びながら死に、朝廷にとって菅原道真と並ぶ大怨霊となった崇徳上皇(西行がフラレた妃の子)の鎮魂と空海の聖地探訪の為に四国を巡礼する。 『よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせん』※崇徳上皇の墓(白峰陵)にて (かつては天皇の身分とて、死後は誰もが平等ではありませんか。どうか安らかにお眠り下さい) 西行は四国から高野山に帰る前に、当地で暮らしていた庵の前に立つ松に歌った。 『久に経てわが後の世を問へよ松 跡しのぶべき人もなき身ぞ』※讃岐国善通寺にて (松の木よ、長く生きて私の後生を弔っておくれ。私は崇徳上皇と違って偲んでくれる人もいない身なのだ) さらに高野山で修行したのち、1177年(59歳)、伊勢二見浦へ移住。1180年(62歳)、源平の乱が勃発、全国各地を戦の炎が包み込む。翌年、平家の都落ち。西行は伊勢の海を見ながら「東西南北、どこでも戦いが起こり切れ目なく人が死んでいる。これは何事の争いか」と嘆き、この戦乱を詠む。 『死出の山越ゆる絶え間はあらじかし 亡くなる人の数続きつつ』 (天寿を全うせず戦で命を奪われ、あの世への山を越えて行く人の流れが絶える事はないのだろうか。もう戦死者の話を何人も聞き及んでいる) 源平動乱の中で東大寺は大仏殿以下ことごとく焼失した。1186年(68歳)、復興に情熱を燃やす高僧・重源(ちょうげん)は西行を訪ね、「大仏を鍍金(ときん、メッキ)する為の砂金提供を約束してくれた奥州藤原氏に、早く送るよう伝えて欲しい」と頼んだ。西行と旧知の仲の奥州藤原秀衡はまだ存命であり、重源は西行=秀衡の繋がりを頼ったのだ。仏教界の頂点にいる重源に頭を下げられ、相手の心意気に惚れた西行は「分かりました、引き受けましょう」。彼は実に40年ぶりに東北へ向かう。 この時代、70歳になろうかという老人が、伊勢と岩手を往復するのは想像を絶するほど大変なことだ。本心から御仏の為という厚い信仰がなければ出発できなかっただろう。藤原秀衡は平泉までやって来た西行に感動し、すぐに砂金を奈良に送った。 『年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山』※奥州へ向かいつつ (まさか年をとってから夜の中山道を再び越えるなんて思いもしなかった。これも命あってのことだなぁ) 実はこの奥州行きで、西行と征夷大将軍・源頼朝が対面している。1186年8月15日、鶴岡八幡宮に頼朝が参詣すると、鳥居の周辺を徘徊する老僧がいた。怪しんで家臣に名を尋ねさせるとこれが西行と分かり、驚いた頼朝は館に招いて、流鏑馬(やぶさめ)や歌道の事を詳しく聞いた。西行はヒョウヒョウとし「歌とは、花月を見て感動した時に、僅か三十一字を作るだけのこと。それ以上深いことは知りません」。流鏑馬のことは「すっかり忘れ果てました」とトボケていたが、頼朝が困惑するので馬上での弓の持ち方、矢の射り方をつぶさに語り始めた。頼朝はすぐに書記を呼んで書き留めさせたという。2人の会話は終夜続き、翌日も滞在を勧められたが、西行は振り切るように昼頃発った。頼朝は土産に高価な銀製の猫を贈ったが、西行は館の門を出るなり付近で遊んでいた子どもにあげてしまったという。(『吾妻鏡』) ※現在鎌倉の祭りで催されている「流鏑馬」は、西行がコツを伝授した翌年から行なわれるようになった。 ※平泉まで義経を捕らえる為の関所を幾つも通る必要があったので、その通行証を求めに鎌倉へ寄ったとも言われている。 1187年(69歳)、このころ京都嵯峨の庵に住み子どもの遊びを題材に「たはぶれ歌」を詠む。 『竹馬を杖にもけふはたのむかな 童(わらは)遊びを思ひでつつ』 (子どもの頃に遊んだ竹馬は、今では杖として頼む身になってしまったなぁ) 『昔せし隠れ遊びになりなばや 片隅もとに寄り伏せりつつ』 (昔のように隠れんぼをまたやりたい。今もあちこちの片隅で子どもが伏せて隠れているよ) 1189年(71歳)、西行は京都高尾の神護寺へ登山する道すがら、まだ少年だった明恵上人に、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っている。「歌は即ち如来(仏)の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思い、秘密の真言を唱える思いだ」。同年、西行は大阪河内の山里にある、役(えんの)行者が開き、行基や空海も修行した弘川寺の裏山に庵を結び、ここが終焉の地となった。 西行は亡くなる十数年前に、遺言のような次の歌を詠んでいた。 『願はくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃』※如月の望月=2月15日。釈迦の命日。 (願わくば2月15日ごろ、満開の桜の下で春逝きたい) 西行が来世へ旅立ったのは2月16日。釈迦の後ろを一日遅れてついて行った。 他界から540年後の江戸中期(1732年)、西行を深く慕い弘川寺に移り住んだ広島の歌僧・似雲法師が、西行の墳墓を発見した。以降、似雲法師は西行が愛した桜の木を、墓を囲むように千本も植えて、心からの弔いとした。墳墓上の老いた山桜を始め、今では1500本の桜が墓を抱く山を覆っている。 悟りの世界に強く憧れつつ、現世への執着を捨てきれず悶々とする中で、気がつくと花や月に心を寄せ歌を詠んでいた西行。同時代の藤原定家らのように技巧的な歌に走るのではなく、あくまでも素朴な口調で心境を吐露した。自然や人生を真っ直ぐに見つめ、内面の孤独や寂しさを飾らずに詠んだ西行の和歌は、どこまでも自然体だ。
宮廷の中ではなく山里で歌を詠み、ある時は森閑の静けさに癒され、ある時は孤独の侘しさに揺れ動きながら、源平動乱の混沌とした世界にいて、自分の美意識や人生観を最後まで描き出した。 500年後の芭蕉を始め、後世の多くの歌人たちが、西行の作品をその人生と合わせて敬慕してきた。鎌倉期には『新古今』に最多の作品が入選し、日本全国には146基も歌碑が建立されている。西行は800年の時を超え、今なお人々の心を捉えて離さない! ※全2090首のうち恋の歌は約300首、桜の歌が約230首。勅撰集には265首が入撰している。55歳前後には家集『山家集』の原型が出来ていた。 ※西行による崇徳上皇への墓参は、後に上田秋成が『雨月物語』の冒頭で描いている。 ※伊勢神宮にお参りした西行法師いわく「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなくて涙こぼるる」。 ※弘川寺の境内には西行記念館があり、西行直筆の掛け軸など多数の資料が展示されている。 ※近鉄長野線「富田林」駅から金剛バス河内行終点下車。バスの本数が少ないので必ず帰りの時間を確かめること。 【西行12選〜本文中に紹介できなかったオススメ短歌たち】 『ゆくへなく月に心のすみすみて 果てはいかにかならんとすらん』 (どこまでも月に心が澄んでいき、この果てに私の心はどうなってしまうのだろう) 『松風の音あはれなる山里に さびしさ添ふる蜩(ひぐらし)の声』 (松風の音が情緒のある山里に、寂しさを添えるヒグラシの声が聞こえるよ) 『荒れ渡る草の庵に洩る月を 袖にうつしてながめつるかな』 (荒れ果てたこの草庵に差し込む月光を、袖に映して眺めているよ) 『さびしさに堪へたる人のまたもあれな 庵ならべむ冬の山里』 (冬の山里で私と同じく寂しさに堪えている人がいれば、庵を並べて冬を乗り切るのに) 『霜冴ゆる庭の木の葉を踏み分けて 月は見るやと訪ふ人もがな』 (霜がはった庭の葉を踏み分け名月を見ていると、誰かと一緒に見たいなぁと思うのさ) 『谷の間にひとりぞ松も立てりける われのみ友はなきかと思へば』 (この地に友は誰もいないと思っていたら、谷間にひとり松も立っていた) 『心をば深き紅葉の色にそめて別れゆくや散るになるらむ』 (私の心を深紅の紅葉の色に染めて別れましょう。散るとはそういうことです) 『水の音はさびしき庵の友なれや 峰の嵐の絶え間絶え間に』 (峰から吹き付ける強風の中に、時々聞こえる川の音は寂しい庵の友なのだ) 『ひとり住む庵に月のさしこずは なにか山辺の友にならまし』 (独り寂しく住む庵に差す月の光は、まるで山里の友のようだ) 『花見ればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける』 (桜の花を見ると、訳もなく胸の奥が苦しくなるのです) 『春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそぢ)あまりの年を経にける』 (思えば60年余り、春ごとに桜に心を慰められてきたんだなぁ) 『吉野山花の散りにし木の下に とめし心はわれを待つらむ』 (吉野山の散った桜の下に私の心は奪われたまま。あの桜は今年も私を待っているのだろう) |
2002 |
ところが… |
夜雨の中、式部を包囲して彼女の和歌を一斉に朗読! | 後日ただの歌碑だったことに気付く! |
2003 リベンジ! |
墓を照らす明かりが美しい |
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翌年、墓参に再チャレンジ!今度こそ彼女のお墓。 昨年の歌碑とは大きさがまったく違った! |
墓前には式部に変身できる“顔出し看板”が!まさか、現代と 平安時代をつなぐタイムトンネルがこんな場所にあったとは (しかもまだ真新しい)!こんな墓地は世界でココだけ!仰天! |
こちらは京都府木津川市にある1.3mの五輪塔 | 地元に「木津出身で余生を木津で過ごした」と伝承 | 「いづみ式部墓」と石標(2014) |
恋愛暴走機関車、平安最強の情熱的歌人・和泉式部。佐賀県杵島の福泉寺で生まれる。和泉式部の生年には諸説あるが、970年前後のようだ。彼女は二十歳頃、宮仕えしていた父親の部下と結婚する(夫の官職が和泉守だったので彼女も『和泉式部』と呼ばれた)が、才色兼備だった彼女に天皇の第三皇子がベタ惚れ。式部は夫との間に娘をもうけていたにも拘らず、離婚してまでこの愛を受け入れる。父親は「よくも婿を裏切りおって!」と激怒し、彼女は両親から勘当され世間からも後ろ指を差される様になった。 それほどまでに全身全霊を注ぎ込んだ恋であったが、悲惨な事にわずか1年余りで相手が26歳で他界し、彼女は一人ぼっちになってしまう。一周忌の頃、悲嘆に暮れる彼女に熱い想いを打ち明けたのは、なんと死んだ第三皇子の弟だった。式部の心は燃え上がり2人の仲は急速に進む(あまりの寵愛ぶりに弟君の正妃は怒り狂い去ってしまうほど)。この狂熱愛の経過を10ヶ月にわたって綴ったものが「和泉式部日記」だ。しかし!このルンルン気分も5年間で終わってしまう。弟君も27歳という若さで病に倒れたからであった…。 すべてをかけて愛した相手と2度も死別した彼女。その極度の絶望と悲しみの叫びは「和泉式部集」に追悼の歌として百首以上も刻み込まれている。晩年は20歳も年上の武人・藤原保昌と再婚したが、愛娘にも先立たれ、1027年(60歳頃?)の和歌を最後に彼女の記録は歴史から消えてしまっている。 波乱に富んだ人生を歩む彼女の、息づかいが聴こえそうな歌を5首紹介しよう。 「あらざらんこのよの外の思ひ出に今一たびのあふこともがな」(百人一首で有名) 訳/嗚呼、もう死んじゃいそう…あの世への思い出にあと一度だけ貴方に会いたい 「くろかみのみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき」 訳/黒髪が乱れるままに私がうち伏していると、そばに来て優しく髪をかき撫でて下さった貴方が恋しいの 「別れても同じ都に在りしかばいとこのたびの心地やはせし」(旅立つ元夫へ) 訳/別れて暮らしていても、同じ都にいるのならこんな気持ちにはならないのに 「なく虫のひとつ声にも聞こえぬは心々に物やかなしき」 訳/鳴く虫の声がひとつも同じに聞こえないのは、それぞれの心に違う悲しみを持っているからなのでしょう 「おもひきやありて忘れぬおのが身をきみがかたみになさむ物とは」 訳/思ってもみなかった…私自身の身体があなたの形見になるなんて… 和泉式部の死後、彼女の庵があった京都誓願寺の尼さんたちが、「式部の伝説を語り物に諸国をくまなく巡った」(柳田国男)ことや、彼女ら自身が和泉式部の名で各地を行脚した為、式部の墓と伝えられるものが、北は岩手県北上市から南は宮崎・佐賀まで15ヶ所に及ぶことになった。本物の式部の墓として有力なものは、かつて地名が泉だった京都府相楽郡木津町のもの、式部の再婚相手が住んでいた兵庫県川西市に近い伊丹市のもの、京都市中京区の誠心院(じょうしんいん)のものだが、最後にあげた誠心院は式部が初代住職を務めており、最も信憑性が高いとされている。 |
伝説の歌人! |
「さ、才能を分けて下さい…!」定家が百人一首を選定した地、 京都・小倉の時雨亭跡にて、我が身の文才のなさを苦悩(2005) |
1999 相国寺にて。一句詠んだぜよ |
2005 可愛い花が供えられていた |
2010 夕陽を浴びる定家 |
左から定家(鎌倉)、足利義政(室町)、伊藤若冲(江戸)!時代ごとの墓の形の違いがよくわかる(2010) |
奈良の名刹・長谷寺にも定家塚がある |
中央が定家塚。左右のどちらかが藤原俊成 の碑なんだけど風化して判別不能だった |
「定家」と読み取れる (2008) |
ちなみに長谷寺の長い階段 は遠近感がおかしくなる |
