愛国リベラル史観・近代史年表〜日本と韓国・朝鮮編
〜今こそ真の和解を、そしてあなたの義憤は他国にではなく日本社会の改革に!〜
2011.9.10
★この近代史年表シリーズを作った目的
作成理由はとてもシンプル。「もっと仲良くしようぜ!」ということです。 これから未来を築いていく若者には、近隣の国と友好を育んで欲しいので、歴史認識の違いがネックになって憎悪の輪が広がる現状を何とか変えたい。「中韓は反日教育をしているから許せない」と腹立たしく感じている人に、少しでもその怒りを鎮める資料になればと、昔から保守系サイトをいろいろ見て、解釈で衝突している部分が分かっているので、自分なりのコメントを入れた近代史年表を作成しました。教科書に載ってなくても個人的に重要事件と思えるものも積極的に取り入れてます。 中国共産党のチベット弾圧や北朝鮮の核・拉致、韓国政府の過激な愛国心教育、そういったものが批判されるのは当然です。でも、だからといって民衆を政府と同一視してはいけないし、現政府に腹を立てるあまり、過去の日本の行為を正当化するのは正しくない。正しくないどころか、「日本は開き直っている」「日本はまだ軍国主義だ」と、政権維持や民主化運動をかわす為に利用されています。 ネット上では中国人や韓国人を露骨な差別用語で罵っている人が少なくないです。僕のサイトのモットーは『人間は国籍・文化が違っても、相違点より共通点がはるかに多い』『愛国心とは他国を憎むことではなく、自国の文化を愛すること』。だから、中韓政府や金正日個人を批判するのではなく、「○○人はこうだ」と民族をひとくくりにして叩いている一部の動きを深く憂慮しています。 今の右派保守の若者たちは、日本という国を愛しており、日本への不当な批判を許せないという純粋な義憤(ぎふん)から、反韓、反中というスタンスに立っていると僕は思っています。だから、そのわだかまりの原因である歴史認識問題について、「相手(中韓)がそう主張したくなる背景」を説明し、少しでも「まぁ、相手の言わんとしていることも分かる」と反感をやわらげたい。保守青年は人一倍、強い正義感を持っているので、民族の誇りを奪うような外交政策の実態を知れば、“俺が相手の立場だったら同じ行動をとるだろう”と、かえって政治・歴史に興味のない若者より、共感を覚えるかも知れない。 今の日本社会には早急に解決せねばならない問題が山積しており、様々な矛盾を解決するために若者の知恵とパワーが必要です。毎年3万人も自殺者が出ている異常な社会構造、労働者の3分の1以上が非正規雇用でボーナスも退職金も有休もなく、正社員は先進国の常識ではあり得ないサービス残業をしていて、労働者の使い捨てや下請けいじめがまかり通っています。政治家と企業のなれ合い、天下りシステム、麻薬を流通させている暴力団、無責任な原発村、こうした日々の生活により直接的にかかわる問題に、若者が中韓批判にぶつけているエネルギーが向けば、日本はさらに素晴らしい国になります。龍馬が死んだのは31歳、高杉晋作は27歳。若くたっていろんなことが成し遂げられる! 世の権力者が大昔から使ってきた古典的手法が、“国内問題から目をそらせるため外敵を作って叩かせガス抜き”させること。若者の純粋な正義感を利用して、より深刻な問題を隠そうとする大人たちは卑怯千万です。ズルすぎます。 僕の立場は、旧来の左翼、右翼の枠組みから外れているように思い、タイトルに“愛国リベラル”と入れました。なぜ左翼・右翼に当てはまらないかといえば-- ●僕の右派属性 ・共産主義者ではない。っていうか、20世紀の共産国は自国民を殺しすぎ。 ・歴代天皇124代の墓を“すべて”墓参し(室町・北朝の天皇まで墓参)、建国記念日に奈良・橿原神宮(初代神武天皇の皇居跡)に行き、皇居で催された今上天皇御即位二十年記念特別展に大阪から足を運ぶなど、行動だけ見れば真性右翼。でも人間は生まれながらに平等で、血に優劣はないと思っているので、作られた身分制度としての皇族崇拝には反対。つまり、伝統文化を受け継ぎ、守り続けてきた一族として敬愛している。 ・鹿児島・知覧(神風特攻隊基地)や靖国神社・遊就館で、ゼロ戦や人間魚雷「回天」で散った若者の遺書に涙し、ニューギニアやトラック諸島など南方戦線を訪れ戦跡(日本兵慰霊碑)で合掌し、沖縄でも海軍司令部壕や守備隊自決の地を訪れ、ロシアではシベリア抑留者墓地に墓参。 ・頭山満や北一輝、二・二六事件の青年将校にも墓参(三島由紀夫には命日に)。 ・田母神氏らが東京で主催した「尖閣諸島守れ&ノーベル平和賞・劉暁波さん釈放要求デモ」に参加。田母神氏の歴史観は僕と大きく異なるけれど、主張に同意できる時は協調。 ・中国のチベット弾圧に反対するためダライ・ラマ法王日本代表部でいろいろ勉強。 ・能や歌舞伎、文楽といった日本の伝統芸能、そして浮世絵や仏像彫刻など日本美術をこよなく愛し、様々な日本文学を愛読し、邦画では黒澤全作品を鑑賞するなど、文化・芸術面も含めて日本への愛は筋金入りと自負。 ●僕の左派属性 ・日本にも事情があったにせよ、中国やアジア諸国を侵略したことは正当化できない。 ・日韓併合は反対派を約1万8千人も殺害して締結させており、「合法的」の一言で開き直ることはできない。 ・「日本が植民地にしたから発展した」論はあまりにも傲慢な言葉。今、中国政府が全く同じ事をチベットに言ってる「チベット人は遅れた文化なので、漢民族が鉄道を通してインフラを整えてあげている」。僕は“民族の誇り>インフラ整備”と考えている。 ・小林多喜二、幸徳秋水、鶴彬、石橋湛山、尾崎秀実、柳宗悦に墓参。勇気を出して戦争反対を訴え続けた人を心からリスペクト。 --つまり、右派であろうが左派であろうが、日本のことを思って行動している、その心意気に敬意を持っているのです。 既存の平和団体は、米国の核を批判しても中国の核は非難しなかったり、チベット問題に沈黙したりと、若い保守層からあまり信頼されていません。僕のひとつ上の全共闘世代は、不毛な内部対立に明け暮れ自滅してしまった。今こそ40代が、左派、右派、双方の歴史観を知った上で、自分なりの近代史年表を書き上げるべきだと、そう思い至ってキーボードを叩いた次第です。僕も人間なので時々感情的な文体になるけど、相手を論破するとか、やり込めるとか、そんな姿勢ではこの年表を作っていないことを強調しておきます。 人の感情は繊細だから、一度嫌いになったものをすぐに好きになることは出来ないと思うし、自分の国の悪口を言われたら、それが正論であっても面白くないのは当たり前です。だから、嫌韓、嫌中の人に、すぐにその気持ちを捨てて欲しいとは言いません。でも、年表を偏見抜きに見て頂けたら、身内を日本軍に殺された人がまだ存命で、過去にあれだけ日本から痛めつけられれば、反日感情が根強く残ってしまうのも分かってもらえるのではと思います。いわゆる“特定アジア”(中韓北)の反日感情は、保守論客が非難するほど決して理不尽なものではありません。調べれば調べるほど、やっぱりこちらは相当酷いことをしています。 過去の日本人を貶(おとし)めたいわけじゃないし、必要以上に自虐的になっているわけでもないです。ネット世論が「反日教育は許せない!」