愛国リベラル史観・近代史年表〜日本とアメリカ編
〜日米太平洋戦争史 1941-1945〜
2011.12.19
1942年時点の日本領
〔はじめに / 記録を伝える決意表明〕 2011年は太平洋戦争の開戦からちょうど70年目にあたる。あの戦争を振り返った時、保守側からよく聞かれる言葉が「避けられない戦争だった」「追い詰められて仕方なく立ち上がった」「現代の価値観であの時代を見るな」といったもの。一方、左派側は「狂信的な軍部が戦争に引きずり込んだ」「戦果を求めた天皇にも責任が」というもの。右派も左派も両方が誤った歴史観に支配されている。 保守に対しては、当時の価値観から見てもあの戦争は極めて無謀だったことを、左派に対しては軍部の中にだって開戦に反対していた人物がたくさんいたし、天皇も軍部急進派を抑えようとしていたことを訴えたい。決して開戦への路は一本道ではなく、避けることも充分可能だった。米国のハル・ノートだって、“試案”を日本が最後通牒と早合点したものだった。 以下の年表では、前半部分が1941年12月の開戦に至る過程で、「戦えば負ける」と発言する“勇気がないため”に戦争を回避できなかった姿を浮き彫りにし、中盤では南太平洋各島の日本軍守備隊が絶望的な状況で奮戦する姿(玉砕させた軍上層部の責任は重い)を、後半は本土空襲、沖縄戦、広島、長崎、敗戦に至る破滅への行程を、昭和天皇や米兵の言葉も交えながら解説していく。最後は神風特攻隊を中心に、散っていった若者たちの命を無駄にしないため軍組織の非人間性を掘り下げていく。 所詮は個人サイトの1コーナーとはいえ、渾身の力を込めた年表であり、参謀や末端兵の言葉を随所に挟んで単なる年号だけの年表とは一線を画したものを目指したつもりだ。完読すれば太平洋戦争の全貌を把握できるだろう。フィリピンに出征した作家・大岡昇平は、『レイテ戦記』を書く際に、砲弾一発ずつ、銃弾一発ずつの音まで記録するつもりで書き続けたという。その想いをリスペクトし、何ヶ月も戦史資料と向き合い、気持ちの上では頭上や耳の横をかすめる弾の音を聞きながらこれを書き上げたつもりだ(特に硫黄島戦や沖縄戦)。 詳細に書くといっても、無用に長ければ読み手の集中力も途切れるし、全体の構成も散漫になる。だから、長い年表ではあるけれど、可能な限りトピックを絞り込んでいる。南の島に散っていった兵士の犠牲を無駄にせぬ為に、大本営発表の美化された戦争ではなく、ありのままの姿を描き出すことで、戦争の愚かさ、不毛さを後世に伝え、本当の愛国心とは戦争をすることではなく戦争を起こさせないことであると訴えたい。 ★参考資料…『世界戦争犯罪辞典』(秦郁彦ほか/文藝春秋)、『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』(越田稜/梨の木舎)、『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝ほか/産経新聞社・扶桑社)、『戦争案内』(高岩仁/映像文化協会)、『歴史修正主義の克服』(山田朗/高文研)、『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『昭和天皇』(古川隆久/中公新書)、『昭和の名将と愚将』(半藤一利・保阪正康/文藝春秋)、『レイテ戦記』(大岡昇平/中央公論社)、『天王山』(ジョージ・ファイファー/早川書房)、『ルソン住民虐殺の真相・狂気』(友清高志/徳間文庫)、『虚構の特攻隊神話・つらい真実』(小沢郁郎/同成社)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、『日中戦争〜兵士は戦場で何を見たのか』(NHK)、『沖縄 よみがえる戦場』(NHK)、『さかのぼり日本史 とめられなかった戦争』(NHK)、『日本はなぜ戦争へと向かったのか』(NHK)、『シリーズ証言記録 兵士たちの戦争』(NHK)、『責任なき戦場〜ビルマ・インパール』(NHK)、ウィキペディア、ほか多数。 【追加】NHK『新・ドキュメント太平洋戦争1941』、NHK『日中米英 知られざる攻防』、NHK『日米開戦への道 知られざる国際情報戦』 |
(ショートカット※管理人的には出来れば年表トップから順番に読んで頂きたいですが…)
1937-1940 / 1941 / 1942 / 1943 / 1944 / 1945
三国同盟 / ハル・ノート / メディアの責任 / 真珠湾攻撃 / 反戦・石橋湛山 / 大東亜政略指導大綱 / 海軍乙事件
マリアナ沖海戦 / サイパン玉砕 / 台湾沖航空戦 / レイテ沖海戦 / ペリリュー玉砕 / 硫黄島戦 / 本土空襲
沖縄戦(大和の最期含む) ※渡野喜屋事件/ ダウンフォール作戦 / ポツダム宣言 / 原爆投下 / 聖断(終戦) /神風特攻隊
〔太平洋戦争直前の状況〕 1937年に始まった日中戦争は、軍中央の短期戦の予想とは裏腹に、中国側の激しい抵抗を受けて戦線は拡大、先の見えない泥沼に落ち込んでいった。日本は「中国がずっと抗戦を続けているのは、欧米諸国や在外中国人(華僑)が支援しているから」と考え、仏領インドシナ(ベトナム)や英領ビルマ(ミャンマー)が中国への支援物資の運送ルートと見ていた。だが当時のインドシナはフランス領であるため手出しできなかった。 そんなおり、1939年に欧州で第二次世界大戦が勃発。ドイツ軍が破竹の進撃でオランダ、フランスなど東南アジアに植民地を持つ国を打ち破っていった。日本は北部仏印(インドシナ)に進駐し、中国補給ルートを遮断した。ドイツはさらにソ連へ電撃侵攻。日本は対ソ戦を考えて北方の兵力を充実させてきたが、欧州における独ソの激突で、極東におけるソ連の脅威がなくなった。北の緊張が解け、軍部は南方に熱い視線を向ける。「ドイツとの戦いで英蘭仏は疲弊しており、今なら資源に恵まれた東南アジア(英領マレーシア、蘭領インドネシア、仏領南部インドシナ)に軍事的進出が可能ではないか」。南進論の声が大きくなり、独ソ戦の翌月、日本はインドシナ南部に軍を進駐させた。 これが大誤算だった。アメリカが激怒したのだ。かねてから日本の大陸進出に抗議していたルーズベルトは、米国内の日本の資産を凍結し、「石油の全面禁輸」に踏み切った。日本は米国から大量の石油(7割)を輸入していた。石油の備蓄は2年分。石油が切れる前に戦争すべきと考え、御前会議で軍部は「短期決戦なら勝算はある」と訴えた。「この際大陸から撤退して禁輸を解いてもらおう」という声は“臆病者!非国民!”と掻き消された。1941年12月8日、日本は真珠湾を奇襲した。 |
【1937-1940年】昭和12-15年 ※明治維新から日中戦争までは“日本と中国編”に詳しく掲載 ●1937.7.7 盧溝橋事件…米国も列強の一員として中国の利権を狙っていたところ、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が交戦状態にり、日中戦争(支那事変)へ拡大していく。米国は中国に“貸し”を作る好機とみて大量の支援物資を送り続けた。日本側の楽勝予想とは裏腹に、中国の徹底抗戦で戦線は拡大していく。 ●1938 この年に北原白秋が作詞した歌『万歳ヒットラー・ユーゲント』(2分)はサビが「万歳ナチス」。当時の日本の雰囲気を象徴する歌。 ●1939.7.26 米が日米通商航海条約破棄…日本が戦線を華南(中国南部)まで拡大して英米の権益を侵害し、さらに天津の英仏租界を抗日運動の拠点とみなして封鎖した為、怒ったアメリカ(ルーズベルト)は「日本の中国侵略に抗議する」として、関税自主権を認めた日米通商航海条約の廃棄を通告した。日本は日中戦争と占領地の経営に米国の物資を必要としていたため経済的打撃を受けた。 ※8月の米国世論調査《日本との条約を破棄する政府の政策について》賛成81%、反対19%。蒋介石はアメリカを日中戦争に巻き込むため、「日本が中国に落としている爆弾はアメリカ製」と大々的に宣伝させた。実際、米国の輸出品が軍事転用されていた。 ●1939.9.1 第二次世界大戦勃発…ドイツがポーランドに侵攻し世界大戦へ。同月ワルシャワ陥落後、翌1940年にデンマーク(4月)、ノルウェー(5月)、ルクセンブルク(5月)、オランダ(5月)、ベルギー(5月)、フランス(6月)、ルーマニア(8月)、ハンガリー(11月)を制圧、1941年にはブルガリア(3月)、ユーゴスラヴィア(4月)、ギリシア(4月)と、周辺国を次々と軍事占領していく。 ●1940.6.14 パリ陥落。仏の新首相ペタンはドイツと休戦協定を結んで親ドイツ政権を築いた。フランスやオランダといった東南アジアに植民地を持つ国が次々とドイツに敗れ、日本が進出する隙が生じる。 ※日本の多くの国民はドイツを支持していたが、情勢を危惧する市民もいた。長野の小学校の先生・森下二郎の日記(6/26)「悪がはびこっている。世界はドイツの戦勝に幻惑されて、その行動を肯定し賛美する。悼むべし、哀しむべし」。 ●1940.7.3 「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」…大本営政府連絡会議にて、南方の領土及び資源を獲得するために武力行使もあり得ることを採択。 〔最高意思決定機関〜大本営政府連絡会議について〕 首相、外相、海相、陸相、参謀総長、企画院総裁、軍令部総長という各組織のトップが集う連絡会議で、実質的な日本の最高意思決定機関。重要な国家方針は天皇同席の御前会議にかけられるが、そこでは天皇の承認を受けるだけ。方針案は連絡会議が責任を持って全会一致で示すことが原則だった。だが、会議では各代表の権限が「対等」で、首相にも決定権はなく、反対者が一人でると何も決められない。そこで話をまとめるために各組織の要望を均等に反映した、曖昧で実態のない決定に合意することが慣例になっていた。「具体的なことは別に定む」など。第1回は1938年1月11日で議題は支那事変処理根本方針。戦争末期には最高戦争指導会議に発展的解消を遂げる。 ※企画院…戦時経済計画を担当。国家総動員法など数々の戦争協力法案を立案。 ●1940.7.19 荻窪会談…近衛文麿(後の首相)、松岡洋右(後の外相)、東條英機(後の陸軍大臣)、吉田善吾(海軍大臣)が行なった荻窪会談で、前月にフランスを征服したドイツのヨーロッパ戦勝に呼応して、「南方植民地を東亜新秩序(松岡曰く“大東亜共栄圏”)に積極的に組み込むべし」とした。日独伊三国同盟に難色を示した吉田海相は“病気辞任”に追い込まれる。 ※昭和天皇は軍部がしきりに(アジアの)“指導的地位”という言葉を掲げてアジア進出を目論むことを批判。「指導的地位はこちらから押し付けても出来るものではない、他の国々が日本を指導者と仰ぐようになって初めて出来るのである」。 ●1940.7.26 基本国策要綱決定…近衛内閣は荻窪会談を反映して公式に“基本国策要綱”を定め、「大東亜新秩序」の建設のため南方進出に言及。 ●1940.9.23 北部仏印進駐…仏印とは仏領インドシナのこと。現ベトナム。日本は「中国がいつまでも抵抗を続けるのは欧米諸国が支援しているから」と判断。中国への支援物資がインドシナ経由で入ったことから、フランスがドイツに敗れた今こそ補給ルートを断つ絶好の機会と捉え、フランスに圧力をかけてインドシナ北部に日本軍の進駐を認めさせた。 ※昭和天皇「強い兵を派遣し、乱暴することなきや。武力衝突を惹起(じゃっき)することなきよう留意せよ」(北部仏印の駐屯部隊について、杉山参謀総長に) ★1940.9.27 日独伊三国同盟締結…第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリア3国が締結した軍事同盟(近衛文麿内閣が締結)。ドイツと結んでアジアのヨーロッパ植民地に進出していこうとする方針。当時ヨーロッパで英国が戦っていた独と手を結んだことで、英米との関係が決定的に悪化し、太平洋戦争の要因となった。 日本側は、ドイツが確実に欧州を征服すると考え、英仏蘭の植民地であるマレー、ベトナム、インドネシアなどがドイツのものになることを懸念し、それを防ぐために同盟国となった(同盟国から領地を奪わないだろうと期待)。 近衛首相への山本五十六の発言「三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」。 内務省は、メディアに三国同盟への批判的意見を禁止。同時に、アメリカへの敵性感情を煽る記事も禁止しており、この時点では軍指導部が米国との決定的対立を避けようとしていたことがわかる。 東條英機「英米に対して三国同盟が衝撃を与えるのは必然である。いたずらに排英米運動を行うことを禁止する」。 ※近衛首相や松岡外相が三国同盟にこだわったのは、ドイツとソ連が不可侵条約を結んでいる→三国同盟を通してソ連と関係が近くなれば、アメリカの対日開戦を抑制できると考えたから。結果的には米国の不信感を増大させ真逆の展開になったけれど。 ※小林よしのり『戦争論』は、欧米白人列強の人種差別主義を批判しているけど、日本が同盟を結んだドイツこそ最悪の人種差別主義国家。人種差別に反対するならドイツと真っ先に手を切らねばならぬはず。戦争の大義に関わるすごく重要なとこなのに、保守論客はみんなここをスルーしている。また、約6千人のユダヤ人を救ったリトアニア日本領事代理・杉原千畝さんに対し、外務省は独断行為を咎めるように退職通告書を突きつけ依願退職に追い込んでいる。杉原千畝さんの行動=日本政府の行動ではないのに、そこを言及しないのは如何なのもか。 ※ヒトラー『わが闘争』(1925)の日本語版で翻訳されなかった部分「日本の明治以後の進歩はアーリア人の科学技術を日本の特性によって装飾しているに過ぎない。日本人は二等民族である」。 ヒトラーは日本人を猿の雑種のように見下していた。戦前に刊行された日本語版『わが闘争』は意図的にそこがカットされていたため、日本陸軍にはヒトラーに心酔する者がいた。海軍大将の山本五十六や井上成美(しげよし)は原書を読んでヒトラーが「日本人は想像力を持たぬ劣等民族(二等種)だが、小器用でドイツ人が手足として使うには便利だ」と考えているのを知っていた。陸軍中佐から「『わが闘争』を読め」と言われた井上成美は、原文の蔑視部分を見せて追い返したという(このエピソードは近年の役所広司の映画『山本五十六』にも出てくるくらい有名)。 日本軍が英軍に勝利してシンガポールを征服したことを聞いたヒトラーいわく「もう一度あの黄色い奴等を追い返すために、ドイツからイギリスに20個師団の 援軍を送りたい気持ちだ」(ドイツ外交官ハッセル遺稿集)。同盟国の勝利より、白人の敗北が悔しい男。 〔昭和天皇はずっと日独伊三国同盟に反対していた〕 締結時の詔書(しょうしょ)には「日本とその意図を同じくする独伊と提携協力し、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深く喜ぶ所なり」と述べているが、これは全く天皇の本音ではない。ドイツと同盟すれば英米と対立することを懸念していることが成立前後の言葉からよく分かる。 ・陸軍の意を受けて日独伊三国同盟を結ぼうと暗躍していた大島駐独大使と白鳥駐伊大使が、独伊に対して勝手に“独伊が第三国と戦う場合は日本も参戦する”と伝えていた。天皇は板垣陸相を激しく叱責。「出先の両大使がなんら自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか」(『西園寺公と政局』) ・前年に海軍の三国同盟批判をうけて交渉がいったん打ち切りになった際「海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」(『岡田啓介回顧録』) ・「独伊のごとき国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」(『天皇秘録』) ・「この条約(三国同盟)は、非常に重大な条約で、このためアメリカは日本に対してすぐにも石油やくず鉄の輸出を停止するだろう。そうなったら、日本の自立はどうなるのか。こののち長年月にわたって大変な苦境と暗黒のうちにおかれることになるかもしれない。その覚悟がおまえ(近衛首相)にあるか」(『岡田啓介回顧録』) 天皇はファシズムの独伊に好感を持っておらず、民主主義の英米、特に英国に親しい感情を持っていた。 ●1940.10.12 大政翼賛会結成…第2次近衛文麿内閣は国民の効率的な戦争動員を目的に国民統合組織・大政翼賛会を結成。全政党が解党して同会に加わったことから、明治以来初めての無政党時代となった。“翼賛”とは時の権力者に協力するという意味。近衛が翼賛会の発足を天皇に報告した際、天皇は「これではまるで昔の幕府ができるようなものではないか」と批判した。 ●1940.11 外務省参事官の田尻愛義は蒋介石との和平交渉を担当。蒋介石は交渉開始の条件として(1)南京の汪兆銘政権を承認しないこと(2)中国から撤兵すること、この2点を求めた。この報告を受けた近衛首相は、大幅な譲歩案ではあるが承認することにした。本来ならここで日中戦争は終結していたかもしれなかった。 ところが11月28日の大本営政府連懇談会において、陸軍出身の鈴木貞一・興亜院政務部長が汪兆銘との関係強化を訴え、これに首相は反論せず。結局、蒋介石との交渉継続ではなく、陸軍が既成事実化していた汪兆銘政権の承認を選択した。香港で蒋介石との交渉に奔走していた田尻は「既定路線にとらわれずに承認を延期することを切に願います。大局を見誤ることのないように祈ります」と最後の電報を送った。 蒋介石の日記「日本は無礼で信義のない国である。これ以上の交渉は絶対にしないと部下に強く言った」。 【1941年】昭和16年 ●1941.1.8 『戦陣訓』公表…陸軍大臣の東條英機は、自らが発行した『戦陣訓』の中で「生きて虜囚の辱受けず、死して罪禍の汚名残すことなかれ』と、捕虜にならずに自決せよと命じた。その結果、前線では多くの兵士が自決した。 ※東條自身は占領軍の手で“虜囚”になった。戦死したわけでも、戦地で自決したわけでもないが、靖国神社に合祀された。 ●1941.1.30 対仏印及び泰国(タイ)施策要綱…欧州におけるドイツの攻勢で、英仏の勢力がインドシナやタイで後退。これを受け、第7回大本営政府連絡会議にて、インドシナとタイを軍事、政治、経済的に支配するため武力を背景にした占領計画を決定。この報告を受けた昭和天皇いわく「自分としては主義として相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如き、いわゆる火事場泥棒式のことは好まない」。 ●1941.3.18 物的国力判断…陸軍が極秘で日米の戦力比較をシミュレーション、深刻な結果が出て軍幹部に衝撃が走る。これを受け、陸軍大臣東條英機は日米戦争は回避すべきと判断。 陸軍の中枢で政策決定に関わった軍務課高級課員・石井秋穂中佐の手記「誰もが対米英戦は予想以上に危険で、真にやむを得ざる場合のほか、やるべきでないとの判断に達したことを断言できる」。 ●1941.4.13 日ソ中立条約締結…長期化する日中戦争に苦しむ日本、緊迫する欧州情勢に集中したいスターリン、双方の思惑が一致して不可侵条約が結ばれた。これで日本は北の不安が一応遠のいた。 ★1941.6.22 独ソ開戦…ナチスドイツが独ソ不可侵条約(1939)を破ってソ連を攻撃(バルバロッサ作戦)。陸軍の中からは「この機にソビエトを叩け」という北進論、海軍からは「南の資源を確保せよ」という南進論が同時に浮上。 ●1941.7.2 帝国国策要綱…御前会議で当面の国家方針『帝国国策要綱』を打ち出し、仏印南部への進駐が正式に裁可された。アメリカとの戦争を避けようとしてきた指導者たちが、ここで決定的な判断ミスをおかした。 南進の準備、北進の準備、和平の外交交渉、すべて進めるというプラン。しかも具体的なことは「状況を見て別に定める」とし、つまり何も決めずに準備だけするという、実質、様子見・先送りだった。軍令部作戦課長・富岡定俊「文字で妥協したのです。作文で。陸軍が自分の要求に従ってやる、海軍は海軍の了解でやっている、そんな現象なんです」。 ●1941.7.7 日中戦争の戦果を祝う式典に際して、長野の小学校の先生・森下二郎の日記「この4年の戦果。中国の死傷者380万、日本の死傷者10万と報じられた。これが祝うべきことであるというのか。これが喜ぶべきことであるというのか」。 ●1941 7.13 関特演(関東軍特種演習)…政府連絡会議の方針に基づき、陸軍は北進準備の動員を開始。弘前第57師団など総勢16個師団、「85万人」の大兵力。“準備”がどこまで指すかは軍の判断に任されていた為、陸軍は“準備”の内容を最大限に解釈。この大動員が“陸軍の準備は行きすぎではないか”と波紋を広げる。 海軍省の軍務二課長・石川信吾は「陸軍はまた勝手に戦を始める気なのか」と危機感を持って陸軍省軍務課長・佐藤賢了の部屋に乗り込んだ。「佐藤、貴様らは本気でソ連に出る気なのか。国を潰すぞ。くい止めるんだ」。様子見のために曖昧にした首脳部の方針が、逆に現場の拡大解釈を許す結果となった。近衛首相らは陸軍が勝手にソ連と戦わないよう、関心を南に向けるべく南方準備に同意した。 企画院総裁・鈴木貞一「近衛さんは、南の仏印(インドシナ)をやらなきゃ北を陸軍がやるのを心配していた。しかも、南ならすぐ戦にはならないという考えだった」。 ●1941.7.18 第3次近衛内閣樹立…近衛首相は中国問題解決の為に米国との交渉継続を主張。一方、親ドイツの松岡外相はドイツに呼応して対米強硬外交を主張。松岡という人物が危険すぎるということで、首相は松岡を排除した新内閣を組閣した。 ●1941.7.28 南部仏印(現ベトナム南部)進駐…前年の北部仏印進駐に続き、南部仏印(ベトナム南部)へ陸軍が進駐。日中戦争を継続するため、石油など南方資源獲得の足がかりとなる基地を確保しようとした。とはいえ、日本としては事前にフランス政府と合意した派遣に過ぎず、この時点では英米蘭と戦うつもりもなかった。だが、これが予想外に深刻な事態を招いていまう。 在ワシントン日本大使館から外務省への緊急暗号電報「このまま南進した場合、(米国との)国交断絶は必至」。 駐米海軍武官・横山一郎の回想「僕は東京に“仏印へ行ったら経済断交になります。戦争の一歩手前までいくでしょう”と伝えた」。横山は何度も東京に連絡をとり進駐反対を進言したが、再三の警告は無視された。 ●1941.8.1 米が対日石油全面禁輸!…これまで、日本の中国侵略に抗議してきたアメリカは、日本が南部仏印(ベトナム南部)へさらに軍を展開したことに激怒した。南部仏印からは英領マレー、蘭領インドネシア、米領フィリピンへ容易に侵攻できたことも反発を呼んだ。仏印進駐は米国の態度を決定的に硬化させ、それまでの部分的な輸出制限から、一気に一滴の石油も売らないという全面禁輸に踏み込ませた。米国の反日世論が急激に高まり、米政府内でも対日強硬派が力を増し、時間をかけて日本と交渉しようとしたハル国務長官らを徐々に圧迫。強硬措置に舵が切られ、制裁解除には中国と仏印からの撤兵が条件に掲げられた。この対応に日本軍部はショックを受ける。日本は米国から石油の9割を輸入していた。石油の備蓄は2年分しかない。石油がなければ中国との戦争も継続できない。日本の首脳部が方針を曖昧にして選択肢を残そうとしたことが最悪の結果を引き起こした。全面禁輸を覚悟していなかった軍中枢は混乱に陥った。 既に陸軍は100万を超す大兵力を日中戦争に投じていた。その上アメリカと対立する余裕はなかった。 海軍省軍務局中佐・柴勝男「アメリカは欧州の戦争に関心が向いているから、東洋方面で自ら日本と事を構えることはしないだろうと。まさかそこまでは来んだろうと考えていた」「禁輸など夢にも思わなかった」。 参謀本部前作戦課長・土居昭夫「南部仏印の進駐が大東亜戦争のきっかけになると考えなかった。経済やアメリカの決意など情勢判断をできなくて進駐をやった」。 企画院総裁・鈴木貞一「あの禁輸の瞬間に戦になっていた」。 豊田貞次郎外相「(“日本は挑戦を受けて立つのか”と聞く当時のマスコミに)君らは本気で日本が米国と戦えると思っているのか?」。 陸軍省軍務課高級課員・石井秋穂中佐の手記「南部仏印に出ただけでは多少の反応は生じようが、祖国の命取りになるような事態は招くまいとの甘い希望的観測を抱えていた」。 ※この頃、三国同盟に消極的だった米内光政内閣が陸軍に倒され近衛内閣が発足。 ●1941.8.8 幻の日米首脳会談…対米戦争を避けたい近衛首相は賭に出た。ルーズベルト大統領と太平洋上で日米トップ会談を行うというもの。近衛は全会一致原則の政府連絡会議を通さずに、直接ルーズベルトに撤兵案を申し入れ、引き換えに石油供給の合意を取り付け、それを天皇に報告、天皇を後ろ盾に撤兵に抵抗する軍部を抑えて戦争回避へと持って行く計画を立てた。ルーズベルトは会談に乗り気だったし、船名は新田丸、乗って行く人まで決まっていた。“陛下の思し召しだ”ということで押し切ろうとした。しかし、ハル国務長官は日本の指導部に意見対立があることを知っており、9月3日に米側は「まずは予備交渉から」と大統領返書で回答し会談は流れた。 ●1941.8.20 英米の動きの遅さに苛立つ 蒋介石の日記「英米政府の本音と対応は極めて卑劣である。日本に対してただ現状維持だけを希望している。現状維持は日本の中国侵略を容認することで、その本質は黄色人種に殺し合いをさせることだ」。 ●1941.8.28 「総力戦研究所」が“日本必敗”と結論…開戦3カ月前、軍部は敗戦までのシナリオを正確に予期していた。各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリートたちの「総力戦研究所」がシミュレーションを行い、対米戦失敗率100%と結論を出した。たとえ初戦で有利に立っても、東南アジアの石油を日本へ運ぶ輸送船が敵潜水艦の標的となり敗北すると断じた。東條はこれを次の発言でもみ消した。 「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争といふものは、君達が考へているやうな物では無いのであります。日露戰争で、わが大日本帝国は勝てるとは思はなかつた。しかし勝つたのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がつたのでありまして、勝てる戦争だからと思つてやつたのではなかつた。戦といふものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がつていく。したがつて、諸君の考へている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素といふものをば、考慮したものではないのであります。なほ、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬといふことであります。」 ●1941.9.3 第50回連絡会議…日本の石油の備蓄は2年。日本の選択肢は2つになった。国内世論から非難されても対米譲歩し撤兵するか、海外から非難されても南方資源を独自調達するか。譲歩か戦争か。その間も1日1万トンの備蓄燃料が消えていった。 軍司令部総長・永野修身(海軍最高責任者)「このままでは帝国はジリ貧で痩せて足腰が立たなくなる」。陸軍参謀総長・杉山元「10月上旬には結論を。それ以上の先延ばしを統帥部(作戦部)は認めない」。 最初に海軍省で「本当にアメリカと戦うのか」と動揺が広がった。 海軍の装備面の責任者として国策決定にかかわっていた海軍省兵備局長・保科善四郎「海軍の最高首脳部は絶対(米国とは)やっちゃいかんという考え。対米戦争を目標に日本の陸海軍の戦備は出来てる訳じゃない」。 海軍省調査課長・高木惣吉「何度(対米戦の)演習をやってみても、或いは図上で演習をやってみても、勝ち目がない。実際のところ審判(判定)で誤魔化しているが、本当に率直に言えば勝ち目がない」 やがて強硬派の陸軍からも対米戦に慎重な声が上がる。“日中戦争が終わっていないのにアメリカに挑むのは無謀”と現場の指揮官達は訴えた。 支那派遣軍総司令官・畑俊六「日米交渉は何としても成功させて欲しい」。 支那派遣軍総参謀長・後宮淳「この際、撤兵の条件をのむことも大した問題ではない」。 支那派遣軍総司令部は近衛首相に「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と申し入れた。 陸軍省戦備課長・岡田菊三郎は徹底的な国力データの分析から「日本に勝算なし。絶対開戦に賛成してはいけない」とトップ(武藤軍務局長)と直談判を重ねた。 海軍次官・澤本頼雄のメモ「資源が少なく国力が疲弊している状況では戦争に持ちこたえることができるか疑わしい。日米の外交交渉で解決を図るべきだ。この方向に向かうことこそ、国家を救う道である」 しかし、政府首脳部は、もしも米国と戦わずに中国から撤兵すれば、これまでに失った兵士20万人の命、毎年国家予算の7割にも達した陸海軍費は何だったのかと、国民は失望し国家も軍もメンツを失うと恐れた。また血気盛んな海軍の中堅将校たちは軍首脳を突き上げた「このままでは油が底をつくだけでなく、米国が戦力を増強し、ますます日本は引き離される。この際、1日も早く開戦すべきだ」。 9月5日、翌日の御前会議を前に、近衛首相が明日の議題となる帝国国策遂行要領の説明を昭和天皇に行った。まだ外交に希望を託していた天皇は「これを見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。何だか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける」。直ちに陸海軍総長が宮中に呼ばれ、天皇は軍の真意を問いただした。杉山参謀総長との対話「(杉山に)日米に事が起きれば、陸軍としてはどれほどの期間で片付ける確信があるのか」「3ヶ月くらいで片付けるつもりであります」「支那事変勃発の時、貴殿は陸相として“1ヶ月くらいで片付く”と言っていたが、4年の長きにわたり未だ片付かんではないか」「支那(中国)は奥地が開けており作戦が予定通り行かず…」「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって3ヶ月と言うのか!」。杉山参謀総長はただ頭を垂れ答えられなかった。「なるべく平和的に外交をやれ。外交と戦争準備を並行させず、外交を先行させよ」。 ●1941.9.6 帝国国策遂行要領…石油禁輸から1ヶ月。御前会議において決定された国策。内容は「日米交渉の推移を見つつ、次の最小限度の要求が達成されない場合、10月上旬までに米英蘭に対して開戦か否か判断する」。日本が求めた最小限度の要求とは、「米英は日本が支那事変を解決しようとするのを妨害しないこと(日中戦争に介入するな)」「ビルマからの中国補給ルートを閉鎖し、中国国民党軍に軍事支援、経済援助をしないこと」「米英は極東における兵備を現状以上に増強しないこと」「米英は日本との通商を回復し日本の自存上緊要なる物資を供給すること」等々。そして日本からの譲歩案としては「日本はインドシナから近隣地域に武力進出しない」「日本は公正なる極東平和確立後(日中戦争の和平後)、インドシナから撤兵する」「日本はフィリピンの中立を保証する」というもの。昭和天皇は開戦に反対し、あくまで外交により解決を図るよう改めて命じた。 近衛は穏健派の海軍次官に打ち明けた「(陸海)どちらの軍からも対米戦に勝つ見込みがあるという話を聞かない。この際私は人気取りで開戦を決意しようとすれば容易だが、それは陛下の御心に反することになる。対米譲歩は国内を乱すと言うが、国内問題がどうあろうと国を滅ぼすことはない。だが対外問題を誤れば国家の安危(あんき)にかかわるのだ」。 本音では戦争を避けたいリーダーたち。だが多くの恨みを買うその決断(軍の撤退)を誰が言い出すのか、水面下でなすり合いが始まった。 1941年10月初旬、内閣書記官長室を訪れた陸軍省軍務局長・武藤章「海軍に自信がないのなら政府連絡会議でハッキリそう言うよう、海軍側に話してもらえないだろうか」。内閣書記官長・富田健治「そんなことを海軍が承知するはずがない」。武藤「日米開戦だけは何としても避けねばならんのだ」。 海軍省軍務局中佐・柴勝男「武藤さんは、お前のところ(海軍)で“戦争できん”と言ってくれ、そうしたら陸軍は何とか治めるからと」。そんな役割を押し付けられそうになった海軍は企画院を頼った。 企画院総裁・鈴木貞一「及川海相と豊田外相が僕の家にやってきた。“企画院総裁が御前会議の時に戦争は絶対できませんということを御前会議の前に陛下に内奏してもらいたい”と。