鎌倉初期の歌人。父は千載和歌集を撰進した歌人藤原俊成。幼少の頃から父に歌の指導を受け、また西行法師や平忠度らと親交を持ち、天性の歌心に磨きをかける。1178年、16歳で初めて歌合(うたあわせ、和歌バトル)に参加。1180年(18歳)、源氏が挙兵し源平の争乱が勃発。この年から定家は日記『明月記』を73歳まで56年にわたって書きつづる。その最初の年にこう刻んだ「世上乱逆追討耳ニ満ツトモ、之ヲ注ゼズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」。“世間では反乱者(平家)を追討せよなどと騒いでいるが、そんな事はどうだっていい。紅旗(朝廷の旗)を掲げて戦争しようが、俺の知ったこっちゃない”。若き定家は、愛する和歌の世界を究める為、孤高に我が道を行くと宣言しているんだ。翌年、その言葉の通りに19歳で『初学百首』を、20歳で『堀河題百首』を詠んだ。その内容の素晴らしさに、父・俊成は感涙にむせんだという。 定家は天才型に多い直情タイプの性格で、歌人にあって血の気が多く、1185年(23歳)、宮中で少将源雅行に侮辱されて殴りかかり、官職から追放されるという事件を起こす(父の奔走で3ヵ月後に許された)。同年、平家が壇ノ浦で滅亡。天下の変動に目もくれず創作に打ち込んでいたが、定家の歌風は禅問答のように難解と、世間から「達磨(だるま)歌」と非難された。彼はそれに屈せず、24歳の時に西行から勧められて『二見浦(ふたみがうら)百首』を詠み、そこに名歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮」(花も紅葉も何もなく秋の夕暮れに沈む海岸の漁師小屋)を収めた。 1188年(26歳)、父の手による『千載集』に8首を採用される。ますます歌道に精進し、政界の実力者九条家に出仕するようになって順調に官位を上げ、また九条家の歌人グループと親交を深めるにつれ定家への誹謗は消えていった。1193年(31歳)に『六百番歌合』で詠んだ百首は、中から35首も新古今集に採用された。34歳の『韻歌百二十八首』では「旅人の袖吹き返す秋風に夕日さびしき山の梯(かけはし)」(夕日が照らす寂しい山の架け橋を、旅人が秋風に袖を吹かれながら渡って行く)、「行き悩む牛の歩みに立つ塵の風さへ熱き夏の小車」などと詠んだ。この冬、源通親のクーデターにより九条家は失脚、定家も出世の夢は消え、貧乏かつ病気がちになる。36歳、『仁和寺宮五十首』で「大空は梅の匂いにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月」(大空が梅の香りと霞に満ちる春の夜のおぼろ月)、「春の夜の夢のうき橋とだえして嶺にわかるる横雲の空」(春の夜に浮き橋の如く儚い恋の夢から目覚めると、たなびく雲も山の峰から別れていくところだった)を詠む。同年息子の為家が誕生。 1200年(38歳)、不遇な現状を打破すべく、和歌を愛する後鳥羽院の目にとまろうと精力を傾けて『院初度百首』を詠み「駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野の渡りの雪の夕暮」(馬をとめ袖に降り積もった雪を振り払う物陰もない、佐野の渡し場の雪の夕暮れよ)を収めた。果たして後鳥羽院はこれを絶賛、宮廷への出入りを即日許された。かつては九条家の歌人だったが、ついに宮廷歌人となったのだ。この頃の歌は「白妙の袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞふく」(一夜を過ごした朝の別れに涙の露が袖に落ち、吹き来る秋風が身に染みます)、「たづね見るつらき心の奥の海よ潮干のかたのいふかひもなし」(あの人の冷めた心を探ってみれば、もう何を言っても気持が戻らないことが分かった。潮が引き干上がった潟のように何も貝=甲斐がない)などがある。 後鳥羽院をバックにつけ歌壇の第一人者となった定家は、歌合の審判になるなど絶頂を迎え、翌年、院から新古今和歌集の選者に任命される。ここから4年間の歳月をかけて膨大な数の歌を選定していくことになったが、後鳥羽院と定家は互いに一家言を持つ激情家だったことから、好みの歌を巡って大激突。たとえ相手が上皇だろうと、歌に関しては頑固に折れることを知らない定家(まして相手は18歳も年下)は院を憤慨させ、徐々に関係が険悪になっていった。 その後の定家は歌を作ることより理論等の研究に興味が移っていく。歌論書の執筆の傍らで将軍源実朝の歌を通信添削もしていた。1216年(54歳)、自分のベスト作品集『拾遺愚草』を制作。1220年(58歳)、ついに定家と後鳥羽院の緊張はピークに達し、激怒した院は定家を謹慎処分(歌会の参加も禁止)にした。 ところが翌年に後鳥羽院は鎌倉幕府を打倒すべく挙兵し(承久の乱)、完敗した後、隠岐に流されてしまった。定家の境遇は一気に好転し、高い官位を得て生活が安定した。歌壇の大御所として君臨した定家は、かねてから古典を熱愛していたこともあり、自らの次の仕事として、『源氏物語』『土佐日記』など様々な作品を、後世の人々に正確に伝える為に筆をとって写しまくった。 1232年(71歳)、後堀河天皇より新たな歌集を作るよう命を受け、官位を辞し出家して選歌に没頭、三年後に『新勅撰和歌集』をまとめあげた。 1236年(75歳)、それまでの歌集制作の総決算的な意味合いで『小倉百人一首』を選出した。※カルタになるのは戦国末期にトランプが入って来てから。 1241年、79歳で永眠。その2年前に後鳥羽院も隠岐で亡くなっていた。院は流される時にわざわざ新古今の資料を運んでおり、かの地で自分好みの「隠岐本新古今和歌集」を完成させている。定家も院も、本当に歌が好きで好きでたまらなかったんだね。 定家の墓の隣は200年後に亡くなった室町8代将軍足利義政、さらにその横には600年後に亡くなった絵師伊藤若冲(遺髪)が眠っている。何とも不思議な顔合わせだ。 ※足利義政の句をひとつ紹介『いたづらになすこともなく 月見てぞ ことしも又や暮(くれ)むとすらん』。義政が創建した銀閣寺には、日本最古の四畳半がある。 |
初代〜3代目までの川柳夫妻の墓所 |
初代川柳の墓 |
境内に建つ辞世の句碑 「木枯や後で芽を吹け川柳」 |
2002年、この時は第1回アート感電ツアーで サイト読者の皆さんと巡礼しました♪ |
ひょうきんな雰囲気 |
川柳は俳句の「五・七・五」形式を基本にしつつ面白ければ変形も可とし、季語を使わずに世の中の風刺や機知を軽妙な味わいでよみこむもの。創始したのは江戸中期の俳人・前句付
(まえくづけ)の点者(てんじゃ) 、柄井川柳(からいせんりゅう)。前句付とは、出題された七・七の短句(前句)に五・七・五の長句(付句、つけく)を繋ぐもので、点者は作品の優劣を判定する人。
柄井川柳は1718年(享保3年)秋に江戸で生まれた。幼名勇之助、通称八右衛門、名は正通で川柳は号。別号に無名庵。柄井家はもともと京都に住んでいたが、曾祖父の代に江戸に下る。38歳のときに浅草の竜宝寺門前の名主の職を継ぎ、当初は俳諧の宗匠(そうしょう、師匠)であったが、元禄年間(1688-1704)から庶民の間に流行した前句付に才を発した。 1757年10月7日(宝暦7年8月25日)、柄井川柳(39歳)が点者となって初めての前句附興行「万句合」(まんくあわせ)を行う。課題の前句(一四文字の短句)の刷りものを配布して、一七文字の付句を募集した。好評を得て、以後も毎年「万句合」興行を行い、5年後(1762年)には1万句が集まるほどの流行となり、上級武士までが夢中になった。柄井川柳の選句は「川柳点」と呼ばれ、のちに付句が独立して川柳と呼ばれるようになる。 最初の「万句合」から8年後(1765年7月)、柄井川柳が選んだ佳句を呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)が編者となって 756句を選び、句集《柳多留(やなぎだる)》初編を出版した。呉陵軒可有は、前句がなくても単独でも意味がわかる“付句”だけを掲載しており、これは当時としては異例だった。 収録作品は「本降りになって出ていく雨宿り」「孝行のしたい時分に親はなし」「寝ていても団扇のうごく親心」「役人の子はにぎにぎをよく覚え」「子ができて川の字形(なり)に寝る夫婦」など、人情あり風刺ありのツボを得た句集は人気を博し、川柳の流行に拍車をかけた。やがて前句なしで付句が独立してよまれるようになった。 《柳多留》は江戸庶民の圧倒的な支持を得、柄井川柳は時代を読む鋭さ、選句の公平さから、「万句合」以降33年間にわたって前句付点者の第一人者となり、230万句(!)もの応募句を集めていく。彼の選句だけで実に10万句に達した。 柄井川柳は晩年まで《柳多留》24編の選句にたずさわり、1790年10月30日(寛政2年9月23日)に72歳で他界する。辞世は〈凩(こがらし)やあとで芽をふけ川柳〉と伝承。墓所は竜宝寺、戒名は「契寿院川柳勇緑信士」、命日は「川柳忌」。柄井川柳の墓碑には初代夫妻と3代夫妻の名が刻まれ、右隣の墓碑には2代夫妻の名を刻む(ただし後者は現在判別不能)。 《柳多留》は半世紀後の1840年までほぼ毎年(計167編)刊行され、評者や序文の筆者には十返舎一九、葛飾北斎らが名を連ねた。前句附興行は柄井川柳の号「川柳」の名が宗家として5世まで代々受け継がれたことから、これもまた「川柳」と呼ばれる語源になった。 ※「川柳」の名称が一般化したのは明治の中ごろから。 ※柄井川柳の句はほとんど残っておらず、確実なものとして発句3句が伝わる。 ※川柳が選んだ入選句を、特に「古川柳」と呼ぶ。 ※『柳多留』初篇の刊行から250年の2015年に“柳多留250年式典”が開催された。 ※「俳諧」は五・七・五の形式で季語を含み、「川柳」は五・七・五を原則としながら季語を含まず風刺を込め、「狂歌」は短歌の五・七・五・七・七に風刺を込めたもの。 |
※カジポン選・傑作川柳コーナー(お薦め!) |
「虚子」とだけ刻まれた墓。 俳句のようにシンプル! |
鎌倉の古い墓は石窟に入っている。近くの 石窟には北条政子や源実朝が眠っている |
同じ墓地に「濱家之墓」があり、 以前はこちらが虚子の墓と信じ 込んでいた(汗)。供花も家紋も 同じゆえ親族には間違いないだろう |
比叡山の山中には爪髪塔「虚子之塔」がある(2012) |
本名、清(きよし)。学生時代から正岡子規の門弟となり、24歳の若さで『ホトトギス』の主宰となる。「春風や闘志いだきて丘に立つ」これは子規の後を継いだ虚子が、当時俳壇で盛んだった新傾向の俳句運動に対抗し、あえて自らを「守旧派」と宣言、伝統俳句を守るべく“受けて立つ”とした決意表明だ。虚子はまた、漱石に小説を書くことを薦めて『我輩は猫である』『坊っちゃん』を掲載した人物で、日本文学の大恩人だ。 |
「手毬唄かなしきことをうつくしく」※読み返すほどにウルウル
「桐一葉 日当りながら落ちにけり」※寂しさと暖かさの神技配合 「虹立ちて 忽(たちま)ち君の在る如し」※女性への殺し文句! 「鴨の中の一つの鴨を見ていたり」※彼がジッとしてる感じでいい 「白牡丹といふといへども紅(こう)ほのか」※見ていると淡い色がほんのり… 「顔抱いて犬が寝てをり菊の宿」※菊が咲く中で寝てる犬、ほのぼの 「大空に伸び傾ける冬木かな」※冬の情景は身が引き締まるから好き! 「遠山に日の当りたる枯野かな」※なんて目の前に景色が広がる俳句なんだろう! 言葉ってスッゲ!!(そんでもって虚子最高!) |
江戸中期の俳人・画家。俳諧と画の両方をたしなむ趣味人は少なくないが、蕪村はその双方で名を極めた天才。本姓谷口。俳号は宰町、28歳からは蕪村を名乗る。画号は謝寅(しゃいん)。現大阪市都島区に生れる。早くに両親を失い、10代後半には故郷を捨てて独り江戸に出て、21歳から芭蕉の弟子を師に持つ俳人・夜半亭の門弟として学んでいる。 ・不二を見て通る人有(あり)年の市…年の瀬の慌しい江戸の市で、自分だけ別世界にいるように富士を見ながら歩く孤独な蕪村。(22歳) ・梅さげた我に師走の人通り…正月用の梅をさげ独り静かに歩む蕪村に、人々がぶつからんばかりに押し寄せてくる。(上の続き) 蕪村は当時の江戸俳壇は俗化し独創性も消えてしまったと痛感し、「芭蕉に帰れ」と訴えた。この姿勢は周囲と相容れず「世人我を見ること仇敵の如くす」と記している。 26歳の時に師が没すると、以後約10年間、江戸から離れて茨城など関東各地で絵と俳諧の修業を積む。『おくのほそ道』に深く心酔していた彼は、その世界観に憧れて遠く奥羽まで足を延ばし、芭蕉の足跡を辿った。 1751年(35歳)、京都に入る。 ・秋もはや其(その)蜩(ヒグラシ)の命かな…上洛の際、頼みとした知人への句。“その日暮らし”と自分の境遇を掛けている。(35歳) 都に入ってハイレベルな画に触れたことで、自身の絵筆の未熟さを痛感し、38歳から3年間京を離れ、自然豊かな丹後の与謝(亡母の故郷)で絵の腕を磨く。徐々に名前が売れてきたことで、京に戻り結婚し一人娘をもうける。 ・夏川を越すうれしさよ手にぞうり…草履を手に持ち、素足で夏川を渡る気持ちよさ!(40歳) 1763年(47歳)、『俳諧古選』に掲載されたは蕪村の句は“江戸の部”に入っており、京に来て12年経っても、まだヨソ者扱いだった。この年から3年間、貧困に苦しむ蕪村の為に弟子たちが皆で屏風の注文をとってきてくれたので、蕪村は集中的に屏風絵を描いている。 1766年(50歳)、京都で15年近く世話になっていた俳諧同門の知人が亡くなり俳諧への思いが再燃し、有志で「三菓社」句会を結成。ところが四国讃岐で大きな絵の注文が入り、2年間讃岐に身を寄せることに。 1768年(52歳)、画家としてのキャリアを着実に積み、この年に京都の文化人一覧『平安人物志』の画家の項に名前と住所が載る。讃岐から戻った蕪村は「三菓社」句会の活動を本格的にスタートさせる。 ・牡丹(ぼたん)散りてうちかさなりぬ二三片…あんなに咲き誇っていた牡丹の花びらが二、三片と散っている、もののあはれ。(54歳) ・凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ…空に舞う凧を見て一気に昔に自分が見た冬空を思い出す。鮮烈。(54歳) 1770年(55歳)、俳壇では周囲に推されて夜半亭二世を継承。「師に比べれば私などカカシ同然」という蕪村に、友人たちは「遅桜人に待たれて咲きにけり」とエールを送った。この頃から絵に俳句を添えて作品とする「俳画」を描き始め、その創始者となった。 1771年(56歳)、京都文人画の双璧として、ライバルでもあり親友でもあった池大雅と『十便十宜図』を合作。 ・菜の花や月は東に日は西に…夕暮れ時、一面の菜の花畑にて、東から昇りくる月と西に沈む夕陽を眺める(59歳) ・夕風や水青鷺(アオサギ)の脛(はぎ)をうつ…夕風に吹かれながら川にたたずむアオサギのふくらはぎに水が打ち寄せている(59歳) 1776年(60歳)、池大雅逝去。蕪村の生活の手段は画業が中心だったが、名声がうまく収入に繋がらず、当時の手紙で「生活が苦しく作画に追われて俳諧どころではない。画料と絹地代を送って欲しい」と知人に無心している。 1777年(61歳)、詩才が絶頂を向かえ俳諧集『夜半楽』を刊行。 1778年(62歳)、続けて画才が絶頂を向かえ俳画を大成させる。