ではなく、「反日感情が残るのも分かるけど日本はもう昔の日本じゃない、今の日本をちゃんと見て欲しい」というスタンスになり、良い流れが出来ていくことを切望しています。 ネットには右派保守も左派リベラルも、自分に都合の良いように歴史を解釈し、一部分だけ数字(データ)を引っ張り出して自論に持って行こうとする人が多い。中にはあからさまにデマを広める人もいて、歴史認識をめぐる現状は混沌としています。僕は意識して中立的視点に立っているつもりだけど、それでも自分が信じたい情報にだけ飛びついているかも知れない。だから、当年表の事実認識に重大な誤りがあれば、遠慮なくご指摘下さい。間違いが分かった時点で訂正していきます。 この近代史年表シリーズは「韓国・朝鮮編」「中国編」「台湾編」「アメリカ編」「東南アジア編」「昭和天皇かく語りき」の6つで構成されています(リンクは頁末)。 ★参考資料(視点が偏らないよう、保守、リベラル、両方に目を通してます) 『世界戦争犯罪辞典』(秦郁彦ほか/文藝春秋)、『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝ほか/産経新聞社・扶桑社)、『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』(越田稜/梨の木舎)、『戦争論』(小林よしのり/幻冬舎)、『新しい歴史教科書』(藤岡信勝/扶桑社)、『戦争案内』(高岩仁/映像文化協会)、『歴史修正主義の克服』(山田朗/高文研)、『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『日本はなぜ戦争へと向かったのか』(NHK)、『シリーズ証言記録 兵士たちの戦争』(NHK)、『日中戦争〜兵士は戦場で何を見たのか』(NHK)、『さかのぼり日本史 とめられなかった戦争』(NHK)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、ウィキペディア、ほか多数。 僕はいかなる政党、政治思想団体、プロ市民団体、宗教団体にも属していません。単純に「何があったか」、事実を知りたいだけです。 |
(ショートカット※管理人的には出来れば年表トップから順番に読んで頂きたいですが…)
閔妃暗殺 / 安重根 / 日韓併合条約 / 土地調査令 / 三・一独立運動 / 関東大震災デマ虐殺
韓国・朝鮮人戦犯 / 強制連行 / 創氏改名 / イザベラ・バード悪用 / 脱亜論の嘘 / デマ検証
いわゆる従軍慰安婦について
【近代史年表 日本と韓国/朝鮮】
●1875 朝鮮開国…明治政府は鎖国を続ける朝鮮に開国を迫り、漢城(ソウル)に近い江華島へ軍艦“雲揚”を派遣。その結果、江華島の砲台が“雲揚”を砲撃する江華島事件が起きる。翌年、日本と開戦したくなかった朝鮮は日朝修好条規(不平等条約)を受け入れ開国の道を歩む。 ●1895.10.8 閔妃(ミンピ)暗殺…韓国特命全権公使・三浦梧楼(元長州藩士)は、第26代朝鮮国王・高宗(コヂヨン)の妃・閔妃がロシアに接近したことに憤慨。三浦は日本軍兵士を引き連れて王宮に乗り込み妃を暗殺した。三浦は日本人を装った朝鮮人の仕業(反閔妃派)の仕業にするつもりだったが、2人の外国人に犯行を目撃されてしまう。日本政府(伊藤博文首相)は公使が独断で一国の王妃を殺害したことに驚愕。国際批判をかわすため、朝鮮政府に圧力をかけて3人の“真犯人”(朝鮮人)を捕らえさせ、すぐに絞首刑に処して「下手人は日本人に変装した朝鮮人」という嘘をつきとおした。三浦など事件に関係した日本人48人は内地に召還され裁判にかけられたが、証拠不十分を理由に全員が無罪となった。