世界巡礼烈風伝・46の巻〜『四国巡礼・お遍路編』(その3)

★絞死刑になった思想家・幸徳秋水


幸徳秋水(こうとくしゅうすい)。本名、幸徳伝次郎。
若い読者にとって、これまで烈風伝に登場した全人物中、知名度の低さは1、2を争うのではないだろうか。

1910年5月。明治末期。爆発物取締法でひとりの男が長野県で逮捕された。供述から“恐るべき”計画が明るみになる…それは『天皇暗殺計画』だった。
これを期に、翌日から警察は全国で一斉に社会主義者等の反体制活動家を拘束し、『暗殺計画』の容疑者を26人逮捕した。

傍聴人どころか、証人を一人も立てない“迅速な”密室裁判の結果、12人が死刑、12人が無期懲役、2人が有期懲役となった。当局は求刑から6日後という異例の速さで、“テキパキ”と処刑を実行した。懲役となった者も、なぜかすぐに5人が獄死する。これが、俗に言う「大逆事件」である。
警察はこの事件の首謀者を無政府主義者(アナーキスト)の幸徳秋水だと発表、彼を女手ひとつで育てあげた母は世論に追いつめられて自殺した。死刑になった者の中には、3人の僧侶も含まれていた。

アナーキズムとは何か。当時朝日新聞社の社員だった石川啄木は、自身の死の前年に起きたこの事件について、こう書き残している。

「いわゆる“今度の事”について。政府はアナーキストをテロ信奉の狂信者の如く評しているが、実はアナーキズムはその理論において何ら危険な要素を含んでいない。今の様な物騒な世の中では、アナーキズムを紹介しただけで私自身また無政府主義者であるかのごとき誤解をうけるかもしれないが…もしも世に無政府主義という名を聞いただけで眉をひそめる様な人がいれば、その誤解を指摘せねばなるまい。

無政府主義というのは全ての人間が私欲を克服して、相互扶助の精神で円満なる社会を築き上げ、自分たちを管理する政府機構が不必要となる理想郷への熱烈なる憧憬に過ぎない。
相互扶助の感情を最重視する点は、保守道徳家にとっても縁遠い言葉ではあるまい。世にも憎むべき凶暴なる人間と見られている無政府主義者と、一般教育家及び倫理学者との間に、どれほどの相違もないのである。

一般教育家たちは、現在の生活状態を維持しつつその理想を各人の犠牲的精神の上に現わそうとする。個人主義者は自分一人の生涯にその理想を体現しようとし、社会主義者は現社会がその理想と遠きを見て、原因を社会組織の欠陥に見出しその改革を計ろうとする。そしてかの無政府主義者に至っては、実に、社会組織の改革と人間各自の進歩とを一挙にして成し遂げようとする者なのである。要するに、無政府主義者とは“最も性急なる理想家”であるのだ。」

大逆事件から51年後の1961年。
事件で唯一生き残った人物が再審を請求し、真相究明が行なわれた。この過程で当時の拷問による調書の捏造(ねつぞう)や、ほぼ全員が事件と無関係だったこと、明治政府が裁判所に圧力をかけていたこと等が発覚する。

明治政府はなぜそこまで若干39歳の秋水を恐れたのか。
秋水は1歳の時に父を亡くし、“父なし子”と罵られて育った。それゆえか不当な抑圧に対する反骨心が人一倍強く、8歳で『子供新聞』を作り自らの意見発表の場とし周囲の大人を驚かせた。

16歳で東京に出るも、反政府言動をとった罪で人道思想家・中江兆民らと共に都内から追放される。この時に適用された法規が“保安条例”というもので、これは政府に反対する者の結社、集会、出版の禁止、“危険人物”の東京退去命令など、当時の警視総監さえためらうほどの露骨な法規で、この時は570名が追放された。
西郷や大久保が非業の死を遂げて10年。幕府の圧政と戦って作り上げた明治政府が、今度は人々の自由な言論を弾圧する側にまわる皮肉。

その後秋水は、“新聞記者は正しいと思うことを実行できる無冠の帝王だ”と新聞社に就職。大陸北東部の支配権をめぐってロシアとの関係が悪化し、政界に“ロシア討つべし”の声が高まると、
「多くの生命を奪い、莫大な国家財政を注ぎ込む戦争をやめよ、国民を犠牲にするな」
と、彼は非戦論を展開した。
次第に社の編集方針が開戦に傾いてくると彼は辞職し、平和運動団体の『平民社』を自ら結成。“自由、平等、博愛、平和主義”をスローガンに掲げた。そして彼は『平民新聞』を発行し、日露戦争中も政府の弾圧に屈せず反戦の論陣を張った。

