世界巡礼烈風伝・75 《ジャマイカ編》 ★レゲエの神様ボブ・マーリィ! 「僕は自分を革命家だと思っている。誰の助けも借りず買収もされず音楽を武器に単身戦っているからだ」(ボブ・マーリィ) 「やがてレゲエが世界を席捲するだろう」(ジョン・レノン) 2001年7月24日早朝。僕は大阪空港を飛び立った。中南米に眠る2人の英雄と会うために。 一人はレゲエという新ジャンルの音楽を世界に広めた、ジャマイカのスーパー・ヒーロー、ボブ・マーリィ。もう一人は、ミサの最中に軍部によって暗殺されたエルサルバドルの平和運動家ロメロ大司教(元ノーベル平和賞候補)だ。 最初に目指したのはカリブに浮かぶ小さな島国ジャマイカ。大きさは秋田県とほぼ同じ。大阪〜成田、成田〜アトランタ、アトランタ〜マイアミ、マイアミ〜ジャマイカと、4便を乗り継いでジャマイカに入る予定だった。 「うおお、は、はよう飛び立ってくれ〜い」 マイアミ空港で僕は猛烈に焦っていた。マイアミからジャマイカへエアー・ジャマイカでわずか1時間半で着くのだが、20時のフライトのはずが、既に22時だというのにエンジン・トラブルで一向に離陸しないのだ。このままでは真夜中に到着することになってしまう…! ジャマイカは外務省の海外危険地域情報で1998年から“注意喚起”の発令が出たまま取り消されておらず、最近も首都で暴動や銃撃戦があったばかり。深夜に現地入りする“飛んで火に入る”状態だけは絶対に避けたかった。 しかし非情にもフライトは24時。当然ジャマイカには超デンジャラス・タイムの入国となった。 着陸した場所は首都のキングストンではなく、国内第2の都市モンテゴベイ。無法地帯(という噂)の首都に入らず、モンテゴから入国する事にしたんだ。 ジャマイカにたどり着いたものの、この時点で本当にボブの墓にいける確率は5分5分だった。 なぜならボブはあれほどの有名人であるにも関わらず、ネットでいくら墓を検索しても、墓地に行ったという話が全くなかったからだ。ボブの死から20年…ウーム、日本人は誰も行ってないのだろうか? 海外サイトで墓のある村の名前だけは何とか調べることが出来たが、世界地図には小さな村の位置まで載ってはいない。結局、正確な場所が不明なままジャマイカに飛ぶしかなかった。 すべては現地での聞き込み調査にかかっていた。(某・歩き方にも墓情報は皆無) 大阪から約30時間のハードな行程で、硬直した腰からは電気がバチバチとスパークしていた。 ヘロヘロだったが空港ゲートを出るなり耳に飛び込んできたのは街中から聞こえてくるパトカーのサイレン。僕はいっきに警戒レベルMAXの態勢に入った。 僕は悪党に取り囲まれる前に素早くタクシーに乗り込み、空港のすぐ近くの宿に駆け込んだ。 そのタクシーで運転手にボブの出生地であると同時に彼が眠っているという“ナイン・マイルズ村”を知っているかどうか尋ねてみた。ジャマイカは英国の植民地だったので英語が通じるのだ。 「おう、知っているとも!」 「ええっ?マジっすか!」 「村には博物館があって、その中だぜ」 「うお〜っ、で、その村は遠いっすか!?近いっすか!?」 「ウ〜ン、片道3時間はかかるかな」 「ちなみにタクシーだと往復いくらくらい?(ドキドキ)」 「相場じゃ200ドルくらいかのう」 「(ウゲゲ)に、にひゃく…バ、バスはないんすか!?」 「公共のバスなら安く行けるが、強盗が多いし行き先は天国かも知れんぞ。途中の山は今でも山賊が出るし」 「ハチョ〜ッ!」 宿屋の主人にも質問したが同様の答えが帰って来た。“行きのバスには乗れても帰りのバスがいつあの村を通るか分からんぞ”とも言われたので、結局バスは諦めることにした。そして“150〜200ドルはみとけ”と言ってたので、どうやら本当にその辺が相場のようだった。 アイタタタタ…。 宿の周辺にはその手のお姉さんや、ヤクの売人チックなお兄さんがたくさんおり、時折聞こえるパトカーのサイレンを子守歌代わりに眠りにつく。 就寝前、念入りに虫除けスプレーをかけた。ジャマイカでは蚊を媒体にした死亡率50%の『デング熱』(これがなんと予防薬なし)に注意せよとこれまた外務省のHPでビビらされていたからだ。 