外交官に妃を殺害された朝鮮国王は身の危険を感じ、翌年にロシア公使館に移ってしまう。日本は朝鮮をロシア南下の防波堤にしようと思っていたのに、そのロシアと朝鮮が蜜月になるという最悪の展開になる。 ●1904.2.23 日韓議定書調印…日露戦争の開戦(2/10)と同時に日本は朝鮮半島を武力制圧。軍事力を背景に、韓国内の駐留権と内政干渉権を認めさせる日韓議定書に調印させた。韓国植民地化の第一歩。 ●1904.8.22 第一次日韓協約調印…韓国政府は日本政府が選んだ人物を財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。また、外交問題は日本と協議のうえ決定しなければならない。この協約を屈辱と感じた韓国皇帝・高宗は、無効にするべく欧米諸国に密使を送った。これを知った日本は反発する。 ●1905.11.17 第二次日韓協約調印…日露戦争に勝利した日本は、韓国における権益をロシアに認めさせるポーツマス条約を結ぶ(9/5)。その2ヶ月後、前年の韓国皇帝の密使の件もあり、日本はこの第二次日韓協約で韓国の外交権を奪った(第2条:韓国は今後日本の仲介無しに他国と条約や約束を交わしてはならない)。協約調印の当日、日本軍は王宮前広場で演習を行い無言の圧力をかけた。事実上の保護国とされた韓国内には反日感情が渦巻き暴動に発展、調印時の韓国側閣僚の邸宅が市民の焼き討ちにあった。 ●1907.6.15 ハーグ密使事件…韓国皇帝・高宗は日韓協約の無効を訴えるべく、再び密使を欧米諸国に差し向けることを決意。密使はオランダ・ハーグの第2回国際平和会議に派遣されたが会議参加を拒否されてしまう。実は、既に日本と欧米列強は互いの植民地の既得権益を認めることで話はついており、黙殺されたのだった。 ●1907.7.19 韓国皇帝譲位…韓国統監・伊藤博文は皇帝高宗の協約違反(外交権がないのにハーグで外交を行った)を責め、皇帝から退位させた。新皇帝は長男・純宗。 ●1907.7.24 第三次日韓協約調印…ハーグ密使事件をうけて、日本は韓国への圧力をさらに強め、「韓国政府の官吏に日本人を登用できること」「高級官吏の任免権を日本側(韓国統監)が持つこと」などが定められる。朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。さらに韓国軍の解散、司法権と警察権の委任も定められた。 ★1907.8.1-1910 義兵決起…外交権だけではなく、警察権や司法権まで奪われ、軍隊まで解散されると知った国民が、独立回復を掲げる義兵(市民軍)となって抗日決起。解体された韓国軍の元兵士たちが中心となり「義兵闘争」が始まる。反乱は全土に広がり、日本軍は日韓併合の1910年まで3年間にわたって苛烈な討伐戦を続けた。 日本側の『朝鮮暴徒討伐誌』によると、併合までの3年間で殺害された“暴徒”や義兵は1万7718人。一方、捕虜は1933人しかいない。この捕虜の少なさは異常。韓国側は正規軍ではなく、個人参加の民兵だ。戦局が不利と分かれば投降する者が多いはず。それなのに、捕虜は戦死者の約10分の1しかいない。あきらかに日本側の“鎮圧”が投降を許さない殺戮であったことを語っている。この戦いの日本側の戦死者は133人。
※韓国軍の解散式で既に交戦があった。「今日(8/1)午前9時、韓国軍に解散の命令が下ると、(韓国軍の)侍衛第一大隊長は憤激して自殺した。同隊の兵が銃をとった為、我軍応戦の末、突撃を加えて兵営を占領せり。韓兵将校以下俘虜200死傷無数。我軍戦死中隊長1名、特務曹長1名、外に死傷40名あり」(東京朝日新聞
