【はじめに】 僕は19歳からこれまでの四半世紀、基本的に単独で歴史上の偉人に墓巡礼してきた。あまりに地味なライフワークだし、“誰も興味がないだろう”と、誘っても最初から断られるだろうと思っていたから…。メディアにはよく「ブログ旅」「ツイッター旅」などが出てくるけど、それらは生涯縁が無いと考えていたし、これまでの孤独な旅を振り返ると“誰かが助けてくれる”という「ツイッター旅」の設定自体に非現実感があった。 2012年5月、仕事で上京することになり、これを機にかねてから墓参を希望していた北関東から愛知に至る巡礼計画を立てた。仕事の段取りを組み、動けるのは最大5日間。ところが、JR路線が1時間に1本だったり、早朝でレンタカー屋が閉まってたりと、容易にコトが運ばないと判明。 そこで、勇気を出してサイト日記に「車を出してもいいよという方がおられましたら、連絡を下さると助かります」と書いたところ、千葉、茨城、栃木、東京、神奈川、静岡、愛知のすべての土地で読者の方に助けて頂けた!大感激。本当に、本当に、有難うございました! この北関東から名古屋に至る5日間の巡礼で、6台の車の助手席に座り、8人の読者の方と出会った。 乗せて下さった読者の方は28歳〜53歳で、わざわざ有休をとって下さったり、仕事のシフトをずらして、午前だけ、午後だけ、といった具合に時間を作って下さった。純度120%の善意に涙がチョチョ切れまくりデス…。 皆さんは地元の方なので、無料の駐車場の場所や、カーナビが気づかない裏道をご存知で、移動のロスタイムが皆無!おかげで無謀・キツキツの巡礼計画が、ほぼ100%予定通りに完結ッ!
ハイエース、CR-Z、いろんな車に乗せて頂いた。右上の人物写真は、今回の巡礼を象徴する1枚!読者の方同士が長篠で合流し、「カジポンさんの荷物です」と僕のリュックを受け渡しているところ。午前と午後でこのような“引き継ぎ”があり、ホント、多くの人に支えられての旅としみじみ。生涯忘れられない、我が黄金の5日間! ★2012年5月26日(1日目) 大阪から夜行バスに乗り、6時50分に渋谷に到着。そこから千葉・西船橋に電車で移動し、8時に千葉在住のご夫婦(S夫妻)のライトバンに拾って頂く。昼食タイムなしで巡礼しまくる計画なので、奥さんは車内で食べられるよう、サンドイッチやおにぎり弁当を用意して下さっていた。ご夫婦の優しさにホロリ。9時、佐倉市に到着。1カ所目は徳川幕府の大老、堀田正俊の墓所。5代将軍綱吉の右腕として活躍したが、江戸城内で斬殺された。「生類憐れみの令」に反対した為に綱吉にうとまれ、葬られたという説もあるけど、犯人がその場で斬り殺された(口封じ?)ことから真実は闇の中。次に成田市に移動して10時前に佐倉惣五郎の墓前へ。惣五郎は重税に苦しむ領民を代表して、4代将軍家綱に上野寛永寺で直訴した。無事に訴状を将軍に受け取ってもらえたが、直訴は重罪であり、惣五郎だけでなく4人の子どもまで磔となり処刑された。その後、圧政は改善され、地元の人々は惣五郎を神格化し、4人の子と共に霊廟で祀るようになった。2010年に中村勘三郎がコクーン歌舞伎『佐倉義民傳』にて惣五郎(宗吾)の生涯を舞台化し、大きな話題に。
その後、千葉県内を東へ移動し、佐原の伊能忠敬旧跡めぐり。残念ながら忠敬旧宅は震災で損壊し立ち入り禁止に。今回の旅では何度か震災の爪痕に胸を痛めたけど、その最初が忠敬旧宅だった。諏訪神社の銅像は地図測量中の忠敬像(境内になくS夫妻が先に発見)。地図資料が充実した伊能忠敬記念館は無事。忠敬の地図の正確さ、日記の細かさに驚愕した。佐原は商売っ気がなく、忠敬関連グッズが殆どなかった。忠敬饅頭、忠敬クッキーすらない。忠敬人形とか、伊能地図の縮小ポスターがあれば絶対に買っていたのに〜!
忠敬記念館はパパッと10分で見る予定が、いろいろ興味深いものが多くて30分滞在。佐原を出たのは12時すぎ。県境を越えて茨城県の鹿島へ向かいながら、お弁当をいただく。まったくもって、ありがたい。13時鹿島神宮着。この街に新しく完成したという剣豪・塚原卜伝の銅像を探すのに手間取り、一同焦る。せっかくだし、鹿島神宮にも参詣。境内の宝物殿には、奈良時代に作られた日本最古最大、約3メートルもの剣“直刀”が展示されており、僕とS氏の野郎2人は「ベルセルクのガッツの剣だ!」と興奮。本物の前にレプリカがあったんだけど、重くて一人では持てなかった!14時15分、鹿島神宮の北西4キロの山裾にある塚原卜伝の墓所へ到着。寺の本堂は昔に焼け、墓だけが残っている状態だけど、グーグルマップには「塚原卜伝の墓」とバッチリ表示された。周囲にはのどかな田畑が広がり、山中にはウグイスがさえずり、この日最も癒やされたお墓。
茨城県鹿島から日本第2の大湖・霞ヶ浦の東岸を北上して鉾田市へ。車のすれ違い不可能な細く長い山裾の道を「ホントにこの先に寺なんてあるのか?」と不安いっぱいで走り、S夫人が大儀寺の小さな看板(道案内)を発見し胸を撫で下ろす。最後は車を置いて徒歩で山を登る。本日最大の難所。“こんな場所に!”と驚くような所に忽然と寺が現れ、住職に幕臣・水野忠徳(ただのり)の墓所を教えてもらう。水野忠徳は幕末の幕府にあって先見性を持っていた人物で、咸臨丸を米国に派遣したり、開国派の外国奉行として腕を振るった。あの時代に開国派であることは、それだけで命がけ。いつ攘夷派に暗殺されるか分からない。墓前で手を合わせていると住職が忠徳公に関する話を聞かせてくれた。
その後、千葉方面に向かいつつ、茨城中央の石岡市へ。片野城址に隣接する泰寧寺に着いたのは16時半。次第に陽が傾いてきた。この寺には江戸中期の儒学者山県大弐が眠る。大弐は江戸で尊皇を説いたことが幕府に警戒され斬首となった(明和事件。安政の大獄の100年前)。墓参後、同寺の住職に戦国武将・太田資正(太田道灌のひ孫)の場所を尋ねて片野城址に分け入り、お堂「佐久山」境内墓所へ。資正は智将とうたわれ、敵より少ない兵力でも勝ち続けた。忍犬50匹を戦で活用したという。
この日、最後に向かったのは桜川市真壁町。豊臣五奉行の1人浅野長政が眠る伝正寺に着いたのは18時。夏至が近いため18時でもまだ太陽は出ている。それもあって、梅雨入り前の5月末が巡礼に最も適しているんだ。朝も4時から明るくなり始めてるし。 伝正寺の墓地へ向かおうとして絶句。本堂も境内各所も、震災で大被害を受けていた。お寺の方の話では97%の墓が倒れてしまったという。東北地方の被害ばかり報道されているけど、茨城県も相当ダメージを受けていたことがよく分かった。関西に住んでると、こういう情報はあまり流れないんだよね…。まだ復旧中で墓地内は立ち入り禁止だったので、遠方から浅野長政公の廟所を遙拝。続いて同町の真壁一族の墓所へ。「鬼真壁」と畏怖された真壁氏幹(うじもと)の墓を探したけれど、一族の中に混じっており特定不能とのこと。墓域全体に向けて合掌した。18時半、日没と同時に墓巡礼も終了。20時半、千葉県西部のS夫妻のお宅に帰還し、泊めていただく。食事、車、宿、何もかも提供して下さった菩薩の如きご夫妻に永遠の幸あれッ!
