1.夏目漱石(享年49歳)〜それから、こころ、夢十夜、行人、その他一切
ハズレなし
「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて来ないと怒る男だ。地団太を踏んで悔しがる男だ。そうして山を悪く批判する事だけを考える男だ。何故山の方へ歩いて行かない」
“道徳に加勢する者は一時の勝利者には違いないが、永久の敗北者だ。自然に従う者は一時の敗北者だが永久の勝利者だ”
“死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの3つのものしかない”〜以上、行人
“彼は血に餓えた。しかも人を屠(ほふ)ることが出来ないので、やむを得ず自分の血をすすって満足した”〜道草
「(日露戦争勝利に沸き立ち)これからは日本も段々発展するでしょう」
「亡びるね」〜三四郎
“細君の愛を他へ移さないようにするのは夫の義務である”〜それから
“彼は後を顧みた。そうして到底また元の道へ引き返す勇気を持たなかった。彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時までも展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった”〜門から
「僕は人に嫌がられるために生きているんです。わざわざ人の嫌がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ僕の存在を人に認めさせる事が出来ないんです。僕は無能です。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです」
“好かないというよりも、むしろ応対しにくい人間だった”〜以上、明暗
非常に読みやすい文体と、とてつもなくヘビーなストーリー。そのアンバランスさが読み手に中毒性を与えるのだろう。ペンを握ったのは49歳に死ぬまでのたった10年。そしてその間に書き上げたすべてが傑作。生きる先には自殺か発狂か宗教に入るしかない、そう言い切る彼を『坊ちゃん』『我輩は〜』のイメージでくくらないで欲しい。社会を見つめる彼の視点は、ごまかしを許さぬ反権力120%。上記の三四郎の抜粋は著者の漱石が当時“国賊”と言われるのを覚悟で書いた文だ。「亡びるね」--たったの4文字。しかし軍国時代にこれほど勇気を要する4文字はない。
遺作『明暗』が肝心のクライマックスで絶筆になっており、これは日本文学史における最大の悲劇だ。あんな緊迫した場面で終わられた読者はたまらんぞ〜。自分は死んだら真っ先にラストシーンを聞きに行くのだ!これは死後最大の楽しみかも。
「近頃自我とか自覚とか唱えて、いくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴(ふちょう)に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです」〜私の個人主義
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2.芥川龍之介(享年35歳)〜地獄変、歯車、河童
「僕は芸術的良心を始め、どういう良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」〜歯車
「人生は地獄よりも地獄的である」〜朱儒の言葉
「神々は不幸にも我々のように自殺できない」〜或阿呆の一生
かつて僕は自殺をすべて“悪”だと思っていた。そう、自殺した芥川の遺作『歯車』と出会うまでは。この小説は僅か41ページの短編だが、これを読んでもなお自殺は“悪”だという輩がいれば、そやつは鬼じゃ悪魔じゃ。僕は最後の2行を読んだ時「これはもう死ぬしかない、この生は死よりもひどい、最悪の拷問だ」その様に茫然とした。それは彼の死骸を発見した夫人の第一声「お父さん、やっと楽になりましたね」がすべてを物語っている。
このコメントを書くにあたって読み返してみたが、歳をとった分、以前より涙が出て止まらなかった。川端康成ら他の文豪も、『歯車』を最高傑作に推しており、ぜひ何としても皆さんに読んで頂きたい!
※芥川龍之介の動画(1分17秒)。’95年に制作され様々な賞に輝き、NHK史上最多再放送を誇る名作ドキュメンタリー『映像の世紀』から。芥川自死の数ヶ月前の貴重映像。親友の菊池寛も映ってる。菊池はこの8年後に、亡き友の名を冠した“芥川賞”を創設したんだ。映像では芥川が子ども達と楽しく遊んでいるだけに切ないッス。
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3.太宰治(享年38歳)〜人間失格、家庭の幸福、お伽草子、女生徒
『ただ、いっさいは過ぎて行きます。自分が今まで阿鼻叫喚で生きて来た所謂(いわゆる)「人間」の世界において、たった一つ、“真理”らしく思われたのは、それだけでした』〜人間失格
「何にも、良い事が無えじゃねえか。僕たちには、何にも良い事が無えじゃねえか」〜斜陽
“眼鏡をとって人の顔を見ると、皆、優しく綺麗に笑って見える。汚いものなんて何も見えない。眼鏡を外してる時は決して人と喧嘩しようなんて思わないし、悪口も言いたくない”
“今の女性は個性がない、深みがない、批判はあっても答えがない、独創性に乏しく模倣ばかり。さらに無責任で自重を知らず、お上品ぶっていながら気品がない”
〜以上、女生徒(太宰怖い!っていうか現代はコレ、男性と入替わってるけどね…)
よく言われている事だが、太宰の文学は“私(太宰)”と“あなた(読者)”が非常に密接しており、読み手はまるで太宰が自分独りだけの為に作品を書き残してくれたような錯覚に陥る。こういう感覚に陥るのは太宰文学だけだ。
太宰がずば抜けてスゴイと僕が思うのは、女性を主人公にした時のその内面描写だ。太宰は男なのに何でそんなに女性の深層心理が分かるわけ!?短編の『女生徒』なんか絶対男が書いたなどとは信じられない!
それにしても3度目の自殺でやっと死ねた彼だが、3度とも全部女性同伴の心中というのが呆れるやら羨ましいやら。心中した女性の遺書がすごい。「治さんを独占できるなんて、私ばかり幸せになって世間に申し訳ない」ときたもんだ。人類史上最も母性本能をくすぐる男、太宰治。あんさんには、かないまへんわ。
『生きるということは大変な事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと血が噴き出す』(太宰治)
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4.中島敦(享年33歳)〜山月記(1942年)、弟子、名人伝
“なぜこの世では悪が栄えて善が虐げられねばならんのだ?善人が究極の勝利を得たなどというためしは、遠い昔はいざ知らず、今の世ではとんと聞いたことがない。なぜだ?なぜだ?天とは何なのだ。天は何を見ているのだ。その様な運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない。誰が見ても文句のない、はっきりした形の善の報いが、正義を守り行う人の上に来なくてはいけないのではないか?”〜弟子
“今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ”
“人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い”
〜以上、山月記
山月記のあの孤独!太平洋戦争の真っ只中でも読み手の魂を浄化するような、強いヒューマニズムに貫かれた作品を孤高に書き続けていたが、1942年、わずか33歳で結核に命を奪われた。もっともっと、氏の作品を読みたかった。彼のような人間こそ、戦後の世界は必要としていたのに!