明治40年8月3日)。
●1909.10.26 伊藤博文暗殺…初代韓国統監・伊藤博文がハルビン駅で安重根(アン・ジュングン、30歳)に撃たれ絶命する。安はロシア官憲に取り押さえられ、日本側に引き渡された。安はもともと親日寄りで、日露戦争で日本が勝つと“アジアが西欧を倒した”“日本はアジアの希望”と喝采を贈っていた。ところが、日露戦争後の日本は、韓国に内政干渉し、外交権を奪い、皇帝を退位させ軍や警察まで解散させた。深く失望した安は、独立運動のためロシアへ亡命して「大韓義軍」を組織し、同志と共に薬指を切り、その血で国旗に大韓独立の文字を書き染める筋金入りの抗日活動家になった。 逮捕後、安は取り調べに際し、伊藤暗殺に至った理由を述べた。「韓国皇帝を廃位させたこと」「韓国の軍隊を解散させたこと」「義兵鎮圧に際し多数の良民を殺害させたこと」「不平等条約を結ばせたこと」「韓国の学校教科書を焼却させたこと」「韓国人民に新聞購読を禁じたこと」等々。その中には「明治天皇の父君(孝明天皇)を暗殺したことは韓国民みなが知っている」という驚愕の理由も含まれている。
翌年2月、事件から4ヶ月後に死刑判決が下る。安は母から「あなたの死はあなた一人のものではなく、韓国民の怒りを背負っている。控訴をすればそれは命乞いになってしまう」と手紙を受け取り控訴しなかった。
※安の怒りは逆の立場にすると理解しやすい→「日本の天皇を廃位させたこと」「日本の軍隊を解散させたこと」「義兵鎮圧に際し多数の良民を殺害させたこと」「不平等条約を結ばせたこと」「日本の学校教科書を焼却させたこと」「日本国民に新聞購読を禁じたこと」等々。 当初、暗殺犯の安を憎んでいた日本人看守の千葉十七(関東軍上等兵)は、安が主張する“日本の非”は韓国人からすれば筋が通っていること(幕末に異国脅威を訴え、攘夷に燃える勤王の志士と通じるものがあった)、「国の平和とは、貧しくても人々が独立して生きていけることだ」という安の信念に心を動かされ、会話を通して人柄や思想に共感を覚えた。安は旅順監獄(現・大連)で「東洋平和論」を書きあげる。 死刑執行は判決の翌月、3月26日。安は処刑直前、千葉に「為国献身軍人本分」(国の為に身を捧ぐるは軍人の本分なり)と書き贈り、最後に「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語った。千葉は帰国後もこの書を大切にし、安の冥福を祈る日々を過ごす。
また、安は裁判担当の日本側検事をして「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆せしめたほか、旅順監獄の刑務所長・栗原貞吉も安の人物に共鳴し、法院長や裁判長に“助命嘆願”を書いたり、煙草等を差し入れ、処刑前日には絹の白装束を贈っている。執行後、栗原所長は安の死に胸を痛めて故郷広島に帰ったという。
晩年の伊藤博文は日韓併合に傾いていたが、それでも政府内では併合慎重派だった。安は伊藤を暗殺したことで、結果的には併合を加速させ、処刑5カ月後に大韓帝国は地図上から消滅してしまった。
1970年、ソウル市内に安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が建設された。
※千葉十七の墓がある宮城県栗原市の大林寺には安の顕彰碑が建立され、毎年日韓合同で安重根・千葉十七夫妻の供養が執り行われている。