★2012年5月27日(2日目) 午前4時すぎに起床しS氏に市川大野駅まで送っていただく。始発で東武鉄道の川間駅へ向かい、6時20分にK氏(つくば市在住)と合流。駅を出る前にケータイで車の特徴を尋ねると、「ロータリーに僕の車しかないので分かると思います」。はたしてロータリーに出ると、黄色いスポーツ・カーが停まっていた。ホンダが誇る「CR-Z」だ。それも黄色の限定車!“あの車のハズはないけど、1台しかないし…”と半信半疑で近づくと、「カジポンさん、お早うございます」。ヒョエ〜!44年生きてて、初めて乗車するスポーツ・カー。助手席に座ると、リクライニングかと思うくらい傾斜があり、テンションがマックスに。走行中の車内はエンジン音が殆ど聞こえず、信号で停車すると自動でアイドリング停止。エコな運転をするとモニターがグリーンのランプになったり、ブースターボタン(?)を押すとマッドマックスのマシンのように加速装置が作動。いやはや燃えました。 そして6時50分、千葉県北部、栃木との県境に近い野田市・実相寺に到着。いわゆるテーマパークや遊園地と違って、お寺は7時前から既に山門が開いているのが墓マイラーには有難い。巡礼2日目、最初のお墓は鈴木貫太郎海軍大将。海軍穏健派で軍縮を支持した為に、急進派青年将校から売国奴扱いされ、「二・二六事件」でターゲットとなり複数の銃弾を撃ち込まれた。トドメをさされる直前に妻が盾になったことから、反乱軍は発砲を止めて立ち去り一命を取り留めた。9年後、終戦直前に歴代最高齢77才で首相に就任。原爆投下後の御前会議では、「徹底抗戦」「1億総玉砕」を叫ぶ陸軍をおさえてポツダム宣言を受諾し、戦争を終わらせた。
墓所の近くには鈴木貫太郎記念館(入場無料!)があったけれど、さすがに7時ではまだ開いておらず。敷地内の「終焉之地碑」は吉田茂が筆をとっていた。その後、結城市に移動し幕府老中・水野忠邦&歴代水野家の墓域へ。7時45分現地到着。カーナビには墓地が表示されていたけど、農村地帯で細い農道があるなど、混乱してグルグル周辺を探し回った。やがて「こんなところに!」と驚くような水田のド真ン中に、浮島状態の水野家墓所が見えた。車を降りて墓域に近づくと、絶句するような光景が視界に広がってきた。震災で凄まじい被害を受けていたのだ。
水野忠邦は天保の改革の指導者。12代将軍家慶の下で幕政改革を断行。幕臣にワイロや不正が横行していた為、幕府高官を含む962人を処罰し、代わりに遠山景元(遠山の金さん!)を町奉行に任命するなど人事刷新を図った。高騰する物価を下げる為に独占業者(株仲間)を解散させ自由競争を導入したり、贅沢を禁じて倹約を徹底。ところが、やることなすこと全て裏目に…。緊縮策で経済は冷え込み、歌舞伎を弾圧(7代団十郎を江戸追放)して庶民の怒りを買い、失脚後には民衆に私邸を襲撃されている(歌麿など浮世絵師まで処罰、そりゃ人々は怒るわ)。それもあって、これまで僕は墓参しなかった。でも、政治改革の情熱が空回りしただけで、自身が悪徳を行って私財を蓄えた訳でもないし、あえて憎まれ役をかって財政再建に燃えたのは、責任感の強さの証でもある。そう感じて今回巡礼した。墓前で僕は目を疑った。墓が震災で斜めになり名前が正面を向いていない…!これにはK氏も仰天。
画像では分かり難いけど、忠邦公の墓は人間の身長よりデカい巨大墓。それがズレている。息を呑んだ。でも、忠邦公は他の歴代墓に比べると一番マシな方だった。水野家初代忠元は上部が落下して2つに折れ、5代忠之(老中)に至っては、根元まで“完全倒壊”し、影も形もなくなっていた。昨日の浅野長政公に続き、茨城県も大きな被害を受けていることを痛感した。※水野家墓所360度動画(25秒)
この水野家歴代墓所には11基の墓が並ぶが、すべてが何らかの被害を受けている。忠之公のように完全倒壊した墓は6基…。茨城県は当墓所を史跡指定している。せめて忠邦公の墓だけでも正面に向けてあげて欲しい。そして、できればうつ伏せの墓を仰向けに。震災から1年を経過しても、まったく手付かずで放置されているのはあまりに痛々しい…。 ※9代忠鼎(ただかね)だけは灯籠の倒壊だけで済んだ。これは台座が亀趺(きふ)という亀の形であり、接合部がカーブしているので横揺れに耐えたと思われる。亀趺墓にこんな耐震性のメリットがあったとは! 続いてK氏と最後の目的地、つくばみらい市の専称寺に建つ探検家・間宮林蔵の墓へ。途中、豊田城や下妻の暴走族軍団(バイク100台、リアル下妻物語)の横を通過し、9時40分に到着。現地は間宮林蔵の故郷で、樺太探検に出発する前に、“生きて戻れぬかも”と自ら墓を建立した。お寺の近所に生家と記念館、銅像もある。地元の英雄だ。
K氏には10時半につくばエクスプレス・守谷駅に送っていただいた。早朝から4時間で離れた3カ所を巡れたのは“黄色い稲妻”CR-Z&K氏のドライビング・テクニックのおかげ。一生乗る機会がなかったかも知れないスポーツ・カーに乗車できたのも貴重な体験となった。K氏は20代後半。僕のサイトをジョジョ立ちで知ったといい、ジョジョがなければK氏と出会うこともなかったと思うと、運命の不思議を感じる。この奇跡に感謝! つくばエクスプレスで南下して都内の東京メトロ・江戸川橋に着いたのが11時20分。この付近で2カ所巡礼。13時から六本木の青山霊園で全国歴史研究会墓碑研究部会が主催する巡墓会があるので、地図を見ながらダッシュで日輪寺へ。寺墓地の一番奥に日本を代表する世界的作曲家・武満徹さんが眠っていた。オーケストラと和楽器(琵琶、尺八)という洋邦を融合させた意欲作『ノヴェンバー・ステップス』や、我が愛する黒澤映画『乱』『どでんすかでん』のサントラなど膨大な映画音楽を担当された。『ノヴェンバー・ステップス』は僕の生まれた1967年に発表され、しかも11月(ノヴェンバー)生まれであることから、一方的に絆を感じており、墓参できて本当に嬉しい。墓石には氏の作品名である『遠い呼び声の彼方へ』の文字が刻まれていた。 続けて護国寺に向かい、隣接する豊島岡(としまがおか)墓地へ。こちらには戦後最初の内閣で第43代首相に就いた久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)が眠っている。日本史上唯一の皇族首相で、敗戦後、8月末までに国内を「降伏」で統一し、国民がGHQに危害を加えないよう武装解除を速やかに実現した。戦前にフランス陸軍大を卒業しており、内外の国力差を熟知し、当初から日米開戦に反対していた。皇族でありながら自由主義者で六十年安保闘争では岸信介首相に退陣勧告している。フランス留学時代にはあのモネに絵を習ったといい、是非墓参したかった。 だがしかし!豊島岡墓地は皇族専用の墓地で、一般市民は入ることができない。非公開というのは分かっていたので守衛さんにお墓の形と方向だけ聞いて、外から遙拝するつもりだった。だが、守衛さんすらいないではないか!ガーン。完全に門は閉ざされており、取り付く島もなし。護国寺の交番で“事情”を話すと、守衛さんは墓地の中に常駐していて、皇族が墓参する際に宮内庁から守衛室に連絡が入り、内側から門を開けるとのこと。お巡りさんいわく「なんとか宮内庁を説得して開けてもらうか、皇族の一員になるしかない」。うおお、前者はともかく、後者のハードルが高すぎる!もしもこの文章を皇族の方が読まれていたら、是非墓参に同行させて下さい(涙)。
13時の集合時間直前に青山霊園へ到着。事務所でリュックを預かってもらい、身軽になって霊園中央の交差点へ。広大な墓地で、走っても走っても交差点に着かない。ゼーハー言いながら13時すぎに合流できた。歴研墓碑研究部会の巡墓会に参加するのは、染井霊園、谷中霊園×2に続いて4回目。毎回、近代史の隠れた偉人に会えるので、大阪から夜行バスで馳せ参じている。今回はフジテレビ『ノンストップ!』の取材班が同行していて、僕は参加者の1人としてインタビューをされたんだけど、途中から「ピンマイクを付けて下さい」という話になった。そして、巡墓会の最後に、急遽、大久保利通や斎藤茂吉の墓を案内することに。フジの佐野さんというラグビー選手のようなアナウンサーといろいろ話した。向こうが年上と思っていたら、僕より4歳も年下でびっくり。佐野アナは全然ギラギラしたところがなく、何も意見を押し付けず、相手の言葉をよく聞こうとするオーラが出ていたので好感を持った(マスコミにはそうじゃない人が多いので)。
今回も巡墓会は素晴らしい内容だった。主催者スタッフの皆さん、本当にお疲れさま&充実した時間を有難うございました。18時から青山の居酒屋で懇親会があり、墓トークに花が咲いた。翌朝は始発の1時間前に行動開始予定なので、21時に懇親会を抜けて渋谷に移動。そのままネットカフェに号沈!と言いたいところだけど、凄まじいイビキの爆音が隣室から聞こえ、歯ぎしり音が空気を裂き、1時に目が覚めその後一睡もできず。ギャース!! ※たまらず録音(33秒)これを深夜1時から明け方までッスよ。生理現象だから仕方がないんだけどね(涙)。 ★2012年5月28日(3日目) 午前3時50分、豪快なイビキが轟く渋谷のネットカフェをチェックアウト。山手線始発まで1時間あり、店員さんから「まだ2時間ほど(この料金で)滞在できますよ」と言われたけど、夏至が近いこの時期、朝4時から既に墓巡礼可能な明るさになっているので1秒も無駄に出来ない。最初に向かったのは渋谷区役所に隣接した「二・二六事件慰霊像」。渋谷区役所一帯は戦前に陸軍刑務所があり、慰霊像の立つ場所は処刑場の一角だった。この慰霊像は、二・二六事件で殺害された高橋是清蔵相(軍事費抑制を主張)などの閣僚、首相官邸他で殉職した5人の警官だけでなく、事件を起こして自決・刑死した青年将校約20人の魂も慰霊の対象としており、あの悲劇に関連したすべての死者を弔うものだ。渋谷センター街の近くにこういう場所があることはあまり知られていない。その後、渋谷駅から4時49分の始発に乗って品川経由で神奈川横浜市へ。