・五月雨(さみだれ)や大河を前に家二軒…長く降り続いた五月雨で川が大河になっている。その岸に2軒の家が心細く並んでいる。(62歳) ・涼しさや鐘を離るる鐘の声…夏の朝、鐘をつくたびに音がひとつひとつ離れていくのが涼しげで気持いい。(62歳) 1781年(65歳)、「(芝居の)花やかなること、まことに都の風流、田舎にてはまた夢にも見られぬ光景にて候」当時の手紙から蕪村はかなりの芝居通だったことが分かる。「虎有(役者名)、下手くそ、野暮の天上なり。すかたんなり。気の毒、目も当てられず候。坂半(役者名)、こいつは大極道、上手い下手を論じる必要ナシ」。なかなか手厳しい(笑)。 1783年、秋から病で伏し、門弟達に看取られ67歳で死去。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」(清らかな白梅のほの白さは明けていく夜のようだ)。 蕪村の墓は京都東山区の金福寺(こんぷくじ)にある。この寺にある芭蕉庵は、かつて荒廃していたのを蕪村が65歳の時に友人と再建したものだ。そして“芭蕉の碑”の建立時に、「我も死して碑にほとりせむ枯尾花(かれおばな=枯れススキ)」と詠んだことから、門弟達が希望通り芭蕉庵や碑文のすぐ側に師を葬った。そこからは名画『夜色楼台図』のように京の町を遠望できる。 俳人として芭蕉や小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する一人となり、画家として柔らかな筆致と温かい淡彩で多くの人を魅了してきた蕪村。筆先に俳諧で培った機知を巧みに織り込み、夢の如く儚げな山水画をはじめ美術史に残る傑作を多数残している。 蕪村の発句はズバ抜けて自然描写に長けているが、小さな昆虫の生態や花が開いていくさまなどの細やかな表現は、画家が持つ観察力の賜物。言葉で写生していく言語感覚はまさに天才的で、わずかな文字で情景をスケッチするだけで、読み手の眼前に彼方まで風景を見せた。蕪村の句は日本語の言語機能を極限まで引き出しており、外国語への翻訳は極めて困難だと言われている。絵画のような句であり、句のような絵画、味わえど味わえど飽くことなし。 ●本文中に紹介した12首の他にお薦め句が28首あります(合計40首!) 【自然観察編13首】 ・みじか夜や毛虫の上に露(つゆ)の玉…短い夏の夜が明けると、庭先の毛虫が露の玉をきらきら輝せていた。 ・椿落ちて昨日の雨をこぼしけり…椿が落ちると昨夜降った雨も一緒にこぼれているよ。 ・山は暮れて野は黄昏の薄(すすき)かな…遠くの山々はもう暮れたが、目の前のススキの原は夕陽に映えている。 ・楠(くす)の根を静かにぬらす時雨(しぐれ)かな…楠木の大木の根元を時雨が静かに濡らしている。(52歳頃) ・流れ来て清水も春の水に入…雪解けの細い清水が、温まった春の水に合流しているよ。 ・ほととぎす平安城を筋違(すぢかい)に…ほととぎすが平安京を斜めに真っ直ぐ飛んでいく。 ・朝顔や一輪深き淵(ふち)のいろ…朝顔が咲き誇っている中、深い淵のような藍色の一輪があり心を奪われた。 ・涼しさや都を竪にながれ川…京の都を竪に流れている鴨川は見ているだけで涼しいなぁ。 ・畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ…畑仕事をしているうちに動かぬように見えた雲がどこかへ消えていた(66歳) ・落穂拾ひ日あたる方(かた)へあゆみ行く…秋の夕暮れ、落穂を拾いながら日の当たる方へと移ってゆくよ。 ・寂として客の絶間のぼたん哉…賑やかだった来客が帰った客間。さっきまで気づかなかった牡丹の存在感にハッとする。 ・折もてるわらび凋(しお)れて暮遅し…野山を散策中に摘んだワラビが手の中でしおれるほど長い時間が経っているのに、まだ日が落ちない。晩春の陽は長いなぁ(65歳) ・春の海終日のたりのたり哉…春の海は一日中ゆったり波がうねってのどかだなぁ。※“のたりのたり”という音感がいいね(47歳) 【心情編10首】 ・初冬や訪んとおもふ人来り…初冬になって寂しい心持から友を訪ねて行こうとしたら、向こうからこちらへ来てくれた。同じ気持だったんだなぁ。 ・鮎くれてよらで過ぎ行く夜半(よは)の門…夜遅く友人が釣りの帰りに鮎を届けてくれ、寄っていけと言うのに遠慮して行ってしまった。私は友情に打たれ、門の前でずっと背中を見ていた。(52歳頃) ・小鳥来る音うれしさよ板びさし…板窓のヒサシに小鳥が来て嬉しいな♪ ・近道へ出てうれし野の躑躅(つつじ)かな…偶然近道に出てちょっと嬉しい、しかも周囲には野のツツジがあった。 ・秋来ぬと合点させたる嚔(くさめ=くしゃみ)かな…クシャミをして秋の訪れを知る ・月天心貧しき町を通りけり…深夜の月が中空(天心)に輝いている。私は月光を浴びながら、寝静まった貧しい家々の前を行く。 ・湯泉(ゆ)の底にわが足見ゆるけさの秋…秋の朝、温泉にひたってのんびり自分の足を見ているよ。 ・斧入れて香(か)におどろくや冬木立…冬木立の中、枯木と思って斧を入れると新鮮な木の香りがして生命力に驚いた(57歳)※外側だけで分からないのは人間も同じだね。 ・身にしむや亡妻の櫛を閨(ねや)に踏む…寝床にあった櫛を踏み妻が逝ってしまったことをひしひしと感じた ・身ひとつの鳰(カイツブリ)の浮き巣や置巨炉(こたつ)…身一つで置きコタツにこもっている私は鳥が浮き巣にいるようだ(最晩年) 【歴史物編5首】 ・鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分(のわき)かな…嵐の中、鳥羽上皇の御殿へ、五、六騎の武者が駆けていく(52歳頃) ・お手討ちの夫婦なりしを更衣(ころもがえ)…不義を犯し手討ちになるところを逃れてきたお前と私。本当に、よく更衣の季節までこれたものよ。 ・ゆく春や選者を恨む歌の主…自作の歌が選にもれた歌詠みが、季節が変わろうとしてもまだ愚痴を言っている。(52歳頃) ・宿かせと刀投出す雪吹(ふぶき)哉…猛吹雪の中、宿を貸してくださいという前に刀を投げ出している旅の者。 ・白梅や墨(すみ)芳(かんば)しき鴻臚館(こうろかん)…鴻臚館は大陸からの客人を接待する為に大宰府や難波に設けられた社交場。その鴻臚館の広間では多くの文人墨客が交歓し、詩を書いた墨や白梅の香で満ちている。※梅の白と墨の黒の対比、色と香りの対比、唐人と日本人、様々な事物が響き合う名作中の名作。 |
蕪村画の芭蕉像 | 『おくのほそ道図屏風』の“旅立ち” | 『山水図屏風』(重要文化財) |
奈良の山中にひっそりと眠る赤人の墓は、朝の光に包まれて静かにたたずんでいた |
山部宿禰(すくね)赤人。奈良前期を代表する宮廷歌人であり、三十六歌仙の一人。紀貫之は『古今和歌集』の中で歌聖・柿本人麻呂と共に名をあげて高く評価し、大伴家持は書簡で「幼少から“山柿”の2人を師と仰いで歌を詠んだ」と称えている。赤人は『万葉集』に長歌13首、短歌37首の計50首を残した。 ところが、名が広く伝わる一方で、本人を語る文献は全く見当たらず、赤人を知る手掛りは歌の制作年とその内容しかない。わずかに見える横顔は、聖武天皇に仕えた下級官人(官位の記載が皆無)で、紀伊(724年10月)・吉野&難波(725年)、播磨国印南野(726年9月)、難波(734年3月)、吉野(736年6月)への天皇の行幸(ぎょうこう)に従ったこと、伊予・道後温泉や富士山、千葉県市原(勝鹿真間娘子の墓)へ長旅をしたこと、藤原不比等邸の「山池」を詠んでおり藤原氏と関係が推測できること、以上に限られる。出身地や生没年はまったく分からない。 歌が詠まれた時期は聖武天皇の代に限られ、同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいた。 山部氏の一族は大和朝廷直轄の山林管理を担当しており、その為だろうか、歌からは自然への愛が満ち溢れている。風景画のように自然の景観を詠み込み、分かりやすく簡素な歌風が生む清浄さが、人々の心に静かな感動を呼び起こした。静と動が調和された豊かな自然描写、優美かつ繊細に歌いあげられた自然賛歌はいつまでも心に響き、後の平安王朝の歌人たちにも大きな影響を与えた。 墓は額井岳(大和富士)山麓の、木々が生い茂る山中にある。東海自然歩道に沿って、飛鳥の方角(西)を向いて建つ高さ2.1mの大きな五輪塔がそれだ。地域の名は榛原区山辺三(やまべさん)。同地はかつて山辺村と呼ばれていた。墓の側には次の歌碑があった--『あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鶯の声』(春の山谷を越えて、小高い野では今ごろ鶯が鳴いているだろうなぁ)。桧林の中で、山鳥のさえずりを赤人の墓が楽しんでいるようだった。 ※姫路市飾磨(しかま)に山部赤人神社があり、赤人は信仰の対象として敬われている。 ●特選 7つの名歌(万葉集) ・『春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ 野をなつかしみ一夜(ひとよ)寝にける』(第8巻) (春の野にスミレを摘みに来た私は、野のあまりの美しさに心奪われ、とうとう一夜を明かしてしまったよ) ・『明日よりは春菜摘まんと標(し)めし野に 昨日も今日(けふ)も雪は降りつつ』(第8巻) (明日から春菜を摘もうと思ってシメ縄を結んだ野に、昨日も今日も雪が降り続けている) ・『百済野(くだらの)の萩の古枝(ふるえ)に春待つと 居(を)りし鴬鳴きにけむかも』(第8巻) (百済野の萩の古い枝に、ジッと止まって春を待っていたあの鴬は、もう鳴き始めているかなぁ) ※百済野…奈良県北葛城郡広陵町百済の野 ・『田子(たこ)の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける』(第3巻) (田子の浦を通って見晴らしの良い場所に出てみると、真っ白な富士山の高峰に雪が降り積もっていた) ・『ぬば玉の夜の更けゆけば久木(ひさき)生ふる清き川原に千鳥しば鳴く』(第6巻) (夜が更けてゆく中、久木の生える清らかな川原で千鳥がしきりに鳴いているよ) ・『明石潟(がた)潮干(しほひ)の道を明日よりは下笑(え)ましけむ家近づけば』(第6巻、726年) (明石海岸の潮が引いた道を、明日からは心でコッソリ微笑みながら歩くだろう、だんだん妻の待つ家が近づくから) ・『三諸(みもろ)の 神名備山(かむなびやま)に 五百枝(いほえ)さし しじに生ひたる 栂(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに 玉かづら 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ 明日香の 旧き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清(さや)けし 朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒く 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ 古(いにしへ)思へば』(第3巻) (神の住む神奈備山で無数の枝をつけて生い茂る栂の木のように、次々と絶えることなく訪れたいと思う明日香の古都は、山高く、川はとても雄大だ。春の日は山をうっとり眺めていたい。秋の夜は川音が美しく、朝雲に鶴が飛び交い、夕霧の中ではカエルたちが鳴き騒ぐ。訪れる度に私は声をあげて泣き出しそうになる…かつて栄えていた飛鳥京を思って) |
歌人として 名を残した将軍 |
実朝の墓石は岩窟の中にあり、 フラッシュをたかないと見えない |
1999 鎌倉名物の墓スタイル | 2009 10年後に再墓参。まったく変化なし! | 美しい花が供えられていた |
源頼朝と北条政子の次男。幼名千幡。11歳で3代将軍になったものの、実権は政子の甥・北条泰時に奪われてしまう。政治から遠ざけられた実朝は藤原定家に学んで、和歌の世界に没頭し『金槐和歌集』をまとめる。2代頼家の子・公暁によって26歳の若さで暗殺された。 「大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも」(『金槐和歌集』) 画家が風景を写生するように、歌というカンバスに自然を詠み込んだ実朝は、その歌風が700年後の正岡子規にまで影響を与えた。墓は横穴式という非常に珍しいもの。隣には夫の頼朝をお尻に敷いたという強き母親・北条政子が眠っている。 |
