「僕は自分を革命家だと思っている。誰の助けも借りず買収もされず 音楽を武器に単身戦っているからだ」(ボブ・マーリィ) |
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ジャマイカは四国よりも小さい島国だ。その地で生まれた民俗音楽レゲエを世界に広げたのが、“レゲエの神様”ボブ・マーリーだ。彼は貧困や人種差別といった社会問題をとりあげ、メッセージ性の強い歌を通して社会改革に立ち上がった。反体制アーティストとして暗殺されかけても、断固として抵抗し続けた姿勢から、第三世界の精神的リーダーともくされた。癌の為36歳で没したが、彼の音楽は現在もなお世界の貧困層にとって解放のシンボルとなっている。レゲエという言葉が生まれたのは’60年代末。まだ30年強という浅い歴史で、これほど世界にレゲエが浸透したのはボブのおかげだ。 |
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ボブの墓を納める為に、故郷の丘に 建てられた小さな教会。教会の手前の 岩に座って作曲していたという |
この扉の裏にある巨大な石棺 の中で彼は眠っていた (内部は写真撮影禁止!残念…) |
※“レゲエ”という言葉自体は、ジャマイカ英語の“レゲレゲ”(抗議する)からきている。1968年にトゥーツ&ザ・メータルズが『ドゥ・ザ・レゲエ』をヒットさせたことで定着した。 ンチャッ、ンチャッと裏拍ではねるギター、地を這うメロディックなベース、そして渇いた音のドラム。そこへ社会改革を訴える歌詞を乗せたのがレゲエだ。過激な歌詞の内容とは裏腹に、ゆっくりとしたレゲエのリズムは、まるで心臓の鼓動のように身体の芯に響く。“レゲエはメロディーが単純すぎて10分も聴くと飽きてしまう”、こう思う人に僕は言いたい、“それは10分だからだ”と。2時間ぶっ続けで聴けば、鼓動がリズムと完全に調和してしまい、全身が音楽と一体になる快感から逃れられなくなるハズ!身体の最深部で味わう音楽、それがレゲエの魅力だ。 |
絶句。軍部に抵抗して虐殺された人々の墓が壁一面に 並んでいた。みんな死亡日がほとんど同じ。むごい… |
大勢の市民に交じってビクトル・ハラも眠っていた。 小さな、小さなコンクリートのお墓だ。どうか安らかに |
「…死体収容所は建物全部が死体であふれていて、事務所までも一杯だ。長い廊下、扉の前、床の上の死体の列。学生たちも死んでいた。そして無数の列の中ほどに、私は夫を見つけた。彼らは1週間でこんなにも変わり果てるような、どんなことを貴方にしたのか?眼は見開かれていた。頭部や顔面の皮膚の恐ろしい裂け目にもかかわらず、いまだに激しく果敢に抵抗しながら前を見つめているように思えた。彼の服はナイフか銃剣で切られたように引き裂かれ、下着はお尻のまわりにボロボロになってぶら下がっている。胸は最もひどく、穴だらけでパックリと傷口が開いていた。そして彼の手は…手首が異様な角度で、腕からぶら下がっていた。…それがビクトル、私の夫、私が愛した人であった」(ビクトル・ハラ夫人の手記から) 9月11日は米国人にとって特別な日だ。しかし、南米の人々にとって9月11日は1973年の悲劇を思い起こさせる。その日、チリでは米国から約300億円の軍資金と数千名のCIA工作員という圧倒的支援を受けたピノチェト将軍が、陸海空軍を率いてクーデターを起こしたのだ。歌手のビクトル・ハラ(40歳)は抗議の意味を込めて軍事政権への抵抗歌を歌っていたが、軍部に反抗した7千人もの市民(国際赤十字推計)と共にスタジアムに連行された。拷問や処刑が始まると、ハラは皆を励ますためギターをとり人民連合のテーマ曲『ベンセレーモス(勝利するぞ)』を歌って抵抗した。軍人たちは怒ってギターを取り上げた。 「歌えるものなら歌ってみろ!」 脅迫されたハラは今度は手拍子で歌い続けた。兵士は彼の両腕を折り、さらに指を銃の台尻でメチャメチャに打ち砕いた。ビクトル・ハラはそれでも立ち上がって歌おうとした。彼は銃剣で口元を切られ、雨のように機関銃の弾丸を撃ち込まれた。 ピノチェトの軍事独裁政府は全ての政党を非合法化し、その後も徹底した反乱者狩りと裁判抜きの処刑を行ない、国際人権団体アムネスティの調査で4万人が虐殺、10万人が逮捕及び拷問された事実が判明している。そして最終的にチリ全人口の5分の1が亡命するという異常事態になった。これらすべてが、米政府による右派援助のたまものだ。 ビクトル・ハラの曲は放送禁止になり、その声が再びチリの街角に流れたのは、実に17年後の1990年にチリが民主化を達成した時であった。 |
ピアソラの墓には花が一本もない。っていうか、長く誰も訪れた 形跡がなかった。白い綺麗な墓に見えるけど、これは僕が 掃除したから。最初は泥んこだった!ごっつい寂しかった…。 |
どの墓も同じ形で探すのが大変だった。すぐ側まで来てる ハズなのに、なかなか会えないもどかしさったらもう! |
タンゴの革命児アストル・ピアソラ。彼はそれまで踊りの伴奏音楽としか見られていなかったタンゴ音楽を、コンサートで鑑賞するに値する芸術作品に昇華させた作曲家兼ミュージシャンだ。激情がほとばしる、エネルギッシュなピアソラの楽曲にシビレまくった僕は、ずっと彼への墓参を夢見ていた。しかし、アルゼンチンはあまりに遠い。日本のちょうど裏側だ(ということは一番遠い国ッ!)。意を決して巡礼を敢行したのは01年3月。大阪からのフライト時間は30時間という、悟りの道に入ったような空の旅だった。ブエノスアイレスに着いてからも一難去ってまた一難!(その辺の事情は下記の巡礼ルポに記した) ようやくたどり着いた墓には、彼の功績を讃える碑文も、バンドネオンの絵も何も彫られてなかった。60X40cmの小さな墓だ。愚直なまでにタンゴに殉じたピアソラの生き様を墓に見た気がした。 『立ち止まることは精神の腐敗を招く』(アストル・ピアソラ) |
1967年2月5日早朝、ビオレータはギターを胸に抱き、右のこめかみへピストルの弾丸を撃ち込んだ。49歳の彼女は独りで逝った。原因は、社会変革の戦いに疲れ果てたことと、失恋の深いダメージだった。どちらの理由も、情熱的で真直ぐな彼女の性格ゆえだ。 |
シャンソンの女王。歌声で多くの人を魅了した | ピアフを追悼するファン(2009) |
2002 | 2005 | 2009 夕陽に照らされたピアフ |
2015 | 南米から来たファンが歌を捧げていた |
(注)ピアフは12月生まれなので、多くの出来事が誕生日前=ひとつ年下の年齢で経験している可能性あり。
