世界巡礼烈風伝・19の巻
(巡礼5日目その7)

『津軽海峡ヲ突破セヨ!』

★ウェルカム洗脳列車


「ぬおお、今朝の弁慶の墓よりピンチかも〜っ!?」
午後8時26分。ねぶたの会場をあとにした僕は青森と函館をつなぐ普通快速『海峡13号』の最終列車に乗り込むべく、青森駅構内に土煙を上げて駆け込んだ。次々やって来るねぶたをギリギリまで見てたので、発車まで2分しかなかったのだ。

スッテーン!
海峡13号を見た瞬間、ホームの上で僕は吉本新喜劇ばりにズッこけた。列車は全ての車体にドラえもんやのび太がどでかくペイントされていたのだ。
しかし、のけぞるのはまだ早かった。車内の一両目から最後尾まで全ての吊り広告がドラえもんの新作映画一色なうえ、天井や窓枠、さらには床にまで見渡す限りキャラクター・シールが貼ってあったのだ。もちろん、ドラミちゃんまで…。
「まるで耳なし芳一じゃあ〜」ある意味絶景だった。

空いてた座席に座るとジャイアンとスネ夫のペイントの側で、その列車に乗っていた2時間半の間、仮眠する度に
“ワ〜ン、ドラえも〜ん”
とスチャラカ走りをしながら、うなされていた気がする。


★極めつけ18きっぷ利用法


ここで青春18きっぷの素晴らしい裏技を紹介したい。18きっぷは特急と急行には使えない1日パスだが、快速には乗車できると以前に書いた。では乗った列車が途中で0時を過ぎたらその場でパスは無効になるのか?
答えはノーだ。日付をまたぐ快速列車は終点まで乗ってもOKなのだ!

厳密に言うと規約上は『0時後の最初の停車駅まで』となっている。しかし、JR側は“広義”解釈(暗黙の了解ともいう)をしてくれて、僕らプアーな仔羊を終着駅まで運んでくれるのだ。
“力なきもの死すべし”という、この非情な高度資本主義社会の世で、こんな広義解釈があるなんて本当に有り難い(涙)。
ウ〜ン、えらいぞJR!

こういった夜行快速は夏季シーズンだと全国を走っており、京都〜高知というマニアックな路線まである。先ほど時刻表を徹底分析したが、うまく乗り継げば東北の福島駅から九州の博多駅までたったの2300円で行くことも可能だ。読者の中の酔狂な方にぜひ挑戦してしてもらいたい。30時間近くかかるけどね。


★地獄列車・夜行快速ミッドナイト号


23時に函館に到着。
続いて僕は前述したような23時半函館発、明朝6時半に札幌着という夜行快速を使うことにした。所要7時間だが、どうせ寝てる間に着くからアッという間だと考えたんだ。ミッドナイト号という名前も旅情気分をガンガン煽った。

乗換えに30分も余裕あるから、軽くうどんでも食べようかと思った。

ところが!
函館でドラえもん号を降りた瞬間、大勢の人が弾けるようにドアから一斉に飛び出した。その瞬間、僕が長年の放浪で培った危険察知レーダーが激しくスパークした。心眼が赤ランプの点滅をキャッチした。
“こりゃ、何かヤバいぞ”
と思うやいなや(as soon as)、『三十路崖っぷちターボ』がフル回転し、いったい今日何度目か分からん秘技ゴキブリ・ダッシュ(人の隙間を風の様に駆け抜く)を発動した。

夜行快速は別のホームから出るらしく、みんな韋駄天の如く階段を駆け上って行った。幸運にもドアのすぐ近くに階段があった為、かろうじて僕も先頭集団の中に入れた。

トップグループは15人ほどだが、ほぼ全員が20歳前後で僕よりひと世代若かった。
「ぐぬぬ、こしゃくな若人どもーっ」
連中は体力こそ僕より勝ったが、いかんせん旅に不慣れな為か背後の荷物がやたらデカい。たくさんの着替えやCD、ヘアムースなども入ってるとみた。一方こちらは着替え用のTシャツが1枚(!)、寝る為の新聞紙、ヘミングウェイの文庫本、カメラ、地図だけで、タオルすら入っとらん中身スカスカのナップサックだった。おしゃれアイテムがゼロなのは、万が一にも映画のような『旅先の恋』など200%僕の身の上に起こり得ないという、これまた長年の放浪が導き出した悲しみのデータの判断だった。
で、結果的にミッドナイト号に着く時にはトップ5に入ってた。

