『西郷隆盛、かく生きたり』(後編) (10日目その2) 王政復古の大号令は成された。あとは官位剥奪、領地没収という事態に慶喜がどう動くかだった。 まず江戸では維新に反抗する幕府兵による薩摩藩邸焼き討ち事件が起きる。慶喜は京都御所にいる西郷たちをけん制する為に、約1万5千という大勢の幕府兵と共に大阪城にいた。焼き討ちの一件は大阪城にもすぐ届き、幕府兵たちの士気は大いに盛上がり、『薩摩討つべし!』というムードで一色となった。京都にいる薩長の両軍は約5千だけだ。慶喜はこぶしをグッと握り締めた。 “これなら薩長軍に勝てるかもしれない” 新政府樹立から約3週間後、慶喜はついに京へ向けて進撃を開始。都の手前で両陣営は衝突した。鳥羽街道では薩摩軍が、伏見街道では長州軍が迎え撃った。3倍という圧倒的兵力差に新政府軍の苦戦が予想されたが、幕府軍の銃は一発一発に時間がかかる旧式銃だったのに対し、新政府軍の武装は次から次へと射撃可能な最新式の銃。たった2日間で幕府軍は6千の兵を失いバラバラに敗走した。 慶喜は海上から江戸へ逃亡すると、もう江戸城へは戻らず上野の寛永寺に引きこもった。 ●江戸城開城 新政府軍は戦力を増強し、江戸総攻撃の為の追撃戦に入った。江戸に着いた新政府軍は慶喜に腹を切らせるべく多摩川沿いに陣をひく。江戸総攻撃の前日、慶喜不在の江戸城を任されていた旧幕府軍総裁・勝海舟は降伏の嘆願書を持って西郷に面会を求めてきた。 西郷と勝は約4年前、薩摩がまだ倒幕路線を明確にする以前に一度顔を合わせている。その時は、「幕府に勝海舟あり」といわれるほどの人物に会ってみたいという思いで西郷が一方的に勝を訪ねたのだった。勝もやはり「薩摩に西郷あり」といわれる彼の訪問を歓迎した。この席で、勝はざっくばらんに幕府の内情や、現在の諸問題について西郷と語りあう。勝は幕府の中枢にいながら、堕落した幕政への確かな批判力を備えていた。西郷はこの初対面の感想を親友の大久保に送っている〜 「勝氏と初めて会ったのだが、実に驚くような人物だった。こっちは最初やっつけるつもりだったが、実際会ってみると(その見識に)本当に頭が下がる思いになった。勝氏には一体どれだけの知略があるのか、正直自分には全く分からない」 西郷と再会した勝は、慶喜の助命を約束してくれるなら江戸城を明け渡すと告げる。西郷は勝が自らの保身について何も語らず堂々と向き合うので、その立派な態度にあらためて感心した。 「分かりもした。いろいろ難しい議論もありもすが、慶喜公については、おいが責任を持って引き受けいたしもす。」 江戸総攻撃はすんでの所で回避された。4年前の腹を割った熱い出会いがあったこの2人だからこそ、江戸城開城という大事件を、わずかに言葉を交わすだけで流血なしに実現出来たのだ。 勝は友人に西郷について以下の如く語っている。 「(こんな状況になっても)西郷は、幕府の重臣に対する敬意を持って私に接し、談判の時は始めから終わりまで背筋を真っ直ぐ伸ばして坐し、両手は膝の上にきっちりと乗せていた。とにかく西郷には少しも戦勝者の威光で敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったのだ」 勝もまた感心しきりだったというわけだ。 1868年4月11日、江戸城無血開城。 14年前の安政の大獄以来、この日を見ることなく志し半ばで散っていった松陰、晋作、龍馬を始め多くの志士たちの悲願がついに達成された。 ※考えてみれば、西郷は2度目の流刑を許されてから、わずか3年で江戸城を無血開城させたことになる。すごい密度の3年間だよね。(しかも彼にとって入城行為そのものは重要ではないらしく、あれだけ苦労して開城した江戸城に入ってない) 江戸城は落ち、慶喜は故郷の水戸で謹慎処分となったが、筋金入りの親幕派・会津藩を中心として東北地方では新政府への激しい抵抗運動が始まった。 新政府軍は東北地方に3万の大軍を派遣し各地で親幕藩を鎮圧していく。会津藩は4千の兵で最後まで徹底抗戦したが江戸城開城から4ヶ月目についに壊滅した。