彼女の人生は波乱に満ちていた。父ルイ=アルフォンス(1881-1944)は大道芸人・曲芸師。カフェの歌手(流しの歌手)だった母アネッタ(1895-1945)は出産当時20歳(日本版ウィキの1898年生&17歳は間違い)。生まれてすぐに父が第一次世界大戦に召集されると、母は娘を祖母に預けて若い男と姿を消した。祖母は育児を放棄したため、父親は娘をノルマンディーで売春宿を営んでいた自らの母親の元に連れて行き、ピアフは面倒見の良い娼婦たちに育てられた。 3歳の時に角膜炎で失明したが、7歳で奇跡的に視力を回復する。同じ頃、除隊した父が迎えにきて、彼女は大道芸をする父とフランス各地を巡る放浪生活が始まった。10歳のときに、病に伏した父の代わりに初めて街頭で歌を歌い、人々は大人顔負けの音量でフランス国を歌いあげる少女に感嘆した。大きな拍手が起き、彼女は自分の歌声の価値に気付いた。 ピアフ「(貧乏だったけど)だって、もしあんなふうに生きてこなかったら、私はエディット・ピアフになれなかったもの」 1930年、15歳のときに父が愛人との間に子をもうけ、ピアフはこれに反発して独立。パリ郊外でストリート・シンガーとして自身の道を歩むようになり、街で知り合ったモモーヌという少女と路上生活を始める(モモーヌは母違いの2歳年下の妹とする資料もある)。2人は一緒に街角で歌ってお金を稼ぎ、小さな部屋を借り、人生のほとんどを共にする。 ピアフ「私が街角で歌ったのは、生きるために糧を得る手段が他になかったからです。もちろん、それだけではありません。歌っていると、実に幸せな気持ちになるのです」 1932年、17歳のときに一つ年上の運送屋の少年ルイ・デュポンと出会い恋に落ちる。ルイ、モモーヌと3人で暮らし、2カ月後に彼女は妊娠。身重だったが工場で花輪を作る仕事をした。 1933年(18歳)、2月に17歳(誕生日前)で娘マルセルを出産。家計は苦しく、昼は街角で、夜は安酒場で歌った。やがて若い夫婦は仲違いし、幼い娘のことを考えた夫は、マルセルを彼の母親に預けてしまう。この子は2歳の時に髄膜炎で夭折したが、埋葬するお金もなかったという。 1935年、20歳のときにパリの街角で歌っているところを、著名人が集まることで有名なナイトクラブ“ジェルニーズ”の支配人ルイ・ルプレに見出され、専属契約を結ぶ。身長142cm(147cm説あり)、体重約40kgの小柄な彼女をルプレはパリジャンの俗語でスズメを意味する“ピアフ”をもじり、「ラ・モーム・ピアフ(小スズメ)」と呼び、のちにこれが芸名となった。また、ルプレは彼女にステージで黒いドレスを着用するように言いトレードマークとなった。ナイトクラブの歌手としてデビューすると、たちまち大きな評判を呼ぶ。初舞台のバンドリーダーはジャンゴ・ラインハルトで、ピアニストはノルベルト・グランツベルク。ルプレは熱心に宣伝活動を行い、俳優・歌手のモーリス・シュヴァリエなど多くの有名人を集めた。ピアフは波瀾万丈の人生を体現するような気迫に満ちた歌声、強い喉で世間を驚かせ、いっきにスターダムを駆け上がった。ピアフ「とうとう貧乏と決別し、新しい人生が始まる。私はそう感じていました」。 1936年(21歳)、レコードデビューも果たし絶好調だったピアフを悲劇が襲う。4月6日、ピアフの恩人ルプレがマフィアによって殺害され、彼女は裏社会と親交があったために共犯者として告発され取り調べを受ける。無罪となったが彼女を雇うナイトクラブはなかった。 1937年(22歳)、干されていたピアフは、作詞家の詩人レイモン・アッソらの激励によって失意を乗り越えていく。アッソは腕の使い方などピアフに表現力を高めさせるため、一流の歌手のステージを何度も見学させた。再デビューにあたって、殺人事件のイメージを払拭するため芸名を「ラ・モーム・ピアフ」から「エディット・ピアフ」に改名。見事、パリの名門ABC劇場のステージを成功させ再デビューを果たした。彼女はレコードの売上げも、コンサートの観客動員数もフランスでナンバーワンとなった。 レイモン・アッソ「彼女は人間的な面では野放しだった。物の食べ方も知らなければ、自分の体を洗うことも知らなかった。」 1939年、24歳のときに第二次世界大戦が勃発。 1940年(25歳)には「ピアフの発見者」を自認する詩人ジャン・コクトーが彼女のために書いた一人芝居『冷淡な美男』に主演、女優としても認められた。6月22日にフランスはナチスドイツの占領下に入ったが、彼女は歌手活動を続け、シュヴァリエや詩人など著名人と親交を持つ。そして多くの曲の歌詞を書き、作曲家たちと曲の共同制作を行った。 同年、占領軍ナチスドイツはフランス懐柔策として、国民的スターのピアフを捕虜収容所の慰問係に任命する。彼女は大胆にも捕虜の脱走計画を練った。捕虜たちと撮った記念写真から捕虜の写った部分を切り取って、脱走計画に使用する偽造した身分証明書に貼り付け、捕虜の職業欄に“ミュージシャン”と記した。そして再び同じ収容所を慰問したときに、その偽造証明書を捕虜に渡し、帰りの慰問団の一行に紛れ込ませたのだ。彼女はドイツの捕虜収容所で何度も公演し、多くの捕虜を逃がすのに貢献した。 同年、ピアフはユダヤ人音楽家ミッシェル・エメールと仕事をし、その曲《アコーディオン弾き》L'Accordeonisteはすぐに多くの人々に愛されて大ヒット、彼女はトップスターにのぼりつめた。こうして莫大な収入を得たが、それを周囲の人間の飲食代としておごったり、若い音楽家の援助で湯水のように使った。私生活では1941年から1952年まで一人暮らしを送る。 ピアフ「私は才能のある人を見ると、成功させてあげたくてじっとしていられなくなるの」 《アコーディオン弾き》 https://www.youtube.com/watch?v=qvTg2OJfrfg (3分37秒) 1942年(27歳)、パリ・ゲシュタポ本部の近くにあった有名なナイトクラブ兼売春宿レトワール・ド・クレベールの上に居住。 1944年(29歳)7月、ナイトクラブ「ムーラン・ルージュ」のステージで23歳のイヴ・モンタン(1921-1991)と初めて出会う。モンタンはピアフの前座を務めた。ステージの後、ピアフは6歳年下の彼に告げる。「この道でやっていきたいなら私の言うことを聞きなさい。そうすればあなたは、1年以内に戦後最大の歌手になる。この私が保証するわ」。彼女はモンタンの歌唱を指導し、アメリカかぶれのカウボーイスタイルを辞めさせてスーツを着させ、愛の歌を歌わせた。ピアフが大々的に宣伝したことでモンタンは人気に火がつき、やがて “世界の恋人”とまで言われるようになる。 