世界巡礼烈風伝・44の巻〜『四国巡礼・お遍路編』 ★今度は四国へ 炎天下の西日本遠征から帰還して3週間。アジトに戻った時は、五体のヒューズがとんで全身からプスプスと黒煙が上がっていたが、9月に入ってようやく身体が正常に動くようになった。 本州、北海道、九州の、墓という墓を制覇した僕に残された最後の秘境、そこが四国&淡路島だった。2000年9月2日、僕は有効期限ギリギリの18きっぷのラスト2枚を使って、まず四国へと繰り出した(淡路島は鉄道がないので後回し)。 例の如く、始発で大阪を出発。 10時頃に岡山から瀬戸大橋線に乗り換え、初めて大橋を目の当たりにする。12年前の完成当初はマスコミのフィーバーぶりに肩をすくめていたが、実際に渡ってみると建設費1兆円、全長約10キロはダテじゃなかった。なんせこの鉄橋は入口から出口まで、列車で15分もかかるのだから! 瀬戸内海の小島群を眼下に眺めてると、まるで海の上をかもめになって飛んでいるようだった。しかも車なら通行料5千円のところ、18きっぷでスラスラスイスイスイーッと行けてJR様々だった。 高松から徳島へはガタガタの一両編成で、2時間半かけての移動。平日の昼間とはいえ、四国の環状線ともいえるこの路線にお客が僕一人とは、どうしたことか。運転手と2人きりで、四国東部の無人駅をいくつも見送った(徳島市に近づくとさすがに乗客が増えたけど)。 午後1時、念願の四国の大地を踏みしめた。 ★写楽狂騒曲 せっかく四国に来たのだから手打ちうどんの一杯でも食べたかったが、この日の最終目的地は高知県中村市。中村といえばもう殆ど足摺岬で、徳島から7時間以上かかるのは確実だった。時刻表を見ると、高知行きの列車は30分後。それを乗り過ごすと次は1時間20分も後だ。なんとしても30分で写楽の墓に墓参して再び駅へ戻ってこねばならなかった。 現地の案内図には写楽の眠る東光寺まで徒歩10分とあった。駅を弾丸のように飛び出し猛ダッシュをかけ、見知らぬ土地で道に迷いながらも、必死の形相で何とか8分で到着。 今度は寺墓地にあるたくさんの墓石の中から、どれだけ短時間で写楽を探し出せるかに命運がかかっていたが、寺の入口にちゃんと「写楽はこちら」の矢印看板が出てて、歓喜にむせびながら彼の墓に向かった。----- 「レンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家、それが写楽だ」(ユリウス・クルト、美術研究家) 寛政の改革の真最中、江戸中期の1794年(寛政6)5月。突如として画壇に現れた写楽は、歌麿を頂点とした美人画全盛期の浮世絵界に、28枚の役者絵を同時発売するという殴り込みをかけた。無名の新人にもかかわらず、背景の黒は雲母摺(きらずり)という人物が浮き出て見える豪華な仕様。一度に28枚も発表するには充分な準備期間が必要で、版元の蔦谷重三郎(つたやじゅうざぶろう)は写楽とのタッグに勝負をかけたようだ。 果たして巧みにデフォルメされたダイナミックな役者絵は、江戸っ子に一大写楽ブームを引き起こした。ところが翌年正月を最後に、写楽は忽然と画壇の表舞台から消えてしまう。残された作品は144枚。デビューから約10ヶ月という極めて短い活動期間で、200年近く後世に名を残す画家なんて他に聞いたことがない! 写楽の正体は江戸時代に編纂著述家の斎藤月岑が画家列伝『浮世絵類考』の中で「本名は阿波藩(蜂須賀家)のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛、江戸八丁堀に住む」と書き残している。しかし、この斎藤十郎兵衛が実在していたとする証拠がなかった為に、長年にわたって「正体」をめぐる論議が起こり、30人以上も候補が挙がってきた。梅原猛の歌川豊国説、石ノ森章太郎の歌麿説、版元の蔦屋重三郎説、十返舎一九説、葛飾北斎説、果てはオランダ人画家説まで様々だ。そして1997年、埼玉県・法光寺(築地から移転)でついに斎藤十郎兵衛が葬られた際の過去帳が見つかった!この大発見で写楽をめぐる論争はほぼ決着がついた。 