横浜市の鶴見駅に着いたのは5時20分。この日は神奈川在住の旧友K氏(昨日のK氏とは別)が、仕事を調整して1日つき合ってくれることになっており、総持寺の山門に6時集合予定だった。前日までレンタカーを使うか公共交通で巡るか迷った。三浦半島以外はどの墓所も駅から2キロ以内なので、電車で巡礼可能。でも、待ち時間などロスタイムを考えると、レンタカーも捨てがたかった(最近は1日3千円の格安車もある)。取りあえず駅近くのレンタカー屋で相場を聞くと、1日8500円!高ッ!断念して総持寺へ。 総持寺は福井の永平寺と並ぶ高名な修行寺で学僧がいっぱい。僕は声を大にして言いたい。総持寺は素晴らしいお寺だと!理由は3つ。 (1)墓地が24時間フリーエントリー制。都会の多くの霊園、寺墓地は開門時間が決まってるけど、総持寺はフリーダム!だから5時台であろうと日没後であろうと墓参可能。一般人に墓参りを許さない京都・大徳寺の塔頭(小寺院)は見習って欲しい!※特に日本中の墓マイラー&戦国ファンの恨み・怒りを集めている三玄院!せめて石田三成、古田織部の命日だけでも開けて! (2)お寺の人が優しい!総持寺には3度訪れているけど、総受付のお坊さんはいつも丁寧にお墓の場所を調べてくれるし、僕が大きなリュックを背負っていると「預かりましょうか?」と声をかけてくれた! (3)石原裕次郎の墓は奥の方にあるけど、曲がり角ごとに標識があって迷わない。サポート完璧! 6時前に着いたので、ケータイもあることだし先に墓巡礼を開始。最初に後醍醐天皇(南朝)の霊廟へ。足利軍に都を追われ吉野に散った後醍醐天皇だけど、総持寺と縁が深く吉野以外に当地にも霊廟がある。 続いてアントニオ猪木さんの生前墓へ。後醍醐帝霊廟のすぐ近くにあり、猪木家の正面には「利休以来の大茶人」と称された三井財閥の益田孝、隣りには海軍中将の大西瀧治郎が眠る。神風特攻隊の作戦を指揮し、「俺も後から行く」の約束を守って敗戦翌日に割腹自決した(介錯なし)。墓碑には「英霊善く戦ひたり感謝す。(略)吾、死を以て旧部下とその遺族に謝せんとす」など遺書全文が彫られていた。神風の現実を知ると特攻作戦を到底美化できないけど、のうのうと生き残った軍高官がいるなか、少なくとも大西中将は責任をとった。 ここでK氏と合流。総持寺の墓は著名人が多く、2人で巡礼を続ける。次に国際法学者・元国際連盟日本代表で戦前に国際司法裁判所の所長となった安達峰一郎の墓へ。安達はまだアジア人に対する人種差別があった時代に、判事選挙で最高得票(国際連盟加盟国52カ国中49カ国)で当選したことからも、その人望の高さがよく分かる。安達は国家間の紛争を、戦争ではなく国際法によって解決する組織作りに生涯を捧げた。だが、日本は満州事変を起こし、国際連盟脱退を表明。安達は苦悩し、心臓内膜炎で翌年に他界した。「世界の良心」と謳われた安達をオランダは“国葬”で弔った。新渡戸稲造いわく「安達の舌は国宝だ」。
続けて芦田均元首相、清浦奎吾元首相に手を合わせ、日本の近代女優第一号の川上貞奴(さだやっこ)の墓前へ。“日本一の芸妓”と呼ばれ、明治時代に海外巡業で大成功を収め、ピカソ、ドビュッシー、アンドレ・ジードらを虜にした。フランス大統領も貞奴を官邸園遊会にも招くほどファンに。総持寺巡礼のラストは“裕ちゃん”と呼ばれ親しまれた石原裕次郎。昭和30年代に花形スターとなり、入院時の見舞い客は1万2000人、手紙5000通、花束2000束、千羽鶴1000束!「裕ちゃんの墓」と書かれた矢印付きの看板が墓地のあちこちに建っているので、地図は必要ないほど。墓前には喫煙所があり、“石原軍団”の渡哲也や舘ひろしが、ここで煙草を片手にボスと語り合うのだろう。常にたくさんの花が供えられている。1時間で総持寺巡礼を終え7時に山門を出た。徒歩30分で次の東漸寺(とうぜんじ)に到着。
僕が墓巡礼を続けているのは恩人に感謝を伝える為であり、レポをサイトに発表するのは、教科書に載らず知名度が低い人物にも、素晴らしい人がたくさんいたことを伝えたいから。今から紹介する東漸寺に墓がある大川常吉のように! 関東大震災後の直後、官憲や陸軍の一部は朝鮮人の独立運動家(当時は日本領土)や社会主義者を摘発、殺害する好機として混乱を利用し、アナキストの大杉栄、伊藤野枝は憲兵に、社会主義者、労働運動指導者ら13人は陸軍に虐殺された。内務大臣、警視総監、警視庁官房主事(後の読売社長・正力松太郎)らは、軍と警察を通して「暴徒化した朝鮮人が井戸に毒を入れ、放火して回っている」「爆弾を持っている」というデマを日本中に流し、市民自警団が血眼になって朝鮮人を探した。朝鮮人は日本語の「ジュ」の発音が苦手で「チュ」と言ってしまうことから、自警団は朝鮮人らしい人間を見つけては「15円55銭」と発音させ、うまく言えなかった者をその場で処刑、又はリンチにした。死者数は内務省が231人としているが、当時の吉野作造法学博士は2613人余、半島系新聞が6661人としている。また、方言を話す地方出身の日本人や聾唖者(聴覚障害者)も、朝鮮人と誤解されて59名が殺害されており、女子・子供を含む在日中国人200余名も殺害されている。千葉では香川県の薬売り行商人15名のうち妊婦・子供を含む9名が、讃岐弁を聞き慣れない自警団によって朝鮮人と判断され虐殺された。もうムチャクチャな心理状態だ。実際に逮捕された朝鮮人の犯罪者もいたけど、誰も「井戸に毒」なんか入れてない。 このように異常な空気の中で、朝鮮人を虐殺から懸命に救おうとした日本人がいた。それが鶴見警察署長・大川常吉。 大川署長は近隣の朝鮮人300人を暴徒から守るため署内にかくまった。興奮した千人の群衆が「朝鮮人を殺せ!」と警察署に殺到すると、大川署長は大声で一喝。「朝鮮人が毒を入れたという井戸の水を持ってこい。私が目の前で飲む。異状があれば朝鮮人は諸君に引き渡す。異状が無ければ私に預けよ!(略)朝鮮人を殺す前に、まずこの大川を殺せ!」。一升ビンの井戸水を飲み干した大川署長の対応に、群衆は理性を取り戻して引きあげた。 現在、東漸寺の本堂前には在日の人が感謝を込めた石碑『故大川常吉之碑』が建つ。大川署長の墓所はネットでは不明だったので、東漸寺の住職なら何かご存知かもと質問してみた。住職「大川さんのお墓ならココですよ」。うおお!マジですか!予定になかった大川署長の墓参が出来て感無量。墓前で署長の勇気ある行為に感動したことを伝えた。
東漸寺で墓参を終えた時点で8時。近くに半日2500円という激安レンタカーがあったので店舗へ行くと「事前に予約しないと車がない」。うーん、残念。僕がションボリしているのを見たK氏が、「今日1日の2人分の交通費やタクシー利用の可能性を考えると、8千円のレンタカーでも割り勘したら変わらないんじゃない?」と優しい提案。これで踏ん切りがつき、関内(かんない)駅の近くでレンタカーのマーチをゲットし(日産の会員なので7千円でいけた!)、9時には横浜市中区の中華義荘、通称南京墓地に到着した。 中華義荘は国内最大の華僑(在日中国人)の墓地。明治期に横浜外国人墓地から改葬され、近代の横浜市内の建物では最古となる(参考リンク)。中国式の赤い門をくぐって中に入るとそこはもう完全に中国。観光用の中華街ではなく、リアル中国文化。墓前に青色のシーサー(唐獅子)がいたり、休憩所には中国語が溢れる。墓地の一番奥に関東大震災の供養塔が一面に並んでおり、異国の地で天災によって命を失った人々に手を合わせた。
30分滞在し、西区の久保山墓地へ10時に到着。ここには吉田茂元首相が眠っている。昨年都内の青山霊園から改葬された。広大な久保山墓地は1万4千基の墓を擁しており、僕がどんなに巡礼ターミネーターでも自力で探し出すことは200%不可能。リンク先の光景にビックリすると思う。管理事務所に場所を聞きに行って卒倒しかけた。なんと事務所の扉に「月曜休業」の貼り紙!K氏と「いったいどうすれば…」としばし呆然。だがすぐに気を取り戻す。この展開は過去に、国内でも海外でも経験している。こういう時は墓地周囲の石材屋さんや花屋さんにGOだ! 今回大ピンチを救って下さったのは「花塚石材店」の皆さん。墓地全体の区画地図を持っておられ、コピーした上で蛍光ペンで効率の良い巡礼ルートをマーキングして下さった!(お忙しいのに本当に有難うございました!)。吉田茂の墓は迷路のような場所にあり、口で説明できるものじゃなかった。地図がなければまず到達出来なかった。K氏と墓前にたどり着いたとき、「奇跡だ!」と2人で思わず固い握手。吉田茂は外交官時代に国際事情に精通していたことから、ナチスとの日独防共協定に反対し、日米開戦にも抗議。その為に逮捕され、戦時中は陸軍刑務所の中だった。あの時代に軍の方針に反対するのは文字通り命がけのこと。投獄を恐れず開戦反対を訴えたことに敬意を表し合掌!