8月25日、パリが4年ぶりにナチスドイツから解放され、新聞はピアフが占領軍(ドイツ)と親しかったと糾弾したが、記事を読んだ兵士たちが、「俺たちはピアフに助けられた」と抗議した。12月に連合国軍のためにマルセイユでモンタンとステージに立った。同年父ルイが63歳で他界。翌年には母アネッタが薬物中毒により50歳で没している。母はモルヒネの量を間違えて注射し、その亡骸は同棲していた男に川へ投げ捨てられたという。 1945年(30歳)、ピアフはモンタンと恋に落ち、代表曲のひとつ《バラ色の人生》La Vie en roseを作詞した。この年、第二次世界大戦が終結し、戦争が終わった喜びも歌の背景にあった。イヴ・モンタン「僕は考えもしないうちに恋に落ちていた。初めての本気の恋だった」。 戦後は当代最高のシャンソン歌手の評価をえて順調に活躍していく。 1946年(31歳)、《バラ色の人生》を発表。同年、映画『光なき星』でモンタンと共演した。モンタンとの出会いから2年、彼も熱烈にピアフを愛していたが、彼女は別れを告げた。 ピアフ「お互いに愛し合っているうちに、勇気を持って別れるべきなの。どんなに愛しても男たちは結局、他人にすぎないけれどシャンソンは違う。私の肉体であり、血であり、精神であり、魂なのよ」 同年、ピアフは22歳のシャルル・アズナブール(1924−2018)にシャンソンの才能を認めてデビューを手助けし、のちにピアフの演奏旅行に同伴させた。 ●《バラ色の人生》 見つめられると目を伏せてしまう 唇にはかすかな微笑み それがあの人の面影 私が身も心も捧げるあの人の あの人が私を腕に抱き、そっと話しかけるとき 人生がバラ色に映るの 愛の言葉をささやくとき、たとえありふれていても やはり嬉しいもの 私の心の中に幸せがやって来たと その理由はちゃんとわかってる あの人は私のもの 私は死ぬまであの人のもの 彼はそう誓ってくれた その姿を見たとたん、すぐに私は感じるの この胸のときめきを いつまでも続く恋の日々 素晴らしい幸せで一杯 退屈な苦しみは消えてなくなる 幸せで息がつまりそう 《バラ色の人生》 https://www.youtube.com/watch?v=0eUYsJBCPV8 (3分) 1947年(32歳)、アメリカに渡りNYの公演で大成功を収め、世界への第一歩を踏み出す。彼女は『エド・サリヴァン・ショー』へ8度も出演するほどアメリカで人気を得た。ヨーロッパ、アメリカ、南米をツアーで回り、10月のアメリカ初公演では大女優で歌手でもあるマレーネ・ディートリヒ(1901-1992/当時46歳)と知友を結び、以後2人は生涯にわたる親友となった。 ピアフはこの米国初公演の際に、パーティーでのちに世界チャンピオンとなるプロボクサーのマルセル・セルダン(1916-1949)とも出会う。一つ年下の彼はフランス人だが試合で米国に来ていた。セルダンには妻と3人の子がいたが2人はすぐ恋に落ちた。 ピアフ「彼と知り合うまで私は何者でもなかった。私はセルダンを愛した。いえ、それ以上だった。私は彼のことを神様のように崇拝した」 ある公演の後、疲れていたピアフは握手やサインを求めるファンを押しのけて車に乗り込んだ。セルダン「僕は今夜、初めて君に失望したよ。ファンは君のサインをもらうためにずっと待っていたんだよ。君は有名になる前、ファンが欲しいと思っていたことを忘れてしまったのかい?」。ピアフは彼の優しさにいっそう惹かれていった。 セルダンは離婚を考えたが、幼い頃に親から見捨てられたピアフはそれを許さなかった。「マルセル・セルダンは絶対に離婚しません。もし子どもたちから彼を引き離してしまったら、私は眠れなくなり、生きてはいられないでしょう」。その一方で、彼女は2日ごとにラブレターを出した。「あなたなしの人生なんて、人生じゃないわ。巨大な空洞ができたみたいで怖いの」。 1948年(33歳)9月21日、セルダンは世界タイトルに挑み、トニー・ゼールを倒してミドル級の世界チャンピオンとなった。セルダンの名が広まったことで、ピアフとの関係は世界的に大ニュースとなった。 1949年(34歳)、NYのコニーアイランド遊園地で、ピアフとセルダンがお忍びでデートしていたときのこと。彼らに気付いた群衆が2人を取り囲み、ある男が「ラ・ヴィ・アン・ローズを歌って下さいよ」とリクエストした。不機嫌なピアフにセルダンが「歌ってあげなよ」と語りかけ、彼女はアカペラで見事に歌いあげた。群衆たちが拍手と歓声を送るなか、セルダンは彼女を抱きしめてこう言った。「エディット、君は僕なんかより、ずっと素晴らしい仕事をしているんだね。あの人たちを幸せにするのが君の仕事なんだ」。 6月12日、ピアフはセルダンを想って、のちに《愛の讃歌》と呼ばれる名歌の歌詞を書きあげたことを手紙に記す。「書き始めていたシャンソンを仕上げたところよ。きっとヒットすると思うの」。その4カ月後、ピアフの生涯で最大の悲劇が訪れる。 6月16日、セルダンは初防衛戦でジェイク・ラモッタと闘い、途中で肩を負傷し王座を明け渡した。 10月下旬、パリで仕事を終えたセルダンは、コンサートのためにNYにいるピアフに電話をかけた。「これから船で向かうよ」「少しでも早く会いたいわ。お願い、飛行機で来て」。 10月28日、セルダンはピアフに会うためNYから飛行機でパリに向かう途中、パイロットの操縦ミスで大西洋アゾレス諸島に墜落、著名なバイオリニストのジネット・ヌヴーやディズニー取締役を含む乗員48名全員が死亡した。セルダンはまだ33歳だった。 ピアフは親友で女優のマレーネ・ディートリヒと空港で出迎える予定だったが、ディートリヒから悲報を知らされ、身を引き裂かれるような衝撃を受けた。ピアフは気丈にも、その夜の公演をキャンセルせずステージに立ち、この日発表する予定だった《愛の讃歌》を歌った。「あのとき、私に自殺を思いとどまらせたのはマルセル・セルダンだった。本当の勇気とは最後まで生き抜くこと。彼はその後も私のそばから離れたことはない。いつも何か決めなければならない時は彼に聞くの。“あなたならどうする?”って」。 最愛のセルダンを失ったピアフは悲しみを振り払おうと、連日仲間たちと飲み歩き、アルコール依存症となっていく。 ※後年、セルダンの息子もボクサーとなり、そのプロデビュー戦のリングサイドでは、ピアフとセルダン未亡人が並んで観戦した。 1950年(35歳)1月、ピアフは自身の代名詞となる《愛の讃歌》Hymne a l'amourのレコードをリリース。作詞はピアフ、作曲は彼女の親友だった女流作曲家マルグリット・モノーが担当した。