最終的に日本はロシアに勝ったが、22万人の戦傷者を出し(うち6万人が203高地で死亡)、戦費は国家予算の実に7年分を費やす結果となった。
これは戦争の継続がギリギリの状態での勝利だった。
明治政府は傾いた国家財政を元に戻すべく、その財源を朝鮮半島に求め韓国の植民地化を決定する。

大逆事件は日本が韓国を併合する3ヶ月前というタイミングで起きた。これから戦争を推し進めていく上で、かねてから目の上のタンコブだった反戦活動家や天皇制を否定するアナーキストら、朝鮮侵略に反対する者の口を封じ込める為の弾圧だった。
実際、この大量処刑事件を期に国内の反政府運動はほとんどが沈黙したのだった。


★幸徳秋水・パート2

ここに絞首台で無念の露と消えた秋水の、その人物をよく表わす日露戦争時の文章を一部紹介したい。


〜我らはあくまで戦争を非認す〜1904年1月(開戦1ヶ月前)

『“全ての時と所におけるあらゆる罪悪を集めようとも、ただ1ヶ所の戦場で生ずる害悪には及ばない(ヴォルテール)”
“戦争は人間の財産及び身体に関してよりも、人間の道徳に関してさらに大きな害悪をもたらす(エラスムス)”

今こそ戦争防止を絶叫すべき時は来れり!
人類愛の道を示さんが為に、人種の区別、国家構造の違いを問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争の根絶を目指す我らにとって、戦争防止を絶叫すべき時は来れり!

世を見渡せば、ある者は戦勝の虚栄を夢想するが為に、ある者は乗じて私腹を肥やす為に、ある者は好戦の欲心を満足させんが為に、焦燥熱狂し、開戦を叫び、あたかも悪魔の咆哮に似たり。
我らは断固として戦争を非認す。戦争は道徳的に恐るべき罪悪なり、経済的に恐るべき損失なり。社会の正義はこれが為に破壊され、万民の福利はこれが為に蹂躙(じゅうりん)せらる。我らは戦争の防止を絶叫すべく、今月今日の平民新聞第十号の全紙面を挙げてこれを訴える。

ああ愛する同胞よ、その狂熱より醒めよ。
諸君が刻々と堕せんとする罪悪、損失より免がれよ。戦争は一度始まると、その結果の勝敗にかかわらず、後世の者に必ず無限の苦痛と悔恨を与える。

真理の為に、正義の為に、天下万生の福利の為に、今こそ汝の良心に問え!』


〜兵士を送る〜(開戦にあたっての文)

『諸君は今や人を殺さんが為に、また人に殺されんが為に行く。兵士としての諸君は、単に一個の自動機械なり。諸君は思想の自由を有さず、身体の自由を有さぬ。しかし、それは諸君の罪にあらざるなり、英霊となる人生を強制し、自動機械と為せる現社会制度の罪なり。

ああ従軍の兵士、諸君の田畑は荒れ、諸君の老親は独り門にすがり、諸君の妻子は空しく飢えに泣く。しかも諸君は政府の号令で行かざるを得ぬ。
戦地では諸君の職分とする所を尽せ、一個の機械となって動け。しかれどもロシアの兵士もまた人の子なり、人の夫なり、人の父なり、諸君の同胞なる人類なり。これを思うて慎んで彼等に対して暴虐の行あることなかれ。

我らは諸君の子孫をして再びこの惨事に会わさぬ為に、今の悪制度廃止に尽力せん。諸君が彼の地で奮進するが如く、我らもまた悪制度廃止の戦場に向って奮進せん。』


〜“戦争のため”〜(開戦の翌月に)

『嗚呼「戦争のため」という一語は、有力なる麻酔剤かな。ただこれ一語を以て、聴者はその耳を奪われ、視者はその目を奪われ、智者はその智を奪われ、勇者はその勇を失う。
現政府の議会政党は今や「戦争のため」という一語に麻酔して、その常識を棄て、その理性を放逐し、国民を底無しの重税の地獄へ落とし込む。度重なる増税は、これ実に「戦争のため」なるべし。

我らが国家を組織するは何故か、政府を設置するは何故か、そして国家政府を維持せんが為に、その生産した財を税として出し国家政府を支持するのは何故か。他でもない、我らの平和と幸福と進歩とを保続せんが為なり。
換言すれば、国家政府はただ我らの平和、幸福、進歩の為の方法、道具に過ぎず、税は我らの平和、幸福、進歩の未来の為の代価なり。これ極めて簡単明白の事実。古今東西の政治書、財政書の示す内容も、税の目的は所詮これ以上に出づるを許さず、決してこれ以外になし。

政府が我らの為に平和、幸福、進歩を提供せず、かえって我らを圧制し、束縛し、略奪するならば、何の理由でその存在の必要性を認むるか?
税の対価が平和と進歩と幸福ではなく、殺戮、困乏、腐敗であれば、なぜ我らは納税の必要性を認めんとするか?