11時に横浜・久保山墓地で吉田茂の墓巡礼を終え、30分後に金沢区富岡の長昌寺に到着。同寺の本堂脇には、『直木賞』の由来となった作家・直木三十五と、同賞受賞作家の胡桃沢耕史の墓が並んでいる。喉から手が出るほど直木賞に憧れていた胡桃沢は、生前に直木三十五の墓の隣りの敷地をゲット。もし受賞できずに死んだら「恨みをこめてここに眠る」と自身の墓石に刻むつもりだったらしい。すごい執念。墓所獲得の翌年に胡桃沢は直木賞に輝いたことから、墓には恨み節の代わりに『翔』の一文字が誇らしげに彫られていた! 次に向かったのは、今回の巡礼で最も古い時代の人物、源氏一門の源範頼(のりより)。範頼の父は大河『平清盛』で活躍した源義朝@玉木宏。義朝は様々な女性と子をもうけており、頼朝が三男、範頼が六男、義経が九男という間柄になる(全員異母兄弟)。範頼が眠る金沢区・太寧寺は、車が入っていけない細いクネクネした路地裏の奥にあり、僕とK氏は車を置いて町内を探し回った。地元の学生に道を尋ね、トンネルをくぐって坂道を駆けあがり、やっとこさ寺を発見。境内の一番奥に範頼一族の墓が並んでいた。範頼は最期が可哀相なので、どうしても墓参りに来たかった。義経は悲劇のヒーローとして有名だけど、平家追討軍の大将は範頼であり、木曾義仲にだって勝利している。平家滅亡後は、義経が死に追いやられたのと同様に、範頼もまた謀反の嫌疑をかけられて伊豆へ流され、その果てに謀殺された。頼朝、非情なり。
範頼の墓参を終え、車までK氏と再びダッシュしようとしたところ、太寧寺の境内に“赤ひげ”と彫られた墓を発見。「うおお!K氏ッ!」。思わず声が上擦った。黒澤映画のファンとして“赤ひげ”の文字をスルーできるハズがない。墓前には2001年に建てられた説明板があった。“赤ひげ”先生こと、江戸中期の医者小川笙船(しょうせん)は、8代将軍吉宗が設置した目安箱に、「貧病人のための無料診療所を幕府が作るべき」と提言。これが採用されて小石川養生所が開設され、小川笙船は初代院長に抜擢された。大岡越前守忠相(!)は笙船の人柄に感銘を受け、幕府の正式な医師(幕医)に推挙したけれど、笙船は高齢を理由に辞退。隠居して江戸から当地に移り住んだ後、89歳まで長寿して江戸にて病没。笙船は海に面した風光明媚な金沢区をこよなく愛し、その遺言によって太寧寺に遺歯が納められた。 僕は豊島区・雑司ヶ谷にある小川翁の墓には何度か墓参しているけど、遺歯の墓がここにあるとは知らなかった!こういう、“予期せぬ出会い”は墓マイラーにとってテンションがMAXになる瞬間であり、墓巡礼を続ける強烈なパワー源になる。12時15分、三浦半島へ向けて出発。まだ12時すぎ!なんという濃い1日。
横浜市金沢区を出発し、そこから一路南下。レンタカーの運転をK氏に交代してもらい(大助かり!)、三浦半島の南端を目指す。 墓マイラーは基本的に昼食の時間をとらない。17時になると多くの墓地が閉まるので、朝起きた瞬間から時間との戦いだ。冬など16時半に日没となるため、一日中、太陽をチラ見している。また、あくまでも「巡礼」であって「観光」ではないので、どんなに時間がなくても、墓前で故人に感謝の言葉を伝える「ソウルトーク」の時間を確保せねばならない。っていうか、食事をする時間があれば、その分ソウルトークを延長したい。これらの理由から、昼食はおにぎりやパンを(行儀が悪いけど)“歩き食べ”するか、電車・バスの待ち時間に3分で食べて終了となる(北海道は3度目に初めて店に入った。函館の海鮮丼の旨かったこと!それまでは、せっかく北海道に行ったのにコンビニおにぎり)。 誰かと墓巡礼する時は、「スミマセン、昼ご飯の時間がないんですけどいいですか」と言い出すタイミングが難しく、いつもドギマギする。ハイウェーの横須賀サービスエリアでトイレ休憩した時に、食堂に入ろうとしたK氏に「嗚呼スミマセン!座って食べる時間は…!」。結局、サンドウィッチやホットドッグを売店で買って、レンタカーでパパッと食べて終わり。海軍カレー、めっさ美味しそうだったなぁ…K氏お許しを。そんなこんなで海岸沿いを車は快調にひた走り、1時間強で三浦霊園に到着した(13時半着)。敷地から海が見え、緑も豊かで、まるで南国のリゾートのような明るい雰囲気。ここに眠っているのが、あの「X JAPAN」のリードギター、hide(1964-1998/享年33)だ。 三浦霊園は山の斜面を切り開いた広い墓地。管理事務所で墓の場所を尋ねると、hide専用の地図をもらえた。つまり、霊園が地図を作っているほど、たくさんのファンが訪れているということ。実際、墓前に着くと既に人がいて、僕らの後からも墓参者が。平日でこれなら、土日はもっと大勢いるだろう。 墓域は隙間がないほどファンからの贈り物で埋め尽くされていた!すごい。この墓地が都内や横浜にあるなら、アクセスも簡単だし墓参者が多いのも分かる。でも、近くに鉄道駅はなく、鎌倉近辺からハイウェーを使っても1時間かかる場所。しかも他界から14年も経っている。それなのに、こんなに人が訪れ、新しい花であふれているなんて!hideが急逝したとき、通夜、告別式には約5万人が集まった。戦後の有名人の告別式では美空ひばりや尾崎豊を超えて最多であり、それを裏付けるかのような墓所だった。墓石には遺作となった『HURRY GO ROUND』の歌詞(「身は朽ち果てて思い出の欠片、土に帰り、また花となるでしょう」など)や、愛用のギターのレリーフが刻まれていた。 ※「X JAPAN」では名前が大文字の「HIDE」だけど、墓石はソロ活動で使用していた小文字の「hide」。
14時に三浦霊園を出発し、今度は鎌倉に向かって北上! 鎌倉霊園に到着したのは15時。この超巨大霊園は鎌倉駅から6キロほど離れており、いつもは鎌倉駅前のレンタサイクルを借りるかバスでやって来る。山中にあり、自転車だと長い登り坂を立ちこぎでゼーハー言いながら、そしてすぐ隣りを空荷のダンプが暴走するためビビリながら向かうことになる。バスの場合は鶴岡八幡宮までのウルトラ大渋滞でフォーエバー・ウェイティングになるので、どちらにしても墓マイラーには試練。 今回、初めて東海岸(金沢区)から車で向かい、シュッと到着して感無量に。こんなにラクしていいのかと戸惑うほど。そして川端康成や柔道の神様・三船久蔵が眠る頂上まで、これも車を使ってピューッと到着し、文明の利器に感謝。頂上からの眺めは絶景。視界の彼方まで4万基以上の墓石が連なっている。川端康成の墓参は今回が4度目。ノーベル賞作家という雲の上の人でも、4回目の巡礼になると、気持ち的には“旧知の間柄”。墓石が遠くに見えた時点で「やあやあ川端さん、お久しぶりです」と、自然に親しみをこめた挨拶が出た。ちなみに氏の左隣は詩人の堀口大学。
続いて斜面中腹に眠る山本周五郎の墓参をした後、僕にとって本日最大の重要人物、杉原千畝(ちうね)の墓所へ。1991年に『知ってるつもり?!』で氏のことを知って以来、20年もお墓を探していた。先月サイト読者の方から情報を頂き、ついに墓前で手を合わせることが出来た!(墓は第29区5側47) 杉原千畝は大戦時の外交官で、駐リトアニア領事代理。ナチスの迫害に苦しみ欧州各地からユダヤ人難民が亡命の為に日本領事館へ殺到した際、杉原は独断で日本の通過ビザを発給し、日本経由で米国へ逃がした。ドイツと同盟を結んでいた日本の外務省は、ヒトラーとの関係悪化を恐れて「ビザ発給禁止」を命じた。だが杉原はビザを出し続けた。領事館が閉鎖され、杉原はベルリン行きの電車が発車する直前までプラットホームでビザを発給し、約6千人ものユダヤ人難民の命を救った。 一方、外務省は杉原の命令無視に激怒。終戦から4カ月後、杉原はビザ発給の責任を(戦争が終わっているのに)問われて外務省を“解雇”された。「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」(杉原千畝)。 ※杉原のビザで助けられたユダヤ人亡命者アンナ・ミローの言葉「政府の命令に背き、良心に従った杉原さんがいなかったら、私たちの誰も存在しなかった。私たちが歩み続けた暗い道の中で、杉原さんの星だけが輝いていた」。 この鎌倉霊園の墓参中に、ちょっとした奇跡が起きた。前日の青山霊園巡墓会に来ていた23歳の若き墓マイラーK君(僕の知人はなぜかKのイニシャルが多い)と杉原さんの墓前で会えた!K君いわく「杉原さんの墓前にいたらカジポンさんに会えると思いました」。確かに僕はK君に「明日、神奈川を巡礼する。墓参のメインは杉原千畝さん」って話したけれど、何時何分に杉原さんの墓前に行くとは伝えていなかった。それにもかかわらず、僕が杉原さんの墓に到着して2分後にK君がやって来た!彼は鎌倉駅からバスで来たという。もし午前中に久保山墓地でスムーズに吉田茂に会えていれば、K君が到着する前に杉原さんの巡礼を終えて立ち去っていただろうし、レンタカーを借りない場合は到着がもっと遅くなっていたハズ。誤差2分という、ミラクルなタイミングで杉原さんの墓前で合流できたことに仰天した。長年墓参りをしていると、こういう信じ難いような偶然が希にある。15時半、鎌倉霊園を出発し、北鎌倉方面へ向かう。後部座席にK君。ここから日没まで3時間ほど3人で巡礼!
