詩人の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

詩人コーナー

36名

アポリネールの墓
ヴェルレーヌの墓
T・S・エリオットの墓
キーツの墓
コクトーの墓
シェリーの墓
タゴールの墓
ジョン・ダンの墓
ダンテの墓
ネルーダの墓
ハイネの墓
バイロンの墓
プーシキンの墓
※未巡礼
アンドレ・ブルトンの墓

ホイットマンの墓
ボードレールの墓

マヤコフスキーの墓

ランボーの墓
リルケの墓
ガルシア・ロルカの墓
相田みつをの墓
茨木のり子の墓
金子みすゞの墓
金子光晴の墓
北原白秋の墓

北村透谷の墓
栗原貞子の墓
西條八十の墓
サトウハチローの墓
清水かつらの墓
高村光太郎の墓(&智恵子)
立原道造の墓
田村隆一の墓
中原中也の墓
野口雨情の墓
萩原朔太郎の墓
堀口大学の墓

三好達治の墓
室生犀星の墓




★ボードレール/Charles Baudelaire 1821.4.9-1867.8.31 (パリ、モンパルナス 46歳)1989&02&09
Cimetiere de Montparnasse, Paris, France





1989
花瓶の代わりのボロボロのペット
ボトルが寂しげに立っていた
2002
墓前はとても賑やかになっていた!
良かったね、ボードレール!
2009
若い女性たちが墓前で彼の詩を朗読中!
他界から140年経ってもモッテモテ!

「ボードレールは新しい戦慄を創造する」(ヴィクトル・ユゴー)
「ダンディズムとは退廃の世における英雄性の最後の輝きである」(ボードレール)

パリの“良心的知識人”階層を震え上がらせた、反モラル・アウトロー詩人ボードレール。詩集『悪の華』は刊行当時、“公共の道徳に反する”理由で発禁処分を受けた。
だが反社会的詩人というそのスキャンダラスな一面のみで彼は語れない。詩集と向きあったとき、その絶望の奥底に崇高な良心を見出すことができる。

「虐げられる奴隷となって、時間の手中に堕ちざる為に、恐るべき時間の重荷から逃れる為に、絶えず汝を酔わしめてあれ!酒によって、詩によって、徳によって、恋によって、とにかく汝の好むがままに!」(『巴里の憂鬱』)
「永久の快楽と苦悩の歌い手よ、哲学者よ、詩人よ、芸術家よ、不朽の名に於いて、私は御身に敬礼する!」(『巴里の憂鬱』)

 

★中原 中也/Tyuya Nakahara 1907.4.29-1937.10.22 (山口県、山口市、経塚墓地 30歳)2000

  

中也の墓は夏の朝陽でぬくもっていた。“中原家累代之墓”と刻まれた文字は中也の自筆。


中也と親しかった小林秀雄は言う「中原は詩人というよりむしろ告白者だった」と。1907年4月29日、山口県湯田温泉に生まれる。父は陸軍軍医。旧姓は柏村。中原家はかつて吉敷毛利家の家臣だった。2歳で広島、5歳で金沢へ転居し、7歳のときに山口に戻った。1915年(8歳)、弟が病死し、その死を悼み、中也は初めて詩を書く。10歳、父は軍の一線から離れて予備役となり、病院(中原医院)を経営。
文学への目覚めは早く、1920年に13歳で短歌が新聞に掲載され、15歳の時には友人と歌集を出していた。ところが文学以外の学業はからっきしで、落第を機に翌年16歳で京都に転校する。当地で高橋新吉の前衛詩に感化され、既成の権威・芸術を否定するダダイスムに傾倒。3つ年上の小劇団の女優・長谷川泰子と知り合い、17歳になると同棲生活に入った。
1925年18歳の春、大学受験を目指し長谷川と東京へ移り、そこで5歳年上の仏文科学生・小林秀雄(後の文芸評論家)と知り合う。小林を通してランボーやヴェルレーヌといったフランス象徴詩に出合い、詩風はダダからフランス象徴派へと影響を受けていく。小林との親交は一層深まったが、上京から8カ月後の11月、中也は長谷川を小林にとられてしまう(否、とられたという言葉は不適切。より魅力的だった小林に長谷川が走ったという方が正確)。中也は長谷川の荷造りを手伝い、小林の家まで一緒に運ぶ。3人の話し合いの結果、奇妙な三角関係がしばらく続いたが、どうあがいても長谷川を取り戻せぬと自覚した中也は、小林に絶交宣言を叩き付けた(3年後、小林は長谷川に結婚を迫られ京都へ逃亡。5年後に長谷川が演出家・山川幸世の子を産んだ際に、中也は長谷川から名付け親を頼まれ茂樹と命名しており、両者には友情が続いていた)。

1929年(21歳)、中也は大岡昇平、河上徹太郎らと同人誌「白痴群」を創刊、精力的に作品を発表していく。1931年(24歳)東京外国語学校(現東京外大)の仏語部に入学(33年卒業)。“破れかぶれの悲しみ”をいつも首から引っさげていた中也は、次第に自暴自棄の傾向を強めていく。酒場で隣りの客の愚鈍に耐えられないで、いきなり喧嘩を吹っかけては体の弱い中也がいつもひどい目にあった(評論家・青山二郎談)。渋谷で酔って店のガラスを壊し、29日間留置場へブチ込まれたり、議員の家の玄関を破壊して逮捕されたことも。

この頃の詩を3編。

〜汚れつちまった悲しみに〜

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

〜帰郷〜

柱も庭も乾いている
今日は好(よ)い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が
心細さうに揺れている

山では枯木も息を吐(つ)く
あゝ今日は好い天気だ
路傍(みちばた)の草影が
あどけない愁みをする

これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
心置きなく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする

あゝ おまえはなにをして来たのだと…
吹き来る風が私に云ふ

〜寒い夜の自画像3〜

神よ私をお憐(あわ)れみ下さい!

私は弱いので、
悲しみに出遇(であ)うごとに自分が支えきれずに、
生活を言葉に換えてしまいます。
そして堅くなりすぎるか
自堕落になりすぎるかしなければ、
自分を保つすべがないような破目(はめ)になります。

神よ私をお憐れみ下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たして下さい。
ああ神よ、私が先(ま)ず、自分自身であれるよう
日光と仕事とをお与え下さい!

そんな中也が“軌道修正”するきっかけとなったのが、1933年、26歳の時の結婚(夫人は遠縁の上野孝子)と、翌1934年(27歳)の長男・文也の誕生だった。生活は貧しかったが、中也は生まれて初めて精神の充足と安定感を味わい、年末には自費で第1詩集『山羊の歌』を出版した。その後、「四季」「文学界」に作品を発表する一方で、『ランボオ詩集』(1937)を刊行するなど仏詩人の紹介にも努めた。

空気が少し変わった28歳頃の詩。

〜曇った秋〜

猫が鳴いていた みんなが寝静まると
隣りの空地で そこの暗がりで
実に緊密でゆったりと細い声で
闇の中で鳴いていた

あのようにゆったりと今宵ひと夜を
鳴いて明かそうというのであれば
さぞや緊密な心を抱いて
猫は生存しているのであろう

あのように悲しげに憧れに満ちて
今宵ああして鳴いているのであれば
何だか私の生きているということも
まんざら無意味ではなさそうに思える

猫は空地の雑草の蔭で
たぶん石ころを足に感じ
その冷たさを足に感じ
霧の降る夜を鳴いていた

〜骨〜

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きていた時の苦労にみちた
あのけがらわしい肉を破って、
しらじらと雨に洗われ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。

それは光沢もない、
ただいたずらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分(いくぶん)空を反映する。

生きていた時に、
これが食堂の雑踏(ざっとう)の中に、
坐(すわ)っていたこともある、
みつばのおしたしを食ったこともある、
と思えばなんとも可笑(おか)しい。

ホラホラ、これが僕の骨――
見ているのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残って、
また骨の処(ところ)にやって来て、
見ているのかしら?

故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半(なか)ばは枯れた草に立って、
見ているのは、――僕?
恰度(ちょうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがっている。

詩壇では徐々に名声が高まっていったが、1936年(29歳)11月、まだ2歳の文也が病で死んでしまう。間もなく次男・愛雅(よしまさ)が生まれたものの、愛児を失った中也は悲嘆のあまり精神的に異常をきたし、翌1937年1月、極度の神経衰弱から千葉の脳病院に入院する。彼いわく『何もする気が起こらない“悲しみ呆け”の状態』だった。
翌月、鎌倉へ転院した後も心身の疲労は続く。9月に『在りし日の歌』原稿を清書し、絶縁していた小林秀雄に託す。中也は故郷山口に帰ろうと心に決めるが、思いを果たすことなく10月22日に結核性の急性脳膜炎により30歳で夭折した。戒名は「放光院賢空文心居士」。墓所は山口市吉敷。短い生涯に350篇以上もの詩を残した。中也他界の3カ月後、後を追うように次男の愛雅が1歳で病死した。
中也逝去の翌春、小林は亡き友との約束を果たすべく、第2詩集『在りし日の歌』を刊行した。
この詩集には愛児へのレクイエム「また来ん春」がある。“在りし日”とは、そういうことだ。

〜また来ん春〜

また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が帰って来るぢやない

思えば今年の5月には
お前を抱いて動物園
象を見せても猫(にゃあ)といい
鳥を見せても猫(にゃあ)だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにお前もあの時は
この世の光の只中に
立って眺めていたっけか…

〜夏と悲運〜※死の直前(3カ月前)の詩

とど、俺としたことが、笑い出さずにゃいられない。

思えば小学校の頃からだ。
例えば夏休みも近ずこうという暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑い出さずにゃいられなかった。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑(おか)しいというのではない、
起立して、先生の後から歌う生徒等が、可笑しいというのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑うべきものが存在(ある)とは思ってもいなかった。

それなのに、とど、笑い出さずにゃいられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思いをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしようもなかった。
別に邪魔になる程に、大声で笑ったわけでもなかったし、
然(しか)し先生がカンカンになっていることも事実だったし、
先生自身何をそんなに怒るのか知っていぬことも事実だったし、
俺としたって意地やふざけで笑ったわけではなかったのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思うのだった。

大人となった今日でさえ、そうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すっかり自然と游離(ゆうり)しているように感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのこうのと云うのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じているなぞというのでは尚更(なおさら)ない。
しかし俺としたことが、とど、笑い出さずにゃいられない。

どうしてそれがそうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやというほど味わっている。

中也が亡くなったのは、盧溝橋事件、第2次上海事変の直後で、日本が中国と事を構えていく最中だった。小林秀雄はこう追悼した--「彼は一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもから色々な事を言われながらも、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。事変の騒ぎの中で、世間からも文壇からも顧みられず、どこかで鼠でも死ぬ様に死んだ」。そして次の詩を刻んだ…

●死んだ中原(抜粋)
ほのかながら確かに君の屍臭を嗅いではみたが
言うに言われぬ君の額の冷たさに触ってはみたが
とうとう最後の灰のかたまりを箸の先で積んではみたが
この僕に一体何が納得出来ただろう

アア 死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉が言えようか
君に取返しのつかぬ事をしてしまったあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった

アア 死んだ中原
例えばあの赤茶けた雲に乗って行け
何の不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば

●墓巡礼記
2000年の夏。格安の“青春18きっぷ”が使える夜行快速『ムーンライト九州』に始発駅の京都から乗車し、早朝5時に山口・厚狭(アサ)駅で降りた。僕はJR山口線の湯田温泉駅に向かおうとしたが、各停の始発は6時前。しばしベンチにて仮眠。湯田温泉駅は山口駅の手前にあり、7時半に到着した。
駅から少し歩いて、中也の墓があるとガイドブックに書かれていた高田公園に着く。朝といっても陽射しは強烈で、すでに背中はグッショリだった。
「ゲゲッ!」
ガーン、そこにあったのは墓ではなく文学碑だった!
「ぐぬぬ、許さ〜ん!」
僕は憤怒の明王の如くガイドブックを地に叩き付けた。
「ゼーハー、ゼーハー…」
肩で呼吸しつつ、早くも視線は通行人のサーチングに入っていた。嘆いていても始まらないので、とにかく中也の墓の場所を質問しまくった。だが…ダメだった。誰に尋ねても「聞いたことない」という返事。
“そうだ、老舗の旅館ならあるいは…!”
「ああ知っとるよ、今地図を書いてあげますよってね」
と旅館のオカミさんが答えてくれて小躍り。だが、渡された手書きの地図には先ほどの文学碑の場所が書かれてあった…。
最終的に、中原中也記念館まで尋ねに行った。
10時の開館まで待つしかないか…としょんぼりしてたら、記念館の前に墓地の場所を記した看板が!
「おお、市内に墓があるではないか!でもなんか遠そう…」
バス停でその方面の時間を調べたら、次の便は1時間後だった。おそるおそるタクシーの運転手に片道の相場を聞いたら、千円でお釣がくるとのこと。それで中也に会えるのだったら安いもの。“お願いします!”と飛び乗った。
「お客さん、私が運転手であんた良かったよ。同僚でもお墓の場所を知ってるヤツは少ないからねぇ」
そう言って、墓地の近くで僕を降ろしてくれた。畑の中の小さな墓地へと農道が続いていた。
墓の側に小さな説明文があり、墓石に刻まれた字「中原家累代之墓」が中也の自筆であると記していた。墓石は丸みを帯びた大きな自然岩。朝日で温かくなっており、周囲は無人であったため、静かに自然岩を抱きしめた。

※中也が眠る吉敷の経塚墓地はバスでも行ける。JR湯田温泉駅が最寄り駅。湯田温泉通りの6番バス停(JRバス)から「美祢」か「中尾口」行きに乗車し、「吉敷郵便局前」で下車。進行方向へ道沿いに歩くと「中原中也の墓」という看板が出ている。
※1994年(没後57年)、山口市湯田温泉の生家跡地に中原中也記念館が開館。翌々年に中原中也賞を創設された。
※大岡昇平は「富永太郎と中原中也しか、詩人として認めていないのでは?」と問われてこう答えたという「僕だって中原と富永を知る前に、萩原朔太郎にイカれたこともありますし、島崎藤村から高橋新吉に至る有名な詩人は、一応読んだんですけれども、中原を知ったのは十九歳の時で、詩人という人間と付き合ってしまったということですね。それが私の、詩と詩人の見方を、偏ったものにしたという事は認めます」。
※2つ年下だった太宰は中也から「何だおめえは。青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」等とからかわれていたが、中也を尊敬していた。「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ」

  
1965年6月建立
湯田温泉には中也の文学館があり、駅近くの高田公園に詩碑がある。碑には『故郷』の一節
「これが私の古里だ/さやかに風も吹いている/ああ お前は何をして来たのだと/吹き来る風が私にいふ」
が刻まれていた。詩の文字は小林秀雄、碑文の文字は大岡昇平という2人の友人によるもの。

(中原中也の烈風伝へ)



【 リルケをたずねて三千里 】

ライナー・マリア・リルケ/Rainer Maria Rilke 1875.12.4-1926.12.29 (スイス、ラロン 51歳)2002
Rarogne Churchyard, Canton Valais, Switzerland

 
孤独者たちのヒーロー、リルケ!

ドヒーッ!あの絶壁の上(教会)に彼が! 丘ふもとの村内へ突入
写真では分かりにくいけどメチャ急勾配! ずっとこの調子。5分で虫の息に
ゼェゼェ、やっと接近してきた ぐおお、あともう少し!
リ、リ、リルケーッ!我が心の友よ!全ての
孤独者の代弁者よ!
荷物を預かってくれたうえ、タダで売り物のリルケの絵葉書
をくれた、ラロン駅キオスクの女性。あなたは天使だ!

“今日僕は何も格別期待していなかった。僕は自然な至極簡単なことのように元気よく家を出た。だが僕は、また紙くずのようにクチャクチャに揉まれて無慈悲に投げ捨てられてしまったのだ。無残なものだった。あっと思うまもない、ごく容易な、しかし気が狂いそうな激痛を与える無遠慮な仕打ちである”
“僕は人を愛してはならぬと強く心を固めていた。それは「愛される」という恐ろしい地獄へ誰をも突き落とさぬ配慮だった”
“恋に恋している人物にとって、自分の愛に答えられることが一番恐ろしい恐怖なのだ”
“本を開けると絶望者の一群がまるで堰(せき)をきったように、静寂の中にいる僕に襲いかかって来る作品がある”
“地上ではこのような息苦しい紛糾が行われているのに、どこか天上の一画では死者が美しい神の光を受けて輝きながら天使と仲良く身体を持たせ合ってるなどと、どうして想像できよう”
“神という観客の前で、僕はもう演ずることをやめてしまった”〜『マルテの手記』から

“あなたの孤独を愛して下さい。あなたに近い人々が遠く思われる、とあなたは言われますが、それこそあなたの周囲が広くなり始めたことを示すものに他なりません”
“ある事が困難だということは、一層それをなす理由であらねばなりません。愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです”〜『若き詩人への手紙』から

孤独地獄も一線を越えると実は快楽に転生するという隠れた事実を、初めて目の前に提示してくれたのがライナー・M・リルケだ。大学の下宿時代、この手記に病みつきになり、授業中も机にこの小説の紹介を書きまくってた。

※リルケは27歳の時に彫刻家ロダンと出会い秘書をつとめた。ロダンはリルケに、詩にも彫刻のような硬度をもった造型と完結性を与えるべきである事を教えた。



★ダンテ/Dante Alighieri 1265.5.18-1321.9.14 (イタリア、ラヴェンナ 56歳)1994
Dante Tomb, Ravenna, Emilia-Romagna, Italy









死して愛するベアトリーチェと再会した人類史上最高の詩人

ダンテが愛した女性、ベアトリーチェは25歳で病に倒れた。神曲は彼が地獄の最下層『コキュートス』から彼女に救い出される壮大な詩集だ。ダンテはこの詩集を残すことで、彼女を現世に復活させ永遠の命を与えた。この、死者すら蘇らすことが出来る文学の力に僕は畏敬の念を感じると同時に、こうした奇跡を人間が起こせる事実が嬉しくてならない。



★ガルシア・ロルカ/Garcia Lorca 1898.6.5-1936.8.19 (スペイン、グラナダ郊外アルファカール村 38歳)2005

Granada, Spain

 
フランコ将軍の独裁政権に逮捕されたロルカは、抵抗運動をしていた
グラナダ市民と共に郊外の丘に連行され、無惨に処刑された。その丘は現在
「ロルカ公園」として保存され、広場には彼の詩を書き込んだ8枚の陶板がある
タクシーのホセさん(67歳)は親切に詩を
解説してくれた。…ただしスペイン語で(汗)


  

ロルカや市民が銃殺された場所には、後にオリーブの木(写真の背丈の低い木がそう)が植えられた。
石碑文「フェデリ−コ・ガルシア・ロルカの想い出、そしてすべての市民戦争の犠牲者に捧げる」


 

グラナダから片道30分、現地30分で往復1時間半の巡礼だった。僕がスペイン語を分からないにもかかわらず、
一生懸命、グラナダの歴史やロルカについて語ってくれたホセさん、本当にいろいろ有難うございました!




★ランボー/Arthur Rimbaud 1854.10.20-1891.11.10 (フランス、シャルルヴィエ・メゼア 37歳)2005
Charleville-Mezieres Cimetiere Charleville-Mezieres, Ardennes, France

 

若きランボー(右)とヴェルレーヌ(左)の詩人コンビ

橋の上にあるランボー博物館 駅前のランボー公園 もちろんイケメンだ






本屋からカフェまで、小さな町のいたる所にランボーが出現

  

町外れの荒れ果てて寒々とした墓地に彼は眠っていた。門を入ってすぐの場所で、看板付なので分かりやすい。
写真では空気が伝わらないけど、こんなけ殺風景な墓地も珍しい。周囲の多くの墓が、崩れ、朽ち果てていた…。


「僕は永遠に幸福な状態を宣言する」(ランボォ)
ランボォは10代で詩を書き、20歳になるともうペンをとらなかった。その才能が羨ましい!
「ランボォは野性状態にある神秘主義者だ」(ポール・クローデル)




★ジャン・コクトー/Jean Cocteau 1889.7.5-1963.10.11 (フランス、ミリー・ラ・フォレ 74歳)2002
Chapelle St. Blaise, Milly La Foret, Essone, France

  

コクトーの墓だけを納めた小さな教会。内部には見渡す限りコクトーの壁画が。そして彼が自身の詩を生前に
朗読したテープがずっと流れていた。※内部は撮影禁止だったので、右写真の墓は売店のポストカードっす。

コクトーは小説家、詩人、画家、映画監督など「千の顔を持つ男」と言われている。
“天は二物を与えず”ハズではないのか?クーッ、才能ありすぎ。


コクトーの24歳年下の愛人ジャン・マレーは南仏カンヌのVallauris(ヴァロリス)に眠っているとのこと。
墓の写真が以下のサイトに公開されており、現地の警察に行けばどこの墓地か分かると思います。
http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=13124
素敵な彫刻のとても良いお墓。もし巡礼に成功した方がおられましたら、ぜひ墓地の名前を教えて下さいませ!



★パブロ・ネルーダ/Pablo Neruda 1904.7.12-1973.9.23 (チリ、イスラ・ネグラ 69歳)2000
Isla Negra, Santiago, Chile



と、と、遠かった。日本からチリまでもかなり遠いが、首都サンチアゴからさらにローカルバスに乗り換えて、
この小さな港町にたどり着いた。ネルーダは海の見える素晴らしい高台で眠っていた。本名ネフタリ・リカルド・レイエス。

(ネルーダの巡礼ルポ)



★ハイネ/Heinrich Heine 1797.12.13-1856.2.17 (パリ、モンマルトル 58歳)2002&09
Cimetiere de Montmartre, Paris, France






2002 2009 墓上のハイネ像。渋い!

