誓教寺にある北斎像。 生涯進化し続けた スーパーお爺ちゃんだ |
「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」 北斎は目にしたものを一度頭の中で分解し、 もっとも美しく面白みのある形に作り変えた! |
この柳の下でくつろぐ北斎は 近年発見された自画像だ! |
1999 早朝6時に描き描き | 2008 約10年の間に扉がとれたようだ | 晩年の名前「画狂老人卍墓」で眠る。ブッ飛んだ画号だ |
冨嶽三十六景 甲州石班沢 漁師の綱と岩で富士の形になってるゾ! |
冨嶽三十六景 尾州不二見原 こっちは桶の中に富士!スンゲー構図だッ! |
冨嶽三十六景 東都浅草本願寺 雲の下に町を描くことで高さを強調! |
スイカを描いたリアル絵。紙が水分を 含みシットリした感じがよく出てる! |
繊細なタッチの美人画 こうしう細かい絵もお手のもの |
百物語「皿屋敷」 首が全部お皿になってる(汗) |
なぞなぞ絵。体の線に小野小町の名が 隠れてる。右肩「小」、左腕先「の」、左肩 「こ」、左肩の髪下「ま」、足元「ち」(逆さ文字) |
司馬江漢に感化された洋画風の風景画。額縁を絵に 描き込み、人物には影があり、遠近法も導入されてる! |
役者絵 市川団十郎の忠臣蔵 |
『北斎漫画』 漫画のルーツだ! 上段の3コマがわけわからん!!(笑) |
ひょうきんな自画像 |
墨田区の柳嶋(やなぎしま)妙見山法性寺は北斎が信仰した古寺。境内に「葛飾北斎辰政顕彰碑」が建つ(2010) |
世界一有名な日本の画家、江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎。
1760年10月31日に武蔵国葛飾郡(東京都墨田区)に生まれる。姓は川村、幼名時太郎のち、鉄蔵。4歳で幕府御用達鏡磨師・中島伊勢の養子となるが、やがて実子に家督を譲り家を出た。 小さい頃から手先が器用だった北斎は、14歳で版木彫りの仕事につく。彫りながら文章や絵に親しむうちに“自分でも描いてみたい”と思うようになり、1778年(18歳)、人気浮世絵師の勝川春章に入門。“春”の一字を貰い“勝川春朗”の名で役者絵を発表する。 向上心と好奇心に富む北斎は、浮世絵に飽き足らず、師に内緒で狩野派の画法や司馬江漢の洋画も学んだ。やがてこれが発覚し春章から「他派の絵を真似るうつけ者!」と破門される。生活に窮した北斎は、灯籠やうちわの絵を描いたり、時にはトウガラシや暦(こよみ)を背負って行商するなど、「餓死しても絵の仕事はやり通してみせる」と腹をくくり、朝の暗いうちから夜更けまで筆を走らせたという。
1798(38歳)、当時の浮世絵師にとって風景はあくまでも人物の背景に過ぎなかったが、北斎はオランダの風景版画に感銘を受け、“風景そのもの”を味わうことを見出す(鎖国中に交流を持っていたオランダは、西洋で最も風景画が愛された国)。一方、貧乏生活は続いており、北斎は自分の描きたい絵ではなく、本の挿絵、役者絵、美人画、武者絵、果ては相撲画まで、内職として手当たり次第に描くしかなかった。「私は絵を描く気違いである」と宣言し、名前を“画狂人”とした時期もあった。 しかし、誇りは高かった。ある時、長崎のオランダ商館が作品を高値で買い上げてくれた。その絵を見た他のオランダ人医師が同じ絵を注文したが、絵が完成すると“半値にしてくれ”と北斎に値切ってきた。怒って絵を持ち帰った北斎に、妻が“半値でも生活の足しになったのに…”と言うと、「同じ絵を相手によって半値にすれば、日本の絵描きは掛け値の取引をすると言われる。この様な事は絵師のみでなく、日本人全体の信用に係わる大事なのだ」と応えた。またある時は、大名の使者が絵の依頼をしてきたが、その頼み方があまりに横柄で高飛車だったので、そっぽを向いた北斎は、一言も返事をせず使者を家から叩き出したという。
1814年(54歳)、民衆の様々な表情や動植物のスケッチを収めた『北斎漫画』を発表。町人が割り箸を両鼻に突っ込んでたり、ロウソクの灯を鼻息で懸命に吹いてたり、禅僧・達磨(だるま)が百面相を作ってたりと実に面白く、大きな人気を得た。「漫画」とは“思いつくままに描いた絵”といった意味。軽妙で自由奔放な筆運びから、北斎は“森羅万象を描く絵師”とまで言われた。余談だが、西洋に輸出された日本陶器の包装紙に『北斎漫画』が使われ、そのデッサンの秀逸さに驚嘆した仏人の版画家が画家仲間に教え、そこから空前のジャポニスム=日本ブームが広まったという。 北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残し、しかもそれぞれが北斎の情念のこもった一流の作品となった。長寿であった為、引越し記録93回(!)などビックリするようなエピソードも多い。引越し魔の北斎は、1日に3回も転居したことがあったという。また、名前の変更も30回に及んだ。これは、様々なジャンルに挑戦する過程で、真の実力を世に問う為に新人の振りをして画号(名前)を変えたことによる。“魚仏”、“雷震”、“時太郎”、“三浦屋八右衛門”、光琳派の絵には“俵屋宋理(そうり)”、最晩年は“画狂老人卍(まんじ)”と、もう訳がわからない。 北斎はまた、人の度肝を抜くことを楽しみにしていた節がある。縁日の余興で120畳(なんと200平方メートル!)の布にダルマを描いて人々を驚かせたり、小さな米一粒に雀2羽を描いてみせたり、クイズを画中に入れたり、果てには11代将軍家斉の御前で鶏の足の裏に朱肉を付け紙上を走らせ“紅葉なり”と言い放ったりと、やれることは全てやったという感じだ。
北斎芸術の頂点は70歳を過ぎて刊行された『富嶽三十六景』。これは50代前半に初めて旅に出た際に、各地から眺めた霊峰・富士にいたく感動し、その後何年も構図を練りに練って、あらゆる角度から富士を描き切ったもの。画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされ、荒れ狂う波や鳥居の奥、時には桶の中から富士が覗くこともあり、まるで富士を中心に宇宙が広がっているようだ。同時に、作中には富士の他にも庶民の生活が丁寧に描かれ、江戸っ子は富士と自分たちのツーショットに歓喜し、“北斎と言えば富士、富士と言えば北斎”と称賛した。 その後も北斎は富士を描き続け、74歳で『富嶽百景』を完成させる。そのあとがきにこう寄せた--「私は6歳の頃から、ものの姿を絵に写してきた。50歳の頃からは随分たくさんの絵や本を出したが、よく考えてみると、70歳までに描いたものには、ろくな絵はない。73歳になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。だから80歳になるとずっと進歩し、90歳になったらいっそう奥まで見極めることができ、100歳になれば思い通りに描けるだろうし、110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。どうぞ長生きされて、この私の言葉が嘘でないことを確かめて頂きたいものである」。 だが『富嶽百景』を刊行した頃は、人々の興味は30代の若い天才絵師、広重の風景画に移っていた。北斎の人気に陰りが見え、再び借金が増えていく。そこへ天保の大飢饉が起こり、世間はもう浮世絵どころではなくなった。老いた北斎は最初の妻、2度目の妻、長女にも先立たれ、孫娘と2人で窮乏生活を送る。79歳の時には火災にあい、まだ勝川春朗の名だった10代の頃から70年も描き溜めてきた全ての写生帳を失う悲劇に遭遇する。この時北斎は一本の絵筆を握り締め「だが、わたしにはまだこの筆が残っている」と気丈に語ったという。 ※83歳の時の住所録では「住所不定」扱いになっている。 この後、火災の教訓からか、北斎は自分が培った画法を後世の若い画家に伝える為、絵の具の使い方や遠近法についてまとめた『絵本彩色通』や手本集『初心画鑑』を描き残した。この時すでに87歳。なおも、弟子が長旅をする時は、現地の特産品や魚介の写生を依頼するなど、北斎の絵に対する執念は衰えなかった。1849年4月18日、浅草の聖天町・遍照院(現浅草六丁目)境内の長屋で病み、生を終える。享年88歳。死を前にした北斎は「せめてもう10年、いや、あと5年でもいい、生きることができたら、わたしは本当の絵を描くことができるのだが」と嘆いた。この偉大な絵師は、最後の最後まで修業をしていたのだった。 ●墓巡礼記 墓は上野駅から浅草に続く大通りから、一筋入った誓教寺にある。英文の解説が書かれた案内板が立っていることから、海外からの巡礼者も多いのだろう。「画狂老人卍墓」と刻まれたその墓は、雨風から守る為の、特製のお堂に入っていた。僕は墓前で北斎の墓の絵をスケッチ。絵師の彼を描いていると、なんだか墓が恥ずかしがってるように見えて微笑ましかった。 ※1998年に米「ライフ」誌が企画した「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」で、日本人ではただ一人、北斎だけが選出された。
※他の浮世絵師との年齢差は、写楽が2歳年下、広重と国芳が共に37歳年下、歌麿は逆に7歳年上になる。 ※北斎の絵は止まった時間の中で物が動いているのがすごい(カミーユ・クローデル) 主な参考文献:アーティスト・ジャパン(新集社)、葛飾北斎名品展図録、世界人物事典(旺文社)、エンカルタ総合大百科 |
東岳寺の山門 | 詩的な風景画を多数残した (2008) | 晩年の号は「一立斎廣重」 |
描かせて頂きますッ!(2000) | 境内には大きな広重の記念碑もある | こちらは廣重塚 |
あまりに有名な『東海道五十三次:日本橋』 | 風景版画の天才!構図の鬼! |
「亀戸梅屋敷」この絵もよく見るよネ | 「唐崎夜雨(からさきのやう)」この雨を見よ! |
「大はしあたけの夕立」 | こちらはゴッホの模写! |
江戸後期の浮世絵師。本名、安藤重右衛門。歌川派の中で、役者絵の国貞(三代豊国)、武者絵の国芳、新しく風景版画というジャンルを確立した名所絵の広重らは歌川三羽烏と呼ばれた。12歳の時に両親を失い、父のあとを継いで火消となる(1809年)。当時の浮世絵界の最大流派は初代歌川豊国率いる歌川派で、門下には国貞、国芳ら名匠がいた。絵が好きだった14歳の広重は、そんな豊国の門を叩いたが、弟子が多すぎることを理由に却下された。結果、彼は豊国の弟弟子にあたる歌川豊広の門下となった(1811年)。豊広は風景画を得意とし、後年風景画の大家となる広重のルーツはここにある。入門当初から広重の腕は相当なものであったらしく、翌年15歳にして早くも歌川広重の名を与えられている。1823年(26歳)、ずっと火消と画業を両立していた広重は、火消職を養子に譲り、本格的に絵師業に専念する。 1831年(34歳)、広重より約40歳も年上の、71歳の老北斎が新境地を切り開いて描いた46枚の『富嶽三十六景』に強烈な衝撃を受ける。それまで他の絵師と同じように美人画や役者絵を描いていた広重は、旅のロマンを感じる純粋風景画(風景そのものがテーマ)にすっかり心を奪われた。最初に「東都名所」を刊行した後、自分の目で実際に江戸から京都まで13日をかけて東海道を踏破。街道沿いの景観を楽しみつつ写生を行ない、そのスケッチを基に、1833年(36歳)、彼の最高傑作となる「東海道五十三次(保永堂版)」の連作を世に出した。作品は爆発的にヒット!北斎の奇をてらった風景画のコテコテさ、やりすぎ感に少し食傷気味だった江戸っ子は、雨、月、雪、風など自然の息づかいを前面に出し、ありのままの風景を描きながら詩心を感じさせる広重の絵に、新鮮な感動を覚えたのだった。広重はその後も「近江八景」「江戸近郊八景」など傑作を次々と描きあげ、晩年に2年がかりで大作「名所江戸百景」を完成させた後、当時大流行したコレラに感染して死去した。
見飽きることのない構図、選ぶ風景の渋さ、詩情豊かな色彩感覚など、広重の絵はどれをとっても完璧としか言いようがない。中でも僕は、彼の描く雨の絵が好きだ。1枚1枚から違う雨音が聴こえ、そこまで描き分けていることに驚嘆してしまう。西洋の画家にとって雨は風景ではなかった。広重の感性は海を越えて大きく影響を与え、ゴッホをはじめ何人もの画家が作品を模写をしている。
墓所の東岳寺は浅草から足立区に移転されてきた。墓石の側にはその生涯と作品の魅力を記した立て札があり、史跡の扱いになっていた。
※広重は鹿野山神野寺や箕尾天王社の参詣のおり、旅の宿で大酒を呑みハメを外し、久留里川に落ちたという(笑)。 |
現在の亀戸梅屋敷跡。猫の額のように小さな空間だ(2007) |
現在、多くの美術関係者が日本美術の最高傑作に名をあげ、“国宝の中の国宝”とまで呼んでいるのがこの『松林図屏風』。我が子を失った等伯が、悲しみと無常感の涙の中で筆をとった作品だ。立ち込める霧の中にうっすらと松の影が浮かび、遠方には雪山の峰が見えている。静けさの極致。絵の前に立つと、自分がそこに取り残されたような孤独感に包まれてしまう。この光景は故郷能登の海岸沿いに続く松林であり、かつて等伯が、まだ3歳の息子と、妻の手を曳いて京都へ向かう時に見た景色。あの時いた2人が今はもういない。今から400年前、画家が50代半ばにして墨で刻んだ愛する人たちへのレクイエムだ。(僕らと同じ人間が描いたものとは思えない!)