「ギョエ〜ッ!」
憧れのミッドナイト号を見て僕は絶句した。たったの3両編成だった!しかもそのうちの2両が指定席で、自由席は何と1両のみ、そしてその自由席はすでに全部埋まっていた!僕が乗った時点で、もう通路しか空いてる場所はなかったのだ。そして、僕の背後からすごい形相で続々と80人近くが迫って来てた。
“これは間違いなく修羅場になるぞ”
そう確信した。

結論から言おう。やはり全員が乗ることは到底不可能だった。各自荷物があったので、ギューギューに詰めても40人乗るか乗れんかだった。それこそ通路だけでなく、ドアのタラップ前や車両の連結部にまで人が立っていた。
“7時間もあるのに、これから一体どうなるんだろう”
僕らの不安をヨソに、ミッドナイト号はクールに出発した…立ったままの僕らを乗せて。満員の車内はあまりの悲壮感に誰もが口をつぐみ、とても静かだった。
考えてみれば、夏休み、週末、ねぶたの全てが重なる日に、こうなるのは当然だった。指定席も満員だし、ただ一両の自由席に乗り切れないのはJRも分かってたはず。
ウ〜ム、無情なりJR!

え?僕がどこに居たのかだって?非常に良い質問だ。駅員に車両を増やさぬのか尋ねたり、もたついてる間に通路を若人たちにとられ、トイレの前で立つことになったよ(ホンゲーッ)。トイレ前だけでも4人立っていた。トホホのホじゃわい。

P.S.動き始めて2時間後、皆が互い違いに体育座り(三角座り)するなど工夫しあって、ようやく立ってる者がいなくなった。その光景を激写したのでいずれHP上で確認して欲しい。連結部にいた彼はカーブになる度、体がへの字になったりくの字になったりしていた…。




世界巡礼烈風伝・20の巻
(巡礼6日目)

『多喜二、その若すぎた死』


いよいよ今回が東日本編の最終目的地!
札幌で最後の乗換えを終え、一路石狩湾を目指す。小樽に眠る作家小林多喜二を巡礼する時がついに来たのだ。午前8時、南小樽駅を下車。実に遠かったが、とうとう北海道の西岸にたどり着いた。

書くこと自体が生死を賭けた戦いだった…この国にはそんな歴史がある。それも明治や江戸時代の話ではなく、昭和のことだ。

特別高等警察、略して特高。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも登場するこの組織は、体制に反対する労働組合員や反戦平和活動家など、政府に逆らう思想犯を徹底的に取り締まる目的で明治末期に設立され、その後敗戦まで強権をふるった。
特高は国家反逆罪や天皇への不敬罪を武器に、密告とスパイを活用して“非国民”を手当たり次第に検挙し、残忍な拷問で仲間の名前を自白させてはさらにイモヅル式に逮捕しまくる、そんな恐怖組織だ。

小林多喜二は1903年に東北の貧農の家に生まれた。親にラクをさせる為に苦学して小樽で銀行員になり、21歳で仕送りの出来る安定した生活を営めるようになった。小市民的な幸せな未来が目の前に約束されていた。音楽が好きな弟には、初月給の半分を使ってバイオリンを買ってあげた。

ところが、軍国化を進める政府によって1928年3月15日未明に全国で一斉に数千人の反戦主義者を逮捕する大弾圧事件が起きた。多喜二の周辺でも友人たちが続々と連行されていった。
彼は日記に次のように記す。
「雪に埋もれた人口15万に満たない北の国から、500人以上も“引っこ抜かれて”いった。これは、ただ事ではない。」

貧農出身の彼はもともと権力への激しい憎悪を持っていたので、この3・15事件は彼に強烈な影響を与えた。保釈された友人たちから苛烈な拷問の話を聞くに及んで、読書好きだった彼は事件を小説にし世間に権力の横暴を訴える決心をした。
同時に彼は権力と戦う人間を、単なる英雄ではなく欠点や弱さも兼ね備えた人間として、ちゃんと書き表わした。

「私は勤めていたので、ものを書くといってもそんなに時間はなかった。いつでも紙片と鉛筆を持ち歩き、朝仕事の始まる前とか、仕事が終わって皆が支配人の所で追従笑いをしている時とか、また友達と待ち合わせている時間などを使って、五行、十行と書いていった…私はこの作品を書くために2時間と続けて机に座ったことがなかったように思う。
後半になると、一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。そこは警察内の(拷問の)場面だった。」〜自伝より

完成した作品『1928年3月15日』は、特高警察の残虐性を初めて徹底的に暴露した小説として世間の注目を浴びたが、これによって彼は特高から恨みをかうことになり、後の悲劇を呼ぶことになる。