翌朝! さっそく朝6時半に行動を開始した。悪党はだいたい午前11時頃まで爆睡しているので、治安の悪い土地では正午までに現地での主な活動を終え、夕方以降は出歩かないことが生き残る鉄則だからだ。 僕はとりあえず街中の大きなタクシー乗り場に足を運び、一度大きく深呼吸をした後、停車中のタクシーに近づき片っ端から値段交渉を始めた! …と言いたい所だが、実はいきなり1台目のタクシー(ワゴンタイプ)に乗ることになった。 そのドライバーはスキンヘッドのマッチョな黒人で、とにかく押しが強かった!まだ値段交渉してるのにトランクを開けて僕の荷物を入れようとするのだ。彼は当然の如く200ドルを提示するので“宿屋の主人が150ドルで行けると言っていた”とジャブを放つと 「俺は村への近道を知っている。俺にまかせれば速くしかも正確だ。それに村へ続く山道はデコボコでとても危険だ。190ドルは貰わないと」 と、説得しにかかってくるのでこっちも負けじと 「帰りは僕が代わりに運転する。あなたは後部座席で眠ってればいい」 とウルトラCを叩き付けた。この提案が彼にバカウケ。彼はひとしきり大笑いした後、 「売上はボスにほとんど取られるんだ。180ドルで頼む」 と急にまじめな顔つきで言ってきた。“そんなの僕に関係ないじゃん!?”そう思ってると、彼は続けて“自分には小さな子供が5人もいる(出た!)”と伝家の宝刀を抜いてきた。 しかし、この心理戦に終止符を打ったのは彼の以下のセリフだった。 「この180ドルはただの180ドルじゃない。俺は元ボクサーだ。山賊襲撃のボディガード代込みの180ドルだ!」 オヒョ〜ッ! 僕は彼に生命を預けた ★レゲエの神様ボブ・マーリィ!(2) 「レッツ・ゴー!」 とにもかくにも、僕らはボブ・マーリィが眠るナイン・マイルズ村へ向け出発した。 そのタクシー・ドライバーは名をウィリアムズと名乗った…ついでに43才とも。なるほど、子供が5人いてもおかしくない。 「先に10ドル払ってくれないか?」 走り出してすぐ助手席にいる僕に彼がこう切り出した。ガソリンが足りないというのだ。いやはや、タクシーの運転手がガソリン代を持ってないとは恐れ入った。 ガソリンスタンドで彼はいそいそと公衆電話から自宅へTELしていた。何を喋っているんだろうと耳を澄ませたら、どうやら妻へ “イエーイ、180ドルの大仕事をゲットしたから今夜はパーティだぜ!” みたいなことを言ってうかれていた。 …この瞬間僕は完全に事態を把握した。ヤツは雇主にこのナイン・マイルズ行きを内緒にしておく気なのだ!クーッ、やってくれるの〜。 ウィリアムズは鼻歌を歌いながらゴキゲンちゃんで戻って来ると、 「ヘイ、カジポーン!音楽を聴こう!」 とカセットケースを開け色々とセレクトし始めた。ウィリアムズの好みは初期のレゲエと60年代のアメリカン・ポップス。ボブ・マーリィだけは特別で、初期に限らず晩年まで全てが彼の愛聴盤だった。 ウィリアムズは行きも帰りもテープに合わせて大声で歌い続けた。僕も知ってる曲は一緒になって歌っていた。ノリのいい曲だとウィリアムズは走行中でもハンドルから手を離して踊りだす始末。そんな時は僕が横からハンドルをしっかり固定していた(クラクション係も少々)。こういうの日本じゃ考えられないね(笑)。 空は快晴。気温は32度。窓は全開で、風が心地良い。左右には広大なサトウキビ畑。 ときおり道を阻むのは牛の横断。マングースもよく前方を横切った。カーステから流れてくる音楽はボブの『ワン・ラブ』やルイ・アームストロングの『素晴らしきこの世界』。 ウ〜ム、完璧すぎ!理由もなくちょっと涙ぐんださ、僕は…。 で、2人して『ワン・ラブ』のサビの“♪レッツ・ゲット・トゥゲザー・アンド・フィール・オール・ライト!”を熱唱した。