“海軍は戦はできない、やりたくない”と。そういうことは海軍大臣がハッキリ言うべきだ」。 陸軍省軍務課長・佐藤賢了「海軍の口から戦はしないと言うことは出来ないから総理大臣から言って欲しいと言っていた」。 ●1941.10.8 海軍次官・澤本頼雄のメモ「(東條は悲愴な面持ちでこう漏らした)支那事変にて数万の命を失い、みすみす(中国から)撤退するのはなんとも忍び難い。ただし日米戦となれば、さらに数万の人員を失うことを思えば撤兵も考えねばならないが、決めかねている」。 ●1941.10.12 五相会議…戦争ではなく外交による解決を模索していた近衛首相は、私邸の荻外荘に豊田貞次郎外相、企画院総裁・鈴木貞一、そして陸海軍の双方から譲歩を引き出すべく及川古志郎海相と東條英機陸相を呼んだ。近衛は及川海相が戦争回避を明言することを期待した。 及川「戦争か交渉か、海軍はいずれにも従います。決定は首相の御裁決に一任します」。 近衛「私は交渉に賭けてみたい」。 東條「陸軍としてはあやふやな理由で統帥部を説得できない(海軍は真意を明らかにしてくれ)」。 豊田外相「(開戦・非戦の期限を10月上旬とした)9月の決定は軽率だった」。 東條「今更そんなことを言われても困る」。 議論は4時間にわたったが、誰も勇気ある決断を下せなかった。先に戦争回避を口に出来なかった。 ●1941.10.14 海軍次官・澤本頼雄のメモ「(東條いわく)撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変(日中戦争)の成果を壊滅するものだ。数十万人の戦死者、これに数倍する遺族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と、一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」。 ●1941.10.16 内閣総辞職…五相会議の4日後、近衛首相は「私では事態を好転できぬ」として内閣総辞職。近衛は万策尽きた。辞表には「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが、遂に説得出来ず輔弼(ほひつ)の重責を全う出来ない」とした。 ●1941.10.18 東條内閣発足…日米交渉の継続と平和外交を望んだ昭和天皇が、あえて即時開戦論のタカ派・東條英機に組閣を命じたのは、戦争回避に向け、陸軍に対して統制がきく人間が東條しかいなかったから。首相になれば重責から慎重になるのでは、強硬派を抑えてくれるのではという期待があった。天皇は東條へ伝えた「(10月上旬に結論が出ねば開戦という)9月の国策にこだわらず白紙に戻して検討して欲しい」。天皇は開戦を既定路線にせずあらゆる可能性を探れと命じた。 ※昭和天皇「(東條を選んだのは)いわゆる虎穴には入らずんば虎児を得ずということだ」。 ※内大臣・木戸幸一「東條を推薦したのは私。政治家はどこに行ったかわからなくなってた。器は大きくなくても東條しかいない」。 ※企画院総裁・鈴木貞一「東條は海軍がやっぱり戦に不同意と言うことになれば、陸軍だってそんな戦は強いて主張しないと言っていた」。このような証言もあり、強硬派とされる東條にも迷いはあったようだ。 ※作家・司馬遼太郎の東條評は「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」とかなり手厳しい。 ●1941.10.23 第59回連絡会議(国策再検討)…陛下の意を受けて東條は連絡会議を招集した。企画院の数字データを基に10日間にわたる国策再検討が始まった。 企画院総裁・鈴木貞一「南方石油施設を確保すれば、3年目から石油(最終的に年450万トン)が入り出す」。軍令部総長・永野修身(海軍)「緒戦の2年は確算あり」。 問題は南方の石油を手に入れたとして、戦火の中で艦船が海上輸送力を維持できるのかにあった。 艦政本部総務部長・細谷信三郎「3年後には造船の方は40万トンから80万トンへ倍増するものと見込まれる」。 嶋田繁太郎海相「若い者は楽観的過ぎる。実際はその半分ではないか」。 物資を運ぶ輸送船舶量の見込みが甘かった。この試算を出したのは海軍省軍令部。開戦後の予想船舶量を計算したのは軍令部中佐・土井美二(よしじ)。十分な時間も材料も与えられないなか出した数字なのに、軍令部の中堅層はそのことを連絡会議にきちんと伝えなかった。土井「数日研究し、その結果を軍令部作戦班長に示した。この数字は多くの仮定の下に出されたものであるから、仮定の一つでも崩れると、この数字は狂って来ると説明し、強く念を押した。これらの数字が誰に渡されどのように取り扱われたのかは全然知らない」。 結局連絡会議の検討では、この数字を深く問い直すこと無く、開戦後の自給は可能とする楽観論の根拠に加えてしまった。 軍令部作戦部長・福留繁「永野さんは“2年から頑張ってそれ以上のことは分からん”ということは、要するに“その先は勝つ見込みは少ないですよ”という言葉の代わりに私はそういう言葉を言ったんだと。“負ける”といったようなことは言えませんから」。 最初の2年はともかくその先はどうするのか。国家の命運を握るこの重大な疑問からリーダーたちは目を背けてしまう。 ※「(戦略上)補給が続かないのでアメリカとは戦争すべきでない」(陸軍大将・真崎甚三郎) ●1941.11.5 帝国国策遂行要領(7月に続き2度目)…御前会議にて「現下の危局を打開して自存自衛をまっとうし、大東亜の新秩序を建設するため、この際、対米英蘭戦争を決意」と裁可。自存自衛の目的だけでなく、新たに「大東亜共栄圏の建設」も戦争目的に加わった。開戦の決意を固めつつ、開戦か戦争回避かの最終決断を12月1日午前零時に先送りにする。 東條「思うに撤兵は退却なのだ。中国には百万の大兵をだし、十数万の戦死者、遺家族、負傷者、四年間の忍苦、数百億の国費を費やしてきた。この結果は、どうしても結実させなければならない」。 大東亜共栄圏も戦争目的に加えるべきだと主張したのは陸軍。米英の経済制裁に対抗するため、アジアの資源地帯を押さえ自給体制を確立することが重要だと考えた。一方、海軍や陸軍の一部は“自存自衛”の範囲内にとどめるべきと考えていた。 陸軍大佐・石井秋穂「“自存自衛”と“大東亜の新秩序”とが併記されておる。これは失敗であった。戦争目的を規定しておかないと、戦争指導に動揺をきたす。この戦争は油が切れるまで日本国家としての経済的及び国防的生命を繋ぐ必要に迫られ、やむにやまれず立ち上がるのである。もしも米蘭から従前通り油が買える様になれば、戦争目的は達成したことになる。最低限の戦争目的を規定しておかなければ和平が出来にくくなる」。 開戦前から国内の食糧不足は深刻であり、前線の補給が懸念された。大蔵大臣・加賀興宣「南方作戦地域の経済を円滑に維持するがためには、わが方において物資の供給をなすを要すべきも、わが国はそのために十分の余力なきをもって、当分はいわゆる搾取的方針いづることやむを得ざるべしと考えらる」。 一方、アメリカ政府内では日本の南部仏印進駐をきっかけに対日強硬派が勢力を強め、この頃に主導権を握ってしまう。ハル国務長官は日本との交渉に熱意を失った。 ★1941.11.20 南方占領地行政実施要領…開戦前に大本営政府連絡会議決定が決めた占領方針。“アジアを独立させる”どころか、独立運動を封じる必要性に触れている。 南方占領地行政実施要領 第1 方針 占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安の回復、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す。 第2 要領 7.国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民政に及ばささるを得ざる重圧はこれを忍ばしめ、宣撫(せんぶ、民族解放の宣伝)上の要求は右目的に反せざる限度に止むるものとす。(=資源取得と占領軍の食糧確保によって地元民にかかる重圧はこれを耐えさせ、民族解放の宣伝はこうした行動と矛盾しない程度に抑えておくように) 8.原住民に対しては皇軍に対する信頼感を助長せしむる如く指導し、その独立運動は過早(かそう)に誘発せしむることを避けるものとす。※当面独立運動は抑えておけということ。 ●1941.11.26 連合艦隊・空母艦隊出撃…ハワイ・真珠湾に向け、旗艦“赤城”など空母6隻を中心とした31隻の日本海軍機動部隊(第一航空艦隊)が択捉島から出撃。3200海里の大渡洋作戦に挑む。司令長官は南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将(後にサイパンで玉砕)。ただし、ギリギリまで外交努力をし、「交渉妥結の際は速やかに引き返す」ことになっていた。その直後にハル・ノートが届く。 ★1941.11.26 ハル・ノート提示…奇しくも空母艦隊出撃と同じ日、日米交渉でアメリカのハル国務長官がいわゆる“ハル・ノート”を提示した。「中国やインドシナからの全面撤退」を求めるものだった。その代わりに「米国内の日本の資産凍結を解除し、通商条約再締結のための交渉を開始」するという。米側の要求を「日露戦争以降に築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄するもの」と解釈した日本。政府連絡会議はハル・ノートを最後通牒と見なした。それまで政府内は妥協派が優位だったのに、ハル・ノートによって軍部を中心に強硬意見が主流になり、昭和天皇も「開戦やむなし」に傾いたという。 だがしかし、ハル・ノートを巡っては日本側の対応に不可解な点がある。 (1)ハル・ノートの冒頭に「試案にして法的拘束力無し」とあるのに、なぜか外務省がその部分を削除して枢密院に提出し、東郷外相が昭和天皇に上奏して「最後通牒」と解釈されるようになった。外務省と東郷外相の真意は不明。 (2)同様に、原文は中国&仏印(ベトナム)からの「撤兵」とあるのに、訳文では「“即時”撤兵」と厳しいものにされていた。これも謎。 (3)原文には「中国」に“満州を含む”とは書いていない。だが、日本側は満州からの撤退も含むと思い込んでいた。 (4)ハル・ノートには米国が国交断絶するとも武力行使するとも書いておらず、それを最後通牒とするのは違和感がある。 外交交渉の常として、最初に高いハードルを提示しておいて、徐々に妥協していき相手から譲歩を引き出し、条約を結ぶ方法がとられることから、ハルがわざわざ「試案」と念を押しているのもそのニュアンスを含んでいるからだろう。ある意味、日本軍の早期開戦派がハル・ノートを利用して戦争に突入させたとも言える。以下の4点から、ハル・ノートと開戦は関係ないとする説もある。 (1)日本はあくまでも11月5日の御前会議で決定された国家方針(12/1までに交渉成立しない場合は開戦)により戦争を開始した。 (2)その証拠に、ハル・ノートが日本に届いた時には、既に真珠湾に向けて日本機動部隊が出航していた。 (3)11月15日の時点で、大本営陸軍部が発動時期を保留しながらも、南方軍にイギリス領マレーなどの攻略を目的とする作戦開始が告げられている。 (4)さらに遡れば7月2日の御前会議・帝国国策要綱で「南方進出の態勢を強化す」「帝国はその目的達成のため対英米戦を辞さず」と決め、南進の準備に邁進してきた。 一方、米国側もハル・ノートを“試案”としながらも、日本が最後通牒と見なして攻撃してくる可能性を予測しており、真珠湾にいた空母部隊に対して奇襲攻撃を警戒すべく太平洋の哨戒任務を下令していた(だから米空母部隊は真珠湾にいなかった)。 いずれにせよ、ハル・ノートを提出されるまでに状況を悪化させ続けたことを無視した「ハル・ノート原因論」は、責任逃れ感が強すぎる。 ★1941.12.1 御前会議/開戦決定…大本営政府連絡会議はハル・ノートを最後通告とみなして交渉打ち切りで一致、開戦を決定した。アメリカに勝利できる確信を誰も持たないまま、選択肢をすべて失った末の、決意なき開戦。翌日に海軍中央は奇襲実施の暗号「新高山ノボレ1208」を打電する。開戦日に12月8日を選んだ理由は月曜日だから。前日が休日ゆえ米兵たちは深夜まで飲み遊び、朝寝坊して油断していると日本の軍令部は考えた(マジで)。 開戦時の日米国力差は、米国が日本を圧倒している。国民総生産12倍、鋼材17倍、自動車数160倍、石油721倍!冷静に考えて勝ち目はないのに、軍首脳部は「日露戦争では1対10の国力差で勝てたではないか」という言葉で現実逃避し、開戦に踏み切った。 開戦決定後の第4艦隊司令長官・井上成美「山本(五十六)さん、大変な事になりましたねと言うと“うん”と言ってました。一体、嶋田海軍大臣はこういうことになったことも、国家の大事だということを分かってんでしょうかねと、非常に私は不安ですがと言ったのが、山本さんこう言ったですよ、“あれはおめでたい男だからな”って。だから山本さんも“ああ、ここまで来たけども、ああ”と考えたんじゃないですか」。 部下に「開戦おめでとうございます」と言われた井上は「何がめでたいだバカヤロウ」と叱りつけた。 海軍省兵備局長・保科善四郎「総理大臣が2、3人殺されるつもりでやりゃあ戦争回避はできると思うんですが、それだけの人がいなかった」 陸軍省軍務課長・佐藤賢了「独裁的な日本の政治では無かった。だから戦争回避は出来なかったんです。こうした日本人の弱さ、ことに国家を支配する首脳、東條さんはじめ我々の自主独往の気力が足りなかったことが、この戦争に入った最大の理由だと思う」。佐藤軍務課長は軍では好戦的な発言をしていたが、家庭では開戦前日に「負けると分かっていて戦争をするのは馬鹿だ」と言っていた。 日本の場合、独裁者がいなかったからこそ、戦争が避けられなかった。大本営政府連絡会議はみんな責任を負うのがイヤで、弱腰とみなされ失脚するのが怖くて、戦争は愚かと気付いていながら戦争という道を選んでしまった。 企画院総裁・鈴木貞一「東條君が言ったのは、(大陸で)あれだけの人間を殺して金も使って、手ぶらで帰ってこいと言うことは出来ないと」。 人が死ねば死ぬほど兵は退けなくなる。リーダーは死者を見捨てることは許されない。犠牲者に背を向け「我々は間違えた」と言えない。しかし、その結果日本は建国以来最大の死者を出す戦争へ突き進むことに…。 東条英機「(陛下は開戦に際し)統帥部その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが実情である」。 ※満州事変を起こした陸軍中将・石原莞爾「敵は中国人ではない。日本人である。自己の野心と功名心に駆り立てられて武器を取って立った東條こそ日本の敵である」。石原は“いずれ米ソが戦争し、米国がかろうじて勝利するだろうから、そこを日本が叩く。それまで日本は戦争せずひたすら国力を付けておくべき”という自論から満州国を建国させた(だから中国と戦って国力を消耗することに反対)。石原は東條が作った戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず死して罪禍の汚名を残す事なかれ」(生きて捕虜となるよりは死を選べ)にも強く反発し、部下には断固として読ませなかった。 ★永野海軍軍令部総長は石油を全面禁輸される直前の7月末の時点で「三国同盟がある限り日米関係の調整は不可能。短期決戦で打って出るほかない」と言っており、ハル・ノートがあろうがなかろうが、対米開戦は一部の軍人の既定路線だった。「日本はABCD包囲陣を打ち破るためギリギリの選択をした」という見方は間違っている。英蘭にしてみれば、自分たちと戦っているドイツと同盟を結ぶ時点で日本は敵だし、中国を支援している米国からすれば、自分の売った石油を使って中国を攻撃している日本に“そんな目的で石油を使うならもう輸出しない”となるのは当たり前で、ABCD包囲陣を作ったのは日本自身といえる。先の見えない日中戦争を打開すべく、ドイツの勝利に便乗して北部仏印に進駐し、南方進出の為に「対英米戦を辞せず」と決定し、それに基づいて南部仏印に進駐した結果、米国から石油を止められた。石油がないから早く開戦した方が有利という早期開戦論が全面に出てきた。自ら経済制裁を引き出し、ハル・ノートのせいにして「自存自衛」という言葉を振りかざすのは開戦の流れを冷静に分析できておらず、まったく筋が通っていない。