愛の詩人ハイネ。ドイツ生まれ。24歳で最初の詩集を出版、繊細な表現力で注目を集める。30歳(1827)の時に出版された詩集「歌の本」は、
同じ歳の若きオーストリアの作曲家シューベルトが曲をつけ、これによってハイネの抒情詩人と名声はさらに高まった。1831年にパリへ移り、
そこでショパンやバルザックらと親交を結ぶ。臨終の言葉は「花!花!ああ、自然は美しい」だった。

Dort, wo man Bucher verbrennt, verbrennt man am Ende auch Menschen.(Heinrich Heine)戯曲『アルマンゾル』から
「焚書は序章に過ぎない。本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる」
「書物を焼く国は、やがてその国民も焼くであろう」
「書物が焼かれるところでは、最後には人も焼かれる」



★バイロン/George Gordon Byron 1788.1.22-1824.4.19 (イギリス、ホックナル 36歳)2005
Saint Mary Magdalene Church Cemetery, Hucknall, England








手前に墓、上にモニュメント ギリシアで亡くなり運ばれてきた 水もしたたるフェロモン詩人

『草のそよぎにも、小川のせせらぎにも、人もし耳を持たばそこに音楽がある』
『人間よ、汝、微笑みと涙との間の振り子よ』〜バイロン




★金子 光晴/Mitsuharu Kaneko 1895.12.25-1975.6.30(東京都、八王子市、上川霊園 79歳)2005



  

愛知県生まれ。本名金子安和。大学中退後に渡欧しベルギーでボードレールなどフランスの詩を研究。帰国後、28歳で詩集「こがね虫」(1923)を刊行し注目された。1928年から5年にわたって東南アジア〜ヨーロッパまで放浪、視野を広める。53歳、戦時中に書きためた詩「落下傘」(1948)を発表。抵抗(レジスタン)詩人として高く評価される。人間の真の姿を描き続けた。妻は作家の森三千代。

「天下の一大事や、英雄的な出来事、そんな事のために無にした平凡な生活が惜しくてたまらない」(金子光晴)



★高村 光太郎&智恵子/Koutaro Takamura 1883.3.13-1956.4.2 (東京都、豊島区、染井霊園 73歳)1991&2006&2010

 
29歳 智恵子と2人で



1991 初巡礼 2006 お花がいっぱい 2010 3度目の巡礼で晴天に!

正面の文字は「先祖代々之墓 高村氏」。左側面に戒名があり、右から11番目に
智恵子(遍照院念誉智光大姉)、12番目に光太カ(光珠院殿顕誉智照居士)の名が!
※父の高村光雲(善照院心誉勲徹光雲大居士)は右から5番目
智恵子さん、今日の“東京の空”はとても綺麗ですよ



 
2011 墓前に「高村家墓所」という小さな案内板が登場!

詩人・彫刻家。著名な仏師・高村光雲を父として東京に生まれた。1905年(22歳)、ロダンの彫刻『考える人』の写真を見て衝撃を受け、翌年に欧米へ留学。父親譲りの彫刻技術でニューヨーク美術学校の特待生になる。1907年(24歳)にロンドン、翌年にパリに移り住み見聞を広める。欧州の自由で近代的な精神を身につけて帰国した26歳の光太郎は、日本の社会にこびり付いている古い価値観や美術界の権威主義と衝突、これに強く反発する。
 
光太郎は詩を書くという行為を「自身の彫刻の純粋さを守るため、彫刻に文学など他の要素が入り込まないようにするため」と考えていた。1911年(28歳)、雑誌『青鞜』創刊号(平塚雷鳥創刊)の表紙絵を描いた3つ年下の女流洋画家・長沼智恵子と出会う。3年後の1914年(31歳)、光太カは第1詩集『道程』を刊行し、同年智恵子と結婚する。以前の光太郎の詩は、「一切が人間を許さぬこの国では/それ(近代的自我)は反逆に他ならない」と、社会や芸術に対する、怒り、迷い、苦悩に満ちたものだった。だが、智恵子と出会ってからは、穏やかな理想主義とヒューマニズムに包まれるようになった。光太郎は語る「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」。
ところが、1931年頃から智恵子は実家の破産などもあって精神を病み始め(統合失調症)、睡眠薬で服毒自殺を図る。未遂に終わったものの症状は進行し、1938年10月5日、智恵子は7年にわたる闘病の末、肺結核のため52歳で旅立つ。1941年(58歳)、他界から3年後に光太郎は30年に及ぶ2人の愛を綴った詩集『智恵子抄』を刊行した。

智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争賛美の詩を作ってしまう。終戦後、ほとんどの知識人が「時代のせいだった、仕方がなかった」と開き直って活動を続ける一方で、光太郎はこうした態度をよしとしなかった。彼は旗振り役となって戦争遂行に協力したことを恥じると共に、これをいっさい弁明せず、岩手県花巻郊外の山間に身を引いた。そして、62歳から69歳まで7年間もの懺悔の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。
1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。

「愛する心のはちきれた時 / あなたは私に会ひに来る / すべてを棄て、すべてを乗り越え / すべてを踏みにじり / 又嬉々として」(光太郎)
※1913年、結婚前年の詩。光太郎30歳、智恵子27歳。

●墓巡礼記
光太カと智恵子は同じ墓に入っている。愛し合う2人の名が側面に並んで刻まれており、見つめていると様々な愛の詩が思い出され胸がいっぱいに。染井霊園の管理事務所で無料の案内マップを配布しているので、そちらを見ながら墓前に向かおう。


【 “智恵子抄”から。智恵子の発病前、発病後、死後に分けて、光太郎の詩を紹介 】

1.結婚から10年後。幸福に満たされている時代の詩。光太郎が東北福島にある智恵子の実家に帰省していた時のもの。
ここに出てくる阿多多羅山とは、現在の安達太良山(あだたらざん)で、福島北部にある火山だ。智恵子の実家は酒蔵だった。


●樹下(じゅか)の二人

あれが阿多多羅山(あたたらやま)
あの光るのが阿武隈川(あぶくまがは)

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹(せんたん)を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙(いうめう)な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟(けぶ)るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔物のように捉えがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒蔵。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうな此のひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます。
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。


●あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間(あひだ)に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
あどけない空の話である。


2.心の病になった後


●山麓の二人 ※磐梯山=福島北部の火山
 
二つに裂けて傾く磐梯山(ばんだいさん)の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野(すその)とほく靡(なび)いて波うち
芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂へる妻は草をしいて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
――わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
のがれる途(みち)無き魂との別離
その不可抗の予感
――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙つて妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返つて
わたくしに縋(すが)る
この妻をとりもどすすべが今の世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃(げき)として二人をつつむ此の天地と一つとなつた


●千鳥と遊ぶ智恵子

人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友達が智恵子の名を呼ぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を智恵子がねだる。
智恵子はそれをぱらぱらに投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子を呼ぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向こうへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。


3.智恵子が亡くなった後、最初に書かれた詩

●レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓(さんてん=山頂)でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう


4.晩年、智恵子の死から11年後。山小屋における66歳の詩。

●案内

三畳あれば寝られますね。
これが小屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のやうに美味。
あの畑が三畝(うね)、
今はキャベツの全盛です。
ここの疎林(そりん)がヤツカの並木で、
小屋のまわりは栗と松。
坂を登るとここが見晴らし、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでいる突き当りの辺が
金華山(きんかざん)沖といふことでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
後ろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん 斯(か)ういふところ好きでせう。

※この、最後の「案内」は本当に温かく美しい。光太郎は智恵子の死後も、常にその存在を側に感じていた。智恵子の肉体の死を
克服したのだ。一人の人間と一対一で向き合うと、ここまで強く相手の存在を感じ続けることが出来るのだと胸が熱くなった。



智恵子が愛し、いつも着物の袂に入れ持ち歩いていた白文鳥(光太郎作)



★ジョン・ダン/John Donne 1572-1631.3.31 (イギリス、ロンドン 59歳)2005
Saint Paul's Cathedral, London, England

 

ジョン・ダンは英国の詩人。戦乱の続く中世の欧州で、彼が書き残した次の詩を、ヘミングウェイは20世紀の
スペイン内戦を題材にした『誰が為に鐘は鳴る』の冒頭で掲げた。(この詩では戦争を「波」にたとえている)

『何人も孤島ではない 何人も一人では完全ではない
人はみな、大いなる陸のかけら
その陸のかけらが波によって奪われ
欧州の土が無くなるのは さながら岬が失せるようだ
あなたの友人やあなた自身が失せるようだ
誰が死にゆくのもこれに似て 自分が死にゆくのに等しい
なぜなら、私もまた人類の一部だから
だから聞かないで欲しい
誰の為に弔いの鐘は鳴らされるのか、と
それはあなたの為に鳴らされるのだから』(訳:煎茶さん)

人類とは私であり、私はあなたでもある、他者の死は皆の死--中世において、すでに“人類の一部”
(I am involved in mankinde)という感覚を持つジョン・ダンは、なんとスケールの大きい、偉大な魂の持ち主で
あったことか!



★北村 透谷/Toukoku Kitamura 1868.11.16-1894.5.16 (神奈川県、小田原市、高長寺 25歳)2000&09




JR小田原駅の近くにある高長寺

墓は元々東京都港区の瑞聖寺にあったが1954年の
透谷没後60年祭の時に、故郷の高長寺に改葬された

『透谷北村門太郎墓』とある(2000) 9年後、墓前の線香立てが立派に!(09)

明治の詩人・評論家。神奈川県出身。本名、北村門太郎。祖父は小田原藩士。近代ロマン主義文学の先駆者。10代で自由民権運動に加わり政治的自由を求めるが数年で挫折。この運動で出会った女性、石坂ミナに感化されキリスト教へと向かう。キリスト教を通して西洋ロマン主義文学に触れた透谷は、精神の自由を高らかに主張した。1889年(21歳)に長編詩「楚囚之詩(そしゅうのし)」、1891年(23歳)に劇詩「蓬莱曲」を出版。
理想主義と現実の矛盾に苦悩し、25歳の若さで自殺した。透谷の思想と死は当時の若者に多大な影響を与えた。



★立原 道造/Mitizou Tatihara 1914.7.30-1939.3.29 (東京都、台東区、多宝院 24歳)1999&2007





24年の生涯はあまりに短すぎる(1999) 07年、再訪すると卒塔婆が増えていた 死の前年。何ともはかなげ。

昭和初期に活躍した叙情詩人の第一人者。東京日本橋に生れる。大学の専攻は建築学。高校時代から短歌をつくったが、三好達治の4行詩に感動して詩作に入る。1937年(23歳)、『萱草(わすれぐさ)に寄す』『暁と夕の詩』の2つの詩集を刊行する。立原は詩集を楽譜のように自ら装丁し、収録詩をすべて音楽的な響きを持つソネット形式(十四行詩)とした。彼が愛した信州の雄大な自然に、自身の心を重ねてうたいあげた、はかなくも美しい珠玉の詩群は、読み手の心に深く沁み込み、堀辰雄、室生犀星らによって将来を期待されたが、詩集発表の翌年暮れに肺結核が悪化し入院する。立原は見舞いに来た友人に「五月のそよ風をゼリーにして持って来て下さい」と願ったが、その5月まで命は持たず、3月29日に24歳の若さで夭折した。死から8年後、堀辰雄が第3詩集「優しき歌」を編んだ。青春の憧れや痛みがうたわれた立原の詩集は多くの若者に愛され、今でも命日近くの日曜日には、立原を慕う人々によって「風信子忌(ヒアシンスキ)」が催されている。墓は谷中墓地に近い多宝院の壁際にある。
 
萩原朔太郎は立原の死後、「不思議なことは、彼の肉体の亡びた後でも、彼の抒情詩のエスプリだけが、不易に実在して居る」 (不易、ふえき=変化のないこと)と評したが、萩原がこの言葉を語ってから60年以上経った現在でも、立原の繊細で透き通った音楽は詩集から鳴り響き続けているように思う。
 

●またある夜に(抜粋)
 
私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
なげやのやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷(とばり)のやうに


●落葉林で

あのやうに
あの雲が 赤く
光のなかで
死に絶えて行つた

私は 身を凭(もた)せてゐる
おまへは だまつて 脊を向けてゐる
ごらん かへりおくれた
鳥が一羽 低く飛んでゐる

私らに 一日が
はてしなく 長かつたやうに

雲に 鳥に
そして あの夕ぐれの花たちに

私らの 短いいのちが
どれだけ ねたましく おもへるだらうか


●ひとり林に‥‥

だれも 見てゐないのに
咲いてゐる 花と花
だれも きいてゐないのに
啼いてゐる 鳥と鳥

通りおくれた雲が 梢の
空たかく ながされて行く
青い青いあそこには 風が
さやさや すぎるのだらう

草の葉には 草の葉のかげ
うごかないそれの ふかみには
てんたうむしが ねむつてゐる

うたふやうな沈黙(しじま)に ひたり
私の胸は 溢れる泉! かたく
脈打つひびきが時を すすめる



ゴロンとくつろぐ立原道造。こちらも死の前年に撮影。



★シェリー/Percy Bysshe Shelley 1792.8.4-1822.7.8 (イタリア、ローマ 29歳)
★キーツ/John Keats 1795.10.31-1821.2.23 (イタリア、ローマ 25歳)1990&2004&2005
Campo Cestio, Rome, Lazio, Italy

1990 2004
ホントにこんな大きなピラミッドがローマ市内にある。シェリーもキーツもピラミッドの側の英国人墓地に眠っていた。
1990年に墓の写真も撮ったんだけど、後日、悪党にフィルムごとリュックを盗まれてしまった…。



「ガーン、再びショック…」



で、2004年に写真を撮る為に再訪(リベンジ)
したら、今度は月曜で閉まっていた(涙)
沈黙と共に立ち塞がる門。ああ無情!