この際に会津藩内で家臣の妻子が集団自決し、10代の若者たち37名で結成した白虎隊(2番隊)も、戦闘で生き残った20名が城近くの飯盛山で自決するという痛ましい事件が起きた。 一方、新選組が加わった旧幕府軍本隊は江戸城開城後に8隻の軍艦で江戸を脱出、東北各地に離散していた敗残兵を収容しつつ北上する。そして同年12月に箱館に上陸し五稜郭一帯を占領。その地に旧幕臣を中心とした臨時政府を打ち建てた。 新政府軍は五稜郭を包囲し猛攻を重ねる。降伏勧告に来た新政府軍の使者に、臨時政府総裁の榎本武揚は 「(勧告には応じられないが)自分が死んでもこれらを役立てて欲しい」 と、自らがオランダ留学中に入手した学術本を敵に手渡した。江戸城開城からちょうど1年経った同じ5月に、旧幕府軍は五稜郭に散った。 この戊辰戦争の終結と同時に、徳川300年の幕政は名実共に終焉する。 ●西郷、薩摩へ帰郷 すべての内戦が終了し新時代の幕が明けた。 ところが新政府の顔ぶれに西郷の姿がない。彼はどこへ消えたのか?なんと兵をまとめて鹿児島にとっとと帰り、片田舎のひなびた温泉宿で暮らしていたのだ。 西郷は一切の俗事を離れ、畑を耕したり、川に魚を釣りに行ったり、狩猟に出たりと、まさに農夫のような生活をしていた。彼は権力に何の未練もなく、それよりものんびり余生を楽しむことを優先したのだ。 要するに、彼は時代の要請でたまたま歴史の中心に位置したが、本来憧れていたライフスタイルはこういう田園生活だったのだ。 一番驚いたのは少年時代から長年つきあってきた同郷の大久保利通や薩長同盟時の長州藩の雄・木戸孝允ら新政府の最高幹部たちだ。彼らは政治上の駆け引きなど智謀には長けていたが、西郷のような人望とカリスマ性がなかった為、新政府の各要職をめぐって発生した各藩の派閥争いを抑えることが出来なかった。 これは維新の為に共闘した者が互いに反目しあうという事態を引き起こした。役人の汚職もあとを絶たない。地方では農民一揆が続発していた。 大久保らもこのままではいけないことは、十分に分かっていたが良い打開策が見つからない。放っておくと苦労して樹立した新政府が転覆するのは時間の問題だった。この混迷した事態を打開するには、もう鹿児島の西郷を呼び戻すしか打つ手がなかった。 1870年12月、新政府のトップ2人(大久保と岩倉具視)が西郷を江戸に呼び戻すために鹿児島に乗込んだ。多くの官僚が私腹を肥やすことに執心している現状など、新政府の腐敗した実態をひととおり聞いた西郷は、 「これでは維新を迎えることなく倒れていった数多くの同志達に面目が立たんばい」 と、嘆き悲しんだ。そして…西郷は2年ぶりの上京に同意した。 ●700年ぶりの大革命・廃藩置県 西郷の力を得た新政府は、欧米のような近代国家を目指す為に封建制度との訣別を選択する。諸藩がバラバラに各地を治めるのではなく、中央政府が日本全体を統治する廃藩置県の断行である。 これは事実上、諸大名から土地と民を取り上げ各藩の経済的基盤を奪い去ることに等しかった為、実行には大きな危険が伴っていた。明治維新は幕府に対するクーデターだったが、廃藩置県は全藩に対するクーデターだった。西郷も大久保も、大名という地位を無くすこの廃藩置県を明治維新の総仕上げと考えており、これを成し遂げぬことには外国勢力に対抗出来ぬと思っていた。 藩を廃するということは、当然武士や農民という身分制度の廃止につながっていくわけで、これは鎌倉時代から700年続いた武士が領民を支配するという封建制度そのものを否定する点で、倒幕よりも遥かに過激な革命だった。 施行前に情報が漏れれば諸大名が蜂起し戦国の世に戻りかねない。この為、廃藩置県は最高機密扱いで極秘裏に準備が進められた。発布に先駆けて西郷と大久保は薩摩藩兵を、木戸は長州藩兵を、板垣は土佐藩兵を密かに全国へ展開させ施行直後の反乱に備えた。 1871年7月14日、抜打ちで廃藩置県が発布される。 「ギョエーッ!」 各藩の藩主や藩士は絶句した。地位と財産をただ一編の文章で奪い去られてしまったのだ。