この戦争は政治家の野心と、軍人の功名心と、狡猾な投機師の懐のみを満たすのみなり。多くの新聞記者がこれに附和雷同し、競って無邪気なる一般国民を煽動せる結果を見よ。将軍の名はとどろけど、国民は惨めに一粒の米にも窮し、国家の武威は四方に輝くも、国民は一枚の衣を得るにも困す。
兵士の遺族は飢餓に泣き、物価は高騰し、労働者は職を失い、俸給を削られ、その一方軍債の購入を強いられ、国庫へ貯蓄を促され、多額の税は細民の血を絞り骨を削りゆく。

国民が真にその不幸と苦痛とを除去せんと欲せば、直ちに不幸と苦痛の由来を除去すべきのみ。由来とは何ぞや、現国家の不良なる制度組織これなり。政治家、投機師、軍人、貴族の政治を変じて、国民の政治となし、「戦争の為」の政治を変じて、平和の為の政治となし、圧制、束縛、略奪の政治を変じて、平和、幸福、進歩の政治となすのみ。涙を飲んで「戦争の為」にその苦痛不幸を忍耐することなし。

ことここに至り、我らは遂に国家という物、政府という物の必要性を疑わざるを得ざるなり!』

…明治政府が異常なまでに秋水たちを敵視した理由は、彼らのこうした言論活動による。
“人間は理性的に思考する力を持つ存在であり政府による支配は必要ない、だから統治機関を否定し、人間の相互扶助と連帯という原理の上に共同社会を実現していこう”〜これがアナーキズムなのだ。
この思想は政府権力にとって危険極まりないものにうつり、発生当初から憎悪と弾圧の対象となってきた。現在、『アナーキズム=危険思想』という公式が出来上がっているのは、政府の努力の成果である。(神や仏に既存政府より重きを置き、社会における相互扶助を重視する点で、キリスト教、仏教なども厳密にはアナーキズムといえる)

最後にもうひとつ。
アナーキストの大杉栄の短い詩が、彼らの思想を非常に分かりやすく表わしているので紹介したい。人間同士の相互不信をテーマにした詩だ。ちなみに大杉は大逆事件の際はたまたま獄中にいたことで皮肉にも一命をとりとめたが、関東大震災直後の混乱に乗じた憲兵隊に、妻や甥もろとも連行され、その夜のうちに3人とも虐殺された。
…大杉も秋水と同じく39歳で散った。

『社会か監獄か』

 お互いに
 君と僕は恐れている。

 お互いに
 君は僕に対して、僕は君に対して、
 自分を保護するために、
 ここに社会という組織を作った。

 君は僕の敵だ。
 僕は君の敵だ。

 君は僕がやるに違いないと思い、
 僕は君がやるに違いないと思う
 あらゆる悪意と暴行に対して、
 民法や刑法の幾千箇条を定めた。

 これが
 君と僕の社会だ。
 君と僕の監獄だ。


★幸徳秋水・パート3

当時の文壇や知識層にとって、大逆事件はヘタに触れると自分の身を危うくさせる腫れモノであり、この事件を話題にすること自体タブー視されていた。
だが前々号の啄木といい反応が皆無だったわけではない。なかでも当時一高(現東大)の教壇に立っていた徳富蘆花が、芥川をはじめ学生たちに向かって謀叛(むほん)論なる熱弁をふるったのは有名な話だ。


《謀叛論…12人の処刑に》(一高における講演から/カジポン編)

『僕は武蔵野の片隅に住んで居る。東京へ出るたびに、必ず世田ケ谷を通る。僕の家から少し歩くと、豪徳寺(井伊直弼の墓で名高い寺)がある。そこからもう少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見え、その上に吉田松陰の墓を擁する松陰神社がある。

井伊と吉田、50年前には互いに不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、今度は桜田の雪を紅に染めて井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷ひとつのさし向いで安らかに眠っている。

今日の我らが見れば、松陰はもとより混じりけ無しの純粋な志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、50年後の今日から歴史の背景に照して見れば、つまるところ今日の日本を造り出さんが為に、反対の方向から相槌(あいづち)を打ったに過ぎない。
彼等は各々その位置に立ち自信にたって、出来るだけの事を存分に行なって土に入り、その墓の近所で明治の今日に生きる百姓らは、さりげなく、かつ、悠々と麦などを作っている。