翌年、26歳の彼はオホーツク海で家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した『蟹工船』を発表する。蟹工船は過酷な労働環境に憤りストを決行した人々が、虐げられた自分たちを解放しに来てくれたと思った帝国海軍により逆に連行されるという筋で、この作品で彼は大財閥と帝国軍隊の癒着を強烈に告発した。
登場人物に名前がなく、群集そのものを主人公にしたこの抵抗の物語はひろく一般の文壇からも認められ、読売の紙上では“1929年度上半期の最大傑作”として多くの文芸家から推された。

しかし天皇を頂点にする帝国軍隊を批判したことが不敬罪に問われ、『蟹工船』は『3月15日』と共に発禁処分を受けてしまった。また、銀行からは解雇通知を受け取ることになる。
多喜二は腹をくくった。
ペンで徹底抗戦するために名前を変え、身分を隠して各地を“転戦”する人生を選択した。

そして運命の1933年2月20日。
非合法組織の同志と会うために都内の路上にいた所を、スパイの通報によって逮捕される。同日夕方、転向(思想を変えること)をあくまでも拒否した彼は、特高警察の拷問によって虐殺された。
…まだ29歳の若さだった。

彼の亡骸を見た者が克明に記録を残している。
「物すごいほどに青ざめた顔は激しい苦痛の跡を印し、知っている小林の表情ではない。左のコメカミには打撲傷を中心に5、6ヶ所も傷痕があり、首には一まき、ぐるりと細引の痕がある。余程の力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっている。
だが、こんなものは、体の他の部分に較べると大したことではなかった。
下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうにふくらみ上がっている。
赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。
歯もぐらぐらになって僅かについていた。体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。殴る蹴るの傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。
しかし…最も陰惨な感じで私の眼をしめつけたのは、右の人さし指の骨折だった。人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに手の甲の上へつくのであった。作家の彼が、指が逆になるまで折られたのだ!この拷問が、いかに残虐の限りをつくしたものであるかが想像された。
『ここまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、腹の中は出血でいっぱいでしょう』と医者がいった。」


警察発表は心臓麻痺。多喜二の変わり果てた姿を前に、母親は叫んだ。
「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか」

特高の多喜二への憎しみは凄まじく、彼の葬式に参列した者を式場で逮捕する徹底ぶりだった。
彼の死に対して志賀直哉だけが“自分は一度小林に会って好印象を持っていた、暗澹(たん)たる気持なり”と書き記した。
この国の文学界は沈黙を守ったのだ。どの作家も、自分に火の粉が降りかかることを恐れたためだ。


多喜二の墓は南小樽の奥沢共同墓地にあった。広い墓地だったし、山の斜面で勾配もキツく、自力で探すのはひとめで無謀だと分かったので、墓地の出入口ですれ違った人に事務所を尋ねてみた。すると“ここにはそんなものないよ〜”との返事!
僕はすっごくアセッた。なぜなら、10時に小樽港から京都に向かうフェリーが出るからだ。巡礼も佳境に入っており、フェリー代をひくと財布の中には漱石が3人いるだけで、絶対に乗り遅れるわけにはいかなかった!

朝早かったけどお盆前で墓地には数家族いたので、とにかく片っ端から彼の墓を問うてみた。ところが、誰に聞いても正確な場所を知らぬのだ。教えてもらった場所に確かに小林という墓はあったが、違う小林さんだったりした。
結局付近の民家に尋ねてまわった。

そんなこんなで、やっとこさ多喜二の墓を発見したときの感激は言語に尽くせぬものがあった。ひとしきり本の感想などを彼に熱く語った後、墓石の裏を見て絶句した。日付で分かったのだが、多喜二の墓は彼が生前に自分で建てた墓だったのだ!
彼が自身の墓を作ったのは、ちょうど蟹工船を発表したころだ。要するに…要するに、彼は自分が死ぬかもしれんと覚悟をしていたのだ。
なんという生き様、なんという信念!


8時55分、僕はフェリーの船内にいた。
9年前、啄木に会いに北海道へ来た時は、函館市内を墓参の為に駆けずり回って何も観光できなかったが、それでも墓探しをした3時間は北海道の大地に足の裏が着いていた。ところが今回は列車を降りて土を踏んだのが、たったの55分だ。それも南小樽の町だけで、ひと駅先の小樽中心部を見ていない。

めったに訪れることが出来ぬ北海道に来て、自分でもこれはないと思う…だがそうまでして、この小林多喜二という一人の男と会いたかった。どうしても。
彼はこの国で初めて剣をペンに代えて“国家”に殺された作家なのだから!

後年、多喜二の弟が兄の思い出を語っている…
「地下活動していた兄を訪ねたときに、2人でベートーヴェンを聴きました。バイオリン協奏曲です。その第一楽章のクライマックスで泣いていた兄の姿が忘れられません」


      


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