ところが反抗しようにも日本最強の3藩軍がにらみをきかせておりヘタに動けない。“こんなことなら幕府をもっと応援すれば良かった”と各藩主は地団太を踏んだ。 特に薩摩藩主の島津久光はシャレになっていなかった。西郷、大久保という自分の家臣に煮え湯を飲まされたわけで、ヤケクソになった久光は鹿児島湾に無数の船を浮かべ、終夜花火を打ち上げさせてウップンを晴らしたという。 ★西郷、政府の頂点に 廃藩置県が“平和的”に施行された4ヶ月後、大久保、木戸、岩倉たち新政府の首脳は、西郷に留守を任せて2年間の海外視察&条約改正ツアーにごっそり出発してしまった。総勢100人の大使節団だった。 廃藩という大革命に激怒する士族(旧武士層)たちで騒然としている日本を、西郷たった一人に一任する…このことからも彼のズバ抜けた人望が推察できる。 西郷はトップ閣僚が自分一人になったのを不安がるどころか、これを行政の機動力が増したと考え、さっそく改革に乗り出した。 以下は西郷政府が実現した政策である〜 裁判所の設置、国立銀行開設、人身売買禁止令、太陽暦の採用、学制の発布と女学校の設立、キリスト教解禁、警視庁の整備、田畑売買の解禁、抽選による徴兵制、あらゆる階層の結婚の自由、士族による“切り捨て”の禁止(!)、公園の制定(今まで日本に公園はなかった)、等々。 明治新政府がやらなければならなかった諸改革のほとんどを、西郷内閣はこの2年でやってしまった。 注目したいのは、新政府が悩んでいた農民一揆や反政府運動が、西郷の統治した2年間はほとんど起こらなかったことだ。これは世の人々が西郷の政治に満足していた結果に相違ない。 かの福沢諭吉も西郷の政治手腕を高く評価しており、 『あの2年間は民に不平がましいことも起こらず、自由平等の気風に満ちた最良の時期だった。従来のように正しい者が処罰され、悪がはびこることもなかった』 と、後に聞いて回想している。 巷の一部の歴史書には、彼が維新後に田舎で隠遁生活を始めたことを指し、 “西郷は維新達成と同時にフヌケになってしまった” などど書いているが、これは上記の事実を完全に見過ごしているといえよう。 ●西郷の怒り〜征韓論の真相 ※ここからは「維新後の西郷は何もしていない」「西郷は朝鮮侵略を主張した軍国主義者だ」という、ふたつの誤った通説について検証したい。特に後者の誤解は深刻だ。実際自分も、これがために長く西郷に悪感情を抱いていたのだから。読者の多くも初めて知る真相だと思うので、反省の意を込め出来るだけ詳細に説明しよう。 征韓論。この件は教科書に 「西郷は政府に不満を持つ不平士族の目を国外にそらすため朝鮮侵略を強引に主張、海外視察から帰国した大久保らが内政優先の立場から出兵に反対すると彼らと激しく対立、論争に破れた西郷は政府を辞して再び故郷へ帰った」 とあった。おかげで、僕もずっとそう思ってた。最近色々と文献を調べて分かったのだが、これは後に薩摩との西南戦争に勝利した明治新政府による“勝者の史実”だったのだ。具体的に説明しよう。 江戸時代、隣国の朝鮮はかつての日本と同様に鎖国政策をとっていた。ただし同じ“鎖国仲間”という理由で日朝の間には、ささやかながらそれなりに交流はあった。しかし徳川幕府が欧米列強の圧力に屈し全面開国したことで、朝鮮は国交の断絶を正式に幕府へ通告する。 明治初年、西郷が帰郷して畑を耕していた頃、新政府は朝鮮との国交を復活させようとして、位置的に昔から朝鮮とパイプの深かった対馬の宗氏を使者として送った。しかし、その持参した国書がまずかった。作成した者の知識不足が原因なのだが、文面に使用した言葉に清国の皇帝が格下の者に使う言葉が含まれており、朝鮮側は国書の受け取りを拒否、さらに国交復活を完全に拒絶してしまった。 明治政府はその後も朝鮮に国書を送り続けたが一度も受取ってもらえず、一向にらちがあかなかった。頭を抱えた新政府は、直接外務省高官ら外交のトップを派遣したのだが、一行は首都にすら入れず、何一つ成果をあげることなく帰国することになった。