平清盛の異母末弟(26歳年下)。母は歌人藤原為忠の娘と言われている。どういう事情か分からないけど、忠度は京の都ではなく、和歌山・熊野の大自然の中で育てられたようだ。母方から和歌を愛する心を受け継ぎつつ、山河の中でわんぱくに育ち、太刀の早業を得意とする屈強な男になった。熊野を訪れた清盛が都に連れ帰ったと言われている。1180年(36歳)、薩摩守に就任。公家化した平家の中で武芸に秀でた忠度の存在は貴重で、戦するところ必ず忠度の姿があった。1181年(37歳)の時の「墨俣(すのまた)川の戦い」では源氏の源行家の子らを捕らえる武功を挙げている。 1183年(39歳)、次々と平家に対する反乱・挙兵が続く中、北陸・志保山で知度(とものり、清盛の七男)と共に木曽(源)義仲の軍勢と対決。この戦いで知度は、平家一門の中で初の戦死者となった。忠度は平家が世の春を謳歌した時代は、完全に去ったことを痛感する。 清盛他界後の平家棟梁・平宗盛は、都に攻め込んで来るであろう義仲軍との戦を避け、西国への移動(都落ち)を決定。栄華を誇った平家一門は京都を離れることになった。 「すぐに後から追いつきます!」平家の一族郎党が神戸に向かう途中で、忠度は馬のきびすを返して京都へ戻った。今にも義仲の大軍が都に入って来るという時に、身の危険を冒して彼が目指した場所は、歌の師匠・藤原俊成(69歳)の屋敷。夜半に到着した忠度は、遅くに訪ねたことを詫びつつ、師に別れの挨拶をした。 「平家一門の運命、既に尽きました。これまでのこと心から感謝しております。やがて世の中が平和になり和歌集を作成することがありましたら、この中よりせめて一首だけでも採って頂けたら光栄であります」。彼は和歌を書き綴った巻物を俊成に手渡した。「おお、命がけでこれを…確かにお預かりしました。ご安心なされ」「これでもう、屍を野に晒しても、この世に思い残す事はありませぬ。さらば暇(いとま)申します」「忠度殿…」。俊成は屋敷の門から、夜闇の中に消えていく弟子の背中を、涙を浮かべて見送った。これが2人の最後の別れとなった。 自らの死を覚悟していた忠度は、この世に生きた証として、百余首の歌を師匠に託した。 平家一門は神戸、四国、九州へと都落ちしていく。翌1184年、源氏側が内部分裂(義仲VS頼朝)している隙に、西国で勢力を盛り返した平家軍は兵庫・須磨まで東進し、神戸一帯に堅固な陣を張った。滋賀で義仲を討った義経・範頼(のりより)連合軍は、勢いをかって神戸に進軍し、2週間で平家の陣地に肉迫した。 平家軍は東西及び北方に広範囲な布陣をひいた(南側は海)。現在のJR線三宮〜須磨駅まで7駅分という広さだ。本陣の東側・東門(三宮)の守備隊の大将は知盛、北門は通盛、そして須磨の西門は忠度が大将になった。平家軍は来るべき決戦に備えて砦や防御壁を築いて万全の態勢を整える。そして2月7日朝、「一ノ谷の合戦」の火蓋が切って落とされた! 東門の攻め手は源範頼軍。忠度が対決した西門の攻め手は、戦の天才・源義経の軍。「西門を断固死守せよ!」忠度は守備隊を激励し、手強い義経軍に対抗した。源氏軍は東門でも西門でも、頑丈な防御壁に阻まれて攻めあぐね、突撃しては弓矢に射られ、なかなか防衛線を突破できないでいた。戦局は一進一退のこう着状態に陥った。この均衡を破ったのが義経軍の別働隊70騎。義経は西門を攻撃する一方で、先鋭部隊を引き連れて山岳地帯に入り、平家の陣の側面の崖から一気に駆け下りた(世に言う“義経のひよどり越え”)。 突如として陣の内側に現れた源氏軍に、平家は大パニック。「あり得ない!」わずか70騎の奇襲だが、“門の内側なら大丈夫”と油断していた平家側への衝撃は絶大だった。しかも義経が現れたポイントは、平家全軍の総大将・宗盛や安徳天皇がいる場所に近かった。「万一のことがあってはならぬ」と、宗盛はすぐに安徳天皇を須磨の海上に避難させた。「総大将と帝が退避!?」この動きを知った平家全軍は総崩れになった。戦線はズタズタになり、各自が我先にと浜辺へ敗走した。 「なんという混乱。ここは、ひとまず沖合いの船に戻り戦列を整えねば」。忠度は果敢に西門を守っていたが、“こうなっては仕方なし”と馬を駆けて須磨海岸を目指す。 そこへ源氏方・武蔵国の岡部忠澄(ただすみ)ら十数騎が襲い掛かってきた。「甘いわ!」忠度は反転してすぐに3人を討ち取った。だが岡部もひるまない。彼は馬を併走させ飛び掛ってきた。忠度が太刀を3度打ち据えると岡部は落馬した。そして忠度がトドメを刺そうとしたその瞬間、背後から駆け寄った岡部配下の若武者が忠度の右腕を肘から切り落とした--「不覚!」。 “もはやこれまでか”。忠度は腹をくくった。「少し待て。いま念仏を唱える。終わったら斬れ」こう告げて、阿弥陀浄土があるという西方に向かって念仏を唱えた「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」。岡部は後ろから首をはねた。 岡部は相手が誰か知らない。「この華麗な身なりは平家一門には間違いないだろうが…」。彼が首を包もうとすると、相手の箙(えびら、矢入れ)に紙片が結ばれていることに気づいた。そこには「旅宿の花」と題して、次の一首が書かれていた。 ・「行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花や今宵の 主(あるじ)ならまし / 薩摩守忠度」 (旅先で日が暮れそうだ。桜の木陰を宿にするなら、花が今宵の宿の主人になるのだなぁ) “忠度!?”驚いた岡部は刀先で首を高く上げ、「我は薩摩守忠度を討ち取ったり!」と吠えた。文武両道の忠度は武士の鑑として両軍に名が知られており、「武芸にも歌道にも傑出しておられた大将軍であったのに」と、戦の運命とはいえ、その死を惜しみ悼む声が両陣営から聞こえた。 ※岡部はこの戦の後、忠度の菩提を弔う為に、故郷の埼玉県深谷市の清心寺に供養塔を建立し、辞世の歌に応えるように桜の木で周りを囲んだ。 【戦い終わって〜一ノ谷合戦の総括】 東門(生田エリア、三宮)…大将・知盛(脱出)/副将・重衡(しげひら、捕虜→斬首)/武将・知章(討死)VS源範頼 西門(須磨エリア、一ノ谷)…大将・忠度(討死)/武将・敦盛(討死)VS源義経 北門(長田エリア)…大将・通盛(討死)/副将・教経(脱出)/武将・経正(討死)、業盛(討死)、経俊(討死)、盛俊(討死)VS源氏連合軍 平家側にとって「一ノ谷の合戦」は、知盛と教経が生き延びただけで、主な武将の11人中9人が死亡するという凄絶な戦いになった。その知盛と教経も1年後に壇ノ浦の海中へ消えていった。 忠度の死の3年後(1187年)、平和になった世の中で藤原俊成は『千載(せんざい)和歌集』を完成させた。俊成が忠度から生前に受け取った巻物は形見となってしまった。そこには優れた和歌が多く詠まれており、日の光を当ててやりたいと思った。だが、既に源氏の天下であり、平家の歌を公の和歌集に載せることなど不可能だ。平家は死後も朝敵であり、名前は出せない。彼は何とかして弟子との約束を守る為に、託された和歌から一首を選び「読み人知らず」として掲載した。 ・「さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな」(読み人知らず) (琵琶湖のさざ波が寄せる滋賀の旧都は、もう荒れ果ててしまったが、長等山の桜は昔ながらに美しく咲いていることだ) 平家滅亡後、鎌倉、室町、桃山、江戸と、あまたの武将が世に現れては消え、ほとんどの人間が忘れ去られていった。その中で、平忠度はこの歌が千載集に入ったことから、文武に優れた名将として今もその存在が語り継がれている。(それもこれも、執念で京都に戻って和歌を渡した努力のたまもの) 忠度の墓は明石市の「忠度塚」「腕塚神社」、神戸市長田区の「胴塚」「腕塚堂」が知られている。腕を埋めた墓というのは全国でも珍しい。「忠度塚」の近くに有名な天文台があるので、町の名前も天文町だけど、かつて同地は「忠度町」と呼ばれていた。また付近には「忠度公園」という住民憩いの場があり、いかに忠度が地元で慕われてきたか分かる。 《忠度5選》 ・「恋ひ死なん 後の世までの 思ひ出は 忍ぶ心の かよふばかりか」 (嗚呼、恋焦がれて死にそうだ。来世までの思い出は、互いに堪え忍んだ、この秘めた恋心だけなのか) ・「恋ひわたる 妹(いも)が棲家は 思ひ寝の 夢路にさへぞ はるけかりける」 (ずっと恋し続けている貴女の家は、貴女を思いながら寝入り見る、夢の路でさえも遥かに遠いのです。せめて夢の中くらい近ければいいのに…辛いッス) ・「身のほどに 思ひあまれる けしきにて いづちともなく ゆく蛍かな」 (隠しきれずに溢れ出る思いが、火となり燃えるように、いずことなく飛んで行く蛍だよ) ・「風の音に 秋の夜ぶかく 寝覚して 見はてぬ夢の なごりをぞ思ふ」 (秋の夜半に寒々とした風の音で目が覚めて、夢の続きを思いながら名残に浸っているわたくし) ・「梅(むめ)の花 夜は夢にも 見てしがな 闇のうつつの 匂ふばかりに」 (大好きな梅の花を、夜も夢の中で見ていたいものだ。たとえ闇の中でも、その闇が匂うほどにね!) ※忠度の他の歌は『群書類従』の「平忠度朝臣集」として残っている。 ※能の『忠度』は千載集で彼が「詠み人知らず」となったので、俊成の子・藤原定家に“名前を付けて欲しい”と頼む話。 ※千載和歌集は後白河院が藤原俊成に編纂させたもの。“千載”とは千年後までこの歌集が伝わる事を願って命名された。和泉式部、西行など、同時代の歌人の歌がよく入っている。忠度のほか、経盛(つねもり)も「詠み人知らず」で選ばれている。 ※その名前から「薩摩守」(ただのり)は無賃乗車の隠語になっている。古典には船賃をキセルする僧が登場する狂言『薩摩守』などもあり、中世の頃からシャレのネタにされているようだ。彼には失礼な話だねぇ(笑)。 |
2006年 |
1991年 “茂吉之墓”とある | 2002年 | 最上川の河岸にて |
何とも寂しげな茂吉の墓(つーか、夜の墓地…) | この年は花があった!背後は大久保利通の一族 |
山形県の農家に生まれる。15歳の時に浅草で開業医をしていた親戚に呼ばれて上京し、東大医学部に進む。23歳、たまたま貸本屋で正岡子規の歌集『竹の里歌』と出会い、それまで歌は難しいものと思い込んでいたところ、日常の光景を淡々と歌う子規の作風(写生短歌)に感銘を受け、自らも筆をとるようになった。翌年、伊藤左千夫の門下生となり万葉調の歌をつくるようになる。26歳、歌誌『アララギ』の創刊に参加。大学卒業後は医者として精神病の研究に打ち込み、31歳の時に師の伊藤が亡くなってからは、アララギ派の中心的存在となって活躍した。同年、生命の強烈な感動をうたった第一歌集『赤光(しゃっこう)』を発表して、世間にその名を轟かせた。
39歳、第二歌集『あらたま』を刊行、同年文部省在外研究員としてウィーンとミュンヘンに4年間留学する。帰国後、養父の青山脳病院が全焼し、彼は院長の職を継いで精神科医として再興に努力した(芥川龍之介の主治医でもあった)。64歳、戦火で再度病院が焼失したこととそれに続く敗戦で悲哀に沈む茂吉は、独り山形県大石田に移居。芭蕉翁の如く日々最上川と向き合い、老境に沈思黙考するなか第16歌集『白き山』の絶唱(生前の最終歌集)を生み出してゆく。
「最上川の 上空にして 残れるは いまだうつくしき 虹の断片」
「最上川 逆白波(さかしらなみ)の たつまでに 吹雪くゆうべと なりにけるかも」(共に“白き山”より)
69歳、文化勲章を受賞。心臓ぜん息のため70歳で永眠した。野性的な力強さと豊かな感受性から生まれた歌は、17歌集、18000首。「短歌は直ちに“生のあらはれ”でなければならぬ」が自論だった。次男は作家の北杜夫。 「深刻な好人物、洗練された野人」(佐藤春夫)と評された、相反する2つの顔を持つ茂吉。内側より湧き出でる膨大なエネルギーを、五・七・五・七・七の五句三十一音で表される小宇宙(短歌)に込めた。墓石はアララギの小木と共にポツンとあり、本人の書で“茂吉之墓”と小さく刻まれている。
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★僕の好きな茂吉の短歌を年代順にピックアップ!
ふるさとの 蔵の白かべに 鳴きそめし 蝉も身に沁む 晩夏のひかり(10代前半)
故郷の 地図をば眺め つくづくと 燈の下に泣く 夜もありけり(20歳ごろ) 死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田の蛙(かはづ) 天に聞ゆる(30歳ごろ) 山ふかき 林のなかの しづけさに 鳥に追はれて 落つる蝉あり(30代後半)
焼けあとに われは立ちたり 日は暮れて いのりも絶えし むなしさのはて(40代半ば) おもひ出づる 三十年の 建設が 一夜に燃えて ただ虚しかり(40代半ば) わが帰りを かくも喜ぶ わが子等に いのちかたぶけ こよひ寝むとす(50歳ごろ) 宵やみより くさかげろふの 飛ぶみれば すでにひそけき 君ししぬばゆ (茂吉51歳、芥川の7回忌に詠んだ歌。芥川は茂吉より10歳年下だった) |
十二単を着る小町(尾形光琳画) | 唐風 |
鞍馬方面に向かう途中、市原駅下車 | 階段を上がった所におられるのが… | 憧れの小町さんッ!! |
平安前期の歌人。紀貫之が『古今和歌集』仮名序の中で「近き世にその名聞えたる人」として、小野小町、在原業平、遍昭、文屋康秀、喜撰法師、大友黒主の6人の名をあげ歌風を評したことから、小町は後に「六歌仙」と呼ばれる内の1人になった。同時に彼女の名は、イケメンの代名詞在原業平と共に、美女の代名詞として語り継がれてきた。遣隋使の小野妹子を祖先とした歌人小野篁(たかむら)の孫で、出羽郡司小野良真の娘として秋田県湯沢市小野に生まれたと伝えられている。13歳頃に京へのぼり宮廷に入り更衣(こうい)になったという。 更衣とは天皇の妻。そう書くと凄いんだけど、当時の宮廷では妻にも順位があって、皇后、中宮、妃、女御と続き、最後が更衣だった。低い身分の更衣には御殿が与えられず、大広間の中を屏風で簡単に仕切っただけの「町」と呼ばれる部屋に暮らしていた。続日本後記には、ちょうど小町が生きていた同時代に、仁明天皇の更衣の中に小野吉子(きちこ)の名があることから、彼女を小町とする説が有力だ。女御から皇后になった者もいたことから、小町が他の男性の求愛を断り続けたのは、更衣からより高い位にあがることを期待して、とも推測できる。 しかしその一方で、小町が更衣であれば、数多くの男性から恋文を貰ったというのが分からない。更衣とはいえ天皇の妻。そんな彼女を口説く大胆な貴族が何人もいるとは思えない。実際、小町には巫女説、采女(うねめ、後宮で仕えた天皇の食事係)説など諸説あって、実像は不明だ。そもそも、日本全国には約30の都道府県に「小野小町ゆかりの地」が100ヵ所以上もあり、青森から宮崎まで生誕地や終焉の地が点在している。あまりに情報が錯綜している為、年に一度「全国小町サミット」が開催されているほどだ。 在原業平の求愛さえ撥ね付けたという鉄壁ガードの小町だが、それにもくじけず求婚し続けた男は多かったという。中でも有名なのが深草少将(ふかくさのしょうしょう)。彼は小町から「百夜連続で通い詰めたら契りを結びましょう」と約束され、片道90分(約6キロ)の道のりを毎晩恋文を持って通い続け、いよいよ最後の夜となった99日目に大雪にあって途中で凍死してしまったとのこと。地方によってこの話は微妙に異なり、毎日芍薬の株を植え続けたとか、榧(かや)の実を持ってきたとか、死に方も増水した川で橋ごと流されたとする説もある。