世界巡礼烈風伝・21の巻 (オマケ編) 『三味線の鬼・高橋竹山』 竹山はそれまで唄の伴奏楽器としか思われてなかった三味線という楽器を、ソロでも十分聴くに値する素晴らしい楽器だということを、世に知らしめた三味線の神様だ。 1910年青森生まれ。子供時代に病気で失明し、15歳の時に隣村の“ボサマ”に弟子入りする。ボサマとは東北地方で三味線を片手に各家々の門前に立ち(門付けという)、米や銭などの施しを受けて周る盲目の男性のことだ。 (17歳) 独立し、それからは独りぼっちで東北の各地を門付けして周った。ときには北海道まで足を延ばした。 「門付けでは三味線を背負って歩くから、ぶつけて欠けたり傷みも早い。秋田を旅している時に棹(サオ)がポッキリ折れ仕事にならず困り果てた。仕方なく折れた所をひもでからげて、鳴らない三味線をだましだまし弾いて三カ月、とうとう頭に来て棹をたたき壊し、ヒノキをなたで削って手製の棹を胴にはめて鳴らした。」 (22歳) 門付け5年目。 「棹に釘が打ってある三味線も使った。切れた糸も結んで弾いた。撥(ばち)も板切れや女性のくしでやったこともあった。糸巻きも壊れて棒を差し込み間に合わせた。芸術とは無縁の、というより、その日を生き延びることしか考えられない状況だった。」 (29歳) 同じ全盲の女性と結婚する。彼は妻子を青森に残し、大阪の旅芸人の一座で三味線担当として働き始める。 (31歳) 故郷で子供が大病を患ったが、妻からの手紙はすべて座長が揉み消し「帰れない」と勝手に返事を書いていた。竹山を手放したくなかったからだ。竹山が事態を知ったのは、子供の訃報を電報で受け取った時だった。 (32歳) この頃から世の中が戦争一色になって行く。“おめえ、何が面白くて三味線弾いているんだ、ばがだもんだ”と徹底的にいじめられた。“不謹慎”だというのだ。 この年の12月8日、ついに太平洋戦争が開戦する。その時の心境を竹山は自伝の中で「息の根を止められたと思った」と表現している。 「何が苦しいたって戦争の時ほど苦しい時はなかった。貧乏は何でもない、物が買えないだけで我慢すればいいんだから。戦争は人間を狂わせてしまう。兵隊は偉くて、年寄りや目の見えない者はごくつぶし扱いだった。別におれが戦争してくれって頼んだわけじゃない。腹の中でそう思っていた。巡査やちょっとした権力を持った人間にいびられた。三味線持っているだけで『非国民』とののしられ、ぶんなぐられた」 物は配給制。唄もはやらなくなり、門付けしても稼げない。 「北海道にいた時はコンブばかり食べた。あんまりいいものを食わないで、見えない目がよけい見えなくなったような気がしたよ」 (52歳) 三味線を握って37年、不当に低い三味線弾きの社会的地位に対し、反骨心がピークに達してくる。 「この世界では伴奏者というだけで歌い手より低く見られるのが当たり前でヘタクソな唄に伴奏して、あんでもない、こんでもないと文句言われて、もらうお金は俺の方がずっと安い。ばかばかしくてやってられんかった(もちろん雲竹は別として)。」 唄の伴奏としての三味線ではなく、三味線だけで唄の心をうたい上げるという、それまで誰もやらなかった新しい世界を竹山は模索し始める。コンサート向けの曲がないのなら、自分が作曲すれば良いと気付く。こうして彼は、やがて傑作『岩木』を完成させることになる。竹山はこの曲の旋律に自分の人生を存分に語らせた。 「あのころ先生は舞台でこれでもか、これでもかと弾いていた。世の中に『分かってくれ』と訴えるようなすごい演奏だった」竹山の弟子はこう振り返る。 (65歳) キャニオンレコードが竹山に無断でレコードを発売する。 「彼らはその道のプロ。普通では考えられない。地方の目の不自由な貧乏な芸人、という見下した意識が透けて見えた。その不当な差別は許せなかった」 (68歳) 全国の至る所で公演してきた竹山が、最後に足を踏み入れたのが沖縄だった。この年、悲願の沖縄公演を果たした。 観客も竹山も待ち望んでいた本番の舞台。演奏の合間に、ひめゆりの塔など南部戦跡を訪ねた感想を語っていた竹山が、突然絶句した。その時の様子を見ていた者がこう書き残している… 「ほんの十秒か二十秒だったかもしれないが、それは二分、三分のようにも長く感じられた。彼は声を殺して泣いていたのである。戦争の痕跡に触れ、話を聞きながら、彼の見えない目は、たちどころに数十年前の悲惨な戦いを見たのだと思う。舞台の中断に普通なら客席はしらけるところであろう。だが、客席は息詰まりに耐え、はね返した。 終演後、会場の廊下で一人の老婦人が泣いていた。それは号泣としか言いようのない激しい泣き方であった。その夜の演奏は、沖縄の心と激しく触れ合っていた。」 「竹山さんは三味線を弾くことで非国民扱いされ、ののしられ、生活の手立てをすべて奪われた忌まわしい戦争の記憶が、見るがごとく鮮明に蘇ってきたのでしょう。