メンツ丸潰れで帰って来たメンバーは、 「即刻朝鮮を討伐する必要がある」 と激烈な征韓論を唱え始め、政府の中心人物に説いてまわった。 こうして征韓論は人々の間で次第に熱を持ち始め、温厚な木戸でさえ当時の手紙に 「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」 と書き記すほどだった。西郷が新政府に参加した時は、既にそういう状況になっていた。 そして1873年。大久保らの留守中に政府をしきっていた西郷のもとに、釜山で日本人居留民と現地の人々との間に緊張感が高まり、一触即発の危機になっているとの報告が届く。政府として対応を迫られる事態となった。 この時の閣議の記録が残っている。 (外務省代表) 「居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」 (板垣退助) 「居留民を保護するのは政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後に修好条約の談判にかかるのが良い」 (西郷) 「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここは、まず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、一番の良策であると思いもす。」 (太政大臣) 「とはいえ、その全権大使は護身できる程度の少数の兵を連れて行かぬわけにはいきますまい。」 (西郷) 「いかん。兵を引き連れるのはよろしくありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす。」 (大隈重信) 「洋行している者の帰国を待ってから決定されるが良いのでは。」 (西郷) 「政府首脳が一同に会したこの閣議で、国家の大事の是非を決定できんともすか。ならば、今から正門を閉じて政務を取るのを止めもそ!」 こういわれては誰も大使派遣案に反対できなかった。さらに西郷は、その朝鮮への全権大使を自分に任命して欲しいと主張する。これは第一次長州征伐でもそうであったように、自ら死地へ身を投じることで一気に事態を打開する、というのが彼十八番の常套手段だったからだ。 「ここまでこじれたら、おいが行くのが一番早いばい。」 閣議に出席したメンバーは西郷の申し出に驚愕した。西郷は政府の首班であり、現地で万一のことがあったら政府にとってこれほどの危機はない。しかし西郷は強引に押し切り、最後は全権大使に任命された。 (この議事録を読めば分かるように、西郷のどの言動にも「征韓」などという荒っぽい主張は出ておらず、むしろ反対意見を述べている) 西郷はさっそく渡航の準備を始めたのが、そこに大久保らが洋行から帰って来る。再度閣議が開かれ、その席で大論争が起きた。 「トップの西郷が交渉に失敗すると、戦争になるかもしれない。今の政府の状態では外国と戦争をする力がなく、朝鮮使節派遣は延期するべきだ」 これが洋行組の主張だった。西郷は戦争をしないために平和的使節を派遣したいと言っているのに、戦争になると決め付けて大久保や岩倉が反対意見を述べることに納得がいかない。 最終的に、西郷と付き合いの長い大久保はその熱意に折れたが、公家出身の岩倉は朝廷サイドから圧力をかけ、西郷の派遣案はとうとう潰されてしまった。 こうしたことの他にも、役人の汚職追放になかなか本腰にならぬ周囲への怒りも加わって、ブチ切れた西郷は新政府に辞表を叩き付け、薩摩の農夫暮らしに戻ってしまった。 この征韓論争は、西郷ら外征派(朝鮮征伐派)と大久保ら内治派(内政優先派)との論争だと本にはよく書かれている。しかし、繰り返すが西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一度も主張していない。それはまったく事実と反していることだ。また、内政の充実が先決だと主張した大久保らだが、西郷が去った後に新政府がした事と言えば、翌年に台湾を武力で征伐して中国と事を構え、翌々年には朝鮮に進撃し、武力で屈服させ強制的に修好条約を結ばせている。 