諸君、明治に生れた我々は5、60年前の窮屈千万な社会を知らない。この小さな日本を260個の藩に分け、ちょっと隣りへ行くにも関所があったり、税を払ったり、人間と人間の間には階級があり、法度(はっと)でしばって、習慣で固めて、新しいものは皆禁制、新しい事をする者は誰もが謀叛人であった時代を想像してみよ。たまったものではないではないか。
幸いにして世界を流れる大潮流に合した維新の革命は、一挙に全藩を掃討し、日本を挙げて統一国家とした。

社会が旧習をかなぐり落して天地に素裸で立つ時、その雄大光明な心地は実に何とも言えぬのである。明治初年の日本は実に初々しく、着ぶくれていた着物を一枚ぬぎ、二枚ぬぎ、素裸になって行く意気は凄まじいものだった。
藩主が領地を投げ出す、武士が両刀を投げ出す、百姓が平民になる、自由平等革新の空気が充満し、日本はまるでタケノコの様にずんずん伸びて行く。
インスピレーションの高みに達したといおうか、狂気といおうか(狂気でも良い)、我らには未曾有(みぞう)の活力があった。

誰がその潮流を導いたか。
先見の目を持った志士たちである。新思想を導いた蘭学者にせよ、局面打破を事とした勤王攘夷の浪士にせよ、時の権力から言えば謀叛人であった。
彼らは語り尽くせぬほどの艱難辛苦(かんなんしんく)を味わっており、明治の今日に生を送る我らは、十分に彼らの苦心を酌んで感謝しなければならない。

日本も早や明治となって半世紀、維新の立役者の多くは墓になり、当時の青二才も、分別臭い老人になった。彼らは老いた。
日本も成長した。随分大人になった。明治の初年から狂気の如く駆け足で来たこの国も、何時の間にか足もとを見て歩く様になり、回顧もする様になり、内政の決まりごとも整理され、2度の戦争に領土は広がり、新日本の統一はここに一段落を画した観がある。志士の苦心もいささか報いられたと言わなければならない。
ならば新日本史はここに完結を告げたか。次なる局面回転の必要はないか。もう志士の必要はないか。とんでもないことである!

五十余年前、徳川300年の封建社会を討って一丸とした世界の大潮流は、今なお増幅して流れている。それは人類がひとつにならんとする傾向である。世界同胞の理想を実現せんとする人類の心である。
今日の世界はある意味に於て5、60年前の徳川の日本である。どの国も陸海軍を並べ、境界に税関を置き、兄弟どころか敵味方、右で握手して左でポケットのピストルを握る時代である。窮屈と思い馬鹿らしいと思ったら実に片時もたまらぬ時代ではないか。

いつかは全世界で、明治初年に我らが皆感激の高みに上り狂気の如く自己を投げ打った様に、国王はその王冠を投げ出し、富豪はその金庫を投げ出し、兵士はその剣を投げ出し、智愚強弱一切の差別を忘れて、青天白日の下に抱擁し合い、握手する瞬間が来るであろう。
これは夢であろうか。否、その時は必ず来る、着々として来つつある。我らの良心がそうささやくのだ。

しかしながら、その実現には人知れず働く犠牲の数が要るのも事実だ。犠牲、実に多くの犠牲を要する。日露の握手までに幾万の血が流れたか。
彼らは犠牲である。しかし犠牲の種類はひとつではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犠牲もある。新式の吉田松陰は来るに違いない。僕はいつもそんな風に思って世田ケ谷を過ぎていた。そう思っていたが、この明治44年の冒頭(1月)において、我々は12名の謀叛人を殺すことになった。つい一週間前の事である。

諸君、僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である。僕は臆病者で血を流すのは嫌である。幸徳君らに本当に大逆を行なう意志があったか無かったか僕は知らない。今度のことは嘘から出た真で、はずみにのせられ、足もとを見るいとまもなく落とし穴に落ちたのかどうか僕は知らない。
舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死物狂になって、天皇陛下と無理心中を企てたのか否か、僕は知らない。法律の眼から見て、死刑になった12名がことごとく死罪に値したか、そうでなかったかを僕は知らない。

大審院の判決通りに真に大逆の企てがあったとすれば、僕は心底残念に思う。暴力は感心が出来ない。しかし大逆の失敗を喜ぶと同時に、彼ら12名も殺したくはなかった。生かして置きたかった。
彼等は逆賊の名を受けてもただの賊ではない、志士である。自由平等の新天地を夢み、身を捧げて人類の為に尽さんとする志士である。其行為は狂気に近いとも、その志しは憐れむべきではないか。