また、小町は少将の愛情を試す為に百夜通いをさせたのではなく、ちょうど顔に疱瘡ができていたので完治するのに百夜かかったからとも。 彼女の後半生はどの伝説も悲惨な点で共通している。例えば、貴族の男性たちの求婚を断り続けた後、一族が没落して漁師と結婚、子どもを産むが、夫にも子にも先立たれ、乞食となって路頭をさまよい、92歳で野垂れ死ぬ凄絶バッドエンディング。また、深草少将の怨霊にとりつかれ、乞食の老女となって出家するものや、小町自身が幽霊になってしまう話もある。これらは謡曲で伝えられたものとはいえ、古いものでは既に平安時代のうちに作られたものもあり、実際の不遇な晩年が反映されたものと思われる。小町が寵愛を受けていた仁明天皇は40歳の若さで他界。天皇の後継者争いで、第一皇子を推した小野一族は、藤原氏をバックに付けた第二皇子に敗れて家運が傾いてしまう(この第一皇子の母は紀家出身。紀貫之が小町に同情的だったのはそこにあるという)。 30代後半に故郷が懐かしくなって秋田に帰り、寺に入ったとする説もあるが、全国で史跡になっている小町像の大半が、絶世の美女ではなく、骨と皮になった老婆のものが数多いことから、晩年の伝承のインパクトによるものかも。京都山科区には小野一族が住んだ「小野」という地名があり、小町の邸宅があったとされる場所に現在随心院がある。そこには深草少将ら小町を想う男たちの恋文が「千通」も埋葬されている文塚や、小町が深草少将の供養の為に撒いた榧の実が成長したという、三代目の榧の木がなどある。 小野小町作とされている歌は『古今和歌集』『後撰和歌集』『新古今集』『新撰和歌集』『小町集』などに見られるが、100%完全に小町本人の歌と断定できるのは、古今和歌集の18首と、後撰和歌集の4首のみだという。他の歌集には大量に他人の歌や偽作が混入しているそうだ。古今集で歌われているのはどれも情熱的な恋の歌ばかり。紀貫之は小町の作風を「万葉の頃の清純さと優美な王朝浪漫性を漂わせている」と絶賛した。そんな小町の名歌を9首ピックアップしたい。 ・花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に (花も私も色褪せてしまった…物思いに耽って虚しく長雨を眺めている間に) ※『百人一首』にも収められた小町の代表作。 ・夢ぢには足もやすめずかよへどもうつつにひとめ見しごとはあらず (夢路では足も休めず逢いに通う私ですが、たとえ一目だけでも現実に見られる方がいいです) ・色見えで うつろふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける (色が見えないまま変わっていく花、それは私を見る人の心の中の花なのです) ・秋風に 逢ふたのみこそ 悲しけれ 我が身空しく なりぬと思へば (心変わりの「飽き風」に逢ってしまった悲しさ。自分という存在が空しくなってしまいました) ・思いつつ 寝ればや人の 見えつらん 夢と知りせば 醒めざらましを (恋しく思いながら寝入ったからか、あの人が夢に出て来た。夢と気づいてたら目覚めなかったのに) ・わびぬれば 身をうき草の 根をたえてさそふ水あらば いなんとぞ思ふ ※六歌仙の文屋康秀が三河から遠出に誘ってくれた、その返歌 (侘しい毎日なので、浮き草の根が切れて自由に流れるように、誘って下さるなら遊びに行こうと思います) ・岩の上に 旅寝をすれば いと寒し苔の衣を 我に貸さなむ (旅先の岩の上で眠ったらとても寒いから、あなたの僧衣を羽織らせて下さい) これに対する僧正遍昭の返歌がお坊さんなのに大胆! 「世をそむく 苔の衣は ただひとへ かさねばうとし いざ二人ねむ」 (僧衣は一重しかありません、二人で一緒に寝れば暖かいですよ) ・人に逢わむ 月のなきには 思ひおきて 胸走り火に 心焼きけり (あの人に逢えない闇夜には、色んなことを考えて胸騒ぎの火で心が焼けてしまいそうです) ・秋の夜も名のみなりけりあふといへば事ぞともなく明けぬるものを (秋の夜長というけれど名前だけですね。お逢いしているとあっという間に夜が明けてしまいました) 京都左京区の補陀洛寺(通称小野寺)は小野皇太后の山荘があった場所に建ち、小町と深草少将の供養塔がある。ここに伝わる話がまた凄まじい。老いた小町は人生の最後にここへ辿り着き、こんな辞世の句を残したと言う「吾死なば焼くな埋むな野に晒せ 痩せたる犬の腹肥やせ」。後年、野ざらしだった小町の菩提を憐れに思った天台宗の高僧・恵心僧都が弔ったという。 補陀洛寺には叡電鞍馬線の市原駅で下車し、鞍馬街道を南へ5分ほど歩く。小町寺の看板と急な石段が見えたら、それを登りきるとある。 ※小町の宮廷での身分を更衣(こうい)って書いたけど、更衣で他に超有名なのは『源氏物語』の桐壺更衣っす。 ※裁縫の「待ち針」は小町が語源という。彼女が多くの求愛者を断り続けた為、穴のない針のことを「小町針」と呼ぶようになったとの事。 〔※『小野小町・ゆかりの地目録』←この入魂サイトを参考に情報を整理しました〕 小町墓(塚含む)→秋田X2、宮城X2、山形X3、福島、茨城X3、栃木、群馬、千葉、神奈川、静岡、愛知、滋賀X2、京都X5、大阪、和歌山、鳥取、岡山、山口X4(計32ヶ所) 小町生誕地→秋田、福島、千葉、滋賀、宮崎 深草少将墓→秋田、福島、京都X3 |
小町の屋敷跡にある、彼女が 使ったとされる井戸(随心院 2008) |
随心院の裏手にある林に 分け入ると、そこにあるのは… |
深草少将などあまたの男性から 送られた恋文が埋められた文塚! |
深草少将が百夜通いをした際、小町が 毎日糸を通して数えたという榧の実 |
百人一首の業平 | 美の基準は今と違うからね | 能面(中将)に! |
十輪寺の裏山にて、木陰にたたずむ墓。素晴らしい環境だった!!(2005) |
京都市左京区・吉田山の吉田神社にも業平塚がある(2012) |
平安初期の歌人。古今和歌集で知られる六歌仙の1人。古典世界で美人の代表といえば小野小町だけど、業平は美男の代表とされている。平城天皇(父方)、桓武天皇(母方)の孫。在原氏の五男なので在五(ざいご)中将とも呼ばれる。父の阿保親王は“薬子(くすこ)の変”で平城上皇側についた咎で嵯峨天皇に大宰府へ左遷され、14年後に京へ戻ったその翌年の825年、業平が生まれた。
平安期の史書『日本三代実録』には、業平を“美男子で生き方は自由奔放、出世に必要な漢詩文を学ぶ気はなく、一方で歌人として非常に優れていた”と記している。ハンサムで歌の才能がバツグンにある、こうした魅力的な人物像から、彼は死後に平安前期の歌物語『伊勢物語』の主人公のモデルとなった。作中には、二条の后・藤原高子(たかいこ)や伊勢の斎宮との禁断の愛、東国に下向したエピソードなどが描かれている。 841年、業平は16歳で右近衛将監となり朝廷に入る。以来、仁明天皇の蔵人(くろうど、天皇の機密文書を取り扱う役)を経て、848年、23歳にして従五位下まで出世するが、続く文徳天皇の代となってからは、862年(37歳)まで14年間も昇進がストップする。
彼はこの間、34歳の時に宮中で17歳の舞姫・藤原高子と出会っている。高子は天皇の女御となって26歳で子を産み(後の陽成天皇)、業平の没後に皇太后にまでなった(ただし51歳の時に僧侶と密通した疑いで皇太后を廃されちゃうけど…)。
業平は不遇な時期を過ごした後、清和天皇の代になって再び昇進し始め、最晩年の879年(54歳)には、蔵人頭&右近衛権中将という政界中枢の要職まで上りつめた。彼は高子の歌会で歌を詠んでおり、出世には彼女のバックアップも大いに関係している。 享年55歳。妻は紀有常女(きのありつねのむすめ)。子どもの棟梁、滋春、孫の元方、みんな歌人になった。
業平の歌風は激しく情熱的で、他界から25年後、古今集に30首も選ばれた。そして勅撰集全体では86首が採用される。家集の『在原業平集』は、古今集・後撰集・伊勢物語・大和物語から業平に関する歌を集めたもの。古今集の選者・紀貫之は、業平の歌を「感情がほとばしって、詞(ことば)が後を追いかけている。花がしぼみ色褪せてもなお、香りだけが残っている感じ」と評した。
【在原業平の名歌14選】 「思ふにはしのぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」(新古今集) (人目をしのんで抑えていた想いが、逢いたいという気持に負けてしまった。えい、どうとでもなれ!) 「いかでかは鳥のなくらむ人しれず思ふ心はまだ夜ぶかきに」(続後撰集) (どうして、もう鶏が鳴くんだよ…貴女への恋心を何とか伝えたいと思ってるうちに朝になってしまったのか) 「きみにより思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ」(続古今集) (貴女のおかげでやっと分かりました!世の中の人はこの気持を“恋”と呼んでいるのですねッ!) ※これまで多くの女性と浮名を流した業平が“ついに本当の恋を知った”と感極まっている歌 「人しれぬわがかよひぢの関守はよひよひごとにうちも寝ななむ」(古今集) (こっそり通っていた女性の家の前の道に、家の者が立てた見張りよ、どうか毎晩眠りこけておくれ) 「秋の野に笹わけし朝の袖よりもあはでこし夜ぞひちまさりける」(古今集) (貴女の家から朝帰りする時に秋の野の笹露で濡れた袖よりも、逢えずに戻って来た夜の方が涙で袖が濡れるッス) 「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」(古今集) (月や春が昔と同じで変わらぬように、私も元のまま変わっていない。貴女の気持だけが変わってしまった) ※好きな女性が引っ越した一年後に、彼女の邸の前で嘆いている。 「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(古今集) (世の中から桜がなくなれば、咲く日を待ち続けたり、散るのを悲しんだりせず、のんびりと春を楽しめるに) 「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれないに水くくるとは」(古今集) (大昔の神々の代でさえ聞いたことがない。竜田川が紅葉で水を真紅に絞り染めているとは) ※百人一首で有名 「すみわびぬ今は限りと山ざとにつま木こるべきやどもとめてむ」」(後撰集) (もう京の都で生きるのが嫌になった。山里で薪用の小枝を拾いながら隠居する宿を探そう) 「狩り暮らし七夕つめ(織姫)に宿からむ天の川の河原に我はきにけり」(古今集) (狩りをしていたら、とっぷり日が暮れた。天の川の河原に来ているのだから織姫に宿を借りようぞ) ※大阪には淀川に合流する天野川という名の川があり、それを天の川とかけている。 「あさみこそ袖はひつらめ涙河身さへ流るときかばたのまむ」(古今集) (思いが浅いから袖が濡れる程度なのでしょう。涙の川に身体ごと流されるほどなら、あなたの気持を受け取りましょう) ※妻の妹へ言い寄ってきた男が「つれづれのながめにまさる涙河袖のみぬれてあふよしもなし」(長雨の川よりも激しく流れる私の涙。しかし袖が濡れるだけで逢う術もないのです)と送ってきたので、業平は彼女の代筆でこの歌を返してやった。 「かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる」(古今集) (貴方が私のことを想っているのかいないのか、悶々と悩んでいたら、私なんかより雨の方が重要だったのですね) ※代筆の第2弾。先の2人の逢瀬が始まった後、男からの「逢いに行きたいのですが、雨が降っててまだ家にいます」という手紙を見て、業平が「雨がなんだ!」と代筆した返事。男は素っ飛んで来たという。 「唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」(古今集) (着慣れた着物のように親しく思う妻が都にいるのに、私はこんな遠くまで来てしまった) ※都に自分の居場所がないと思った業平は、同じ気持を共有していた友人たちと、京から愛知へ道に迷いつつ下り、八橋にたどり着く。川のほとりで食事していると目の前には燕子花(かきつばた)が咲き乱れていた。友から“かきつばた”の5文字を上の句にして歌を詠めと促された業平はこう歌った“からころも/きつつなれにし/つましあれば/はるばるきぬる/たびをしぞおもふ”。(伊勢物語) 「ゆく蛍雲のうへまでいぬべくは秋風ふくと雁につげこせ」(後撰集) (飛んでゆく〔逝く〕蛍よ、雲の上まで行くのなら、もう秋風が吹いていると雁に告げておくれ) ※業平のことを片想いしていた女性が病に伏し、彼女の親が気持を伝えに来た。急いで家に駆けつけたが、既に息絶えた後だった。彼女の魂が雁になって持ってきて欲しい、そんな哀切の思いを込めて彼はこの歌を詠んだ。(伊勢物語) ---------------------------------------------------------------------------------- 業平の遺骨は16ヶ所に分骨されたという。最も有名なのは、業平の晩年の住居跡とされる十輪寺にある墓。本堂の裏山を登って行くと、左側の木陰に小さな業平の墓があり、同寺では命日にあたる5月28日に「業平忌三弦法要」が行なわれている。また、中世の文献には左京区吉田山に御廟が築かれたとあり、今も山頂の竹中稲荷社・天満宮の北側に業平塚がある。他に、奈良市不退寺、吉野の天川村、東大阪市千手寺、滋賀の在原、愛知県東海市宝珠寺、愛知県知立市八橋町にも墓や塚が現存している。
※十輪寺の墓の側には、業平が設けた塩竈(しおがま)の跡もある。彼は大阪難波から海水を運ばせ、平安期に流行った海水を炊いて塩にする遊び、「塩焼き」の風流を楽しんだ。塩焼きの煙に当たると願いが叶うご利益があるとされ、業平は陰陽の神として崇められている。寺では毎年11月23日には「塩竈清(しおがまきよめ)祭」が催されている。
※十輪寺を訪れた時、寺の窓口にいたのはスリランカの青年僧侶で驚いた。留学僧の彼はパーリー語でお経を読み、寺内にはスリランカの仏像もあるとのこと。
※旅行のガイド本によると彼の墓は恋愛成就の力があるらしい。恋のご利益がある墓なんて初めて聞いた!