生死を越えて永遠に結ばれようとする愛情がつづられ、人々はピアフの人生と重ねて胸を打たれた。この曲はフランス国内にとどまらず、世界中で愛聴された。同年アルゼンチンの民族音楽の伝統の中心人物であるアタウアルパ・ユパンキ(1908-1992)をパリにデビューさせ、ユパンキはフランスのレコード大賞に輝いている。 ●愛の讃歌(これほど激しい愛の歌は他にないだろう!) ♪たとえ空が落ちても大地が足元で裂けても あなたの愛があれば良いの あなたが望むなら 世界の果てまでも行き 祖国も棄て 友とも別れ 盗みすらもするわ どんなに笑われても どんなことでもしてみせる いつの日かあなたがこの世を去ることがあっても あなたの愛があれば私は平気 だってすぐに私もあなたの後を追うから そのとき大空の中で 神が愛し合う二人を結びつけてくれるわ 《愛の讃歌》 https://www.youtube.com/watch?v=sgBldNsK-xw (3分25秒) 1951年(36歳)、公演旅行に同伴させたシャルル・アズナブールと共に自動車事故に遭い、腕と肋骨2本を折る重傷を負う。その後、痛み止めとして与えられたモルヒネがきっかけとなって麻薬中毒となり、晩年まで非常に苦しんだ(その後、さらに3度も交通事故に遭っている)。同年、明るい《パダムパダム》を発表。 《パダムパダム》 https://www.youtube.com/watch?v=Kya3c4WJZAk (3分18秒) 1952年(37歳)、フランスの歌手ジャック・ピルズ(本名ルネ・デュコス/1906-1970/当時46歳)と結婚し、付添人をマレーネ・ディートリッヒが務めた。4年後に離婚。 1955年(40歳)、パリで最も有名なコンサート会場である老舗ホール「オランピア」で歌い、ステージがレコードにもなり永遠の名声を得た。 1957年(42歳)、《La Foule》を発表。前年に離婚してフリーになり、シンガーソングライターのジョルジュ・ムスタキと約一年間の恋人生活を送る。ムスタキはピアフのためにたくさんの曲を書き、中でも作詞した『Milord』(「ミロール」)はヒットナンバーとなった。 《La Foule》 https://www.youtube.com/watch?v=Fgn8gZHJZzA (3分22秒) 1958年(43歳)、回想録「わが愛の讃歌」を発表。 1959年(44歳)、ニューヨーク公演のステージで倒れる。原因は内臓からの出血(胃潰瘍)で、一時昏睡状態に陥った。この年は再び自動車事故で瀕死の重傷を負って入退院を繰り返したが、歌への執念は捨てなかった。その一方で、長年にわたるアルコール依存症と、事故が引き金となった関節リウマチのため、後には不眠症のために大量の薬を服用し、その健康は損なわれていった。医者に「自殺行為だ」と休養を薦められたが、「私には歌うことが必要なの。歌うことが生きてるってことだから」とステージに立ち続ける。同年《ミロール》Milordを発表。 《ミロール》 https://www.youtube.com/watch?v=nZcdI1u_9o8 (4分30秒) 1960年(45歳)、体調悪化で歩くこともままならなくなり、秋のオランピア劇場の公演を断念した翌日、若い作曲家が「作品を聴いてほしい」とピアフのもとを訪れ、ピアノを弾きながら《水に流して》 "Non, je ne regrette rien"を歌いあげた。彼女は「これこそ私のためのシャンソン」と興奮し、「聴衆に聞かせる」とオランピア劇場で奇跡のカムバック公演を成功させた。重病人にもかかわらず劇場は満員、カーテンコールは実に22回、公演は3カ月のロングランとなった。ピアフの専属カメラマン、ユーグ・ヴァサル「1つの曲がピアフに超自然的な力を与えたのです。彼女は毎晩ステージに立ち、劇場を満員にし続けました」。ピアフ「時間が欲しいの。私は眠るのが怖い。だって一種の死だもの」。 ●水に流して いいえ、後悔してないわ 私は何一つ後悔してない 私に起きた良いことも悪いことも 私には同じこと いいえ、後悔してないわ 私は何一つ後悔してない 代償を払って過去は清算した もう忘れ去ったわ 私には過去なんてどうでもいいこと いろいろな思い出 火をつけて燃やした 悲しみも喜びも、今はもう必要ない 過去の恋は清算した、震える想いと共に 永遠に追い払った、またゼロからやり直そう いいえ、後悔してないわ 私は何一つ後悔してない 私に起きた良いことも悪いことも 私には同じこと いいえ、後悔してないわ 私の人生、私の喜びは、今日から始まる あなたと共に始まるのよ 《水に流して》 https://www.youtube.com/watch?v=Q3Kvu6Kgp88 (2分22秒) 1961年(46歳)、ピアフはステージで再び倒れ、そのまま入院した。今度こそ終わりと周囲の誰もが想った。 1962年(47歳)、ギリシャ系の美容師で、歌手を目指していた26歳の美青年テオ・サラポ(1936-1970)と出会う。彼は20歳年下であったが、ピアフの大ファンであったことをきっかけに交際が始まった。ピアフから厳しい歌唱指導を受けたサラポは、彼女とのデュエット《恋は何のために》A quoi ca sert l'amourでデビューする。記者から「また1人恋人が増えましたね」と言われた彼女は「いいえ。彼は私にとって最後の恋人よ」と答えた。 ピアフはサラポを喜ばせたくて、オランピア劇場で再び奇跡の復活を遂げ、2人で舞台に立った。10月、ピアフはサラポからのプロポーズを受け入れ、ディートリヒの介添えのもと結婚した。代表曲のひとつ《私の神様》にはサラポへの想いが込められている。「♪あと1日…2日…いいえ1週間でも、もう少しだけ愛する人といさせてほしい。愛し合い、愛の言葉を交わす時間が欲しい」 《恋は何のために》 https://www.youtube.com/watch?v=ZtnTaUcMLjA (3分19秒) 1963年4月に最後の曲《ベルリンの人》L'homme de Berlinを録音した。 《ベルリンの人》 https://www.youtube.com/watch?v=ITwI9tI2rHw (3分) 晩年は麻薬と酒に溺れ、肝臓が悪化して体重が大幅に減少し30kgまで落ち込んだ。ピアフは衰弱してようやく立てるという体調でコンサートをオランピア劇場で開いた後、数カ月間意識を失い、10月10日に南仏ニースの別荘で、夫テオにみとられて47歳で没した。死因は肝不全とも、癌ともされている。最後の言葉は「この人生でやることはすべて償わなければならない」。 