●1909.12.22 韓国首相・李完用は不平等な日韓協約を締結して朝鮮民衆から“売国奴”と怒りを買っており、刺客に襲われ片肺を失う重傷を負う。 ●1910.8.13 第3代韓国統監・寺内正毅が韓国併合決定を韓国政府の閣僚に伝える。韓国側は新しい国名を日本が決めることに驚き、韓国の名称を残すよう要望するが拒否される(日本が決めた新国名は“朝鮮”)。 ●1910.8.22 日韓併合条約(韓国併合ニ関スル条約)調印…韓国が日本に併合される。日本はソウルに統治機関(朝鮮総督府)を置き、韓国の全政治団体を解散させ、あらゆる集会を禁止し、朝鮮語の新聞を廃刊にした。 文面上は「韓国皇帝が天皇に統治権を譲渡し、それを天皇が承諾する」という形になっている。しかし、この併合を支持していた親日派の政治結社・一進会が求めていたのは「対等合併」だった。それが蓋を開けてみれば「従属合併」になっていた。翌月、併合を推進した一進会は“用済み”となり強制解散させられた。
〔日韓併合は韓国に頼まれた、韓国皇帝が希望した、併合は国際社会が認めた、韓国の為にしてあげたという歴史認識について〕 日本側が記録した『朝鮮暴徒討伐誌』によると、1907年から10年の日韓併合までに14万人もの抗日義兵が存在していた。日清戦争における日本兵の戦死者数は約1万3千人だが、韓国の抗日義兵の犠牲者は、併合までの3年間だけで約1万8千人にのぼる。内政の人事権を奪い、外交権を奪い、軍隊を解散させ、司法権と警察権も奪い、日本軍を進駐させ、約1万8千人を殺害し、その上で併合案を認めさせた。条約の文面だけで“強制じゃなかった”というのは、僕にはエゲツなく感じる。本当に韓国側が併合を希望しているなら、なぜゆえ膨大な数の民衆が命懸けで抵抗したのか。
保守論客は「日韓併合は韓国最大の政治団体・一進会に求められた」というが、先述したように一進会が求めたものは「日韓の対等合併」だ。合併後に一進会を解散させたのは、彼らの反発を恐れてのことだろう。韓国皇帝は第一次日韓協約後も、第二次日韓協約後も、協約を無効にしたくて密使を列強に送っている。協約承認が日本側の押し付けであったのは明らか。 ペリーの黒船来航時、幕府は江戸湾に浮かぶ4隻の船と大砲を見ただけで、震え上がって不平等条約を結んだ。多くの日本人は武力の威嚇で無理強いされたと感じている。でも、ペリーは「何もしてないよ」とうそぶくだろう。日韓に置き換えてみたら分かりやすい。幕府が内政権、外交権を奪われ、すべての藩兵が武装解除され、1万8千人の攘夷派志士が殺され、江戸城の庭で米国海兵が演習している状態で、幕府は条約調印を断れるだろうか。日本はそれを韓国にやってるのに、保守論客は“強制なんかしてない”と言っている。
「国際社会が併合を認めた」というのもウラがある。列強は無条件で韓国支配を認めた訳ではない。交換条件があった。フランスの場合、インドシナの植民地支配の承認が韓国支配を認める条件だったし(日仏協約/1907)、ロシアの場合は外モンゴル&北満州の支配承認が交換条件(日露協約/1907)、英国の場合は日英同盟の更新(1905)で加えられたインド防衛の同盟義務が韓国支配承認の条件だった。こういう裏取引があったから併合が認められたんだ。
「併合で同じ“日本”になったから植民地支配ではない」と保守論客はいう。それならば問いたい。国際的にも合法なら、なぜ日本は敗戦と同時に朝鮮半島を返還したのか。“日本人と同等に扱い何らやましいことはない”のであれば、なぜ半島で暮らしていた日本人は敗戦と同時に統治を放棄して本土へ逃げ帰ったのか。そして何より、なぜ日本政府は「朝鮮半島は合法的に得た日本の領土」と戦後ただの一度も主張せず、取り返そうとしないのか?