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《和歌ミニおさらい》 ・長歌(ちょうか)…和歌のメイン・ボディ。5音7音でずっと繰り返し(最低3回以上)、一番最後を5・7・7で結ぶ。『万葉集』の長歌265首のうち最短は7句。普通は十数句から二十数句だけど、柿本人麻呂が空前絶後の最長149句「殯宮(ひんきゅう)挽歌」を作歌しており、これは“和歌のエベレスト”と呼ばれている。 ・短歌…5・7・5・7・7の5句31字で構成される短詩。 ・反歌…長歌の後に添える短歌。手紙の「P.S.」みたいなもの。 ・序詞(じょことば)…メインの言葉への道案内。枕詞(まくらことば)と役割が似てるけど、枕詞は1句、序詞は2句以上からなる。 ・掛詞(かけことば)…1つの語に2つの意味をもたせる技法。要するにシャレ。 ・対句…詩文の中で、似たような句や文を並べる表現技法。 《万葉集》 630年頃から760年頃にかけて約130年間に詠まれた歌を収めた最古の歌集。4500余首が20巻に収められている。大伴家持が編纂の中心スタッフ。天皇から庶民まで様々な人間の心が詠まれており、生活に密着した歌が多い。恋の掛け合いを詠んだ「相聞」、死をいたんで詠んだ「挽歌」、雑歌(ぞうか)に大別される。『万葉集』を“万の言葉の葉”にしているのは、人麻呂や家持が作った有名歌ではなく、背後にいる2100余首に及ぶ作者未詳歌ということを忘れてはならない。 〔成立の過程〕 第1期「初期万葉」…629年の舒明(じょめい)天皇即位から672年の壬申の乱までが収められている。代表歌人は、舒明天皇、天智天皇、有間皇子、額田王など皇族が多い。素朴で力強い調べの古代的な美しさがある。 第2期「人麻呂の時代」…710年の平城京遷都まで。代表歌人は、柿本人麻呂、天武天皇、持統天皇、高市黒人、長意吉麻呂(ながのおきまろ)、大伯皇女(おおくのひめみこ)、志貴皇子など。長歌が発達し表現にも様々な工夫が登場する。特に人麻呂は枕詞や序詞を駆使して、心情を格調高く詠み込んだ天才歌人。 第3期「山部赤人、山上憶良の時代」…733年まで。叙景歌の山部赤人、漢文学に詳しく風流を愛した大伴旅人、人生の苦悩を詠んだ山上憶良、各地の伝説を鮮明な表現で詠んだ高橋虫麻呂など、個性豊かな歌人たちが独自の境地を歌った。 第4期「大伴家持の時代」…759年まで。代表歌人は、大伴家持、笠郎女(かさのいらつめ)、橘諸兄、湯原王(ゆはらのおおきみ)など。戦乱が続く時代で防人歌が目立つ。 1269年に仙覚が「万葉集註釈」で、近代では正岡子規らが万葉集を絶賛し、この流れは斎藤茂吉らアララギ派の歌人に受け継がれた。 |
国内に句碑が500基以上もある、愛されまくりの“昭和の芭蕉” | 19歳の山頭火 | 56歳、死の前年の山頭火 |
7年間を過ごした『其中庵』にて 「雨の日は雨を聴く」 |
JR新山口駅前の山頭火像 「まったく雲がない笠をぬぎ」と台座に復元自筆で刻まれていた |
「何を求めて風の中ゆく」 「あたたかく人も空も」 |
山頭火の生誕地。石碑と投句箱があった |
清酒『山頭火』が 供えられていた |
「空へ若竹のなやみなし」 「酔うてこうろぎと寝ていたよ」 |
山頭火が眠る護国寺。山が美しかった | 宿で自転車を借りてやって来たよ |
護国寺の境内にはたくさんの句碑がある。ユニークだったのは、この 隠し句碑。『護国寺』の標の頭頂部にあり、背後の石段に昇らないと 見えない。刻まれた句は「風の中おのれを責めつつ歩く」と切なさMAX |
山頭火の故郷防府には、彼の句碑が 多数ある。これは市内の句碑第1号の 「雨ふる故里ははだしで歩く」 |
「俳人種田山頭火之墓」。夏の朝陽に照らされる山頭火。左隣は母フサ。 一升瓶が丸ごと供えられている墓を初めて見た。しかも2本!酒豪の山頭火らしい |
本醸造『山頭火』。小瓶やカップ酒を入れると トータル5本が墓前に。充実しまくり(笑) |
熊本市の分骨墓。妻・咲野と一人息子もここに | 「種田家之墓」 | 墓石左側の珍しい円筒型墓誌(2014) |
愛媛県松山市の山頭火終焉の地へ(2008) | 山頭火が人生の最後にたどり着いた場所 | 彼はここを「一草庵」と名付けた |
この庵を紹介してくれた知人に捧げた句 「おちついて 死ねそうな 草枯るる」 |
山頭火は8ヶ月後に他界した |
一草庵を横から。後方部分は後世に増築された ので、元の小さな庵に戻す予定とのこと! |
大正・昭和の俳人。季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を詠んだ。本名は正一。山口県防府の大地主の家に生まれる。父は村の助役を務めたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、これに苦しんだ母は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げた。井戸に集まった人々は「猫が落ちた、子供らはあっちへ行け」と山頭火を追い払ったが、彼は大人たちの足の間から母の遺体を目撃し、心に深い傷を残す。現・防府高校を首席で卒業した後、早稲田に入学。しかし22歳で神経症の為に中退して帰郷する。この頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しており、立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、彼は父と酒造業を開始する(24歳)。27歳で結婚、子を持つ。
10代中頃から俳句に親しんでいた山頭火は、28歳から“山頭火”を名乗って、翻訳、評論など文芸活動を開始。31歳、俳句を本格的に学び始め、俳句誌に掲載されるようになる。34歳、実力が認められて俳句誌の選者の一人になるが、翌月に「種田酒造場」が倒産(酒蔵の酒が腐敗するなど2年続きで酒造りに失敗した)。父は家出し、兄弟は離散する。山頭火も夜逃げ同然で妻子を連れ九州に渡った。翌月、古書店(後に額縁店)を熊本市内に開業するがこれも失敗。36歳、弟が借金に耐え切れずに自殺。37歳、行き詰った山頭火は職を求めて単身上京し、図書館で勤務するようになる。38歳、熊本にいる妻から離婚状が届き判を捺した。40歳、神経症の為に図書館を退職。翌1923年に関東大震災で焼け出され、熊本の元妻のもとで居候となる。 42歳、熊本市内で泥酔した山頭火は市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こす(生活苦による自殺未遂と言われている)。市電の中で転倒した乗客たちは怒って彼を取り囲んだが、現場に居合わせた新聞記者が彼を救い禅寺(曹洞宗報恩寺)に放り込んだ。翌年これが縁で山頭火は出家して耕畝(こうほ)と改名、郊外の味取(みとり)観音堂の堂守となった(43歳)。生きる為に托鉢(たくはつ)を続けて1年余が経った1926年(44歳)、4月に漂泊の俳人尾崎放哉が41歳の若さで死去。山頭火は3歳年下の放哉の作品世界に共感し、句作への思いが高まり、法衣と笠をまとうと鉄鉢を持って熊本から西日本各地へと旅立った。この行乞(ぎょうこつ、食べ物の施しを受ける行)の旅は7年間も続くことになり、その中で多くの歌が生まれていく。 最初に向かったのは宮崎、大分。九州山地を進む山頭火は旅始めの興奮をこう詠んだ-- 「分け入っても分け入っても青い山」。 続いて中国地方を行乞し、46歳で四国八十八ヶ所を巡礼。小豆島では憧れの放哉の墓を訪れた。1930年(48歳)、思うところがあり過去の日記を全て燃やす-- 「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」「こころ疲れて山が海が美しすぎる」。 1932年、50歳を迎えた山頭火は、肉体的に行乞の旅が困難となり、句友の援助を受けて山口県小郡の小さな草庵に入り「其中庵(ごちゅうあん)」と命名する。湯田温泉にも近く、ここに7年間落ち着くことになる。深酒は相変わらずで、当初は近隣の人々から不審な旅僧と見られていたが、高名な俳人・荻原井泉水(せいせんすい)が山頭火を讃えたこと、其中庵での句会に多数の句友が集まったことから、次第に彼への接し方が温かくなっていった。 ※山頭火の酒豪ぶりはハンパじゃなかった。本人曰く泥酔への過程は「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」であり、最初の「ほろほろ」の時点で既に3合だった。酒と俳句については「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」と語っている。 そしてこの年、出家からこれまでの作品をまとめた第一句集『鉢の子』が刊行される。九州、四国、中国地方を歩き続けた日々、山頭火の魂の遍歴がここに刻まれた。 ●第一句集『鉢の子』(抜粋)1932年 生死の中の雪ふりしきる 笠にとんぼをとまらせてあるく 歩きつづける彼岸花咲きつづける まっすぐな道でさみしい また見ることもない山が遠ざかる どうしようもないわたしが歩いている すべってころんで山がひっそり つかれた脚へとんぼとまった 捨てきれない荷物の重さまへうしろ あの雲がおとした雨にぬれている こんなにうまい水があふれている まったく雲がない笠をぬぎ 墓がならんでそこまで波がおしよせて 酔うてこおろぎと寝ていたよ 雨だれの音も年とった 物乞ふ家もなくなり山には雲 よい湯からよい月へ出た 笠へぽっとり椿だった 続けて翌年の暮れに第ニ句集が刊行された。 ●第ニ句集『草木塔(そうもくとう)』(抜粋)1933年 水音しんじつおちつきました すッぱだかへとんぼとまろうとするか かさりこそり音させて鳴かぬ虫が来た 何が何やらみんな咲いている 山のいちにち蟻もあるいている 雲がいそいでよい月にする (帰庵)ひさびさにもどれば筍によきによき 52歳、遠く信州に眠る江戸後期の俳人・井上井月(せいげつ)の墓参の為に東に向かう。井月は元長岡藩士。武士を捨てた放浪俳人で乞食井月と呼ばれた。しかし、信州に入ったところで肺炎となり緊急入院。墓参は果たせなかった。この秋、日記に「うたう者の喜びは力いっぱいに自分の真実をうたうことである。この意味において、私は恥じることなしにその喜びを喜びたいと思う」と記す。1935年(53歳)、第三句集を刊行。 ●第三句集『山行水行(さんこうすいこう)』(抜粋)1935年 夕立が洗っていった茄子をもぐ 山のあなたへお日さま見おくり御飯にする お月さまが地蔵さまにお寒くなりました 落葉を踏んで来て恋人に逢ったなどといふ ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない 何もかも雑炊としてあたたかく 閉めて一人の障子を虫が来てたたく ともかくも生かされてはいる雑草の中 山頭火は第三句集発刊から半年後の8月、睡眠薬(カルモチン)を多量に飲み自殺未遂を起こす。眠ってる間に体が拒絶反応して薬を吐き出し、一命を取り留めた。年末の日記に次の如く刻む「この一年間に私は十年老いたことを感じる。老いてますます惑いの多いことを感じないではいられない。かえりみて心の脆弱(ぜいじゃく)、句の貧困を恥じ入るばかりである」。 1936年(54歳)、第四句集『雑草風景』発刊。この年は関西、東京、新潟、山形、仙台、そして遠く岩手平泉まで旅をした。「ここまで来し水飲んで去る」(平泉にて)。 ●第四句集『雑草風景』(抜粋)1936年 日かげいつか月かげとなり木かげ なんぼう考えても同じことの落葉ふみあるく 悔いるこころに日が照り小鳥来て鳴くか 枯れゆく草のうつくしさにすわる 空へ若竹のなやみなし 何を求める風の中ゆく 1937年(55歳)、無銭飲食のうえ泥酔し警察署に5日間留置。同年、「藪にいちにちの風がおさまると三日月」「けふは木枯らしのはがき一枚」等を詠った第五句集『柿の葉』発刊。「自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人句集では許されないでもあるまいと考えて、あえて採録した。こうした私の心境は解ってもらえると信じている」。 1938年(56歳)、積年の風雪で其中庵は朽ち果て壁も崩れた為、新しい庵を探して旅立ち、山口市の湯田温泉に四畳一間を借り「風来居」と名付けた。友人たちがリヤカーで小郡から湯田まで荷物を運んでくれたという(約12km)。1939年(57歳)、1月に第六句集を刊行。 ●第六句集『孤寒(こかん)』(抜粋)1939年 ひなたは楽しく啼(な)く鳥も啼かぬ鳥も 藪から鍋へ筍(たけのこ)いっぽん 風の中おのれを責めつつ歩く なんとなくあるいて墓と墓との間 咳がやまない背中をたたく手がない 窓あけて窓いっぱいの春 春先に近畿から木曽路を旅し、6年前に肺炎で墓参できなかった井上井月の墓に巡礼を果たす。その墓前にて「お墓撫でさすりつつ、はるばるまいりました」。10月、山頭火は死に場所を求めて四国に渡り、小豆島で再び尾崎放哉の墓参をする。こちらも墓前で「ふたたびここに、雑草供へて」。年の暮れに松山で終の棲家となる「一草庵」をむすんだ。山頭火はこの庵を見て「落ち着いて死ねそうだ」と喜んだという。同年の日記より--「泊まるところがないどかりと暮れた」「こうまでよりすがる蝿をうとうとするか」「ついてくる犬よおまへも宿なしか」。 1940年1月、山頭火を慕う句友たちが「柿の会」を結成、一草庵で初句会を開く。翌月の日記に「所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守ろう」と刻む。3月、母の第四十九回忌には「たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと」と詠んだ。4月にこれまでの俳句人生の総決算となる一代句集『草木塔』(第二句集と同じ題名)を刊行。第一句集からの全ての句より自選して収めた。そして中国&九州地方の世話になった友人たちに『草木塔』を献呈する旅に出て2ヶ月後に一草庵に帰着。7月、「寝床まで月を入れ寝るとする」などを含む第七句集『鴉』を刊行。 10月10日の夜、一草庵で句会が行われる中、山頭火は隣室でイビキをかいていた。仲間は酔っ払って眠りこけていると思っていたが、実は脳溢血であった。会が終わると皆は山頭火を起こさないように帰ったが、虫の知らせを感じた者が早朝に戻ってみると、山頭火は既に心臓麻痺で他界していた。死亡時刻は推定4時。本人念願の“コロリ往生”だった。山頭火は生涯に8万4千句という膨大な数の作品を残し、この世を去って行った。享年57歳。最晩年の日記には「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから生まれたような一生だった」と書いた。辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」。旅を愛した山頭火は、地平線から立ち昇る明るい雲の中へ溶け込んでいった。 「前書きなしの句というものはないともいえる。其の前書きとは作者の生活である。生活という前書きのない俳句はありえない」。山頭火の生き様が死後人々に知られるにつれ、彼の言う「生活を前書きにした」句の人気はどんどん高まり、’70年代前半は17ヶ所だった句碑が、'90年代初頭に150ヶ所を数え、2006年には500ヶ所を超えているという。個人の文学碑の数としては山頭火が一番ではなかろうか。故郷の防府には生家跡が残り、市内だけで句碑が81基もある。 山頭火は他界の半年前に出した代表作『草木塔』の冒頭にこう刻んだ--「若うして死をいそぎたまへる母上の霊前に本書を供へまつる」。 ●墓 山頭火は生地の山口県防府市・護国寺に母フサと並んで眠っており、墓石には「俳人種田山頭火之墓」と彫られている。満州に渡っていた息子が急遽帰国し葬った。現在、護国寺の本堂では自筆句や愛用品が無料公開されている。また、元妻が住んだ熊本市・安国禅寺にも分骨墓がある。 |
小学校の頃 | あまりに繊細すぎた | 放哉終焉の地、小豆島 |
放哉が暮らした庵(いおり)は、文学記念館になっている。 庭の大松は彼の俳句に何度も登場する※今は2代目の松 |
庵から海岸まではスグ! 「障子あけて置く 海も暮れ切る」 |
縁側にあった投句箱。 年に一回審査がある |