●1941.12.8 日米開戦/真珠湾奇襲攻撃…早朝6時(現地時間7日)、空母艦隊から真珠湾に向けて350機の戦闘機、雷撃機、急降下爆撃機が二波に分かれて発進。米国は日本が軍事行動を起こすならマレー半島かフィリピンに上陸するという先入観に支配されており、完全に虚を突かれた。7時53分、「ワレ奇襲ニ成功セリ」を表す「トラ・トラ・トラ」が打電され全機突撃。戦艦アリゾナなど8隻が号沈または大破し、数百機の飛行機が滑走路で破壊され、約3600人が死傷した(うち死者2400人)。日本側の航空部隊は29機未帰還、55名が戦死した。 真珠湾攻撃の1時間前に、日本陸軍はマレー半島の上陸にも成功。同日、日本海軍航空隊がフィリピン・ルソン島のアメリカ軍航空基地を爆撃し航空機を多数破壊した。 ※チャーチルと蒋介石は米国の参戦を心から求めていた。蒋介石の日記「本日、わが国の抗日戦略の成果は頂点に達した」。 ※ゼロ戦(零式艦上戦闘機)は1940年に海軍に公式採用された。同年は“紀元2600年”にあたり、そこから“0”をとってゼロ戦とした。 この日、昭和天皇が発した開戦の詔書には“自存自衛”のみが戦争目的として記された。 〔遅れてしまった宣戦布告〜外務省の失態〕 国際法では開戦前に事前通告を行うことが定められている。東郷外相は「自衛戦争に事前通告は不要」と考えていたが、昭和天皇と連合艦隊司令長官・山本五十六の願望をうけて、真珠湾攻撃の20分前に事前通告をする手筈になっていた。ところが駐米大使館はパーティーをしていて暗号が入ったことを気付くのが遅れ、さらに暗号の解読にも手間取り、野村大使がハル国務長官へ通告を行ったのは開戦から50分も後のことだった。 それより34年前、1907年の第2回ハーグ国際平和会議において、日清戦争と日露戦争で日本が先制奇襲攻撃で開戦したことが問題となって、“宣戦布告後に攻撃をする”という「開戦ニ関スル条約」が作成された。それにもかかわらず、結果的に真珠湾で奇襲したことから、「またか日本か!」と米国世論が怒りで沸騰した。 もっとも、この時に野村大使がハル国務長官に渡した公文は、「今後交渉を継続しても妥結に達しないと認識した」としかなく、これでは“交渉打ち切り”の通告に過ぎず、たとえ開戦に間に合ったとしても「どこが事前通告なのか」と米側を憤慨させていただろう。 ※「ルーズベルトは事前に真珠湾攻撃を知っていた」という説があるが、アメリカが「日本海軍の暗号電報」の解読に成功したのはミッドウェー海戦の直前となる1942年の4〜5月頃。真珠湾の約半年後だ。米側は暗号傍受に成功していたものの、まだこの時点では暗号を解読不能だった。日本政府と駐米大使館が交わした外交電報については1940年秋頃から解読されていたが、そこでは直接的に奇襲のことが書かれていない。仮に外交電報から推測されたとしても、ホワイトハウスだけでなく、ハワイの司令部など多数の軍関係者が全員で共謀する必要があり、現実的には考えにくい。さらにはルーズベルトは12月6日、昭和天皇に異例の親電(親書)を書いている。内容は天皇に平和を共に築こうと呼びかけるものだった。ルーズベルトは日本政府・軍部ではなく天皇に直接かけあったのだ。 「日本国天皇陛下。私が陛下に対して国務に関する親書を送るのは、両国にとって特に重大な場合のみですが、現在起こりつつある深刻で広範な非常事態を鑑(かんが)みると、まさに今がその時であると感じています。日本の大量の軍隊が南部インドシナ(ベトナム)に送られました。どうか兵を撤退するようお願いします。私と陛下が日米両国民のみならず、隣接諸国の住民の為、両国民の友情を回復させる神聖な責務を有していることを私は確信しています。フランクリン・ルーズベルト」 なんとこの親電が東京電信局に届いたのが真珠湾攻撃の15時間半前。ところが国家の命運を決めるようなこの最重要文書が、電信局で10時間も止められてしまう。元陸軍参謀本部通信課・戸村盛男いわく「もう今さら親電を届けてもかえって現場が混乱をきたす。従って御親電は10時間以上遅らせることにした。それで陛下も決心を変更されずに済むし、敵を急襲することができると考えた」。親電が天皇のもとに届いたのは真珠湾攻撃の20分前だった。 ちなみにハルに助言していた国務長官特別顧問ホーンベックは、「12月15日までに開戦する可能性は2割以下」と分析していた。当時はそういう認識だった。 真珠湾攻撃が「米国の罠」であったにせよ、同時にマレー半島に上陸し、それまで戦っていた中国だけでなく、イギリスやオランダにも宣戦布告し、全方位で戦っていることを忘れてはならない。 日本は盧溝橋に始まった支那事変から対米戦争へと突き進んでいった。中国は一撃で倒せるという誤った見通し、軍の暴走を止めることが出来なかった国のシステム、戦線はアジア各地から太平洋へと拡大し、国民は次々と戦場へ動員された。戦争の大義が後付けの論理で二転三転し、軍も政府も戦争を収束できなかった。 ●1941.12.10 北マリアナ諸島の米領グアムを占領 ※グアムの北にあるサイパンはかつてドイツが統治していた。第一次世界大戦で日本が手に入れ、1920年に国際連盟から統治を委任された(南洋委任統治領)。 ●1941.12.12 日本政府は支那事変をふくめてこの戦争を「大東亜戦争」と名称決定。 ●1941.12.25 イギリス領香港占領。 〔石橋湛山、魂の咆哮「日本は全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」〕 「日本は生き残る為に戦争するしかなかった」いう意見がある。これについては戦争に反対していた反骨のジャーナリスト(後に首相)、石橋湛山(たんざん)のことを語りたい。第1次世界大戦が欧州で勃発すると、日本は欧米列強に対抗する為に、この混乱に便乗して大陸に勢力を広げようとした。世論も「これで一等国の仲間入りだ」と熱狂。でも石橋湛山は違った。湛山は“大日本主義の幻想”という題で「全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」と経済誌に書いた。理由はこうだ。当時の日本とアジアの貿易額は約9億円。一方、英米との貿易額は倍の約18億円。日本が英米と衝突すればこの18億が失われるので、平和的な貿易立国を目指すべきと説いた。これは軍部が思いもしなかった主張だった。しかし1931年に満州事変が起き、大陸への進出が加速していく。世界各国から非難を受けた日本は翌々年に国際連盟を脱退。1934年、湛山は英字経済誌を創刊し、これを欧米で発行して「日本政府の政策は決して国民の総意ではない」と世界に訴えた。 湛山は権力ににらまれ、1942年に同誌の記者や編集者が逮捕されて4人が拷問で獄死する。さらに紙やインクの配給も大幅に減らされた。だが、それでも湛山は絶対にペンを折らなかった。「良心に恥ずる事を書き、国の為にならぬ事を書かねばならぬくらいなら、雑誌をやめた方がよい」。次男が南方で戦死したと知らせを受けた湛山は日記にこう刻んだ「汝が死をば父が代わりて国の為に生かさん」。 日本は戦後にゼロ(焼け野原)からのスタートで、わずか約20年で世界第2位の経済大国に登り詰めた。資源がないのは戦前と同じ条件だ。あのまま開戦せずに平和的な貿易立国になっていれば、有能な人的資源も失われず、さらなる発展を経ていただろう。本来、生きるべき人が死ぬ必要もなかった。“しかたなかった”論で過去を総括していては、あまりに死者が救われない。 【1942年】(昭和17年) ●1942.1.1 前線の物資不足が深刻化。マレーシアのコタバルを視察した陸軍大佐・石井秋穂「夕刻コタバルに飛び、渡辺大佐と共にケランタン州の政務を聴取す。皇軍の略奪強姦を嘆(たん)す。シンゴラ埠頭を見る。ここも皇軍の略奪強姦に悩めり」「これが大東亜戦争の性格を雄弁に物語るものでもあった」。 従軍記者・酒井寅吉「マレーの動脈として活動している支那人のほとんど全部が熾烈な反日意識に燃えていた。女や子どもでも油断が出来なかった」 ●1942.1.2 米領フィリピン・マニラ占領※フィリピン全土占領は5月 ●1942.1.21 東條首相の施政方針演説…緒戦の勝利を受けた国会演説。東條「帝国は今や国家の総力を挙げて大作戦を遂行しつつ、“大東亜共栄圏建設の大事業”に邁進しておるのであります」。 陸軍大佐・石井秋穂「首相の施政演説は大東亜共栄圏の構想だけ述べておる。決起の真情を訴えていない。真(しん)に生きんが為の戦争には大言壮語は禁物である。少なくとも国内的には自存自衛を最初から深刻に解説する必要があった」。 ●1942.1.23 豪領ニューギニアのラバウル占領 ※昭和天皇「人類平和の為にも、いたずらに戦争の長引きて惨害の拡大しゆくは好ましからず」(2/12)。開戦初期の勝ち戦のなかにあって東條首相に早期終戦を訴える天皇。「長引けば自然と軍の素質も悪くなる」とも。 ●1942.2.15 英領シンガポール占領。翌日、現地の陸軍中尉・三好正顕の手記「戦争とは何の恨みもない者同士が、ただ憎しみ合い、殺し合いをして勝ったり負けたりすることは、ほかに例えようもない無惨なことであり、また無意味なことであるとも思われる。米英との戦争は今始まったばかりではあるが、何とか早期に平和が訪れないものであろうか」。 陥落3日後日本全国で一斉に戦争の祝賀式が開催された。同日、シンガポールでは華僑(中華系の住民)の不逞(ふてい)分子、日本軍の作戦を妨害する可能性のある者をを虐殺処分せよと命令が下った。 シンガポールの第二野戦憲兵分隊長・大西覚の戦後の回想「本当に敵性で抗日分子という確証はないのに、それをすぐに虐殺せよということは、非常に人道に反するし嫌だった。だが命令ならしょうがない」。戦後、大西は終身になった後に恩赦。死刑になった司令官は5千人を粛正したと日記に記しており裁判の証拠となった。虐殺は数万規模にのぼるとみる専門家もいる。日本では銃後の市民たちがアジア解放の理想を信じていた。 ●1942.3.8 英領ビルマ(現ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)占領※全ビルマ占領は5月 ●1942.3.9 蘭印ジャワ(現インドネシア)を占領 ●1942.4.18 ドーリットル本土初空襲…米空母ホーネットから発進したドーリットル中佐指揮下のB25爆撃機16機が日本本土を初空襲する。12機が東京、3機が名古屋、1機が神戸を爆撃した。日本側は死者45人(機銃で小学生にも死者)、重傷者153人。東京と名古屋で一機ずつ撃墜され8人が捕虜となった。大本営は本土を直接爆撃されたことに衝撃を受け、8/28、全員に死刑判決を下す。だが、東條陸相が「米国内で(報復心理により)抑留中の日本人に悪影響が出る」と反対し、天皇の特赦という形で5人が無期監禁に減刑された。10/15、機長2人と機銃手の3人が銃殺される。 ●1942.4.30 翼賛選挙実施…第21回衆議院選挙は“翼賛選挙”と呼ばれ、東條内閣は体制を堅固にするため初めて候補者推薦制を導入。「政府と戦争に協力する人物」を推薦し軍事費から多額の選挙資金を与えると共に、他の非推薦候補者は警察・憲兵から激しい選挙妨害を受けた。推薦候補者で当選したのは466名のうち381名、一方、非推薦候補者は85名が当選した。政府の露骨な選挙圧力にもかかわらず、非推薦者の得票数は約419万票(得票率35%)もあった。その後、東條内閣は翼賛会に大日本婦人会や“労資一体”を掲げた大日本産業報国会などの官製国民運動団体を組込み、さらに町内会まで末端組織とし、国民生活の隅々まで国家権力による統制を実現していく。 ※翼賛選挙の結果(得票率)を見ると、国民の3人に1人が強引な東條内閣に否定的感情を持っていたことが分かる。戦時中は全国民が政府を無批判に支持したイメージがあるけど、選挙データは政府とは異なる考え方を持った国民が3分の1もいたことを示している。 ●1942.5.7 珊瑚海海戦…歴史上初めて航空母艦同士が主力として戦った海戦。ソロモン諸島の南、珊瑚海で対決。日本は艦隊戦に勝利したが目標のポートモレスビー(ニューギニア)は攻略できなかった。 ●1942.6.5 ミッドウェー海戦に大敗…日本海軍は真珠湾攻撃で取り逃がしたアメリカ機動部隊を撃滅すべく、航空母艦4隻を基幹とする47隻の大機動部隊で、太平洋ミッドウェー諸島の米軍陸上基地を攻撃した。だが、索敵活動を軽視したため敵機動部隊の発見がおくれ、米艦載機の急降下爆撃を受ける。貴重な空母を4隻も沈められ(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)、重巡洋艦「三隈」1隻、航空機約300機、将兵約3000名以上を一挙に失ったのに対し、米国は空母1隻、航空機約150機の被害にとどまった。開戦以来の日本軍の破竹の進撃はここまで。この海戦を境に戦争の主導権がアメリカに移ってしまう。米国が事前に日本海軍の暗号解読に成功して待ち伏せていたことや、日本側にはレーダーがなかったことが勝敗の分かれ目となった。日本海軍を代表する名提督、第二航空戦隊司令官の山口多聞中将が沈没する空母「飛龍」と運命を共にしたことも日本側には大打撃だった。 ●1942.7.6 ガダルカナル島に上陸…日本軍約600人(後に増援され3万6千人)がオーストラリア侵攻の布石として南太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島に上陸。付近の制空権を確保すべく飛行場を建設し8月5日に完成。16日に戦闘機が配備される予定だった。 ●1942.8.7 米軍反攻開始/ウォッチタワー作戦…ガダルカナル島の日本軍飛行場を驚異に感じた連合軍は、1万人(後に増援され6万人)を上陸させた。米軍の本格的な反攻(ウォッチタワー作戦)の開始だ。米軍に飛行場を奪われた日本軍は、これ以降、飛行場奪還を目的に死闘を繰り広げる。 ●1942.8.7-8 フロリダ諸島守備隊玉砕…南太平洋ソロモン諸島のツラギ島(ガタルカナル島の北)、ガブツ島、タナンボコ島の守備隊は計1100人。8月7日早朝、各島に8千人の米兵が奇襲上陸してきた。ツラギ島守備隊約400人はラバウルの第八艦隊司令部に「ツラギ守備隊は最後の決意をなせり」と打電後に玉砕。ガブツ島、タナンボコ島では守備隊700人の奮戦に米軍はいったん兵を引き、翌日に軽巡1隻、駆逐艦2隻を島から500mの至近距離に停泊させ、猛烈な艦砲射撃を開始。これによって守備隊は3人を残して全員が戦死した(司令官の宮崎大佐は自決)。米側の戦死者は122人。日本軍にとって初めての占領地喪失となった。 ●1942.8.9 第1次ソロモン海戦…ガタルカナルへの米軍上陸を知った日本海軍は、重巡洋艦5隻を含む8隻を派遣。上陸中のアメリカ艦隊に夜間戦闘を挑み、敵重巡4隻を撃沈し同1隻を大破させる一方、自軍の沈没はゼロという大勝を収めた。ところが、本来の目的であった輸送艦隊への攻撃は“非武装の輸送船を攻撃するのは武士道に反する”という理由もあって中止された(開戦初期はまだこうした誇りが残っていた)。その結果、米軍は大量の武器や生活物資の揚陸に成功し、日本軍の後の苦戦に繋がっていく。 ●1942.12.31 ガタルカナル撤退決定…ガタルカナルでは8月21日に一木支隊先遣隊が飛行場攻撃を敢行して全滅。以降、9月に川口支隊、10月に第2師団の総攻撃が敢行されるも続けて失敗。増援の輸送船11隻は撃沈された。約5ヶ月間で日本兵3万6千人のうち2万5千人が戦死あるいは餓死し、12月31日、御前会議でガダルカナルからの撤退が決定された。翌年2月7日、ガダルカナルから1万1千人が撤退終了。 【1943年】(昭和18年) ●1943.4.18 海軍甲事件/山本五十六戦死…連合艦隊司令長官・山本五十六大将が、ラバウルからブーゲンビル島バラレ基地へ視察飛行中、暗号電報を解読した米軍P-38戦闘機18機の待ち伏せを受け撃墜された。この攻撃の前、太平洋艦隊司令長官ニミッツは“山本よりも優秀な軍人が後任になるなら攻撃を手控えねば”と本国に伺いを立てた。回答は「山本に代わるような軍人は山口多聞だが、彼は先のミッドウェー海戦で戦死しているので山本機を撃墜して構わない」。かくして攻撃計画が進められた。享年59歳。山本長官は21歳の時に日露戦争・バルチック艦隊との日本海海戦で左手の人さし指と中指を失っており、その左手で本人確認がされた。