門柱の落書きが、なぜか「千と千尋の神隠し」


2005年、3度目の正直!ついにリベンジ成功!

 

キーツは「This Grave of YOUNG ENGLISH POET」と彫られている
手前の墓がシェリー



★萩原 朔太郎/Sakutarou Hagiwara 1886.11.1-1942.5.11 (群馬県、前橋市、政淳寺 55歳)2003

前橋市の萩原朔太郎像 前橋文学館の前でたたずんでいる(2009)

東京から各停に約3時間揺られ、次に前橋駅からバスに20分
乗車。最後にバス停から15分ほど歩く。さすがにもうヘトヘト!
憧れの朔太郎に謁見。
これぞ墓参の醍醐味!

従来の堅苦しい文語体の詩ではなく、生活に密着した自由で生命力あふれる口語体の詩を書いた20世紀初頭の革命的詩人、萩原朔太郎。彼の詩世界はとにかく繊細!あまりに感受性が鋭すぎて、読んでるとドギマギ緊張してしまう。


「竹」

ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔(ざんげ)をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。


「猫」

まっくろけの猫が二疋(ひき)、
なやましいよるの屋根のうへで、
ぴんとたてた尻尾(しっぽ)のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』


「野景」

弓なりにしなった竿の先で
小魚が一匹 ぴちぴちはねている
おやぢは得意で有頂天だが
あいにく世間がしづまりかえって
遠い牧場では
牛がよそっぽをむいている。


「こころ」(『ゲド戦記』のテルーの歌のモト)

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああ、このこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。



★T・S・エリオット/Thomas Stearns Eliot 1888.9.26-1965.1.4 (イギリス、ロンドン 76歳)2002

 

ミュージカル“キャッツ”は彼の作品がベースになっている。
※ウェストミンスターは分骨。正式な墓はSomersetのEast Coker (Near Yeovil)、Church of Saint Michaelとのこと。早く行きたい!




★アポリネール/Guillaume Apollinaire 1880.8.26-1918.11.9 (パリ、ペール・ラシェーズ 38歳)2002&09
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France

2002 2009 奥まった場所で分かりにくい。墓石の形が頼り




 
墓上にあったアポリネールの詩。どうやら別れの詩のようだ

墓石にうっすらとハート型に文字が並ぶ。
なんて書いてあるんだろう?

『時は静かに過ぎる葬列のようだ お前は泣くだろう 泣いて過ごす今の時も 他の時と同じように あまりに早く去ってしまったと』(アポリネール)
かつてルーブルからモナリザが盗まれた時に、彼は無実にもかかわらず容疑者の一人として獄中に繋がれた。上記の詩は獄中の中で書いたものだ。
本名ヴィルヘルム・アポリナリス・コストロヴィツキ。現代詩の開祖。世にシュールレアリスムという言葉を普及させパリ文壇の中心にいた彼だが、第1次世界大戦が始まるとポーランド人のアポリネールは義勇兵としてフランス軍に従軍し、ドイツと戦った。最前線で頭部を負傷した彼は、その傷が原因で38歳の生涯を閉じた。アポリネールの死でフランスの詩は20年遅れたという。マリー・ローランサンと恋愛関係にあった。


ミラボー橋

ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう
こうしていると  二人の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

流れる水のように恋もまた死んでゆく
恋もまた死んでゆく
命ばかりが長く 希望ばかりが大きい

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

日が去り 月がゆき
過ぎた時も  昔の恋も 二度とまた帰ってこない

ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る



★北原 白秋/Hakushu Kitahara 1885.1.25-1942.11.2 (東京都、府中市、多磨霊園 57歳)1991&2005



1991 2005 こちらは福岡県柳川市にある白秋の生家

本名、北原隆吉 『雨雨フレフレ』『トンボの眼鏡』を合唱して供養

詩人・歌人・童謡作家。福岡県柳川市の旧家(造り酒屋)に生まれた。16歳で白秋を号す。22歳、与謝野鉄幹が主宰する『明星』に詩歌を発表し注目を浴びると同時に、同誌を通して石川啄木、与謝野晶子らとも親交を結ぶ。23歳、文壇を支配していた自然主義文学に反抗し、志を同じくした高村光太郎や谷崎潤一郎らと耽美主義の文学運動を展開した。1909年(24歳)、鴎外を盟主とする『スバル』の創刊に参加、退廃美の世界に耽溺した官能の第1詩集『邪宗門』を刊行する。26歳、幼年時代を鮮烈にうたいあげた第2詩集『思ひ出』を世に送り、上田敏から「和洋の芸術を融合させた若き天才詩人」と激賞され名声を得る。27歳、いよいよ創作活動が絶頂期を迎えようとしたその時、白秋は隣家の人妻と恋に落ち、その夫から姦通罪で告訴され警察に2週間拘留される。さらに故郷の実家が破産したため、一家の生活を負担することになり、一気に暮らしが困窮した。28歳、離婚した彼女と入籍し、この間の一連の精神的打撃を、最初の歌集『桐の花』に昇華させたが、次の年に生活苦から離婚する。31歳、再婚し葛飾に住む。1918年(33歳)から児童雑誌「赤い鳥」に参加し、『あめふり(雨雨フレフレ)』『からたちの花』『この道』など多くの童謡を書き上げた。童謡は白秋に創造者としての歓喜を与え、生涯に作った童謡は870篇にもなった。35歳、離婚。36歳、再々婚。37歳、山田耕筰と音楽誌を創刊。38歳、自然に即した静かな境地をうたうようになった白秋は、枯淡な趣のある詩集『水墨集』を刊行する。その後も浪漫派の盟主として歌集『白南風』(49歳)をうたうなど、アララギ派の現実的歌風に精力的に対抗していく。52歳、糖尿病と腎臓病により失明。国民的詩人となった白秋は、約200冊の著作を残し、57歳で永眠した。門下からは萩原朔太郎、室生犀星らが育っていった。

「夕暮れのものあかき空/その空に百舌(もず)啼(な)きしきる/ウイスキイの瓶の列/冷ややかに拭く少女(おとめ)/
見よ、あかき夕暮の空/その空に百舌啼きしきる」(『断章』)

※作詞を書いた中には『万歳ヒットラー・ユーゲント』という歌もあり、戦争の時代を感じる。



★ヴェルレーヌ/Paul Marie Verlaine 1844.3.30-1896.1.8 (フランス、パリ 51歳)2005&09
Batignolles Cemetery, Hauts de Seine, France

 
正面ゲートの近くの大きなサークル沿いにヴェルレーヌは眠っている





男性の墓とは思えないキュートな墓。デコレーション・グレイブっす!(2005) 4年後。花が減って若干寂しげ(2009)



ヴェルレーヌはランボーにフラれて可哀想だから、ウチのサイトの中くらいクッ付けてあげようね



★室生犀星/Saisei Murou 1889.8.1-1962.3.26 (石川県、金沢市、野田山墓地 72歳)2001&09

 
金沢城址の室生犀星像(2010)


広々とした墓域 2001 背後に生垣がある 2009 背後がスッキリ

本名、室生照道。金沢市出身。萩原朔太郎と親友で、両者は口語を使った詩で新たな世界を切り開いていった。1918年(29歳)、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で知られる『抒情小曲集』を発表する。以降、小説も多く書いた。
野田山墓地はとにかく広大。戦国時代からの古い墓もあるため、管理人も正確な埋葬者数が分からないという。



★アンドレ・ブルトン/Andre Breton 1896.2.18-1966.9.28 (フランス、パリ 70歳)2005&09
Batignolles Cemetery, Hauts de Seine, France




2005 2009 金平糖のようだ

シュールレアリスム運動の代表的指導者。墓石の上の謎の物体もまさにシュール。



★マヤコフスキー/Vladimir Mayakovsky 1893.7.19-1930.4.14 (ロシア、モスクワ 36歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

  

ピストルで命を絶った。遺書には「恋のボートが世俗とぶつかった」と書き残されていた。



★野口 雨情/Ujyou Noguchi 1882.5.29−1945.1.27 (東京都、東村山市、小平霊園 62歳)2005



本名、野口英吉。「赤い靴」「七つの子」「青い目の人形」など多くの童謡を生み出した。後妻が分骨したお墓。



★堀口 大学/Daigaku Horiguchi 1892.1.8-1981.3.15 (神奈川県、鎌倉市、鎌倉霊園 89歳)2005&10


隣(奥)の墓は川端康成!(2005) 鎌倉霊園の最上部(2010)

大正、昭和初期にフランスの詩や文学を多く日本に翻訳紹介し、自らも詩作に励んだ。



★栗原 貞子/Sadako Kurihara 1913.3.4-2005.3.6 (広島県、広島市、可部グリーンライフ六区墓地 92歳)2006


栗原さんは32歳の時に被曝した 広島平和記念資料館にて。焼き尽くされた後、中央手前に残った建物が原爆ドームだ

強いインパクトを感じた『護憲』の2文字 故郷の山間部に眠る 非武装をうたった憲法第9条の碑文が並んでいた

反戦・反核の被曝詩人。女学校時代17歳から詩作を始める。1931年、18歳でアナーキストの栗原唯一と結婚。同年、満州事変が勃発。戦局の悪化にともない夫は大陸に召集され、後に病により除隊。貞子は帰国した夫から日本軍が中国でいかに酷いことをしているか聞かされた。1945年8月6日、32歳の夏に広島で被曝したが、爆心地から4キロの自宅にいて一命をとりとめた。原爆が投下された夜に広島市千田町の郵便局地下壕で赤ん坊が産まれた話を聞き、終戦翌年に有名な『生ましめんかな』を書く。原爆投下後の悪夢のような状況でも、新しく無垢な命が生まれてくることは希望であり、読み手に強烈なインパクトを残す。その場の匂いまで伝わってくるような臨場感。言葉に形容しがたい感動がある。

僕はこの『生ましめんかな』だけでも墓巡礼をしたけれど、さらに衝撃を受ける詩『ヒロシマというとき』をちょうど30年後に発表している。加害者視点の『ヒロシマというとき』に僕が出合ったのは高校時代。落雷を受けた気がした。それまで戦争に関する詩と言えば、被害者視点で書かれたものしか知らなかった。むろん、庶民が被害者視点になるのはやむを得ないと思う。国民は戦場の現実を知らされてなかったし、原爆も大空襲も実際に恐ろしいのだから。ところが栗原貞子は、被曝しているにもかかわらず加害者としての日本に言及した。これは保守派と被曝者の双方からバッシングされる恐れのある、非常に勇気のいることだ。栗原貞子以外に加害者としての詩を残した被曝詩人を僕はまだ知らない(だからといって他の被曝詩人を非難する気は毛頭ない。8月6日の地獄を味わえば、被害者としての思いが全面に出るのが普通だろう)。
貞子は生涯に500編以上の詩作をする一方で、広島原水禁(原水爆禁止日本国民会議)常任理事として反核運動に熱意を注いだ。2005年3月6日、原水禁結成40周年の記念大会の翌日に逝去。享年92歳(老衰) 。