夕刻。鎌倉霊園を出た一行は次の目的地である浄光明寺へ向かった。同じ鎌倉市だし、距離的には6kmしか離れてないけど、鎌倉駅周辺の大渋滞を突破するため30分かかり、着いたのは16時。浄光明寺は墓地が本堂の裏手と、正面の道を挟んだ路地奥の2カ所にあり、僕らが目指したのは飛び地になっている後者。廃寺となった東林寺の敷地が浄光明寺に組み込まれたという。付近には鎌倉時代の貴重な墓がたくさん残っており、歴史を肌で感じることが出来る空間だ。そこに眠っているのが小説家・劇作家・演出家として活躍した井上ひさし氏。30歳で手がけたNHK人形劇『ひょっこりひょうたん島』で放送作家としてブレイクし、75歳で他界するまで100作以上の小説、戯曲を残した。“ねぇムーミンこっち向いて”で知られるムーミン主題歌も氏の作詞。創作のモットーは「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」。“遅筆”としても有名で、劇の台本が初演に間に合わないことがしばしばあった。その遅筆をもじり、戒名は「智筆院戯道廈法居士(ちひついんぎどうかほうこじ)」。墓参後、浄光明寺裏山に眠る鎌倉後期の歌人・冷泉為相(れいぜいためすけ)にも巡礼。冷泉為相は百人一首をまとめた藤原定家の孫にあたる。現代に連なる冷泉家の祖だ。
その後、本日最後の巡礼地である北鎌倉の名刹、円覚寺へ駆け込む。最初に境内に建つ空手家・船越義珍(ぎちん)先生の顕彰碑へ。船越先生は世界で最も門下生の多い空手の最大流派“松濤館流”の創始者。沖縄出身で、「唐手」を空手と改称して世の中へ広めた。顕彰碑に刻まれた言葉は「空手道始祖 松濤船越義珍先生之諭“空手に先手なし”」。先制攻撃でねじ伏せるのではなく、相手が腕力に訴えたときに、初めてこちらが対応(反撃)するというもの。超カッコイイ言葉! 現在僕は松濤館流の茶帯。6年前(06年)に入門してからずっと船越先生の墓所を探してきた。ウィキには川崎市に墓があると書いてあったけど、東京の日本空手協会本部も、川崎支部も「そんな話は聞いたことがない」との返事。円覚寺の顕彰碑前では、1968年から半世紀近くも毎年4月29日(命日は26日)に日本空手協会・門下生が集まり手を合わせている。“もしや分骨墓では”と訪れたんだけど、お寺の方いわく「ここに骨はありません」。やはり故郷の沖縄に墓があるのだろうか…。沖縄在住の読者の方、船越義珍先生の墓に関するどんな小さな情報でも結構ですので、教えて頂けると助かります! 円覚寺には小津安二郎監督、木下恵介監督など映画関係者の墓が多い。約10時間の反戦超大作『人間の条件』シリーズを撮った小林正樹監督は妻の田中絹代さんと共に眠っている。僕は絹代さんの墓に2度巡礼しているけど、小林監督も同じ墓とは気づかなかった。今回、墓誌で改めて名を確認し合掌。日本映画史に輝く傑作の感想と感謝の言葉を伝えた。
本日の巡礼はこれにて終了。時計を見ると18時半。レンタカーを20時までに返却しないといけないので、渋滞のことを考えると一息つく時間はない。19時半に関内駅前にてレンタカーを戻し、無事故で帰還したことをK氏&K君と祝った。>朝4時から始まった、長い長い1日。約15時間も巡礼していたことに。翌朝も始発で静岡に向かうため、横浜・上大岡のK氏のアパートに転がり込み、いつの間にか失神していた。過酷な行程につき合ってくれたK氏、鎌倉霊園で待っててくれたK君の友情に心から感謝! ★2012年5月29日(4日目) 横浜・上大岡のK氏のアパートを早朝5時頃に出て、横浜市営地下鉄ブルーラインの始発で新横浜へ。6時のひかり号始発で西進し、6時半に富士山を通過。静岡でこだま号に乗り換え、この日最初の目的地である掛川駅に7時30分に着いた。僕を掛川から長篠まで車に乗せて下さるサイト読者のMさん(浜松在住)は、既に駅前ロータリーに到着していて、「車は屋根に荷台のあるシルバーのハイエース」とのこと。分かりやすい。駅のホームから見えたので僕が手を振ると、車の前に立っていたMさんも手を挙げて下さった。 Mさんとは初対面。連絡を頂いたのは前日で、ちょうど僕が掛川のレンタカー屋にあちこち電話をかけ、空車が見つからずに涙目になっていた時だった(「よっしゃあああ!」と吠えた声が歓喜で裏返った)。ハイエースの前で握手をして、さっそく乗せて頂く。Mさんは52歳の男性。この旅では初となる年上の方。病院に勤務されており、シフトをずらして時間を作って下さった。僕が7時半という早い合流時間を希望した為に、Mさんは6時台に浜松を出発して下さったとのこと。
合流後、初めに訪れたのは掛川駅から2kmほど東にある興禅寺。同寺の墓地にはアフガニスタン復興NGO『ペシャワール会』のメンバーで、農業支援を現地で行っていた伊藤和也さん(享年31)が眠っている。今回の旅で、僕にとって伊藤さんは鎌倉霊園の杉原千畝さんと並ぶ最重要人物。1976年生まれの伊藤さんは11歳年下だけど、生き方から勇気をもらったという点で人生の恩人だ。 『ペシャワール会』は約5000ヘクタールの農地を復興させた。同会の指導で完成した用水路は数十万人を飢餓から救った。伊藤さんは砂漠化する農地をなんとか生き返らせようと最前線で働き、赴任5年目となる08年8月、活動中に武装勢力によって拉致され凶弾に倒れた。 伊藤さんは現地の人に慕われており、救出活動に千人の村人が参加したという。葬儀におけるアフガン人の弔辞「亡くなった伊藤和也氏は、今後私達がこのような人に出会うことはできないと感ずるほど素朴さと穏やかさ、そして謙虚さを備えた人柄でした。伊藤和也氏は現在わが国が直面している最悪の状況から全アフガン人を救おうと努力していました。アフガン人の抱えるさまざまな難問を取り除こうと昼夜を厭わずがんばっていました。不運にも、余りに不運にも、私達はこの上なく素晴らしい人物を失ってしまいました」。
墓前では、伊藤さんを慕っていた現地の方の思いに胸を打たれたこと、アフガンでの活動や写真に感動したことなどを、時間を忘れて伊藤さんに語りかけた。戒名の「徹心和道」という言葉にも泣けた。伊藤さんの生きる姿勢から感じたのは、まさに“和道”に徹した心。これほど戒名で感動したのは初めて。Mさんも伊藤さんに合掌しソウルトーク。 墓参を終えて車に戻ろうとしたところ、Mさんが「お寺を忘れていませんか」。確かに!本堂と墓地が道を挟んで少し離れていたこと、伊藤さんに会えて頭が真っ白になったこともあり、お寺に行かずに帰ってしまうところだった。危ない。本堂にあがって感動したのは、伊藤さんに関する書籍を並べた追悼コーナーがあったこと!“菜の花畑の少女”のポストカードもあった。ポストカードのお代をお寺の方に払おうとすると、遺族の意向でお金はとってないとのこと。ウルッときた。 ※伊藤さんについて、僕は氏を顕彰した特別ページを設けていますが、そのページを作成するきっかけとなった、この10年間で最も心に響いたNHKドキュメンタリー『菜の花畑の笑顔と銃弾』がYouTubeでフル鑑賞可能(ご多忙の方、是非7分14秒付近から1分だけでいいのでご覧を!どんなに伊藤さんが現地の人々から慕われていたのかが分かります…)。著作権的にグレーなんですが、NHKさん、どうか伊藤さんのことを後世の人々に伝える為にも、このYouTube動画を削除しないで下さい〜!(>_<)