|
故郷の石川県七尾にある旅立ち の像。絵筆を持っている |
全く同じ像で、こちらは京都本法寺に ある到着の像。32歳で都に出てきた |
七尾にあった実家の墓は、 既に無縁仏になっていた |
等伯は江戸で亡くなり、京都本法寺に 葬られた。その後、墓が行方不明に なった為、02年に再び新しく建てられた |
ミニ松林図屏風を奉納!(2005) |
息子久蔵も 眠っている |
3年後に再巡礼。きれいな墓。 卒塔婆が増えていた(2008) |
桃山時代、巨大御用絵師集団・狩野派に単身挑み、画壇に双璧を築いた一匹狼・等伯。能登七尾城主畠山氏の家臣、奥村文之丞の子。幼い頃に、染物屋の長谷川宗清の養子となった。養父は絵の手ほどきをすると共に、染色を通して等伯の色彩感覚を磨き、造形(デザイン)の独創性を育んだ。また、養父を介して雪舟の弟子・等春からも学び、一字を取って長谷川信春(しんしゅん、後に等伯)を名乗った。長谷川家は日蓮宗徒であり、仏画を見本に絵を勉強したことから、熱心な法華信者の等伯は20代後半になると、絵仏師さながらに仏画を描きまくった。1568年(29歳)、長男・久蔵が生れる。
1571年(32歳)、父母を相次いで亡くした等伯は、これが転機となって染物屋をたたみ、新天地・京都に出て絵筆で勝負しようと決心する。妻子を連れて海上から都に入り、菩提寺の本山・本法寺に身を寄せた等伯は、後に対立することになる狩野派の門も叩くなど、様々な流派の画法から自分のスタイルを築き上げていく。幸運なことに、本法寺の住職は国際都市・堺出身。紹介状を持った等伯は堺へ赴き、千利休や豪商らと親しくなり、彼らが持つ古今東西の名画に触れることが出来た。等伯の絵はどんどん進化していく。40歳、妻が先立つ。42歳、本能寺の変。 地道に実績を積み、1583年(44歳)、ついに大仕事の依頼が来る。利休が動いてくれたのか、天下の大徳寺に襖(ふすま)絵を描く名誉を授かったのだ。その6年後の1589年(50歳)には、信春を改め「等伯」の名で大徳寺山門に天井画を描いている。
しかし、まだまだ仕事の依頼は少なかった。そこでこの年、三玄院に勝手上がり込み、襖へ強引に「山水図襖」を描いた。同寺の住職は“修行場の禅寺に、襖絵は必要なし”という考えだったので、等伯は留守を狙って小坊主たちの制止を振り切って描いたんだ。この大胆な行動の背景には、それだけ腕に自信があったことと、当時の画壇は信長や秀吉の寵遇を受けた狩野派が、宮廷を含めて絵事を完全に支配しており、正攻法ではなかなか仕事にありつけなかったからだ。賭けは大成功!この襖絵は評判を呼び、あちこちの寺院から注文が入るようになった。
翌1590年(51歳)、秀吉が全国統一を成したこの年、狩野派が担当していた御所の障壁画の一部を等伯が描くことになった。驚いたのは狩野永徳。能登から来た田舎絵師に、御所の晴れの仕事を獲られてはメンツが立たない。永徳が酒樽を持って有力者の家々を奔走した結果、元関白の鶴の一声で等伯は外された。この有力者は日記に「永徳親子と祝杯をあげたり」と記した。当然ながら等伯は激怒したが、この怒りは矛先を失った。翌月、永徳が47歳で急逝したのだ。
1591年(52歳)、ついに等伯率いる長谷川派に最高の晴れ舞台が用意された。秀吉が我が子・鶴松を弔うために建てた「京都第一の寺」智積院(祥雲寺)の襖絵を等伯一門が描くことになったんだ!等伯は長谷川派の総力を結集して『楓図』『桜図』を描いた。これらは狩野派が十八番にしている金碧(きんぺき)障壁画でありながら、狩野派にはない精神的な深みや詩心が刻み込まれ、人々を感嘆させた(狩野派の絵師でさえ「武骨で荒くともその腕は並ぶ者なし」と記録している)。秀吉もこれを激賞し知行200石を授ける。特に息子の久蔵が担当した『桜図』は、父に匹敵するほどの筆力で、高い造形力から天才現ると絶賛された。一方の狩野派は永徳に続き先代の松栄も他界し、もはや手強い敵ではなかった。能登から上洛して20年、等伯に我が世の春が到来した。
※この頃、本法寺住職・日通上人が等伯の言葉をまとめた『等伯画説』を記した。これは日本初の本格的な画論集となる。
しかし、運命は非情だ。1593年(54歳)、智積院障壁画の完成を喜んだのも束の間、等伯の片腕であり、後継者として大いに期待していた久蔵が25歳の若さで夭折する(死因はハッキリせず、本法寺では狩野派に毒殺されたと伝えられている)。しかも、制作中に最大の理解者だった利休が秀吉と不和になり自刃させられていた。幸福の絶頂から不幸のどん底へ。悲しみと無常感の涙の中で筆をとった作品、それが現在、多くの美術関係者が日本美術の最高傑作に名をあげ、国宝の中の国宝と呼ばれている水墨画『松林図屏風』だ。
松林図屏風。縦1.5m、横は左右で7m。その大きな空間の4分の3が霧。そして立ち込める霧の中にうっすらと松の影が浮かび、遠方には雪山の峰が見えている。静けさの極致。絵の前に立つと、自分がそこに取り残されたような孤独感に包まれてしまう。この光景は故郷能登の海岸沿いに続く松林であり、かつて等伯が、まだ3歳の息子と、妻の手を曳いて京都へ向かう時に見た景色。あの時いた2人が今はもういない。豪華絢爛な金碧障壁画を描いてきた等伯が、50代半ばにして墨で刻んだ愛する人たちへのレクイエム。不浄なるものが全て浄化された聖なる世界。間違いなく日本の水墨画が到達しえた一つの頂点であり、人間・長谷川等伯がそこにいる。
1599年(60歳)、久蔵の七回忌に等伯が描いたものは、高さ10mに達する超大作「大涅槃図」。釈迦の入滅を描き、周囲には弟子だけでなく、動物たちまでが嘆き悲しんでいる。裏側には、久蔵だけでなく、祖父母や養父母等の供養銘も記され、先立った者を全霊で追悼する等伯の慟哭が聞こえるようだ。この絵には「雪舟五代」と書き込まれている。「私は雪舟より五代目だ」と自称することで、長谷川派の結束を固めて狩野派と対抗すると共に、“雪舟”の名を出す以上、さらに修練を積んで切磋琢磨していくのだという自分への誓いでもあった。
1610年、家康から江戸へ招きを受けた等伯は、71歳で長旅をすることに体力の不安はあったが、長谷川派の未来を考えて幕府に人脈を作る為に出発した。次男(再婚後の子)が同行したが、やはりこの大移動は過酷だったらしく、等伯は旅の途中で病に冒され、江戸到着後2日目に息をひきとった。絵師としての等伯は、絵仏師に始まり水墨画家として生を終えた。享年71歳。翌年には次男も急逝し長谷川派は一気に衰退、天下は再び狩野派の独壇場となった。
※32歳で都に出た等伯。故郷の石川県七尾駅前と墓所の京都本法寺には絵筆を持った等伯像が立っている。前者は「旅立ち」の像、後者は「到着」の像。 |
【豆知識】屏風の数え方…パネル一枚を一曲、これが集まったものを一隻(せき)、左右で対のものを一双(そう)と数える。 |
1999年 近代日本絵画の父 |
『潤声』(1939年、71歳) 月光に照らされた深谷に小川のせせらぎだけが響く |
2004年に再訪 | この広い敷地すべてが大観の墓所 | 立派な卒塔婆立て |
さらに2008年に巡礼。いつ来ても重厚だ | この時は卒塔婆が入ってた |
不屈の精神力 | 描き描き。 | 89歳まで生きた |
明治元年、水戸に生れる。本名秀麿。近代日本画壇の第一人者。大観は好んで竹薮を描いたが、それは母親が維新の戦乱の中で、彼を竹薮の中で産んだことによる。21歳の時に開校直後の現東京芸大を受験。鉛筆デッサンで受験するつもりが、志願者の多さにビビッてしまい、急遽毛筆画に変更、無事に合格した。第1回卒業生となった彼は、その後同校の助教授となったが、1898年、終生の師と仰いでいた5歳年上の岡倉天心が、内紛から校長職を追われ、自身も抗議辞職をした。同年、天心が創設した日本美術院に菱田春草、下村観山らと共に参加する(30歳)。
新しい日本画の創造を目指す天心の指導の下、大観らは従来の日本画とは全く異なる無線描法を生み出す。日本画伝統の線描(輪郭線)を廃し、色彩のみで空間や光を表現する--つまり、線を描くことよりも“空気を描く”ことにこだわったその絵は、画壇から侮蔑の意味を込めて「朦朧(もうろう)体」「化け物絵」と呼ばれ中傷された。国内では全く絵が売れず、1904年(36歳)、天心、大観、春草らは渡米し、海外で作品の真価を問うた。結果は大成功。NY、ボストン、ワシントンなど各地で評判になり、日本の10倍の高値で売れた。自信を持って帰国した彼だったが、待ち受けていたのは相変わらず保守的な画壇と日露戦争の勃発。日本美術院は経営不振におちいり、1906年(38歳)、東京から茨城県北端の漁村、五浦(いづら)に都落ちを余儀なくされる。この時、天心と行動を共にして移住したのはわずかに4人の画家だけだった。
日本画を革新しようと試みる彼らの絵は酷評され続け、家に画商は寄りつかず、大観は釣りでその日の糧(おかず)を得ていた。訪れた客は大観と春草の貧困ぶりを見て「あんなことでは二人とも死んでしまうぞ」と天心に忠告するほどだった。
だが、このどん底の生活の中でも、彼らは信念に燃えて描き続け、1907年から始まった文展に発表し続けていくうちに、その圧倒的な数々の力作によって、ついに悪評は消えた。漱石は彼らの画風を「芸術は自己の表現に始まって自己の表現に終わる」と称賛し、独自の新たな絵画世界にエールを送った。
1913年(45歳)、天心の死は門下生の結びつきをさらに固め、日本美術院は大観が経営の中心人物となって再興された。1923年(55歳)、同院展で大観は代表作となる、長さ41mの空前絶後の水墨絵巻『生々流転』(せいせいるてん)を発表する。宇宙的スケールで水の生涯を描いた朦朧体の金字塔だ。1937年に69歳で第1回の文化勲章を受章。創作意欲は晩年まで衰えず、89歳という長寿を生き眠りにつく。まさに人生そのものが近代日本絵画史を体現していた、画壇の巨人だった。
僕は初めて展覧会で『屈原』を観た時の衝撃が忘れられない。屈原は紀元前の中国に実在した詩人・思想家で、彼は王室の利益より国益を優先させ、王に対し実直に意見したためにうとまれ、都を追放された悲劇の人物。大観は屈原に芸大を追われた師、岡倉天心を重ねており、画中で荒野をさすらう屈原の鋭い眼光に、強烈な意志の強さと、自らの信念を貫こうとする人間の尊厳を見た。
墓は日本美術院があった谷中にある。谷中霊園は日暮里駅を出てすぐの場所。東京で最も簡単に巡礼できる墓地だ。 ※大観は日に二升三合、晩年でも一日一升は飲んでいたという酒豪だった。
|
モテモテだった歌麿 | 喜多川ではなく北川と彫られていた(1999年) | 「ビードロを吹く女」 |
本名北川信美。初号は豊章。狂歌名は“筆の綾丸”。美人画を描けば右に出る者はいない天下の浮世絵師・歌麿。彼は美人を初めてクローズアップで描いた。そして、シンプルながらも繊細な筆運びで、モデルとなった女性の内面世界やその生活までも描き出そうとした。その影響力は計り知れず、歌麿の出現以降、絵師たちの美人画はすべて“歌麿風”になってしまう。 歌麿はまた、庶民文化を締め付ける幕府の風紀粛正令「寛政の改革」と闘った。最初にモデル(遊女)の名前の刷り込み禁止という出版統制が出ると、背景の絵の語呂合わせでそれと判る工夫をした(例えば“難波やおきた”という遊女なら、菜っ葉、弓矢の矢、沖に田んぼの絵という風に)。次に美人の顔をクローズアップした大首絵が禁止されると半身像に変え、1人を描くことが駄目なら2人を同時に描くなど、幕府の取り締まりの裏をかいて浮世絵を守り続けた。その気骨ある姿勢が庶民の歌麿人気を更に煽った(版元も、発禁処分をくらい、資産の半分を没収されても歌麿とタッグを組んでがんばった)。 しかし、歌麿はついに逮捕される(当時51歳)。罪状は美人画ではなく、秀吉の花見を描いた歴史画だった(幕府の許可なしに武士の生活を描くことは禁じられていた)。歌麿は入獄3日、手鎖50日の刑を受けることに。逮捕から2年後、歌麿は病気で世を去った。 墓のあるお寺は都内・世田谷区にあったが、駅からは遠いし、住宅街の中で分かりにくいし難儀した。 |
『動植綵絵(さいえ) 郡鶏(ぐんけい)図』 | 『動植綵絵 雪中錦鶏図』 |
ペットボトルのイラストとかで若冲の絵を見たことがある人は多いハズ。この細かな羽の描写は 人間技じゃない!彼は鶏が大好きで、「動植綵絵」シリーズ全30幅のうち、実に8点が鶏の絵だ |
溶けていく雪を描いた絵って、 他に見たことない。サイケ! |
『動植綵絵 群魚図』 | 『動植綵絵 池辺群虫図』 |
美味しそうな魚達。親蛸(タコ)の足に必死にしがみ付く 子蛸がめっちゃ可愛い。若冲のユーモアが楽しい1枚 |
(左)左下をアップ。ガマガエルだけが指揮者みたいに右を向いてる。背後のお玉じゃくし、大量すぎだ〜 (中央)アブラゼミ、アゲハ、キリギリス、赤トンボ、甲虫、その他無数の小さな生き物が描かれてマス (右)カエルたちがボーッと同じ方向を向いてるだけなのに、なんかひょうきんで面白いッス!! |
『百犬図』 | 『動植綵絵 貝甲(ばいこう)図』 | 『『動植綵絵 秋塘(しゅうとう)群雀図』 | |
じゃれあう、やんちゃな仔犬たち。他界する直前の 84歳で描いた。イヌ好きが骨抜きになる1枚 (*^v^*) |
色んな産地の貝が同時に並ぶ 現実にはあり得ない貝たちの夢 |
鶴や孔雀じゃなく雀をこんなに描いたのは初めて見た。若冲は市場 で生きた雀が売られてると、全部買い取り家の庭に放したそうだ。 |
『鳥獣花木図屏風』 | スーパーお爺ちゃん・若冲 |
長谷川等伯の『仏涅槃図』 | 若冲の『野菜涅槃図』 |
涅槃(ねはん)図は釈迦の臨終を描いた絵。沙羅双樹の下で体を横たえ、周囲では十大弟子や菩薩、動物までが悲しみに慟哭している--これが一般的な涅槃図だ。ところが、若冲はなんと野菜を使って描いた。中央の大根(釈迦)の周囲をナスやキュウリが取り巻き、嘆いている。背後の沙羅双樹はトウモロコシだ。登場する野菜の数は実に66種類。中には、ライチやランブータンのように大陸から輸入した珍しい果物も描かれている。一見とてもユーモラスな絵だけど、青物問屋の若冲は野菜や果物を人一倍に聖なるものと感じており、大真面目にこれを描いたのかも知れない。 |
2002 石峯寺へ初巡礼! |
2009 その6年後、左手前の名前の板が新しくなってた |
晩年は画1枚を米一斗で売って おり、墓にも「斗米若冲居士」 |
墓の右側に建っているのは“筆塚”。石で出来た 巨大な筆だ。こんなの見たことない! |
春の石峯寺は桜がとても美しい |
こちらは京都市上京区相国寺の遺髪墓。 若冲は寺の住職と親しかった(2005) |
左から藤原定家(鎌倉時代)、足利義政(室町時代)、伊藤若冲(江戸時代)と 異なる時代の墓が並ぶ珍しい光景。時代ごとの形の違いがわかる(2010) |
別号、斗米庵(とべいあん、絵を米一斗と交換したから)。八百屋や魚屋が軒を連ねる京の胃袋、錦小路の青物問屋の長男として生まれる。海の幸や山の幸に囲まれて過ごしたことは、若冲の原体験として後の作品に反映されている。22歳で父が没し家業を継ぐ。 若冲と親しかった京都相国寺の禅僧によると、若冲は「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されている。彼には絵を描くことが人生の喜びの全てで、芸事にも酒にも女遊びにも興味がなく、こうした世間の雑事のみならず、商売にもあまり関心がなかったらしい。とにかく、頭の中は絵筆を握りたいという思いしかなかった。 何がきっかけで絵に目覚めたのか不明だが、家業のかたわら、30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始めた。最初は他の画家と同じ様に、当時の画壇の主流だった狩野派の門を叩いたが、「狩野派から学ぶ限り狩野派と異なる自分の画法を築けない」と考え、画塾を辞めると独学で腕を磨いていった。京都には中国画の名画を所蔵する寺が多く、彼は模写の為にどんどん各寺へ足を運んだ。寺院通いを続けるうち、若冲は修行僧のように頭を剃り、肉食も避けて、自ら「平安錦街居士」と称するようになった。 絵にかける思いは年々つのり、家業と画業の二重生活が苦しくなったのか、ある時若冲は店を家人に任せて丹波の山奥に入り、2年間も音信が途絶えてしまう。帰宅した彼は、1755年、39歳で弟に家督を譲って隠居する。弟は兄をよく理解し、画業を経済面から支えた。これ以後、若冲は四半世紀の間、ずっと作画に専念する。 千枚とも言われる模写の日々。やがて、若冲は「絵から学ぶだけでは絵を越えることができない」と思い至り、目の前の対象(実物)を描くことで真の姿を表現しようとした。生き物の内側に「神気」(神の気)が潜んでいると考えていた若冲は、庭で数十羽の鶏を飼い始める。だが、すぐには写生をせず、鶏の生態をひたすら観察し続けた。朝から晩まで徹底的に見つめる。そして一年が経ち見尽くしたと思った時、ついに「神気」を捉え、おのずと絵筆が動き出したという。鶏の写生は2年以上も続き、その結果、若冲は鶏だけでなく、草木や岩にまで「神気」が見え、あらゆる生き物を自在に描けるようになった。 若冲は1758年(42歳)頃から、代表作となる濃彩花鳥画『動植綵絵(さいえ)』シリーズに着手する。身の回りの動植物をモチーフに描き、完成まで10年を要した同シリーズは全30幅の大作となり、日本美術史における花鳥画の最高傑作となった。 この頃から京都では12歳年下の画家・円山応挙が大ブレイク、門弟千人という円山派が都の画壇を席巻する。一方、若冲は一匹狼の画家で朝廷や政権にコネも何もなかったが、当時の文化人・名士録『平安人物志』の中で、円山応挙に次いで2番目に記載されるほど高名な画家となった。 1788年、72歳になった若冲を突然不運が襲う。“天明の大火”だ。