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5.宮沢賢治(享年37歳)〜土神ときつね、銀河鉄道の夜、クスコーブドリの
伝記
(サソリの独白)「ああ、なんにもあてにならない。どうして私は私の体を、黙ってイタチにくれてやらなかったろう。そしたらイタチも1日生き延びたろうに。」〜銀河鉄道の夜
「ああ僕はたった一人のお友達にまたつい嘘を云ってしまった。ああ僕は本当にだめなやつだ。けれども決して悪い気で云ったんじゃない。喜ばせようと思って云ったんだ。」〜土神ときつね
賢さんの作品は、底抜けの優しさの裏側に、すぐそこまで迫っている死のイメージが見え隠れし、一種独特の世界になっている。また擬音の天才でもある。作家というより芸術家だ。
『グスコーブドリの伝記』『銀河鉄道の夜』『土神と狐』『雨ニモマケズ』、こうタイトルを並べただけで全身に電気が走り、“思い出し感動”に体内から水が溢れそうになる。「自己犠牲」という言葉はどこかしら偽善的な匂いがするので好きではないが、賢さんの描く登場人物は「自己犠牲」ということを当人が全く自覚しておらず、それが自然であるかのように命を賭している。そこがまた泣ける。もちろん、文学者としての豊富な語彙は、言わずもがな。ああ、僕は賢さんの作品にこれまで何度救われただろう。
「世界ぜんたいが幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない」(宮沢賢治)
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6.石川啄木(享年26歳)〜悲しき玩具、一握の砂
“この四五年空を仰ぐといふことが一度もなかりき。かうもなるものか?”
“「石川はふびんな奴だ。」、ときにかう自分で言ひて悲しみてみる。”
“本を買ひたし、本を買ひたしと、あてつけのつもりではなけれど、妻に言ひてみる。”
“あやまちて茶碗をこはし、物をこはす気持ちのよさを今朝も思へる。”
“真夜中にふと目が覚めてわけもなく泣きたくなりて蒲団をかぶれる。”
“或る街に居し頃の事として、友の語る恋がたりに嘘の交じる悲しさ。”
“話しかけて返事のなきによくみれば泣いていたりき、隣りの患者。”
“看護婦が徹夜するまで、わが病ひ、悪くなれともひそかに願へる。”
“枕辺(まくらべ)に子を坐らせて、まじまじとその顔を見れば、逃げてゆきしかな。”
“ある日、ふと、やまひを忘れ、牛のなく真似をしてみぬ−妻子の留守に。”
“久しぶりに、ふと声を出して笑ひてみぬ−蝿の両手を揉むが可笑しさに。”
“何となく明日はよき事あるごとく思ふ心を叱りて眠る。”
“呼吸(いき)すれば、胸の内にて鳴る音あり、こがらしよりも寂しきその音!”
“子を叱れば、泣いて、寝入りぬ。口すこし開けし寝顔に触りてみるかな。”
“汚れたる手を洗ひし時のかすかなる満足が今日の満足なりき。”
“途中にてふと気が変り、勤め先を休みて、今日も、河岸(かし)をさまよへり。”
“すっぽりと蒲団をかぶり、足を縮め、舌を出してみぬ、誰にともなしに。”
“五歳になる子に、なぜともなくソニヤといふロシア名をつけて、呼びては喜ぶ。”
“誰か我を思う存分叱りつくる人あれと思ふ。何の心ぞ。”
“笑うにも笑われざりき−長いこと捜したナイフの手の内にありしに。”
以上20句、絶歌集『悲しき玩具』から
『世界一短い文学』と呼ばれる啄木の短歌。
まだ10代半ばの中高生時代に授業で啄木を習ったってピンとこんだろう。感情移入する為の土台となる体験がそれほどないから。だが20代後半あたりから啄木の短歌が突如五臓六腑に染みわたりだす。この孤独な歌集のおかげで自らが孤独でない事を知る。
しかし、26歳とはあまりに早い死だ。
「歌は私の悲しい玩具である」〜啄木
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7.大岡昇平(享年79歳)〜野火
“私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それらは実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。生きているからである”
“人は要するに死ぬ理由がないから、生きているに過ぎないだろう”
“死ねば私の意識は確かに無となるに違いないが、肉体はこの宇宙という大物質に溶け込んで、存在するのをやめないだろう。私はいつまでも生き続けるのだ”
“現代の戦争を操る少数の紳士諸君(死の商人、政治家)は、それが利益なのだから別として、再び彼らに騙されたいらしい人たちを私は理解できない”
〜野火
大岡氏は人肉を喰いあったというあの地獄の南方戦線の生き残りだ。戦場で敗戦が確定した後、もう米兵を撃たなかったと告白している。目の前の若い敵兵を撃ち殺しても敗戦は変わらぬという理由からだった。「なぜ誰も“あのこと”を書かないのか?だったらこの俺が書く!」この叫びこそ、彼がペンを走らせる原動力だった。
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8.村上春樹〜ダンス・ダンス・ダンス、ノルウェイの森
「僕が15だったら確実に君に恋をしていただろうね。でも僕はもう34だから、そんなに簡単に恋はしない。これ以上不幸になりたくない。スバル(愛車)の方が楽だ」
“人というものはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というのは考えているよりずっと脆(もろ)いものなんだ。だから人は悔いの残らないように人と接するべきなんだ。公平に、出来ることなら誠実に。そういう努力をしないで、人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人間を僕は好まない。個人的に。”
“彼女に会わないことには、人生がこれ以上一歩も前に進まない”
“僕は自分の中に進化の高ぶりを感じた。僕はその複雑に絡み合った巨大な自分自身のDNAを越えた”〜ダンス・ダンス・ダンス
「なぜ人は死ぬの?」「進化してるからさ。固体は進化のエネルギーに耐えることが出来ないから世代交代するんだ」
“僕たちは一年ごと、一月ごと、一日ごとに齢を取っていく。時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐ろしいことに、それは事実なのだ”〜風の歌を聴け
「孤独が好きな人間なんていないさ、無理に友達を作らないだけだよ。」
〜ノルウェイの森
・「結局のところ私はいろんな人を知りたいのかもしれない」
・「すごいよ」と僕はしぼり出すように言った。「同じ人間じゃないみたいだ」
・“プラットホームを吹く風には既に秋の終りを思わせる冷ややかさがあった。太陽は早くも中空を滑り降りて、黒々とした山の影を宿命的なシミのように地面に這わせていた。方向を異にするふたつの山なみが町の眼前で合流し、マッチの炎を風から守るために合わせられた手の平のように町をすっぽりと包んでいた。細長いプラットホームはそびえ立つ巨大な波にまさに突っ込んでいこうとする貧弱なボートだった”〜羊をめぐる冒険
古典文学ファンのこの僕だが、心の奥底にメスを入れ、なおかつ非常に読みやすい平易な文章で展開される氏の作品にすっかり心酔!生と死がすぐ隣り合っていることを、こんな風に自然体で伝えてくれる作家はどこにもいない。日本文学だけでなく、外国文学を視野に入れても、氏のように自分と周囲の間に距離を取りつつ、同時に温かさと誠実さを感じさせる文章を書ける作家を、他に知らない。
彼と同時代を生きていることが純粋に嬉しい。
●村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチ(2009、エルサレム)