彼らは、もとは社会主義者であった。富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産手段の共有を主張した社会主義の何が恐い?こんな思想は今や世界のどこにでもある。
ところが狭量にして神経質な政府は、社会主義者が日露戦争に非戦論を唱えると突然圧迫を強くし、政府と社会主義者は犬猿の間となってしまった。

諸君、最良の帽子は頭に乗っていることを忘れる様な帽子である。最良の政府は存在を忘れられる様な政府である。帽子はあまり頭を押付けてはいけない。我らの政府は重いか軽いか分らぬが、幸徳君らの頭にはひどく重く感ぜられて、とうとう彼らは無政府主義者になってしまった。無政府主義が何が恐い?それほど無政府主義が恐いなら、事態が大きくならぬ内に、総理大臣なり内務大臣なりが自ら幸徳と会見して、ヒザを交えて熱論すればいいではないか。

しかし当局者は得意のタコの様に長い手足で、じいとからんで彼らを締め付ける。彼らは今や堪え兼ねて鼠は虎に変じた。彼らのある者はもはや最後の手段に訴える外ないと覚悟して、危険な企てがふらふらと浮いて来た。短気がいけなかった。ヤケがいけなかった。今ひとつの辛抱が足らなかった。しかし、誰が彼らをヤケにならしめたか。

法律の眼から逆賊と見ても、天の眼からは彼らは乱臣でも逆賊でもない、志士である。その企ては失敗して、彼らは捕らえられ、裁かれ、12名は絞首台の露と消えた。

12人の中には、3人の僧侶もいた。
出家僧侶宗教家などには、一人位は彼らの命乞いをする者があって良いではないか。しかるに末寺から逆徒が出たと云っては大狼狽で破門したり僧籍を剥いだり、「恐れ入りたまわる」と陛下に上申しても、「御慈悲」と一句書いたものが無い。
何という情ないことか。
12名…諸君、今一人、土佐で自殺した幸徳の母君あるを忘れてはならぬ。

天皇陛下は日本男児の標本たる御方である。
もし陛下の側近に忠義の臣があって、陛下の赤子に差異は無い、何卒24名の罪の浅きも深きも一同に御許し下されて、反省悔悟の機会を御与え下されましと、身をもって懇願する者があったならば、陛下も御頷きになって、我らは12名の革命家の墓を建てずに済んだであろう。


もし、せめて山岡鉄舟が居たならば…鉄舟は忠勇無双の男、陛下が御若い時、英気にまかせやたらに臣下を投げ飛ばし遊ばすのを憂いて、ある時いやというほど陛下を投げつけ手剛(てごわ)い意見を申上げたこともあった。
もし木戸松菊が居たらば…明治初年、木戸は陛下の御前で面を正して陛下に向い、今後の日本は従来の日本と同じからず、既に外国には君主を廃して共和政治をしきたる国も候、よくよく御注意遊ばさるべくと凛(りん)として言上し、陛下はゾッとして御容をあらため、その場にいた岩倉以下の官僚たちは皆色を失った。

そしてこの大逆事件の顛末である。
何という醜態であるか。政府ばかりでない、議会をはじめ誰も彼も皆が大逆の名に恐れをなして、一人として陛下に御進言出来なかった。
寛大な陛下なら、親殺しの非望を企てた鬼子にさえ、慈悲の心を持ってお触れになったはず。忠義顔をして米つきバッタの真似をする者はあるが、陛下の人格を敬愛してますます徳に進ませ給う様に願う真の忠臣がいないのか。不忠の嫌疑を冒してまでも陛下を諌(いさ)めたまわり、陛下をして敵を愛し不孝の者を許し給う仁君と願う忠臣がいないのか。

大逆事件の審判中、閣僚、大臣は一人も傍聴に来なかった。最初は捕らえた者24人に死刑判決を下して国民を脅し、その後半数の12名に恩赦を与えてちょっと機嫌を取って、残りの12名は反論も聞かず死刑…否、死刑ではない、暗殺、暗殺である。
せめて死骸になったら一滴の涙位はあっても良いではないか。それにあの執念な追求のしざまはどうだ。死骸の引取り、葬式の参加者にも干渉する。秘密、秘密、何もかも一切秘密に押込めて、死体の解剖すら大学ではさせない。当局は出来ることなら12人の霊魂まで殺してしまいたかったであろう。