京を火の海にしたこの大火事で、彼の家も画室も灰になり、焼け出されて大阪へ逃れた。私財を失って生活は貧窮し、若冲は70の齢を過ぎて初めて家計の為に絵を描くことになった。大阪では西福寺の金地の襖に『仙人掌(サボテン)群鶏図襖』を描いた。 1790年(74歳)から最後の10年間は、京都深草の石峯(せきほう)寺の門前に庵をむすんで隠棲した。1792年(76歳)にずっと彼を援助してくれた弟が他界してからは、画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになる。ただし、この晩年が若冲にとって悲しみに満ちたものかというと、元来無欲な彼にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適の様子であったと伝えられている。 最晩年の若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築く計画を練る。若冲が下絵を描き石工が彫り上げた五百羅漢像は、住職と妹の協力を得て10年弱で完成した。1800年、84歳の長寿で大往生する。生涯独身だった。 現在、石峯寺の境内には若冲の墓があり、側には幕末三筆の貫名海屋が若冲を讃えた筆塚が建っている。 ※五百羅漢たちはみんな苔むして風化し丸くなっており、全身で200年の年月を語っている。 ※若冲の作品は、金閣寺に描かれた水墨画の大作『大書院障壁画』、野菜を使って釈迦の入滅を描いた『野菜涅槃図』なども有名。 ●『動植綵絵(さいえ)』 約10年の歳月をかけて制作された、生命の「神気」を描いた30幅の花鳥画。この濃密な空間は何事か。埋め尽くされた溢れる命で息が詰まるほどだ。まさに生命の宇宙。対象物への熱すぎる視線。高い描写力で絵の隅々まで全く手を抜くことなく、目の覚めるような極彩色で、鶏、昆虫、魚介類、草花が、尋常じゃない集中力で描かれている。ありのまま描いた写生なのに、優れたデザイン性を感じさせる非凡さ。奇想なる造形力。そして、迫真の描写の中に時たま垣間見えるユーモアや遊び心に、天才の余裕を感じてしまい、これまた脱帽してしまう。 日常の小さな生き物達が、氾濫する色彩の中にいて、ずっと見つめていると色の渦でトリップしそうになる。どの絵も最高級の画材で描かれており、200年以上経っても素晴らしい発色だ。若冲は絵の完成後に全幅を相国寺に寄進し、現在は宮内庁が管理している。 ※30代半ばから名乗った「若冲」の号は、相国寺の名僧・大典和尚から与えられた。「若冲」は『老子』にある「大盈(だいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも、其の用は窮(きわ)まらず」(満ち足りているものは空虚なように見えても、その役目は尽きることがない)から名付けられた。時を超えて人々の心を動かす若冲に相応しい号だね。 ※若冲が現れるまで、画題として野菜に光を当てた画家はいない。 |
『伏見人形図』 |
人生最期の年に描かれた愛らしい七福神の布袋さんたち。84歳の若冲の穏やかな心境が伝わってくる |
『紅白梅図屏風』(200年後のクリムトと通じる世界がある) |
光琳の最高傑作。50歳ごろ師・宗達の『風神雷神図屏風』を模写して圧倒された彼は、師に胸を張って「これが光琳だ」と言える作品を残そうと決意し、晩年にこれを描いた。左の白梅が老木、右の紅梅が若木で、両者の間を流れる川は時の流れを象徴している。左右の屏風を真ん中を見ると、左側は枝が鋭角のV字を、右側は川と枝が曲線のV字を作っている。このような直線と曲線の対比や、梅の“静”と水流の“動”、老木と若木、抽象的な川に対してリアルな梅と、画中の何もかもが呼応し相対する構成は神がかりとしか言いようがなく、舌を巻かずにはいられない。常人には思い浮かばない発想であり天才と称される所以だ。 |
『燕子花(かきつばた)図屏風』 |
1701〜04年頃に制作された初期作品。各縦1.5m、横3.6mという大画面(六曲一双)に群生する燕子花が描かれている。よく見ると所々が同じ構図になっており、染物模様のように同型を繰り返し使うこと(型置き技法)で、全体にリズム感を与えている。もちろん、この「型」を使うという発想は、呉服商の経験からきているのだろう。使用された色は極端に少なく、群青と緑青(ろくしょう)のわずか2色のみ。本作は『伊勢物語』の九段目「東下り」の段をモチーフにしている--「都には自分の居場所がないと思った在原業平は、同じ気持を共有していた友人たちと、京から愛知へ道に迷いつつ下り、八橋にたどり着く。川のほとりで食事していると目の前には燕子花が咲き乱れていた。そこで友から“かきつばた”の5文字を上の句にして歌を詠めと促された業平はこう歌った。“唐衣/きつつなれにし/つましあれば/はるばるきぬる/旅をしぞ思ふ”(着慣れた着物のように親しく思う妻が都にいるのに、私はこんな遠くまで来てしまった)。これを聞いた友人たちは思わず飯の上に涙を落とした」。美しく洗練された画面構成は光琳ならでは。国宝。 |
『秋草文様小袖』 | 『椿図蒔絵硯箱』 | 『八橋蒔絵硯箱』 |
1999 この時は光琳独りぼっち | 2003 再訪したら右に弟・乾山がいた!墓地もリフレッシュ! |
日本の美術史には装飾美を究めた「琳派(りんぱ)」という流派がある。この一派が大変ユニーク。普通、一門というのは血縁関係があったり、直接の師弟関係があるものだけど、琳派の師弟は直接会ったことがないばかりか、生きている時代も全然違う。始祖は江戸初期の俵屋宗達で、その技法を受け継いだのが80年後の尾形光琳、さらに100年を経て酒井抱一らが後に続いた。“師弟”とは言うものの、教えを乞うにも師匠はずっと昔に他界しているので、修業方法はもっぱら作品模写。とにかく徹底的に師匠の作品を写しまくり、構図の妙や色彩方法を自力で学びとった。そしてこの流派の中で、作品の華やかさから代表格に見れられているのが尾形光琳であり、その名から一字を取って現在琳派と読んでいる。 本名、方祝(まさとき)。5歳年下の弟は京焼の名手・乾山。生家は京都の裕福な高級呉服商。父は多趣味な風流人だったので光琳も自然と絵が好きになった。また、ひい婆さんの弟は天才工芸家・本阿弥光悦であり、洗練された工芸品が日常生活の中にあった。1687年(29歳)、父が他界。莫大な遺産を受け継いだ光琳だが、ボンボンの彼は経済観念がゼロ、湯水の如く金を使いまくる。女性関係も派手で、30代に4人の子をもうけているが、母親は全部別。その中の一人からは奉行所に告訴され慰謝料を払っている。商売の呉服屋が薄利多売の新興商人の台頭で傾き始めても、放蕩三昧は止むことなく資産はみるみる減少。さらに1693年(35歳)には金を貸していた大名に債権を踏み倒され回収不能になり、弟に金を借りにいく始末。そしてついに破産した。 弟の乾山は物静かで読書を好み、孤独を愛する男。兄弟は正反対の性格だ。「兄上は根本的に生き方を変えないと、このままでは兄上の為にもならない」と彼は手紙をしたため、自身は趣味で習っていた陶器づくりを商売にする為に、腰を入れて仁清から陶法を学び、6年後に自分の窯を構えた。自活する弟の姿を見て光琳も絵筆で立つ決心をし、巨大な屋敷を売り払い、正式に入籍して家庭を持ち、狩野派の画法を習い、40歳頃から光琳の名で作品を発表し始めた。出だしは好調。1701年、43歳で絵師として栄誉ある位・法橋に叙せられた。 ところが光琳の浪費癖は直ってなかった。絵が売れて後援者(パトロン)がついたことで、またしても借金に借金を重ね、1703年(45歳)、自宅を抵当に入れ、江戸に住む後援者を頼って上京する事態になる。この、江戸での生活も辛かった。注文をとるために連日朝から晩まで武家屋敷をまわってはお世辞を言い、描きたい絵ではなく、依頼通りの絵を描く。「俺は何をやっている?貧乏でも自分の望む絵を描くべきじゃないのか?」光琳は江戸生活に5年で見切りをつけ、京都に戻る(1709年)。この50歳の帰郷には、弟・乾山を助ける意味合いもあった。 その頃京都の乾山は、陶器作りだけでは生計が成り立たず、新たに焼き物店を開き再出発しようとしていた。そこで絵師として知名度のある光琳が乾山の作品に絵付けするようになった。乾山が焼き、光琳が描く。かつて弟がしてくれたように、今度は兄が弟に力を貸してあげたんだ。ここに美術史上最強の黄金タッグが結成され、数々の傑作が生れていった!光琳は絵付け作業がとても楽しかったようで、描かれた絵は笑顔の七福神など、のびのびとして微笑ましいものが多い。 さて、狩野派に学んで筆をとった光琳だが、自分が創造しようとする美世界は、この画法では表現しきれぬと以前から違和感を感じていた。そして『風神雷神図屏風』で知られる80年前の絵師・俵屋宗達に熱い視線を注ぎ始め、私淑(ししゅく、心の内で師と仰ぐこと)を決意。斬新な構図で縦横無尽に筆を振るった師匠の作品を、繰り返し模写することで自由な発想力を培い、光琳はそこに優美できらびやかな装飾性を練り込んで、師の魂を受け継ぎつつ発展させた。絢爛豪華な「光琳デザイン」の誕生だ。今に伝えられる彼の作品の大半は、以降の8年間に制作されたもの。 光琳が本格的に作品を発表したのは1701年(43歳)から没年の1716年(58歳)までの15年間のみ。その短い活動期間に多数の名品を残して旅立った。乾山は兄の死後も30年近く生き、晩年は江戸に上がって筆を握り、文人趣味の優れた書画などを残した。 豪奢な生活は光琳の家計を火だるまにさせたが、一流の美術品に触れ続けたことで審美眼を養えたのも事実。派手さがあっても決して下品ではなく、華やかで垢抜けている光琳デザインは、屏風以外にも、うちわ、着物、硯箱、印籠、百人一首、陶器絵など、工芸品を含めていかんなく発揮された。これらジャンルを越えた幅広い創作活動から、日本美術史上最高のデザイナーとされている。 光琳と乾山の菩提寺は1788年の大火で焼け落ち、墓も行方不明になった。光琳百回忌の際、かつて光琳が宗達に私淑したように、熱心に琳派を学んでいた酒井抱一は、「長江軒青々光琳墓」と刻んだ墓を建立した。光琳の向かって右隣には乾山が眠っている。 |
徳島駅の近くにある東光寺。 徳島を訪れたら必ず訪れたい |
墓を前面に出さず「論争発端 の地」というのが奥ゆかしい |
「三代大谷鬼次 奴江戸兵衛」 |
2000年 コンクリートで補強されてる | 2008年 お久しぶりです! | 絵師の活動は10ヶ月に集中 |
墓所の紹介文には「阿波藩の能役者で余技として浮世絵を描く」とあった。“余技”っていうのがカッコイイ! |
「レンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家、それが写楽だ」(ユリウス・クルト、美術研究家) 寛政の改革の真最中、江戸中期の1794年(寛政6)5月。突如として画壇に現れた写楽は、歌麿を頂点とした美人画全盛期の浮世絵界に、28枚の役者絵を同時発売するという殴り込みをかけた。無名の新人にもかかわらず、背景の黒は雲母摺(きらずり)という人物が浮き出て見える豪華な仕様。一度に28枚も発表するには充分な準備期間が必要で、版元の蔦谷重三郎(つたやじゅうざぶろう)は写楽とのタッグに勝負をかけたようだ。 果たして巧みにデフォルメされたダイナミックな役者絵は、江戸っ子に一大写楽ブームを引き起こした。ところが翌年正月を最後に、写楽は忽然と画壇の表舞台から消えてしまう。残された作品は144枚。デビューから約10ヶ月という極めて短い活動期間で、200年近く後世に名を残す画家なんて他に聞いたことがない! 写楽の正体は江戸時代に編纂著述家の斎藤月岑が画家列伝『浮世絵類考』の中で「本名は阿波藩(蜂須賀家)のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛、江戸八丁堀に住む」と書き残している。しかし、この斎藤十郎兵衛が実在していたとする証拠がなかった為に、長年にわたって「正体」をめぐる論議が起こり、30人以上も候補が挙がってきた。梅原猛の歌川豊国説、石ノ森章太郎の歌麿説、版元の蔦屋重三郎説、十返舎一九説、葛飾北斎説、果てはオランダ人画家説まで様々だ。そして1997年、埼玉県・法光寺(築地から移転)でついに斎藤十郎兵衛が葬られた際の過去帳が見つかった!この大発見で写楽をめぐる論争はほぼ決着がついた。 写楽が姿を消した理由は今も不明だが、先の『浮世絵類考』には“歌舞伎役者の似顔があまりにそっくりで、短所までそのまま描いたので役者に嫌われ1、2年で消えた”とある。つまり、モデルを美化して魅力的に描くのがプロの絵師なのに、写楽はそのサービスが出来なかった。むしろ“個性を描く”ことを最優先にしたので、相手の顔の特長を強調(大きい鼻はさらに大きく)した。役者には嫌われたが、これが『写楽は写楽、誰にも似てない』と言われる由縁だ。 東光寺は徳島駅から徒歩10分。寺の入口にちゃんと「写楽はこちら」の矢印看板が出ている。写楽の墓は長年の風雨でかなり痛んでおり、石の割れ目にはコンクリートを流し込んで補強してあった(墓石がコンクリ補強されてるのを初めて見た)。そしてさらなる風化を少しでも避ける為に、墓全体に屋根があり守られていた。側には『阿波藩の能役者で余技として浮世絵を描く』と立て札があった。“余技”で世界三大肖像画家に数えられるのはスゴイ! (P.S.)江戸から大正にかけて大量の浮世絵が海外に流出しており(アメリカだけでも4万点)、最近でもボストン美術館の地下倉庫で写楽が発見されている。海外に写楽の重要作品が眠っている可能性は大だ。 |
『写生図巻』からミカンとキノコ(39歳) | 農家に生まれ皆に愛された応挙 | 応挙は花が大好き! |
応挙の彩色された写生図はホント美しい。花弁の本数などの注釈の細かさは、画家というより博物学者のようだ |
『麻・稲・綿図』(58歳)かつてこんなに美しく描かれた稲があっただろ〜か! | 『禽(きん)虫之図』 尻尾、顔、各パーツを研究しまくり! |
『牡丹孔雀図』(重文、38歳)羽が細かい! | リアルな質感の竹の子 | ケロちゃんを色んな角度から | 『昆虫写生帖』のセミ(43歳) |
『氷図屏風』 |
『雪松図屏風』(国宝、53歳) |
圧巻。線を引いただけの超シンプルな作品なのに紛れもなく 池の氷であり、見ただけで部屋の温度が下がる。大英博物館 所蔵。なんで海外へ売っちゃったんだよ〜。バカバカ…(涙) |
下地の白をわざと塗り残して、それを雪と見立てている。 輪郭線を描かずに松の大木を出現させた天下の名画だ! |
墓が風雨で痛まぬよう屋根付だった | 裏には「寛政七年」とある | 円山一族の中心に応挙は眠っていた |
写生の祖。幼名岩次郎、通称主水(もんど)。京都亀岡の貧しい農家に次男として生まれる。幼少から絵を描くのが大好きで、田畑の隅で木片に人や馬を描いて遊んでいたという。7歳の時に寺の小僧として預けられたが、寺でも絵に熱中しているので家に戻された。10代半ばで上洛し、玩具商の尾張屋に奉公する。 尾張屋の人気グッズは、特殊な眼鏡を使うと絵が立体に見える覗機械(のぞきからくり)。使用する絵は基本的にオランダ等の輸入品。やがて供給が追いつかなくなり応挙が絵付けを担当することになった。すぐに彼の画才を見抜いた尾張屋の主は、17歳の彼を狩野派画家に入門させた。応挙は伝統的な画法を学ぶ一方で、絵付けを通して西洋画から遠近法を学び、緻密に描かれた中国の花鳥画などを熱心に研究した。そして京の名所や風物を描きまくってるうちに固定ファンがつくようになり、30代初めに職業画家として独立する。 1766年(33歳)、この前年に写生画という自分の様式を確立させたことで、それまで使っていた画号を改めて心機一転、「応挙」を名乗る。目の前の物を観察しながら描く「写生」は、今でこそ小学校から誰もが習う普通の描き方だけど、応挙が自分のスタイルにするまでは一般的じゃなかった。画家が描くものといえば、風神雷神や巨大な龍、阿弥陀や菩薩、行ったこともない中国の山水風景など、想像力を駆使して描き上げるものが大半だった。じゃあどうやって画家達は写生もせずに絵の腕を磨いてきたのか。「模写」だ。師匠の絵や名画を忠実に模写することが修業だったんだ。従来は、そうやって画力を高めた後に、物を包む「空気」や、物が呼び起こす「心象風景」を“個性”として描き込んだ。 しかし応挙は違った!彼は一匹の昆虫にさえ自然界の完全なる調和と秩序の美、その普遍的な美しさを感じ取り、目の前の物をそのままの形で描き出すことに情熱を捧げた。応挙は「空気」よりも物の「形」を正確に描くことにこだわったんだ! 花、草、鳥、魚、虫、あらゆるものを絵画に起こした。花一輪をとっても、正面、真上、開花の過程、萎む過程、様々な角度から時間を追って描き尽くした。『雨竹風竹図屏風』では風雨の中で竹林がうごめくさまを、『氷図屏風』では冬の池の氷面に走る割れ目をリアルに描いている。 人々は日常で見慣れている動植物や川が、作品として眼前に現れることで、見過ごしていた自然美に胸を打たれた。そして応挙の写生画には、鑑賞する側に古事の知識や和歌の教養がなくても、ただ純粋に作品と向き合うだけで胸に響く分かりやすさがあり、時の天皇から庶民まで、あらゆる階層の人々から圧倒的に支持された。生を写すと書いて「写生」。応挙は文字通り、生命をそのまま写し取ったんだ。 40代以降も絵は進化し続け、写生画に琳派の装飾画が持つ優雅さが融合し、さらに芸術的高みに上っていく。1775年(42歳)に刊行された『平安人物志』では画家部第一位で記載されている。1788年(55歳)、江戸期の京都最大の火事“天明の大火”にあい、アトリエの大雲院も消失。いったん故郷に戻って、かつて小僧をした寺に恩返しの意味を込めて絵を残す。1793年(60歳)、重い病にかかり歩行困難となり視力も衰える。その2年後、執念で大作『松に孔雀の図』を描き上げ、完成から3ヵ月後に他界した。享年62歳。 代表作は、『牡丹孔雀図』(重文、38歳)、高さ3.6mの『大瀑布図』(重文、39歳)、『雨竹風竹図屏風』(43歳)、『藤花図屏風』(43歳)、『水仙図』(50歳)、『雪松図屏風』(国宝、53歳)、『保津川図屏風』(絶筆)、大乗寺の障壁画などがある。これらを見ると、蕭白が侮蔑の意味で応挙の写生画を「絵図」といったのは間違いと言わざるを得ない。写生で「形」を極めた結果、おのずと「空気」が生まれ出ているからだ。障壁画は部屋全体の構造を徹底的に分析し、壁の絵から庭先の景色まですべてをひとつの巨大な作品に統合し、立体曼荼羅とした。 応挙が眠る悟真寺は、場所的には有名な広隆寺のすぐ近所(東側)で駅から近いんだけど、寺が経営する幼稚園と同じ敷地にあるので、ちょっと分かりにくい。まさか幼稚園の奥に寺があるとは思わず、何度も前を通り過ぎてしまった(付近の人に聞いても分からず、最終的に近くの消防署まで尋ねに行ったほど)。墓地はさらにその悟真寺の裏の奥まった場所にある。 応挙は円山一族が集まる区画の中心にいて、彼の墓を真ん中に5基の墓がならんでいる。応挙の墓は雨による風化を少しでも避けるために屋根が付けられていた。ちなみに右隣が2代応瑞、その横が4代応立、左隣が3代応震、さらに左が5代応誠になる。彼の墓石には「源応挙墓」と刻まれており、この文字は真仁法親王の筆とのこと。つまり、農家の次男の墓に天皇の弟が名を書いたんだ(ビックリだね)。 同時代を生きた作家・上田秋成は応挙像を「衣食住に頓着のない面白味に欠ける人」としているが、僕はこれを誉め言葉ととりたい。応挙には絵が全てだったんだ。京都一番の人気画家になっても、派手さとは無縁の生活を送り、深酒もせず遊びも知らず、とにかく時間があれば絵筆を握り続けた。秋成はまた、「絵は応挙が世に出て、写生が流行り出て、京都中が皆応挙風になりにけり」とも書いている。京都にいた画家が皆応挙の画風になってしまったんだ。門下は実に1000人(!)と言われており、与謝蕪村の高弟なども名を連ねている。これだけでも、どんなに彼が京の人々に愛されていたかよく分かるネ。 ※応挙のアトリエは大雲院(五右衛門の墓がある寺) ※応挙が没した年、江戸では写楽が人気を博し、その10年後に歌麿が他界している。 |