6月5日、元帥として国葬。 ※山本長官は駐米武官時代に米国の圧倒的な国力を見ており、米内光政、井上成美(しげよし)と共に海軍を代表する「非戦派」3人衆だった。日独伊三国同盟にも反対していた。 ●1943.5.29 アッツ島守備隊玉砕…アラスカから連なるアリューシャン列島最西部、アッツ島。日本軍は前年6月にミッドウェー海戦の陽動でアッツ島に上陸していた。5月12日に米軍1万1千人が上陸し、これを山崎保代陸軍大佐の指揮するアッツ島守備隊2652人で迎え撃った。山崎司令官は水際防御の戦法をとらず、後の硫黄島やペリリューの戦いのように内地に引き込んで陣地&トラップを駆使して迎撃した。17日間の激しい戦闘の末、守備隊は大半の砲を失い食料も尽きた。29日、山崎司令官は大本営に「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」と最終打電。生存していた日本兵300人は山崎司令官を陣頭に玉砕突撃を行なった(重傷者は自決)。 米軍は捨て身の突撃に驚愕して混乱に陥り戦線が崩壊した。米兵たちは日本軍が投降・捕虜の道を選ぶと思っていた。右手に軍刀、左手に日の丸を握りしめた山崎司令官を先頭に守備隊は前進を続け、ついに敵本部付近まで肉薄したものの集中砲火を浴び玉砕した。生還者は28人のみ、生存率1パーセント。米軍の死傷者も約1800人にのぼった(うち戦死約600人)。戦後の遺骨収集では突撃部隊の一番先頭で山崎司令官の遺品・遺骨が見つかった。自らは安全圏に身を置き、部下だけを突撃させる高級将校もいた日本軍にあって、最期まで陣頭で指揮をとっていたことが裏付けられた。 ※アッツ島玉砕について昭和天皇いわく「こんな戦をしてはガタルカナル同様、敵の士気をあげ中立、第三国は動揺し、支那は調子に乗り、大東亜圏内の諸国に及ぼす影響は甚大である。何とかして何処かの正面で米軍を叩き付けることは出来ぬか」(1943.6.8) ★1943.5.31 大東亜政略指導大綱…天皇列席の御前会議で決定された政略方針。いわゆる「大東亜戦争は正義の戦争で日本に領土的野心はなかった」というのが完全にまやかしと分かる最重要史料。あのまま戦争を継続していたら以下のように帝国領土に編入されていた。これは日本の戦争を「アジア解放の為の聖戦だった」と言い張る保守論客が絶対に触れようとしない史実だ。 《大東亜政略指導大綱 6(イ)》 「マライ(現マレーシア・シンガポール)」「スマトラ(現インドネシア)」「ジャワ(同左)」「ボルネオ(同左)」「セレベス(同左)」は帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これ開発並びに民心把握に努む。 現マレーシア、シンガポール、インドネシアという重要な資源地帯を「日本領」にすることを、御前会議まで開いて決定している。一方、ビルマとフィリピンについては領土併合せず独立を容認した。なぜか。ビルマを独立させるのは、インドに対する戦略的工作だ。隣国ビルマを独立させることで、インドの対英独立運動に火が付くことを期待したんだ。フィリピンは戦争前から米国が既に独立を約束していたので、“解放”という大義名分の為にもアメリカが約束したよりも早く独立させるしかなかった。 日本政府は台湾や朝鮮など古くからの植民地を“解放”しようなどとは一度も考えておらず、アジア独立の意思があったとは思えない。対米開戦に踏み切る前に政府が考えていたアジア政策は、占領地の住民を労働力として動員し、占領地で生産された食糧を日本軍が徴発するというもの。大本営はこのような南方軍政が占領地住民に“重圧”を及ぼすことを予想していたので、「(重圧は)これを忍ばしめ」(=耐えさせる)と打ち捨てている。そして「アジア解放」というバラ色の宣伝をやりすぎると現実とのギャップが大きくなるので、あまり宣伝しないよう開戦前から決めていた(『南方占領地行政実施要領』1941.11.20)。最前線の日本兵には心底からアジア独立の高い理想を信じて戦い抜いた者も少なくないが、大本営においてはこれが“聖戦”の実態だった。 ●1943.9.30 絶対国防圏確定…御前会議において、本土防衛のため死守すべき防衛ライン“絶対国防圏”を、千島、小笠原、マリアナ諸島、カロリン諸島、西部ニューギニア以西に確定。 ●1943.11.23 マキン守備隊玉砕…中部太平洋キリバスのギルバート諸島旧マキン環礁(現ブタリタリ環礁、ニューギニアのはるか西)の日本軍守備隊693人が上陸アメリカ軍6400人との4日間の激戦を経て玉砕。最後に突撃した30人は米軍陣地の50m手前まで接近したという。戦死589人。守備隊にいた朝鮮出身の軍属200人も、うち100人が戦死した。 ●1943.11.23 タラワ守備隊玉砕…中部太平洋キリバスのギルバート諸島タラワ環礁にて、島を要塞化した日本軍守備隊約4800名がアメリカ軍3万5千人の大部隊との壮絶な戦いを経て玉砕。戦死4713人。捕虜となって生き残った者は、負傷して意識不明の状態で捕えられた者など160人だけだった。米軍の死傷者も3305人(うち戦死1009人)に達したが、これは島の周囲が珊瑚礁で水深が浅い為、米軍の上陸用舟艇が使用できず、作戦初期に徒歩上陸を試みた米兵約5000名のうち3分の1が死傷したことが大きい。タラワ戦は米軍にとってトラウマとなり語られていく。 【1944年】(昭和19年) ●1944.2.2-5 マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕…2月1日、 中部太平洋マーシャル諸島のクェゼリン島(守備隊6257人)、ルオット島(守備隊約2500人)に米軍が上陸。作戦に参加した米兵は約2万人ずつ計4万人。米軍はマキン&タラワの教訓を生かし、事前攻撃を徹底した上で強化された水陸両用戦車を投入、また陣地破壊に徹甲弾を使用した。翌2日、ルオット守備隊玉砕。ルオットでは事前攻撃で指揮官の山田少将が戦死し、47ミリ速射砲一門しか残っておらず、残存守備隊は海岸線で銃剣突撃を行って玉砕した。5日、クェゼリン島守備隊玉砕。司令官の秋山少将は「各隊は一兵となるまで陣地を固守し、増援部隊の来着まで本島を死守すべし」と命じ初日に戦死。残った部隊は5日午前10時に玉砕突撃した。米兵の戦死者は両島で計372人。ニミッツ大将はマキン&タラワと比べて、はるかに少ない損害で勝てたことを大喜びしたという。 米軍が日本の領土を占領したのは、委任統治領とはいえこれが初めて。※日本は第一次世界大戦の結果、クェゼリン環礁を含むマーシャル諸島の委任統治を行っていた。 ●1944.2.17-18 トラック諸島大空襲…現ミクロネシア連邦チューク諸島には日本海軍の一大拠点があった。米軍は空母9隻、戦艦7隻を含む大艦隊で攻略し、艦載機589機による大空襲を敢行。日本軍は43隻もの艦船を撃沈されたほか、飛行場で地上撃破された約200機を含む約270機を失った。このうち100機は当時の新鋭機・零戦52型。日本兵7000人以上が戦死。一方、米側の死者は40人だった。この敗戦の責任をとる形で、21日に陸軍参謀総長・杉山元と海軍軍令部総長・永野修身が共に更迭された(後任として、陸軍大臣を兼務していた東條英機、海軍大臣嶋田繁太郎が兼務)。制海権、制空権を握った米軍はマリアナ・パラオ諸島へ侵攻を開始。 ●1944.2.22-23 マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕…日本軍守備隊総兵力3560人はブラウン環礁に陣地の構築計画を立てていたが、その前に総兵力約1万人の米兵がやってきた。米軍は猛烈な艦砲射撃と空襲の後に上陸。まともな陣地のない日本軍は事前攻撃で多くが死傷しており、米軍上陸の1時間後にエンチャビ島守備隊の残存兵はバンザイ突撃(「天皇陛下万歳」と叫びながら行う最期の突撃)を行い玉砕した。エニウェトク島でもバンザイ突撃。米側は戦死195人。米軍将校は「もう2ヶ月攻略が遅ければ米軍上陸は容易ではなかった」と報告している。 ★1944.4.1 海軍乙事件…南太平洋パラオからフィリピン・ダバオに飛行していた参謀長福留繁中将は、天候が悪く搭乗機が不時着水、沈没した(別機に搭乗していた連合艦隊司令長官・古賀峯一大将は機体ごと行方不明)。8人が死に、約8時間後に生存者9人がフィリピン・セブ島の抗日ゲリラに捕らえられた。その際、福留参謀長は「Z作戦計画書」(太平洋海域での作戦計画書)、「艦隊司令部用信号書」、「暗号書」を防水ケースに入れて携行していたが、ケースごとゲリラに奪われてしまう(ゲリラのカヌーが接近する前に沈めたが拾われた)。その後、セブ島守備隊のゲリラ掃討作戦の一時中止と引き換えに9人は釈放された。 福留は東京で査問され「ゲリラは書類ケースにほとんど関心を抱いてなかった」と証言。海軍首脳部は“ゲリラは正規軍ではないから福留らは捕虜ではない”“原住民は機密書類に関心がない”ことを理由に不問とした。事件の翌々月、福留中将は第二航空艦隊司令長官に栄転した。これは捕虜になったという噂を一掃する為の中央の配慮だった。海軍上層部は、Z作戦計画も、そして暗号も何も変更しなかった。“実害がなかった”以上、変更は矛盾するからだ。 だがしかし!!!現実はこれ以上ないというほど最悪の事態だった。書類とケースはすべてゲリラから米潜水艦に渡され、豪州ブリスベンの陸軍情報部で一字一句に至るまで翻訳された(5月23日全訳完了)。1ヶ月後の太平洋戦争の命運を決したマリアナ沖海戦(あ号作戦)、10月のレイテ海戦に際して、アメリカ側は日本軍の戦略はもちろんのこと、参加機種と機数、参加艦種から燃料量、火力、弱点、各指揮官名まで分かっていた。レイテ海戦にて初期の神風特攻が戦果をあげたのは、Z計画書に記載がなかったからだ。 ●1944.5.18 アドミラルティ諸島守備隊壊滅…アドミラルティ諸島(ニューギニア本島の北)マヌス島、ロスネグロス島の日本軍守備隊3800人が、米豪連合軍45000人と2ヶ月間の戦いを経て壊滅。連合軍がロスネグロス島に上陸したのは2月29日。日本の第8方面軍司令部は玉砕攻撃を行わせようとしたが、司令官の江崎義雄大佐は命令を無視して持久戦の方針を採った。そして食糧の備蓄があるマヌス島へ転戦。激しく抵抗していたが5月1日の無線連絡を最後に部隊は消息を絶つ。日本軍の戦死者は3280人、生存者77人。米側の戦傷者1515人(うち戦死者326人)。守備隊は小火器でよく戦った。江崎大佐の指示により山中に潜伏した日本兵の中には、終戦を知らないまま隠れていた人もいて、1949年に2人が原住民に発見され帰国した。 ●1944.5.26 ワクデ島守備隊玉砕…ニューギニア西部の小島ワクデ島には日本軍の飛行場があり、島の対岸サルミとあわせて守備隊は1万4千人にのぼった。米軍は5月18日にワクデ島に上陸。同島守備隊800人は8日間の激戦を経て26日に玉砕。戦死759人。サルミの日本軍は終戦まで持ちこたえたが、1万4千人のうち生還者は2千人だけであった。 ※ニューギニアに上陸した20万人の日本軍将兵のうち、生還者は2万人に過ぎなかった。 ●1944.7 ティンブンケ事件…東部ニューギニア・ティンブンケの日本軍守備隊(第41師団歩兵239連隊)が米豪連合軍に爆撃されたことから、守備隊の浜政一大尉はティンブンケの村民が敵と通じていると疑った。そして、同村と対立関係にあるコログ村民を引き連れて報復攻撃を行った。日本軍はティンブンケ村の男性99人、女性1人を村の中心に集め、軍刀、銃剣、機関銃で虐殺した。事件の50年後、1994年にティンブンケの首長ラクが来日し、日本軍が行った虐殺、レイプ、人肉食などの戦争犯罪に対する補償を訴えたが、日本政府は「サンフランシスコ平和条約で解決済み」として門前払いにした。 ●1944.6.19-20 マリアナ沖海戦…サイパン島やグアム島を含む北マリアナ諸島。日本軍は真珠湾攻撃の直後からこの一帯を軍事支配していた。米軍はマリアナ諸島に進軍すべく、空母15隻を含む109隻の大機動部隊で来襲した。迎え撃つ日本機動部隊は空母9隻を含む47隻。両軍の空母同士の航空決戦となった。航空機の数は日本が428機、米側が901機。日本側の作戦名称はあ号作戦(あめりかの“あ”よりきている)、米側の呼称はフィリピン海海戦。 日本側はこの海戦で「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」の空母3隻を失ったほか、参加航空兵力の3/4以上となる378機もの航空機を損失(米側は航空機123機を失ったものの、艦船の沈没はゼロ)。完敗の理由は大きく3つ。 (1)これまでの戦いで熟練パイロットが激減し、編隊を率いるベテラン指揮官がいなかった。第653海軍航空隊として参戦した進藤三郎少佐いわく「搭乗員の練度は何とか着艦ができる程度、洋上航法や空戦はやっとこさというくらい」。日本の航空部隊がロクに回避運動もせず簡単に撃ち落とされるため、米兵は「マリアナの七面鳥撃ち」(反撃の恐れのない一方的な射撃=お祭りの射的)と呼んだ。 (2)索敵の痛恨のミス。日本軍偵察機の一部が、緯度変更に伴う磁針の訂正をし忘れ、敵艦船の位置を誤って報告。その結果、敵のいない方向へ100機近い航空機を空振り出撃させ、戦局がさらに後手後手に回ってしまう。 (3)2ヶ月前の海軍乙事件(福留参謀長が捕虜になって作戦計画書や暗号表を奪われる)で作戦が筒抜けだった。これが最も深刻。米軍は“あ号作戦”の戦略、参加艦船や艦載機、燃料量、各部隊の指揮官名まですべて把握していた。米軍は最も効果的な布陣を速やかに展開し、さらに米軍機の主力「F6F ヘルキャット」は性能の上で零戦を凌駕していた。 日本海軍はこの惨敗で空母部隊が壊滅し、二度と機動部隊を核にした海戦を行えなくなった。 ●1944.7.2 ビアク島守備隊壊滅…ニューギニア西部のビアク島には良質な飛行場があり守備隊1万2400人が守っていた。5月27日に米軍3万人が上陸。 猛攻を受け6月21日に指揮官・葛目大佐は玉砕を決意するが、千田少将らの説得で持久戦に変更し高地へ移動。7月2日、1ヶ月を超える戦闘に疲れた葛目大佐は自決。残存将兵1600人はジャングルに分散し援軍を待ちつつ米軍の物資を盗むなど自活を図ったが、次々と飢餓とマラリアに倒れていった。米軍は8月20日、ビアク作戦の終結を宣言。3万の大部隊を1ヶ月以上も防ぎ続けたビアク支隊には、昭和天皇から嘉賞(称賛)があり、南方軍総司令官・寺内寿一大将も感状を授与した。日本軍の戦死者は1万人以上。生還者は520人に過ぎない。だが米軍の被害も、戦死者471名、戦傷者2433人、戦場神経症患者が423人にのぼっている。米軍は元々マリアナ沖海戦に先立って飛行場確保を目的にビアク島へ上陸した(海戦の約3週間前)。しかし結果的には飛行場を確保せずとも海戦に勝利しており、米軍としては約3千人の死傷者を出してまで戦う意味があったのか、虚しさの残る上陸戦となった。 ★1944.7.7 サイパン守備隊玉砕…サイパン守備隊約3万2千人は米軍約6万7千人を相手に激戦を繰り広げた。米軍がサイパンを攻略したのは、新型爆撃機B-29の攻撃圏内に東京など日本本土が入るからだ。日本としてもそれを警戒し、絶対国防圏を定めてマリアナ諸島に3万人以上の守備隊を置いた。兵員も増援で送られたが、制海権を失っていることから、輸送船団は米潜水艦の餌食となり約1万人もの兵がサイパンに上陸することなく無念に海へ沈んだ。守備隊を指揮したのは、陸軍が第43師団師団長・斎藤義次中将、海軍が中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将(真珠湾攻撃の指揮官)で、ガダルカナル以来の陸海共同作戦となった。 6月11日、突如現れた米軍機1100機の大空襲があり、13日には戦艦8隻を含む米艦隊が18万発も艦砲射撃を行い日本の陣地は半壊し、基地の航空機150機を全て失った。この奇襲に驚いた日本軍は6月15日に、救援の為に“あ号作戦”を発令し、空母9隻を中心とした機動部隊をマリアナ諸島に派遣した。 同日、米軍が上陸開始。初日に海兵隊2万人以上が島の西岸に上陸した。翌16日、飛行場を巡る攻防戦となり日本軍は約8000名が抵抗したが、米軍は1時間あたり野戦砲800発、機銃1万発という圧倒的火力をふるい飛行場の日本軍は全滅した。