日韓併合条約を締結した夜、初代朝鮮総督となった寺内正毅は「(秀吉軍の)小早川、加藤、小西らが世にあらば 今宵の月を
いかに見るらむ」と得意げに詠んだ。一方、当時24才の石川啄木は日本の強引な外交をこう憂えた「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨を塗りつつ
秋風を聴く」。
●1912 土地調査令発布…朝鮮の人々が経済的に最も深刻なダメージを受けた土地調査令。土地を持っている者は申告せよ、というもの。農民の多くは文盲であったため期限を限られた複雑な登録手続きが出来ず、土地を失うことになった。総督府は所有権がハッキリしない、届け出がない、などの理由で朝鮮の全農地の40%を「合法的に」没収し、その所有者となって、今度は日本からの移住者に格安で転売した。こうして土地を失った多くの朝鮮人が日本や満州へ流れていった。併合から20年後、日本への米の輸出は倍増し、逆に朝鮮人の米の消費量は3分の1ほど減っている。生産が増えているのに食えないという飢餓輸出。 ※海を渡って来た半島の人のことを「貧乏で食えないので勝手に来た」と見下げる意見をたまに聞くけど、こうした背景を知っていればそんなこと言えないと思う。
〔土地の奪取について〕
朝鮮半島・全羅北道における1920年と11年後の1931年の土地所有者の統計がエグイ。単位は町歩。 日本人所有 3,674→8,999
朝鮮人所有 4,181→3,545
国有水田や法人企業(つまり日本所有) 2,694→7,292
合計10,549→19,836
合計を見れば水田面積は約2倍になっているけど、朝鮮人所有の土地だけが減っている。日本に合併されなければ、1920年時点で丸々1万町歩が朝鮮人の田畑だった(既に1912年の土地調査令で4割奪われている)。だが、植民地化のため1931年は3545町歩しかない。水田がなくてどうやって農家が生きていけるのか。保守派がいうように朝鮮の植民地経営がバラ色なら、わざわざ国を出て日本や満州に移住した朝鮮人はもっと少なかっただろう。
●1919.3.1 三・一独立運動事件…近代朝鮮で最大の反日運動。言論の自由も選挙権も、土地という経済的基盤さえも日本に奪われた人々の間には独立の機運が高まり、3月1日に爆発する。この民衆蜂起は「独立万歳」を合言葉に、またたく間に全土に広がった(ソウルでは60万人がデモ)。当初は平和的デモ行進だった運動も、弾圧強化にともなって先鋭的になり、日本は容赦なく武力鎮圧を行った。例えば、日本軍歩兵第78連隊は4月15日に堤岩里村で“独立派の疑いあり”として15歳以上の男子24人を教会に閉じ込め、火をつけて乱射し(23名死亡、1名脱出)、証拠隠滅のため同村の33軒を焼き払い男女7人を殺害した(堤岩里事件)。三・一独立運動は逮捕、投獄、拷問、虐殺など日本側の徹底弾圧により5月にはほぼ鎮圧された。3ヶ月間の朝鮮人の犠牲者数は、朝鮮側の発表では死者7509人、負傷者15961人、逮捕者46948人。総督府の発表では死者553人、負傷者1409人。日本側の被害は官憲の死者8名、負傷者158名。この独立運動を受けて総督府は締め付けをやや緩和し、朝鮮語の新聞の発行を許可するようになった。 ※“韓国のジャンヌ・ダルク”柳寛順(ユ・ガンスン)…4月2日、並川(ビョンチョン)にて日本人憲兵隊が独立運動デモ隊への無差別発砲を行い19人が射殺され、女子学生・柳寛順(15歳)は目の前で両親を失った。この日、彼女を含む600人が逮捕され、憲兵は独立運動の情報を吐かせるため激しく拷問を加えた。彼女は獄中で連日「独立万歳」と叫び続け、逮捕から1年半後、西大門刑務所の地下監獄で栄養失調により17歳11ヶ月の短い生涯を終えた。