墓前に立って圧倒されたのは、栗原家の墓域に「護憲」と刻まれた大きな碑文が建立されていたことだ。背面には憲法第9条。このような墓所は日本中探してもここだけだろう。死してもなお反戦平和のメッセージを訴え続けている詩人、それが栗原貞子さんだ。※改憲派の人も、たとえ意見は異なっても、この貞子さんの“本気さ”は認めてくれるのでは。いわゆるプロ市民とは説得力が違う。被曝体験に裏打ちされた護憲の叫び。

●『生ましめんかな』

こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声がきこえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう。
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です、私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は
血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも

(1946年3月)

※実際にはこの産婆さんは生き延び、
後年に子どもと再会している。詩の舞台と
なった日本郵政株式会社中国支社の
敷地内には『郵政関係職員慰霊碑』と
共に『生ましめんかな』の歌碑がつ。







●『ヒロシマというとき』

〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるパリアだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない

(1976年3月)

2012年1月23日に栗原貞子さんに長女・真理子さんが癌で他界された。享年76歳。訃報を伝える記事を読んで、06年にお会いしたときはとても元気だっただけにショックだった。前年(05年)に貞子さんが他界された際、どうしても墓参したくて墓地を調べたけれど、どの文献にも記載されていなかった。そこで、新聞記事を手がかりに真理子さんに連絡をとって、“大阪から広島に墓参へ行きたいのですが”と伝えると、なんと真理子さんは広島市内の自宅に招待して下さり、母の詩作ノートを見せて下さった(もちろん自筆!)。ノートは何度も文章が推敲されており、創作の苦闘が伝わってきた。
お母さんの思い出話を色々聞かせてもらい、真理子さんは右傾化している世論(当時は小泉政権)を大変危惧されていた。墓所は広島から20kmほど北上した山間部にある集落(貞子さんの故郷)の共同墓地。僕は真理子さんに地図を書いてもらったおかげで辿り着けたけど、自力では厳しかったと思う。





JR可部線の終着点・可部駅

「下行森」のバス停付近から西側を眺める

左写真の中央にある玉縄神社。この裏手を
登った場所(住宅街との境目)に墓地がある
墓地の広さはこれくらい。住宅地にある
ので接近するまで墓地と分り難い

墓所は広島市安佐北区可部町大字勝木(可部グリーンライフ六区墓地)。JR可部(かべ)駅の駅前からJRバスの広浜本線に乗り「下行森(しもゆきもり)」
で下車。このバスは途中で行先が分かれるため、必ず乗車時に運転手さんに「下行森」まで行くことを確認して下さい。バス停の西側に川を挟んで
玉縄神社があるので、運動場との間にある坂を登って神社の裏側に回ると、住宅街の手前に墓地が見えてきます!(下からは見えないので注意)

【日本国憲法・第九条】
(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



★金子 みすゞ/Misuzu Kaneko 1903.4.11-1930.3.10 (山口県、長門市、遍照寺 26歳)2006








仙崎の港公園に建つみすゞの像

墓参者が絶えないみすゞの墓

駅前からのびる「みすゞ通り」に面した
全ての民家に、彼女の詩が掛けてあった

更新中。26歳の若さで命を絶った。その作品世界は、深い優しさと慈しみに満ちている

『繭(まゆ)と墓』(金子みすゞ)

蚕(かいこ)は繭に はいります、
きゅうくつそうな あの繭に

けれど蚕は うれしかろ、
蝶々になって 飛べるのよ。

人はお墓へ はいります、
暗いさみしい あの墓へ。

そしていい子は 翅(はね)が生え、
天使になって 飛べるのよ。

『私と小鳥と鈴と』

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。



★相田 みつを/Mitsuo Aida 1924.5.20-1991.12.17 (栃木県、足利市、法玄寺 67歳)2006




相田みつをさん 墓所は故郷足利の法玄寺 有名な『にんげんだもの』

寺墓地の中腹付近 中央の石柱に「相田みつを此処に眠る」とあった 戦死した2人の兄(幸夫、武雄)の墓が隣接して立つ

    
相田さんの自筆で「相田家之墓」と刻まれた墓石(2009)

『つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの』(相田みつをの50代後半の言葉)。
詩人・書家として知られる相田みつをは、1924年5月20日に栃木県足利市で生まれた。本名は光男。雅号、貪不安(ドンフアン)。父は刺繍職人。6人兄弟の3男であり、相田は次兄・幸夫(ゆきお)をよく慕っていた。相田がまだ3、4歳の頃、小学生の幸夫がよく紙芝居を見に連れ出してくれた。その際、家が貧乏で飴を買わずに遠くからタダで見ていた為、あるとき幸夫が紙芝居屋に襟首を掴まれ引きずり出され、皆が見ている前でぶん殴られた。兄一人なら逃げることができたが、幼い弟がいるため捕まったのだ。幸夫は殴られても泣かずにじっと弟を見つめ、紙芝居屋は「強情なヤツめ」と何度も殴った(『歯をくいしばってがまんをしたんだよ 泣くにも泣けなかったんだよ 弟のわたしがいっしょだったから』)。

幸夫は新聞社の模擬テストで県一番に輝いた秀才だったが、家計を助けるため長兄・武雄と同様、小学校を出た後は費用の掛かる旧制中学に通えなかった。そして2人の兄の稼ぎのおかげで4人の弟妹たちが中学に行けた。相田が中学に進むと幸夫は懇々と諭した。「みつを、中学校ってのは下級生を殴るという噂を聞いたけれども、無抵抗な下級生を殴るのは一番野蛮だぞ。無抵抗なものを絶対に殴るなよ」「足袋の穴は恥ずかしくない。その穴から太陽を見ていろ」「どんなにひもじくても、卑しい根性にはならないでくれ」。
そんな優しい兄たちの人生を戦争が狂わせた。
1937年、13歳のときに日中戦争が勃発し、最初に幸夫が兵隊にとられた。出征前に幸夫は弟に言う。「お前なあ、男として生まれてきた以上、しかも中学校に我々の働きで行かせてやったんだから、自分の納得する生き方をしてくれよ。世間の見てくれとか、体裁よりも、自分の心の納得する生き方をしてくれよ」。
幸夫は北京で憲兵隊に回され、自身の調書の書き方ひとつで中国人は即死刑になった。ある日、幸夫から「読んだら燃やせ」「この戦争は間違っていた」と秘密の手紙が相田家に届いた。「自分はいま思想犯の調書を書いているが、捕まえてくるのは北京大学の学生が多くみんな秀才だ。弟を見るようでとても殺すに忍びない。彼らから“どう理屈をいっても武器弾薬を持って他人の国に入って来るのは根本的に間違っている”と言われると二の句が継げない。中国の将来性のある青年を銃殺刑にするのは可哀相だから、なんとか自分の配慮でみんな無罪釈放できるように調書を書いている」。
1941年8月(17歳)、相田家に悲痛な電報が届く。「相田幸夫殿、山西省の戦闘において、左胸部貫通銃創を受け、名誉の戦死」。弔問客が帰った後、母は幸夫の遺影に向かって叫んだ。「幸夫、なんで死んだ、勲章も名誉も母ちゃんはいらない、おまえさえ生きて帰ればなんにもいらない、ユキオ!!ユキオ!!ユキオー!!」。

その後、幸夫の死を看取った戦友Tから手紙が届く。幸夫は撃たれた後2時間ほど生きており、しきりに故郷の親兄弟を心配していた。「死んでゆく自分はいいけれども、両親や弟妹たちの嘆き悲しむ様を想うとそのことが一番つらい」。そして戦友Tは“読んだら必ず焼却して欲しい”と断った後、兄の最期の言葉を記した。「戦争というものは人間の作る最大の罪悪だなぁ……」。同年12月、新たに日米開戦となり、今度は長兄・武雄が兵隊にとられ、1944年5月「ビルマにて戦死」と訃報が届いた(当時、ビルマでは『インパール作戦』の最中。当作戦の日本軍死傷者は5万以上。死者は大半が餓死。武雄もこの作戦で犠牲に)。母は2人の子どもを奪われて気も狂わんばかりになり、85歳で没した際も、臨終前に「武雄!幸夫!」と叫び続けていた。
相田は兄たちを失った後、何か困ったことがあると墓参りに行き「あんちゃんなぁ、どっちの道選んだらいいかなぁ」と石塔と相談するようになった。「私は何かに迷うと、もし、あんちゃんたちが生きていたら、自分がどういう生き方をすれば喜んでくれるだろうかと考えるんです。そして、いつでも、あんちゃんたちが喜ぶ方の道を選ぶんです。私は今日まで、あんちゃんたちに守られて、こういう人生を生かしてもらってきたのです」。
※相田みつを『三人分』より〜「三人分の力で頑張れば どんな苦しみにも耐えられるはずだ 三人分の力でふんばれば どんなに険しい坂道でも 越えられるはずだ 三人分の力を合わせれば どんなに激しい波風でも 何とか乗り切れるはずだ そして 三人分の力を合わせれば 少なくとも 人並みぐらいの仕事は できるはずだ たとえ私の力は弱くとも…」「三人分とは 一人はもちろんこの自分 気の小さい 力の弱い だらしのない 私のこと あとの二人は 戦争で死んだ二人の兄たちのこと 豊かな才能と体力に恵まれながら 戦争のために 若くして死んで行った 二人のあんちゃんのこと 学問への志を果たすこともなく 人並みの恋の花すらさかすことなく 青春の固い蕾(つぼみ)のままで死んでいった 二人のあんちゃんのことです わたしの仕事は いつもこの二人のあんちゃんといっしょ だからわたしの仕事は 三人で一ツです」。

戦時の中学には必須科目に軍事教練があり、相田の通う学校には教官として軍から少佐が直接派遣されていた。前任者のときに、相田から筆を借りた友人たちが、その筆を使って日の丸に映画女優の名前を書いた事件が起き、朝礼で犯人探しが行われた。友人たちはシラをきり黙り込んだが、相田は筆を貸した責任を感じ名乗りをあげた為、「アカ」として教練不合格になっていた。相田は新しい教官から、兵器庫の屋根を傷つけたイタズラ犯と決めつけられ、全く無関係なのに体罰を受けた。身に覚えがない相田は罪を認めず、激怒した教官は軍刀を抜いた。「貴様は上官の俺に反抗するのか!上官に反抗するのは天皇陛下に反抗するのと同じだぞ!」「自分ではありません。殺されても自分ではありません!」。この時の相田は教官と刺し違える覚悟だったという。殺気を感じた教官は刀を納めた。相田は“天皇の名前さえ出せばどんな無理でも通った時代”と振り返る。「たとえどんな生徒であっても、自分の持っている権力を笠に着て相手の人格を全面的に抹殺するような叱り方は、一生恨みを残すだけで、何の効果もありません。人間を育てる教育者としては最低だと思います。(略)そして、こういう人間の一番始末におえないことは、威張り散らすそのことを“勇ましくてカッコいい”と、本人が思っていることです。戦時中の軍人の中には、そういう単細胞がいっぱいいたのです」。

