※今号は書いてて何度も胸が詰まり、キーを叩く指先が震えた…中也の詩はたまらない。 世界巡礼烈風伝・23の巻 (8日目) 『魂の抒情詩〜中原中也』 ★裏切りのガイドブック 早朝5時に『ムーンライト九州』を厚狭(アサ)駅で降りた僕は、詩人中原中也の眠るJR山口線の湯田温泉駅に向かおうとしたが、各停の始発が6時前だったので、しばしベンチにて轟沈。湯田温泉駅は山口駅の手前にあり、7時半に到着した。 駅から少し歩いて、中也の墓があるとガイドブックに書かれていた高田公園に着く。朝といっても陽射しは強烈で、すでに背中はグッショリだった。 「ハウッ!」 ガビーン、そこにあったのは墓ではなく文学碑だった! 「フガーッ、許さ〜ん!」 僕は不動明王の如くガイドブックを地に叩き付けた。 「ゼーハー、ゼーハー…」 肩で呼吸しつつ、早くも視線は通行人のサーチングに入っていた。嘆いていても始まらないので、とにかく中也の墓を質問しまくった。だが…ダメだった。誰に尋ねても「聞いたことない」という返事。 “そうだ、老舗の旅館ならあるいは…!” 「ああ知っとるよ、今地図を書いてあげますよってね」 と旅館のオカミさんが答えてくれた時は小躍りしたが、渡された 手書きの地図には先ほどの文学碑の場所が書かれてあった…。 最終的に、中原中也記念館まで尋ねに行った。 10時の開館まで待つしかないか…としょんぼりしてたら、記念館の前に墓地の場所を記した看板が! 「おお、市内に墓があるではないか!でもなんか遠そう…」 バス停でその方面の時間を調べたら、次の便は1時間後だった。おそるおそるタクシーの運ちゃんに片道の相場を聞いたら、千円でお釣がくるとのこと。それで中也に会えるのだったら安いものだ。“お願いします!”と飛び乗った。 「お客さん、私が運転手であんた良かったよ。同僚でもお墓の場所を知ってるヤツは少ないからねぇ」 そう言って、彼は小さな小さな墓地の前で僕を降ろしてくれた。 中也と親しかった小林秀雄は言う「中原は詩人というよりむしろ告白者だった」と。山口県湯田町生まれ。文学への目覚めは早く、13歳で短歌が新聞に掲載され、15才の時には友人と歌集を出していた。ところが文学以外の学業はからっきしで、落第したことを期に翌年京都に転校する。17歳、3つ年上の小劇団の女優と同棲生活に入る。18歳の春、大学受験を目指し彼女と東京へ移り、そこで5歳年上の仏文科学生、小林秀雄と知り合う。 小林を通してランボーやヴェルレーヌといったフランス象徴詩に出合った彼は、そ詩風に大いに影響を受けていく。小林との親交もますます深まったが、上京から半年後の11月、なんと中也は彼女を小林にとられてしまう(否、とられたという言葉は不適切かも。より魅力的だった小林に彼女が走ったという方が正確だ)。3人の話し合いの結果、奇怪な三角関係がしばらく続いたが、やがて彼女をどうあがいても取り戻せぬと自覚した彼は、小林に絶交宣言を叩き付けた(ただし、5年後に彼女が出産した際に中也は名付け親を頼まれてることから、彼女と中也に関しては友情が続いていたようだ)。 20代に入って中也は大岡昇平らと同人誌を作り、精力的に作品を発表していくが、“破れかぶれの悲しみ”をいつも首から引っさげていた彼は、次第に自暴自棄の傾向を強めていく。酒場で隣りの客の愚劣さに耐えられないで、いきなり喧嘩を吹っかけては体の弱い彼の方がいつもひどい目にあった。渋谷で酔って店のガラスを壊し、29日間留置場へブチ込まれたり、議員の家の玄関を破壊して逮捕されたことも。 この頃の詩を3編。 〜汚れちまった悲しみに(抜粋)〜 『汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れちまった悲しみに 今日も風さえ吹き過ぎる 汚れちまった悲しみは なに望むなく願いなく 汚れちまった悲しみは 倦怠(けだい)のうちに死を夢む 汚れちまった悲しみに 痛々しくも怖気づき 汚れちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる』 〜帰郷(抜粋)〜 『柱も庭も乾いている 今日は好い天気だ 山では枯木も息を吐く アア 今日は好い天気だ これが私の故里(ふるさと)だ さやかに風も吹いている アア お前は何をして来たのだと… 吹き来る風が私に云う』 〜寒い夜の自画像(抜粋)〜 『私は弱いので 悲しみに出会うごとに自分が支えきれずに 生活を言葉に換えてしまいます そして堅くなりすぎるか 自堕落になりすぎるかしなければ 自分を保つすべがないような破目になります ああ神よ、私がまづ自分自身であれるよう 日光と仕事とをお与え下さい!』 そんな中也が“軌道修正”するきっかけとなったのが、26歳の時の結婚と、それに続く長男・文也の“新しい生命”の誕生だった。生活は貧しかったが、彼は生まれて初めて知る精神の充足と安定感を味わった。 では空気が少し変わった28歳の頃の詩を。 