ウィリアムズはガタイがしっかりしているので黙っているとけっこう迫力あるが、とてもつぶらな瞳をしているうえ、笑顔がなんとも人懐っこく、周囲は温かいオーラに包まれていた…他の車に追い越されぬ限りは! 世界最速のタクシー・ドライバーを目指す彼は、他車に抜かされると奇声をあげて追い抜き返すのだ。客を乗せているというのに! 特に山道に入ってからが凄まじかった。カーブの向こうは断崖絶壁なのに、飛ばす飛ばす。彼はパリ〜ダカール・ラリーに出場すれば間違いなくチャンピオンに輝くはず。ていうか、なんでジャマイカの山中でそんなコーナリング技術を極めるわけ!? 僕は途中の路肩に立ててある看板、 『Don`t speed.Speed kill you!』 を目にする度にウィリアムズの方をポンポン叩き 「ホラ、ウィリアムズ、あそこに何か書いてあるよ」 とうながした。彼の返事は決まって 「ヤーマン!ヤーマン!」 この“ヤーマン”はジャマイカ人が頻繁に使う言葉でYESの意味だ。ここでは“分かった、分かった”というところか。って全然分かってないじゃん!(ちなみにサンキューは“タンキュー”だ) しか〜し。マッハで突き進むジェット・タクシーはある条件下で突然減速する。その条件とは若い女性だ。笑ってしまうが、ウィリアムズは視界前方に若い女性を確認するとにわかにブレーキングして手を振るのだ。 また、相手が後姿だと 「振り向け、振り向け…」 とつぶやきながら、必ずクラクションを鳴らして振り返らせる。そして僕に“今の娘は最高だった”とか“感動するほどの美人だ”などと必ず批評をしてくる。 ジャマイカの女性はこういうのに慣れっこみたいで、ウィリアムズが 「ヘーイ!」 と声をかけると必ず“クスッ”と笑顔になったのが印象に残った。 往復5時間ともなれば彼の口から色んな話が出てくる。 妻には絶対に内緒だぞ、と前置きをして(ど〜やって僕が告げ口できるというのだ)、浮気相手のガールフレンドのヘソの上にラム酒をかけて飲むと最高だとか(あのな〜)、鎖骨の窪みが深い娘にシビれるといった、種族保存本能に関する話を長々とホット・トーキングされた。 7時半にモンテゴベイを出発し、悪路を突っ走ること2時間半。10時過ぎにとうとうナイン・マイルズ村に着く。 さあ、いよいよ夢にまで見たボブとの対面だ!
★レゲエの神様ボブ・マーリィ!(3) 〜ボブ・マーリィはなぜスゴイのか?(前編)〜 カリブ海に浮かぶ小島ジャマイカは、恐怖の征服者コロンブスによってスペインの植民地となり、先住民は過酷な労働と白人が運び込んだ病気で絶滅(!)してしまった。その後、労働力不足を解消するため多くのアフリカ人奴隷が連れてこられる。1670年、支配者は英国に代わり、独立を成し遂げたのは1962年と比較的最近だ。現在の国民の殆どは、かつて奴隷として大陸から連行された黒人たちの子孫なのだ。 植民地時代の英国は、人々が本当に必要とする穀物や野菜ではなく、利益の高いサトウキビばかりを低賃金で作らせていた。これは民衆の貧困と飢えの原因となり、抵抗音楽のレゲエを生む一因となる。独立後の現在も支配層を白人が占めており、政治と経済の両面で混乱が続いている。 ※“レゲエ”という言葉自体は、ジャマイカ英語の“レゲレゲ”(抗議する)からきている。1968年にトゥーツ&ザ・メータルズが『ドゥ・ザ・レゲエ』をヒットさせたことで定着した。 ンチャッ、ンチャッと裏拍ではねるギター、地を這うメロディックなベース、そして渇いた音のドラム。そこへ社会改革を訴える歌詞を乗せたのがレゲエだ。 激情的な歌詞の内容とは裏腹に、ゆっくりとしたレゲエのリズムは、まるで心臓の鼓動のように身体の芯に響く。“レゲエはメロディーが単純すぎて10分も聴くと飽きてしまう”そう思う人に僕は言いたい、“それは10分だからだ”と。2時間ぶっ続けで聴けば、鼓動がリズムと完全に調和してしまい、全身が音楽と一体になる快感から逃れられなくなるハズ! 身体の最深部で味わう音楽、それがレゲエの魅力だ。 1945年2月6日、ボブ・マーリィ(本名ロバート・ネスタ・マーリィ)はジャマイカ北岸の山中にある小村、ナイン・マイルズで白人の英国陸軍大尉と黒人ジャマイカ女性との間に生まれた(“ボブ”は“ロバート”の愛称)。父はボブが生まれた後、すぐに行方をくらました。 彼は混血児だ。ゆえに白人社会からも黒人社会からもヨソ者扱いされ、少年期に深い孤独感を味わった。これは、後年彼が世界中の人々に肌の色の違いを超え、同じ人類として生きようと訴え続ける強い動機となった。 「夫(ボブ)は少年時代から二つの世界に引き裂かれて悩んでいた。