世界巡礼烈風伝・9の巻
(4日目その2)

『GO!GO!杉田玄白』


霞ヶ関。永田町と並んで、おそらく墓がなければ一生立ち寄ることはなかったであろうコキュートス(地獄最下層)だ。すれ違う高級官僚たちに、理由のない怒りを覚えつつ、虎ノ門の杉田玄白の墓を目指した。

烈風伝3の巻に登場した小塚原の刑場で、1771年、漢方医だった玄白(当時38歳)はある目的があって死刑になった罪人の解剖に立ち会った。欲しくて欲しくてたまらず、やっとこさで手に入れたオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』(この本は非常に高額で、所属藩の家老に涙を浮かべて懇願し、購入してもらった)の、そこに掲載された解剖図の精度を確かめたかったのだ。
彼は図版の見事な正確さに驚愕し、即、翌日から友人の医者2人と執念の全文翻訳に取り掛かった。

ところが、外交上で使うオランダ語は多少分かっても、医学の専門用語となるとさっぱり分からない。翻訳作業は遅々として進まず、ひたすら難航を極めた。わずか一行の文章を1日かかっても訳せない日もあったのだ。
しかし3人の苦闘の噂を聞いて、次第に志を同じくする協力者が現われ始めた。一年ほど経つと、ようやく1日に10行ほど訳せるようになり、昼に皆で訳した文章を、その日の夜に玄白が清書するという猛烈なスピード(!)で作業を続けた。

その過程で、どうしても邦訳できない単語は玄白らが新語を作った。神経、盲腸、解体などという言葉は全て彼らの造語である。
鎖国政策をとっている幕府に無断で翻訳作業をしていた為(何と彼らは翻訳許可も取らず、発行できるかどうか分から
ないものを作っていたのだ)、2年半が経った頃、翻訳中の『解体新書』の予告編として、『解体約図』という図面中心のミニ冊子をソ〜ッとドキドキしながら発行してみた。もちろん、幕府の反応を打診する為である。

将軍は智将吉宗だった為、お咎めも弾圧もなかった!
抱き合って喜んだ彼らはさらに加速度的に翻訳を進めた。完成すれば多くの人々の命が救われることは間違いなかった。そしてスタートから4年後、11度に及ぶ慎重な校正を終えて、ついに『解体新書』は仕上がった。最後の最後でしくじらぬよう、発売前に将軍家、朝廷、幕府老中へ真っ先に献上することでゴマをすっておいた。

出版の反響は凄まじいものがあった。当時の医者が使用していたいいかげんな五臓六腑図とは、その内容があまりに異っていたのだ。この後、西洋医学は爆発的に広がっていく。発売後も玄白は何度も改訂を続け、85歳という長寿で大往生した。

墓前には“杉田玄白先生の墓”と書かれた立札があり、献花も新しく、今でも医学を志す多くの者が訪れているようだった。



『新選組・1番隊隊長沖田総司』


次に地下鉄六本木駅から地上に出て、テレビ朝日通りの専称寺に眠る沖田総司に会いに行った。実はその前に駅前の別の寺へ作家の佐藤春夫を訪ねたのだが、佐藤さん違いで淀川長治と同じくガセネタだった(これも情報源はネットだった。わしゃ、かなわんよ)。

剣術では自分の腕に自信のある者が多かった新選組の中でも、ぶっちぎりで最強と言われたのが沖田だった。土方も近藤も誰一人沖田には歯が立たなかったという。
だがそんな彼も病には勝てず、肺結核で26年の短い生涯を終えた。

以上。え?話が短すぎる?だって仕方がないのだ。沖田に関する資料がさっぱり残っていないんだから!確かに色んな逸話があるけど、調べてみたら殆ど司馬遼太郎の白昼夢だった。
(1999年の映画『御法度』の沖田は、ほんとカッコ良かった!)

墓は以前、一年中公開されていたが、新選組がブームになる度に女性ファンが大挙して押しかけるので、対応に苦慮した寺側は、一年に一度、命日の時だけ一般公開することにした(とはいえ、とても小さな墓地なので、外の道路からでも沖田の墓はよく見えるので御安心を)。

実は、生前の写真が1枚だけ現存している。見てみたら、本の中では凍り付くほどの美青年のはずなのに、髪型は掟破りの逆モヒカン(真ん中だけ髪を剃っている)、顔はしもぶくれでパタリロ風。ヒーッ!目が点になった。
(ヤマトの沖田艦長にしろ、生徒諸君の沖田君にしろ、沖田って名は妙にカリスマ性があるなぁ)


さあ!これで大江戸編はおしまいだ。気が付けば、はや9の巻。当初の予定ではもう西日本編後半に突入してるはずなのに。ウゲゲゲ…。ともかく次号をお楽しみに!


      

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