〜曇った秋〜 『猫が鳴いていた みんなが寝静まると 隣りの空地で そこの暗がりで 実に緊密でゆったりと細い声で 闇の中で鳴いていた あのようにゆったりと今宵ひと夜を 鳴いて明かそうというのであれば さぞや緊密な心を抱いて 猫は生存しているのであろう あのように悲しげに憧れに満ちて 今宵ああして鳴いているのであれば 何だか私の生きているということも まんざら無意味ではなさそうに思える 猫は空地の雑草の蔭で たぶん石ころを足に感じ その冷たさを足に感じ 霧の降る夜を鳴いていた』 1934年(27歳)、自費で第1詩集『山羊の歌』を出版。「四季」「文学界」に作品を発表する一方で、『ランボオ詩集』を翻訳するなど仏詩人の紹介にも努めた。詩壇では徐々に彼の名声が高まっていったが、29歳の時にまだ2歳の愛児が病で死んでしまう。彼は悲嘆のあまり精神的に異常をきたし、翌年、極度の神経衰弱から千葉の脳病院に入院する。彼いわく『何もする気が起こらない“悲しみ呆け”の状態』だった。 あくる1938年、鎌倉へ転院したもの心身の疲労は続き、彼は故郷に帰ろうと心に決める。そして秋、結核性の急性脳膜炎の為、彼はわずか30歳でこの世を去った。脳膜炎、つまり狂死だった。 中也は死の2ヶ月前に、新たな詩集の原稿をかつて絶縁した小林秀雄に託していた。死の翌年、小林は亡き友との約束を果たすべく、中也の第2詩集『在りし日の歌』を刊行した。 この詩集には愛児へのレクイエム「また来ん春」がある。“在りし日”とは、そういうことだ。 〜また来ん春〜 『また来ん春と人は云う しかし私は辛いのだ 春が来たって何になろ あの子が帰って来るぢやない 思えば今年の5月には お前を抱いて動物園 象を見せても猫(にゃあ)といい 鳥を見せても猫(にゃあ)だった 最後に見せた鹿だけは 角によっぽど惹かれてか 何とも云わず 眺めてた ほんにお前もあの時は この世の光の只中に 立って眺めていたっけか…』 中也が眠る墓地は、車道から外れて農道を歩いた先にあった。墓の側に小さな説明文があり、そこには墓石に刻まれた「中原家累代之墓」は中也の自筆によるものだ、と記されていた。僕は墓石を抱きしめずにはいられなかった…。 最後に死の直前の詩“夏と悲運”から抜粋したものをここに書き、烈風伝23の巻を締めくくろうと思う。 『夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。 やがて俺は人生が、すっかり自然と遊離しているように感じ出す。 すると俺としたことが、と笑い出さずにいられない。 格別俺は人生がどうのこうのと云うのではない、 理想派でも虚無派でもあるわけではない。 孤高をもって任ずるなどというのじゃない。 しかし俺としたことが、と笑い出さずにいられない。 どうして笑ってしまうのか、実にもって俺自身にも分らない。 しかしそれが結果する悲運ときたらだ、嫌というほど味わっている。』 P.S.1→小林秀雄のことを少し。彼は文芸研究家にとっての神様。小林はゴッホやモーツァルト、ドストエフスキーなど芸術家の創作活動を生涯かけて研究し、彼らの魅力を言葉で表現することにひたすら挑戦し続けた“冒険野郎”だ。小林は言う「中原は詩人というよりむしろ告白者だった」と。 P.S.2→中也が亡くなったのは、盧溝橋事件、第2次上海事変の直後で、日本が中国と事を構えていく最中だった。小林秀雄はこう追悼した--「彼は一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもから色々な事を言われながらも、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。事変の騒ぎの中で、世間からも文壇からも顧みられず、どこかで鼠でも死ぬ様に死んだ」。そして葬式の後にこの詩を刻んだ。 〜死んだ中原(抜粋)〜 『君の詩は僕の死に顔が 分かってしまった男の詩のようであった ホラ、ホラ、これが僕の骨 と歌ったことさえあったっけ 僕の見た君の骨は 鉄板の上で赤くなり ボウボウと音を立てていた 君が見たという君の骨は 立札ほどの高さに白々と とんがっていたそうな ほのかながら確かに君の屍臭(ししゅう)を嗅いではみたが 言うに言われぬ君の額の冷たさに触ってはみたが とうとう最後の灰のかたまりを箸の先で積んではみたが この僕に一体何が納得出来ただろう アア 死んだ中原 僕にどんなお別れの言葉が言えようか 君に取返しのつかぬ事をしてしまったあの日から 僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった アア 死んだ中原 例えばあの赤茶けた雲に乗って行け 何の不思議な事があるものか 僕達が見て来たあの悪夢に比べれば』 (つづく…次回、風雲児・高杉晋作!) |
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