そう、彼らは幸徳らの体を殺して無政府主義を殺し得たつもりでいる。しかし幸徳らは死ぬ所か各地で活発に生きている。当局の死後の干渉を見れば分る。
政府は死んだ者も恐ければ、生きた者も恐い。懲役刑となった連中を地方監獄に送る途中の、その警護の大袈裟。始終ピストルを彼らの頭につけるなぞ、その恐がり様もあまりひどいではないか。
幸徳らはさぞ笑っているであろう。何十万の陸軍、何万トンの海軍、幾万の警察力を擁する堂々たる明治政府をもってして、数えるほどもない、しかも手も足も出ぬ者に対する怖(おび)え様も甚だしい。

人間弱味がなければ滅多に恐がるものでない。幸徳ら冥福すべし。政府が君らを締め殺したその前後の慌てざまに、権力階級の器の大小は完全に暴露されてしまった。
その様な事になるのも国政に当る者に、理想もなく、信念もなく、人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、忠言を聞く度量もなく、向上心もなく、傲慢にして甚だしく時勢に遅れたる由縁である。

諸君、我らは決して不公平ではならぬ。だから当局者の苦心も察せねばならない。
地位は人を縛り、歳月は人を老いしむるものである。政界に君臨するのは頭の禿げた政治家である。いわゆる責任ある地位に立って、慎重なる態度をもって国政を執る方々である。老人の胸には、線香花火も爆烈弾の響きがするかも知れない。
天下泰平は無論結構である。共同一致は美徳である。小学校の運動会で小さな手足が揃う事さえ心地好いものである。

しかしながら当局者はよく記憶しなければならない、強制的な一致は自由を殺す、自由を殺すは即ち生命を殺すのである。今度の事件でも彼らは始終皇室の為、国家の為と思ったであろう。当局者は謀叛人を受け容れる度量と、学生に聴く謙遜がなければならぬ。
当局者の中には維新志士の腰について、多少先輩の苦心を知っている人もある筈。幕府にいじめられた苦しみを聞いてきたはずだ。いじめられた嫁が姑になって又嫁をいじめるのか。

吉田に対する井伊になったつもりでいるかも知れない。しかしながら徳川の末年でもあることか、明治44年に12名という陛下の赤子(むろん彼らも陛下の赤子である)をいじめぬいて、謀叛人に仕立て上げ、臆面もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じて責任を負わねばならない。
麻を着て陛下に謝し、国民に謝し、死んだ12名に謝らなければならぬ。

諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見なされて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。
新しいものは常に謀叛である。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられた信条のままに執着し、言わせられる如く言い、決められた通りにふるまい、型から出した人形の生活に安住し、一切の自立自信を失う時、即ちこれ霊魂の死である。

我らは生きねばならぬ。古人は如何なる真理にも停滞するな、停滞すれば墓になると言った。如何に愛着するものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。それは形式だけが残り、内部から生命が去った時である。
幸徳らは変革の為に謀叛して死んだ。死んで、もはや復活した。墓は空虚だ。

繰り返して言う、諸君、我々は生きねばならぬ。生きる為に常に変革し、謀叛しなければならない。自己に対して、また周囲に対して。諸君、幸徳君らは逆賊として絞首台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰が志士としてその動機を疑い得るか?
諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないことは自明の理である。幸徳らも誤って逆賊となった。しかし百年後の世論は必ずこの事件を、この死を悲しむであろう。
これは人格の問題である。諸君、我々は人格を磨くことを怠ってはならぬ!』
(1911年2月)

長くなった。
そしてよく最後まで読んで下さった!
日本の最高学府の教壇でこの講義を行なったことは、生徒の父母を中心に社会的に大問題となり、校長・新渡戸稲造の更迭問題に発展した。
あっぱれ、徳富蘆花!(蘆花の墓は秋水書院と名付けた自分の書斎の側にある)

★幸徳秋水・パート4

翌朝。前夜の豪雨は止み、空は快晴だった。

秋水の墓参をする前に、四国からの帰路を検証した。せっかく香川〜徳島〜高知の順でここまで周って来たのだから、帰路は高知〜愛媛〜香川という具合に四国を一周しようと思った。が、そのルートだと来る時よりも3時間ほど多くかかるのが分かった。
逆算すると、大阪の終電に間に合うためには中村を7時過ぎには発つ必要があり、僕は5時50分というアーリー・モーニングに宿をチェック・アウトした。

そして早朝ダッシュ!
市内中心街の西の外れに、秋水の墓地はあった。墓地の入口にはちゃんと“幸徳秋水の墓”なる看板が出ていた。小さな墓地で、彼の墓はその真ん中近くにあった。
…墓は、真っ直ぐ検察庁の方を見つめて立っていた。