金沢市の宝円寺 | 墓地は離れた場所にある | ここが宗達の墓域なり! |
2003 初巡礼 | 2009 左に顕彰碑、墓前に花立てが! | 墓の字は上から「空、風、火、水、地」 |
宗達は、いつどこで生まれ、どこで死んだかということが定かでないが、京で活躍した宗達は晩年に石川へ移ったらしい。金沢・宝円寺に位牌があったことから寺墓地を探したところ、1913年に宗達の墓が発見された。 ※宗達は宝円寺の住職に帰依していた。また3代前田利常は宗達のパトロン。寺の過去帳には「画かき 田原屋」とある。 |
京都市左京区の頂妙寺にも墓がある(2008) | 正面左側面に「俵屋」 | 右側面に「宗達」。この墓地は俵屋さんだらけだった! |
通称・野々村宗達。号は「伊年」「対青軒」など。宗達は写楽と同様、生没年が謎の絵師だ。江戸前期に京都で活躍していたことだけは分かっている。『風神雷神図屏風』の風神様は、風邪薬のテレビCMに出演していらっしゃるので、宗達の名は知らなくとも、この絵を知っている人は多いはず。ところで、この作品はユニークな両神の表情が魅力となっているのはもちろんだが、美術ファンを唸らせているのは足元の雲の部分だ。両神が乗っている雲は、宗達が開発した新技法“たらし込み”で描かれている。“たらし込み”は最初に多めの水を墨に含ませて描き、そこへ濃度の異なる墨をたらすことで濃淡の変化を出す技法で、これは後に尾形光琳、酒井抱一ら琳派に継承されていくことになる。『松島図屏風』は激しく波打つ黄金の海が印象的な傑作で、米国にさえ流出していなければ(ワシントンDC・フリア美術館)、間違いなく国宝にしていされていたであろ〜う!(涙) ※『俵屋』は店の屋号。掛軸や絵扇を販売したり、様々な絵の注文を受ける「絵屋」だった。 ※宗達が最初に知られるのは1602年の平家納経の修復作業。本阿弥光悦による若手の大抜擢だった。 |
『待月』(1926) | 『序の舞』(1936) |
団扇を手に昇り来る月を待って いる『待月』…あうう、この気品! |
「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。一点の卑俗 なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなの です」(松園) ※右腕の裾が捲くれている。激しい動き(情熱的に生きた)の直後の静寂だ |
『焔(ほのお)』(1918) | 『焔』製作中の松園 |
光源氏の愛人・六条御息所が、正妻の葵上を 嫉妬して生霊となった姿だ。怨念を込めて乱れた 髪を口で噛むなどなんともオドロオドロしいッス… |
松園自身「なぜこのような凄絶な作品を描いたのか自分でも分からない」 と語り、この作品の発表後、3年間なにも展覧会に出品しなかった。 その約20年後、様々な苦悩を克服して描かれたのが、先の「序の舞」だ。 |
京都出身。本名津禰(つね)。父は生れる二ヶ月前に他界していた。家は葉茶屋で、母が女手一つで彼女を育て上げる。子どもの頃から絵がたまらなく好きだった松園は、小学校を卒業すると、京都に開校したばかりの日本最初の画学校に12歳で入学する。しかしカリキュラム優先の学校よりも、尊敬する師匠の内弟子となって修業する方が身になると思い翌年退学、鈴木松年に師事する(1888年)。めきめきと腕をあげる彼女は“松園”の号を与えられた。親戚や周囲には彼女のこうした生き方を非難する声も多かった。明治の世では「女は嫁に行き家を守ることが最上の美徳」とされており、教育を受けたり絵を習うということは中傷の対象だったのだ。
1890年、第3回内国勧業博覧会に出品した「四季美人図」が英国皇太子コンノート殿下の買上げとなり、彼女は15歳にして一等褒状を受け、「京に天才少女有り」と世間から俄かに注目されるようになった。新たな画法を学ぶべく師匠を幾度と変えていった松園は、20歳から京都画壇の中心人物・竹内栖鳳(せいほう)に師事する。やがて27歳で妊娠。相手は最初の師匠松年と言われているが、先方に家庭があるため松園は多くを語っていない。彼女は未婚の母の道を選び、世間の冷たい視線に耐えながら長男松篁(しょうこう)を出産する。※松篁は成長して画家になり文化勲章を受章している。
私生活がどんな状況でも、早朝から絵の勉強を怠らなかった彼女。その絵筆はますます冴え渡り、各地の展覧会・博覧会で作品が高く評価された。飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍する松園は、「女のくせに」とライバルの男性画家たちから激しい嫉妬と憎しみの対象になった。それは晩年に松園が「戦場の軍人と同じ血みどろな戦いでした」と記すほどで、女性の社会進出を嫌う保守的な日本画壇の中で、ひたむきに、孤高に絵筆を握り続けた。 誹謗や中傷が渦巻く中、1904年(29歳)には、展覧会に出品中の『遊女亀遊』の顔が落書きされるという酷い事件も起きる。会場の職員から絵を前に「どうしますか」と尋ねられた松園は、「そのまま展示を続けて下さい。この現実を見せましょう…」と語ったという。 小柄な松園だが精神力は鋼のようだった。描かれる女性達はどれも凛として気品に満ちており、画風はどこまでも格調高かった。1907年(32歳)に始まった文部省美術展覧会(文展)では、毎回のように入選&受賞を繰り返し、第10回からは“永久無鑑査”となる。多くの人々が作品に魅了され、以降、帝展、新文展、日展の審査員となる一方でニューヨーク万国博覧会に出品もした。 しかし、社会の偏見とは敢然と戦った松園だったが、40代に入って年下の男性に大失恋し、スランプに陥ってしまう。1918年(43歳)、そこから生れた作品が問題作『焔(ほのお)』だ。清らかな美人画を描き続けてきた松園が刻んだ、女の怨念の世界。題材となったのは、光源氏の愛人・六条御息所が、正妻の葵上を嫉妬して生霊となった姿だ。能面では白目に金泥を入れると「嫉妬」を表現する面になる。この絵でも金泥が入っており、乱れた髪を口で噛むなど何ともオドロオドロしい。松園自身、「なぜこのような凄絶な作品を描いたのか自分でも分からない」と語り、この作品の発表後、3年間展覧会への出品を一切断つ。しかし皮肉にも、この作品が松園の評価をさらに高めた。それまで彼女を単なる美人画描きと否定していた連中は、凄まじい情念が込められた『焔』に、松園のすごみに圧倒された。 1934年、ずっと影で松園を支えてくれていた母が死亡。その2年後の1936年、61歳の松園は代表作となる『序の舞』を完成させる。それは女性が描く“真に理想の女性像”だった。様々な苦悩を克服して描かれたのは、燃える心を内に秘めるが如く、朱に染められた着物を着て、指し延ばした扇の先を、ただ真っ直ぐに、毅然として見つめる女性だった。「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなのです」(松園)。 1948年(73歳)、女性として初めて文化勲章を受章。その翌年74歳で逝去した。現代の画壇では「松園の前に松園なく、松園の後に松園なし」とまで言われている。 「気性だけで生き抜いて来たとも思い、絵を描くために生き続けて来たようにも思える」(松園) ※近代日本の美人画の代表的作家は、西(京都)の松園と東の鏑木(かぶらき)清方。松園の3歳年下だった鏑木は、若い頃を回想して「松園の作品は自らの目標であり、裏返しても見たいほどの欲望にかられた」と記している。 ※樋口一葉と松園は3歳しか変わらず同世代だ(一葉が年上)。 |
『群仙図屏風』 |
あまりにパワフルで、見ていると体調を崩しそうな自由の楽園。極彩色の不協和音。気力と体力がなければ絵の前に立てない
|
表情がユーモラスな竜。しかし 全身は疾風と一体化してド迫力 |
いわゆる呆け顔というのか、 この目は描けそうで描けない |
左の仙人に手を 振る異形の者 |
カラフルな仙人 袖の下の鳳凰は… |
「キョエエーッ!!」と聞こえ てきそう。すごい細密画 |
「柳下鬼女図屏風」 | 「蝦蟇・鉄拐図屏風」 | 花押(手書きの判子) | 「美人図」 | 「虎渓三笑図」 |
吹きすさぶ風の中に立つ、 生きながら鬼と化して しまった哀しみの鬼女… |
ガマ仙人。顔のことは置いとくと して、この髪のフワフワ感は見事 |
謎の花押。SF映画の 宇宙人の文字のよう |
何度も読み返して破れた 恋文をくわえて笑う狂女… |
なんだろう。このムカツキは… |
背後にヤシの木(?)があるとってもトロピカルな蕭白の墓。良いお天気!(2003) |
5年後に再訪すると背後の雰囲気が変わっていた!(2008) |
「異端」「悪趣味」「摩訶不思議」「奇想天外」「グロテスク」、様々な罵声を浴びてきた江戸中期の画家曽我蕭白(しょうはく)。本名三浦暉雄(てるお)。「曾我」は室町時代の画家曽我蛇足(一休和尚の弟子)から、「蕭白」は中国の皇帝に絵を教授した蕭照からきている。京都の木綿商家に生まれ、13歳(1743年)の時に父を、16歳で母を亡くす。店が潰れて天涯孤独となった蕭白が、何をきっかけに画家を志したのかは分かっていない。確かなことは、1758年(28歳)から1767年(37歳)にかけて、伊勢と播州各地を数度放浪、旅絵師として城や寺に居候し絵筆を握ったこと。京都を活動の基盤とするようになったのは、40代になってからだ。 他人とは異なる自分だけの作品世界を生み出す。この信念を持っていた蕭白の絵に、節度や統制といった言葉は存在しない。日本人の美意識の象徴“侘び・さび”も関係なければ、余白の美など無縁だ。際限なく画面に描き込まれ、ド派手かつサイケデリックな色彩の中で、呆けた笑顔の人物がたたずんでいる。幽玄さや枯淡、雅といったものは皆無!このことについて、蕭白の研究者は当時の知識人が傾倒していた陽明学左派の“「狂」こそが聖人に到達する最も近道である”という思想の影響を指摘している。狂を尊ぶことは個性を育むこと、この考えでいけば蕭白の絵に狂が込められているのも納得だ。狂を描く為には美を犠牲にしてもいいと思ったのかも知れない。 蕭白に対する江戸期の評価はこうだ。没後20年目の画論『画道金剛杵』には「おのが才に任せて邪道に陥った者である」「その品格絶野」。品格ゼロ、才能に自惚れて「邪道」に陥ったと。30年後の『近世逸人画史』には「世人狂人を以って目す。変化自在なり。草画(水墨画)の如きは藁に墨つけてかきまわしたる如きもあり。また、精密なるものにいたりては、余人の企及ぶべきものにあらず」。世間からは狂人と見られていた蕭白だが、絵の腕前は変幻自在で、藁に墨をつけて書き殴ったかた思えば、他の画家が真似できぬほど技量の高い精密画も描く、と驚嘆している。50年後の『画集要略』には画風を「怪醜」と一刀両断されている。こうした「邪道」「狂人」「怪醜」という烙印は、世の波に埋もれていぬ証拠。願ったりと蕭白は喜んでいるだろう。(実際、第一印象の不快感が、見ているうちに何でもアリの解放感に変わっていくから不思議だ。自由奔放な絵は気持ち良い) 蕭白の時代、京都では円山応挙、伊藤若冲、与謝蕪村、池大雅など、そうそうたる顔ぶれが絵筆を振るっていた。最も人気を集めていたのは「京都中が皆応挙風になりにけり」(上田秋成)とまで言われた、3歳年下の円山応挙。猛烈なライバル心を燃やした蕭白はこう吐いた「画を望めば我に乞うべし。絵図を求めるなら円山応挙に乞うべし」。つまり、“生命が刻まれた本物の絵を望むなら俺に、ただの写生が欲しければ応挙に頼め”と言うわけ。蕭白にとって狂のない絵は何の価値もなく、単なる図面にすぎなかったのだ。 蕭白は無頼漢、奇行の人として知られている。まず落款(らっかん、サイン)が奇天烈だ。商家出身なのに「従四位下曽我兵庫頭暉祐朝臣」とするのは可愛い方で、明の太祖洪武帝の十四世とする「明大祖皇帝十四世玄孫蛇足軒曽我左近次郎暉雄入道蕭白画」(長すぎ!)というのもある。これは当時の画壇で権威や肩書きに固執する狩野派を馬鹿にしたもの。花押(手書きの判子)も捺してあるが、これは一つとして同じものはない。別の画号で「鬼神斎」「如鬼」というオドロオドロしいものを名乗ることもあった。 他にも、空腹のあまり行き倒れになったのを百姓に救われて御礼に描いた、金銭に無頓着で絵がめちゃくちゃ安かった、泥酔して寺に唐獅子を描いた(っていうか常に酔っぱらっていた)、寺の小僧の顔に試し描きとして墨を塗った、喧嘩で刃物を振り回した、由緒ある本願寺の使者に「蕭白はいるか」と呼び捨てにされ「呼び捨てにされるような蕭白はおらん」と怒って追い返したりと、様々なエピソードが伝えられている。 代表作とされる『群仙図屏風』が描かれたのは1764年(34歳)。『寒山拾得図』『商山四皓図屏風』は菩提寺・興聖寺の為に描かれた。47歳の時に幼い息子を亡くしてからは画風が一変し、静けさに満ちた山水図を描く。その4年後、51歳で他界した。 後年、幕末から明治初頭にかけて偽物が出回るほど人気が出たものの、その後は存在が忘れ去られ、作品の半分以上が海外に流出してしまった。国外での高い評価を受けて近年になって日本でも再評価が進み、いまや美術館展示の目玉とまでなっている。 ※ネットで見かけた「ボッシュと蕭白の絵に“狂の中にあるユーモア”という共通点を見た」という意見に激しく同感。 ※ちなみに蕭白の墓の真っ直ぐ背後(5mくらい?)に“へうげもの”古田織部が眠っている。 ※参考文献「ARTISTS JAPAN」(同朋舎)ほか |
『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』 | 『木曽街道六十九次之内厥・犬山道節』 | 『みかけはこはいがとんだいい人だ』 |
武者絵の第一人者。水滸伝シリーズ最強! | 他の絵もドラマチック。SF映画みたい! | 町人の顔が全部人間というトリッキーな絵 |
『東海道五十三対 桑名』 | 『相馬の古内裏(ふるだいり)』 |
海坊主!「東海道五十三次」のパロディー。 | 10m以上はあろうかというド迫力の骸骨の襲撃!すごい構図だ! |
|
|||||||||
上、中、下巻で構成されている。真ん中で 大ダコを引っ張る猫は「おもいぞ(大磯)」。 |
国分寺の大仙寺にて。ドシャ降りだった。 | 小雨になるのを待って彼の画集を広げた! |
「幕末の修羅絵師」と呼ばれる浮世絵界のアウトロー、江戸時代きっての空想画家、歌川国芳。迫力ある武者絵を得意としたが、国芳ならではの十八番は「妖怪画」だ。美術史において水木しげると国芳は、妖怪画の巨匠(マエストロ)として肩を並べている。妖怪と言っても国芳の場合は、怖いというより、どこかユーモラス。とても個性豊かな表情で見飽きない。国芳は先の歌麿同様、なかなかの反骨の絵師で、天保の改革で歌舞伎、寄席、錦絵、人情本など庶民の娯楽が“風俗を乱す”と弾圧されたことに激しく抗議し、『源頼光館土蜘作妖怪図』では12代将軍家慶、老中水野忠邦らを妖怪と共に描いて皮肉っている。通常の風景画、人物画に関する腕前も素晴らしく、晩年の北斎が彼を絶賛している。広重、国貞と並ぶ歌川三羽ガラスの一人! 本名の「井草」と彫られた国芳の墓は「鷲津家之墓」と隣接している。住職の話では、彼の家系は江戸から現在に至るまで女子ばかり生まれて井草は継がれず、今の鷲津家に至ったという。 |
『自画像』(1923) | 『テラスの広告』1927 |