19日、“あ号作戦”で出撃した日本機動部隊が近海に到着するも、待ち伏せていた米機動部隊とマリアナ沖海戦が勃発し、2日間で空母3隻と艦載機400機を失う大敗を喫した。サイパン守備隊は救援の望みを絶たれ、斎藤中将は防御に徹するため中部山岳地帯・タポチョ山に後退し洞窟を使って抵抗した(大本営の晴気誠陸軍参謀は、自身が命じた水際作戦で守備隊が早々に壊滅した責任を痛感し、終戦後の8月17日に自決している)。 6月24日、大本営はサイパン島の放棄を決定。この時点で守備隊は6000人まで減っていたが、なおも激しい抗戦を続け、いらだった米軍上層部は第27師団長ラルフ・スミス少将を更迭した。25日、日本軍が拠点にしたタポチョ山にも米軍が接近。7月7日、日本軍は約20日間戦ったがついに行き場を失い、斎藤中将は生存兵約3000名に最後の総攻撃を命じ、陸海軍が一斉にバンザイ突撃(玉砕突撃)を行った。司令部では斎藤陸軍中将が中央に、南雲海軍中将が右、井桁敬治陸軍少将が左に正座。日本の方角を向き、割腹と同時に各々の副官が後頭部を撃った。南雲中将の最期の言葉は副官の「よろしうございますか」という問いに「どうぞ」。斎藤中将は玉砕前の最後の通信で「我々陸軍将兵一同は敵アメリカ軍を恨まずして日本海軍を永遠に恨みつつ玉砕する」と打電したという。7月9日、米軍はサイパン島占領を宣言した。日本軍の戦死者は2万5千人、自決者は5千人、捕虜は921人。米軍も1万6600人の戦傷者(うち戦死者3500人)を出した。 守備隊の中には日本敗戦後もサイパンの山岳地帯(タポチョ山)で終戦を知らずに戦い続けている部隊もあった。歩兵第18連隊衛生隊の大場栄陸軍大尉以下47人の部隊は、神出鬼没のゲリラ作戦で米軍を翻弄し、大場大尉は米兵から“フォックス”と呼ばれていた。12月1日、天羽少将から投降命令を受けた47人は軍歌を歌いながら下山し投降した。 サイパン島の戦闘開始段階での在留邦人は約2万人。一方、戦闘終了後に米軍が保護した民間人は約1万人しかおらず、残りの1万人が戦闘に巻き込まれたり自ら命を断つなどして死亡したとみられる。当時の日本人は「残虐非道の鬼畜米英」「男子は虐殺され女子は暴行される」と信じ込まされており、岬に追い詰められた民間人が通称“バンザイクリフ”や“スーサイドクリフ”から海に飛び込み自決した。実際に米兵の中には乱暴な者もいたが、住民の半数となる1万人もの民間人が保護されたことを軍は一般国民に伝えなかった。サイパン陥落後、同島はグアム島やテニアン島攻略、フィリピン奪還の拠点となり、日本本土に向かう長距離爆撃機の基地となった。サイパンを失ったことで、もはや日本は戦局の逆転や有利な条件で講和を結ぶ可能性が完全についえた。 ●1944.7.22 東條内閣総辞職…マリアナ沖海戦、サイパン陥落など戦局悪化の責任を取り東條首相が辞任、小磯内閣が誕生した。近衛元首相は戦争の早期終結を意図し、元首相の和平派・米内光政海軍大将を入閣させた。 ★1944.8.2 テニアン守備隊玉砕…サイパン島のすぐ南西に浮かぶテニアン島は、1920年から日本の委任統治領(第一次世界大戦時はドイツ領)であり、日本人約1万5千人が移民していた。同島には南洋諸島で最大の滑走路(1450m)を備えたハゴイ飛行場があり、テニアン守備隊約8500人はこの飛行場の死守を厳命されていた。7月24日に米軍約5万4千人が上陸。翌日、日本軍は移民者の3割にあたる16歳〜45歳の一般男子約3500名を集めて民間義勇隊を編制し、戦闘に協力させた。テニアンはサイパンのような山岳地帯がなく、平坦な島であったため米軍の凄まじい火力にさらされた。やがて島内唯一の水源地を奪われ、水がない以上持久戦は困難となり、8月2日、約10日間の抗戦後に指揮官の緒方連隊長は軍旗を奉焼(敵に渡さないため)、生存兵と民間義勇隊をあわせた約1000人が玉砕突撃を敢行した。日本軍の戦死者は8010人。米軍も戦傷者1899人(うち戦死328人)を出しているが、これは上陸時の陽動作戦で戦艦コロラドと駆逐艦が日本の集中砲火を浴び、艦長が死亡するなど多数の犠牲が出た為。 テニアン守備隊はサイパンとは異なり、民間人に対して角田中将が「軍と共に玉砕する事はないのですよ」と自決を戒めたことから、民間人の集団自決はあまり起きなかったと言われている。ただし、元住民の中には「(戦闘直前に)海軍中佐が住民を学校に集め、『敵が上陸したら、皆さん死んでください、米軍に捕まったら残虐な行為で、性器をもがれるかもしれない』と言った」「戦闘で死亡した居留民1500人の大部分が集団自決」と証言している人もいる。 米軍に奪われたハゴイ飛行場からは、1944年11月以降、連日のように日本へ向けてB-29が離陸。広島と長崎へ原爆を投下したB-29も、このテニアンから発進した。 ★1944.8.11 グアム守備隊玉砕…グアムはマリアナ諸島で最大の島。真珠湾攻撃の2日後に島を占領した日本軍は、島に飛行場があり、位置的に必ず米軍が奪還に来ると考え、2年がかりで強固な防衛陣地を構築した。1944年7月21日に米軍5万5千人がグアムに上陸。日本軍守備隊1万8500人でこれを迎え撃った。守備隊は上陸初日に米軍をわずか180mしか進軍させないほど激しく抗戦。しかし、多勢に無勢、戦力の差は埋めがたく、7月28日に指揮官の高品彪中将が戦死。同島に滞在していた第31軍司令官・小畑英良中将が後を継いで戦ったが、米軍が島全体を支配するに至り、8月11日に小畑中将は自決、日本軍の組織的な抵抗は終わった。守備隊1万8500人のうち、戦死1万8000人、負傷者485人という凄絶な戦いであり、米軍側も死傷者が1万122人(うち戦死3000人)という大きな犠牲を払った。グアムを奪還した米軍は、同島の飛行場をサイパン、テニアンと共に日本本土への戦略爆撃の拠点とした。 米軍占領後も日本軍残存兵の一部は密林でゲリラ戦を続け、中には終戦を知らずにジャングルに潜伏し続ける兵士もいた。歩兵第38連隊の横井庄一(しょういち)伍長は1944年(当時29歳)にグアムに配属され、戦後も自ら作った地下壕で生活。1972年に食料調達のため川でエビを採っていたところをグアム島住民(漁師)に発見され、終戦から27年を経て57歳で日本へ帰国した。帰国時の羽田空港での第一声は「(自決をせず)恥ずかしいけれど、帰って参りました」。1997年心臓発作で他界。享年82歳。 ※横井庄一記念館…名古屋市中川区冨田町千音寺稲屋4175(自宅) 。開館日は毎週日曜日(10:00-16:30)、無料。 ※太平洋戦争終結後に初の内閣総理大臣となった東久邇宮稔彦王は、グアム陥落で日本の敗北を悟ったという。 ★1944.9 津野田事件(東條暗殺計画)…昭和天皇の弟、三笠宮・崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう=大正天皇の第四皇子)が戦争終結を模索し、陸軍・津野田知重少佐らと共に東條内閣打倒のクーデター計画を立案。津野田の計画が東條英機暗殺、主戦派数百名大量粛清とあまりに先鋭化したため、「米国と戦っている時に2・26の二の舞をやったら国内が目茶苦茶になる、日本はまいってしまう」と懸念した三笠宮が憲兵に通報し未遂に終わった。津野田少佐は軍法会議に送られたが、事件に皇族が関係していることが明確なので、懲役2年執行猶予2年に収まった。三笠宮は自身も責任を負うことを決心したが、皇族の処罰は難しいため、苦肉の策として他の職に左遷してもらったという。 ※三笠宮・崇仁親王は「若杉参謀大尉」の仮名で1943年1月〜1944年1月まで南京の支那派遣軍総司令部(陸軍)に勤務していた。当時の回想「わたしの信念が根底から揺り動かされたのは、実にこの1年間であった。いわば聖戦というものの実体に驚きはてたのである。罪もない中国の人民に対して犯したいまわしい暴虐の数々は、いまさらここにあげるまでもない」「聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけ離れたものであったからこそ、そして、内容が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである」「こうして聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」(『わが思い出の記』)。 ●1944.10.10 沖縄大空襲(十・十空襲)…10日後にフィリピン進攻を計画していた米軍は、これに先立ち後方の日本軍拠点を空母艦載機で空爆した。日本軍は海軍のレーダーが敵の接近を探知していたが、レーダーの故障と思われて注意を払われなかった。敵方面に向かった哨戒機が撃墜されても、接近中の台風のため未帰還になったと判断された。さらにタイミングの悪いことに、当日は沖縄守備隊の首脳部が図上演習を予定しており、前日から司令官たちが那覇の料亭で宴会を開き、各部隊は指揮官不在だった。日本軍の航空機は空中退避が間に合わず、損失した47機の多くが地上で破壊された。艦船は26隻沈没。民間にも空襲の被害が生じ、旧・那覇市は市街地の9割が焼失、住民330人が亡くなった。この空襲の米軍攻撃機は延べ1400機近くに達した。
●1944.10.19 アンガウル守備隊玉砕…フィリピンの東方に浮かぶパラオ諸島のアンガウル島には守備隊1400人が駐留していた。米軍2万1千人が一週間の艦砲射撃の後9月17日に上陸。日本軍は地雷や水際作戦で抗戦していたが、30日に全島を制圧された。その後もなお抵抗を続けて10月19日に玉砕突撃。15倍の敵と1ヶ月間も戦った部隊の壮絶な最期だった。日本軍の戦死者は1400人中1338人、捕虜59人。米軍は死傷者2554人(うち戦死260人)。米軍がアンガウル島を攻略した目的は爆撃機用の飛行場建設だったが、結局飛行場は築かれず島は焦土と化した。 ●1944.10.20 マッカーサー再上陸(フィリピン・レイテ島)…1942年3月に豪州へ脱出したマッカーサー将軍はフィリピン奪還作戦を開始。650隻もの強力な艦隊と航空機約4300機、約20万2500人の米兵を率いてレイテ島に上陸した。2年半ぶりのフィリピン帰還だった。日本側の司令官は山下奉文大将。人命・食糧・物資の多くがルソン島からの海上輸送時の攻撃で失われ、ガタルカナル戦のように守備隊は飢餓がに苦しんだ。フィリピン戦における日本軍戦死者(戦病死者を含む)は全戦線の中で最も多く、大半は戦闘ではなくフィリピン防衛戦での餓死。飢餓によって軍の統制は崩壊し、一部の部隊では「敵兵であれば食べてよいが自軍、住民は禁止」「一人では行動するな(空腹の味方に殺される)」という凄絶な命令まで出された。また、日本軍は現地住民の抗日ゲリラ「ユサッフェ」27万人とも戦わねばならなかった(彼らには米国が最新の武器を与えていた)。フィリピン守備隊40万人のうち、戦死・戦病死は33万6352人、戦傷は1万2573人という膨大な数にのぼる。米軍は上陸部隊30万人のうち、死傷者6万2514人(うち戦死1万3973人)。米軍としても戦死者が1万人を超える厳しい戦場となった。
●1944.11.24 ペリリュー守備隊玉砕…フィリピン東方のパラオ諸島は第一次世界大戦後に日本の委任統治領となり、ペリリュー島には2本の1200m滑走路を持つ飛行場があった。日本にとっては本土の防波堤となる重要拠点(絶対国防圏内)であり、米軍にとってはフィリピン進攻に利用できる島として、戦史に残る苛烈な戦いが繰り広げられた。なんとしてもペリリューを死守したかった日本軍は、大陸から関東軍最強と呼ばれた第14師団(宇都宮)を派遣し、1万1千人の守備隊が守りについた。日本軍はコンクリート並に硬い珊瑚礁の地質を利用し、500以上もある洞窟を要塞化。強固な陣地を築いて米軍を待ち構えた。9月15日、米軍は「パラオ攻略作戦」を開始し2万8484人がペリリュー島に上陸した。ペリリュー島は長さ10kmの小島であり、米軍には当初、「2、3日で陥落可能」との楽観ムードがあった。だが、日本軍は屈強に組織的抵抗を行い、上陸米兵は水際で猛攻を受けた。“2、3日で陥落”どころか上陸後6日目(9/21)には全連隊が壊滅状態に陥るという凄惨な事態となった。10月30日、米軍第1海兵師団2万4234名が全滅判定(損失60%超)を受け、陸軍第81師団1万9741名と交代した。守備隊はここまでよく抗戦してきたが、1ヶ月半が経過した頃から米軍の圧倒的な物量攻撃に急速に押され始める。11月24日、司令部の弾薬が底を突き玉砕が決定され、指揮官の中川州男大佐は拳銃で自決。参謀の村井少将、大隊長の飯田中佐が割腹自決し、玉砕打電「サクラサクラ」を本土に送った後に生存兵55人が「万歳突撃」を敢行、玉砕した。11月27日、米軍はペリリュー島占領を宣言。上陸開始から2ヵ月半が経ち、既にフィリピンへの上陸は終わっていた。 日本軍の戦死は1万1000人中、1万695人。捕虜202人。米軍の戦傷者は9804人(うち戦死1794人)。過酷な戦闘で米兵は数千人が精神に異常をきたした。住民の被害は軍が戦闘前に強制退避させたために0人であったという。昭和天皇はペリリュー守備隊を励ます為に嘉賞(称賛)11度、感状3度を与えた。終戦を知らずに34人の日本兵が洞窟の中で生き延び、1947年4月に投降した。 ペリリューの美談として舩坂弘元軍曹が以下のエピソードを紹介している「ある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時“一緒に戦わせて欲しい”と日本兵隊長に進言したが“帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!”と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中島を離れる船に乗り込んだ。が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという」。 ※大本営では朝夕「ペリリューはいまだ落ちないぞ」と慰めあい、昭和天皇も毎朝「ペリリューはどうなった」と質問していたという。 ※絶対国防圏MAPリンク ●1944.11.24 サイパン発の爆撃機B-29が東京を初空襲。以降、連日のように列島に空襲警報が鳴り響く。当初は無差別爆撃ではなく軍事目標への精密爆撃だった(詳細後述)。 【1945年】(昭和20年) ●1945.2-3 父島事件…小笠原諸島の父島で起きた指揮官クラスの人肉食事件。(以下、残酷描写あり)第109師団長・立花芳夫中将は捕虜の米軍通信兵を銃剣で刺殺し、翌日の夜の宴会で大隊付軍医・寺木忠少尉が遺体から取り出した肝臓と太ももの肉を食した。同月、パラシュートで降下して捕虜となったダイ通信兵が斬首され吉井静雄海軍大佐が肝臓を食す。さらに同月、捕虜の海兵隊飛行士ヴォーン少尉が斬首され、吉井大佐が肝臓を再び食した。翌月、師団で英語教師を務めていた捕虜のホール海軍少尉が斬首され、第308大隊の宴会で肝臓と太ももを的場末男陸軍少佐と森国造海軍中将らが食す。英語教師まで殺害したことや、立花師団長が「これはうまい、お代わりだ」と言うなど、異常な空気を憂慮した同師団の堀江参謀は、たまりかねて大本営へ「事情あり適任の師団長を派遣されたし」と打電した。戦後、戦犯法廷で立花中将、的場少佐、吉井大佐ら5人に絞首刑が言い渡された。 ●1945.2.4-11 ヤルタ会談…米大統領ルーズベルト、英首相チャーチル、ソ連首相スターリンがクリミア半島のヤルタ近郊に集まり、戦後処理を話し合った連合国首脳会談。主な決定項目は(1)ドイツ降伏後、90日以内にソ連が対日宣戦布告をする(2)ソ連はサハリン(樺太)南部、千島列島、中国大陸での権益を獲得する(3)1945年4月にサンフランシスコで国際連合設立会議を開催(4)ドイツは分割され連合国管理委員会が統治、等々。この密約を土台として、7月のポツダム会談で具体的実行が取り決められた。 ●1945.3.10 東京大空襲…東京上空に来襲した米空軍B29爆撃機が、焼夷弾による無差別爆撃を行い約10万人の民間人が殺害された。