※エルサレム賞は「社会における個人の自由」のために貢献した外国人作家に隔年で贈られるイスラエル最高の文学賞。2009年の授賞式は、イスラエル軍がパレスチナ自治区ガザに侵攻し、千人以上の市民を殺害した直後であり、村上氏の発言が注目された。
こんばんは。私は本日、小説家として、長々とうそを語る専門家としてエルサレムに来ました(聴衆から笑い)。
もちろん、うそをつくのは小説家だけではありません。ご存じのようにうそをつく政治家もいます。失礼しました、大統領(聴衆から笑い)。外交官や将官も、中古車セールスマンや肉屋、建築業者と同じく、それぞれの都合に応じてうそをつくことがあります。小説家のうそが他と違うのは、誰も不道徳だと非難しないことです。実際、より大きく上手で独創的なうそをつけばつくほど、人々や批評家に称賛されます。なぜでしょうか。
私の答えはこうです。巧妙なうそ、つまり真実のような作り話によって、小説家は真実を新しい場所に引き出し新しい光を当てることができるからです。大抵の場合、真実をありのままにとらえて正確に描写するのは実質的に不可能です。だから、私たち(小説家)は、隠れている真実をおびき出してフィクションという領域に引きずり出し、フィクション(小説)の形に転換することで(真実の)しっぽをつかもうとします。
でもこの作業をやるには、まず最初に、私たち自身の中の、どこに真実があるかを明確にする必要があります。これが上手なうそを創造するための重要な能力なのです。
でも、きょう、うそをつくつもりはありません。できるだけ正直に話そうと思います。1年のうちで数日しかうそをつかない日はないのですが、きょうはたまたまその日に当たります(聴衆から笑い)。
だから、真実をお話ししましょう。日本でかなり多くの人に、エルサレム賞授賞式に行くべきではないと助言されました。一部の人には、もし行くなら私の著作の不買運動を起こすとさえ警告されました。
理由はもちろんガザ地区で起きている激しい戦闘でした。国連の発表によると、封鎖されたガザ地区で1000人以上が命を落とし、その多くは子どもや老人を含む非武装の市民でした。
授賞通知をいただいたあと、このような時期にイスラエルに出向き、文学賞を受けるのは適切なのか、これが紛争当事者の一方を支持し、圧倒的に優位な軍事力を行使することを選択した国の政策を承認したとの印象を作ってしまわないか、と、たびたび自問しました。もちろん(そうした印象を与えることも)著作が不買運動の標的になることも、あってほしくないことです。
しかし、考えに考えた末、最終的にはここに来ることを決めました。理由の一つは、あまりにも多くの人が「行くな」と言ったからでした。他の多くの小説家と同じように、私は人に言われたのと正反対のことをする傾向があります。もし、「そこへ行くな」とか、「それをするな」と命令されたり、ましてや警告されたりすると、私は逆に「そこ」へ行ったり「それ」をやったりしたくなります。あまのじゃくは小説家である私の天性といえます。小説家は特別な種類の生き物です。自分の目で見たものや、自分の手で触れたものでなければ、心から信頼できません。
だから私はこうしてここにいます。欠席するより出席することを選びました。見ないことより自分で見ることを選びました。何も語らないより、皆さんに語ることを選びました。
だから、ここでごく個人的なメッセージを一つ紹介させてください。小説を書いている時、いつも心に留めていることです。紙に書いて壁に張ったりはしませんが、心の中の壁に刻まれているもので、こんなふうに表現できます。
ええ、どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく何が誤りかという判断は、誰か別の人にやってもらいましょう。時間や歴史が決めてくれるかもしれません。しかし、どんな理由があっても、もし壁の側に立って書く小説家がいるとすれば、作品にどれほどの価値があるでしょう。
ここで申し上げた壁と卵のメタファー(隠喩(いんゆ))の意味とは何でしょう。ごく単純で明らかな例えもあります。爆撃機、戦車、ロケット弾、そして白リン弾は、高い壁です。卵は、押しつぶされ、熱に焼かれ、銃で撃たれた武器を持たない市民たちです。これがメタファーの一つの意味であり、真実です。
でも、それがすべてではありません。さらに深い意味が含まれています。こんなふうに考えてください。私たちはそれぞれが多かれ少なかれ卵なのです。世界でたった一つしかない、掛け替えのない魂が、壊れやすい殻に入っている−−それが私たちなのです。私もそうだし、皆さんも同じでしょう。そして、私たちそれぞれが、程度の差はありますが、高くて頑丈な壁に直面しています。
壁には名前があり、「体制(ザ・システム)」と呼ばれています。体制は本来、私たちを守るためにあるのですが、時には、自ら生命を持ち、私たちの生命を奪ったり、他の誰かを、冷酷に、効率よく、組織的に殺すよう仕向けることがあります。
私が小説を書く理由はたった一つ、個人の魂の尊厳を表層に引き上げ、光を当てることです。物語の目的とは、体制が私たちの魂をわなにかけ、品位をおとしめることがないよう、警報を発したり、体制に光を向け続けることです。小説家の仕事は、物語を作ることによって、個人の独自性を明らかにする努力を続けることだと信じています。生と死の物語、愛の物語、読者を泣かせ、恐怖で震えさせ、笑いこけさせる物語。私たちが来る日も来る日も、きまじめにフィクションを作り続けているのは、そのためなのです。
私は昨年、父を90歳で亡くしました。現役時代は教師で、たまに僧侶の仕事もしていました。京都の大学院生だった時に徴兵されて陸軍に入り、中国戦線に送られました。私は戦後生まれですが、父が毎朝、朝食前に自宅の小さな仏壇に向かい、長い心のこもった祈りをささげている姿をよく目にしました。ある時、なぜそんなことをするのかと聞いたら、戦場で死んだ人を悼んでいる、との答えが返ってきました。死んだ人みんなの冥福を祈っているんだよ、味方も敵もみんなだよ、と父は言いました。仏壇の前に座った父の背中を見つめながら、父のいるあたりを死の影が漂っているような気がしました。
父は去り、父とともに父の記憶、私が永遠に知ることができない記憶も消えました。でも、父の周辺にひそんでいた死の存在は私の記憶として残りました。それは、父から受け継いだ数少ないものの一つ、最も大切なものの一つです。
きょう私が皆さんにお伝えしたいのは、たった一つです。私たちは皆、国籍や人種や宗教を超えて人間であり、体制という名の頑丈な壁と向き合う壊れやすい卵だということです。どう見ても、私たちに勝ち目はなさそうです。壁はあまりにも高く、強く、冷酷です。もし勝つ希望がわずかでもあるとすれば、私たち自身の魂も他の人の魂も、それぞれに独自性があり、掛け替えのないものなのだと信じること、魂が触れ合うことで得られる温かさを心から信じることから見つけねばなりません。
少し時間を割いて考えてみてください。私たちはそれぞれ形のある生きた魂を持っています。体制にそんなものはありません。自分たちが体制に搾取されるのを許してはなりません。体制に生命を持たせてはなりません。体制が私たちを作ったのではなく、私たちが体制を作ったのですから。
以上が私の言いたかったことです。エルサレム賞を授与していただき、感謝しています。世界のさまざまな所で私の本を読んでいただきありがたく思います。イスラエルの読者の皆さんにもお礼を申し上げます。皆さんのおかげで、私はここに来ることができました。そして、ささやかであっても、意味のあることを共有したいと願っています。本日ここでお話しする機会を与えていただき、うれしく思います。どうもありがとうございました。(2009年3月2日毎日新聞から/翻訳・佐藤由紀)
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●村上春樹氏のカタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(2011、バルセロナ)