25歳の時に東京芸大の卒業制作で描いたもの |
ポスターの文字までも作品の一部に昇華させた! |
『レ・ジュ・ド・ノエル(酒場)』1925 | 『鐘楼のある風景』1927 | 『ガス灯と広告』1927 |
1階が酒場で2階が安ホテルに なっている。めっさシブイ絵! |
何気ないパリの小道でも、 佐伯が描くとすごく味が出る |
「私はパリに行って街の美しさにあまり驚かなかった。なぜなら、佐伯の 絵をたくさん見ていたからだ。彼ほどパリをよく見た人はいなかった」 (作家・横光利一) |
『広告貼り』1927 | 『カフェ・レストラン』1928 | 『郵便配達夫』1928 |
めくれた広告や左下のポスター 貼りなど、やたらカッコイイ! |
死の年、最晩年の作品、といってもまだ30歳。 本当に、あまりに早すぎる死だ… |
この作品を完成した後、喀血した |
2000 | 2005 正面にも背後にも「佐伯」のサの字もない |
この“倶会一処”(ぐえいっしょ)とだけ彫られて いるのが佐伯祐三の墓だ。名前はどこにもない |
5年後に再訪したら、5日前に新しい墓が完成したばかりだった! 普通は正面に“倶会一処”と彫られていても、裏側に名前や命日が 刻まれていることが多いけど、佐伯の墓は徹底して何もなかった |
20世紀初頭に2度渡仏し、30歳で夭折するまでパリを描きまくった。大阪市中心部に近い中津の光徳寺に、7人兄妹の次男として生まれる。子どもの頃から絵が好きで、17歳から油絵を始める。1917年、19歳で上京し川端画学校で藤島武二に師事。翌年、東京美術学校(現・東京芸大)西洋画科に入学した。1920年(22歳)、米子夫人と結婚。同年父が病没し、翌年には弟も結核で他界した。佐伯自身も喀血して3ヶ月休学しており、死の影に脅えた彼は“悔いのない人生を送りたい、ゴッホのように生きたい”と、ゴッホが眠るフランスに憧れるようになる。1923年(25歳)卒業を機に、パリへ先に渡っていた先輩画家・里見勝蔵を頼って、妻とまだ1歳の娘弥智子を連れ神戸港から渡欧する。
1924年1月、1ヵ月半の船旅の後、ついに佐伯はフランスの土を踏んだ。里見は彼を温かく迎え、同年夏、佐伯の願いを聞いて、ゴッホ終焉の地オーヴェール・シュル・オワーズに案内し、そして当地にアトリエを持つ野獣派(フォーヴィズム)の巨匠ブラマンクに紹介した。佐伯は自信作の『裸婦』を見てもらった。ところが、ブラマンクの口から放たれのは「このアカデミック(美術学校)野郎!」という怒号だった。「自分のスタイルを探せ!」と一喝され愕然とする佐伯。 茫然自失の体で家を出た彼は、会わせてくれた里見に「(無理を言い)すまなかった」と詫びた。この夜、オーヴェールで佐伯が宿泊したラヴー亭の部屋は、偶然にもゴッホが30余年前に絶命した、まさにその部屋だった。
そして、ブラマンクの叱責は彼を画家として新しい境地に押し上げていく。ユトリロやブラマンクの影響を受け画風は一変し、従来の教科書通りの絵ではなく、「これが佐伯祐三だ!」という独自の世界を築き上げていった。
翌年夏、佐伯の結核が進行していないか案ずる母の代理で兄が訪問し、帰国を促した。年が開けて1926年1月(28歳)、前年に『コルドヌリ』『煉瓦屋』がパリを代表する国際公募展「サロン・ドートンヌ(秋の展覧会)」に入選し一段落がついたこともあり、約2年の滞在を経て帰国。同年、二科展に出品した滞欧作『レ・ジュ・ド・ノエル』で二科賞を受賞する。しかし「俺の絵のタッチは日本の風土と合わない」と苦悩し、1927年(29歳)2度目の渡仏を決意、今度はシベリア鉄道で大陸を抜けていった。1年半ぶりにパリの空気を吸った佐伯は、パリの画家仲間が「超人的熱情と努力」と驚嘆するほど疾風怒濤で作品を生み続け、2度のフランス滞在を合わせて400点(のべ3年で)を超える作品を残した。秋にはサロン・ドートンヌ25年記念展に『新聞屋』『広告のある家』で再び入選した。 翌1928年2月、佐伯を頼って渡航してきた後輩画家2人と約20日間の写生旅行を敢行。3月、小雨の中の写生で持病の結核が悪化し、病床に伏す。力を振り絞って『郵便配達夫』『ロシアの少女』を描き、喀血。やがて精神も病み始め、6月には病身でブーローニュの森に入って行き倒れるという失踪事件を起こし、同月23日パリ郊外のエヴラール精神病院に収容された。 入院前、妻に「さようなら…日本の皆によろしく。絵を持って帰り、悪いのは焼いてくれ」と別れの言葉を伝え、1ヵ月半後に客死した。30年と4ヶ月の短い人生だった。その死からわずか2週間後、父の死を知らないまま6歳の一人娘も「アンジュ(天使)」とうわ言を口にした後、結核で後を追った。同時期に夫と娘を失い、悲しみと孤独の中で米子夫人は2人の遺骨を手に、1人日本への帰途についた。 画家としての佐伯の本格的な活動は5年間足らずだったが、結核という死の影に脅えつつ、ナイフで削り取るような荒々しい筆致と、くすんだ哀愁漂う色彩で、裏通りや店先など場末のパリを描き続けた。なかでもポスターや看板など広告をモティーフとした作品群は、描かれた文字をも作品の一部とし昇華させ、高い評価を受けている。 佐伯祐三の墓参は特に忘れられない思い出の一つ。彼の生家はお寺であり、墓も寺に隣接した墓地にある。それほど広い敷地じゃなかったので、「これならすぐに分かるだろう!」とさっそく探し始めた。ところが幾ら探せど一向に見つからない。全墓石をくまなく見たけど、やっぱりいない。「ダメだ、もう住職さんに尋ねるしかない」その思って御坊へ足を運んだ。表札に“佐伯”とあるのを見て緊張する。おかみさんが応対して下さり、「佐伯の墓は分かりにくいかも…」と、墓前まで案内して下さった。
なるほど、これは分からないはずだ。墓には佐伯祐三の文字はどこにもなく、ただ「倶会一処(ぐえいっしょ)」と刻まれていた。倶会一処とは仏教用語で、人と人は浄土で一つに繋がるという意味。「浄土ではもう個人の名前に意味がないので、倶会一処とだけ刻んでいるの」。この言葉にジーンときた。 これまで色んな墓を見て来たけど、どんな勲章をもらった、なんという賞に輝いたと墓誌に刻み、故人の偉大さを肩書きで語る墓が少なくなかった(気持的には分からなくもないけど)。ところが、彼の墓は画家であったことが刻まれてないばかりか、名前すらない!一般的に“倶会一処”と正面にあっても、側面や背後に名前や命日が刻まれているものだけど、佐伯の墓は徹底して何もなかった!これが本人の遺言なのか、それとも米子夫人や周囲の意向なのか、80年近く昔のことなので家の人にも分からなかった。確かなのは佐伯の墓には彼の名前がないということ。これは僕にとって、栄誉や名声に執着しない、とてもカッコ良いものに思えた。 墓前でおかみさんに作品の素晴らしさや、短命を残念に感じていることを激白していると、「帰る前にお寺に寄って」とのこと。祐三(僕の方が年上!)と1対1になった僕はソウルトークをたっぷり交わし、帰る前に御坊へ寄った。「墓参りに来てくれて有難うね。これを持ってお帰り」とおかみさん。それは『カフェのテラス』等が入ったポストカード・セットだった!感涙むせぶとはこのこと。お寺を出た後、誰もいない近くの公園でベンチに座り、1枚1枚、ウルウル&しみじみとその絵に見入った…。
5年後に再訪したら、5日前に新しい墓が完成したばかりだった。以前の墓石は戦時中の空襲もあってかなり傷みがきていた(光徳寺も焼けて再建された)。新しくなってもやっぱり正面は「倶会一処」。寺墓地に入って一番最初にある墓なのですぐに分かります!(ただし、お寺自体が手前の中津学園に隠れて表の道路からは全く見えないので、通り過ぎないよう注意してね。僕は3度も通り過ぎました…) ※1923年の第1回渡航時、本当は9月中旬に出発する予定だったが11月になってしまった。既に荷造りを終えていた所に関東大震災が起こり、荷物が灰になってしまったからだ。
※佐伯はゴッホの墓があるオーヴェールを3度も訪れている。
※佐伯が初めて海外から家族に送った絵葉書はフランスへの最初の寄港地、上海の墓地の写真だったという。墓マイラーとしてちょっと嬉しい。
※東京美術学校では卒業制作で自画像を母校に寄付する伝統があり、おかげで後世で活躍する画家たちの記録になっている。それにしても佐伯だけでなく、同時代の画家の夭折した者が多いことよ。関根正二20歳、村山槐多23歳、青木繁28歳、中村彝(つね)37歳、岸田劉生38歳…。 |
1928年、パリを離れて写生旅行に出た時の最晩年の写真。傍らに立つのは娘の弥智子。 親子共にこの半年後に他界した。背後にいるのは一緒に旅をした後輩画家たち。 |
『洛中洛外図屏風』 | 拡大 | 超拡大 |
上洛した信長が上杉謙信に贈った永徳作『洛中洛外図屏風』には、清水寺、東寺、鴨川などの京都の名所と、祇園祭りの華やかな様子が描かれており、桃山版京都ガイドブックになっている。眩い金箔と共に1.6x3.2mに渡って合計2485人もの民衆が描き込まれ、当時の風俗を今に伝える貴重な資料となっている。現存する永徳の作品には、豪放で雄大なスケールのものが多いけど、当時の文献によれば本来得意としたのは花鳥山水など繊細な「細画」だという。洛中洛外図屏風の細密描写はその言葉を裏付けている。 |
1999年 目を疑うほど朽ち果てている 狩野家代々の墓(計13基)。一斉を風靡したのに! |
2003年 今回は立て札があった。明るく陽が差して おり、前回感じた悲惨な雰囲気は多少和らいでいた。 |
2008年 400年前は土葬。この墓地に永徳は埋葬 され、後世に墓石だけがこの一角に集められた |
左から3番目が永徳の墓石。複数の名が刻まれているが、
正面右の戒名「聴受院殿永徳法眼高信日意大居士」がそれ。 ※風化して字が薄いけど住職さんに聞いたので確実デス! |
中央の墓は永徳のお爺ちゃん、狩野元信(もとのぶ、1476-1559)だ。 元信は狩野派の祖・狩野正信の子。京都出身。狩野正信→狩野 元信→狩野松栄(しょうえい)→永徳永徳と魂が受け継がれている |
本名州信(くにのぶ)。山城国(京都)出身。室町中期から明治初期まで続いた日本最大の画派・狩野派を代表する画家。父は足利将軍家の御用絵師。永徳は伝統的な大和絵と中国の漢画の技法を融合し狩野派画法を確立した。祖父元信は幼少期から孫を英才教育し、永徳は9歳にして時の13代将軍足利義輝のもとへ新年の挨拶に伺ったという。狩野一族で最も絵筆を自在に操った彼は、1566年(23歳)、三好家の菩提寺・大徳寺聚光院で、最重要の仏間に障壁画(内装画)『四季花鳥図』を描いた。 1576年(33歳)、狩野派一門を率いて安土城の障壁画の制作をスタート。3年をかけて7層の天守閣を彩った。1582年に本能寺で信長が散ると、以前に馬具をデザインを手がけたことのある秀吉に接近。世の流れを読む永徳の目は天才的で、足利将軍家から信長、信長から秀吉へと見事に渡り歩き、その都度一門の勢力を拡大させた。力強い筆致や絢爛豪華な画風が戦国武将たちの好みと完璧に一致したのだ。 1585年(42歳)、大坂城の障壁画を手がけ、1587年(44歳)、秀吉が黄金をふんだんに使い贅の限りを尽くした大邸宅・聚楽第の障壁画を描く。その翌年、東福寺法堂のの天井画に挑むが病に伏して未完。1588年、秀吉が母の為に創建した大徳寺内の天瑞寺で絵筆をふるい、最晩年の1590年には八条宮家の金碧(きんぺき)障壁画『檜図屏風』を描いた。檜図は巨木の強い生命力を感じさせ、とても病に冒されている人間が描いたものとは思えない。同年9月、皇居にて襖絵を制作する途中、体調を崩して47歳で没した。 永徳をはじめとした狩野派の画家たちは、様々な画題や技法に手腕を発揮し、山水画、人物画、花鳥画など、すべてのジャンルに秀作を残した。各時代に正信、元信、永徳、長信、光信、孝信ら名匠を輩出し、彼らは工房の絵師をまとめあげ、集団制作で次々と障壁画を完成させた。狩野派一門は、特定の権力者に付き従うのではなく、独立した自由な専門絵師集団だったことも革命的だった。同派は今でいう美術学校であり、明治維新後も狩野芳崖や橋本雅邦らが活躍した。 安土城、聚楽第、その他大建築の永徳の作品は、建物の崩壊と運命を共にし、ことごとくこの世から消滅した。なかでも、安土城が焼け落ちたのは本当に痛い。天守には永徳自身が「画家人生の集大成」と語った作品群があったのに…う〜ん、悔しい!安土城が灰になったと聞いたとき、永徳はどれほど無念だったろう。何年もありったけの精力を注ぎ込んで描き切った作品群が、全て炎の中で灰燼と化す残酷さ。戦争は芸術の敵だ(今も昔も!)。 ちなみに安土城を焼いたのは信長の次男信雄(のぶかつ)。明智軍が立て篭もっていたとはいえ、普通父親の形見を焼くか〜!? ※狩野派は徹底した模写教育がメイン。天性のセンスで描く「質画」は次の世代に伝えられないので、学んで覚える「学画」を家訓としている。 狩野一族の墓所は妙覚寺の境内からいったん外に出て北西に5分ほど歩いた場所にある。この墓所を少し南下すると、ライバル絵師・長谷川等伯がの墓を擁する本法寺がある。 |
自画像 | 『木かげ』 | 『湖畔』(1897年、31歳の作品) |
こんなプリン型の墓を見たのは初めて(2003) | しかもかなり巨大!(2010) | 墓前の黒田父子の顕彰碑 |
日本洋画界の父。薩摩藩の名家の養子となり、政治家となるべく英才教育を受けた彼は、早くから仏語をマスターし、1884年、18歳でフランスに留学し法律大学に入った。幼少の頃から趣味で絵筆をとっていた彼は、印象派全盛のパリで絵心に火が付く。黒田は哲学者の友人に、“画家は単なる職業ではない。絵画は学問の中で最も高尚なるものだ”と諭されて、留学から3年後、通っていた法律学校を退学し、パリ近郊で油彩画の制作に没頭する。
27歳で帰国。その頃の日本洋画界は、深い陰影を刻んだ暗い画面が主流だった。画壇の中心は洋画家の重鎮が集まる明治美術会。黒田はフランスで身につけた、外光をカンバスに取り込む印象派の画法を他の画家(藤島武二、青木繁ら)に伝えるべく、画塾を開く。
「安芸の宮島とか、それから天の橋立とか云ふ名高い景色を、似た様に習た様に書くのが、旧派です。景色なら景色の形を記すのが旧派、新派と云ふ方は先づ其景色を見て起る感じを書く、或る景色を見る時には雨の降る時もあり、天気の極く宣い時もあり色々ある、其変化を写すのです」〜「洋画問答」から
30歳、新旧派の対立から明治美術会を脱退して有志による白馬会を結成。また、新設された芸大西洋画科でも指導に燃えた。黒田たち明るい色調の外光派は、あふれる生命力と豊かな躍動感で若い画家たちから大いに支持され、白馬会はアッという間に旧派・明治美術会にとってかわる一大勢力となった。(彼ら外光派は紫を使って陰の部分の表現したので紫派とも呼ばれた。)1900年(34歳)パリ万博で《智・感・情》が銀賞を受賞。
41歳、文展の創設に尽力、44歳、洋画家として初の帝室技芸員に任命、54歳、貴族院議員となって政界に入り、海外との文化交流に尽くした。56歳、森鴎外の後任として帝国美術院の第2代院長を務める。美術界と政界で精力的に活動したことで多忙から糖尿病が悪化し58歳で病没する。東京・長谷寺の裏手の墓地に眠っている。
黒田は遺言に「自分の遺産を美術の奨励事業に役立てるように」と残し、遺族はそれに従って上野に黒田清輝記念館を建設、重要文化財の代表作『湖畔』をはじめ、初期から晩年までの200点以上の作品を現在に至るまで入場無料で公開している。
※黒田清輝記念館の開館は毎週木・土曜の午後のみ。
※彼は日本人女性の裸体を油絵で描いた最初の日本人画家でもある。明治の世では「裸体画=ハレンチ、醜悪」とレッテルを貼られ、公開時は官憲の命令で、裸婦の下半身を布で覆って展示したり、裸体画だけを特別室に隔離展示するという、馬鹿げた事態が発生した。 |
女性にモテモテ |
“竹久夢二を埋む”と刻まれている(2008) ※台座はアトリエにあった石 |
6月に墓参するとアジサイが供えられていた(2010) |
1991年 雑司ヶ谷霊園の 中央付近に眠る。近くに漱石 |
2002年 殆ど何も変わっていない。 夢二の美人画は現代でもポストカードになるなど大人気 |
最高傑作「黒船屋」 ※黒猫は夢二とも |