●1945.3.18-21 九州沖航空戦…3月18日、沖縄上陸作戦の事前攻撃のため、米空母12隻&約1400機が日本近海に現れ、九州、四国、和歌山の軍施設を空襲した。これに対し、日本軍は神風69機を含む193機で反撃。空母2隻を小破させたが、161機(出撃機の約8割)を失った。他に米軍機を迎撃した零戦47機損害。米軍機の損害は29機撃墜にとどまった。 19日、室戸岬沖から瀬戸内海を空襲していた艦隊に日本軍は付近の全航空兵力で反撃。空母2隻を大破させ1隻を中破させた。特に空母「フランクリン」は戦死者832人という甚大な被害を受けた。“832人”は、この大戦で米軍が受けた一隻あたりの戦死者数で最大のもの。 21日、この間の空襲を終えて沖縄戦に向かう米艦隊に対し、日本軍は初めて人間爆弾“桜花”15機を投入。だが、桜花を搭載した神雷部隊・一式陸攻18機全機が、目標地点到達前に米艦載機に撃墜された(詳細後述)。大本営は「空母5隻、戦艦2隻を含む11隻撃沈」と発表したが、実際には撃沈ゼロであった…。
●1945.4.1 阿波丸事件…連合国側から航行の安全を保障され、捕虜へ救援物資を届けるなど人道活動をしていた阿波丸が、台湾海峡で米潜水艦クイーンフィッシュ(ラフリン艦長)から4発の魚雷攻撃を受け沈没。2045人の乗客・乗員のうち生存者はコックの下田勘太郎だけという惨劇となった。日本政府は当初から強く抗議していたが、米艦長は軍法会議で戒告処分になったのみ。米政府は違法性を認めたが、戦後吉田内閣はマッカーサーの圧力に屈して“阿波丸協定”を結び、損害賠償請求権を放棄した。遺族への補償は日本政府が肩代わりした。 ●1945.4.12 ルーズベルトが急死。トルーマン副大統領が昇格する。トルーマンは初めて原爆開発計画のことを知った。 ●1945.4.15 石垣島事件と巣鴨プリズン…石垣島を空襲した米軍機が高射砲で撃墜され、3人の米兵が捕虜となった。井上乙彦大佐率いる海軍警備隊は、捕虜に対して敵情報の尋問を行った後、同日夜に2人を斬首、1人を銃剣で処刑した。終戦後、捕虜殺しの事実を隠すために遺体を掘り起こして火葬にし、遺骨を海中に投げ入れた。しかし、良心の呵責に耐えかねた1人の元兵士がGHQに匿名で投書を送り、事件が発覚。その結果、処刑を指示した井上大佐ら士官7人が逮捕され、1950年4月7日に巣鴨プリズンで絞首刑となった。この2ヶ月後に朝鮮戦争が勃発し、日本は米軍の後方基地として一心同体になったことから、先の7人が巣鴨プリズンで最後に処刑された戦犯となった。その後、終身刑の受刑者も目立たぬように少しずつ釈放され、1958年には戦犯全員が釈放された。1962年に改名後の巣鴨刑務所も廃止され、1978年に巨大商業施設「サンシャイン60」が跡地に立てられた。 ●1945.5.8 ドイツ降伏…降伏に先立ち4月30日に自殺したヒトラーは、遺書にこう書き残した「敗戦の原因は私にあるのではなく、私の意見を行わなかった将軍達や将兵にある」「戦争で負けるような民族は劣等民族なのだから、絶滅しても構わない」「捕まって恥をさらしたくないから自殺する」。その最後の言葉の中には、これまでドイツのために戦ってくれた兵士への感謝や、破滅的な結果へ導いた国民への詫びの一言すらない。 ●1945.5.17-6.2 九州大学・生体解剖事件…九大医学部石山福二郎教授は、捕虜のアメリカ人飛行士8人を生きたまま4回にわたって解剖した。(以下、残酷描写あり)1回目は2人の兵士の肺を全て摘出し、輸血の代わりに海水を注入し、どれくらい生きられるかを実験。2回目は2人の捕虜の胃と肝臓を全摘。3回目は捕虜一名の頭蓋骨を外して頭部解剖。4回目は3人の捕虜を海水の代用血液、肺解剖、肝臓切除に処した。この事件は戦後にGHQへの匿名投書で発覚した。石山教授は逮捕され獄中で首吊り自殺。 ※大戦後、「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーブ条約」第13条において、捕虜の身体の切断またはあらゆる種類の医学的、科学的実験で、医療上正当と認められないものを禁止した。 ●1945.5.26 皇居“明治宮殿”全焼…5月中旬、軍部は東京が空襲で危険なので、長野県松代に完成した地下陣営に大本営と皇居を移そうとしたが、天皇は「わたくしは市民といっしょに東京で苦痛を分かち合いたい」と断った。そして5月26日、皇居近辺も激しい空襲に晒され、火災が飛び火して敷地中心の貴重な建物“明治宮殿”が全焼する。火災の一報を聞いた天皇は「正殿に火がついたか、正殿に!あの建物には明治陛下が、たいそう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。何とかして消したいものだ」と咳き込んだ。鎮火後は犠牲者の有無を問いかけ、焼け落ちた正殿について諦観したように「これでやっとみんなと、同じになった」と静かに語ったという。 ●1945.6.8 本土決戦決定…御前会議にて、日本はあくまで徹底抗戦し本土決戦を敢行することを決定。 ●1945.6.18 ダウンフォール(滅亡)作戦承認…米軍の日本本土上陸作戦・ダウンフォール作戦をトルーマン大統領が承認。次の2つの作戦で構成されている。もし8月15日に降伏しなかったら以下のようになっていた。 (1)『オリンピック作戦』〜1945年11月1日に予定されていた九州南部上陸作戦。目的は東京陥落のための前進基地、大型飛行場建設(兵員72万人、3000機収容)。作戦に参加する兵力は空母42隻(!)、戦闘機1914機、戦艦24隻、400隻以上の駆逐艦、海兵隊&歩兵約34万人!まず10月に中国・上海に上陸するものと見せかける陽動作戦=パステル作戦を発動し日本軍の兵力をそちらへ分散させる。次に10月末に高知県沖に8万人が陽動上陸。さらには九州上陸5日前に米英連合軍が種子島、屋久島などを損傷艦の退避場にするため占領。これらの事前準備の上で、『オリンピック作戦』を発動し、宮崎、大隅半島、薩摩半島の3方面から上陸する。連合軍は自軍の予測死者数を、タラワ、硫黄島、沖縄戦の結果から25万人と見ていた。 (2)『コロネット作戦』〜1946年3月1日に予定されていた関東上陸作戦。東京を東西から攻撃。具体的には、神奈川の湘南海岸に30万人が上陸し、相模原市・町田市付近より東京都内へ東から進攻。同時に、千葉の九十九里海岸に上陸した24万人が西から攻めあがり、約10日で東京を包囲するというもの。予備兵力と合わせて107万人の兵士と1900機の航空機を投入し、ノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ最後の作戦だった。 一方、日本側は大本営が「一億玉砕」の号令の下、陸海軍500万人と共に男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで根こそぎ徴兵した国民2600万人を本土決戦に投入する計画を立て、1945年4月に東日本を第一総軍(司令部・市谷)、西日本を第二総軍(司令部・広島)に振り分けた。 トルーマン大統領は『オリンピック作戦』と『コロネット作戦』で最大50万人の米兵が戦死すると考え、開発中の原爆の威力に期待した。 ※広島が最初に原爆を投下された最大の理由は、第二総軍の総司令部があったから。総司令部は原爆で壊滅的被害を受け、市内の諸部隊は全滅。爆心地から4km離れていた陸軍の暁部隊(宇品)が救護・救援活動の主力となった。 ●1945.6.23 沖縄守備隊、組織的抗戦を終える。 ●1945.7.21 原爆実験成功…米国がニューメキシコ州で原爆実験に成功。人類はウラン分裂の発見から、わずか7年で核兵器を作ってしまった。 遡ること1938年12月、ドイツのカイゼル・ヴィルヘルム科学研究所でウラニウム(ウラン)の核分裂現象が発見された。翌月、デンマークのニールス・ボーア博士が“原子核を分裂させれば膨大なエネルギーが放出されるはす”と発表。原爆開発の動きが最初に起きたのは、米国ではなくドイツと交戦中の“英国”。1940年3月、英の物理学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、「原爆製造は理論的に可能である」と、その破壊力、放射能汚染、製造過程について初めて具体的に触れた『フリッシュ=パイエルスの覚書』をまとめ、「(ドイツが原爆を保有するなら)最も有効な対応は、同様の爆弾により反撃の威嚇を行うことだろう」と記した。その翌月、英科学者たちは原爆研究を行うMAUD委員会を組織。米国のマンハッタン計画より2年も前のこと。太平洋戦争の1年前であり、当然ながら、対日本の原爆開発ではない。 MAUD委員会は1941年7月の最終報告書で、英政府チャーチルに対して「米国と協力し至急開発すべき」と勧告した。3ヶ月後、英で原爆開発計画「チューブ・アロイズ」が開始され、米政府にも早い段階で原爆の意義が伝えられたが、欧州の戦争と距離を置いていたこともあり、積極的に検討されなかった。チャーチルは北アフリカ戦線でドイツ軍に苦しめられ、しきりにルーズベルトに原爆開発を促し、MAUD委員会のメンバー(マーク・オリファント)が渡米して要人を説得してまわり、1941年10月にルーズベルトは原爆の開発を決断した。この時点でもまだ日米は戦っていない。2ヶ月後に真珠湾攻撃があり、マンハッタン計画がスタートするのはさらに翌年のこと。
※科学者たちは通常爆弾の1000〜1万倍の破壊力と想定し、ドイツ、米国、そして日本でも原爆開発が進められた。1943年、東京の理化学研究所は「原爆の製造は可能」と陸軍に研究報告を提出し、軍は同研究所に開発を委託(東京大空襲で研究は全部灰になった)。 ※1939年の時点で米国では亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードやアインシュタインがルーズベルトに「ナチスより先に核兵器を開発すべし」と信書を送ったものの、前述したようにルーズベルトはすぐに本腰を入れず、米政府がマンハッタン計画で本格的に原爆開発に取り組むまで3年を要している。ドイツ降伏後、5月28日にレオ・シラードは後の国務長官バーンズに原爆投下反対を訴えた。ドイツ降伏前は訴えておらず、シラード博士は1945年になっても日本を目標にしていたのではないことが分かる。ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導し、“原爆の父”と呼ばれるオッペンハイマーでさえ、「使うことの出来ない武器」として開発を指導していた。戦後、オッペンハイマーは反水爆活動に積極的に展開し、また共産党の集会に参加したことが“赤狩り”で糾弾され、1954年に公職追放の憂き目に遭う。
※ニールス・ボーア博士は自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに当初は気づいていなかった。2年後(1943年)、ユダヤ人を母に持つためナチスの迫害を恐れて渡英した際、米英が平和利用ではなく原爆として原子力を研究していることを知る。以降、核兵器の軍拡競争を怖れて原子力国際管理協定の必要性を米英指導者に訴えた。
★1945.8.6 広島へ原爆投下…午前8時15分、B29爆撃機“エノラ・ゲイ”号が広島直上からウラン型原子爆弾を投下。通勤時間と重なり約14万人(1945年末時点)もの死者が出た。日本政府は原爆投下を戦時国際法違反であるとし、8/10にスイス政府を通して「原爆は無差別性・残虐性を有する非人道的兵器であり、それを使用したのは人類文化に対する罪状なり」とする抗議文を米国政府に送った。 政府内では、東郷外相が原爆を戦争終結の転機にしたいと述べ、これに天皇は同意した。昭和天皇「この種の武器が使用された以上、戦争継続はいよいよ不可能になった。有利な条件を得ようとして戦争終結の時期を逸することはよくない」(8/8)。 原爆開発の基礎を担った英の物理学者オットー・フリッシュは、広島に初めて原爆が投下された時の複雑な気持ちを語っている。「(原爆製造に関わった)多くの友人たちが電話に殺到して、祝賀会のためにホテルへテーブルを予約しようとするのを見たときの不快な、実のところ吐き気を催す感覚を今でも覚えている。 もちろん彼らは自分たちの仕事の成功に得意になったのだった。 だが、10万の人々の突然死を祝う姿は、たとえそれが『敵』であったとしても、むしろ残忍であると思えた」。 《トルーマンが日本への原爆使用に踏み切った理由》 1.東京大空襲で市民10万人を殺すなど、繰り返し絨毯爆撃を続けてきたことで、無差別爆撃の残酷さに対して不感症になっていた。トルーマンもヘンリー・スティムソン陸軍長官も、原爆をまるで通常兵器の延長のように捉えていた。 2.日本の共産化を防ぐ為に、ソ連軍が満州や北海道に侵攻してくる前に対日戦を終結したかった。 3.約20億ドルもの税金を投入して開発した新兵器を使わずに戦争を長引かせると、議会や国民から猛烈に非難されると考えた。 4.原爆を使用しない場合、日本本土上陸作戦の際に米兵が最大で50万人戦死すると予想された。 5.ドイツがまだ降伏していない時点で日本を目標にしたのは、原爆完成までにドイツは降伏していると予測したから。 6.攻撃目標がなくなるほど都市爆撃を繰り返しても、日本の軍上層部の暗号解読からは「徹底抗戦、1億玉砕」といった言葉ばかり。 7.原爆のショックで日本軍部の戦意をくじき、日本指導部の中にいる和平派を力づけて早期降伏に追いやるため。 ※軍部にショックを与えるのが目的なら、人口密集地に落とさず海上に投下し、「次は市街地」と警告すべきだと僕は思う。 ※1944年9月18日にルーズベルトとチャーチルが結んだ密約“ハイドパーク協定”にて、原爆の目標がドイツから日本に移された。背景として、前月にグアム島で米兵1万122人が死傷しており、前々月にはサイパン島で米兵1万6600人の死傷者が出ている。「日本への投下は人種差別が背景にある」という意見については、確かにそれもあるだろうけど、最初に連合国から無差別都市爆撃を受けたのは白人国家のドイツであることを忘れてはならない。むしろ日本は軍事施設だけを爆撃されていた…東京大空襲までは。東京大空襲は硫黄島の戦いで米側が苦しんでいる時期と重なる(米兵の死傷者数が日本兵を上回る惨状)。続く沖縄戦では米兵戦死傷者約8万5千人という多大な犠牲を払うことになった(しかも司令官まで戦死)。トルーマンが“沖縄だけで約8万5千人も戦死傷者が…これで本土に上陸したらどうなるんだ”と不安に包まれたことは想像に難くない。ドイツ兵は戦場で負け戦と分かると降伏して捕虜となったが、日本兵は降伏せずに玉砕特攻をした。こうした違いも判断の陰にあっただろう。僕は人として絶対に原爆投下を容認しませんが。 あと、あまりこういうことは書きたくないけど、日本兵も中国の民衆をチャンコロと呼んでめちゃくちゃ差別し、フィリピンでも凄まじい住民虐殺を起こしている。日本が同盟相手のナチスドイツに人種差別を抗議したという話も聞かない。それを棚に上げた意見は説得力に欠ける。
トルーマンが急死したルーズベルトに代わって大統領に就任してから、原爆投下まで3ヶ月半しか経っていない。前述したように、彼は核兵器の本当の恐ろしさを理解しておらず、通常兵器の延長線で捉えていたとも。米陸軍長官ヘンリー・スティムソンは次のようにこう回想している--「私はトルーマンに、広島の破壊を示す写真を示した。大統領は、それを見て、我々が負わなければならない恐るべき責任について、私に吐露した」。
