世界巡礼烈風伝・10の巻 (4日目その3) 『テーマパーク“東照宮”』 午前11時半。3日間コマネズミのように駆けずり回った東京をあとにした。一路、上野駅から栃木県の日光へ。例によって各停での旅だが、この路線は連結車両が多かったので座席にゆとりがあり、かなり快適な行程だった。座席が都心の横並び型ではなく、対面型だったのも旅情感を一気に増幅させた。大阪を発って以来、4日目にしてやっと一息ついた気がした。 天気はド快晴。 僕は事前に買っておいたサンドイッチと牛乳を鼻歌まじりに腹におさめ、ヘミングウェイ(武器よさらば)を片手にのんびり3時間の移動を楽しんだ。こういう日も、たまになくては! 宇都宮に着くと、昼は1時間に1本しか運行しない日光線に乗り換えた。 余談だが、宇都宮駅の男子便所は日本一美しい便所だった。それには秘密がある。便所に続く通路の壁(正面の絶対目に入る場所)に、次の貼り紙があったからだ。 『皆様のおかげで今日も綺麗になっています〜駅長』 これは効果的だった。一言も“綺麗にしましょう”とは書かず、“綺麗になっています”と始めから断言しているのだ。すると、自分の番で汚してはいけないと注意深くなる。僕は実際に10分間ほど人々を観察していたが、オッサン連中までが『一歩前へ』出て慎重に用をたしていた(後の流水率も100%)。 また、文面の内容は半強制的なものでありながら“皆様のおかげ”と、あくまでも控え目な印象を与える巧みなトリックは、舌を巻かずにはおれない。お見事。う〜む、この駅長、只者ではない。 宇都宮から40分、日光駅からはバスでさらに奥地へ向かった。そうしてやっと徳川家康の廟所、日光東照宮に到着した。 「なんちゅう不便な所に墓を作るのじゃ!」 僕は嘆いたが、日光の山々は古来より霊山として関東の武士たちに崇められていたのだ。 家康を奉る東照宮を作る為に動員された人々は、のべ450万人という空前の規模。幕府から現場職人たちに出された通達は「予算おかまいなし」。建造費に上限を設けぬという、前代未聞の国家事業だった。 当時最高の画家、彫刻家、建築家が呼び集められ、本殿、奥社、そして国宝『陽明門』が作られた。敷地内の彫刻は最終的に5173点に及んだ。 陽明門の別名は“日暮らしの門”。つまり一日中眺めても見飽きぬほど素晴らしい門、ということであるが、その言葉に偽りはなかった。門全体がめまいを覚えるほど色彩豊かに輝き、500以上の動植物の彫刻が、これでもかと視界いっぱいにひしめきあっていた。 それから、陽明門横のお堂には『鳴龍(なきりゅう)』と呼ばれる天井画が描かれてて、画中の龍が本当に鈴の音のように澄んだ声を出し、マジで仰天した。陽明門と鳴龍、この2つに出会えただけでも栃木の山奥に足を運んだ値打ちがあった。 (4日目その4) 『沈黙の石段』 家康の墓は東照宮の奥社にあり、これは最深部にあたる。バス停から陽明門まで山道をあがった後、奥社へはそこからさらに200段以上の石段を昇らねばならず、僕の前を歩いていた関西のオバチャンたちは、 「もうお墓はええわ。本殿見たし、門も見たし。帰ろ帰ろ。」 といって石段の手前で引き返してた。 東照宮に来て家康の墓に行かんのは、大阪に来てタコ焼きを食わずに帰んのと同じくらいもったいないことだが、確かに一瞬ひるんでしまう長い石段だった。しかし、どんな試練もそれが快楽に転じてしまう巡礼ターミネーターの僕には、石段は団体観光客の洪水を防ぐ有り難い防波堤じゃった。 登る途中に思わず吹き出したのが、家康の格言を記した立札だ。誰もが“いい加減疲れたぞ〜”と思う4分の3地点に 『人の一生は重き荷を負うて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず』 という立札があったのだ。 「こりゃ、一本やられたわい」 絶妙なタイミングで声を掛けてきた家康公に脱帽! (サルでも分かる家康小史) 弱小大名の松平家に生を受けた家康は、8歳で織田家に、そして19歳まで今川家に人質として預けられ、辛酸をなめる青春時代を体験した(しかも父親は家臣に暗殺されている)。今川氏が信長に殺され、晴れて自由の身になると、彼は巧みな用兵と見事な政治手腕で着々と周辺地域を平定した。 初めての大敗は武田信玄戦(家康31歳)。 三方が原の戦いで、武田騎馬隊の猛攻を受け本陣が崩壊。彼は命からがら戦場より脱出した。馬で逃げる途中、家康はあまりの恐怖から自分が脱糞していたことにも気付かなかった。ほうほうの体で逃走した彼は、怯えきった自分の顔をすぐさま絵に描かせ、自戒の為に終生手放さなかったという。 信長の横暴も辛かった。彼が38歳の時、同盟中の信長が、信玄の後継者、武田勝頼と家康の妻子が密通しているというあらぬ嫌疑をかけてきたのだ。一度疑うと絶対に相手を許さぬ信長。家康は同盟を維持する為に、22年も連れ添った愛する妻と長男を死に追いやるという、悲痛な決断をするしかなかった。 本能寺後も天下は遠かった。秀吉を討つ力はなく、ただ秀吉が死ぬのを座して待つしかなかった。しかも、秀吉と家康は6歳しか離れておらず、どちらが先に死んでもおかしくない状況だった(結局、天下人の秀吉が死ぬまで16年待つことになる)。 関ケ原の決戦に挑んだ家康は、すでに還暦を迎えようとしていた。 幕府を開いて12年、後世の憂いを完全に絶つ為に大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした後、精根尽き果てたのか、或いは緊張の糸が切れたのか、家康は1年も経たずにあっけなく死んでしまった。 晩年の彼は、自分がこれまでに命を奪った者に対する供養の為か、部屋にこもって南無阿弥陀仏と3万回もお経を書き連ねており、その巻き物は現在も残っている。 奥社の家康の棺は金・銀・銅の合金で作られた高さ5メートルの宝塔に収められ、歴史上まだ一度も開けられたことがない。宝塔の前には鶴と亀のロウソク立てや香炉他があり、それらは朝鮮国王からのプレゼントということだった。 最後に。 静岡には“銭取”という地名があるが、そこは茶屋でアンコ餅を食べていた家康が、武田軍接近の急報を聞き慌てて逃げた時に、 「コラーッ!く、食い逃げじゃ〜っ!」 と、追っかけて来た茶屋のオバチャンに捕まって、餅代を払わされた場所なのだ。このオバチャンこそ、もしかして戦国最強かも!? P.S.1→「工費お構いなし」の号令で建てられた東照宮は、最終的に約450億円(現代の円換算)で完成した。 P.S.2→先の『人の一生は重き荷を負うて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず』には『不自由を常と思えば不足なし』と続いている。“鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス”の家康らしいよね。 |
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