「非現実的な夢想家として」
僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。
僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。
でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。
地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。
日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。
台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。
にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
どうしてか?
桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。
ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。
僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。
十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。
我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。
僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。
そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
理由は簡単です。「効率」です。
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。
原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。
ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
「大統領、私の両手は血にまみれています」
トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」
しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。 |
村上春樹氏が、2014年11月3日の毎日新聞のインタビューで過去の戦争や福島原発事故を例に、日本社会全体に広まっている責任回避傾向を鋭く批判。
→『僕は日本の抱える問題に、共通して「自己責任の回避」があると感じます。1945年の終戦に関しても2011年の福島第1原発事故に関しても、誰も本当に責任を取っていない。そういう気がするんです。例えば、終戦後は結局、誰も悪くないということになってしまった。悪かったのは軍閥で、天皇もいいように利用され、国民もみんなだまされて、ひどい目に遭ったと。(日本人が)犠牲者に、被害者になってしまっています。それでは中国の人も、韓国・朝鮮の人も怒りますよね。日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっているように思います。原発の問題にしても、誰が加害者であるかということが真剣は追及されていない。もちろん加害者と被害者が入り乱れているということはあるんだけど、このままでいけば「地震と津波が最大の加害者で、あとはみんな被害者だった」みたいなことで収まってしまいかねない。戦争の時と同じように。それが一番心配なことです』。
普段あまりメディアのインタビューに登場しないことで知られている村上氏が、あえてこのように踏み込んだ発言をしたことに、日本社会への懸念と危機感が伝わってくる。権力に睨まれることを恐れて、著名な作家や芸術家の多くが政治的発言を避けるなか、“日本人が戦争加害者という認識の希薄化がますます強くなっている”と指摘し、東電首脳の刑事責任追求の必要性を訴える村上氏に、その勇気に、心から敬意を表したい。英字新聞のトリビューンでも164カ国に配信されている。 |
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9.小林多喜二(享年29歳)〜蟹工船、1928.3.15
日本文学史上、国家権力の拷問で惨殺された初の作家小林多喜二。軍国日本でペンを武器に反権力を貫いた多喜二の墓は小樽にあり、墓参して絶句した。墓は多喜二本人が生前に自分の手で建てたものだったのだ!墓が作られたのは、ちょうど『蟹工船』を発表したころ。つまり、彼は“作品を発表することで自分は殺されるかもしれない”と覚悟していたのだ。なんという生き様!(拷問は3時間。相手は最初から殺すつもりだったとしか思えない)
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10.梶井基次郎(享年31歳)〜檸檬、のんきな患者、冬の蠅
“深い闇の中から遠い小さな光を眺めることほど感傷的なものはない”〜闇の絵巻
基次郎の病人文学は死が迫っているのに悠然としていて、神秘的な魅力すら漂っている。
このベストを書き込んでると、ベスト10の内50歳を迎えられたのは2名だけ、しかも5名は30代、2名は20代で夭折している。なんだか涙が溢れてきたぜ。
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11.谷崎潤一郎〜春琴抄、刺青
「狂喜して叫んで曰く、師よ、佐助は失明致したり」〜春琴抄
彼の小説を読むたびに、“日本語はここまで美しかったのか!”と感嘆させられる。
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12.森鴎外〜高瀬舟、阿部一族
鴎外は権力サイドにいたとは思えぬほど、貧しき者の絶望の声に敏感だ。そこが凄い。
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13.中原中也(享年30歳)〜在りし日の歌、山羊の歌
29歳の時、2歳の愛児が病で死ぬ。中也は悲嘆のあまり精神的に異常をきたし、翌年神経の衰弱から千葉の脳病院に入院する。彼いわく『何もする気が起こらない“悲しみ呆け”の状態』だった。
詩集『在りし日の詩』に沈痛な愛児へのレクイエムがある。“在りし日”とは、そういうことだ。
〜また来ん春〜
『また来ん春と人は云う しかし私は辛いのだ 春が来たって何になろ あの子が帰って来るぢやない
思えば今年の5月には お前を抱いて動物園 象を見せても猫(にゃあ)といい 鳥を見せても猫(にゃあ)だった
最後に見せた鹿だけは 角によっぽど惹かれてか 何とも云わず
眺めてた
ほんにお前もあの時は この世の光の只中に 立って眺めていたっけか…』
そしてあくる1938年、急性脳膜炎の為、彼はわずか30歳でこの世を去った。脳膜炎、つまり狂死だった。
「自分は壊れた人間だ」〜中原中也
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14.大江健三郎〜芽むしり仔撃ち、死者の奢り
“家畜がそうであるように、時間もまた、人間の厳しい監督なしでは動こうとしないのだ”〜芽むしり仔撃ち
誠実な作者の作品は、難度の高い文章でも魅力に溢れている。
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15.吉田兼好〜徒然草(1300年頃)
当時の支配階層を心底バカにして、決して自ら権力に接近しなかった兼好の反骨魂に拍手!