翌日に死が公表されると、旧友で詩人ジャン・コクトー(1889-1963)は訃報に打ちのめされ、「嗚呼、ピアフが死んだ!何ということだ、私も死んでしまいたい」と嘆きながら寝室へ入り、心臓発作を起こして後を追うように急死した(享年74)。別説には、書きかけの弔辞を前に心臓麻痺に襲われたとも。 カトリック教会のパリ大司教はピアフの生前の不道徳を問題視し、葬儀でのミサを許さなかった。彼女の死を悼む無数の人々が路上で葬列を作って見送り、パリ中の商店が弔意を表して休業し喪に服した。パリの交通が完全にストップしたのはナチスのパリ占領以来という。ピアフの遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、墓地内は4万人のファンで混雑した。 サラポはピアフの700万フラン相当の借金を引き継いだため、2カ月後のクリスマスに住居から退去させられた。彼は自身のレコードをヒットさせ、ピアフが残した多額の借金をすべて返済した。 1970年8月28日、ピアフ他界の7年後、テオ・サラポは自動車事故により37歳で早逝した。サラポの亡骸は、ピアフが10代のときに産んだ娘マルセルの父であるルイ・デュポンによって、ピアフとマルセルの横に埋葬された。ピアフの父ルイ=アルフォンスもその墓に眠る。 2007年、ピアフの生涯を描いた映画『エディット・ピアフ 愛の賛歌』(La Mome)が公開され、出演のマリオン・コティヤールが第80回米国アカデミー賞主演女優賞に輝いた。 ピアフは力強く情感をこめた歌唱でシャンソンで第一人者となっただけでなく、20世紀で最も有名な音楽家の一人として記憶された。彼女は庶民の生活感情を大衆の言葉で歌う「シャントゥーズ・レアリスト(リアリスト)」の最後の歌手とされ、愛や喪失、悲しみが、優れた表現力によって深い感銘を与えるものに高められた。 自身の作詞による『バラ色の人生』『愛の賛歌』のほか、『水に流して』『パダン・パダン』『ミロール』などの名唱がある。また、イヴ・モンタン、シャルル・アズナブール、ジルベール・ベコー、ジョルジュ・ムスタキらの才能を見抜いてデビューさせるなど一流歌手も育てた。 私生活では恋と結婚に破れ、30代半ばから4度の自動車事故にみまわれ、痛み止めにもちいたモルヒネの中毒になったうえ、少女時代からの飲酒癖からアルコール中毒にもなり、7度に渡る手術や自殺未遂を経験した。 あたかも、自身の人生につきまとう不運に挑戦するかのような気迫に満ちたピアフの歌。聴衆は歌の背後に彼女の悲劇的な私生活を感じ、華奢で小さな体から奔流となってあふれ出す、劇場を支配する力強い声に圧倒された。 ※ピアフ「歌えなくなってただ生き長らえるより、死んだ方がマシよ!」 ※ピアフは専属カメラマンのユーグ・ヴァサルにこう言った「私のすべてを撮影しなさい。美しく撮ろうとしてはダメ。私が死ぬときも撮るのよ」。 ※ピアフ「人生をもう一度やり直すとしたら、同じ人生がいいわ」 ※パリ11区のクレスパン・ドゥ・ガスト通り5番地にエディット・ピアフ博物館がある。 ※1973年にエディット・ピアフ友の会が設立された。 ※1981年、故郷ベルヴィルにエディット・ピアフ広場が開設された。 ※彼女の墓は、道を挟んで画家モジリアニの墓がある(数列奥)。 〔墓巡礼〕 ピアフの葬列はパリの街に何万人もの弔問客を集め、墓地での式典には4万人を超えるファンが参列した。パリの交通網が完全に麻痺したのはナチスドイツの占領以来という。彼女はパリのペール・ラシェーズ墓地に娘マルセルと並んで埋葬されており、その墓は最も参拝者が多い墓所の一つだ。同じ墓に、父ルイ=アルフォンスと再婚したテオ・サラポが埋葬されている。墓碑の足元に刻まれた名前はFamille Gassion-Piaf(ファミール・ガシオン=ピアフ)。側面にはMadame Lamboukas dite Edith Piafと名前が刻まれている。 ピアフの墓所には複数回訪れているが、最も忘れられないのが2015年の墓参。彼女の墓に近づくにつれ歌声が聴こえてきた。墓前で南米から墓参りにきたという女性6名が《バラ色の人生》や《愛の讃歌》を歌っていた。歌手という職業は、墓に入ると今度は墓参者が歌を聴かせてくれることもあるのだと気づいた。墓は色とりどりの花に囲まれていた。 参考資料:『世紀を刻む歌2 ラ・ヴィ・アン・ローズ』(NHK)『ザ・プロファイラー “シャンソンの女王”の悲劇』(NHK)ほか。 |
男性的かつ甘い声を持つイブ・モンタン(本名イーボ・リービ)はイタリア出身。戦前にファシスト政権を逃れてフランスへ移住し、トラック運転手や工場労働者を経た後に、美声を生かして歌い始めた。やがてエディット・ピアフに見出され、シャンソン歌手として大成功を収める。名歌『枯葉』は3分22秒の短い曲だが、映画数本分に匹敵する人生を感じさせる傑作で、世界的なスタンダード・ナンバーとなった! 彼はまた、映画俳優としても素晴らしい演技を見せている。代表作は『恐怖の報酬』と『Z』。どちらもシリアスな社会派作品だ。特に『Z』はギリシャの軍事独裁政府を糾弾した作品で、当のギリシャでは公開中止になった問題作。女優シモーヌ・シニョレと結婚し2人は同じ墓に入っている。 |
●枯葉(この曲はメロディーの宝庫!すごい密度で曲が展開する) ♪ああ 覚えていてほしい 幸せだった日々を 2人は仲が良くあのころ人生は美しかった 陽はもっと暑かった 枯葉は散る 僕は忘れちゃいない 枯葉は散る 想い出も哀しみも一緒に北風が運んでゆく 僕は忘れちゃいない 君が歌ってくれたあの歌を 僕たちに似たその歌 君は僕が 僕は君が好きだった そして二人で共に生きていた でも 人生は愛しあう者たちを別れさせる---静かに音もなく そして海は消してしまう---心の離れた恋人たちの砂上の足跡を 枯葉が散る 想い出も哀しみも一緒に 誠実な恋人はいつも人生に微笑み感謝する 僕は君がとても好きだった 君は美しかった 君を忘れられるわけがない あのころ人生はもっと美しかった そして陽はもっと暑かった 君は誰よりも僕に優しかった でも嘆きはしない 君が歌ったあの歌が いつまでも僕には聞こえるから… |