1942年(18歳)、市内の寺で行われた短歌会にて、生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応老師と出会い、在家のまま禅を学び始める。続けて歌人・山下陸奥に師事し、19歳からは書家を志して岩沢渓石に師事した。20歳で軍に召集されたが出征前に敗戦を迎える。間もなく相田は書の才能を開花させ、1954年(30歳)、書道界で権威ある『毎日書道展』に入選を果たした。同年、相田は足利市で初の個展を開き、千江夫人と結婚する。この後、技巧派の書家として『毎日書道展』に7年連続で入選している。
30代になった相田は、伝統的な書で高評価を得つつも、閉鎖的な書道界に違和感を持つようになり、シンプルで短い「詩」をぬくもりのある易しい字体の「書」と融合させた独特の作風を完成させた。
相田は書道教室を開いていたが、妻と2人の子を抱えて生活費が足りず、“ろうけつ染め”を学んで風呂敷や暖簾を制作したり、地元商店から包装紙デザインの注文をとるなどしてギリギリの生活を送っていた。「私は、誰とも競争しない生き方をしたかった。私の学んだ禅の教えは、勝ち負け、損得を越えた世界を生きることにあったからだ」「不思議なもので真剣に歩き続けていると、いつかは仕事をくれる人にめぐり逢える。世の中はそういうもんです」。
『しあわせはいつも自分のこころがきめる』(34歳)。
1960年12月。相田は『私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだ。それが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではない。その仕事が何であるかを見つけ、そのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに人間として生まれてきた意義と生きてゆく喜びがあるのだ』と書く。男36歳、覚悟の言葉だ。

1974年(50歳)、仏教学者・宗教家の紀野(きの)一義がベストセラー『生きるのが下手な人へ』の中で相田のことを紹介。また1984年(60歳)の初詩集『にんげんだもの』がミリオンセラーとなって相田ブームが起きた。3年後に刊行した第2詩集『おかげさん』(1987)も約25万部のベストセラーとなり、各地での講演も増えた。あるとき講演先で、相田は反物の行商をしていた亡き父を知るお婆さんに「あなたのお父さんは仏さまのような大変いい人でした」と言われた。相田いわく「私は涙が出るほど腹の底から嬉しかった。親の財産というのは、何も遺(のこ)さなくていいけれども、“あんたのお父さんは大変いい人でしたよ”という、その一言が、我が子に残す一番いい財産じゃないかと思うんです。私は、こんな嬉しい言葉を聞いたことがありませんでした」。
2つの詩集が話題になり、長年の苦労が報われたその矢先に悲劇が訪れる。1991年、自転車を避けようとして転倒し足を骨折、さらに脳内出血を起こして12月17日に足利市内の病院で急逝した。享年67。相田は成功後も作品制作に妥協せず、印刷による墨の微妙な色の変化や、印刷位置の小さなズレを理由に、印刷済みの色紙千枚を廃棄したことも。長男・一人との最期の会話では「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」と夢を語っていたという。

他界翌年に自伝的な遺稿集『いちずに一本道いちずに一ッ事』が出版され、翌々年には遺作集『雨の日には……』が刊行された。没後5周年の1996年、銀座に『相田みつを美術館』が開館(後に丸の内・東京国際フォーラムへ移転)。以降も日本各地で展覧会が催され、『生きていてよかった』(1998)、『じぶんの花を』(2001)と出版が続き、多くの人々から愛され続けている。※2006年時点で作品集とカレンダーは800万部を超えるベストセラーになっている。
『あのときのあの苦しみも あのときのあの悲しみも みんな肥料になったんだなあ
じぶんが自分になるための』(死の前年の詩)。

〔墓所〕
お墓は生まれ故郷の足利市、法玄寺の寺墓地にある。墓石の隣の石柱には「相田みつを此処に眠る」と刻まれていた。

『自分の番 いのちのバトン』相田みつを

父と母で二人
父と母の両親で四人
そのまた両親で八人
こうしてかぞえてゆくと
十代前で千二十四人
二十代前では---?
なんと百万人を越すんです

過去無量の
いのちのバトンを受けついで
いまここに
自分の番を生きている
それが
あなたのいのちです
それがわたしの
いのちです

※僕はこの“自分の番”という表現が好き。自分の命が独立して存在しているんじゃなく、何万年も昔から受けついできた命のバトンを今自分が持っているんだ。なんてスケールの大きな話なんだろう。しかもそれが嘘偽りない事実というのがまたグッとくる。

〔参考文献〕遺稿集『いちずに一本道いちずに一ッ事』を中心に、『生きていてよかった』『にんげんだもの』など作品集。他にエンカルタ総合大百科、Wikipediaなど。

【相田みつを語録&本人の注釈】

『いいことはおかげさま わるいことは わるいことは身から出たさび』

『途中にいるから中ぶらりん 底まで落ちて地に足が着けば ほんとうに落ち着く』

『セトモノとセトモノとぶつかりッこするとすぐこわれちゃう どっちか柔らかければだいじょうぶ やわらかいこころを持ちましょう』

『うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる うばい合えば憎しみ わけ合えば安らぎ』

『おかげさん』
※「つまづいたりころんだりしたおかげで少しずつだが自分のことがわかってきました。あやまちや失敗を繰り返したおかげで人のことをいう資格のない自分に気がつきました。そして---いざという時の自分の弱さとだらしなさがよくよくわかってきました。だからつまづくのもおかげさま、ころぶのもおかげさまです」。

『出逢いが人間を感動させ感動が人間を動かす 人間を動かすものは難しい理論や理屈じゃない』

『花はただ咲く ただひたすらに ただになれない人間のわたし』

(このわたし)『すきになってはいけないひとをすきになるからまよいがおこる すきになってはいけないひとをすいてくるしむこのわたし』

『どうころんでもおれのかお』

『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』
※「雨の日を天気のいい日と比べて「悪い日」だと思う、人間(自分)中心の考えをやめること。雨の日には雨をそのまま全面的に受け入れて、雨の中を雨と共に生きる。風の日には風の中を、風と一緒に生きてゆく、という意味です。そしてこの場合の雨や風は、次から次へと起きてくる人間の悩みや迷いのことです」。

『あんなにしてやったのに 『のに』がつくとぐちが出る』

『そんかとくか人間のものさし うそかまことか仏さまのものさし』

(ただいるだけで)『あなたがそこにただいるだけでその場の空気が明るくなる あなたがそこにただいるだけでみんなの心が安らぐ そんなあなたにわたしもなりたい』1980(56歳)

『つまづいたって いいじゃないか 人間だもの』1980年頃(50代後半)



★ラビンドラナート・タゴール/Rabindranath Tagore 1861.5.7-1941.8.7 (インド、ガンジス河 80歳)2007
Cremated, Ashes scattered, Ashes scattered in the Ganges River, India



ヒンドゥー教徒なので聖なるガンジスに遺灰が撒かれた アジア人初のノーベル文学賞 カルカッタの街中にあった黄金像





カルカッタのタゴール・ハウス。彼はここで没した(今は州立大学) 内部は写真撮影禁止なので門の外から中庭をパシャリ とてもシブかったタゴール像

タゴールの遺灰はガンジス河に撒かれたので、河そのものが墓といえる。カルカッタには生家&没した場所のタゴール・ハウスがあり遙拝した。

1909年(48歳)、アジア人として初のノーベル文学賞を受賞したインドの詩聖。ベンガル語の詩集『ギーターンジャリ』を英訳し高い評価を得る。ガンジーのインド独立運動を積極的に支持し、タゴールの詩は彼の死後独立したインドの国歌「ジャナ・ガナ・マナ」(インドの朝)と、バングラデシュ国歌「我が黄金のベンガルよ」に採用された。戦前の日本に5度も来日するほど親日家だったが、日本が西欧列強にならって「対華21ヶ条要求」を出すなど帝国主義に走ってからは「西欧文明に毒された行動」「日本の伝統美の感覚を自ら壊すもの」と激しい怒りを表明していた。
「すべての赤子は、神がなお人間に絶望していないというメッセージをたずさえて生まれてくる」(タゴール)



★西條 八十/Yaso Saijyo 1892.1.15-1970.8.12 (千葉県、松戸市、八柱霊園 78歳)2007


八十という変わった名は本名。両親が苦労させないないようにと、八と十の間から「九(苦)」を抜いて“八十”とした。象徴詩の詩人であると同時に、
歌謡曲の作詞も多く手がけた。ヒット曲は「青い山脈」「誰か故郷を想わざる」「王将」、軍歌の「同期の桜」など。金子みすゞの才能を最初に評価した。




★茨木 のり子/Noriko Ibaragi 1926.12-2006.2.19 (山形県、鶴岡市、淨禅寺 79歳)2008&14



JR羽前大山駅。町の中心からやや離れている 歩いて市街地へ行き庄内交通バスの「加茂・湯の浜温泉行き」に乗車



加茂港が見えたら下車。久々の日本海! 漁村の中の小道を抜けると淨禅寺の山門が見えてくる











裏山の風光明媚な墓地におられます!
※本名の三浦で眠る(2008)
生命の尊さを力強く、そして
女性の自立を明るくうたった
墓前からは日本海が見える。背後に山、
前方に海という素晴らしい場所
本堂に茨木さんの資料コーナーが
ある。この写真は初めて見た!

2014年に再巡礼。6年ぶり! 左右の花立てにちゃんとお花が供えてあった 冬の雨にうたれる。前回は真夏ゆえ別の墓地のよう

境内のポニョ。映画を観た直後で思わず撮った お寺のファイルには、なんと茨木さんの自筆の文字が

本名、三浦のり子。戦後の詩壇をリードした詩人、脚本家、童話作家。“戦後現代詩の長女”とも評される。大阪生まれ。父は医師だった。高校時代を愛知県で過ごし、上京して現・東邦大学薬学部に入学。その在学中に空襲や勤労動員(海軍系の薬品工場)を体験し、1945年に19歳で敗戦を迎える。戦時下で体験した飢餓と空襲の恐怖は、命を大切にする彼女の感受性を育んだ。帝劇で鑑賞したシェークスピア「真夏の夜の夢」に感動し、劇作家の道を目指す。すぐに「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれ、自作童話がラジオで放送されるなど社会に認知されていった。

1950年(24歳)に医師の三浦安信と結婚。この頃から詩も書き始め、1953年(27歳)に詩人仲間と同人誌『櫂』(かい)を創刊。そこから谷川俊太郎、大岡信など多くの新鋭詩人を輩出した。1955年(29歳)、初の詩集『対話』を発表。500部刷ったものの100部しか売れず、引っ越しの度に残りの400部を荷物にくるむ。1958年(32歳)、名詞「私が一番きれいだったとき」を含む第2詩集『見えない配達夫』を刊行。1965年(39歳)の第3詩集『鎮魂歌』には、戦時中に日本の炭鉱で強制労働に従事した中国人の心をうたった長詩「りゅうりぇんれんの物語」を収めた。

1975年(49歳)、四半世紀を共に暮らした夫が先立ち、以降、31年間にわたる一人暮らしが始まる。2年後、彼女は代表作のひとつとなる『自分の感受性くらい』を世に出した。それは、かつて戦争で生活から芸術・娯楽が消えていった時に、胸中で思っていた事をうたいあげたものだった。

●自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

その後、 弟が先に他界し、かつての同人仲間が1人、2人と世を去るのを見送った。だが、彼女は孤独感をものともせず、1999年に73歳で『倚(よ)りかからず』を発表するなど、詩への創作意欲は衰えなかった。