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16.三島由紀夫(享年45歳)〜金閣寺、仮面の告白
“自分を惨めに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ”
“不安は、ないのだ。俺がこうして存在していることは、太陽や地球や、美しい鳥や、醜いワニの存在しているのと同じほど確かなことである。自分は何のために生きているのか?こんなことに人は不安を感じて、自殺さえする。俺には何でもない。存在しているというだけで、俺には十分すぎる”
“音楽の美は、その一瞬の短さにおいて生命に似ている”
“孤独が始まると、それに私はたやすく馴れ、誰ともほとんど口を利かぬ生活は、私にとって最も努力の要らぬものだということが、改めてわかった。死んだ毎日は快かった”
“金閣は私が幸福や快楽を手に入れようとする時必ず邪魔をするが、音楽に限って金閣は私の陶酔と忘我を許してくれる”
“人の見ている私と、私の考えている私と、どちらが持続しているだろうか”
“私は行為の一歩手前まで準備したんだ。行為そのものは完全に夢見られ、私がその夢を完全に生きた以上、この上行為をする必要があるだろうか”〜以上、金閣寺
“少年期の欠点は、悪魔を英雄化すれば悪魔が満足してくれると信ずることである”
“こんな人生に死で肩すかしを喰わせてやったら、さぞせいぜいすることだろう”〜以上、仮面の告白
“与志子は恋をしているのではなかった。生活の単調を破るために、もとから執拗だった恋人を受け入れ、今度はこの執拗さの単調に呆れていた”〜美徳のよろめき
物語の構成力、独特の美意識、僕は尊敬している。だがあの死はいただけない。そうじゃないだろう、って感じだ。
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17.上田秋成(享年75歳)〜雨月物語(1768年)
芥川龍之介が愛してやまなかった上田文学。その幻想美は200年たった現在、ますます多くの者を虜にしている。
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18.安部公房〜砂の女、壁
“罰がなければ、逃げる楽しみもない”〜砂の女
“悲しみはお茶の味を良くするものです。だからきっと僕は悲しかったに違いありません”〜壁
孤高なたたずまいに、氏の愚直なまでの誠実さを見た。
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19.小林秀雄〜ゴッホの手紙、死んだ中原
ゴッホの絵を文章化した氏の偉業は、言葉の持つ可能性を、その従来は限界だと思われていた言語表現の地平を、飛躍的に拡大した。彼はモーツアルトの音楽やゴッホの絵画を、もの見事に日本語へ“翻訳”して見せた。その表現力が羨ましい。ダーッ、この言葉の魔術師!
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20.国木田独歩(享年36歳)〜武蔵野、牛肉と馬鈴薯
独歩の文学は優しさに満ちているなぁ。孤独を知っているから書ける文学だと感じ入った。『武蔵野』では部屋で読書をしているのに、まるで林の中を自然散策しているような錯覚を味わった。自分の足が落ち葉を踏みしめる感触まで伝わってきた。36才で亡くなったのが悲しい!
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21.二葉亭四迷〜浮雲
“信ずる理由があるから信じているのではなくて、信じたいから信じているのだ”
“美は美だ”〜浮雲
本名、長谷川辰之助。100年も前に、世界中に足を運んだコスモポリタン作家。江戸時代までの書物といえば漢文体が一般的だったが、彼は小説『浮雲』を現代の小説同様に“話し言葉”で執筆した。その意味で近代文学の父だ。当時としてはズバ抜けて国際人だった彼は、エスペラント語やロシア語に堪能で、『浮雲』の執筆中など文章に詰まると、いったん原稿をロシア語で書いて、あとからそれを翻訳したという逸話がある。最後はインド洋の船内で病死した。
上に書いた「美は美だ」と出会った時、啓示を受けたような衝撃を味わった。僕の世界観のベースになった言葉だ。
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22.樋口一葉(享年24歳)〜にごりえ、十三夜
鴎外が大絶賛した一葉文学。読む度に彼女の繊細な心持ちが筆先から伝わってくる。わずか24歳で彼女を失ったことは、近世日本文学界最大の損失だ。
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23.寺山修司〜詩集
「涙は人間の作る一番小さな海です」〜詩集
『ぐちっぽい男は嫌いだ。だから太宰は最低だ』〜寺山修司
上記の言葉なんだけど、寺山も僕の知る限りかなりグチっぽい気がするが…。同属嫌悪というものか?