1884年生まれ、岡山県出身。画家、詩人。「夢二式美人」と呼ばれる美人画を得意とした“大正の歌麿”。広告や浴衣などのデザインも手がけ、グラフィック・デザイン(商業美術)の先駆者でもあった。本名茂次郎(もじろう)。 1901年、画家を夢見て17歳で家を飛び出し上京。以来、生涯にわたってどの画壇(流派)にも属さず、一人孤高の道を歩んだ。安い画集や美術雑誌から独学で絵を学んだ夢二は、新聞や雑誌に挿絵の投稿を重ねて世間に認められていった。1905年(21歳)、友人の社会主義者・荒畑寒村の紹介で、日露戦争に“非戦論”で抗議していた『平民新聞』などに風刺画を描き始める。同年より“夢二”を名乗る。 1907年(23歳)、スケッチの腕を買われ読売新聞社に入社し、2歳年上の未亡人たまきと結婚。彼女をモデルに、はかなさや無常感を漂わせた独自の美人画を描き始めると、ポスター、絵葉書、本の装丁などで引っ張りだこになり、時代の寵児となった。 1910年(26歳)、社会主義者が一斉に逮捕された大逆事件に関与した疑いで2日間の拘留。翌年、たまきと別居(法的には2年前に協議離婚していた)。1912年(28歳)、初の個展が催される。翌年、三行詩『宵待草』を発表。 1914年(30歳)、東京日本橋に「港屋絵草紙店」を開店。“夢二のファン”という18歳の美大生・笠井彦乃(ひこの)が「絵を習いたい」と店を訪れ、夢二は快諾する。翌年、たまきと再び暮らしていたが、彼女と東郷青児の関係を疑いついに絶縁。一方、夢二と彦乃は惹かれあっていくが、彦乃は老舗紙問屋の一人娘であり、父親は夢二の離婚歴を問題にし交際を許さなかった。それ故、手紙の中では彦乃を「山」、夢二を「河」と、互いに合言葉で呼び合った。 1917年(33歳)、夢二が京都へ転居すると、4ヶ月後に彦乃も夢二を追って京都に入り、駆け落ち同然の共同生活を始める。彦乃は幸福の絶頂にあり、「一生のうちまたとない日。こんないい日はかって覚えがない」と日記に刻んだ。ところが、1年後に彦乃は肺結核を発病。父親の手で東京に連れ戻される。夢二は彼女の病室を訪れるが面会を遮断され会えず。「心の中へぽかんと大きな穴があき、そこから寂寞(さみしさ)湧いてくるなり」(夢二歌集『山へよする』より)。 同年、表具店の“黒船屋”から絵の依頼がくる。彦乃と別離した直後であり、人気モデルの“お葉”(当時16歳)を描くものの、心を支配しているのは彦乃。抱かれている黒猫は夢二自身といわれている。 翌1920年(36歳)、彦乃は24歳の若さで早逝する。出会いから6年。夢二は悲しみの底に沈んだ。 1923年(39歳)、関東大震災で潰滅した東京を画家・有島生馬とスケッチし、新聞に寄稿連載。1931年(47歳)、5月に横浜港を出てホノルル経由で米国へ。翌々年の9月に神戸港へ帰国するまで、米国、ドイツ、チェコ、オーストリア、フランス、スイス、イタリアなどを巡る。1933年(49歳)、帰国後に結核を患い、快方に向かうことなく翌年に他界した。最後の言葉は「ありがとう」。戒名、竹久亭夢生楽園居士。辞世は「日にけ日にけ かつこうの啼く音ききにけり かつこうの啼く音は おほかた哀し」。 彦乃は“山路しの”という名前(夢二が命名)で絵筆を握っていた。夢二は彦乃が死去した後、自分も同じ肺結核で没するまで、12年間ずっと彼女への想いを胸に抱いていた。“お葉”や他の女性と付き合っていても、“ゆめ35しの25”と刻んだプラチナの指輪を生涯身につけていた。“しの25”とは彼女の数え年の享年だが、夢二が実年齢より若い“ゆめ35”としているのは、数え35歳で彦乃と引き離されたことから、自分の人生はそこで終わったと感じていたのだろう。 晩年の夢二は人物の背景に「山」を好んで描き、ある屏風の裏には『山は歩いてこない やがて私は帰るだろう』と、彦乃を追慕するような言葉が記されていた。 ●墓巡礼記 夢二の葬儀後、有島生馬らが東京・雑司ヶ谷霊園に埋葬した。墓石には生馬が『竹久夢二を埋む』と刻んでいる。“○○之墓”ではなく“埋む”と彫られた墓石は他に見たことがない。 |
夢二式美人の原型と なった元妻“たまき”。 |
25歳で亡くなった“しの”。 夢二の最愛の女性だ。 |
「黒船屋」のモデルは当時16歳のお葉。 最後は夢二を捨てて出てゆく。 |
国宝「凍雲篩雪(とううん しせつ)図」。雪山が記憶 の中で溶けていくようだ! |
音楽が大好きだった玉堂。琴と戯れる時の、この嬉しそうな顔! (70歳の玉堂を息子の春琴が描いた) |
「煙雲空濛図」 誰にでも描けそうで 描けないのが文人画 |
なんと本能寺の信長の墓のすぐ側で眠っている!(2008) | 右が玉堂、左が息子の春琴(2001) | “峯山”は号と思うけど該当資料なし |
江戸後期の文人画家。本名、弼(ひつ)君輔。岡山池田藩士の家に生まれ、6歳で父を亡くす。15歳で元服(成人式)、藩へ出仕を始める。琴を愛し、20代前半で人に教えるほどの腕前になっていた。23歳、尊敬していた藩主池田政香(名君池田光政を師とする)が夭折し、その言説を『止仁録』に記す。1779年(34歳)、中国・明の傑作七弦古琴を手に入れ、その刻印に「清韻玉堂」とあったことから号を「玉堂」とした。 藩内では人徳を買われて36歳にして大目付に抜擢される。ところが、玉堂は加速度的に琴の虜になっていまい、さらに詩書画など趣味の世界に没頭、藩でひんしゅくを買い6年後に大目付を罷免されてしまう(42歳)。一方で、風流人として名を知られるようになり、翌年には画家の司馬江漢が長崎への旅の途中に玉堂亭を訪問している。 44歳、自ら琴の楽曲を作曲した『玉堂琴譜』を出版。45歳、寛政異学の禁。幕府から朱子学以外の学問を禁じる命が下り、武家としての息苦しさがつのる。47歳、妻が他界。寂しさもあって、琴、詩、書画への思いますます強くなり、そして1793年、49歳にして脱藩!玉堂は武士を捨てた(城崎温泉から脱藩届けを出している)。 同年漢詩集『玉堂琴士集』を出版。「玉堂琴士一錢無 只有琴樽兼畫圖」(玉堂琴士には一銭もなく、ただ琴、酒、書、絵があるばかり)と自ら詠んだ。他には「俸餘蓄得許多金 不買青山却買琴 朝坐花前宵月下 哈然彈散是非心」(貯金をたくさんしていたのに、山を買わずに琴を買ってしまった。朝に花を愛で夜は月下に坐し、琴の音で俗世の煩わしさを散らそうぞ)とも。 その後18年間に、会津、江戸、京都、名古屋、大阪、長崎、熊本、水戸、高山、金沢など、琴を友に全国を漂泊。各地の文人らと交流を持つ。1811年(66歳)からは京都に定住。琴や書画に明け暮れる。都には既に文人画家(本職ではない画家)の大御所、与謝蕪村と池大雅が没しており、風流三昧、絵を描きまくった玉堂は文人画の第一人者となった。代表作は川端康成が愛蔵品としていた国宝の『凍雲篩雪(とううんしせつ)図』を始め、『山紅於染(さんこうおせん)図』『煙霞帖(えんかじょう)』など。1820年に75歳で逝去。墓は本能寺の信長墓の近くにある。 それにしても「玉堂琴士酔作(酔って描いた)」と署名された絵の多いこと!玉堂の絵は、自分で描き、自分で鑑賞する為の芸術であり、他人の賛辞や評価を最初から求めていない。彼は絵筆をとる前にまず酒を飲み、酔いが回ると描き始め、醒めれば筆を置きあらためて飲み直し、さらに続きを描くといったことを繰り返して一幅を描きあげた。 現在、玉堂の作品は国宝になっているけど、絵は独学で学び師匠はいない。そして、師がいないがゆえに、筆先は何ものにも捉われず、自由気ままに舞っている。芸術を職業とすることを拒み、「琴士」と号を刻むように、あくまでも琴の人で絵は余技だった(自分で琴を作っていたほど!)。自ら絵を売ることはなく、絵を求めた人がお金ではなくお酒を出せばなお喜んだ。 古来より中国文人は、詩で表現したものを絵でも巧みに表現してきた。玉堂はその先人への憧れから、音楽、詩、書、画のすべてを自分の内に血肉と化した。彼の詩情あふれる山水画は、人、家、木、山が絶妙のバランスで調和しており、200年後の僕たちに時の流れを忘れさせてくれる。 |
1930年元旦、欧州へ向かう箱根丸船上 左から、一平、太郎(19歳)、かの子 |
「芸術は爆発だ!」 |
1999 初巡礼 見れば見るほど楽しい心持になってくる♪ |
2005 再巡礼 |
2010 3度目 墓所のオブジェは1967年に制作した『午後の日』 |
墓域全景。太郎の墓(左端)は両親と向き合ってる (2010) |
母・かの子(奥の観音菩薩)&父・一平(右)の墓 友人がオレンジや赤色の綺麗な花を供えた |
岡本一平の墓には太郎が制作した母 “かの子像”が載っている。背後も宇宙的 |
川端康成が語る岡本家の思い出が、 墓域中央に追悼碑として建つ |
養女・敏子さんが05年4月に 他界。2人の名が並ぶ(2005) |
代表作「太陽の塔」 (1970年制作) |
鳥みたい。よく見ると カッコイイ!! |
「ピカーッ!」 マジで光る!! |
実は背中の不気味な 「黒太陽」が密かな人気 |
2018年の3月から大阪府・万博記念公園の『太陽の塔』の内部が常時公開されることになり、改めて話題を集めている芸術家岡本太郎。太郎は1911年2月26日に神奈川県で生まれた。身長156cm。父は漫画と小説を一体化させた漫画小説で、ストーリー漫画の源流を作り漫画界の先駆者となった漫画家・岡本一平(1886-1948)、母は情熱的な歌人で小説家の岡本かの子(1889-1939)。祖父は北大路魯山人の師匠・書家の岡本可亭。父は風刺漫画で大成功し、夏目漱石にも才能を認められ、「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」とまで言われた。母は愛人の男を夫公認で同居させており風変わりな一家だった(父は自身の放蕩で後ろめたく母に強く言えなかった)。太郎は3歳頃、仕事中の母にまとわりついて“執筆の邪魔”とタンスにくくりつけられたという。慶應の私立小学校に入ったが成績は52人中の52番。
1923年(12歳)、両親は銀座のレストランで初めて川端康成(1899-1972)と会う。当時、一平37歳、かの子34歳、川端24歳。3人は意気投合し親交を持つようになる。 1925年(14歳)、同級生と作った同人誌用にボートレース対抗試合に負けた悔しさを表現した『敗惨の歎き』を描き、これが現存する最古の作品となる。 1929年、18歳で東京芸大に入学したが半年で中退し、父のロンドン軍縮会議取材に同行して渡欧する。このとき、母は愛人の青年2人も同行させた。翌1930年1月にフランスに到着、両親はロンドンに向かったが、太郎は単身パリに残って寄宿舎でフランス語を学び、1932年(21歳)からパリ大学ソルボンヌ校で美学や民族学を学ぶ。同年、両親は帰国することになり太郎は留学を続けるためパリで見送った(母と再会できる日は来なかった)。この年、太郎はパブロ・ピカソの『水差しと果物鉢』に衝撃を受ける。「この様式(抽象画)こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」「自分自身を乗り越え、ピカソを乗り越え、全てを乗り越えなければいけない」。ピカソの先にどう進むか苦悩し、「感動したものに頭を下げちゃだめだ」と自身を叱咤した。そしてシュルレアリスムに活路を見出し、グループ展を開きながら1936年(25歳)に油彩『傷ましき腕』を制作する。同作は詩人アンドレ・ブルトンに讃えられた。同年、自由を抑圧するファシズムの台頭に危機を覚えたフランスの思想家ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)の反ファシズム演説を聞き「素手で魂をひっかかれたように感動した」という。 1939年(28歳)、母かの子が49歳で死去したことを異国の地で聞き慟哭する。かの子は6年前から川端に小説の指導を受けており、3年前に芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』を発表し小説家としても期待されていた。 翌1940年(29歳)、ドイツ軍のフランス侵攻を受け、パリ陥落の直前に10年間滞在したフランスを離れ、最後の引き揚げ船・白山丸で帰国する。翌年、第28回二科展に4点を出品し二科賞を受賞。1942年、31歳で軍に招集され帝国陸軍二等兵として中国に出征。海外暮らしの長い太郎には、日本の敗北が分かっていた。 1945年に34歳で終戦を迎え、捕虜として半年ほど長安の収容所に収監された。東京に戻ると自宅とパリ時代の全作品は空襲で灰になっており、鎌倉の川端康成を頼って川端邸に1ヶ月ほど居候した。 1947年(36歳)、後に秘書・養女となる平野敏子(当時21歳)と出会う。この年、「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と新聞に声明を発表、前衛美術運動の推進者となり、翌1948年に前衛芸術を論じあう「夜の会」を、阿部公房、花田清輝、埴谷雄高、野間宏、椎名麟三らと結成した。同年10月、父・一平が62歳で他界しデスマスクを描く。父の後妻と3人の子供の面倒を太郎がみた。 1951年11月7日(40歳)、東京国立博物館にて縄文火焔土器と衝撃的な出会いをする。「考古学の資料だけを展示してある一隅に何ともいえない、不思議なモノがあった。ものすごい、こちらに迫ってくるような強烈な表現だった。何だろう。縄文時代。それは紀元前何世紀というような先史時代の土器である。驚いた。そんな日本があったのか。いや、これこそ日本なんだ。身体中に血が熱くわきたち、燃え上がる。すると向こうも燃えあがっている。異様なぶつかりあい。これだ!まさに私にとって日本発見であると同時に、自己発見でもあったのだ」(『画文集・挑む』)。 この太郎による美の再発見によって、これまでただの発掘物として語られてきた縄文土器が芸術作品として評価されるようになった。同年、『岡本太郎展』を日本橋三越で開催。 1953年(42歳)、初のテレビ出演。東京国立博物館の「ルオー展」を会場から生中継で解説した。この年は、パリとニューヨークで個展、南仏のピカソのアトリエ訪問、アヴァンギャルド芸術家が結成した国際アート・クラブ日本支部の代表に選出されるなど多忙を極めた。 1954年(43歳)、港区青山に自宅兼アトリエをかまえ活動の拠点とする。同年、著作『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』がベストセラーになる。 1955年(44歳)、原爆と人間を象徴する大作『燃える人』を毎日国際展に出品。 1959年(48歳)、従来の絵画制作に加え、新たに彫刻を始める。60年代に入ってベトナム戦争が始まると、従軍体験から反戦思想を持っていた太郎は米国を強く非難。米政府へ向けてワシントン・ポストに載せた意見広告(1967年4月3日付)に、戦争そのものへの呪いを込めた書体で、大きく「殺すな」と墨で書きつけた。この全面広告の発起人は太郎、松本清張、小松左京、開高健、城山三郎、小田実、桑原武夫、いずみたく、永六輔ら13名。 1969年(58歳)、前年からメキシコにアトリエを構えて制作に取り組んでいた、ホテル「オテル・デ・メヒコ」の巨大壁画『明日の神話』が完成。 1970年(59歳)、大阪で開催された万国博覧会のシンボルとなる高さ80mの『太陽の塔』をデザイン。モチーフは樹木であり、内部のオブジェ「生命の樹」は過去・現在・未来の三層構造となった。博覧会の終了後、『太陽の塔』の保存が決定された。 1972年(61歳)、札幌オリンピックとミュンヘン・オリンピックの公式メダル制作。同年、川端康成が自殺(享年72歳)。 1974(63歳)、パリで刊行された版画集に、カンディンスキー、モンドリアン、アルプと並び収録作家30人の中に選ばれる。同年、NHK放送センター・ロビーのレリーフ壁画『天に舞う』を制作。 1977(66歳)、スペイン国立版画院に日本人で初めてエッチング(銅版画)が収蔵される。 1981年(70歳)、日立マクセルのコマーシャルに出演し、梵鐘を叩きながら「芸術は爆発だ!」と叫んだ言葉が流行語大賞の語録賞に選ばれた。同年、初めてコンピューターで絵を描く。 1984年(73歳)、フランス政府より芸術文化勲章を受章。同賞は5年後に再び受章している。 1986年(75歳)、民放番組で語った「なんだこれは」が流行語になる。 後半生に入っても創作欲は枯れず、既成概念への反逆児としてエネルギッシュに活動した太郎。舞台装置、彫刻、壁画など多岐にわたって創作したが、80歳頃からパーキンソン病を患った。闘病する太郎を養女の敏子が最期まで献身的に支え続けた。1996年1月7日、急性呼吸不全によって84歳で他界。故人の遺志を尊重して葬儀は行われず、かわりにお別れ会「岡本太郎と語る広場」が翌月に開かれた。存命中の最後の作品は佐賀県有田町「歴史と文化の森公園」にある陶作品の『花炎』。 2年後の1998年に青山の住居兼アトリエ跡が『岡本太郎記念館』(館長岡本敏子)として一般公開される。太郎は生前に大半の作品を川崎市に寄贈しており、没後3年目の1999年、『川崎市岡本太郎美術館』が開館した。 2003年、かつて大阪万博の頃に制作され、その後行方不明になっていた縦5.5m、横30mもの巨大壁画『明日の神話』が、敏子の捜索によってメキシコの倉庫で発見される。2005年、敏子は心不全のため79歳で他界。太郎没後20年となる2006年夏、修復が終わった『明日の神話』がお台場で公開され岡本太郎ブームが再燃した。2008年以降、同作は京王井の頭線・渋谷駅連絡通路に設置されている。 2011年、東京国立近代美術館にて『生誕100年 岡本太郎』展開催。 【墓巡礼】 太郎は「作品を一人で独占するなんて不潔だ」と芸術作品を誰かが所有することを否定し、生涯にわたって自作を個人に売ることはなかった。そこに行けば誰でも平等に無料で楽しめる作品を目指し、壁画やストリートのオブジェを制作し続けた。世の中には大富豪の蔵の奥に眠っている美術品も多く、一庶民のアート・ファンとしては太郎の制作姿勢は本当にありがたい。僕は大阪人として『太陽の塔』に子ども時代から親しみを持っていたこともあり、1999年に始めて墓参して以来、7度巡礼している。 岡本太郎の墓は1923年に開園した日本最大の公営霊園、多磨霊園にある。同霊園の面積は128万平方メートル、実に甲子園球場約33個分!与謝野晶子、三島由紀夫、有島武郎、大岡昇平、江戸川乱歩、北原白秋、堀辰雄、向田邦子、長谷川町子、山本五十六、東郷平八郎など、名だたる著名人を含む50万人が眠っている。管理人事務所で案内マップをもらえるが、1日かけても掲載された著名人全員を墓参するのは難しい。その膨大な墓石の中でも特に強烈な存在感を放っているのが岡本太郎と両親の墓所だ。墓マイラーに愛される墓ランキングあれば、間違いなく岡本家の墓はトップ3に入るだろう。 父岡本一平の墓と母かの子の墓は仲良く並び、息子太郎の墓は両親と向き合う形で建っている。かの子は特例で土葬になっているが、これは生前に「死体を焼くのはおかしい」と火葬を嫌がっていたので、一平が多磨霊園と交渉して土葬の許可を得た。一平はかの子のことを聖観音と思っており、彼女が信仰していた観音菩薩像を墓石として置いた。戒名は雪華妙芳大姉と美しい。 一平の墓には七回忌に太郎が笑顔の人物彫刻、陶作品『顔』(太郎の『かの子像』が原型)を墓碑として設置した。 