西郷の平和的使節派遣に反対し、内政優先を唱えた連中がやったことがこれだ。これをもってしても、外征派対内治派という構図がいかにまやかしであったかが分かる。いつの間にか歴史の通説において、西郷を征韓論の首謀者と決め付けるようになったのは、平和的使節を派遣しなかった明治政府が、武力制圧の正当性を主張するがゆえに“史実”を書き換えたからであった。 ●西郷最後の戦い〜西南戦争勃発! 西郷の辞職とそれに続く帰郷は国内に衝撃を走らせた。維新からの流れで新政府には多数の薩摩藩出身者が要職に就いていたが、西郷を慕う者は続々と彼に続いて鹿児島へ帰郷した。 一方、洋行先で圧倒的な工業生産力を目の当たりにしてきた大久保らは、一刻も早く近代化を図らねば日本が欧米の植民地にされかねないと、社会構造の変革を焦る。そのしわ寄せが集中したのが、時代の流れに取り残された士族(武士)たちだった。農民には田畑があり、商工業者は手に職を持っていたが、多くの武士は自活する手だてがないまま突然世間に放り出された形になった。最初は新政府も廃藩した責任上、国家予算の40%を注ぎ込んで彼らに録を支給していたが、国家財政を安定させる為に、年々支給額を切り下げていく。 西郷は役人の汚職が相次ぐ新政府に、自らの腐敗構造を律する自浄能力がないと判断、再革命の必要性を痛感していた。そして、彼は自分を追って次々帰郷してくる者や、社会改革が進む中で官僚にも軍人にもなれなかった郷土の下級士族たちの為に、私学校を設立する。そこでは“その日”の為に武術を教えていたが、同時に農業を積極的に学ばせた。身分制度のなごりで士族の中には刀の代わりにクワを握ることに抵抗を感じる者もいたが、西郷は自らがイキイキと泥んこになって見せることで、彼らに土に触れることの素晴らしさを説いた。飢えが人間の尊厳を一番奪い、武術はその後に続くことだと西郷は考えたのだ。彼らは広大な面積を開墾し、“飢えから解放された”士族となった。 西郷が新政府を抜けて3年目の1876年春。全国の士族が将来への不安や絶望感に包まれ生活していた所へ、「廃刀令」が出される。武士の魂と言われた刀を持ち歩くことが禁止され、彼らの形だけ残っていた最後のプライドも粉々に砕け散った。時代の波に乗れぬ不器用な士族には自殺者が相次ぐ。 同年、秋。 最初に熊本、次に福岡、さらに山口と、次々に不平士族の反乱が起こり始めた。しかし、それぞれが単発的な反乱であったため、即座に政府軍に鎮圧される。西郷はその動きに呼応せず、微動だにしなかったが、それは自分が立つときは再革命の見込みが立った上でと考えていたからだった。 一方、薩摩出身の大久保は故郷の軍事力が侮れぬことを誰よりも知っており、政府からは最大の反政府勢力とみられ両者は極度の緊張関係におかれた。 反政府運動が頻発して起こる中、なかば独立国家状態にあった鹿児島に、大久保は23名の密偵団を送り込む。密偵団の目的は私学校生徒らと西郷の仲違いを図るということ、そして、国家統一の為に鬼畜と呼ばれる腹をくくった大久保が下した、一度は須磨海岸で共に死を誓った盟友・西郷の暗殺だった。 また同時に大久保は、万全を期して、鹿児島にあった陸軍の火薬庫から武器・弾薬を他県に移送しようとした。そしてこれが西南戦争勃発の直接のきっかけとなる。私学校生徒は移送を阻止し、捕らえた密偵の一人から西郷暗殺の密名の存在を知る。 「政府は先手を打ってきた。西郷先生の暗殺団を送りこみ、なおかつ、武器を隠れて他に輸送しようとするとは、けしからん!」 と徒党を組み、1877年1月31日、興奮した一部の過激な私学校生徒が次々と鹿児島各地の陸軍火薬庫を襲撃した。その騒動が飛び火して、鹿児島市内は天地をひっくり返したように騒然となった。 西郷は私学校生徒が政府の挑発に乗り、陸軍の火薬庫を襲ったとの報を受け、 「しまった!…なんちゅうことを!」 こう絶句した。西郷の心の中ではまだ挙兵する時期ではなかったのだ。