放哉の庵の近くに墓がある | 季節の花が絶える事がないという | ビール・日本酒・ワイン、全部揃ってる! | 温かい手書きの「放哉さんのお墓」 |
資料館の別館は入る価値がある。 町立図書館で鍵を借りよう |
これは貴重!自筆の句や手紙が展示されていた(撮影許可済) |
放哉が4ヶ月ぶりに入ったという銭湯は、既にサラ地に なっていたが、銭湯の看板だけは記念館前にあった |
放哉の庵にあった仏像。 ※現在は西光寺本堂にある |
この日、親切に車であちこちを 案内して下さった地元の I さん |
西光寺の三重塔。この 小道を放哉が歩いてた |
大正期の俳人。安住の地を求めて流浪した尾崎放哉は、“昭和の芭蕉”種田山頭火と共に『漂泊の俳人』と呼ばれる。両者は共に、季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を詠んだ。
放哉は鳥取市出身。本名、尾崎秀雄。父は地方裁判所の書記。子どもの頃は自分の周囲を屏風で囲い、一人で読書をするのを好んでいた。14歳から俳句や短歌を作り始め、翌年には学友会誌に俳句を寄せている。中学時代の作品は「きれ凧の糸かかりけり梅の枝」「水打って静かな家や夏やなぎ」など。
※大学卒業までは約束事を守った俳句を詠んでいる。 1902年(17歳)、上京して一高に入学し、翌年荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)と出会う。井泉水は放哉の一学年上。後に自由律俳句運動の指導者として山頭火や放哉を世に送り出し、俳壇の重鎮となった人物だ。放哉は最大の理解者となってくれた井泉水を生涯にわたって師と慕い、親交を持つようになる。 20歳、東大法学部に入学。翌年、『ホトトギス』や新聞に投句し掲載される。この頃、いとこの女性に惚れ込むが血の近さから親族に反対され失恋。哲学や宗教にのめり込み、泥酔を繰り返すようになる。1907年(22歳)、号を「芳哉」から「放哉」に改めた。 24歳で卒業すると、東大法科出身のエリートとして通信社で働き始めるが一ヶ月で退職(原因は不明)。鎌倉の禅寺に足を運ぶ。1911年(26歳)、生命保険会社に就職。同年、郷里の遠縁の娘と結婚。またこの年には井泉水が句誌『層雲』を創刊している(2年後に山頭火、4年後に放哉の句が掲載される。両者が世に出たのは『層雲』あってこそ!)。 ※以下、放哉の句を生涯に沿って年代順に挿入していく。 ふとん積みあげて朝を掃き出す 雪は晴れたる小供らの声に日が当る 青草限りなくのびたり夏の雲あぱれり 堤(どて)の上ふと顔出せし犬ありけり 駈けざまにこけし兄が泣かで又駈ける 夫婦でくしゃみして笑った 今日一日の終りの鐘をききつつあるく 仕事の業績は当初こそ好調で出世していったが、やがて人間関係のストレスに疲れきり、酒癖での失敗も重なって勤続10年目に平社員に降格、これを機に36歳で退職した(1921年)。翌年、新たに別の保険会社に移り京城(現ソウル)に赴任するが、約1年で免職になる。入社時の禁酒の誓約を破ったとも、同僚の中傷が原因とも言われている(38歳)。放哉は満州で再起を試みるが前年に発病した肋膜炎が悪化し、現地の病院に2ヶ月入院。帰国後、妻より離縁される。彼の人生には中学から続けてきた俳句だけが残った。 放哉は会社勤めに3度失敗したことで、実社会で暮らすことは不可能と自覚。無一物となって年の暮れに京都の修行場・一燈園に入り、托鉢、労働奉仕、読経の日々を送る。 つくづく淋しい我が影よ動かして見る ホツリホツリ闇に浸りて帰り来る人々 ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる 月夜戻りて長い手紙を書き出す
1924年(39歳)、冬の一燈園の寒さと労働奉仕の厳しさに肉体の限界を感じた放哉は、3月から知恩院塔頭・常称院に入る。だが、井泉水が寺を訪れた際に再会の喜びから泥酔し、わずか一ヶ月で住職に追い出された。6月、知人の紹介で神戸の須磨寺に身を置く。これから死に至るまでの2年間、大量の名句を生み出してゆく。 障子しめきつて淋しさをみたす こんなよい月を一人で見て寝る 船乗りと山の温泉に来て雨をきいてる 沈黙の池に亀一つ浮き上る 鐘ついて去る鐘の余韻の中 浪打ちかへす砂浜に一人を投げ出す わがからだ焚火にうらおもてあぶる 門をしめる大きな音さしてお寺が寝る 葬式の幕をはづす四五人残つて居る
にくい顔思ひ出し石ころをける 雀がさわぐお堂で朝の粥腹(かゆばら)をへらして居る 犬よちぎれるほど尾をふつてくれる 雨の幾日がつづき雀と見ている
児に草履をはかせ秋空に放つ
かぎ穴暮れて居るがちがちあはす
あるものみな着てしまひ風邪ひいている
がたぴし戸をあけておそい星空に出る
鳩に豆やる児が鳩にうづめらる
花が咲いた顔のお湯からあがつてくる
人を待つ小さな座敷で海が見える
何かつかまへた顔で児が藪から出て来た 雀のあたたかさを握るはなしてやる 1925年(40歳)、権力争いの内紛で揺れる須磨寺を立ち去り、5月から福井県小浜の常高寺に移る。 だが、2ヵ月後に寺が破産してしまう。 うつろの心に眼が二つあいている ころりと横になる今日が終つて居る 一本のからかさを貸してしまつた 今日来たばかりの土地の犬となじみになっている 竹の子竹になって覗きに来る窓である 和尚茶畑に居て返事するなり 麦わら帽のかげの下一日草ひく 小さい茶椀で何杯も清水を呑む 遠くへ返事して朝の味噌をすって居る 寺に来て居て青葉の大降りとなる
朝早い道のいぬころ 行き場を失った放哉は京都で一人暮らしをする井泉水の下に身を寄せた(井泉水は2年前の関東
大震災で妻子を失っていた)。 昼寝の足のうらが見えている訪ふ 宵のくちなしの花を嗅いで君に見せる 病気がちになった放哉は死期を予感したのか、井泉水に「海の見える所で死にたい」と訴える。井泉水は妻子に先立たれた後に遍路巡礼で小豆島を訪れており、この時に知り合った島内の『層雲』句友に海辺の庵を探して欲しいと依頼した。 “小豆島北西の土庄に庵あり”と連絡を受けた放哉は、8月20日に島へ渡り西光寺・南郷(みなんご)庵にたどり着く。“二抱えもあろうかという大松”が庭先にある庵。ここが終の棲家となった。寺男として住み込むのではなく、庵主としての孤独な暮らしが始まった--「人の親切に泣かされ今夜から一人で寝る」。 1926年、南郷庵で俳句の創作に没頭していた彼は、2月に肺結核と診断され、いよいよ先が短いことを悟る。翌月には喉の粘膜が炎症を起こして食事が不可能になり、4月7日に絶命した。死を看取ったのは隣家の老婆ただ一人だった。享年41歳。結核と分かってから2カ月しか生きられなかった。 2日後、井泉水が訪れ西光寺に埋葬した。戒名は大空放哉居士。辞世の句は「春の山のうしろから烟(けむり)が出だした」。死の2カ月後、井泉水は放哉の冥福を祈って句集「大空(たいくう)」を刊行した。 放哉の死後、南郷庵は朽ち果てたが、1994年に完全復元され『尾崎放哉記念館』として公開されている。彼の墓は南郷庵に隣接する共同墓地の高台にあり、墓前には花と酒が絶えない。 放哉は死の3年前に実社会と離れてから、深い孤独を感じて苦しんでいたが、一方で無常観が生む透明感、達観した洒脱味などで、逆に句は冴え渡っていった。 特に小豆島では8カ月たらずの生活の中で、病に苦しみながらこの世に生きた証を刻み付けるべく、約3千句という膨大な数の句を残し、俳人として飛躍的に成長を遂げた。放哉は一人ぼっちの庵の中で自由律俳句のひとつの頂点を極めて死んでいったのだ。 ●最後の8カ月の作品から 咳をしても一人
いつしかついて来た犬と浜辺に居る とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた ビクともしない大松一本と残暑にはいる
障子あけて置く海も暮れ切る 足のうら洗へば白くなる
なん本もマッチの棒を消し海風に話す 自分をなくしてしまつて探して居る 山は海の夕陽をうけてかくすところ無し 竹籔に夕陽吹きつけて居る
鳳仙花(ほうせんか)の実をはねさせて見ても淋しい 墨をつけた顔でもどつて来た 夜の木の肌に手を添へて待つ 障子の穴から覗いて見ても留守である 入れものが無い両手で受ける 雀が背のびして覗く俺だよ
ほん気で鶏を叱つて居る 月夜の葦が折れとる 墓のうらに廻る あすは元日が来る仏とわたくし 夕空見てから夜食の箸とる 枯枝ほきほき折るによし 霜とけ鳥光る いそがしさうな鳩の首だ お菓子のあき箱でおさい銭がたまつた あついめしがたけた野茶屋 これでもう外に動かないでも死なれる 肉がやせてくる太い骨である 一つの湯呑を置いてむせている 白々あけて来る生きていた 春の山のうしろから烟が出だした ※放哉は種田山頭火より3歳年下だが、14年早く他界した。山頭火は2度放哉の墓に訪れている。共に『漂泊の俳人』として知られるが、山頭火が自ら求めて放浪の旅に出た“動”の俳人であるのに対し、安らぎの土地を求めてさ迷い無常観をたたえた句を詠んだ放哉は“静”の俳人と例えられる。 |
●追記〜晩年の未発表句稿から※1996年に約2700句も発見された。 バケツー杯の月光を汲み込んで置く 茶わんのかけを気にして話しして居る 傘をくるくるまわして考え事していた 暗がり砂糖をなめたわが舌のよろこび とんぼが羽ふせる大地の静かさふせる ホキと折る木の枝よい匂ひがする 児の笑顔を抱いて向けて見せる 竹の葉が降る窓で字を習っている 口笛吹かるゝ四十男妻なし 破れたまんまの障子で夏になっている 呼び返して見たが話しも無い ゆっくり歩いても燈台に来てしまった 水平線をはなれ切った白雲 数えて居るうちに鳩の数がまぎれて来る 根も葉も無い話しで田舎の夜が更ける 島の墓にはお盆の夕空流れ 色々思はるる蚊帳のなか虫等と居る 店の灯が美くしくてしゃぼん買ひにはいる 新らしい釘を打って夏帽をかける 魚釣りに行く約束をしたが金がなかった まっくらなわが庵の中に吸はれる 庭をはいてしまってから海を見ている 飽く迄満月をむさぼり風邪をひきけり さあ今日はどこへ行って遊ばう雀等の朝 盆休み雨となりぬ島の小さい家々 島の土となりてお盆に参られて居る ※放哉の名随筆『石』を抜粋して紹介。彼が“石”の素晴らしさを情熱的に語っている。 これはユーモアもあって本当に素晴らしいエッセイなので是非!(短いよ!) ※お薦め参考サイト http://www2.netwave.or.jp/~hosai/ 尾崎放哉記念館 http://homepage2.nifty.com/onibi/housai.html 年代順全句集 |
菊池容斎画 | 後方の古い塚が篁の墓。ちなみに、あの紫式部と墓が並んでいる! |
小野篁(たかむら)は平安初期の歌人・漢学者。小野妹子の子孫で小野小町の祖父にあたる。閻魔の側近とも伝えらているが、根拠となったのは当時の右大臣・藤原良相(ふじわらのよしみ/813-867/左大臣・藤原冬嗣の五男)の話。藤原良相は臨死状態に陥った時に閻魔宮で小野篁に出会い、彼が生き返らせてくれたと告白した。事実、死んだと思った藤原良相が蘇生したことから人々はその証言を信じた。ではなぜ150年後に活躍した紫式部と墓が隣接しているのか。式部が死ぬと、彼女は小説で人心をたぶらかした(振り回した)罪で地獄に堕ち、小説の読者も同罪という噂が平安朝に流れた。篁には閻魔大王の側近という言い伝えがあった為、人々は“閻魔と面識のある彼なら式部を救ってくれるハズ”と考え、墓を隣接させたとのことだ。 ※篁は朝廷批判の詩を書いて嵯峨天皇の逆鱗に触れるなど、反骨の精神の持ち主でもあった。 ※良相は学生であった小野篁が罪を犯した際これを弁護した事があった。後に良相は病を得て一旦死去し地獄で閻魔大王の目前に引き据えられるが、閻魔王宮の臣として裁判を手伝っていた篁の執り成しによって赦され冥界から帰還したという。 |
本名・幾太郎のち藤吉。東京生まれ。中学から俳句を始める。東大文学部卒業後、1911年(27歳)、新傾向俳句機関誌『層雲』を主宰。季語を使わずに自然のリズムを重視した自由律俳句を詠んだ。翌年、初の句集『自然の扉』を刊行。この頃から『層雲』には主旨に共鳴した尾崎放哉や種田山頭火が加わる。門弟となった放哉も山頭火も貧困&破滅的な生活を送っており、井泉水は彼らの句を指導するだけでなく、生活を援助する為に奔走した。91歳を生き抜き大往生。 |
酒と旅を愛した歌人。宮崎県出身。本名、若山繁。18歳の時に号を牧水とした。1908年(23歳)に早稲田を卒業し、第1歌集「海の声」を発表。2年後に歌集「別離」を刊行し、自然主義歌人として話題を集める。1912年(27歳)、親交のあった石川啄木の死を看取った。同年、喜志子と結婚。1920年(35歳)、千本松原の景観に魅せられ沼津に移住。1923年(38歳)、歌集「山桜の歌」を世に送る。牧水は一日一升の酒を浴びるように呑んだ酒豪で、肝硬変のために43歳で他界。万葉集を愛し、歌のスタイルは素直かつ平明。作品は人々に親しまれ、旅をよくしたことから日本各地に歌碑が建つ。戒名は古松院仙誉牧水居士。 ●『若山牧水全集第七巻』から わが部屋にわれの居ること木の枝に魚の棲むよりうらさびしけれ
明けがたの床に寢ざめてわれと身の呼吸(いき)することのいかにさびしき
海のひびくに似たるなつかしさわが眼の前の砒素(ひそ)にあつまる
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「史跡・小林一茶旧宅」。大火事で焼け出された一茶が息を引き取った「終焉の土蔵」 | JR黒姫駅から近い「一茶記念館」 |
一茶記念館の裏手にある俳諧寺と一茶像。この奥に墓がある | 「初夢に古郷を見て涙かな」 |
緑がいっぱいの一茶の墓!目印の巨大石柱ですぐに分かった | 小林家一族の墓に合葬されている | 「俳諧寺 一茶翁墓」 |
「おらが世や そこらの草も 餅になる」(一茶) このユーモアが一茶の魅力♪ |
「我もけさ清僧の部也(なり) 梅の花」…奈良・ 長谷寺の句碑。1798年(35歳)の元旦句。意味は “今朝、身も心も清浄となり自分も清僧の仲間 入りした感あり。寒気に凛と咲く梅の花の如し” |
この小さな写真は すべて一茶の句碑! 愛されているのが分かる (一茶記念館) |
江戸後期の俳人。生涯に約2万句もの作をのこした。本名、小林弥太郎。長野の農家に生まれる。3歳で母が他界。継母とは気が合わず14歳で故郷を出て江戸へ。様々な俳人と交流し、30歳から6年間ほど俳諧修行のため近畿・四国・九州を旅して回った。1813年(50歳)に信濃へ帰郷。52歳の晩婚で長女が生まれる。1819年(56歳)、代表作となる句文集「おらが春」をまとめる(出版は死の25年後)。その後、妻と子供4人に天然痘や痛風で次々先立たれ、2番目の妻は半年で離婚(妻が逃げた?)、3度目の結婚で生まれた娘だけが大人になった(娘は一茶の死後に生まれており対面していない)。1827年に地元の大火で家を失い、その4ヶ月後に焼け残った土蔵の中で死去した。享年65歳。一茶は生きとし生けるものを愛し、優しさに満ちあふれた句を多く詠んだ。
「我と来て遊べや親のない雀」(自身の幼時期を回想)
「痩蛙(やせがへる)まけるな一茶是にあり」
「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」
「名月を取ってくれろと泣く子かな」
「目出度さも中位なりおらが春」(長女の死の直後に詠む)
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この地で良寛は生まれた | 現在は良寛堂が建つ | 『良寛和尚誕生之地』 | 『良寛生誕地橘屋跡』 |
母の故郷、佐渡島を見つめる良寛(荒天で見えず) | 良寛堂の後方に座しておられます |
生誕地に近い『良寛記念館』 | 記念館横の公園に手まりを持つ良寛と子供 | この良寛像は穏やかで良いお顔! |
『良寛記念館』の裏手には… | 良寛の母の墓(山本家) | 『良寛記念館』には自筆の歌もあった |
スタンド・バイ・ミー! | 新潟のJR小島谷駅は無人駅 | 昼間の列車は3本 | 紅茶花伝が80円!約半額! |
子供と手毬をする良寛さんのレリーフが橋の欄干にあった。地元の人に愛されてるなぁ | 終焉の地。当地の庵で他界した |
墓所のある隆泉寺に到着! 良寛さんの銅像が木陰にたたずんでいた |