だから自分のルーツを人類の起源の地と言えるアフリカに求めて、宗教や人種を超えたメッセージを歌に込めたの」(リタ・マーリィ) (12才)ボブは首都キングストンに出て、スラムのトレンチ・タウンで母親と一緒に暮らし始める。 (15才)この頃ピーター・トッシュやバニー・ウェイラーと出会い、共に音楽活動を始めるようになる。 (18才)音楽仲間は6人になりザ・ウェイラーズを結成。最初のデビュー・シングルがヒットするが印税をほぼ全額レコード会社と音楽プロデューサーに持っていかれる。ジャマイカの音楽界はラジオが中心で、ミュージシャンは欧米のバンドのようにライブで収入を得る道がなかった。 ボブたちは全国的に著名でありながら経済的には常に困窮しており、仕事がなく犯罪へと走る 都市部の若者達と社会への不満を共有していた。※この当時、ボブは路上生活をしている。 (19才)アフリカ回帰をうたう宗教“ラスタファリズム”に目覚める。ラスタ教の信者(ラスタマン)はいつの日か人類発祥の地である、母なる大地アフリカに帰ることを夢見ている。彼らが髪を切らずにドレッド・ヘアという縄のれんのような髪型をしているのは、自分の肉体に刃物を当ててはならないという戒律があるからだ。だからドレッド・ヘアは、ファッションではなくラスタ教信者の証なのだ。 ボブの歌の中では、私とあなたの事を“ I & I ”と表現している。ラスタマンの表現には、”You”というものがないからだ。自分と他者を分けず、人類は皆“ I ”というわけだ。 またラスタ・カラーといわれる赤、黄、緑にもそれぞれ意味がある。赤は燃える血を、黄は輝く太陽を、緑は豊かな大地を表し、ここでもアフリカ回帰が強くイメージされている。物質主義を否定し、全員が厳格なベジタリアンだ。 ※レゲエ・ミュージシャンの誰もが頭をドレッドにするわけではない。彼らの中のラスタ教徒だけが、ドレッドにするのだ。日本ではドレッドの若者が“ハンバーガー”を食いながら街を歩く光景をよく見るが、あれは本物のラスタマンにしてみれば教義(菜食主義)の冒涜に等しい行為で、見つかれば半殺しどころか八分殺しにされても文句は言えまい。 ラスタカラーの三色。赤、黄、緑 (21才)ボブは音楽活動をしつつ溶接工の仕事につき、恋人のリタと結婚する。 この頃(1960年代後半)からジャマイカは政情がひどく不安定な状況に陥ってゆく。右派と左派の政治抗争はそれぞれの党の支持者同士の武力抗争に発展し、この争いではマシンガンどころか戦車まで登場した。憎しみの連鎖が次々と暴動を産み出し、多くの人が殺され、首都は世界で最も危険な区域となった。キングストンは悲惨な暴力と無秩序の町へと変貌してしまったのだ。 「ジャマイカで政治的な暴動が起きると、いつも若者同士が戦ってる。政治家の為にね。僕はムカついてくる。本当に気分が悪くなる。若者は飢えと失業から戦う。若者を生活苦に追い込んでるのは政治家なのに、ヤツらの為に若者同士が殺し合うなんて、僕は本当に胸がムカつく」(ボブ) (28才)ザ・ウェイラーズは完璧な音作りと異常なほどの練習量に加え、ジャマイカの現実をシリアスに映す社会性の強い歌詞で世界の矛盾に切り込んだ、レゲエ史上類をみない最高のバンドだった。 1973年ファースト・アルバム『キャッチ・ア・ファイアー』発売。これはボブたちにとって初の世界的ヒット作となったばかりでなく、それまでジャマイカの民俗音楽であったレゲエを世界に紹介したアルバムとして、音楽界に与えた影響ははかりしれない。 超カッコいい『キャッチ・ア・ファイアー』のジャケット やがてブルース・スプリングスティーンやスティーヴィー・ワンダーなど大御所の前座を務めるようになり、口コミでボブたちのライブにはストーンズの面々や元ビートルズのジョージ・ハリソンも顔を出すようになった。 セカンド・アルバムのタイトルは『バーニン』。これは“差別思想を焼き尽くせ”という意味の “バーニン”だ。 ●ゲット・アップ、スタンド・アップ(1973) 『♪立て 立ち上がれ 権利の為に 立て 立ち上がれ 戦いを投げ出すな 牧師さんよウソはやめろ 天国がこの大地の下にあるなんて お前は生きる事の真価を分かってない 輝けば何でも黄金とは限らない 物事には全部 両面ってのがあるんだぜ 光は見えた さあ どうする? 