写楽が姿を消した理由は今も不明だが、先の『浮世絵類考』には“歌舞伎役者の似顔があまりにそっくりで、短所までそのまま描いたので役者に嫌われ1、2年で消えた”とある。つまり、モデルを美化して魅力的に描くのがプロの絵師なのに、写楽はそのサービスが出来なかった。むしろ“個性を描く”ことを最優先にしたので、相手の顔の特長を強調(大きい鼻はさらに大きく)した。役者には嫌われたが、これが『写楽は写楽、誰にも似てない』と言われる由縁だ。 写楽の墓は長年の風雨でかなり痛んでおり、石の割れ目にはコンクリートを流し込んで補強してあった(墓石がコンクリ補強されてるのを初めて見た)。そしてさらなる風化を少しでも避ける為に、墓全体に屋根があり守られていた。側には『阿波藩の能役者で余技として浮世絵を描く』と立て札があった。“余技”で世界三大肖像画家に数えられるのはスゴイ! 僕は彼の墓前でファン宣言をしたあと、北斎や広重の墓でもそうしたように、画家の墓の絵をスケッチした。それから“握手してもいいですか”とか言って墓をベタベタ触った…もちろん恍惚としながら。 この間、約10分。 トンボ返りで徳島駅に戻り、発車直前の高知行き各停に滑り込んだ。 さらば写楽、さらば徳島県! (P.S.) 江戸から大正にかけて大量の浮世絵が海外に流出しており(アメリカだけでも4万点)、最近でもボストン美術館の地下倉庫で写楽が発見されている。海外に写楽の重要作品が眠っている可能性は大だ。 --------------------------------------------------------------- 世界巡礼烈風伝・45の巻
『四国巡礼・お遍路編』(その2) ★一路、四国の果てへ 「どりゃ〜!」 汗だくで徳島駅に戻り、高知方面行きの各停に飛び乗った。四国の南端、高知県中村市を目指しての約9時間に渡る大移動の開始だ。高知市まで4時間かかったが、途中で魂を揺さ振る駅名に遭遇した。その名も『大歩危(おおぼけ)』駅。手前に小歩危という駅があったので “これでオオボケの方もあったら愉快なのに” と思っていたら、本当に次の駅がそうだったので興奮して写真を撮りまくった。なんてファンタスティックな名前なんだ!(あとで友人にこのことを話したら、けっこう有名な名所だった) 高知駅では乗り換えの為の待ち時間が小一時間あった。一秒たりともムダにはすまいと観光局で墓情報を調べたら、随筆家の寺田寅彦や土佐勤王党の狂剣士・岡田以蔵、竹市半平太らの墓があった。残念ながら巡礼の時間はなかったので、次回への布石とした。 午後7時頃、高知市をあとにした。最初は車内もそれなりに賑わっていたが、何度か列車を代えるうちにドンドン寂しくなっていった。徳島市で走りまくったおかげで、なんとか最後の乗り換えで中村行きの終電 に間に合った。 この超ローカル線は例によって一両編成、乗客は運転手と僕一人。 “一時間も走るのに客が僕だけでは元が採れんじゃろう…しかし、もし今日僕が旅をしてなかったら、この列車は空気を一時間運ぶことになってたからそれに比べればマシに違いまい” などと、田舎の夜闇を眺めながらつれづれなるままに考えていた。 『走行中は運転手に話しかけないで下さい』 そう書かれた紙が車内に貼ってあり、話す用事はなかったが、こう書かれると無性に小話などしたくなった。 10時半に中村駅に到着すると、外は大雨。野宿できそうな場所がなかったので、初老の駅員さんに安宿の情報や墓地への道のりを尋ねていると、すぐ11時になった。 見知らぬ土地で、深夜で、腹ペコで、ドシャ降りで、一人ぼっち。傘なんてシャレたものはない。探しに来たのは墓石。僕はあまりのロマンチックな状況にクラクラめまいがした。これこそ自己陶酔のエクスタシー! 駅と中心街とはかなり離れており、僕はたちまちズブ濡れになった。かつて16世紀に殉教の快楽に魅了されたイスパニアの狂熱宣教師たちが、わざわざ苦難の多い道を争って取り合った倒錯的法悦感に近いものが、明朝に墓巡礼を目前に控えた僕の全身を包んでいた。 午前0時。ビジネス・ホテルで号沈する。 |
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