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24.星新一〜午後の恐竜、なぞの青年
SFの短編作品でありながら、古典の長編文学に匹敵する深い人間観察が伺える。素晴らしい!30年間で1000編の作品を書き上げた。ブラックなものから感動系まで、非常にバラエティに富んでいる。天才。
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25.清少納言〜枕草子
人生の浮き沈みを身をもって体験した彼女。世界への観察眼が非常に鋭い。紫式部には「したり顔」「漢詩文の知識をひけらかす」と書かれてしまった。でも清少納言はそういうとこが人間っぽくていいんだけどなぁ。
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26.有島武郎(享年45歳)〜生まれ出ずる悩み、カインの末裔
作家であると同時に大農場主であった彼は、貧しき農民層への同情と、支配階級としての自分の立場の板挟みになり、彼が所有する全ての土地を無料で農民たちに分け与えた後、「婦人公論」記者の波多野秋子と命を絶った。
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27.村上龍〜コインロッカー・ベイビーズ
「おしゃれは世界で一番空しい遊びなんだから、だから楽しいのよ。洋服や化粧は何の為にあるか知ってる?脱がされて裸にされる為にあるのよ。全てゼロ、だからいいのよ」
「AとBの付き合いで主導権を握るのは、その付き合いに無関心な方だ」
「雨が降ると何か思い出しそうになるよね」
「誰も(自分に)触れてはくれないだろう、その思いは妄想ではなかった。事実だったのだ。事実に怯える必要はない。ただ認めて何日間か泣けば良かったのだ」
〜以上、コインロッカー・ベイビーズ
『限りなく透明に近いブルー』を読んだ時は、“なんでこんなハチャメチャ・モラル列伝を読まされにゃならんのだ”と怒り狂ったが、この『コインロッカー・ベイビーズ』は感動の涙と万感の思いを胸に本を閉じた。
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28.松尾芭蕉〜奥の細道
芭蕉が身近になる面白い一句を紹介しよう。旅先の宿で詠んだもので、『奥の細道』からだ。 「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと」 意味…ノミやシラミに一晩中悩まされて眠るどころではない。その上、枕もとでは馬が小便する音まで聞こえて、こりゃ、大変な宿じゃわい。
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29.井原西鶴〜世間胸算用
深い教養に裏付けされた軽妙な文体が魅力。笑いの中に人間への温かい理解がある。
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30.川端康成〜雪国、禽獣
“何となく好きでその時は好きだと言わなかった人の方が、いつまでも懐かしい”
“人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合っているのだ”〜以上、雪国
なんちゅう美しい文章の宝庫なのか。まいった。
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31.萩原朔太郎〜月に吠える、青猫
言葉の使い方に独自の清浄感があり、詩集には中毒性がある。口語自由詩を確立した。
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32.武者小路実篤〜友情、幸福者
・“宝石だって宝石になるまでは、いくらでもこすられ、もまれることが必要です。初めっから無傷なものはありません”
・“皆身から出たさびだ。さびを出すのがいやだったら自分を純金にするか、絶えず自分を磨いていなければいけない。自分では何もせずにさびが出るのに不平を起こすのは己を知らないものだ”
・“安心しなさい。地獄はありません。人間はこの世で生きただけで十分なのです。その上に地獄に入れられるような目にあうことはありません。神様はそんなにしつっこい無情な方ではありません”
・“宗教の元来の性質は生きているものの為にあるのだが、今の僧侶は死人にとって外、役に立たない”
〜幸福者
・“ああ、どこにこんなに無垢な美しい清い思いやりのある、愛らしい女がいるか!自分を彼女に逢わした運命よ、お前に責任がある”〜友情
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33.島崎藤村〜破戒、若菜集
ナチュラリズム(自然主義)の名の元に、周囲の人間を片っ端から作品に登場させ、その私生活に関わることまで書き込んだため、後年は誰も藤村に近寄らなかったという。
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34.中上健二〜岬
“俺は、どろどろのお前たちとは違うんだ、と叫び出したくなった”〜岬
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35.志賀直哉〜城の崎にて、小僧の神様
“自分は死ぬはずだったのを助かった。何かが自分を殺さなかった、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ”
“可哀想に想うと同時に、生き物の淋しさを一緒に感じた”〜城の崎にて
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36.泉鏡花〜高野聖
その作品中で、妖しくも美しい独自の幻想世界を築き上げた鏡花。言葉の万華鏡かくあらんという感じだ。
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37.紫式部〜源氏物語
世界最古の長編小説を書き上げた才女。
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38.堀辰雄〜風立ちぬ、聖家族
彼の小説の静けさ、透明感は何なのだろう。読んでいると自分の身体まで透き通っていく気がする。
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39.菊池寛〜恩讐の彼方に、父帰る
作家であり芥川賞の創設者でもある菊地寛。敬愛すべき人道主義者だ。
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40.開高健〜裸の王様、パニック
「辛い時はええ酒飲まなアカン」(開高健)
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41.野間宏〜暗い絵
“彼は自分の身体が熱く涙で濡れ、その頬が涙で輝くように洗われた後の、心の中一杯にふくれ上がって来た苦しみが一度彼の心の窪みに収められて、しかも溢れ出る涙は止まりながらも心の周囲にまだ涙のうるみのあるというような、いよいよ鮮やかに苦悩ばかりが集まったという精神の状態にある”
「本当にあなたの心を乱してすまないと思っています。どうかあたしなんかのことで貴重な時間を浪費せず、立派に勉強なさって下さい」〜以上、暗い絵
登場人物が全員フルネームで書かれた作品に、僕は初めて出会った。
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42.永井荷風〜墨東綺譚(ぼくとうきたん)※墨の字はさんずい+墨
“正義の宮殿にもおりおり鳥や鼠の糞が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と芳しい涙の果実が却って沢山に摘み集められるというものだ”〜墨東綺譚
趣味人、荷風。その最後は誰にも看取られず、翌日お手伝いさんに発見されるという野垂れ死に同然のものだった。あえて言おう、アッパレと!