権利の為に立ち上がれ! 大抵の人間はこう思っている いつか神が空から現れ 問題を解決して皆を幸せにすると おい、人生の価値が分かるなら地上でそれを探せ さあ 光は見えた 権利の為に立ち上がれ!』 この“ゲット・アップ、スタンド・アップ”はボブ・マーリィの代表曲となった。 死んで天国に行くことを願うより、生きてこの世を天国に変えようと訴えるこの歌詞は、欧米のキリスト教圏に強いインパクトを与える。 さらに同アルバムから、エリック・クラプトンが『アイ・ショット・ザ・シェリフ』をカバーし世界的な大ヒットとなる。クラプトンはボブの簡潔で力強い作風、確信にみちた演奏スタイルに深く感銘を受けたのだった。『アイ・ショット・ザ・シェリフ』は作曲者のボブの名を有名にしただけでなく、クラプトンにもソロとして初の全米bPの栄冠をもたらした。 ●アイ・ショット・ザ・シェリフ(1973) 『♪俺は保安官を撃った 故郷じゃ奴等が血まなこになって俺を捜索している 確かに俺は保安官を撃った だが俺が言いたいのは あれは正当防衛だったんだ 保安官ジョン・ブラウンはどういう理由かは知らないが いつも黒人の俺を憎んでいた ある日、町を出ようとした所でヤツにばったりでくわした ヤツは俺に銃を構えていた だから俺は撃った そうさ ヤツを打ち倒したんだ 俺も色々考えたが結局なるべくしてなったことなんだ 毎日バケツで井戸の水を汲んでいれば いつかは底が抜けてしまうのさ あとはニュースを見てくれ もし俺に本当に罪があるのならいさぎよく償おう』 この“毎日バケツで井戸の水を汲んでいれば、いつかは底が 抜けてしまう”という部分は、人間の鬱屈した感情をすごく リアルに表現していると思う…! かくして、ボブは第三世界出身の最初の世界的アーティストとなった。 ★レゲエの神様ボブ・マーリィ!(4) 〜ボブ・マーリィはなぜスゴイのか?(後編)〜 (29才)1974年、ウェイラーズ内でメンバーの入替えがあり、新メンバーでサード・アルバム『ナッティ・ドレッド』を完成させる。この頃からバックコーラスに妻のリタが参加する。 ●ノー・ウーマン・ノー・クライ(1974) このスローなレゲエ・バラードは聖歌のように美しい作品だ。 『♪女たちよ泣くな 女よ泣くんじゃない 俺は覚えているよ トレンチタウン(スラム)の政府の建物の庭に 昔よく2人で座って偽善者どもを観察した そう、善良な人々の中にヤツらが混ざるのをね そんな中で出会った大切な友人たち… 戦いの中で一人 また一人と友は散っていった どんなに輝く未来がやって来ようと 昔の日々は忘れられやしない だから今は涙をぬぐうんだ 女たちよ泣くな 愛した男が倒れても 女よ泣くんじゃない 俺の進む術はこの足しかない だから俺は行かねばならない すべてはうまくいく きっとうまくいくさ!』 ●レボリューション(1974) 『♪現状の打開には革命が必要だ つのる一方の欲求不満 深まる一方の混乱 うごめく影に不安を覚えつつ公園になど住みたくない 友よ君にも分かって欲しい こずえに遊ぶ鳥のように人は自由であるべきだと 政治家どもの頼み事を聞いてはならない 連中は永遠にお前を牛耳るだろう』 (31才)1976年。上に紹介した“レボリューション”のようにボブの歌詞の内容は非常に具体的かつ反体制的だ。右派政党は国民に対するボブの強い影響力を恐れ、12月3日、ボブに殺し屋を送る。5人(ウィキは6人)の賊がボブの自宅を襲撃して銃を乱射し、弾丸はボブの胸と腕、そしてリタやマネージャーに撃ち込まれた。重傷の仲間も出たが、ボブは死ななかった。「この世界を悪化させようとしているやつらは休みを取っていない」と 2日後のコンサートに出演し、8万人の聴衆に銃弾の傷跡を見せ、怒りを表明した。その翌日、身の安全を守る為やむなく国外へ脱出し、バハマ、ロンドンで不本意ながら1年半の亡命生活を送る。 ●WAR(1976) 『♪この哲学が 人種に優劣をつけるこの哲学が 永遠に消えない限り戦争は続く あらゆる国の民に1級だの2級だの区別がある限り 肌の色の違いが目の色の違いほどにならない限り 戦争は続く』 警官とトラブッているところ (33才)1978年、ボブはジャマイカへ帰国した…胸中にある計画を持って。彼は帰国直後に音楽ファンの間で今も伝説となっている、《ワン・ラブ・ピース・コンサート》に出演した。 コンサートは非常に大規模で、一日中キングストンは人であふれた。外国の取材班も多数集まり、客席の前列一帯には、首相、国会議員、判事らが招待された。ボブの計画とはこのステージ上で、ずっと血みどろの抗争を続けていた与党と野党の両党首を握手させることだった! ジーンズに麻の服を着たボブがステージに上がったのは、真夜中ごろだった。久々のボブの登場に、聴衆は熱狂の渦に陥った。 歌のクライマックスでボブは両党首に 「どうかステージに上がり皆の前で握手して欲しい!」 とマイクを通して呼びかけた。当初面食らっていた両党首だが、大勢の観客が注視していることもあり、側近たちにうながされてしぶしぶとステージに上がっていった。 2人の党首がボブの横に立ち握手をすると、ボブは2人の手を取り、観衆全員に見えるように高々と持ち上げたのだった。ボブは祈るように目を閉じていた…。 そして、コンサートは名曲『ワン・ラブ』で幕を閉じた。 古今東西、多くのミュージシャンが世界を変革しようと社会に働きかけてきたが、これは目に見えて音楽が具体的に政治を動かした決定的な事件となった! この出来事の2ヵ月後、彼は生涯の素晴らしい思い出となる体験をする。彼はアフリカ諸国の国連代表派遣団から、第三世界平和勲章を授与されたんだ! ●ワン・ラブ(1977) この曲がアルバムに入ったのは77年だが、作曲されたのは彼がまだ18歳の時の63年で、とても古い作品だ。 『♪ひとつの愛 ひとつの心 皆で団結して幸せになろう 子供たちの叫びが聞こえるだろう 子供たちの願いが聞こえるだろう さあいいか 皆で団結して幸せになろう これは全ての人々への切なる願いだ 皆で団結して力を合わせればどんな困難だって乗り越えられる 皆で手を結んで立ち向かっていこう!』 (34才)4月、ボブ・マーリィ日本公演(!)。なぜ僕はライブに行かなかったのか悔やまれてならない。っていうか、当時小6の僕にはボブのことなど知るよしもなかった(ピンクレディーに夢中)。 ●アンブッシュ・イン・ザ・ナイト/闇の伏兵(1979) 『♪社会の現実も知らずに連中が権力を争ってる 銃と金を使って買収も横行している そう、俺たちの人間性を踏みにじるべく… 俺たちの知識は教え込まれた事だけで 無知な俺たちは操作しやすいらしい 連中の政策で俺たちは飢える 食い物を手にするためには仲間まで敵に回すハメになる』 (35才)アフリカで最後の植民地だったジンバブエが独立し、ボブはその独立式典に招待されコンサートを行った。 9月、米国ツアー中に彼は突然NYで倒れる…脳腫瘍、肺ガン、胃ガンが同時に彼を蝕んでいることが判明した。9月23日、周囲の反対を押し切ってボブは最後のライブを敢行した。そして彼が初期に作った曲から“俺は歩き続けることにした”というフレーズを繰り返し繰り返し、延々と45分間も歌い続けた。 「俺は歩き続けることにした」…それがボブなりのウェイラーズに対する別れの挨拶だった。 体重がわずか32キロまで落ち、死期が迫ったボブはTV局のインタビューに声を振り絞って語る。 「人種に優劣をつけて区別する思想が究極的に、また永遠に葬られない限り戦争は起きる。なぜ金持ちの人種と貧しい人種がいる?なぜ戦いを好む?若者たちは“ノー”と言ってる。もう終わらせる時だ…!」 晩年のボブはどんどん痩せていった (36才)1981年。彼は脳腫瘍の為に下半身が麻痺し、既に歩行は不可能になっていた。ラスタファリズムの掟により、頭を切る手術はできなかった。4月、ジャマイカ政府がボブに国家勲章を授与する。 5月11日、いよいよ死が迫り家族が彼の病室に集まった。 「どこにも行きやしないよ」 ボブはそう言ったが、しばらくすると目玉がくるりと回り意識を失い、いびきをかきはじめた。 数分後医者は、ボブの臨終を告げた。午前11時45分、脳腫瘍によりボブ・マーリィ死亡。 