世界最初のタンゴ歌手。『喉に涙を持つ男』『ガルデルの前にガルデルなく、ガルデルの後にガルデルなし』とまで言われている。涙を溜めたように震えるあの声は、確かに一度耳にすると忘れられない。1917年、彼が30歳の時に歌った“我が悲しみの夜”が、それまで音楽のみだったタンゴに歌をのせた第一号となった。そのカリスマ的人気は、かのクラーク・ゲーブルが「俺もガルデルくらい歌が上手くて人気があれば…」と思わず漏らしたほど。 彼は作詞作曲にも素晴らしい才能を持ち、数々の名曲を残している(映画“セント・オブ・ウーマン”でA・パチーノが踊っている曲もそう)。47歳の円熟期に飛行機事故で逝ったことが、ますますガルデルを伝説化した。彼の墓には銅像が建ち、死後70年近く経った今もたくさんの花束に囲まれていた。 僕が墓参している時、一台の白い乗用車がやって来た(写真参照)。乗っていたのは60歳位の白髪の紳士。墓の手前で車から降りたかと思うと、一輪のカーネーションをガルデル像の足元に置き、しばしその顔を見つめた後、再び走り去った。この間、約1分。あまりに粋な光景に僕は固まってしまった。あの男性にとっては、日常生活の一部にガルデルの墓参が含まれているようだった。こういう人たちの存在が、墓に温かさを感じさせているのだ。 なんとも良いものを見させてもらった。 ※読者の方から、コロンビアのメデジンにあるサン・ペドロ墓地にもガルデルの墓が建っていると教えて頂きました! ※『カルロス・ガルデル物語』…非常に詳しいガルデルの伝記がアップされています。入魂のサイト!こちらにはガルデル生存説が記されています。飛行機事故で生き延びたものの、顔に火傷を負ったので人前から姿を消したとのことデス。 |
成田雲竹は日本民謡協会から初代の名人位を授与された“唄の神様”。弟子の数はなんと6000人。1950年、雲竹が62歳の時、伴奏者に40歳の初代高橋竹山を指名、この最強タッグは15年に渡って津軽民謡の黄金時代を築くことになる。墓石は巨大な黒石で、大地からドーンと天へそそり立っていた。
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作曲家、バンドリーダー、ピアノ奏者。世界で初めてブルースの楽譜を出版したことから、彼は『ブルースの父』と呼ばれている。
W.C.ハンディことウィリアム・クリストファー・ハンディは、1873年に南部アラバマ州で牧師の子として生まれた。彼は子どもの頃から賛美歌に親しみ、また毎日のようにオルガンで演奏し深く音楽に傾倒してゆく。20代に入ると友人らとブラスバンドを結成し、南部を半ば放浪しながら演奏活動を続けた。
1903年(30歳)、そんな旅回りのある日、ハンディがミシシッピ州タトワイラーの駅で9時間遅れの列車を待っていた時のこと。彼がベンチでウトウトしていると、みすぼらしい黒人のギター弾きが隣に座り、ポケット・ナイフを弦に当ててスライドさせながら“今まで聴いたなかで最も風変わりな音楽”を奏で、歌い始めた。ハンディは神の啓示を受けたように新しい音楽、ボトルネックの音色の誕生を予感したという(この時はまだブルースという呼び名は存在していない)。 ブルースは黒人労働者の労働歌(ワークソング)や黒人霊歌から生まれたもの。南部の黒人達は日々の生活の辛さや嘆きを、歌で吐き出していた。しかし誰もこれを楽譜に書き写した者はいなかったので、ハンディは巡業先で出合った黒人達の歌を地道に楽譜に起こしていった。1912年(39歳)、ハンディは長年集めた歌が元になった曲『メンフィス・ブルース』を発表する。そしてこの曲を楽譜として出版したことで、従来からあったブルースが、改めて「ブルース」として人々に認識されるようになった。 1914年、41歳で発表した代表曲『セントルイス・ブルース』は、“米国第二の国歌”と言われるほど大ヒットとなり、ストラヴィンスキー、ガーシュインら同時代の多くの作曲家に影響を与えた。※ハンディは旅回りの途中にセントルイスでついに無一文となり、施しを受けつつ橋の下で暮らしていたという。この最も辛かった時代を歌の題名に冠した。 ハンディは70歳の時に事故で失明したが、それからも点字の楽譜を使用しながら音楽活動を続行する。最晩年、ルイ・アームストロング(ジャズ)とレナード・バーンスタイン(クラシック)というジャンルの違う2人が同じ舞台で『セントルイス・ブルース』を演奏しているのを聞いて、83歳のハンディは思わず落涙した。 ハンディは大戦中に日本兵が硫黄島の洞窟に持ち込んだ、日本語のセントルイス・ブルースのレコードを生涯宝物として大切にし、こう語っていたという--「このレコードは人種や国境を超えて『セントルイス・ブルース』が愛された証拠なんだ」。 代表作は『セントルイス・ブルース』『イエロー・ドッグ・ブルース』『ビール・ストリート・ブルース』『オール・ミス』等多数。 ※ガーシュインは『セントルイス・ブルース』を参考に『ラプソディ・イン・ブルー』『ポーギーとベス』を作曲したと語っている。 ※メンフィスのダウンタウンの中心に「W.C.ハンディ公園」があり銅像が建っている。 ※Bluesの正確な発音は「ブルース」ではなく「ブルーズ」と濁る。語源は“憂鬱”のブルーとされている。 ※12小節、半音下げた3度や7度の暗い旋律をとるブルースの技法をブルーノートという。現代の楽譜は半音下がる指示をフラット記号で表しているけど、ハンディが活躍した頃はブルーノートの記号だったという。この呼び名は名門ジャズクラブ「ブルー・ノート」の名の由来となった。 |
ハンディとルイ・アームストロング |
南部ミシシッピの夕焼け |
見渡す限りのコットン畑 |
墓地の近くのクロスロード。ここではないけど 真夜中の十字路で悪魔と取引をしたという |
十字路の停止標識に弾痕!? | 墓の前面。3箇所ある墓でここが一番有名 | こちらは背後 |
レコード会社が建てた写真入り墓 全29曲の曲名を刻む |
最もシンプルな墓。ここの墓前で土砂降りの嵐になった |
夭折した伝説的ブルース歌手、シンガーソングライター。切実さが混じった高音の歌声、物語性のある歌詞、ビート感にあふれたギター演奏により、同時代のブルースマン、マディ・ウォーターズ(1913-1983)やエルモア・ジェームズ(1918-1963)、後のロック界にも多大な影響を与えた。
1911年にミシシッピ州で生まれる。母親の浮気相手との子どもだった。10代で出生の秘密を知り、本当の父親のジョンソン姓を名乗る。住人の大半が黒人のミシシッピ・デルタで、少年時代にサン・ハウス(1902-1988)らが演奏するデルタ・ブルースと出会い傾倒、当初はハーモニカ(ブルース・ハープ)を演奏した。1929年、18歳のときに16歳の女性と結婚するが翌年の出産時に母子とも他界する。