太郎本人の墓には一周忌に可愛い『午後の日』が太郎の墓碑として建てられた。同作は楽しげな子どもに見える。1967年に制作されたもので、この墓碑を鋳造した職人さんによると、『午後の日』を一点モノにするため、鋳型をすぐに破棄したという。 岡本家の墓域中央には、川端康成が太郎の著書『母の手紙』に寄せた序文から、岡本家を聖家族と呼び讃えた文章の碑文が建っている。 「岡本一平、かの子、太郎の一家は、私にはなつかしい家族であるが、また日本では全くたぐい稀な家族であった。私は三人をひとりびとりとして尊敬した以上に、三人を一つの家族として尊敬した。この家族のありように私はしばしば感動し、時には讃仰した。一平氏はかの子氏を聖観音とも見たが、そうするとこの一家は聖家族でもあろうか。あるいはそうであろうと私は思っている。家族というもの、夫婦親子という結びつきの生きようについて考える時、私はいつも必ず岡本一家を一つの手本として、一方に置く。この三人は日本人の家族としてはまことに珍しく、お互いを高く生かし合いながら、お互いが高く生きた。深く豊かに愛し敬い合って、三人がそれぞれ成長した。古い家族制度がこわれ、人々が家での生きように惑っている今日、岡本一家の記録は殊に尊い。この大肯定の泉は世を温めるであろう。」 太郎ファンの方は、是非、多磨霊園16区1種17側3番に眠る岡本ファミリーを墓参して、あの得も言われぬ優しい空気に浸ってほしい。太郎の墓碑は、太郎が両肘をついて両親の墓をニコニコと眺めているようだ。この3人の墓の中心に立つと、何とも言えない温もりに包まれる。唯一無二の癒やしの墓だ。 ●岡本太郎語録 「芸術は太陽のエネルギーだ。無制限にエネルギーを放出する」 「俺は生け贄だ。瞬間瞬間に傷つき、血を噴出しながらも雄々しく生きる。芸術家は生け贄なんだ」 「絵画の石器時代は終わった」 「殺すな」(ベトナム戦争時、米政府へ向けてワシントン・ポストに出した意見広告) 「死は祭りだ」 「(芸術は)うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」(著書『今日の芸術』) 「職業は人間」 「芸術は爆発だ!」 「爆発は今も続いている」 ※戦場カメラマンのロバート・キャパのパートナーで、ドイツ出身のフランスの女性写真家ゲルダ・タロー(1910?1937/本名ゲルタ・ポホリレ)は、キャパと親交のあった太郎の名が持つ東洋的な響きを好んで姓にした。 ※太郎はジミー大西に「君は画家になりなさい」と手紙を送った。 ※養女の敏子を妻としなかったことについて、親交のあった瀬戸内寂聴いわく「太郎さんの遺産相続の際に“妻”では数分の一が太郎の異母きょうだいに行ってしまう。養女になれば100%敏子さんのものになる。太郎さんの遺作品を管理できるのは敏子さんだけ」。 |
2006年夏、巨大壁画『明日の神話』がお台場で公開された 縦5.5m、横は実に30m!(その後、渋谷駅に展示) |
人間の内部エネルギーは原爆 を越えて人を立ち上がらせる |
壁画の正面には、秘書として生涯太郎を支え 続けた養女・岡本敏子と太郎の大きな写真 |
長く行方不明になっていた『明日の神話』。そこに描かれているのは原爆が炸裂した瞬間だ。太郎は“キノコ雲を見ていなくても、ヤケドをしなくても、我々全てが被爆者なのだ”という。そして同時に“人間の内部エネルギーは原爆を越えて人を立ち上がらせる”と確信していた。僕はこの壁画から、全てを焼き尽くす巨大な負の力に対し、巨大なエネルギーで復活しなければならない、そんなメッセージを受け取った。 「世の中を見ろ。至る所で血を流して戦っている。憎しみ、紛争、内戦、宗教の対立。不幸は至る所にある。人間であるということは、その痛みを感じることだ。そういう悩み、痛みを心の底に抱いて、その上で笑うんだ。もし、世界が変えられないなら、変える事の出来るものがある。それは自分自身である。たとえ自分の存在はささやかであっても、生きる喜びは宇宙を覆う。いま、もし多くの者が誠実に勇気を持って、そして平気で己を変えていったならば、私はこの絶望的と思われている世界の状況、非人間的なシステムも、変え得ると思うのだ。でなければ、なんで人類が生きてきた?そしてこれから、生きていく意味があるのだろうか?」(太郎) |
2001 | 2006 | 2010 温かな陽射しを浴びる |
奇行伝説、数知れず |
西洋樽造図(他の絵師が浮世絵を描いて いた時代にこの油絵を描いた!) |
本名、安藤吉次郎(峻とも)。郷里江戸の芝(現・浜松町)から司馬と称した。江戸の世にあって和漢洋のあらゆるスタイルを描き分けた唯一の絵師で、そのパワーの源が強烈な功名心という非常に人間臭い人物。江漢はまず18歳の頃に人気浮世絵師・鈴木春信の門下生となり、鈴木春重を名乗った。師匠の美人画があまりに売れるので、師の死後に偽作を描いて販売、誰にもバレなかったことを後年自慢している。
その後、江漢は20歳年上の平賀源内と鉱脈を探して山歩きをするなど親交を厚く結び、海外事情に詳しい源内の影響から西洋画を勉強し始める。そして1783年(36歳)、日本で初めて銅版画(エッチング)を完成させ、あの北斎を感嘆させる。江漢はさらに「和漢の画法では決して真を描くことはできない」「大気まで写実的に正確に描くには油絵」との信念から油彩画に進んだ。知識欲の塊だった江漢は、画業以外でも天文学や地理学など自然科学に精通し、銅版の世界地図を刊行したり、著作で地動説を世に広めるなど先駆的な業績を残した。この他にも補聴器や西洋茶臼(コーヒー豆挽き器)を発明するなど、彼は江戸っ子の度肝を抜き続けた。
江漢はわざと自身の年齢を9歳加算して偽るなど様々な奇行話があるが、最も有名なものは“ニセ死亡通知書”事件。江漢は死の5年前に、「病で死にけり」と、辞世の言葉や画像入りの死亡通知書を友人たちに配ったのだ。理由は三つあった--1.聞きかじりの西洋知識でハッタリを混ぜながら著作物を出版することもあった江漢は、真面目な蘭学者たちから反感を買い「高慢嘘八」と非難され煩わしかった、2.親族との金銭上のトラブルを抱え込んでいた、3.何より死後の自分への評価を知りたかった。これらを一気に清算、あるいは解決できたのが“ニセ死亡通知”だったのだ。通知後、ある人が通りで後ろ姿を見かけ“江漢さん”と呼び止めると江漢が走って逃げ出すので、思わず確認のために追いかけると、江漢は振り返って「死人は語らず」と激怒し、そのまま走り去ったという。
晩年「人間の起こりは天地より湧き出たる虫なり」と悟りを得た江漢は、生前のうちに慈眼寺に塔婆を建て同墓に眠った。墓碑は戦災で2つに割れて転がったといい、死後も波乱万丈な江漢である。
|
玉堂ほどこの国の自然を 美しく描ける画家はいない |
『深林宿雪』 1936年(63歳) 雪に埋もれた雑木林の中で、炭焼き老人が小屋の周りの雪を掻いている。 林の奥の方まで静まりかえり、空気が凍てついているのがよく伝わる |
2001 | 2010 | “未熟”を理由に死ぬまで個展を開かなかった |
風景画の巨匠。本名芳三郎。愛知県出身。14歳の時に京都に出て絵を志す。22歳、狩野派の橋本雅邦の「竜虎図」に感銘を受け、上京して雅邦に入門。34歳、東京府勧業博覧会に『二日月』を出品、1等賞を受賞。42歳、東京芸大教授に就任し、翌年重文指定を受ける『行く春』を描く。1940年(67歳)、代表作『彩雨』を完成、文化勲章を受章。81歳、『月天心』を出品。心臓喘息のため83歳で逝去する。晩年は奥多摩の御岳に居を移し、和歌や俳句で自然をうたい、多くの歌集にまとめた。横山大観、竹内栖鳳と共に、近代日本画壇を代表する画家である。
僕は川合玉堂の絵を前にすると、作品の中で思いきり深呼吸がしたくなる。なんて詩情豊かに四季折々の日本の風景を、郷愁と共に描きとめるのだろう。日常生活の喧騒の中で埋もれてしまいがちな自然を愛でる心が、玉堂の描く山里や田園風景に触れるといっきに覚醒する。単純に“癒し”という言葉で表現できないほどの深い共感と安らぎ。心を込めて玉堂の墓前で手を合わせた。
「生きているうちに個展をするのは未熟な自分を披露すること。わたしはまだまだ成長するから、成長が完全に止まってから、つまり死んでからでないと、個展はしない」(川合玉堂) |
天心、大観らと共に、東京芸大を去って日本美術院の創設に参加した観山。自らが信じる芸術を探究し続けた観山のハートは熱い。 墓は残念ながら雑草が伸びすぎてよく見えなかった。ここまでほったらかしにされてる有名画家も珍しい。さすがにもうちょっと手入れした方が…。 ※この墓は「多磨霊園に眠りたい」という観山の遺言によってこの建てられた分骨墓。家の本墓は台東区谷中の安立寺にある。 |
動物画の詩人 | 『宿鴨宿鴉』 | 『錦秋図』 |
2005 四方を生垣に囲まれていた | 2010 隠れ墓チック |
2005 京都画壇の中心人物 | 2010 この時はたくさん花があった | 「竹内栖鳳先生墓」と刻まれた墓地内の道標 |
近代日本画の先駆者で第1回文化勲章受章者。日本画に西洋の写実画法を果敢に取り入れ日本画を進化させた。“動物を描けばその匂いまで描く”と称えられる。本名竹内恒吉。京都出身。1881年(17歳)に四条派の幸野楳嶺(ばいれい)の弟子となり初めは棲鳳と号した。23歳で結婚し絵師として独立。1900年(36歳)、ヨーロッパに渡航してターナーやコローの作品に感動。翌年帰国し、栖鳳と改号する。1907年(43歳)に創設された文展では、第1回から審査委員を務めた。1909年から15年間、京都市立絵画専門学校(現・京都芸大)の教授に就任。1919年(55歳)に帝国美術院会員となり、1937年(73歳)に横山大観、藤島武二、岡田三郎助と共に文化勲章を受章。4人の中では栖鳳が最年長だ。代表作に「斑猫(はんびょう)」「鯖(さば)」他。後進育成のため画塾「竹杖会」を主宰。弟子は上村松園、小野竹喬、土田麦僊など多数。京都画壇を代表する巨匠。享年77。 円山応挙を敬愛する栖鳳だけあって、洗練された写実力の高さには目を見はるものがある。『秋興』はエメラルドグリーンの池に浮かぶ黄色く枯れた蓮の葉の間を3羽の鴨が泳いでいる絵。『宿鴨宿鴉』は霧深い水辺にうっすらと7羽の鴨と1羽のカラスが見え、とても詩情豊かだ。『雪中噪雀』は6羽の雀が雪の上で遊んでいるかわいい絵。なんだか鳥の絵ばかりを選んでいるが、それぞれ絵のタッチは全然違う。感心しきりだ。 |
「三遊亭円朝像」(1930) | 谷中霊園の入口に眠る(2004) | 人物描写に優れていた (2008) | 「一葉女史の墓」(1902) |
1999 | 2005 | 2010 |
自画像 1914年・23歳 |
「麗子像」 劉生30歳、麗子7歳 |
麗子の写真。カワユイ! |
銀座に生まれる。早くから美術学校で学び19歳で文展に入選するという早熟の天才。21歳、ゴッホやセザンヌといった後期印象派に影響を受けた若手画家によるフュウザン会に参加。武者小路実篤ら白樺派の作家たちとの交流を持ったことから、彼らの個性を強調する創作姿勢に強く共鳴する。片っ端から友人、知人の肖像画を描いたので、その制作熱は「岸田の首狩り」と呼ばれた。その後、デューラーなど北欧ルネサンス絵画に習い、細密な写実表現を追求した。24歳、美術団体「草土社」を結成、同年『道路と土手と塀』を描く。草土社の中心人物として31歳まで活動を続け、大正画壇に名を轟かせた。32歳、関東大震災に罹災し、京都に転居。日本的な油彩表現に画風が変わっていった。1929年、満州旅行からの帰途、肝臓尿毒症に胃潰瘍を併発し山口県徳山で急逝した。享年38歳。愛娘麗子をモデルにした100点にも及ぶという一連の肖像画はつとに有名。 岸田の生きた時代は、日本に初めてゴッホやセザンヌなど後期印象派の作品が伝えられた時代だった。劉生曰く「まったくその時分は只々驚愕の時代だった。絵を見て、ウンウン云って興奮した。涙ぐむほど興奮し合ったものだ。絵もまったく、後期印象派の感化というより、模倣に近いほど変わった。露骨にゴッホ風な描き方をしたものだ」。単にモデルとそっくりな人物画を描くのではなく、対象となった者の内側に宿る心を掘り下げ、精神までカンバスに刻み込んだ劉生。
ただ、申し訳ないが、『麗子像』はやはりどこか怖い。劉生のファンは「よく見ればすごくかわいいぞ」という。確かに毛糸のショールを羽織った有名な作品に関しては最近かわいく思えてきた。しかし100点近くある麗子像の中には、妖怪変化を起こしているようなかなり厳しいものも…。とはいえ、それ以外の静物画、肖像画には傑作が多い。特に30枚も描かれた『自画像』は、劉生のさらけ出された魂が眼前に迫ってきて、えも言われぬ凄味を感じる。
|
2002 | 2008 | 2010 |
『破墨山水図』 | 『秋冬山水図』 |
画聖雪舟禅師終焉地碑。この横の階段を 上ったところに日本水墨画の神が眠っている! |
感無量。ついにやってきた雪舟の墓! 墓石はドッシリと重量感があった |
雪舟の旧墓。てっぺん部分が 新墓の上の石室に入っている |
益田には雪舟ゆかりの地が点在している | 島根には古墳が多く、背後の林の奥に前方後円墳があった | この湧き水を画筆や茶の湯に使ったという |
膝の鼠を見る小坊主時代の雪舟。涙で鼠を描いたという | 雪舟作・医光寺庭園 | 雪舟が火葬された場所に建つ灰塚 |
萬福寺の雪舟像 | 雪舟作・萬福寺庭園 |
室町後期の画僧。現岡山県出身。40歳以前の経歴は殆ど不明だが、10代で上京して相国寺に入り春林周藤に師事した。40歳代半ば頃から「雪舟」の号を用いる。現山口県の大内氏に庇護され、1467年(47歳)、大内氏の遣明船で明を訪れ中国画壇から多くを吸収する。さらに中国の古典絵画も詳しく学び、奇岩や雲水など大陸の自然からもインスピレーションを受けた。帰国後は斬新な構図や筆致で水墨画界に革命を起こし、後世に影響を与える。代表作は「四季山水図」、「山水長巻」(1486)、「破墨山水図」(1495)、「天橋立図」(1502頃)、「慧可断臂(えかだんぴ)図」、「四季花鳥図屏風」など。
|
2つとも歌川一族の墓。多数の弟子を抱え最も成功した浮世絵師 |
台座に大きく「歌川」とある |
現在は3世とされるが墓地の 案内は2世で統一されていた |
本名、角田庄蔵。江戸末期の絵師で、浮世絵師の中で最も作品数が多い。とにかく描きまくった。猫背猪首型の美人画を得意とし、江戸っ子は「豊国にかほ(似顔)、国芳むしや(武者)、広重めいしよ(名所)」と評した。10代半ばで浮世絵界の重鎮、初代豊国に弟子入り。歌川国貞を名乗り、20歳頃から挿絵を描き始め、役者絵や美人画で頭角を現す。1844年(58歳)から2代目豊国を名乗ったが、既に歌川豊重が2代目豊国を襲名していたので、人々は彼を3代目歌川豊国と呼んだ。国貞本人は2代目にこだわっていたが、近年は3代目の方が一般的。国芳と並んで歌川派最多の弟子を擁していた。亀戸の光明寺に眠る。 |
20歳の若さで病死 |
病床から力を振り絞って描いた『子供』。 関根はヴァーミリオン(朱色)を愛した |
二科展で評価された『姉弟』 |
『信仰の悲しみ』(1918)--「真実、孤独の寂しさに何ものかに祈る気持ちになるとき、ああした女が、3人、5人、 私の目の前に現れるのです」。19歳の作品。関根が見た幻覚の絵は、現在重要文化財に指定されている |
重願寺にて | 姉が嫁いだ奥田家の墓に埋葬 | 背後には巨大な観音様 |
大正期の洋画家。福島県出身。9歳で東京に転居。小学校卒業後は、友人の伊東深水の紹介で昼は印刷会社で働き、夜は夜間中学に通った。14歳から日本画を描き始め、すぐに『女の児』が好評を得る。この頃、職場の仲間から西洋美術や西洋思想(ニーチェやワイルドなど)の魅力を知らされ、感化を受け洋画を学び始める。関根は同時期に信州や新潟に無銭旅行に出かけ、旅先で縁あってルネサンス期の画家の画集と出合い、その絵は内面的な深みを増していく。1915年(16歳)、第2回二科展に油彩画『死を思ふ日』が入選。同展ではフランス帰りの安井曽太郎の明るい色彩に魅せられた。19歳、持病の蓄膿症に苦しんでいたところ、作家久米正雄が援助を申し出てくれ手術に踏み切る。術後の経過は思わしくなく、手痛い失恋も体験したことから神経衰弱に陥った。一方、保養先の銚子で描いた『信仰の悲しみ』は、その重厚さ、幻想性、宗教的感動から高く評価され、同年の第5回二科展で樗牛(ちょぎゅう)賞に輝く。『姉弟』『自画像』も賞賛され、画壇の注目を集めた彼は周囲から未来を期待されたが、翌年、肺結核に冒されてしまう。病床でさらに感受性が研ぎ澄まされ、油彩画『子供』『三星(さんせい)』『慰められつつ悩む』など後世に残る名作を描くが、病の進行は止まらず、ついには絵にサインを入れることも出来なくなって20歳2カ月の短い人生を終えた。あまりに短い天才の生涯だった。
|
春信の供養碑はかなり巨大だ (モノリスみたい) |
隣には春信が好んで美人画に 描いた町娘・お仙の供養碑があった ※永井荷風建立 |
本堂手前、左側に墓がある(夕暮れ時の良い時間帯の巡礼となった) | 5大将軍綱吉の時代に、島流しにあった絵師。配流された絵師はなかなかいない |
江戸中期の画家。京都出身で父は医者。15歳頃に江戸へ引っ越し狩野派に絵を学ぶ。江戸っ子の暮らしを軽妙な筆致で描き出した風俗図を得意とする。暁雲(ぎょううん)と号して俳諧に親しみ松尾芭蕉とも交流があり、書道も能くしたことから、一蝶の名声は江戸に轟いたという。話術で人を楽しませるのも好きで遊郭でも人気者だった。1693年(41歳)、羽目を外し過ぎたのか、理由不明だが2ヶ月間入牢する。1698年(46歳)、釣りをしたことが“生類憐みの令”で罰せられ三宅島へ流された(吉原で綱吉の母の縁故者を散財させたことが問題になったとも)。配流になった一蝶は、江戸から絵具を取り寄せ、なおも描きまくった。11年後の1709年(57歳)に綱吉が他界すると、許されて江戸に戻り深川宜雲寺に暮らす。この地で一蝶は自身の絵画世界をさらに掘り下げた。享年72歳。戒名、英受院一蝶日意居士。 |