18才でウェイラーズを結成して以来、約90曲を残し、ボブは18年間の音楽活動にピリオドを打った(ファースト・アルバムの発売からわずか8年後の死だった)。 国家元首でも将軍でもない、ただのミュージシャンでありながら彼の葬儀は国葬とされ、首都の大聖堂で厳粛にとり行われた。 その後、遺体は故郷のナイン・マイルズ村へ運ばれ、村内の“ザイオンの丘(安息の地)”で彼は永遠の眠りについた。 …メッセージ性の強い彼の音楽は現在もなお、スラムに住む貧困層にとって解放のシンボルであり続けている。最晩年の曲『フロム・ザ・コールド』を紹介しよう。 ●フロム・ザ・コールド(1980) 『♪俺が話しているのはお前なんだ お前に対して話してるんだ なぜお前は仲間を社会に殺させるのか 一つの扉が閉まっても開いている扉はたくさんある 自分の頭を社会に抑えさせるのか ダメだ 絶対にダメだ お前の仲間を社会に殺させるのか ダメだ 絶対にダメだ お前が出会う巨人(敵)もかつては赤ん坊だった』 《補足》 元ザ・ウェイラーズのメンバーの大半は、その後非業の死を遂げている。 ピーター・トッシュ=射殺 バレット・カールトン=射殺 ジュニア・ブレイスウェイト=射殺 ジェイコブミラー=車の衝突事故 ウェイル(Wail)とは“嘆き叫ぶ”という意味。ザ・ウェイラーズは“嘆き叫ぶ者たち”ということ。 ★レゲエの神様ボブ・マーリィ!(5)最終回 事前情報の通り、到着したナイン・マイルズ村ではボブの生家一帯がそのまま博物館&墓地に なっていた。 「ゆっくり見てきな」 そう言ってウィリアムズはカフェに消えた。 博物館入口の売店でチケット代の12ドルを払うと、50才前後の渋いオヤジのガイドが、マン・ ツー・マンで館内の敷地をボブの生家から順に案内してくれた。 午前中ということもあって今日はまだ誰も旅行客は来ていないようで、ガイドは墓へと続く門の 錠前をガチャリと外した。 ガイドの名は“イジー”。 彼は明らかにハッパをやっていて、舌はまわってないし、目は黄色いし、裸足だし、足元もふら ついていた。でも、もうそんなことどうでもよかった。僕はもうボブのすぐ側まで来てるんだ! この門の向こうがザイオンの丘だ。ドキドキ。 門をくぐる時、イジーからジャマイカ式の挨拶のやり方を教えられた。 1.「ピース」と言いながら、右手の拳を上から降ろし、相手は逆に右拳をあげてコツンと合わせる。 2.「ラブ」と言いながら、さっきとは上下を入替えてゲンコツを合わせる。 3.「ユニティ(調和)」と言いながら、今度は正面からゲンコツを合わせる。 4.「リスペクト(尊敬する)」と言いつつ、最後は互いの親指の腹をこすり合わせる。 この4つの動作をポンポンポンポンとリズミカルにするのだ。 (これはコミニュケーションの基本らしく、後でカフェの店員や駐車場係ともこの挨拶を交わした) 門の向こうの小さな丘を2人並んで登って行った。これが“ザイオンの丘”だった。 途中にはボブが少年時代に住んでた小屋があり、彼のベッドがそのまま残されていた。また、彼が曲の構想を練る時に腰かけたという石のベンチや、仲間が集まった時に宴会をした食堂なんかもガイドしてもらった。
そして! ついに丘の上の墓へ案内された。目の前には小さな教会があり、ボブの墓はその内部にあると いうのだ。鼓動が極限まで速くなった。イジーは鍵を取り出し扉を開けた…すると教会内いっぱいに安置されている、高さ2m、奥行き5mを超す巨大な石棺が見えた。 「ディス・イズ・ボブ・マーリィ」 イジーは得意気にそう言い、ピース、ラブ、ユニティ、リスペクトと拳を出してきた。 「う…う…本当に、彼の墓前に来ることが出来るとは…」 僕は両手を広げ巨大な石棺にヒシッと抱きついた(セミみたいに)。そして自分が大好きな曲と その理由をボブに熱弁し、彼の生み出した音楽や、何よりその生きる姿勢を絶賛しまくった。 「イジー、しばらくここに居たいんだけど…」 「OK、ノープロブレム」 “ずっと、会いたかったですーッ!アルバム聴きまくってますッ!!”などと僕が恍惚状態で ソウル・トークをしている間、イジーは教会前の階段に座っていた。