●倚(よ)りかからず ※73歳の作品

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ


2006年、自宅で脳動脈瘤破裂によって急逝した彼女を、訪ねてきた親戚が発見する。きっちりと生きることを心がけた彼女らしく遺書が用意されていた。「私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。返送の無礼を重ねるだけと存じますので。“あの人も逝ったか”と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます」。この力強さ。享年79歳。

戦争への怒りを女性としてうたい上げた「私が一番きれいだったとき」は多くの教科書に掲載され、米国では反ベトナム戦争運動の中でフォーク歌手ピート・シーガーが『When I Was Most Beautiful』として曲をつけた。彼女の心の声が国境を越えて人の心を打ったのだ。人生を明るく、そして清々しくうたう茨木の詩は、没後も多くの人を魅了し、晩年の『倚りかからず』は詩集としては異例となる15万部のベストセラーになっている。エッセイ本も多数。 韓国語を学んで出した『韓国現代詩選』(1990)では読売文学賞を受賞している。

●わたしが一番きれいだったとき ※茨木さんは15歳で日米開戦を、19歳で終戦をむかえた。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね

「いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます」(茨木のり子)



【カジポン選・茨木のり子の詩〜5選】

1.一人は賑やか

一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな森だよ
夢がぱちぱち はぜてくる
よからぬ思いも 湧いてくる
エーデルワイスも 毒の茸も

一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな海だよ
水平線もかたむいて
荒れに荒れっちまう夜もある
なぎの日生まれる馬鹿貝もある

一人でいるのは賑やかだ
誓って負け惜しみなんかじゃない
一人でいるとき淋しいやつが
二人寄ったら なお淋しい

おおぜい寄ったなら
だ だ だ だ だっと 堕落だな

恋人よ
まだどこにいるのかもわからない 君
一人でいるとき 一番賑やかなヤツで
あってくれ


2.娘たち

イヤリングを見るたびに おもいます
縄文時代の女たちとおんなじね

ネックレスをつらねるたびに おもいます
卑弥呼のころと変わりはしない

指輪はおろか腕輪も足輪もありました
今はブレスレット アンクレットなんて気取ってはいるけれど

頬紅を刷(は)くたびに おもいます
埴輪の女も丹(に)を塗りたくったわ

ミニを見るたびに 思います
早乙女のすこやかな野良着スタイル

ロングひるがえるたびに おもいます
青丹(あおに)よし奈良のみやこのファッションを

くりかえしくりかえす よそおい
波のように行ったり 来たりして

波が貝殻を残してゆくように
女たちはかたみを残し 生きたしるしを置いてゆく

勾玉(まがたま)や真珠 櫛やかんざし 半襟や刺子(さしこ)
家々のたんすの奥に 博物館の片隅にひっそりと息づいて

そしてまた あらたな旅立ち
遠いいのちをひきついで さらに華やぐ娘たち

母や祖母の名残の品を
身のどこかに ひとつだけ飾ったりして


3.あほらしい唄

この川べりであなたと
ビールを飲んだ だからここは好きな店

七月のきれいな晩だった
あなたの坐った椅子はあれ でも三人だった

小さな提灯がいくつもともり けむっていて
あなたは楽しい冗談をばらまいた

二人の時にはお説教ばかり
荒々しいことはなんにもしないで

でもわかるの わたしには
あなたの深いまなざしが

早くわたしの心に橋を架けて
別の誰かに架けられないうちに

わたし ためらわずに渡る
あなたのところへ

そうしたらもう後へ戻れない
跳ね橋のようにして

ゴッホの絵にあった
アルル地方の素朴で明るい跳ね橋!

娘は誘惑されなくちゃいけないの
それもあなたのようなひとから


4.夏の星に

まばゆいばかり
豪華にばらまかれ
ふるほどに
星々
あれは蠍座の赤く怒る首星アンタレス
永久にそれを追わねばならない射手座の弓
印度人という名の星はどれだろう
天の川を悠々と飛ぶ白鳥
しっぽにデネブを光らせて
頚の長い大きなスワンよ!
アンドロメダはまだいましめを解かれぬままだし
冠座はかぶりてのないままに
誰かをじっと待っている
屑の星 粒の星 名のない星々
うつくしい者たちよ
わたくしが地上の宝石を欲しがらないのは
すでに
あなた達を視てしまったからなのだ


5.さくら

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と


【私的コメント】
1.“ 一人でいるとき一番賑やかなヤツであってくれ”に激しく共感。
2.これほど美しく、そして雄大な時の流れを感じさせる詩は他にないと思う!
3.照れ隠しで『あほらしい唄』と題名がつけられた、茨木さんの一番カワイイ唄。
4.茨木さんは星の世界を見るのが大好きだった!
5.最後の2行に圧倒された。生まれる前の時間、そして死後の時間の永遠を思うと、確かに死が“常態”であり、生きてる今は特殊状況下にある。それを「いとしき蜃気楼」という言葉で表現するとは…凄すぎデス。



★ウォルター・ホイットマン/Walter Whitman 1819.5.31-1892.3.26 (USA、ニュージャージー州 72歳)2009
Harleigh Cemetery, Camden, Camden County, New Jersey, USA

  

更新中。霊廟内の中央下がホイットマン。

「寒さに震えた者ほど太陽を暖かく感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る」
「若い女は美しい、しかし老いた女はもっと美しい」




★三好 達治/Tatsuji Miyoshi 1900.8.23-1964.4.5 (大阪府、高槻市、本澄寺 63歳)2010




笑顔の達治 墓所のある本澄寺(ほんちょうじ) 境内の三好達治記念館。見学は要事前予約

記念館収蔵、達治の自筆原稿!

こちらは愛用の魯山人器

本澄寺山門に「宗教者は憲法九条を
尊びます」のポスターが貼られていた



達治の墓は記念館の向かいにあった。
垣根の内側に見えるのが墓

めっさ達筆!
「三好」しか
分からない
側面の戒名。命日が
書かれており、これで
達治本人と確認!
私事で恐縮だけど、子ども
(当時6ヶ月半)にとってこれが
公式の初巡礼になりました!

大阪市生まれ。萩原朔太郎の詩に感銘を受けて自らも詩作を始める。1930年(30歳)、青春の孤独を格調高くうたった第1詩集「測量船」を世に出す。2年後に第2詩集「南窗(なんそう)集」刊行。戦争に突入してからは国策的な詩も書いたが、戦後に評論『なつかしい日本』で天皇の退位を求める気骨を見せた。
1952年(52歳)に風刺や文明批評を取り入れた詩集『駱駝(らくだの瘤(こぶ)にまたがって』を、1962年(62歳)に『百たびののち』を発表。1963年に『定本三好達治全詩集』で読売文学賞を受賞。その翌年に心臓発作で急逝した。享年63歳。達治はまた、ボードレール『巴里の憂鬱』の日本語訳版を初めて刊行している。
私生活では佐藤春夫の姪と結婚するが、離婚して朔太郎の妹と再婚し、再び離婚するなどした。墓所は達治のの甥が住職となっている大阪の寺にあり、境内には三好達治記念館がある。

●評論『なつかしい日本』から
「陛下は一国の元首として、戦争中の統率にも情況の判断にも臨機の措置にも人材の選択起用にも取捨にも民情の観察にも、また戦争の切上げ時に関しても、一向見栄えのするお手柄の拝せられなかっただだけ、それだけ御責任を今日おとりになってよろしい。しれが至富である。(略)陛下は事情のゆるすかぎり速やかに御退位になるがよろしい」

●達治は校歌を作って欲しいという依頼の多くを断った。その理由がユニークなので以下に紹介。(断りきれなくて書いたものは5篇ある)
「校歌を作ってもらいたい、そういう依頼者の中には、多分お世辞であろう、先生の人格を見込んで特にお願いをするというようなことを言われる方が希にある。(略)校歌を作って差し上げておくと、後々たとえば太宰治君のような華々しい最期をとげて一つ何もかもさっぱりケリをつけてやろうとでも考えた時に、大変勝手が悪い。私はこの自由を自分の為に保留しておきたいのである」

「列外馬」 三好達治 ※大陸で日本軍の行軍から脱落した馬の描写。その後半部分。

激しい掛け声も、容赦ない柏車も鞭打ちも、ついに彼を励まし促し立てることの出来なくなった時、彼はここに棄てられたのである。彼にも休息が与えられた。そうして最後に休息の与えられたその位置に、彼はいつまでも南を向いて立っている、立ちつくしている。尻尾一つ動かそうとするでもなく、ただぐったりと頭を垂れて。
見給え、その高く聳(そび)えた腰骨を、露わな助骨を、無慙(むざん)な鞍傷(あんしょう)を。膝のあたりを縛った繃帯(ほうたい)にも既に黝(くろ)ずんだ血糊がにじんでいるではないか。
たまたまそこへ一台の自動車が通りかかった。自動車はしきりに警笛の音をたてた。彼はそれにも無関心で、車の行手に立ち塞がったまま、ただその視線の落ちたところの路面をじっと見つめていた。車はしずかに彼をよけて通りすぎなければならなかった。
広漠とした平野の中の、彼はそうしていつまでも立ちつくしていた。勿論彼のためには飢えを満すべき一束の枯草も、風雨を避くべき厩舎もない。それらのものが今彼に与えられたところで、もはやそれが何ならう、彼には既に食慾もなく、いたわるべき感覚もなくなっているに違いない。
それは既に馬ではなかった。ドラクロアの「病馬」よりも一層怪奇な姿をした、くぐつより雨に濡れたこの生き物は。この泥まみれの生き物は、生あるものの一切の意志を喪(うしな)いつくして、そうしてこのことによって、影の影なるものの一種森厳(しんげん)な、神秘的な姿で、そこに淋しく佇(たたず)んでいた。それは既に馬ではなかった。その覚束(おぼつか)ない脚の上にわずかに自らを支えている、この憐れな、孤独な、平野の中の点景物は。
折からまた二十人ばかりの小部隊が彼の傍らを過ぎていった。兵士達は彼の上に軍帽のかげから憐憫の一瞥を投げ、何か短い言葉を口の中で呟いて、そうしてそのまま彼を見捨てて、もう一度彼の姿をふりかえろうともせず、蕭然(しょうぜん)と雨の中を進んでいた。
雨は声もなく降りつづいている。小止みもなく、雨は十日も降っている。
やがて時が来るだろう、その傷ついた膝を、その虔(つつ)ましい困憊(こんぱい)しきった両膝を泥の上に跪(ひざまづ)いて、そうして彼がその労苦から彼自身をとり戻して、最後の憩いに就く時がやがて間もなく来るだろう。
遠く重砲の音、近く流弾の声。



★田村 隆一/Ryuichi Tamura 1923.3.18-1998.8.26 (神奈川県、鎌倉市、妙本寺 75歳)2010




自然LOVE!