墓前に『幸徳秋水を偲ぶ』と書かれた大きな緑色の木箱があり、中には菓子入れのようなアルミの箱が入っていた。表には“中村市民としてここに墓参に来て頂いたことを心から感謝します”と書いてあった。
フタを開けると中にメッセージ・ノートとペンが入っており、ノートにはたくさんの人が色んな思いを綴っていた。秋水の生きた時代性もあり、やはり年配の方の記帳が多かったようにみえる。

作家・上林暁は秋水を墓参した時の思いをこう語る。

「戦後、私は初めて郷土の幸徳秋水の墓を弔うた。戦争中は訪れることの出来ぬ禁断の墓だった。秋水の墓は裁判所の裏手にあり、山の崖が迫っているので狭い墓地だった。政治家で秋水の親友であった小泉の書いた“幸徳秋水墓”という文字があるだけで、その他に目立つものは何もなかった。ごく普通の小さな墓だった。秋水は反逆者であるから、大きな墓を立てることが許されなかったのである。」

僕は墓前で手を合わせた。
長年会いたいと願いつつ、四国最果ての地でなかなか会えなかったことを思うと、全身が歓喜で打ち震えた。“あの”幸徳秋水に会っている…もう、背中に電気が走りまくりだった。

現世界は残念ながら秋水が目指した“無政府状態”とは正反対の“無政府状態”が大勢を占めてきたが、次世紀こそ、どうかその理想に近づかんことを。

帰路。
四国の南西部にはJRのない区間がある。ここをバスで2時間ほど移動して宇和島駅に着いた。その後は松山でいったん下車して、観光案内所へ僕の知らない墓情報があるか調べに行ったが、ちょうどお昼休みで1時間の休憩に突入してしまい、アウト。

香川県に入って、ローカル駅で乗り換えの一瞬の時間を利用して念願の“讃岐うどん”を食べた。猫舌の僕は電車に乗り遅れないよう、冷やしうどんを注文した。駅のうどん屋なので350円の良心的値段だったが、肝心のお味の方は…これが文句ナシでバツグン!さすが本場!この世のものとは思えぬオイシさだった。
なんというか、うどんを噛んだ時の歯ごたえが三十数年間の人生で初めての食感で、
「これがコシかぁ〜っ!」
と、箸を真っ二つに折らんばかりに握り締め、しばし天井を見つめたまま硬直した。ふた筋の涙が頬をつたった。精算の時に感想を店のオバちゃんに言うと、
「冷やしうどんは邪道。その感想は熱いのを食べた後に言って(笑)」
というクロス・カウンターがきた。ギャフン!

帰りに通過した瀬戸大橋は日没とドンピシャ。
黄金色の瀬戸内海と、もやで空中に浮遊しているように見える島々はまさに絶景だった。確か九州編でもこれと良く似た状況を味わったが、独身三十路失業貧乏墓マイラーには、この“カップルうっとりワールド”がこたえた。ジンワリと骨身にしみた。
おもむろに、地図に載っている鬼ヶ島を目を凝らして探してみたが、あまりに島が多すぎて、これもお手上げだった。

その後はラッシュアワーに巻き込まれてしまった。幾度となく列車を乗り継ぎ、深夜に疲れ果ててカジポン亭に戻る。


(P.S.)
“負け戦”の中で反戦を叫ぶのはある意味容易だが、日露戦争時のように“勝ち戦”の中で秋水が反戦を叫んでたことがスゴイと思う。

(P.S.2)
与謝野晶子が大逆事件による報せを聞いて詠んだ歌
「産屋なるわが枕辺に白く立つ大逆囚の十二の棺」

(P.S.3)
石川啄木の日記から〜

1911年1月18日(死刑宣告当日の日記)
今日ほど予の頭の昂奮していた日はなかった。そうして今日ほど昂奮の後の疲労を感じた日はなかった。二時半過ぎた頃でもあったろうか。「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」「あゝ二十四人!」そういう声が耳に入った。「判決が下ってから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告していた。予はそのまゝ何も考えなかった。たゞすぐ家へ帰って寝たいと思った。それでも定刻に帰った。帰って話をしたら母の眼に涙があった。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考えながら丸谷君を訪ねて十時頃まで話した。夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」と書いてあった。

1月19日
朝に枕の上で国民新聞を読んでいたら俄かに涙が出た。「畜生!駄目だ!」。そういう言葉も我知らず口に出た。“社会主義は到底駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によってのみ得られる、そうして日本は代々社会政策を行っている国である。”と御用記者は書いていた。

1月24日(判決の6日後)
社(新聞社)へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである、あゝ、何という早いことだろう。そう皆が語り合った。  夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。