立ち去る前に教会周辺の石ころを拾おうとすると、“マイ・フレンド、こっちゃ来い”とイジーが側にある小さな小屋に僕を呼んだ。小屋の内部には建設用具とたくさんのブロック(モルタル)があった。 「これは教会を建てた時の材料だ。これをお守りにあげよう」 そう言ってイジーはブロックを砕くと、破片をプレゼントしてくれた。 「ウヒョ〜!」 イジーってば、めちゃイイ奴! 思わず僕の方から、ピース、ラブ、ユニティ、リスペクト。 丘を下りながら、グラミー賞を獲った女性ヴォーカルのローリン・ヒルが最近ここに来た話をイジーはしてくれた(ローリンのダンナはボブの息子だ)。 最後に博物館の門を出る時、急にイジーがモジモジしだした。 「マイ・フレンド、何かを忘れていないかい?」 「ぬおっ!」 イジーよ…おお、イジーよ…。 ま、彼はずっと一生懸命解説してくれてたからいいんだけど、いかんせん相場がさっぱり分からない。とりあえず3ドルを渡すとイジーの口元が梅干を100個同時に食ったようにすぼまったので、アチャ〜ッと思って2ドル追加するとピース、ラブ、ユニティ、リスペクトが返って来た。 カフェに戻るとウィリアムズがベンチで爆睡していた。 「ね、ウィリアムズ、帰ろうよ。ね、帰ろうよ」 「う〜ん、ムニャムニャ…おお、カジポーン。どうだ、もう満足したか?」 「ヤーマン!ヤーマン!」 駐車場に戻るとハッパのバイヤーが数人待ち構えていた。 「どうする?吸うか?」 とウィリアムズが聞くので“デンジャラ〜ス、メイビー・ポリース”と僕が手錠をかけられる真似を すると“ガハハ、その通り”、そう言って彼はバイヤーを追い払ってくれた。ちょっぴりボディガード。 いつの間にか意気投合していたイジーとウィリアムズ 帰り道もウィリアムズは大ハッスル。フル・アクセルで、タクシーは道端の草を焼き尽くすファイヤー・ボールと化していた。ダッシュボードにしがみついていると、彼のカセット・ケースの中に手書きで“MY BEST”と書かれたものが目に入ったので、好奇心にそそられリクエストしてみた。 …このテープが最高だった! 冒頭の曲は『スタンド・バイ・ミー』。2人で“ダーリン!ダーリン!”と吠えまくる。続いてビートルズの『キャント・バイ・ミー・ラブ』『エイト・デイズ・ア・ウィーク』。他にもソウル歌手サム・クックなどの往年の名曲がいっぱい。ウィリアムズは 「…アイ・アム・オールドマン」 そう言って“はにかみ笑い”をした。車内は実に良いムード。ただ突然彼が、“サム・クーック!”とか絶叫するので、たまげるけどね。 2時間を経過しモンテゴベイが近づいた頃、彼がやぶからぼうに 「5分だけ時間をくれ」 と言ってきた。うなずくと車はいきなりコースを外れて住宅街に入った。ある家の前に車を止めると玄関に足を運び、2、3分で出てきた。そして再び彼は何事もなかったかのように発進した。 「ウィリアムズ…何だったの?」 「いや、明日の日曜は久々の非番だし、友人の家族と2家族でピクニックでも行こうと思ってな。ちょっと相談してたのさ」 ちゃんとパパやってるんじゃん、ウィリアムズ。 やがて今朝乗車したタクシー・ターミナルが目に入ってきた。と、何を思ったかウィリアムズが急に車を停めた。 「?」 「カジポン…すまんが今ここで残りの170ドルを払ってくれないか?」 「??」 「いや、あそこに戻ると同僚がたくさんいるし、周りから金のやり取りを見られてしまうんでな…」 “見られるって、客が金を渡すのは当然じゃん”僕は一瞬キョトンとしていたが、例のガソリンスタンドの電話と、彼の祈るような目つきでハッとした。ボスに秘密にする為には、当然同僚の目も誤魔化さねばならぬのだ。ハァ〜、恐れ入ったぜIQドライバー! 午後1時。こうして世界一陽気でパワフルなタクシー野郎ウィリアムズとのアバンチュールは終わり、僕はジャマイカを離れた。 ピース、ラブ、ユニティ、リスペクト、ボブ・マーリィ!! 完 (おまけ)ウィリアムズのハッピー・スマイル (歌詞等の参考文献:ドキュメンタリー映画『タイム・ウィル・ティル』ほか)
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