境内に良寛さんの書いた歌がズラリ! |
墓前にスズメバチの巣 があり、飛びまくってた! 危険すぎる巡礼だった! |
良寛さん自筆の南無阿弥陀仏。 力を抜いた軽妙な筆致に味アリ |
晩年は木村家の世話になる。隆泉寺は木村家の菩提寺。 良寛さんの左奥に見えるのは弟・由之の墓 |
「良寛禅師墓」 高潔な人格が愛された |
同じ町にある「良寛の里美術館」。自筆の書を展示 | 美術館の前にちょこんと座る | 同美術館には尼僧とのラブラブ像も。良寛さん、めっさ笑ってる!(*^v^*) |
唯一の弟子・遍澄の墓(妙徳寺) | 隆泉寺の近所の妙徳寺で偶然見つけた「涅槃城」。名前がカッコイイ! | 妙徳寺の釣り鐘は左右から!?初めて見た! |
歌人や書家として有名な江戸後期の禅僧(曹洞宗)。1758〜1831
。出身は現・新潟県出雲崎。俗名、山本文孝(幼名栄蔵)。号は大愚(すごい号!)。父は出雲崎地区の名主かつ神主。1775年(17歳)、良寛は長男であったが父の跡を継がずに隣村の寺に出家し、21歳のときに越後を訪れた高僧・国仙和尚から法号「良寛」を与えられ、国仙和尚を慕って岡山・円通寺に入り、12年にわたって修行に明け暮れる。25歳の時に母が他界。28歳、父が隠居し、弟の由之(ゆうし)が町名主を継いだ。1790年(32歳)、国仙和尚から悟りの証明書となる印可状を授けられ、翌年から諸国を托鉢行脚で巡り始める。37歳、人間関係に悩んだ父が京都桂川にて投身自殺し、良寛は翌年に郷土への帰途につく。
1797年(41歳)頃から出雲崎付近を無一文で転々と移り住み、1804年(46歳)より国上寺(こくじょうじ)・五合庵に定住、十数年をここで過ごす。1812年(54歳)、代表作となる自選歌集・『布留散東(ふるさと)』が完成。1816年(58歳)、乙子(おとご)神社境内の草庵に居を移し、書の達人であった良寛はここで多くの名筆を残した。長岡藩主・牧野忠精(ただきよ)が直々に乙子草庵を訪れ、「城下に招きたい」と説得にきた際、良寛は「焚(た)くほどは 風がもて来る 落葉かな」(煮炊きに必要な落ち葉は風が運んでくれ、山里の暮らしに何の不足もない)の一句を無言で指し示し、要請を断ったという。
1826年(68歳)、良寛は老いを感じて30年過ごした国上山から下り、島崎村(現長岡市)の木村家に身を寄せて最後の5年間を送る。翌年、40歳も年下の若い尼僧・貞心尼(28歳、医師の未亡人)が弟子入りし、恋が芽生える。1831年1月6日午後4時、下痢腹痛に苦しみ、最期は貞心尼に看取られ他界する。良寛は「万葉集」をこよなく愛し、死の4年後に貞心尼が良寛の和歌を集めた歌集『蓮(はちす)の露』(1835)を編集した。良寛他界の41年後(1872年)、貞心尼は柏崎にて75歳で没した。
良寛は無欲で生涯自分の寺を持たなかった。全ての人に愛情深く接し、難解な説法はせず、庶民でも分かる平易な言葉を選んで仏教を広めた。そして、「子供の純真な心こそが仏の心」と悟り、常に懐には手毬を入れ、好んで子供たちとよく遊んだ。かくれんぼで隠れたまま朝になったという逸話も残る。庵(いおり)の下に生えてきた竹の子の為に、床に穴を開けたという優しい話もある。禅僧でありながら酒を好んだと伝えられ、親しみやすい良寛の姿が思い描かれる。
良寛の書は生前から奪い合いになるほど人気があり、人々が大切に保管したため後世に約1200首が残り、川端康成、水上勉など良寛の研究者は多く、昭和以降に100冊以上も訳注著書が刊行されている。
墓は晩年に世話になった木村家の菩提寺である隆泉寺(長岡市)に立ち、表面に次の歌が刻まれる「やまたづの 向かひの岡に 小牡鹿(さおしか)立てり かみなづき 時雨の雨に濡れつつ立てり」(向かいの丘に雄鹿が立っている。10月の冷たい時雨に濡れながら凜と立っている)。辞世は「形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」(形見に何を残そうか。春は花、夏はほととぎす、秋は紅葉の葉っぱかな)。自然の恵みを感じる心を大切にして歌い続けて欲しいという、後世の私たちに向けたメッセージだ。 素朴な人柄がにじみ出る数々の歌。
「霞立つ 永き春日に 子どもらと 手まりつきつつ この日暮らしつ」(長い春になり子どもたちと手まりをつきながら一日過ごしたよ)
「この里に 手まりつきつつ 子どもらと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」(里で手まりをつきながら子どもらと遊ぶ春の一日は、暮れなくたってかまわない)
「草枕 夜ごとに変はる 宿りにも 結ぶは同じ ふるさとの夢」(旅の宿は毎晩泊まるところが異なるが、夢はいつも同じ故郷のものだ)
「捨てし身を いかにと問はば 久方の 雨降らば降れ 風吹かば吹け」(出家した気持ちを問われたなら、雨は降るにまかせ、風は吹くにまかせると答える)
「鉢の子を わが忘るれども 取る人はなし 鉢の子あはれ」(托鉢に使う大切な鉢の子を道端に忘れてしまったが、誰一人取ろうとしなかった。無関心に耐えている鉢の子がいとしい)
「何ごとも みな昔とぞ なりにける 涙ばかりや 形見ならまし」(何ごとも全部昔のことになってしまった。涙だけがあなたの形見だ)※知人の国学者・大村光枝(みつえ)の訃報に際し。
「さびしさに 草のいほりを 出て見れば 稲葉押しなみ 秋風ぞ吹く」(寂しさに包まれて草庵から出てみると、秋風が稲の葉を押しなびかせていた)
「領(し)ろしめす 民が悪(あ)しくば 我からと 身を咎めてよ 民が悪しくば」(領民が悪いことをすれば、それは治めている我が身が悪いと自身を責めよ)※庄屋(村の長)の心構え。
「たらちねの 母が形見と 朝夕に 佐渡の島べを うち見つるかも」(出雲崎から眺める佐渡を母の形見と思って眺めていた)
「わが待ちし 秋は来(き)ぬらし このゆふべ 草むらごとに 虫の声する」(私が待ち望んでいた秋がやって来たようだ。夕暮れの中、草むらごとに虫が鳴いているよ)
「月(つく)よみの 光を待ちて 帰りませ 山路は栗の 毬(いが)の落つれば」(月の光が射すのを待ってお帰りなさいな。山道は栗のいがが落ちて危ないですよ)※来客に。
「やまたづの 向かひの岡に 小牡鹿(さおしか)立てり かみなづき 時雨の雨に濡れつつ立てり」(向かい側の丘に雄鹿が凜と立っている。10月の冷たい時雨に濡れながら孤高に立っている)※良寛の墓石の左面にこれが彫られている。
「ぬばたまの 今宵は酔ひぬ うま酒に 君がすすむる このうま酒に」(今夜はうまい酒に酔ってしまったよ。君がすすめてくれる、このうまい酒に)
「山里は 蛙(かわず)の声と なりにけり」(春になって山里は蛙の声が満ちているなぁ)
「夜明くれば 森の下庵(したいほ) からす鳴く けふもうき世の 人の数かも」(夜明けになり、森の庵のまわりでもカラスが鳴いているのが聞こえる。今日も生きてこの世の人の数に入っているよ)
「寒くなりぬ いまは蛍も 光なし 黄金の水を 誰かたまはむ」(すっかり寒くなり、今は蛍も光っていない。黄金の水=お酒をあなた以外に誰がくれるというのか)※お酒をおねだりしている歌。
「つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九(ここ)の十(とお) 十をおさめて またはじまるを」(一緒にまりをついてご覧。一二三四五六七八九十と、十が終わるとまた一から始まるね、これが仏の教えだよ)※貞心尼から、まりつきによる仏法の極意を聞かれて。
「いついつと 待ちにし人は 来たりけり いまは相見て 何か思はむ」(いつ来るか、いつ来るかと待ち続けた人がついに来てくれた。こうして顔が見られて、もう思い残すことはない)
「形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」(形見に何を残そうか。春は花、夏はほととぎす、秋は紅葉の葉っぱかな)※辞世の歌と伝わる。自然の恵みを感じる心を大切にし歌い続けて欲しいというメッセージ。
「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」(裏や表を見せながら散る紅葉のように、私も人生の裏表をさらけ出しながら死んでいくのだよ)
「散る桜 残る桜も 散る桜」
●貞心尼との有名な「からす問答」
良寛「いづこへも 立ちてを行かむ 明日よりは からすてふ名を 人の付くれば」(明日からはどこにでも飛び立とう。日焼けで肌黒く法衣も黒いため、からすという名を人がつけてくれたので)
貞心尼「山がらす 里にい行(ゆ)かば 子がらすも いざなひて行け 羽根よわくとも」(山がらすが里々に行くならば、子がらすの私も誘って下さいな、羽根が弱く足手まといになったとしても)
良寛「誘ひて 行かば行かめど 人の見て あやしめ見らば いかにしてまし」(誘って行っても良いのだが、他人が男女の私たちを見て変に思わないだろうか)
貞心尼「鳶はとび 雀はすずめ 鷺はさぎ 烏はからす 何(なん)かあやしき」(鳶は鳶同士、雀は雀同士、鷺は鷺同士、烏は烏同士で行動するのに、何も変なことなどありませんよ)
貞心尼に一本取られた良寛であった。
※良寛は托鉢僧で家々を回っていた。大地主で食料を援助してくれた解良(けら)家、酒屋の安倍家、元・学友で医師の原田家、この御三家が緊急避難先だった。
※五合庵は良寛が一日五合の米で事足りるとしたことから名付けられた。
※五合庵の近くに句碑「焚くほどは風がもて来る落葉かな」が立つ。
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間に合いました!(*^o^*) |
あの時代に最後 まで反戦を貫いた |
盛岡市の松園観音墓地には、鶴彬の反戦 句碑がある『手と足をもいだ丸太にしてかえし』 |
鶴彬の菩提寺、光照寺。境内に墓地がない ので住職さんに墓地の場所を尋ねた |
墓地は光照寺から少し離れており、 本誓寺の通用門を入った右側にある |
鶴彬さん!大阪からあなたに 会うために盛岡まで来ました! |
左に「鶴彬の墓」の立札があった | 盛岡に赴任していた兄が遺骨を引き取り、手厚く葬ったという | 台座には本名の「喜多家」の文字 |
反戦川柳作家。石川県高松出身。本名、喜多 一二(きた・かつじ)。父は竹細工職人。幼少期に養子に出され。8歳で実父を亡くす。小学生の頃から新聞の子ども欄に俳句や短歌を投稿し、1924年(15歳)、“喜多一児”の名前で北国新聞の歌壇コーナーに作品を発表。翌年、川柳誌に作品が掲載され始める(この年、治安維持法が施行される)。1926年(17歳)、養父が経営する工場が潰れ、1年間大阪の工場で働く。次第に労働者の立場に立った作品(プロレタリア川柳)が増え、川柳誌に掲載を拒否されてしまう。18歳で上京して川柳家に師事。1928年(19歳)、故郷に戻り地元に川柳会を旗揚げし、プロレタリア川柳の指導を始める。しかし、当局から弾圧を受け、仲間と共に4名が検挙される。この頃から筆名を「鶴 彬」とする。
1930年(21歳)、徴兵され金沢の第9師団歩兵第7連隊に入隊するも、陸軍記念日の態度が問題となり営倉に放り込まれる。1931年(22歳)、満州事変が起きる。部隊に左翼の機関紙を持ち込むなど反戦運動を展開した“七連隊赤化事件”の主犯と判断され、治安維持法違反で大阪の監獄に1年8か月の間収監される。1935年(26歳)、上京。1937年(28歳)、木材通信社に就職。大陸では盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。鶴彬は自作川柳が反軍的と見なされ、職場に出勤してきたところを張り込みの特高警察に逮捕され、再び治安維持法違反に問われる。中野区の野方署に留置され、逮捕から9ヶ月後に同署で赤痢に感染し病死した。享年29歳。 鶴彬はベッドに手錠で繋がれたまま絶命したらしく、憲兵によって毒(赤痢菌)を盛られたという説もある。他界した1938年に国家総動員法が制定され、日本はますます戦争の泥沼に落ち込んでいった。 特筆したいのは1937年の時点で鶴彬が「葬列めいた花婿花嫁の列へ手をあげるヒットラー」「ユダヤの血を絶てば狂犬の血が残るばかり」と、第二次世界大戦開戦より2年も前に、ナチスの狂気を見抜いていること。アウシュビッツが作られるのはこの3年後だ。日本において、そういう人が市民にいたこと(外交官ではなく)、海外の情報が届いていたことに驚く。知る努力をすれば知り得たんだ。 過去の戦争が語られる時、「政府にだまされた」「あの頃は何も知らなかった」という言葉をよく耳にする。実際、検閲など情報統制があったし、それも真実だろう。しかし、多喜二や鶴彬、幸徳秋水、ドイツ人でありながら反ナチ運動をして処刑された学生ゾフィー・ショル、彼らのことを思うと、「当時は仕方なかった」の一言で片付けてしまっていいのかと考えてしまう。 岩手県の川柳界有志が1982年に句碑を建立し、毎年鶴彬祭を催しているとのこと。 ※鶴彬の本名“喜多 一二”は、特高警察の拷問で殺された6歳年上の作家・小林多喜二と、偶然にもよく似ている。両者は名前が似通っているばかりではなく、思想犯として数回逮捕され、拘留中に死んだ年齢が29歳というのも同じだ。びっくり。 以下、鶴彬の川柳を20句紹介(一部現代語に変換)。 ・フジヤマとサクラの国の失業者 ・これからも不平言うなと表彰状 ・自動車で錦紗(きんしゃ)で貧民街視察 ・正直に働く蟻を食うけもの ・血を吸ったままのベルトで安全デー ・凶作を救えぬ仏を売り残している ・みな肺で死ぬる女工の募集札 ・ふるさとは病いと一しょに帰るとこ
・俺達の血にいろどった世界地図 ・武装のアゴヒモ(顎紐)は葬列のように歌がない ・稼ぎ手を殺し勲章でだますなり ・殴られる鞭(むち)を軍馬は背負わされ ・ざん壕で読む 妹を売る手紙 ・屍のいないニュース映画で勇ましい ・手と足をもいだ丸太にしてかえし ・万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た ・銃剣で奪つた美田の移民村 ・奪われた田をとりかえしに来て射殺され ・枯れ芝よ!団結をして春を待つ
・胎内の動き知るころ骨がつき(※最後の句。お腹の赤ちゃんの胎動を感じ始めた頃に、戦死した夫の遺骨が届いたという句)
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歌人だが『野菊の墓』の 作者としても知られる |
墓石の痛み方が激しい! 著名人なのになぜ!? |
背後にも亀裂。 早急に保全が必要 |
歌人、小説家。本名は幸次郎。千葉県出身。短歌の生命を「叫び」にあると主張。1900年(36歳)、正岡子規に師事。翌々年に子規が没し、その後、短歌雑誌『馬酔木(あしび)』『アララギ』などを発刊、写生主義を強調した。 1905年(41歳)、小説『野菊の墓』を“ホトトギス”に発表し、漱石から高く評価される。1913年、脳溢血により他界。門下に斎藤茂吉。墓所は亀戸の普門院。 ※千葉の山武(さんむ)市歴史民俗資料館の隣りに生家。同市の公園に『野菊の墓』の政夫と民子の像。 |
かつて大阪湾の海岸が近くまできていた |
家隆の五輪塔。ここから水平線に 沈む夕陽を愛でていたという(2014) |
墓前の歌碑「契りあれば難波(なにわ)の里に 宿りきて波の入日を拝みつるかな」(古今著聞集) |
鎌倉初期の歌人。名は「かりゅう」とも。同時代の藤原定家と並び称される歌人で、生涯に詠んだ歌は六万首!「新古今和歌集」の撰者のひとり。叙景歌が得意で、西行に才能を認められる。温厚な性格で、後鳥羽院が隠岐に配流された後も親交をもった。晩年、摂津国四天王寺の夕陽丘より見える「ちぬの海(大阪湾)」の夕日を好んで移り住み、丘の上に草庵を建て「夕陽庵」と名付けた。そして夕陽の向こう、西方極楽浄土への往生を願った。『新勅撰和歌集』には最多43首が収められている。従二位宮内卿。 「霞(かすみ)たつ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空」 「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より凍りて出づる有明の月」 |
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