1月25日
昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載った。内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割った−その事が激しく心を衝いた。咋日十二人共にやられたというのはウソで、管野は今朝やられたのだ。かえりに平出君(特別弁護人)へよって幸徳、管野、大石等の獄中の手紙を借りた。平出君は民権圧迫について大に憤慨していた。


(P.S.3)
〜この項は秋水とは直接関係がないので、時間のある方だけお読み下さい。

宗教と社会主義は相容れないというのが定説だが、大逆事件で処刑された者の中に“仏教と社会主義は根が同じ”と説く僧侶がいた。高木顕明その人である。彼は処刑判決と同時に、真宗大谷派から破門された。
無実と分かり東本願寺から復権が認められたのは、1996年、実に85年後のことであった。

『余にとっての社会主義』(高木顕明)
〜1904年、日露戦争開戦から3ヶ月後に記す。

「釈迦は全ての生物に仏が宿り、いたずらに殺生をしてはならぬと説いた。我ら仏門に生を送る者がどうして今の戦争を認める事が出来よう。私は幸徳君ほど筆が上手くないので、読者から笑い者になるかも知れないが、宗教者として自分の立場をハッキリさせるべき時が来たと確信し、あえて筆をとった。

南無阿弥陀仏は天竺(インド)の言葉であって、真に“み仏”の救済の声である。闇夜の光明である。絶対的平等の保護である。これは官吏にも富豪にも安らぎや慰めを与えるが、弥陀の目的は主として平民である。庶民と呼ばれる人々に幸福と安慰とを与える偉大なる呼び声である。これを人殺しのかけ声にしたという話を聞いて喜んでいる人がいるが、ただ呆れるより他はない。

日本では、最澄でも空海でも、法然でも親鸞でも、一休でも蓮如でも、彼らは最も平民に同情厚い人々であった。私は親鸞が、人々に御同胞、御同行と云ったことから考えて、彼は単に平民に同情厚いというだけでなく、確かに精神的世界の平等生活を成し遂げた社会主義者であろうと考えている。
私はこういった点から、仏教は平民の母であつて貴族の敵であると考える。

極楽世界には、他方の国土を侵害したということを聞かなければ、大義を立ててそのために大戦争を起こしたということも一切聞いたことはない。これによっても、私は非開戦を論ずる者である。戦争は極楽に身をおく者の成すことではないと思っている。

我々は、一部の人物の名誉とか爵位とか勲章とかのために平民が犠牲となる国に生きている。ある投機事業を狙っている少数の人物の利害のために苦しめられねばならぬ社会に生きている。貧者は富豪に獣類のように見られ、飢えに叫ぶ人あり、貧しさのために操を売る女あり、雨に打たれる小児もいる。富豪や官吏はこれを迫害し、これを苦しい労働につかせて自分は何とも思わず快しとしている社会だ。

大勲位侯爵になったからといって、70の歳で17、8才の妙齢の娘をなぶりものにしていては理想の人物とはいわれないだろう。戦争に勝ったからといっても、兵士の死傷を顧みない将軍ならば我々の前には三文の値打ちもない。華族の屋敷をのぞいたといって小児を殴った輩などは実に不埒千万(ふらちせんばん)ではないか。

我々はこのような大勲位とか将軍とか華族とかいう者に成りたいという望みはない。このような者になるために働くのではない。ただひたすらに労働によって実行しようとするものは、向上進歩とお互いが力を合わせて築き上げる共同生活である。生産のために労働し、徳の道の為に修養するのである。
それなのに何であるのか。戦勝を神仏に祈祷する宗教者があると聞いては嘆かずにはおれない。

こうしてみると、我が国には宗教ということも南無阿弥陀仏ということもお分かりになった人が少ないようである。

諸君よ、願わくは我らと共にこの南無阿弥陀仏を唱えて、今しばらく戦勝をもてあそび万歳を叫ぶことをやめよ。なぜならばこの南無阿弥陀仏は平等の救済をしたまう声なのだから。
諸君よ、願わくは我らと共にこの南無阿弥陀仏を唱えて貴族根性を去って平民を軽蔑することをやめよ。なぜならばこの南無阿弥陀仏は平民に同情の声なのだから。
諸君よ、願わくは我らと共にこの南無阿弥陀仏を唱えて生存競争の念を離れて共同生活のために奮励せよ。なぜならばこの南無阿弥陀仏を唱えるのは極楽の仲間なのだから。

この様に、念仏の延長線上で“み仏”の教えを精神的なものから更に進ませ、社会制度を平等社会へ向けて根本的に一変する、というのが私が確信したところの社会主義である。単に経済構造が変わるだけの社会主義ではだめなのだ。精神的にも変わらねば!」


      

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