続々と西郷の元へ駆けつけた生徒たちは、必死で自分たちを率いてくれと懇願した。 “この混乱を収めるには、勇み足を踏んだ生徒を政府に出頭させるしかないが、陸軍の施設を襲った以上、生徒たちはただでは済まされまい。まだ前途ある若者らを捕まえ、政府に差し出すという非情なことは出来ぬ” 彼はこれもまた天命であると腹を決めた。 「おはんらがその気なら、オイ(自分)の身体は差し上げ申そう」 「政府に尋問の筋これあり」(政府を断罪する理由が我らにある) 西郷はこのような挙兵の理由を掲げ、東京へ向け兵を出発させた。この“尋問”には汚職まみれの中央役人に対してだけでなく、暗殺命令を下した親友・大久保への問いかけが込められていた。 “時期尚早”とはいえ、西郷にも勝算がまったくない訳ではなかった。全国各地には不平士族が溢れており、自分が挙兵すれば、あるいはなだれをうって彼らが蜂起し、再革命に道が開くかもと考えていたのだ。しかし、新政府がこれまで各地の反乱に対して、首謀者を江戸時代さながらに“さらし首”にするなど徹底的に弾圧してきた為、もはや士族たちに起ち上がる気力は残っていなかった。 西郷軍3万に対し政府軍は倍の6万。西郷は熊本城まで進軍した所で足止めをくらい、田原坂(たばるざか)での大激戦を経て、大分方面へ各地を転戦していく。西郷軍の戦死者1万5千人に対し、政府軍は圧倒的兵力を投入しつつも1万7千人という西郷軍を上回る犠牲者を出していた。しかし徴兵制度で無尽蔵に兵力を補充できる為、西郷軍は次第に劣勢となる。 そして他県で連鎖的な蜂起がまったく起こらぬことを悟った西郷は、これ以上の抵抗は無意味だと判断、日向・宮崎にて 「おはんらの若い命をこれ以上犠牲にできんたい。生きもそ。」 と、軍の解散を決定する。 西郷ら薩摩軍幹部は軍を解散させた後、死に場所を求めて鹿児島に引き返す。異郷の地でさらし首になるよりは、自分たちが生まれ育った鹿児島で最後の決戦を行い、死のうと考えたのだ。 鹿児島に戻った西郷たちは、山道が険しく防御に強いと思われる城山を占領、そこに陣地を作り上げる。政府軍はその城山を完全に包囲し、西郷の本陣目がけ徹底的に集中砲火を浴びせた。 そして、運命の1877年9月24日。 「同じ死ぬのなら前へ進んで死のう」 西郷軍幹部全員が本陣の洞窟前に集まり、こう決意を固めた。降伏しても死罪が待っているとなれば、西郷も生徒たちの決定を否定するわけにはいかなかった。やがて彼らは前線の政府軍に向かって下山し始める。雨あらしの如く集中砲火が降り注ぐ中、弾を避けることもなく…。 生徒たちは一人また一人と銃弾に倒れていき、とうとう西郷の体にも銃弾がめり込む。西郷は肩と太ももに数発の弾を受け、もう立つことも出来ない。彼は傍らにいた同志・別府晋介に、 「晋どん、もうここいらでよか…」 と告げる。別府はその言葉に、かすれた涙声で「はい」と返事してうなずくと、絶叫と共に西郷の首を落とした。 こうして維新以来最大の反乱は終結し、西郷隆盛は49年の激動の生涯を終えた。 翌日の新聞は「賊軍の首領・西郷を成敗」と書き、明治の学校で子供たちは“卑しき反乱軍の大罪人、西郷”と教えられた。 ★エピローグ 倒幕を果たし維新三傑と呼ばれた西郷、大久保、木戸。長州の同志・木戸は西郷が自決する4ヶ月前、西南戦争の最中に脳病の為に45歳で病死、西郷軍の討伐を命じた大久保自身も、西郷の死から1年も経たぬうちに不平士族の暗殺集団によって、惨殺された。めった斬りだった。享年47歳。 こうして明治維新の立役者3人は、全員が死んでしまった。 高杉の悶死から始まり、龍馬も、ライバルの土方や近藤も、幕末に起ち上がった者はこれで誰もいなくなった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ★ついに西郷の聖地へ! サウナで仮眠した翌早朝、西鹿児島駅前から始発のバスに乗り、西郷の眠る南州墓地を目指す。“南州”とは西郷が名乗っていた号だ。 約15分でバスから下車し、降りる時に運転手が名刺の裏に書いてくれた地図を見ながら南州墓地を探した。