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43.与謝野晶子〜みだれ髪、君死にたもうことなかれ
ときは1904年。日露戦争の真っ只中。敵国ロシアの文豪トルストイが、自国のロマノフ王朝に向けて以下の戦争批判の声明文を6月に発表した。
「聖書の“なんじ殺すなかれ”の教えに背き、人と人が野獣の様に殺し合うとは、そもそも何事か!この戦争は宮殿に安住し、名声と利権を求める野心家どもが、ロシアと日本の人民を犠牲にしているのだ!」 2ヶ月後の8月、日本の新聞にもこの文章が掲載された。自分の弟が出征中だった与謝野晶子は、当時25歳。翌月、即、彼女は『明星』誌上で返歌として応えた。
「君死にたまふことなかれ(弟よ死なないでおくれ)すめらみことは戦ひに、おほみづからは出でまさね
(天皇自身は危険な戦場に行かず宮中に安住し)かたみに人の血を流し、獣(けもの)の道に死ねよとは…(人の子を獣の道におちいらせている)」
この返歌は大反響をよんだ。文壇の重鎮は“皇国の国民として陛下に不敬ではないか”と激怒した。彼女はこの国を愛する気持ちは誰にも負けぬと前置きしたうえで、次のように反論する。
「乙女と申すもの、誰も戦争は嫌いで候」
彼女は非難に屈するどころか、翌年刊行された詩歌集に再度これを掲載した。庶民の娘だった彼女は、敵国内部からの勇敢な反戦の叫びに心底共鳴し、日本からも誠実に応じようと“決意”したのではないだろうか。
15年後、40歳の晶子はシベリヤ出兵についてもこう記している。「戦争を“人道をほろぼす暴力”とするトルストイの抗議に、私は無条件に同意する!なるほど、自衛の範囲の軍備はやむえないとしよう。しかし決して“積極的自衛策”の口実に惑わされてはならない。出兵すれば膨大な戦費も負う。この理由からも私は出兵に対して、あくまで反対しようと思う!」
以下は日増しに言論の自由が奪われていく中、58歳(死の6年前)の晶子が思想統制について書き残した一文だ。
「目前の動きばかりを見る人たちは“自由は死んだ”と云うかもしれない。しかし“自由”は面を伏せて泣いているのであって、死んでしまったのではない。心の奥に誰もが“自由”の復活を祈っているのです。」
自由が泣いている、こんな表現もあるのかと、しばし文章に釘付けになった。
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44.中島らも〜頭の中がカユいんだ
作家がギリギリのところで自分と戦っているのがよく分かる。
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45.高野悦子〜二十歳の原点
“友達がいないのは友達を求めていないから”〜二十歳の原点
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46.藤原道綱母〜蜻蛉日記
夫婦間の嫉妬心や虚しさを、心情の繊細な描写で書き残した。
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47.倉田百三〜出家とその弟子
“恋は人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだ。この関所の越え方の如何で多くの人の生涯は決まると言ってもいい。真面目にこの関所にぶつかれば人間は運命を知る。愛を知る。全ての知恵の芽が一斉に目覚めて、魂はものの深い本質を見る事が出来るようになる”〜出家とその弟子
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48.三好達治〜測量船
あらゆる事象への冴え渡る観察力!第2次世界大戦中は戦争賛美の詩も書いたが、戦後は天皇の退位を求めて立場を入れ替えた。
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49.横光利一〜機械
全ての登場人物が、常にフルネームで書かれているのが、彼の神経の細かさに思えた。
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50.井伏鱒二〜山椒魚
わずか10ページの小品『山椒魚』。学生の頃は特に何の感慨もなく読み飛ばしていたが、三十路になって読み返した時、最後の1ページでむせび泣いた。
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51.金子光晴〜落下傘
反戦詩人、金子光晴。言葉だけで人間の内に潜む“悪”に立ち向かった。
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52.松本清張〜点と線
推理サスペンスでありながら社会問題に深く切り込んだ作品が多く、大量生産大量消費型の、ただのエンターテイメント小説ではない。
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53.遠藤周作〜白い人、海と毒薬、沈黙
宗教色の濃い、というより宗教そのものがテーマとなった作品が多い。
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54.吉本ばなな〜キッチン
「私はこういうことでは怒らない。知ってるくせに。」〜キッチン
読んでいる時の、あのフワフワと浮いているような不思議な感覚は、まったく新しい文学体験だった!この作品読むとカツ丼が食べたくなるんだよね。
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55.近松門左衛門〜曽根崎心中、心中天網島、冥途の飛脚、国姓爺合戦
・「“早う、殺して…殺して!”覚悟の顔の美しさ!」〜曽根崎心中
近松は文楽と歌舞伎の台本を、なんと120作も生涯に残した。中でも彼の名を最初に世に広めたのが『曽根崎心中』。近松は1703年4月7日に起こった大阪曽根崎(梅田)の心中現場を見て衝撃を受け、事件からわずか1ヶ月で戯作『曽根崎心中』を書き上げた。これを舞台化した文楽は空前の大ヒットになり、物語を真似て心中に走るカップルが急増する。事態を憂慮した八代将軍徳川吉宗は、曽根崎心中を発禁にしたのであった。
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56.野坂昭如〜火垂るの墓
戦争の焼け跡から生み出された凄絶な作品『火垂るの墓』。この小説を読むまでは、テレビの中で暴走気味に怪気炎を吐いている姿しか知らなかったので、イメージとのギャップに驚いた。
※ちなみに童謡の『おもちゃのチャチャチャ』を作詞したのは彼だ。
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57.立原道造(享年24歳)〜わすれ草に寄す
ナイーブな心的風景を、みずみずしい言葉で見事に言語化した。あまりに若過ぎる死じゃないか(肺結核)。
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58.水上(みずかみ)勉〜雁の寺、飢餓海峡
ドロドロののエゴイズム全面展開。暗く、沈痛。読んでて気が滅入る。そして、そこがまたいい。
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59.安岡章太郎〜海辺(かいへん)の光景
“自分はあまりに不幸だったので、この「不運から受けた被害の数々」を書き残しておきたいと一念発意するにいたった”〜海辺の光景
この持つ“破れかぶれ感”は心地良い。仲間だ。
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60.鴨長明〜方丈記
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくの如し」方丈記
枕草子(清少納言)、徒然草(吉田兼好)と並ぶ日本三大随筆のひとつ、方丈記。飢饉や大地震の描写など無常観が炸裂している!※彼は鎌倉時代の文人。
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61.坂口安吾〜白痴、堕落論
“人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。人は堕落することを防げはしないし、防ぐことで人を救うことも出来ない。人間は生き、人間は堕ちる。それ以外に人間を救う便利な近道はない。戦争に負けたから堕ちるのではない。人間だから堕ちるのだ。だが人間の心はそんなに強くないから、永遠に堕ち切ることは出来ないだろう。それでも正しく堕ちる道を堕ち切ることによって、自分自身を発見し、救われなければならない”〜堕落論
“白痴の心の素直さを俺自身もまた持つことが人間の恥辱であろうか”〜白痴
“正しく堕ちる”というのは言葉そのものに衝撃的な響きがある。そして“白痴”。無垢な美しい心に触れ、泥沼に落ち込んでいた主人公の魂が転生していく場面は体が震えた。
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62.滝沢馬琴〜南総里見八犬伝
曲亭馬琴ともいう。彼が28年をかけて書き上げた超大作『南総里見八犬伝』は、老いて失明した後も口述で完成させた執念の作品。全106巻という未曾有のスケールで、現在でも日本最長小説の名を欲しいままにしている。
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63.筒井康隆〜家族八景、七瀬ふたたび
パロディという手法で現代社会と対峙した作家。ここにあげた2作はパロディではなくSFだが、人間の精神世界に奥深く切り込んだ大傑作だ。必読の書!