97歳と非常に長寿だった(2008) | 奥の方なので少し分かり辛いかも(2010) |
洋画家であり詩人。東京生まれ。中川を高く評価する岸田劉生の紹介で、武者小路実篤や志賀直哉といった白樺派の作家達とも深く交流し、戦後は陶芸や書も手がけたことから現代の文人画家と称された。1975年(82歳)、文化勲章を受章。代表作は「箱根駒ケ岳」等。
「生まれて来るのが2度目なら、もう少し上手い生き方も出来たけれど、初めて生まれて来たんだから、そりゃまごつきますよ。向こうでぶつかり、こっちでぶつかり、こぶ作ったり、傷作ったりしてね」(中川一政)
|
鎌倉の古寺に眠る(2009) | 素晴らしい環境!苔も美しい | 「前田青邨・荻江露友之墓」 |
前田青邨の“筆塚” (東慶寺) |
こちらは横浜市の総持寺の墓 五輪塔には何も文字がない(2008) |
代わりに墓前の石柱に 「前田家之墓」とあった |
京都生まれ。1907年、それまでの絵を焼き捨てた上で渡欧。この時、安井はまだ19歳だった。フランスに7年間滞在し、英、伊、スペインにも旅行。1914年(26歳)、欧州で第一次世界大戦が勃発した為に帰国。40代に入って独自の日本的油彩画の様式を確立。1952年(64歳)、文化勲章を受章。肺炎のため67歳で死去。梅原龍三郎と並んで昭和期を代表する洋画家となった。 |
30歳の頃の自画像 | 作品『月』 野十郎は月をこよなく愛した | 『蝋燭』 |
墓地でレンタサイクル!? 広大な霊園なので助かるッ! (この発想はなかった!) |
国内外の様々な墓地を訪れてきたけど、貸し 自転車を見たのは、千葉の市川霊園が初めて! (海外では電気自動車の巡回車が主流) |
世界中の墓地が見習って欲しい!感激して 事務所でお礼を絶叫。※07年まで3台だった。 08年から10台にパワーアップしたとのこと! |
一匹狼でひたすら絵を描き続けた。墓には墓誌もない。 |
唯一の手がかりの 名前すら消えかかっている |
事務所で詳しい地図を貰わなければ 広くて絶対に自力で探し出せない |
貝殻の線香入れ(?)が珍しい ※墓所は8区 |
「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」(野十郎)。 高島野十郎は1890年、ゴッホ自殺の翌月(8日後)に生まれた。久留米市出身。父は酒造業者。東大農学部(水産学科)を首席で卒業した秀才であったが、卒業後に画家へ転進する。在学中、写真のように精密な魚介類の図版を多数制作しており、その過程で絵筆を握る喜びに目覚めたと推測される。野十郎は美術学校に通わず、師ももたず、画壇のどの派にも属さず、すべて独学で学んだ。「世の画壇と全く無縁になる事が小生の研究と精進です」(野十郎)。 同時進行で複数の作品を描くスタイルをとり、雑誌程度の大きさの作品一点に平均2年をかけていた。中には『雨 法隆寺塔』のように完成まで17年を要した作品もある。40代になってから約4年間欧州に留学するが画風は変わらなかった。 老後は千葉の農村に小さなアトリエ(家)を建て、ベッドや椅子など家具を自分で作り、電気も水道もない生活の中で描き続けていた。野十郎にとって孤独は苦ではなく、アトリエを訪ねた友人・川崎浹(早稲田大教授)にこう語った「ここは人っ子一人通らず、私にとっては天国だよ」。 無名の貧乏画家として生涯独身で家庭を築かず、最期は老人ホームで一生を終えた。自然死を理想としていたことから死の直前に「本当は誰もいないところで野たれ死にをしたかった」と涙したという。享年85。画家を志してから他界するまで約60年間をアウトサイダーとして生きた。絵がすべてだった。 「小生の研究はただ自然があるのみです。古今東西の芸術家の後を追い、それらの作品を研究、参考にするのではありません。名画展を見に行くひまと費用があれば、山の雪の中、野の枯草の中に歩きにゆきます」(野十郎)。 |
野十郎の墓(右端)と自転車。ほんっと、大助かりでした! |
「浮世絵元祖」とある | 絵の腕を磨くために身を寄せた興宗寺に眠る | 風化して文字は殆ど判別不能 |
俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師。劇的なタッチとエネルギッシュな表現により、浮世絵の始祖といわれ、生前「浮世又兵衛」と呼ばれていた。有岡城主・荒木村重の末子(孫説あり)で本名は勝以(かつもち)。母は村重の妻・だしとされるが、岩佐姓は乳母のもの。号は道蘊(どううん)。
1歳の時に落城する伊丹城から乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。1587年の北野大茶湯に9歳で参加し、その時の秀吉の思い出を「廻国道之記」に記す。成人後は乳母の岩佐姓を名乗り、信長の子・織田信雄に仕えた。狩野派、海北派、土佐派など各流派の絵を吸収し、独自の様式(画風)を作り上げた風俗画で一世を風靡。 1615年(37歳)、大坂の陣の直後の頃、京都本願寺に勤務していた興宗寺の住職が又兵衛の画才を見抜き、越前北之庄(福井市)に招き、当地で20余年を過ごす。又兵衛は福井藩主・松平忠直(家康の次男結城秀康の長子)のもとで熱心に絵画を学び、御用画家となって次々と作品を描き上げた。 1623年(45歳)、幕府に反抗的な忠直が九州に配流されると次の藩主、弟の忠昌に仕える。 1637年(49歳)、腕が評判となって、三代将軍家光に招かれ、家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられる。江戸で「三十六歌仙図額」「人麿・貫之像」「旧金谷屏風」などを制作した後、1650年に72歳で他界した。遺骨は遺言に従って江戸から福井に送られ、岩佐家の菩提寺、興宗寺に納められた。 又兵衛の特色は、たくましい肉体、極端な動き、豊かな頬と長い顎(あご)など人物表現にある。観る者を圧倒する極彩色の画面、極端に誇張・変形された身体表現を用いて一人一人の個性を巧みに描き分けた。和漢の古典的題材をよくするほか、風俗画にも新風を開いた。 代表作は又兵衛の最高傑作であり国宝の「洛中洛外図屏風(舟木本)」。ほかに仙波東照宮の「三十六歌仙額」(重文)、「豊国祭礼図屏風」(重文)など。「花見遊楽図屏風」では満開の桜の下での楽しいドンチャン騒ぎを描いた。 歌舞伎や文楽の人気演目である「傾城反魂香」の主人公「吃又」こと浮世又兵衛のモデルとされる。 ※没後約250年が経った1886年、川越東照宮の宮司が三十六歌仙額裏の署名に「土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」とあるのを発見、別人とされていた岩佐勝以が「浮世又兵衛」の名で呼ばれていた画人その人であることが判明した。 ※長谷川等伯の養子になった長谷川等哲は又兵衛の子といわれる。 |
『日本武尊』(ヤマトタケル) | 『黄泉比良坂』 | JR久留米駅前にある『海の幸』 |
28歳という若すぎる死 | 故郷の久留米に眠る |
明治期の洋画家。日本神話や聖書、インド神話などを題材にした幻想的で想像力に富んだ作品を描いた。福岡県久留米市の出身。父は旧有馬藩士。17歳の時に画家を目指して単身上京し画塾に入る。1900年(18歳)、東京美術学校(東京芸大)の西洋画科に入学。黒田清輝から指導を受け、卒業の翌年に第8回白馬会展で『神話画稿』が白馬会賞を受賞。1904年(22歳)、画家仲間と千葉県南部の布良(めら)に滞在し、代表作となる『海の幸』を完成。同作品には恋人の福田たねを漁師の中に描き込んだ(1人だけこちらを見ている人物)。油絵で日本神話を描くという斬新な青木のロマン主義絵画は画壇で高く評価されたが、1907年(25歳)に勧業博覧会へ出した『わだつみのいろこの宮』が、自信作にもかかわらず不評となり打ちのめされる。翌年から九州各地を転々と放浪し、失意の中で2年後に肺結核で死去。28歳8ヶ月のあまりにも短すぎる生涯だった。
※洋画家・坂本繁二郎は小学校の同級生。
|
『緑響く』 | 『雲立つ峰』 | 『道』 |
『年暮れる』 | 絶筆となった『夕星』(1999) |
墓前から長野市内(善光寺平)が一望できる。 魁夷は眺望に惚れ込み生前に当地を購入した |
「東山家之墓」。魁夷は何度も この場所を訪ねていたという |
「自然は心の鏡」--自然を心の師とした魁夷らしい言葉が墓前に。 絵筆を収める文箱(ふばこ)型に形作られた黒御影石の石碑だ |
昭和を代表する国民的日本画家。本名、東山新吉。横浜生まれ。子供時代を神戸で送る。1931年(23歳)、現東京芸大日本画科を卒業して号を魁夷とした。25歳からベルリンに2年留学。戦後は千葉県に移り住んだ。1947年(39歳)、第3回日展で「残照」が特選を受賞。1950年(42歳)、代表作のひとつ「道」を制作。1968年(60歳)、皇居新宮殿大壁画として「朝明けの潮」を描き、翌年に文化勲章を受章。1972年(64歳)、「白馬の森」を発表。同年、親しかった川端康成が他界し、魁夷が川端の墓碑名を書く。 1980年(72歳)には唐招提寺御影堂の障壁画「黄山暁雲」を完成させた(制作10年の大作)。絶作は1999年の「夕星」。透明感&清浄感のある風景に内面世界を投影した作品群が多くの人間の心を捉えた。 魁夷は「信州は私の作品を育ててくれた故郷」と言い、作品の大半を長野県と東京国立近代美術館に寄贈。1990年(82歳)、長野県信濃美術館に「東山魁夷館」が増設された。 魁夷は美しい自然が残る長野をこよなく愛していたので、善光寺の北側を登った長野市街を見渡せる大峰山の中腹、花岡平霊園に墓が建てられた。墓所の眼下には善光寺本堂や東山魁夷館が見えた。そして、墓前の石碑には自身が好んで色紙に書いた言葉「自然は心の鏡」を刻んだ。夫人いわく「故人(魁夷)は冬枯れの木立を通して東山魁夷館が望めるこの場所を気に入っていました」。 ※長野市でたまたま乗車したタクシーの年配の運転手さんが、魁夷さんのお墓が花岡平霊園にあることをご存知で、墓前まで連れて行って下さった。あのタクシーに乗っていなければこの墓参はなく、思いがけず魁夷さんに感謝を伝えることが出来て感動。 ※花岡平霊園は善光寺大本願の墓地。魁夷の墓は場所的には霊山寺の駐車場の下にある墓地の真ん中あたり。 |
南国の植物が植えられている一村の供養塔。素晴らしい! | NHK「日曜美術館」の特集で大ブレイク | 奄美大島LOVE! |
春草35歳の傑作『落葉』。長谷川等伯の『松林図屏風』を彷彿させる静寂の世界! |
36歳で夭折した |
『夕の森』(1904年、30歳) |
『夕の森』を拡大。鳥が たくさん飛んでいる! |
柏心寺はJR飯田駅から歩いて行ける | 本堂にあった春草展の割引券 | 墓地には立派な杉の木 |
こんなに短命が惜しい日本画家はいない | 『春草菱田三男治墓』 | 信州の雄大な山に抱かれて |
明治時代に活躍した岡倉天心の門下の日本画家で、6歳年上の横山大観と並ぶ日本画革新の旗手。本名、三男治(みおじ)。長野県の飯田出身。1890年(16歳)、東京美術学校(現・東京芸大)に入学。1895年(21歳)、卒業制作の『寡婦と孤児』が、師の橋本雅邦をして「私にも描けない」と言わしめ、最高得点となった。卒業後は美校の教員となる。1898年(24歳)、敬愛する校長・岡倉天心が画壇保守派と衝突して美校を追われると、春草も行動を共にして日本美術院創立に参加した。1900年(26歳)、従来の日本画の常識を打ち破り、輪郭線を排した画法で描いた作品(「菊慈童」)を第8回絵画共進会に出品。画壇からは「朦朧(もうろう)体」と嘲笑された。
1903年(29歳)、大観とインドを訪れ、翌年には米国や欧州を見て回った。1906年(32歳)、大観や下村観山ら美術院の同志と茨城県五浦(いづら)に都落ちして画業に没頭するが、眼病に冒されて2年後に東京へ戻った。奇跡的に視力が回復し、1909年(35歳)に空気遠近法を駆使した傑作『落葉』(重要文化財)を完成させる。37歳の誕生日の5日前に腎臓疾患で病死した。後年、文化勲章第1号となり栄誉を讃えられた大観は「俺より春草の方がずっと上手い」と語った。
※春草は東京で他界し、故郷の飯田に葬られた。そして東京・中野の大信寺に分骨された。後年、菱田家の墓は東京へ移されたが、春草の墓石は故郷に留まった。 |
代表作 『鮭図』 |
晩年の作品『日本武尊』 |
弟子の原田直次郎 が描いた「高橋由一像」 |
山門の右裏に細い路地があり塀沿いに墓がある | 左は先祖代々の墓。台座前面に「高橋」 | 「喝」とだけ刻まれた由一の墓。カッコイイ! |
日本で最初の本格的な洋画家。佐野藩の江戸藩邸に生まれる。幼少から伝統的な狩野派を学ぶが、20代前半に西欧の石版画と出合い、その迫真性に驚愕。これを機に西洋画へ転向した。1862年(34歳)、幕府の画学局に入所。そして横浜居留地のイギリス人挿絵画家チャールズ・ワーグマンから油彩を学んだ。維新後は画塾・天絵舎を創設し、多数の門弟を指導。1877年頃(49歳)、明治初期の洋画を代表する傑作、超リアルな『鮭図』を描き上げた。 |
圧巻の『雲龍図』(建仁寺) | 海北友松夫妻の墓 | 左隣は明智光秀の重臣・斎藤利三 |
桃山時代の画家。近江出身。浅井長政の重臣、海北綱親の子。2歳で父が戦死し、禅門(東福寺)に入って狩野派の絵を学ぶ。1573年(40歳)、信長の浅井攻めで兄弟が討死したため還俗し、海北家の再興を目指す。力強い画風によって秀吉に才能を認められ、聚楽第に多くの絵を描き、武士よりも絵師として後半生を生きた。1599年(66歳)、建仁寺に全50面という大作の襖絵を描く。妙心寺には金地彩色屏風を残した。1602年(69歳)以降は宮中の注文も受け「浜松図屏風」や「花卉(かき)図屏風」を描いた。
友松は49歳の時に、親友の斎藤利三(明智光秀の重臣)が光秀と共に本能寺で晒し首になっていたのを、真如堂に手厚く葬っている。異説では磔になった利三の遺体を、友松が槍を振り回して奪還したとも伝わる。後年、利三の娘・春日局は、友松の息子・友雪に褒賞を授けた。現在、利三の墓の隣に友松夫妻の墓も並んでいる。
|
是住院の山門前には「富岡家墓所」の石柱が建っていた | 相田みつをの良い言葉! |
「最後の文人画家」と謳われた | 夫人と共に眠っている | 「富岡鉄斎墓所」の立札。奥から2番目が鉄斎夫婦 |
是住院の境内に建つ鉄斎の筆塚 |
“最後の文人画家”。京都生まれ。44歳まで神社の宮司だった。明清画を通して独学で画技を磨いた作品が高く評価されている。中国古典に造詣が深く、非常に博識な儒学者であり、「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」と語っていた。長寿だったこともあり、作品数は一万点以上。座右の銘は「万巻の書を読み、万里の道を往く」。兵庫県宝塚市に「鉄斎美術館」あり。 富岡家の菩提寺である是住(ぜじゅう)院は1984年に四条河原町(大雲院墓地前)から当地へ移転した。 |
『龍馬伝』ではリリー・ フランキーが好演 |
墓地の門に足利家の家紋!等持院は 足利将軍家の菩提寺なんだ |
墓地は等持院の境内ではなく、近所の 立命館大学のキャンパス内にある |
河田家の墓所。墓地を入って右手にある | 中央の右から3番目が小龍の墓。心なしか墓石が左に傾いていた |
土佐藩士の日本画家。通称篤太郎、本名は維鶴(これたず)。小龍は号。幼少から絵を学び、20歳の時に吉田東洋に従って京都に遊学し、狩野永岳の門弟となった。24歳、二条城襖絵修復に参加。1852年(28歳)、アメリカから帰ってきた漁師、中浜万次郎(ジョン万次郎)の取り調べを担当し、海外の発展した科学技術だけなく、国のトップ(大統領)を国民が選挙で選ぶという社会体制に驚愕する。
小龍は1人でも多くの人に万次郎の話を伝えるべく、挿絵を入れて五巻にまとめ藩主に献上した(漂巽紀畧)。本書は江戸の諸大名に大きな話題を呼び、なんと万次郎は幕府直参として取り立てられた。1889年(65歳)、琵琶湖疏水工事記録画を作成。1898年に74歳で他界。 ※坂本龍馬の姉・乙女の夫は藩医であり、小龍の友人だった。小龍は交流のあった龍馬に「貿易を通して異国に追いつくことが日本には大切」と説いたという。 |
本法寺。墓地は道を挟んだ対面に | 1955年に狩野文氏が再建 | 善巧院殿元信法眼日到大居士 |
狩野派繁栄の基礎を築いた室町後期の画家。狩野派の祖・狩野正信の子。狩野永徳は孫。桃山障壁画の基礎を確立し、幕府御用絵師として活躍。号は永仙。俗称、古法眼(こほうげん)。父の水墨画風に濃彩の技法を加えて狩野派の新しい作風を確立。宋・元・明画様式に大和絵(土佐派)の技法を取り入れ、力強い装飾性を手に入れた。遺作に大徳寺大仙院・妙心寺霊雲院の襖絵、清涼寺縁起絵巻。妻は土佐光信の娘・千代と伝わる。 |
洋画家。本名は良三郎。京都の染呉服商の家に生まれ、1903年(15歳)の時に中学を中退して浅井忠に師事。1908年に20歳で渡仏し、翌年ルノワールを訪ね指導を受ける。25歳で帰国し、ルノワール仕込みの自由奔放かつ明るく官能性豊かな色彩表現で注目された。1944年(56歳)、東京美術学校の教授に就任。1952年(64歳)、文化勲章受章。 |
鮮やかな「亦復一楽帖」 | 超巨大な「贈従五位書聖田能村竹田先生之碑」 | 「竹田先生墓」(2014) |
|