墓地はバス停から少し距離があり、しかも道路からは死角になる丘の上にあったので多少迷う。墓地には門がなく、24時間誰もが自由に西郷と会えた。 長い階段を登ると、絶景が待っていた。墓地からは足下に鹿児島市内が一望でき、正面に桜島の堂々たる勇姿が見えた。墓地には西郷の墓を中心に、西南戦争で散った生徒たちの墓が400基ほどあり、郷土薩摩を愛した彼らにとって、ここより素晴らしい場所は他にあるまい、とそう感じた。 墓地に眠る彼らは本当に鹿児島の人々から愛されているようで、多くの墓前に名前と生涯を記した立札があった。その中に鹿児島県知事・大山綱良の墓があったので、どんな人だろうと説明文を読めば、 『新政府から任命された知事でありながら、西郷軍に食糧、弾薬等を援助した罪で処刑』 と書かれていた。知事の彼は、西郷軍に物資を援助すれば自分がどうなるか分かっていたはずだ。う…、こういう話に弱いッス。 西郷の墓前では現在の日本の政治状況を報告。役人の汚職がまったく減っていないと言うと、墓石がピクピクと小刻みに震えた(気がした)。その後は生徒たちの間に座って、1時間ほどボーッと鹿児島湾を眺めていた。 さて、その帰り。 墓地の地面がフカフカするので、犬の散歩に来たおじさんに“これは…”と質問したら、前日に小さな噴火があったとのこと。それで墓地全面を火山灰が覆っていたのだ。もう一度桜島を見ると噴煙はまっすぐこちらへたなびいている。どうりで朝からコンタクトの目に激痛が走るはずだ。 バスで駅に戻り午前8時40分、熊本方面行きの各停で、九州南端から大阪への帰路についた。この大巡礼も神戸の淀川長治師匠を残すのみとなった。 ※幕府時代に親が貧窮死した福沢諭吉は「封建制度は親の仇でござる」と語っており、それゆえ維新後に“天は人の上に人を創らず”と書いた。その『学問ノススメ』の執筆直後に“西郷自決”の報を聞いた彼は、 「西郷一人、なぜ生かせなかったのか…!」 と、維新を導いた彼の死が日本の将来にどれだけの痛手となるか嘆いた。 =================================== (あとがき) どうも西郷編10回シリーズに最後までつきあって下さってありがとうございました。ここでは一般の武勇伝型の偉人伝ではなく、歴史に翻弄される様々な人物が、苦悩し、もがく姿を基本にまとめあげました。如何だったでしょうか? 自分にとっての西郷編のポイントを以下に記しました。 ・辞職した西郷の上司や、無名に近い名君・島津斉彬の紹介 ・西郷が自殺未遂して友人が死んだ事件 ・「オイ(俺)ごと突け、オイごと刺せ」の寺田屋騒動の悲劇 ・西郷2度目の島流しや長州征伐で平和的解決に奔走した件 ・8歳年下の龍馬に怒られる西郷、龍馬の死 ・敵将勝海舟との友情と江戸城無血開城 ・西郷の農夫生活、封建制度にトドメを刺した大革命・廃藩置県 ・西郷の朝鮮侵略反対論 ・再革命の挫折と故郷の山中での死 単に『明治維新の際の有名人』という理由ではなく、自殺未遂や島流し、農夫となった田園生活などのエピソードを通じ、ひとりの人間として西郷が好きになり、鹿児島の地まで墓参に行ったことを書きたかったのです。 『聖人君子』のような人間が実際にいるとは思えませんが、西郷の言動はどこにも保身を図ったり他人をおとしめようとする部分がなく、本当にびっくりするくらい無欲で誠実でした。もちろん、公平を期す為に彼の短所も調べましたが、薩長同盟で藩のプライドに固執して龍馬から大目玉をくらったことくらいです。ああ〜、僕は墓掃除の為に鹿児島へ引っ越したい! とにかくこれで、自分でもかなり混乱してた幕末の人物関係が、何とか整理できました。…ですが、もう当分幕末の話には触れたくないです(笑)。 維新から10年後は維新の立役者たちが皆死んでしまっていたので、彼らの政治論議は机上の空論ではなく、命のやりとりだったのだとあらためて実感しました。 (完) |
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