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64.高村光太郎〜智恵子抄、道程
“道端のがれきの中から黄金を拾い出すというよりも、むしろがれきそのものが黄金の仮装であったことを見破る者は詩人である”〜高村光太郎
純粋な魂の詩に胸を打たれる。人が青年時代に向き合うべき人物。
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65.島田雅彦〜僕は模造人間
“失恋の形式が最も雄弁に恋の内容を物語るのだ”
“確かにカップリングは理想的なようだ。けれども2人がくっついたところでニトログリセリンなどはできまい。せいぜいサイダーだ”
「わたしは発狂に憧れてるの。でも、もう発狂してるかもね。だって自分のこと正常だと思ってるんだもん」〜以上、僕は模造人間
日本文学界のホープの一人。読みやすい。
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66.北杜夫〜夜と霧の偶で
“僕には少年時代はありました。それからいきなり老人です。それ以外何もなかった”〜夜と霧の隅で
斉藤茂吉の子供。ヒット作“どくとるマンボウ”シリーズよりも、僕は芥川賞を獲ったこのナチス支配下の精神病医師の苦悩を描いた、ハードな“夜と霧の隅で”が好き。
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67.石川淳〜紫苑物語
大衆文学もまた文学。
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68.菅原孝標女〜更級日記
平安後期の夢見る文学少女。
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69.十返舎一九〜東海道中膝栗毛
『東海道中膝栗毛』がブレイクしたのは、「弥次さん喜多さん」という主役の2人が、旅先で次々と巻き起こすトンマな騒動が面白いだけでなく、各地の名景や特産品、方言等の風俗が、実に鮮烈かつ詳細に書き込まれており、“そこを訪れたらこれを食べなきゃ始まらない”といった旅行ガイドブックとしての実用性があったからだ(元祖“地球の歩き方”というところか)。 弥次喜多の2人は自分たちのドジを笑い飛ばしながら、底抜けの脳天気さで、明るく愉快に旅を続けて行く。旅を楽しくする最大の秘訣は、どんな事態に遭遇しても常に“陽気であり続ける”ことだ。ぶっちゃけ、それ以外のことはたいして重要ではない。そこがちゃんと描かれているのがいい。
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70.佐藤春夫〜田園の憂鬱
「つまらぬものがどっさりより、本当にいいものが只一つ。それが本当の豊富さ」〜田園の憂鬱
芥川の『歯車』の名付け親になったり、谷崎の妻に懸想したり、近代文学史を紐解くとあちこちに顔が出てくる作家だ。
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71.五木寛之〜さらばモスクワ愚連隊
“周囲から攻撃や批判はされても、馬鹿にはされなかった”〜さらばモスクワ愚連隊
現役の作家としては大家になりつつある。
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72.紀貫之〜土佐日記、仮名序
“やまとうた(大和歌=和歌)”と申しますものは、人の心を種にたとえますと、それから生じて口に出て無数の葉となったものであります。この世に暮している人々は、さまざまの事にたえず接しておりますので、その心に思うことを見たこと聞いたことに託して言い表したものが歌であります。花間にさえずる鶯(うぐいす)、清流にすむ河鹿(かじか)の声を聞いてください。自然の間に生を営むものは、どれもが歌を詠んでいます。力ひとつ入れないで神々の心を動かし、目に見えないあの世の人の霊魂を感激させ、男女の間に親密の度を加え、いかつい武人の心さえも和やかにするのが歌であります〜古今和歌集(仮名序)
彼の文学に対する愛情は素晴らしいものがある。特に和歌について語った言葉は読んでて涙が出てくるほど誠実なハートを感じた。
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73.伊藤整〜イカルス失墜
知的なオーラが良い意味でプンプンしている。「チャタレー夫人の恋人」の翻訳をめぐって、当局の検閲と戦った話は有名。
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74.北村透谷〜楚因の詩
純粋過ぎるが故に、25歳の若さで自ら命を絶ってしまった透谷。島崎藤村の『桜の実の熟する時』に生前の彼がモデルとして登場している。
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75.田山花袋〜蒲団
なぜそんな一番他人に知られたくない感情の動きを、作品として発表出来るのか不思議だ。読み手だって不快になるのに…。
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76.吉行淳之介〜生と性
“大抵は、男ばかりのところへは女一人でも入って来れるが、逆に女ばかりのところへは、男は一人で入って行けないものだ”〜生と性
男女の性というものに、あれだけ長い間関心を持っていた人はあまりいないと思う。
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77.室生犀星〜愛の詩集
もう少し軟弱な方が、個人的には好みなんだけど…。
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78.田中康雄〜なんとなくクリスタル
“お互いに必要以上には束縛し合わないというのも、相手が自分から離れていかないという保障があっての話だ”〜なんとなくクリスタル
元祖マニュアル本。この頃は物質主義の権化のような存在だった作家が、まったく反対の場所に今は立っている(もちろん良い傾向だ)。人の未来は本当に分からないものだね。
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79.石原慎太郎(屈辱!だが良い)〜太陽の季節
悔しいが、この作品は良い。
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80.銀色夏生〜全部同じ
詩人にもブームがあるという典型的な例となってしまった…。
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