その後、ジョンソンは短期間で急激にギターテクニックが上達し、1930年代になるとアコースティック・ギター1本でブルースを弾き語り、南部を中心に歌い歩いた。 ジョンソンはピアノの音をギターで表現。低音弦でブギ・ウギのリズム、高音弦でメロディ・ラインを同時に弾き、2人の演奏と錯覚するようなギターテクニックを披露、これに驚く人々に「深夜の十字路で悪魔に魂を売り渡して、その引き換えにテクニックを身につけた」と語り、“クロスロード伝説”として広まった。ミシシッピ州クラークスデールの国道161号線と国道49号線が交わる十字路が契約の現場とされ、現在ギターのモニュメントが立つ。
1936年、25歳でテキサス州サンアントニオにて初レコーディング・セッションを行い、3日間で16曲を収録。翌年、2度目のレコーディングをダラスで行い13曲を録音し、2回分の計29曲、現存する42テイクが生涯に残したレコーディングとなった。『テラプレイン・ブルース』は南部で数千枚が売れ、生前唯一のヒット曲となった。
※『テラプレイン・ブルース』 https://www.youtube.com/watch?v=It-tJ8DOjIk (3分)
1938年8月16日、27歳で突然他界。死因は「不倫相手の人妻の夫からウイスキーに毒を盛られて毒殺された」など諸説が伝えられている。デルタ・ブルースの伝統に新しいシティ・ブルースを取り入れたジョンソンの音楽は、後にシカゴ・ブルースとして発展してゆく。
1961年、初アルバム『キング・オブ・ザ・デルタ・ブルース・シンガーズ』がリリースされ広く世界に知られる。
1968年にエリック・クラプトンがメンバーのクリームが「クロスロード」を、1969年にローリング・ストーンズが「ラブ・イン・ベイン」をカバーし、ロック界でも知名度を上げる。クラプトンはジョンソンを「史上最も重要なブルース歌手」と讃えた。
※『クロスロード・ブルース』 https://www.youtube.com/watch?v=J81NobZEdWc (2分半)
※クリーム版『クロスロード』 https://www.youtube.com/watch?v=PE9HvSdcaL4 (4分16秒)
※『ラブ・イン・ベイン(虚しき愛)』 https://www.youtube.com/watch?v=07T3h0b93Rg (2分20秒)
※ローリング・ストーンズ版『ラブ・イン・ベイン』 https://www.youtube.com/watch?v=yZYhhjyGXoU (4分19秒)
没後51年が経った1989年に初めてジョンソンの写真が公開され、翌年に未発表の別テイクも収録した『The Complete
Recordings』(1990)がリリースされる。この全集は世界中で100万セット以上を売り上げて話題になり、グラミー賞を受賞した。
“ロックの殿堂”に4曲『スウィートホーム・シカゴ』『クロスロード・ブルース』『ヘルハウンド・オン・マイ・トレイル』『ラブ・イン・ベイン』が選ばれるなど、数多くの歌が現在も歌い継がれている。
※『スウィートホーム・シカゴ』 https://www.youtube.com/watch?v=d-C4g4yIDgc (3分)
※『ヘルハウンド・オン・マイ・トレイル(地獄の猟犬)』 https://www.youtube.com/watch?v=OHAIgpih86E (2分41秒) ※『アイ・ビリーブ・アイル・ダスト・マイ・ブルーム』 https://www.youtube.com/watch?v=i4ZW08zOkYU (3分)
※『イフ・アイ・ハド・ポゼッション・オーバー・ジャッジメント・デイ』 https://www.youtube.com/watch?v=oT0kIiakTiE(2分37秒)
※『カモン・イン・マイ・キッチン』 https://www.youtube.com/watch?v=4up4VP8zjyc (2分51秒)
人類学者サム・ダンいわく「(ジョンソンは)ヘビーメタルのすべての曽祖父」。 レッドツェッペリンのロバート・プラントいわく「私たち全員が何らかの形で影響を受けているのがロバート・ジョンソン」。 クラプトン「ジョンソンの歌声は、人間の声が出せる最も強力な叫び」。 〔墓所〕 ミシシッピ州のジョンソンの墓は候補地が3箇所ある。 (1)リトルシオン教会(グリーンウッドの北)…墓掘り人の家族の証言などから、教会墓地の大きなピーカン(ペカン)の木の下にあるとされ、ソニーミュージックが墓碑を設置。LaVereとJohnsonの名前が刻まれる。 (2)マウントシオン宣教師バプテスト教会(モーガンシティ近く)…オベリスクの形をした1トンの慰霊碑に、ジョンソンのすべての曲のタイトルが彫られる。コロムビアレコードや寄付金により設置。 (3)ペインチャペル宣教師バプテスト教会(キートウ近く)…「ブルースの中に休息する」という言葉が刻まれたの小さな墓石。ジョンソンの元ガールフレンドの1人がジョンソンの墓地であると主張している。 〔参考〕日本大百科全書(小学館)、英語版ウィキペディアほか。 |
ハーモニカが供えられていた |
右端から2番目、下から3段目がマイク | ファンからの手紙やマイクの写真が挟まっていた |
ハンク・ウィリアムス博物館 | モントゴメリー中心部の公園にある彼の銅像 |
墓地入口の巨大案内。おかげで分かりやすかった! 全ての墓地がこんな風に墓参者に親切ならいいのに! |
夫婦で並んでいる。右側がハンク | トレードマークの帽子。手前の墓石にはギターの絵 |
死後半世紀を経ても墓参者が絶えない。すごい人気ぶり! |
この墓地はカントリーのミュージシャンや 作曲家の墓がめちゃくちゃたくさんあった |
左がジョニー、右が妻ジューン。彼女が他界して わずか4ヶ月後にジョニーも世を去った |
なぜゆえにムーミンパパ!?そもそも米国内で ムーミングッズを見たのはこれが初めて。ビックリ! |
代表曲で伝記映画のタイトルにもなった 「I Walk The Line」の文字が彫られていた |
このベンチに座ってキャッシュ夫妻と語り合える |
ベンチの背後にも言葉が刻まれていた |
40代で散った | マービン・ゲイは火葬にされ、太平洋に散骨された(ロス沖にて撮影) |
説教師の父の影響で、子供の頃から教会でゴスペルを歌っていたマービン・ゲイ。ソウル・シンガーとなった当初の彼は、他のシンガーと同様に甘々のラブソングを歌っていたが、1971年(32歳)、正面から社会問題をテーマにした、ソウル史上の金字塔『ホワッツ・ゴーイング・オン』を発表する。このアルバムには黒人層の貧困、ベトナム戦争、公害などを取上げており、音楽界に一大センセーションを巻き起こした。45歳の誕生日の前日、彼は訪れた両親の家で父親と口論になり撃ち殺されるという、非業の死を遂げている。 |