妙本寺境内の祖師堂の左奥の方(手前の墓地じゃない!)、墓地に
続く階段がある。墓地内、左手の端っこに田村さんは眠っておられます

東京出身。家は鳥料理店。10代から詩誌に投稿し始める。学徒動員を経て、1947年(24歳)に鮎川信夫らと詩誌『荒地』を創刊。1956年(33歳)、処女詩集『四千の日と夜』で敗戦の虚無感を表現し高い評価を受ける。1963年(40歳)、自然回帰をうたった第2詩集『言葉のない世界』が高村光太郎賞に輝く。その後、米国で朗読会を開くなど精力的に活動し、1978年(55歳)に『詩集1946〜76』が第5回無限賞、1985年(62歳)に『奴隷の歓び』が読売文学賞、1993年(70歳)に『ハミングバード』が現代詩人賞に輝いた。1998年、食道癌により他界。享年75歳。死後、最後の詩集『帰ってきた旅人』が刊行された。
※「日本でプロフェッショナルだと言える詩人が三人いる。それは田村隆一、谷川俊太郎、吉増剛造だ」(吉本隆明)

『木』 田村隆一
木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ

ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか

見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空にむかって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしかにわめかないが
木は
愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝に止まるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
空にかえすはずがない
  
若木   
老樹

ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星の光のなかで
目ざめている木はない


ぼくはきみのことが大好きだ



★清水 かつら/Katsura Shimizu 1898.7.1-1951.7.4 (東京都、文京区、吉祥寺 53歳)2013

 

童謡詩人。本名、清水桂(男性)。東京生まれ。1916年(18歳)、小学新報社に入り、「小学画報」「少女号」など児童向けの雑誌を編集。その傍らで童謡の作詞を始めた。作曲家の弘田龍太郎と組んで、1919年「靴が鳴る」、1920年「叱られて」「あした」、そして1921年(23歳)に「雀の学校」を発表。関東大震災以降は埼玉で過ごし29歳で退社。1933年(35歳)から10年間、花岡学院の講師を勤める。1948年(50歳)、「みどりのそよ風」(草川信作曲)を作詞。1951年他界。享年53。墓所のある吉祥寺で音楽葬が行われた。没後、東武東上線和光市駅前に「みどりのそよ風」「靴が鳴る」「叱られて」の歌碑が建つ。



★サトウハチロー/Hachiro Sato 1903.5.23-1973.11.13 (東京都、豊島区、雑司ヶ谷霊園 70歳)2016&17&19
1種5号25側25番

2017 2019 2016
墓石には「ふたりでみると すべてのものは 美しくみえる」とある




2017

2016 「るり子」(2番目の妻)

「かァさんと久」。久は弟で
19歳で婚約者と心中した
2019


詩人、童謡作詞家、小説家。本名佐藤八郎。東京生まれ。父・佐藤紅緑(こうろく)は作家で、ハチローが中学時代に女優と不倫離婚、母は失意のなか病死。
父に反発した彼は中学を3度落第して中退(遊郭で担任と鉢合わせになり即日退学になったとも)、勘当されて喧嘩に明け暮れ何度も留置場に入る。感化院で詩に目覚め、15歳のときに詩人・作詞家の西條八十(やそ/1892-1970)に入門、童謡をつくりはじめる。師の西條は『青い山脈』『誰か故郷を想わざる』『王将』など数々のヒット曲を作詞している。
1936年(33歳)、ハチローが作詞した『うれしいひなまつり』がレコードになる。ハチローには若くして病死した優しい姉がいた。姉は結婚が決まっていたが18歳で他界。歌詞の2番で「お嫁にいらした姉様によく似た官女の白い顔」と、姉を結婚させてあげた。

1945年(42歳)、広島に滞在中だった弟・節が原爆で死亡する。ハチローは広島に弟を捜しに行き、泊まっていた宿の跡も見つけたが遺骨は見つからなかった。敗戦後、戦後最初に公開された映画『そよかぜ』の主題歌「リンゴの唄」を作詞、並木路子の歌で大流行し、占領下の日本を象徴する歌となった。1949年(46歳)、長崎で被爆した反戦医師の永井隆を描いた歌謡曲『長崎の鐘』を作詞、藤山一郎が歌いヒットする。以降、戦災で苦労した子どもたちに胸を痛め、仕事の中心に童謡の作詞を置き、1955年(52歳)に『ちいさい秋みつけた』を作詞する。

63歳で紫綬褒章受章、1968年(65歳)、ザ・フォーク・クルセダーズのヒット曲『悲しくてやりきれない』を作詞。1973年、心臓発作により70歳で他界した。生涯に約2万もの詩を書いた。
私生活は放蕩、奇行が多かったという(異母妹の作家佐藤愛子は激怒している)。お墓の台座部分に「サトウハチロー 房枝」とある。房枝は三番目の妻。最初の妻・くみ子は「私という本妻がいるのに」と呆れ、ハチローと女優の歌川るり子が暮らす家に3人の子を連れて現れ「あとは育てて」と出て行った。ハチローはるり子と再婚し、彼女は自分の子と計5人を大切に育ててくれたが45歳で急死。その後、このすべてを見てきたダンサーの房枝夫人と結婚した。

墓石に刻まれた言葉は「ふたりでみると すべてのものは 美しくみえる」。これは男女でなくとも、友人、親子、師弟、あらゆる人間に当てはまることだと思う。人間同士の分断が指摘されて久しい今の社会で、他人と分かち合い一緒に触れるものは、どんなものでも美しく見えると教えてくれるハチローさんの墓は、大袈裟ではなく人類の宝と思っている。

※「ボクは日本一の個人的酒税納税者」「ビールは一日8〜10本。ウイスキーが3日で1本、日本酒も同量ていど。タバコは一日100本、ほとんどアル中、ニコチン中毒に近い」。
※3人の弟たちは、節(たかし)が広島滞在中に原爆で絶命、弥(わたる)はフィリピンで戦死、久(ひさし)は19歳で婚約者と心中。



★ノバーリス/'Novalis'Friedrich Von Hardenberg 1772.5.2-1801.3.25 (ドイツ、ヴァイセンフェルス 29歳)2015
Alter Friedhof (Stadtpark), Weissenfels, Burgenlandkreis, Sachsen-Anhalt,Germany//Plot: look left at the entrance of the Park

公園の入口左側の特別区に墓所 この門から入ると… ノヴァーリスの墓!しかも胸像付き!

29歳で夭折 この角度がめちゃくちゃカッコイイ! 日没の数分前に巡礼

ドイツ国民から愛されている詩人 後方の石板の左下に彼の名前 お会いできて光栄です!

ドイツの詩人。自然と人間に対する深い思索力を持ち、繊細な感性によってロマン主義運動の先駆者となった。本名フリードリヒ・フォン・ハルデンベルグ。1772年、ドイツ中部のチューリンゲン地方オーバーウィーダーシュテットの貴族の家に生まれる。1790年(18歳)以降、イエナ、ライプツィヒ、ウィッテンベルクの各大学で法律・科学・哲学を専攻した。1792年、ライプツィヒ大学で同じ20歳のロマン派の思想家フリードリヒ・シュレーゲルと出会い、これがきっかけとなって初期ロマン派が形成されてゆく。卒業後は法律の国家試験に合格して行政事務官になったが、父親が製塩所の監督官だったこともあり、まもなく製塩所監督補となった。この仕事を通して鉱山学、自然科学などの知識が深まった。
1794年、22歳の時にノヴァーリスの人生に多大な影響を与えた少女ゾフィー・フォン・キューンと出会う。ゾフィーは当時まだ12歳であったが、ノヴァーリスは心から彼女を愛し翌年に婚約に至るが、1796年、ゾフィーはわずか15歳で病没した。最愛の恋人の死は精神を根底から揺さぶり、ノヴァーリスを詩人へと変えていった。
1798年(26歳)に作家仲間らとロマン主義文学の基本精神を綴った雑誌『アテネーウム』を発行、同誌でペンネームの“ノヴァーリス”を初めて使用した。1799年(27歳)、「世界を詩化し、メルヒェンとする」という理想のもとで、後年ドイツ初期ロマン派の象徴となる夢幻的な小説『青い花』(原題『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』)の執筆を開始。同年、敬虔な宗教心が結晶化した『聖歌』を脱稿。翌年(28歳)、ゾフィーへの愛の体験を基に、あの世での再会を期待する死への憧れや、夜の世界を愛でる神秘主義的思索が反映された傑作詩『夜の賛歌』が書き上げられる。
ゾフィー他界から5年後の1801年、『青い花』執筆の途中で、肺結核によりノヴァーリスは29歳で早逝した。製塩所に勤めながらも、人生の大半のエネルギーを文筆活動に注ぎ、宗教的神秘主義に彩られた抒情詩や小説をこの世に残していった。
ノヴァーリスの熱狂的ファンに、ベルギーの劇作家メーテルリンク、英国の歴史家トマス・カーライル、ドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネ、ドイツの哲学者ニーチェなど多数。ニーチェ「経験や本能にひそむ聖なるものはノヴァーリスによって発見された」。近代ハンガリーの哲学者ルカーチ・ジェルジ「ノヴァーリスだけがドイツ・ロマン派の唯一の、そして正真正銘の詩人である」。

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ノヴァーリス『夜の賛歌』から「死への憧れ」抜粋(生野幸吉訳)

大地の胎(はら)にくだろう、
光の国から去ろう、
苦痛の怒りやあららぐ衝動は
すなわち晴朗な船出の合図。
われらは狭い小船で
すみやかに天の岸辺に着く。



【番外編 プーシキン】

★アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン/Aleksandr Sergeyevich Pushkin 1799.6.6(旧暦5.26)-1837.2.10(旧暦1.29) 享年37歳

まだプーシキンの墓には行けてないけど関連画像があるのでアップ。すべてペテルブルグで撮影。

フィルハーモニーホールの側のプーシキン像(2005) モスクワ駅の近くにあるプーシキン像(2009)


ペテルブルグのプーシキンの家
(2階)。決闘に敗れここで夭折
家のすぐ近くには美しい
ロシア正教会が建つ
近所を流れる雄大なネヴァ河。在りし日の
プーシキンもこの夕陽を見ながら散歩したのだろう

ロシア文学博物館にある彼のデスマスク プーシキンが決闘で使ったピストル

「人は誰でも失敗の前には凡人である」(プーシキン)

詩人、作家。ロシア語の美しさを作品に引き出したロシア文学の父。貴族の彼は10代後半から社交界を出入りするが、自由を愛する精神から地下革命運動に加わり反体制詩を書きペテルブルグを追放された。1820年(21歳)、長編詩『ルスランとリュドミーラ』を発表し脚光を浴びる。24歳、ウクライナのオデッサへ追放。そこでも上官と対立し公職を解かれ親の領地に追放される。26歳、史劇『ボリス・ゴドゥノフ』を脱稿(発表は6年後)。翌年、皇帝ニコライ1世は民衆の間に広がるプーシキン・ブームに押されて謹慎を解いた。

1831年(32歳)、近代ロシア小説の誕生となる韻文小説『エフゲーニー・オネーギン』を書き上げる。33歳で長編叙事詩『青銅の騎士』を、35歳で『スペードの女王』を、1836年(37歳)には『大尉の娘』を発表。名声が頂点を極める中、翌年妻を口説こうとした青年士官と決闘して撃たれ、これが致命傷となって2日後に絶命した。享年37歳。彼の早死にはロシアだけでなく人類全体の文化的喪失であり、プーシキンを撃った青年士官は絶対に許せない。この若者自身も、プーシキンの新作を二度と読めなくなるというのに、なんちゅう取り返しのつかないことをしてくれたんだ…!
プーシキンの墓は両親が住んでいたエストニア近くのPskov(プスコフ)にあるという。早く巡礼したい〜!
※「プーシキンの言葉こそが唯一主要な聖物なのだ」(ゴーゴリ)
※「私は無学な人間です。これまでにわずかしか読んでいません。そして今プーシキンの本と出会ったわけです…ワーリニカさん、こういうこともあるんですね、こうして生きていながら、自分のすぐ近くに、自分の一生がすっかり事細かに書かれてる本があることを知りませんでした。それに、自分でもそれまで思ってもみなかったことが、そういう本を読み出すにつれて、何もかも少しずつ思い出しもするし、発見もするし、その謎も解けてくるといったことが!」
(ドストエフスキー『貧しき人々』から)



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