舞台であのように絶句したのは、後にも先にもあの一回だけです。」 翌日、竹山の関係者が乗り合わせたタクシーでのこと。車内には沖縄戦の写真、切り抜きなどが張っていて、運転手は今なお洞くつに埋まっている戦争犠牲者の骨を探し歩いている人だった。そして「沖縄でも戦争を忘れかけている。本土の三味線弾きのオッサンでも泣いているというのに…」と関係者とは知らずに語ったという。 (86歳) 最晩年のコンサートには、これが最後かもしれない、とたくさんのファンが詰め掛けた。やせて、声もやっと出る程度でほとんど言葉にならない。喉頭ガンだった。あちこちからすすり泣く声が出た。 それでも『だめになった竹山も聴いてくれ』と弾いた。芸の衰えを自覚して、それでも残る力を振り絞ってバチを叩いた。 1998年永眠。87歳の大往生だった。 「竹山氏は、結局、津軽三味線だけの人だ、ということです。他の事は、できない、しない、語れない、語らない−ということです。この姿勢をどこまでも貫いて、津軽三味線の奏者としてだけ在ってほしいと念じています。」(同県出身者、棟方志功の言葉) ★ミニ・エピソード 冨田勲のシンセサイザーに「これ、音だが?」と驚き、全部機械の音だと知って二度驚いたらしい。「面白えもんだ。触ってみてぇもんだな」とコンサートで話したら、ファンがシンセを送ってくれ、竹山はモーレツに狼狽したという。 ※この『高橋竹山編』は東奥日報の竹山に関する長期連載から記事を抜粋し、私見を加えて再構成しました。 --------------------------------------------------------- 世界巡礼烈風伝・22の巻 (6日目その2) 『日本列島南下作戦!』 ★庶民の味方“新日本海フェリー” さらば北海道。 午前10時、フェリーは静かに南小樽港を離岸した。出港の際に後部甲板で、国内の百名山に登り続けている初老の紳士から、小一時間ばかり山の話を聞いた。 「君も山に登りなさい。山はいいよ、山は黙ってるだけだ。冷たい沈黙じゃあない、温かい沈黙なんだ。」 帰りを列車にせずフェリーにしたのは、船が予算的にも時間的にも体力的にも、はるかにメリットが大きかったからだ。 フェリーなら翌日の夕方に京都の舞鶴に着くので、午後8時には大阪に戻れる。これが18きっぷで帰った場合、まず青森駅で終電になり翌日は小田原駅で終電になる。大阪に戻るのはさらに翌日の正午近くで、なんと16時間も差がでるのだ。 フェリーは6700円で18きっぷ3日分の6900円より若干安い程度だが、忘れてはならないのがフェリー代には宿代や銭湯代が入ってこの値段だということ。一番嬉しいのは、乗り換える度に空席の争奪戦になる列車の旅と違って、大部屋で枕を胸にゴロゴロと寝転がってるうちに、目的地へ運んでもらえることだ。列車のように腰が鋼鉄にならずに済むし、こんな有難いことはない。 また初回の烈風伝で少し触れたが、なんと船内の売店は地上のコンビニと同じ値段という良心的価格!『コーラ1本200円』みたいな鬼畜政策をとっておらんのだ。海を見てるだけでもけっこう楽しいのだが、ロビーや大ホールでは映画を上映していて、退屈はしない。 そして何より船旅は2等船室が36人部屋ということもあり、相部屋の者同士で旅や人生について色々と語り合えるのが嬉しい。夜更けまで学生たちと話したりして、なんだかすぐに京都に着いた。 あらためて書こう、フェリーの旅は最高だと。 ★さらに南へ!夜行快速『ムーンライト九州』 (巡礼7日目) 東日本巡礼から帰って来た翌日、8月7日午後7時半。京都駅の下りホームに僕の姿があった。そう、いったん残月庵ことカジポン亭に戻って荷物の中身を西日本バージョンに入れ替えただけの僕の姿が。 残月庵に素泊まりしてすぐにワラジを履いたのは、台風が襲来する前に行けるうちに行っておきたかったことと、お盆に突入すると鉄道ダイヤが激変し、時刻表上で予定を組むのが困難になるからだった。 京都から博多へ2300円で行ける『ムーンライト九州』は、あの悪夢の『ミッドナイト号』と同じ夜行快速だ。惨劇を2度と繰り返したくなかったので、念には念を入れて発車時間の2時間前にホームに行った。それでもすでに行列が発生していたが、とりあえず列の頭から5メートルの“絶対安全圏”に並ぶことが出来た。 21時半、列車は京都を出る。僕の巡礼第2ラウンドは山口県から始まるため、5時ごろに途中下車する必要があった。寝過ごして博多まで行ってしまわないよう、周囲の乗客に頭を下げて“もし自分が山口で爆睡していたら起こして下さい”とお願いしてまわった。 午前5時。案の定、みんなで起こしてくれた。 |
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