8時50分、次の目的地に向かって出発。伊藤さんの墓前やお堂で1時間も過ごしていたことを時計で知り驚いた。 Mさんと約1時間北上して遠州の森町へ。同地の大洞院に時代劇や講談で有名な“森の石松”の墓と、清水次郎長の石碑がある。石松の“森”は、地名の“森”を指したものと現地で知った。次郎長は幕末から明治初期に活躍した大侠客(東海道一円を支配)。戊辰戦争の際、「死者に官軍も賊軍も関係ねぇ!」と新政府軍に逆らってまで旧幕府軍の死者を丁重に弔い、これに感動した幕臣・山岡鉄舟らに深謝された。後年、開墾事業に従事し清水港も整備。“森の石松”は次郎長の子分で、義理人情に厚く、いつも陽気&ドジをやっちゃう愛すべきキャラとして知られている。最期は騙し討ちで斬られてしまい、仇を次郎長がとった。※「馬鹿は死ななきゃ直らねぇ!」や「スシ食いねぇ!」といったフレーズは、石松を語った講談が発祥。 石松の墓参をしている時に、1台の軽自動車が境内の前に到着した。なんと、付近在住のサイト読者の方だった!Fさんという女性で後部座席には赤ちゃん。Fさんは僕が鉄道で移動していると考え(Mさんのハイエース出動は前夜に急遽決まった)、「子どもが小さいので案内は無理だけど、駅までなら送ってあげられる」と車を出して下さったのだった。うう…優しい!そういうわけで、僕、Mさん、Fさん&ベイビーの4人で大洞院を巡った。
石松が渡世人であるため、墓は寺の敷地外(門前)に建てられている。日本には“墓石のカケラを身につけると勝負運が強くなる”という俗信により削られている墓が複数ある(ねずみ小僧、坂田三吉、秀吉など)。石松もさんざんに削られ、現在の墓は3代目。アフリカ産の超硬い黒御影石を使用し簡単には削れない(加工にはダイヤモンド工具が必要)。ちなみに2代目は墓石が丸ごと盗難に遭った。 大洞院はコアな墓マイラーの間で名が知れ渡っている。なぜか。石松の昔の墓をカチ割って、カケラをお守り袋に入れて500円で売ってるからだ!
神聖な墓を割ってグッズ展開するという大胆すぎる行為。眉をひそめる人がいてもおかしくない。でも、僕はこれも“アリ”だと思った。もちろん墓は尊いもの。でも、3代目の墓を削って欲しくない寺側と、削ってお守りにしたい墓参者の気持ちは、これで解決する。もしも5万円とかだと“おいおい”ってなるけど、仮に墓石が入ってなくても500円は平均的な値段だ。僕らの日常はあまりに墓と切り離されているので、身近なものになるのは悪いことじゃない。哲学的には中世のラテン語の格言「メメント・モリ(死を想え)」を伝えるアイテムでもある。 ※色んな寺がやり出したらそれはちょっと違うし、削られてない墓を割って売るのはアウトだけど…。 袋の中の石は1cm程度。住職に「(削っていけば)あと数年でお守りが手に入らなくなりますか」と聞いてみたら、「まだ20年分くらいはありますよ」との返事。約1時間ほど同寺に滞在し、世間話をして10時半にFさん母子と別れて、ハイエースで長篠古戦場に向けて出発! 道中、Mさんに6世紀創建の小国神社を案内して頂き、新東名に乗って長篠方面へ。4月に開通した新東名のお陰で、内陸の移動がめっさスムーズ。12時半に長篠古戦場の東端にあたる医王寺に着。ここは武田軍の大将、武田勝頼が本陣を置いた場所。武田信玄の子、勝頼は決してヘタレな武将ではない。信玄でさえ落とせなかった高天神城を落城させるなど、父の時代よりも領地を広げた実力者だ。ただ、あまりに父が偉大過ぎた為、古参の家臣に認められたいと功を焦り、「長篠の戦い」で織田・徳川の3千挺の鉄砲の前に飛び出し壊滅してしまった。 13時、JR長篠城駅の駐車場に到着。ここから先は日没までジョジョ絵師のTAKAさん(以下Tさん)が車で長篠を廻って下さる。Mさんは午後から仕事、Tさんは偶然この日が休みという幸運が重なり、たった1日で広範囲を訪れることが出来た。大感謝!
長篠では東から西へ順番に史跡を巡って行った。最初に長篠城址を訪れ、続けて長篠合戦で殿軍を務め、反転特攻で散った武田四名臣の1人、馬場信春を墓参。墓の側に記帳ノートがあり人気がうかがえた。次に戦国ファンには有名な鳥居強右衛門(すねえもん)の墓へ。強右衛門の墓は2カ所あり、古い方の墓は平地にあってすぐに巡礼できた。問題は山奥の甘泉寺の墓。地図で見れば近いけど、途中は細い山道が続き、往復に2時間も必要なことが分かった(最初はカーナビの計算ミスかと)。山に入ると麓に戻るのは16時。まだ10カ所近く行きたい場所があるのに、16時に戻って日没までに巡れるのか…うーむ。熟考の後、やはり行くことに。理由は4つ。 (1)他でもない、鳥居強右衛門だから→強右衛門は身分の低い足軽。無名に近い存在だ。彼は長篠城を守った500人の1人。武田軍1万5千に包囲された際、家康に援軍を要請するため決死の城内脱出を敢行。武田の包囲網を突破し、岡崎城までたどり着いた。織田・徳川連合軍3万8千の援軍という吉報を伝える為に、再び長篠城に戻ろうとしたところを武田側に捕縛される。勝頼は強右衛門に「城へ向かって“援軍は来ない、諦めて降伏しろ”と叫べ。そうすれば助命するどころか、武田の家臣として厚遇してやる」と懐柔。条件を受け入れたフリをした強右衛門は城前に引き出されると「あと二、三日で織田・徳川の援軍が来るぞう!それまでの辛抱だ!」と叫んだ。「うおお!」城兵の士気は上がり最後まで落城せず、一方、激怒した勝頼は強右衛門をその場で磔にした。強右衛門の忠義心は敵方の武田兵にも感銘を与え、ある武将は強右衛門の肖像画を描いている。墓参せねば。 (2)分骨墓ではなく本墓だから→山奥の甘泉寺は鳥居強右衛門の妻の出身地にあり、そちらに彼の遺骨が移されている。墓参せねば。 (3)ホトケの信長→甘泉寺の墓は、なんとあの信長が作らせた。信長は鬼のイメージがあるけど、一介の足軽に過ぎない強右衛門に敬意を払って建立させた。墓参せねば。 (4)交通の便→長篠の史跡は大半が駅の近辺であり、そっちはいずれ自分で行ける。甘泉寺は車がなければ絶対にムリ!今、墓参せねば。 そういう訳で、甘泉寺以降の史跡巡礼がキツキツになっても、強右衛門の本墓へ向かうことに。Tさんのドライビングテクニックはパリダカール・ラリーの選手なみ。御岳山のワインディングロードを疾走し墓参を果たした。