●ホワッツ・ゴーイング・オン ♪母さん、なんて多くのものが涙の雨を降らせるんだ 同胞よ、仲間が次々と死んでゆく 神よ、もうたくさんなんだ 愛だけが憎しみに打ち勝つことが出来る だから戦争は解決方法にならない さあ、愛を降り注ぐ方法を考えよう 嗚呼、一体何が起こっているんだ この世は何がどうなっているんだ? |
画面中央の塀の背後がクックの眠る「Garden of Honor」 | 残念ながら一般非公開。門は固く閉ざされていた(涙) |
“ソウル・ミュージックの父”サム・クック。1950年代に活躍したゴスペル界初のティーン・アイドルで、ソウルシンガーの草分け的存在だ。クックに影響を受けてないソウルシンガーはおらず、あのオーティス・レディングも自らが敬愛しているシンガーとして、真っ先に彼の名前をあげている。活動の絶頂期にあった33歳の時に、安モーテルの支配人で黒人中年女性バーサ・フランクリンに射殺される。真相は不明だが、同宿していた女性を追いかけてて、フロントで撃ち殺されたようだ。 |
画像は海外サイトから。そこには墓石がアップされていた。どうやって入ったんだろう!?いいなぁ! |
オーティス・レディング通り | レディング家の農場「ビッグ・オー・ランチ」 | 残念!一般人はここまで。門から墓は見えず…(涙) | 「R」の紋章! |
ファンからの花や風車で名前がほとんど隠れてしまっている |
嬉々として演奏し、豪快に笑うレイ! | レイが眠る大霊廟 |
右壁、花束があるのがレイ | 名前の下に小さなト音記号が刻まれていた |
近代箏曲の父! | 京銘菓「八ツ橋」の語源にもなった |
垣根付の立派な墓域!大きな顕彰碑も建つ | 墓前には「八橋検校霊前」と刻まれた燈籠があった |
江戸時代前期の音楽家。近代箏曲(そうきょく)の父。筝曲八橋流の開祖。幼名は城秀。現・福島県いわき市出身。子どもの頃に失明し、盲人が運営する組織「当道座」に加入する。10歳頃から大阪で三味線の腕を磨き、名声を得ていった。高い向上心を持つ八橋は、若くして江戸に出て筑紫流箏曲を学び、さらには遠く長崎の諌早まで足を運び、筑紫筝の名手に師事して奥義を極め秘曲を授かった。1636年(22歳)に初上洛。当道座の官位には、上から、検校、別当、勾当、座頭があり、上洛の折りに勾当の位を得た。八橋は磐城平(いわきたいら)藩の藩主・内藤義概の支援を受けて修行を積み、3年後の再上洛の際には25歳にして盲官の最高位“検校(けんぎょう)”に任ぜられた。
※検校になるには箏曲、地歌三弦、平曲等の卓越した演奏技術と作曲能力が必要で、また鍼灸や按摩も習得しなければならなかった。
1648年(34歳)頃から独奏楽器としての筝の可能性を開拓するべく、従来の筝曲の改革に乗り出した。八橋は新たに組歌『雲井の曲』、『菜蕗(ふき)』、『梅が枝』、『心尽し』など八橋十三組(組歌十三曲)を創作。そして、陰音階の調弦法を生み出して調子を定め、歌のない純器楽曲(段物)『六段の調』、『乱(みだれ)』、『八段の調』を作曲して楽式の定型化を進め、近世筝曲の基礎を築いた。中でも『六段の調』は後世に「六段に始まり六段に終わる」と言われるほど箏曲の代名詞となる。
1663年(49歳)頃から京都で暮らし、多数の弟子を指導しなら筝曲の普及に努めた。1685年に71年の人生を閉じ、門弟たちが金戒光明寺の塔頭・常光院に葬った。法名は鏡覚院殿円応順心居士。胡弓の名手でもあった。
ちなみに肉桂(ニッキ)の香りがする京銘菓「八ツ橋」は八橋検校に由来した米生地の和菓子。八橋検校の死後、師匠を偲んで門弟達が箏の形の菓子を配ったのが八ツ橋の始まりといわれ、業界では毎年墓前で追善法要をしている。
●YouTube『六段の調べ』(6分36秒) |
ファンクを生んだ「ゴッドファーザー・オブ・ ソウル」JBの生れ故郷、ビーチアイランド |
この小さな町で葬儀が行なわれた。右上写真の教会で墓の場所を尋ねたら、神父さんいわく「葬儀は したけど墓はこの町にないんだ。隣町のオーガスタに妹さんが住んでいるからそっちだろう」とのこと |
オーガスタに到着。隣町といっても州境を越えたジョージア州。中心にはジェイムズ・ブラウン広場があり、ノリノリのJB銅像が 立っていた。ところが市民に聞いても「墓があるとは聞いたことがない。ビーチアイランドじゃないの?」との返事。どっちなんだ!? |
ジェームス・ブラウン、死因は心臓発作ではなく殺された!? by AOL Music Staff (SH) (2011年9月19日 4時00分) ジェームス・ブラウンの広報担当の女性、ジャック・ホランダーが、実はJBは心臓発作ではなく殺されたのだとして、調査のため私立探偵を雇っているという。 さらに探偵を雇ったことを公にした後に脅迫を受けたことから、身の危険を感じて隠れているらしい。2006年のクリスマスに亡くなったソウルの巨人、JBの公式な死因は心臓発作とされているが、ホランダーはこれを否定。また、2008年に殺されたJBの義理の息子ダレン・ルマールも"知りすぎた"から消されたのだという説もある。彼の死は地元ジョージアのテレビ番組に出演した際「私は義理の父が心臓発作で死んだなどという馬鹿げた話は全く信じていない。」と発言した直後の出来事であったことによる推測だ。 ホランダーの意見によれば「彼は真実を公表しようとしたから殺された。私も真実を知っている人間だから、恐怖にさらされて暮らしている」のだそう。彼女が雇った私立探偵も、いくつも怪しい点があるとしてこの意見に同意しているようで、彼女は「真実は1つ」と確信を持っている様子だ。 さらに、ミスター・ダイナマイトこと、JB近辺で起こった疑わしき点はまだある。昨年JBの娘が「死体解剖を免れるため父の遺体が何者かによって盗まれた」ことを公表し、「父の死はどう考えてもおかしい点がたくさんある。罪を犯した者たちが裁かれるのを心から願っている」と発言しているのだ。真相はいかに...!? 関係ないが、以前JBの背の高さについて口論になった2人の男性が、一方を誤って射殺してしまうという事件もあった。そして実際のところ、JBの身長は165センチだったそうな。(リンク元) 【James Brown's body is 'missing from its crypt', alleges singer's daughter】 JBは娘の家の地下に埋葬されているはずが、娘はその遺体がなくなっていると騒いでいる(英文リンク)。
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