●1945.8.8 ソ連の対日参戦…“ドイツ降伏後3ヶ月以内に対日参戦する”というヤルタ協定に従い、ソビエトが日ソ中立条約を破棄。翌9日、ソ連軍の大部隊が満州国へなだれ込んだ。広島に投下された新型爆弾が原爆と判明し、スターリンに連合国との和平仲介役を期待していた日本は衝撃を受ける。 ※NHK-BSで日ソ交渉史を特集。スターリンが不可侵条約を破って日本に参戦したのは、ソ連が独断で決めたわけではなくアメリカに頼まれたから。ヤルタ会談でルーズベルトの要請を受けたため。 戦後、鳩山一郎総理や重光大使がソ連で交渉し、平和条約締結と歯舞・色丹返還が決定した。ところが冷戦下のアメリカは、日本がソ連と平和条約を結びニ島返還に応ずれば「沖縄返還」はないと圧力。結局、日本政府は米に屈し断念した。 −− ●1945.8.9 長崎へ原爆投下…午前11時2分、プルトニウム型原爆が長崎市の真上で爆発。約7万人もの人々が死んだ。この日、首相、外相、陸海軍の大臣、統帥部長らの最高戦争指導会議では、戦争続行派が「アメリカは原爆を1個しか持っていない」と説いていたが、その最中に長崎の悲劇が伝えられ衝撃が走った。東郷外相が「天皇の地位保全がされるなら降伏しましょう」と訴えると、鈴木首相、米内(よない)光政海相が賛成した。だが、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相、梅津美治郎(うめづ・よしじろう)陸軍参謀総長、豊田副武(とよだ・そえむ)海軍軍令部総長の3人は(1)武装解除は日本が行う(2)戦犯の処罰も日本側で行う(3)本土を占領しない、この3条件にこだわった。阿南陸相は「1億玉砕の覚悟で戦い続けるうちに何らかのチャンスがある」と本土決戦を主張した。約12時間の閣議で結論は出ず。 ●1945.8.10 聖断…「ポツダム宣言を受諾すべき」とする東郷外相&米内海相と、「あくまで徹底抗戦を」と訴える阿南陸相、梅津、豊田ら軍首脳が対立したため、行き詰まった鈴木貫太郎首相は天皇に“鶴の一声”を仰ぐため深夜に御前会議を招集。天皇は東郷外相の降伏案を支持し、理由を説明した。「本土決戦、本土決戦と言うけれど、一番大事な九十九里浜(米軍上陸予想地)の防備も出来ておらず、また決戦師団の武装すら不充分にて、充実は9月中旬以降になるという。飛行機の増産も思うようには行ってない。いつも計画と実行は伴わない。これでどうして戦争に勝つことが出来るか。もちろん、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など、それらの者は忠誠を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲びたてまつり、自分は涙をのんで原案に賛成する」「これ以上戦争を続けてもいたずらに国民を苦しめ、国家を滅亡に導くだけだ」。いわゆる“聖断”が下された。和平派は原爆を降伏理由の中心に置いて武闘派を説得した。それによって、徹底抗戦を叫んでいた軍部は、“精神力”や作戦でアメリカに負けたのではなく、原爆開発の“科学戦”に負けたという論理でメンツが守られ終戦を受け入れた。 ※木戸幸一内大臣(宮中側近)「陛下や私があの原子爆弾に依って得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機を与えられたと言うものであった。心理的衝撃を利用して断行すれば終戦出来るのではないかと考えた。私ども和平派は、あれに終戦運動を援助して貰った格好である」。鈴木首相「(終戦の口実として)非常に好都合なもの」。米内海相「原爆とソ連参戦は、ある意味では天佑だ。国内情勢によって戦争を止めるという言わずに済むからだ」。 ※戦後、昭和天皇と対面したマッカーサーは「なぜ終戦の決定が遅れたのですか」と質問。戦時中、大本営も新聞も“勝った勝った!”と勝利ばかり伝えていたことを念頭に、天皇はこう答えた「それまで一般国民には(戦況が)正確に知らされていなかったので、世論にショックを与えることなしに戦争を終わらせるように持って行くことは難しかった。和平派は広島の爆撃が劇的な情勢を創り出すまでには、優勢にならなかった」(9/27)。 ※政府首脳があの原爆被害を“天佑”という言葉で表現することに怒りを感じるが、同時にこれまでの流れを見ると、「1億玉砕」「1億火の玉」など叫んでいる軍部は、ソ連が参戦しようが日本が焦土になるまでとことん降伏しないのは明らかだった。 ●1945.8.14 御前会議…軍部がポツダム宣言「断固拒否」の姿勢をとり続けるため、14日に改めて御前会議が開かれた。かたくなに反対する阿南陸相、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令部総長の3人に対して天皇は次のように説得した。「陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことは真に堪え難いことで、その心持ちは私にはよく分かる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。このうえ戦争を続けては、結局わが国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは私として実に忍び難い。祖宗(そそう)の霊にお応えできない。(略)日本がまったく無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる」。 またその2日前には、「降伏すると共和制になる可能性がある」と、軍部が国体維持(天皇制)にこだわることに対し、天皇は「たとえ連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではどうしようがない。人民の自由意思によって決めて貰って、少しも差し支えない」と語った。連合国が示した“日本政府の形態は日本国民の自由意思によって決められるべき”という戦後日本のビジョンを天皇は支持していた。 ●1945.8.14-15 宮城(きゅうじょう)事件…国体護持が確約されるまで徹底抗戦すべしと、日本の降伏を阻止するために陸軍省軍務課員の畑中健二少佐や椎崎二郎中佐(共に33歳)ら一部将校が起こしたクーデター。反乱部隊は玉音放送を実施させないために録音盤の奪取を画策。15日深夜2時頃、同志となることを拒否した近衛第一師団長・森赳(たけし)中将を殺害し、森中将をかばおうとした第二総軍参謀・白石通教中佐も斬殺した。そして師団長命令を偽造し、近衛歩兵第二連隊を率いて皇居(宮城)を占拠。宮内省の電話線を切断、皇宮警察官を武装解除させ、深夜に録音盤を探し回った。並行して反乱将校は軍上層部や東部軍に決起の参加を呼びかけたが応じる者はいなかった。15日早朝6時、昭和天皇に事件が知らされると、「私が出て行ってじかに兵を諭(さと)そう。私の心をいってきかせよう。私の切ない気持ちがどうして、あの者たちには、わからないのであろうか」と嘆いた。午前7時に東部軍司令官・田中静壱大将が皇居を奪還。反乱将校はクーデターを断念し、畑中少佐と椎崎中佐は玉音放送の1時間前に皇居の松林にて自決した。また、反乱部隊に理解を示していた師団参謀の古賀秀正少佐(東條の娘婿)も放送開始と同時に自決した。 ※事件後の昭和天皇は反乱を鎮圧した田中大将をねぎらい、「今日の時局は真に重大で、いろいろの事件の起こることはもとより覚悟している。非常に困難のあることはよく知っている。しかし、せねばならぬのである」と、今後予想される混乱に対する覚悟を語った。 ●1945.8.15 終戦…日本は8月14日にポツダム宣言を受諾した。9月2日、ミズーリ号にて降伏文書に調印。日中戦争以来の日本兵の死者は約233万人、民間人の死者は約65万人にのぼった。日本の全人口(当時)の8分の1にあたる900万近い人々が家を失い、建築物の被害は全国都市床面積の約4割、艦船の喪失は8割に達した。 日本人の死者は310万人、アジアの人々の死者は1700万人以上(中国1千万、インドネシア400万、ベトナム200万、フィリピン110万、朝鮮半島20万、ミャンマー15万、シンガポール10万、タイ8万。05年8月7日・東京新聞調べ)。 日本軍の降伏時、南方の各地域にいた兵力は陸軍約61万3千人、海軍11万7千人、計73万人。BC級戦犯5700人が捕虜虐待・住民虐殺の罪で裁かれ、934人が処刑になった。 ※1946.2.23 “マレーの虎”山下奉文大将がフィリピンで絞首刑の40分前に残した遺言より 「私の刑の執行は刻々に迫って参りました。もう40分しかありません。この40分が如何に貴重なものであるか、死刑因以外には恐らくこの気持の解る人はないでしょう」 (日本の皆さんへ)「軍部の圧力によったものとは云え、あらゆる困苦と欠乏に堪えたあの戦争十箇年の体験は必ず諸君に何物かを与えるに違いないと思います。新日本建設には、私達のような過去の遺物に過ぎない職業軍人あるいは阿諛追従(あゆついしょう=媚びへつらうこと)せる無節操なる政治家、侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者等を断じて参加させてはなりません」 --------------------------------------------------------------------------------
〔最後に〕 長大な年表を最後まで読んで下さり本当に有難うございました。インターネットという形ではありますが、これを読んで下さったあなたと、僕は膝をつき合わせて語ったつもりです。 アジア太平洋戦争における日本人の民間人の犠牲者は50万人。その殆どの死者が、1944年7月のサイパン陥落で日本本土が空襲に晒されるようになってから。もしもサイパンを落とされた時点で降伏していたら、民間人50万人が死ぬことはなかった。サイパン陥落で本土空襲は分かっていたし、だからこそ陥落の直後に東條内閣は総辞職した。そこが終戦の貴重なタイミングだった。さらにいえば、その前月のマリアナ沖海戦で空母艦隊が壊滅した時に降伏していれば、サイパン守備隊の命も、戦闘に巻き込まれたり自決をした島民1万人の命も救われていた。軍首脳はマリアナ沖海戦の完敗で、もう逆転はないことを悟っていたはず。日本兵の戦死者210万人も最後の1年半で「9割」が死んでいる。実に9割!マリアナ、サイパンで降伏していればどれほど多くの日本兵が死なずに済んでいたか。 どうしてもサイパン陥落で降伏に踏み切れないなら、せめてポツダム宣言を7月26日に受諾していればと悔やまれる。ポツダム宣言からわずか20日たらずの間に、広島、長崎が焼かれ、ソ連参戦による満州・樺太の悲劇が起きた。ポツダム宣言をすぐに受諾していたら、それらの悲惨はすべて起きなかった。だが、戦犯として処罰されることを恐れた戦争指導者たちは、無条件降伏になるのを避けるため、少しでも交渉が有利になる一撃、最後の大勝利を期待して戦争を続行した。 鈴木貫太郎首相に圧力をかけ、「ポツダム宣言を黙殺」と新聞発表させたのは軍上層部。「自存自衛のため」「日本人が生き残るため」の戦争と言いながら、敗北が決定的となった時に「1億玉砕」「民族滅亡まで戦う」と、日本民族の滅亡を視野に戦い続けようとした指導者たちの無責任さに絶句する。終戦後の「1億総懺悔(ざんげ)」という言葉に表れているように、軍部と国民の連帯責任という徹底した刷り込みの結果、戦場で死んでも空襲で死んでも、同じように戦争で死んだことには変わりないのに、戦死者の遺族には累計50兆円の遺族年金が支払われる一方で、空襲被害者には何も賠償がない理不尽に国民が怒ることもない。戦犯として裁かれながら総理大臣になった人物もいる。「戦争を煽った国民も悪い」という元軍人がいるけど、ウソの大戦果ばかり国民に信じ込ませておいて「煽られた」はないだろう。 あの時代の軍上層部が集まって、当時の出来事を語っている番組を見たりすると、開戦の理由にハル・ノートの“ハ”の字も出て来ないことが多い。対日制裁云々よりも、軍隊内の出世争いやメンツを開戦理由にしていることが大半だ。なのに、保守論客にはハル・ノートの話ばかりする人がいる。 ただ、戦争指導者に反発を感じる一方で、近衛首相も戦争回避に向けて努力していたし、昭和天皇も開戦への流れを止めようとしていたし、真珠湾攻撃の直前ですら、軍上層部には積極的に戦争を行っている気持ちがない人が多かった事実もある。「アメリカと戦ったら負ける」という一言を言い出せない人間の弱さを見て、僕も自分自身が弱い人間あることを分かっているだけに、激しく糾弾することをためらうのも正直な気持ちだ(甘いかも知れないけど…)。 あの戦争を美しいものにしたいという保守派の“思い”は分かる。聖戦で殉じた方が英霊たちは報われる。僕もその気持ちがあるから、年表ではつい、玉砕戦であっても日本兵の奮戦を強調したいが為に、日本兵は「戦死者」の人数を書き、米兵は「戦死傷者」の人数を書いてしまう(その方がたくさん倒したように感じられるから)。 最後に僕はひとつの数字を提示したい。出征した日本兵の戦死者230万人のうち、約140万人が「餓死」しているということを。実に死者の「6割」が戦死ではなく餓死!赤紙1枚で召集され、太平洋の孤島で餓死していった日本兵が100万人以上もいるのに、「大東亜戦争を批判するやつは愛国心がない」「皇軍は正義の軍隊だ」という言葉で、過去の過ちから何も学ぼうとしないのでは、それこそ作戦ミスで死んでいった兵士が浮かばれないと思う。無謀な作戦と分かっていても抗議できかった軍のシステムへの反省が必要。特攻隊の若者が機体トラブルで帰ってくることも許さず、その思想が狂気と見なされない世界はまともじゃない。国策を誤ったと分かった時に、それを修正できる社会に変えていく為にも、戦時中の教訓を生かすべきなんだ。地震大国なのになおも原発推進にこだわる今の官僚機構は完全に硬直化しており、まるで一度決定したことを修正できない旧軍部を見ているようだ。国家の指導者たちは、政策を誤った時に勇気を出して方向転換できる人物であって欲しい。 もう一度念を押しておく。「昔の日本人はよく頑張った、美しかった、それでいいじゃないか」は、過去から何も学ぼうとせず、先人を本当の意味で犬死にさせる態度だ。僕は犬死にさせたくないから、こうして年表を作っている。 僕が作成する近代史年表シリーズは、中国編、韓国・朝鮮編、台湾編、東南アジア編、そしてこのアメリカ編でおしまいです。全体を貫く思いは、保守の人と敵対するのではなく、なぜリベラルの立場なのかを根気よく説明して、こういう考え方もあることを分かってもらうこと。昨今の日本の難局は、右も左も団結して、知恵を出し合って乗り越えて行かなくちゃならない。歴史問題について対立を煽る為にデマを意図的に流す人には、僕も感情的になってしまうことがあるけど、それでも根本にあるものはスクラムを組んで日本をより良い方向に進んで行かせようという気持ちです。子ども達がずっと笑顔でいられる国にしましょう! |
●国際連盟脱退を伝える東京朝日新聞「我が代表堂々退場す」昭和八(1933)年二月二十三日
●多くの日本兵を死に追いやった皇軍将校のその後 菅原道大陸軍中将: 陸軍特攻の中心だった第六航空軍の司令官。10代の少年を特攻隊を次々を送り出し、エンジン不調などで戻ってくると「卑怯者!俺も後で行く!」と殴り倒した。敗戦で部下が自決をすすめたが「死ぬのだけが責任を取る事ではない」と逃げ回り、96歳で天寿を全うした。 富永恭次陸軍中将: フィリピンで陸軍の航空特攻を指揮。マッカーサー軍が迫ってくると、司令部の許可なしに側近と芸者とウィスキー瓶のみを載せて台湾に逃亡。天寿を全うする。 倉澤清忠陸軍少佐: 菅原道大の部下で第六航空軍の参謀。特攻隊を次々と送り出し、機体不良で戻ってきた搭乗員を監禁して毎日毎日「死ねないような意気地なしは特攻隊の面汚しだ。国賊だ!」と罵り殴りまくった。悔しさのあまり自殺したものもいる。戦後は元特攻隊員の復讐を恐れてピストルを持ち歩き、寝る時は枕元に日本刀を置いて寝た。天寿を全うする。 玉井浅一海軍大佐: フィリピンで特攻隊員を次々と送り出す。機体不良で戻ってきた特攻隊員たちが本土へ戻る事になると「待て!お前は特攻隊で死んでもらう事になっている」と輸送機から引きずりおろし、自分が乗り込んで本土へ帰っていった。戦後は僧侶になり、天寿を全うした。 黒島亀人海軍大佐: 残酷な人間魚雷「回天」を立案。「必ず脱出装置を付けます」と嘘をついて認可を得た。戦後は会社社長として何不自由ない暮らしを送る。宇垣纒の戦争体験手記を遺族から借り出し、自身に都合の悪い部分を破棄した。天寿を全うする。 太田正一海軍大尉: 米軍コードネーム"BAKA"こと人間爆弾「桜花」の発案者。「自分が乗るから開発させてくれ」と上層部に懇願して開発させたが、自身は「適性なし」として搭乗しなかった。敗戦直後に逃亡し、名前と戸籍を変えて暮らす。天寿を全うした。 |
《時事コラム・コーナー》
★愛国リベラル近代史年表/日本と中国編
★愛国リベラル近代史年表/日本と韓国・朝鮮編
★愛国リベラル近代史年表/日本と台湾編
★愛国リベラル近代史年表/日本とアメリカ編
★愛国リベラル近代史年表/日本と東南アジア編
★昭和天皇かく語りき
------------------------------
★愛国心について僕が思うこと
★日の丸・君が代強制と内心の自由について
★残業ゼロが常識になる社会は可能!
★アフガン・伊藤和也さんを悼む
★パレスチナ問題&村上春樹スピーチ
★チベット問題について
★普天間基地を早急に撤去すべし
★マジな戦争根絶案