甘泉寺に着くと霧雨が降っており、山中は静まりかえっている。この世とあの世の狭間のような雰囲気。Tさんと鳥居夫妻に手を合わせ、境内を散策した後、麓の俗世へ。 16時に長篠古戦場へ戻り、戦域に点在している猛者たちの墓を次々と巡礼。連合軍の三重柵の二重まで突破したところで一斉射撃を受け戦死した土屋昌次、武田四名臣で副将格の内藤昌豊(まさとよ)、弾薬が尽き敵陣に突入死した甘利(あまり)信康、武田二十四将の原 昌胤(まさたね)、小幡信貞、武田軍の戦死者を埋葬した大塚(通称・信玄塚)、連合軍の戦死者を埋葬した小塚…まさに戦場跡。 長篠巡礼後半の個人的ハイライトは、武田四名臣の筆頭・山県(やまがた)昌景の墓参!山県はかつて三方ヶ原の戦で徳川軍を追い込み、家康をして「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ。危うく命を落とすところであった」と言わしめた(このとき家康は恐怖のあまりガチで脱糞)。長篠合戦の前、武田四名臣は「このまま自分の目で武田家滅亡を見るよりも、いま華々しく散って信玄殿の御恩に報いよう」と互いに酒を酌交わして出撃。山県隊は鎧や兜を赤一色で統一した「赤備え」で大暴れし、全滅するまで13回も突撃を繰り返した。山県の亡骸は17発も弾を浴びていたという。山県隊の鬼神の如き勇戦は他の武将にリスペクトされ、後年、井伊直政や真田幸村が自軍を「赤備え」にした。 山県昌景の墓は住宅地の裏山の木々の中。すぐ近くまで行かないと見えない為、途中まで「ホントにここに墓があるの?」と不安いっぱいだった。それだけに墓前では感無量に。
すぐ近くに長篠合戦の資料を展示した設楽原歴史資料館があったけど、なんと火曜が休館日(この日は火曜)。マジッすか!普通、博物館は月曜休館だろう。なんで火曜を休みにするんだよおぉぉ。長篠城の資料館も火曜定休でTさんとズッコケた。さあ、長篠古戦場巡りもいよいよ佳境。復元された馬防柵にGO! 実際に近づいて分かったんだけど、とにかく大きい!高さが4、5mはあった!時代劇だと人間の身長くらいの柵の向こうでバンバン鉄砲を撃ってるけど、そんなものじゃあない。日本最強の武田騎馬隊を防ぐにはこの高さが必要だったということか。この柵の背後に織田・徳川3千人の鉄砲隊が「三段構え」で待ち構えていた(千人が三段になって途切れなく発砲)。どう考えても勝てるワケないぜよ。だが、勝頼は無謀な突撃命令を繰り返し、武田騎馬軍1万5千のうち、生還者が僅か3千という壊滅的な打撃を受けた。
長篠古戦場では最後に八劔(やつるぎ)神社の家康本陣、そして茶臼山神社の信長本陣を探訪。最初に訪れた武田勝頼本陣との距離は約5km。けっこう離れて戦っていた。だけど馬なら近いか。織田軍本陣を後にしたのは17時半。なんとか日没前に長篠を出発できた。 長篠の史跡は山の中にあるのも多かったし、車移動とはいえ体力が消耗。運転しているTさんはもっと疲れただろう。「無事に終わりましたね」と安堵しているTさんに、僕はビクビクしながら「実はもう1カ所…」。これから豊橋駅まで送って頂くんだけど、途中で新城市・洞雲寺の“森の石松”の墓(午前中の墓とはまた別)に立ち寄って頂きたかった。方向的には南下ルート上で豊橋方面、でもちょっとだけ東にズレる。ドキドキ…。Tさんは2つ返事で「いいですよ」。わーん、有難うございます!洞雲寺に着いたのは18時。本堂と墓地が離れている上、石松の墓は何も目印がないので住職が案内して下さった。新城市は石松の故郷。遠州森・大洞院にあった大きな墓は石松の胴塚で、首だけは故郷に運ばれて同地に埋葬されたという。
石松の墓に向かって歩いてる時に、崩れかけていた天候がついに大崩壊。いわゆるバケツをひっくり返したようなゲリラ雨。前も見えないほどの豪雨&雷となった。傘など役に立たずズブ濡れ。長篠から真っ直ぐ豊橋に向かっていればビショ濡れにならなかったので、Tさんに申し訳ない気持ちでいっぱいに。その後、車内で育児トーク(Tさんの赤ちゃん可愛い!)やジョジョ・トーク。19時に豊橋駅前で降ろして頂き、感謝して別れた。 豊橋の駅前に安宿がなかったので(ネカフェもひとつ)、岡崎の方が発展していると豊橋の駅員に教えられ、岡崎に移動。20時に岡崎着。 駅前で呆然。確かに東横インなど高級ホテル(僕には高級)があるけど、ネカフェはゼロでござるよ!駅前のレンタカー屋で情報を集めると、15分ほど歩いたところにスーパーホテルがあるという。スーパーホテル!約5千円するけど、お客様満足度は全国一。僕も財布に少し余裕がある時や、あまりに疲労していてネカフェではHPが回復しない時に生命維持のため何度か利用してきた。 チェーンのビジネスホテルなのに“温泉”つきだし、朝食の和食バイキングが激ウマ。大雨でズブ濡れになったし、翌日の最終日を乗り切る為にスーパーホテルを目指す。チェックイン後、昼飯抜きで腹ぺこだったので「近所にコンビニはありますか?」と聞くと、「駅まで戻らないとありません」。もはや外を歩く体力は微塵も無く、受付でカップラーメンを購入。
部屋に入って翌日に岡崎&名古屋を車で案内して下さるNさんに連絡。Nさんいわく「早朝でも宿の前まで迎えに行きますよ」。朝食が6時半スタートなので、6時40分に拾って頂くことに。この方もまた、生き神さまのように優しい方だった!この旅は本当にそういう人ばかり。泣ける。 ※Tさんの描いたジョジョ絵はコチラ。ワムウやメッシーナのこの存在感! ★2012年5月30日(5日目/最終日) 朝6時半、宿の朝食バイキングを10分間で限界まで腹に詰め、宿の前でハザードを点灯しているNさんの車にダッシュ。「今日一日よろしくお願いします」と初対面の挨拶を交わし、最初の目的地、家康が生まれた岡崎城へ。Nさんは岡崎在住なので抜け道にも詳しく非常に心強い。お仕事を休み、岡崎&名古屋の全行程を巡って下さるとのこと。Nさんの背後に後光が差して見えた! 岡崎城は堀の外からテクテク歩いて城まで行くと思いきや、さすが地元の方、“こんな細い道を?”という坂を車で駆け上がり、本丸の目の前に到着。まだ6時台で観光客はゼロ。あらゆる角度から、この小ぶりだが美しい城にシャッターを切った。次に敷地のどこかにあるという“家康の産湯井戸”を探し、太極拳をやっていたオジサンたちに井戸への近道を尋ねた。すると、1人のオジサンが「口で説明するより案内した方が早い」と井戸に連れて行ってくれた。優しい!
本丸の周辺はいろいろ整備され、銅像や石像が充実している。思わず「おお〜ッ!」となったのが、家康が“しかめっ面”をした「しかめ像」。これは三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗北をした家康が、馬で城へ逃げ帰り、恐怖でガタガタ震えている自分を“あえて”絵師に描かせた肖像画が元ネタ。普通ならそんなブザマな姿は忘れたいものだけど、家康は血気から短絡的に武田軍を攻撃して、多くの家臣を失ったことを大反省し、自戒のために記録させたという。さすが、器が違う。「しかめ像」の側には“徳川四天王最強”の「本多忠勝像」。忠勝は数々の戦に出陣しながら、生涯に一度も負傷しなかった猛将(戦国BASARAでは、もう人間じゃなくメカになっている、笑)。忠勝像が守っていれば岡崎城は安泰だ。
30分ほど城郭に滞在し、続いて岡崎市内の大林寺へ。同寺には三河を統一した家康の祖父・松平清康と、家康の父・松平広忠が眠っている。祖父清康は人望があった名将だけど、わずか24歳で誤解により家臣に斬殺された。父広忠に至っては22歳で謀反人の家臣から暗殺…。これで松平家は壊滅状態になり、幼い家康(5歳)は人質として織田家に幽閉された。家康が今川時代を経て岡崎城へ戻ったのは18歳。そこから大逆転して天下を獲ったのがスゴイ。 大林寺では清康&広忠の墓前にて、竹千代(家康の幼名)が徳川300年を築いたことを祝福。その後、15分ほど移動して徳川氏(松平氏)の菩提寺・大樹寺へ。こちらには家康と松平家初代親氏(ちかうじ)から八代までの墓がズラリと並んでいた。こういう“一族全員集合”的な場所は、管理の問題から立ち入り禁止になっていることが多いんだけど、自由に出入りできるところに地元の人々と松平家を繋ごうとする大樹寺さんの想いを感じ、好感を持った。
8時半に大樹寺を出て、市内最後となる本宗寺の石川数正の墓へ。数正は家康の重臣だったのに、謎の出奔により秀吉配下へ走った人物。このことから、「家康は影武者であり、そのような人物に数正は従えぬと思ったのでは」という“家康影武者説”を説く歴史研究家もいる。 岡崎市から三河湾へ向かってさらに南下し、Nさんと三河湾を望む三ヶ根山の「殉国七士廟」へ。東京裁判で刑死したA級戦犯7名=東條英機、武藤章、松井石根、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎の合葬墓だ。リベラル派の僕が戦争指導者の墓へ行くことに矛盾を感じる人もいるだろう。正直、南方戦線で餓死した日本兵やアジアの膨大な犠牲者、なんでサイパン陥落の時点で降伏しなかったのか(ここからB29の本土爆撃が可能になった)など、それらを考えると墓参に二の足を踏む。でも、東條ですらメディアに煽られていたことや、7名の中の武藤章中将や広田弘毅元首相は絞首刑が重すぎると感じ手を合わせたかった。 武藤中将は米国との戦争に強硬に反対していた。開戦直前に内閣書記官長に乗り込み、「日米開戦だけは何としても避けねばならんのだ」と訴え、海軍省では「お前のところ(海軍)で“戦争できん”と言ってくれ、そうしたら(勇み足の)陸軍は何とか治めるから」と奔走している。開戦後はすぐに東條と仲たがい。死刑判決後、東條は「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と詫びたという。 広田弘毅元首相はそもそも軍人ではない。軍部の圧力に抵抗しきれなかった文官。東京裁判では11人の裁判官のうち3人が広田を「無罪」としている。広田が軍部や近衛元首相に責任を負わせる証言をしていれば減刑されたはず。だが、言い訳をせず刑死した。
7名の遺灰は遺族に渡されることなく、米軍によって航空機から太平洋に投棄されたという。墓を崇拝対象にさせないというマッカーサーの判断だ。だが、死刑翌日の夜(クリスマスイブ)に近隣の僧侶が久保山火葬場に潜入し、残灰置場から7名の遺灰と小さな遺骨の欠片を回収し骨壺1個にまとめた。それがこの墓に収められている。 「殉国七士廟」の周囲には、軍関係者の慰霊碑、鎮魂碑がたくさんある。殆どの文面が「お国のためによく頑張った」というもの。ここはそういう場所だし、指導者を批判するのは別の場所で良いと思ったけど、慰霊碑の中に2つだけ、他のものと異なる文面があった。中国・徐州に派遣された第65師団輜重(しちょう=輸送)隊と、レイテや沖縄の空を飛んだ飛行第六十七戦隊だ。
第65師団輜重隊の文面は冒頭から「聖戦という美名のもとに銃を執り…」と始まる長文。飛行第六十七戦隊は「168名の戦友が惨烈な戦局のもと広範な戦域の空地において非命に倒れた」とある。この“非命”という2文字に特攻命令などすべてが集約されていると感じた。重い。僕もNさんも沈黙。約1時間ほど滞在し、三ヶ根山を降りた。※僕の考える太平洋戦争史 続いて愛知県西尾市の西林寺へ。ここには1910年に日本人として初めて南極大陸に足跡を残した白瀬矗(のぶ)中尉の墓がある。愛知県民でもここに白瀬中尉の墓所があることを知らない人が多い。 白瀬中尉はアムンゼンやスコットと同時期に南極点を目指し、外国の探検隊が仰天するような小さな船で南極に到着した。日本人初上陸を果たした後は悪天候に阻まれ、最終到達地点を“大和雪原”(やまとゆきはら)と名付けて引き返した(この地名は後に世界地理学会が公認)。 ここからの白瀬中尉の運命は、書くだけで胸が痛い。南極点制覇が失敗したことで隊員の気持ちが荒れ、帰途で暴動が起きて中尉はニュージーランドで船から降ろされてしまう。何とか別の船で帰国すると、後援会(会長は大隈重信)が遊興飲食費として国民の募金を使い込んでいたことが発覚。白瀬中尉は多額の借金を背負い、隊員に給料すら払えぬ始末。その後20年は借金の返済に奔走。家財道具を売却し、日本、満州、台湾、朝鮮半島と探検の様子を講演し続けるも、戦局悪化で依頼もなくなり赤貧生活が加速。そして敗戦の翌年、次女が住み込みで働いていた愛知県豊田市の魚料理仕出屋の一室で餓死した(腸閉塞とも)。 死から37年後、功績を称えて3代目南極観測船が「しらせ」と命名された。約100年も前に南極へ上陸し、スコット隊のように全滅するチームがいる一方で、白瀬中尉は1人の犠牲者も出しておらず、もっと評価されるべきだと思う!
僕は以前秋田県にある白瀬中尉の故郷の墓を巡礼したけれど、こちらの墓の略歴を読むと、この墓から故郷の墓へ分骨されたようだ。つまりこっちが本墓。墓所が小さなテーマパークになっていることは全く知らなかったので、墓参して本当に良かった。白瀬中尉の勇気に敬礼! 岡崎市の南方から、約1時間半かけて名古屋近辺に到着。東から順番に史跡&お墓を巡っていった。13時半に『小牧・長久手の戦い』の激戦地、長久手の古戦場に到着。“小牧・長久手の戦い”は秀吉と家康が対決した唯一の大規模合戦として知られている。本能寺の変の後、急速に力をつけていく秀吉に対し、信長の次男・信雄(のぶかつ)が「ちょっと待った!」と家康と組んで秀吉に挑んだ。合戦は半年にも及ぶ長期戦となり、両軍の死者が3千人を超えたことから、このままでは双方とも損害が馬鹿にならないということで講和が結ばれた。
古戦場の敷地には歴史資料館があり、模型による解説で合戦の流れがよく分かった。地元の人が戦死者を弔った“首塚”に手を合わせ古戦場を後にしようとした時、目に飛び込んできたのが「血の池公園」!かつて家康側の武将たちが血槍を洗った池があった。毎年合戦の頃になると、池の水が血の色に赤く染まって漂ったという伝説が残っている。
その後、常照寺にて長久手に散った豊臣の三武将=“鬼武蔵”森長可(蘭丸の兄)、池田恒興(秀吉の宿老。姫路城を築いた輝政の父)、池田元助(輝政の兄)の墓参り。めっさ小さな石塔が当地での敗戦を物語っていた。次に名古屋市内に入り名東区の伝光院へ。ここにはあの“紫式部”の供養塔がある。以前、付近には“紫川”が流れていたらしく、紫式部に仕えていた女性が当地に供養塔を築いたという。 紫式部の供養塔に手を合わせ、この時点で15時。ここから名古屋北部の小牧方面へ向かう。渋滞に巻き込まれるかと思いきや、「名古屋高速」のおかげで一気に小牧へ。めっちゃ便利!1時間ほどで江南市の久昌寺(きゅうしょうじ)に到着した。同寺には信長の側室、生駒吉乃(きつの)が眠っている。正室の濃姫には子がいなかったので、信長の嫡男・信忠、次男・信雄の実母は吉乃さんだ。墓地に入ると古いお墓がたくさんあり、墓参者用のロープが張られていた。寺側の案内文「ロープに沿ってお参り下さい。ロープの外には絶対に出ないで下さい。倒れる危険があります。責任は負いません」。ふおお。吉乃さんの墓は奥の方で生駒氏一族と並んでいた。Nさんと「今は墓になっているからこそ、こうやって吉乃さんに触ったりできるけど、信長の時代なら速攻で打ち首ですなぁ」と感慨深くオッサン・トーク。
吉乃さんの墓参後、最後の巡礼地である名古屋中心街、大須の萬松寺へ。そこには信長の父・織田信秀の墓がある。車をパーキングに停め、商店街を歩いてお寺へ。地下道をくぐったところに信秀公の墓があった。“大うつけ”と言われていた息子が天下取り直前まで行ったことに草葉の陰で驚いただろう。17時10分、この旅の全行程が終了。名物のきしめんを冷やざるで食べ、Nさんとささやかな打ち上げ。お疲れ様でした! 午後9時、無事に大阪へ帰還! 【あとがき】 5日間の巡礼で、6台の車の助手席に座り、8人の読者の方と出会った。出発3日前にサイト日記に移動計画をアップしたことで、これほど多くの方が「車、出してもいいよ」とメールを下さった。今の世は“人間関係の希薄さ”が叫ばれているけど、そんなことはない、実に情に厚い世界であると五臓六腑で実感した! 移動中、趣味の話だけじゃなく、皆さんの仕事の話もいろいろ聞かせて頂いた。ある方はデイケアサービス(一時預かり)を始めたところ、申し込みが高齢の方になると思いきや、ハンディを持っている子どもの親の利用が非常に多く、そういう立場の親が働くための制度が地域にないことが分かったという(養護学級が15時に終わると、親は18時まで仕事があるので迎えに行けない)。 たくさんの善意に触れた今回の旅。墓巡礼は故人との対話だけど、そこへの行き帰りは無数の人々との交流がある。普通に生きていたら一生会うことのない、遠い他県の人と出会い。互いの生が交錯し、今後に繋がっていく。助けて下さった読者の方、そして遠方へ“連れ出してくれた”先人たちに、改めて感謝!!(2012初夏) |
|