〔民芸学者、柳宗悦(やなぎ・むねよし)の戦い〕 日本人の中にも独立運動への弾圧を批判する者がいた。東京出身、民芸学者の柳宗悦だ。父親は海軍少将。僕らが普通に使っている“民芸品”という言葉は柳の造語だ。雑誌『白樺』の創刊にかかわり、ゴッホの“ひまわり”を日本人に紹介した。柳は日韓併合から5年後、朝鮮旅行をきっかけに李朝の磁器など朝鮮工芸に魅了された。30歳の時に「三・一独立運動」が勃発。すぐさま「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と武力に頼った植民地政策を強く批判し、日本の新聞に論文『朝鮮人を思う』を寄せた。「余は朝鮮について知識のある日本の識者の思想が、深みもなく温か味もないのを知り、隣人の為にしばし涙ぐんだ。日本の古美術は朝鮮に恩を受けたのである。法隆寺や奈良の博物館を訪れた人はその事実を熟知している。我々が今国宝として海外に誇るものは、殆ど大陸の恩恵を受けないものはないだろう。しかし今日の日本は報いるのに朝鮮芸術の破壊をもってしたのである。余は世界芸術に立派な位置を占める朝鮮の名誉を保留するのが日本の行なうべき正当な人道であると思う」。これは日本国内のみならず半島でも大きな反響を呼んだ。柳は民芸学者の立場から文化の多様性を重んじ、戦時中は日本が行った強引な同化政策を批判し、勇気を込めて軍国主義の放棄を説いた。民芸品に対する愛は、朝鮮や沖縄の独自文化への敬意に昇華され、各地域の生活様式を尊重せよと生涯に渡って訴えた。40歳の時には京城(ソウル)に朝鮮民族美術館を開設している。
※現在日本で国宝に指定されている飛鳥仏の大半が朝鮮半島からの渡来人によって彫られたものであり、法隆寺の百済観音のように直接海を渡ってきた名仏も多い。
●1919-20 間島(かんとう)出兵…日本軍に追われた義兵の一部が北上して中国・間島地方に逃れたため、日本軍1万が「不逞(ふてい)鮮人討伐」を名目に間島へ出兵、住居や教会を焼き払い3千人余の朝鮮人を殺害。 ●1923.9.1 関東大震災後の朝鮮人虐殺…関東大震災直後に、混乱を利用して朝鮮人独立運動家を摘発しようと考えた内務大臣・水野錬太郎、警視総監・赤池濃(あつし)、警視庁官房主事・正力松太郎(後の読売新聞社長)らは、軍と警察を通して「暴徒化した朝鮮人が井戸に毒を入れ、放火して回っている」「爆弾を持っている」というデマを日本中に流した。市民は流言を信じ、震災から4日間で3689もの自警団が組織された。軍の一部から銃剣、日本刀を貸し与えられた自警団は血眼になって朝鮮人を探した。朝鮮人は日本語の「ジュ」の発音が苦手で「チュ」と言ってしまうことから、自警団は朝鮮人らしい人間を見つけては「15円55銭」と発音させ、うまく言えなかった者をその場で処刑、又はリンチにした。 死者数は当時の東大教授・法学博士の吉野作造の調査が2613人余、半島系新聞が6661人、内務省調査が231人と、議論が分かれている。また、方言を話す地方出身の日本人や聾唖者(聴覚障害者)も、朝鮮人と誤解されて59名が殺害されており、女子・子供を含む在日中国人200余名も殺害されている。
震災時に実際に朝鮮人の犯罪が十数件あったことから、“朝鮮人暴徒はデマではない”という人がいる。その犯罪者たちは確かに悪党だ。しかし誰も「井戸に毒」なんか入れてない。朝鮮人全体と犯罪者は分けるべきであり、内務省トップや警視総監が意図的にデマを流し、朝鮮人をひとくくりにして虐殺の対象としたことが相殺される訳ではない。 詩人・萩原朔太郎(当時37歳)の言葉「朝鮮人あまた殺され その血百里の間に連なれり われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」。 ※福田村事件…震災5日後、千葉県福田村(現野田市)にて香川県の薬売り行商人15名のうち妊婦・子供を含む9名が、讃岐弁を聞き慣れない自警団によって朝鮮人と判断され虐殺された。 ※藤岡事件…震災4日〜5日後に群馬県藤岡市で起きた虐殺事件。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という流言を信じた旧新町(現高崎市)の土木業者が、従業員らの朝鮮人17人を旧藤岡署に収容させた。近隣住民は「警察が朝鮮人をかばっている」と暴徒化。約二千人の群衆が日本刀や猟銃を持って署内へなだれ込み、無抵抗で抱き合い、命乞いする朝鮮人を暴行。遺体にまで危害を加え、警察の現場検証で血に染まった肉塊が確認されたという。殺人容疑などで37人が摘発されたが、大半が執行猶予付きなど軽い刑だった。現場近くの成道(じょうどう)寺には慰霊碑が立つ。 ※官憲や陸軍の一部は震災を好機として社会主義や自由主義の指導者を殺害しようと画策。憲兵大尉・甘粕正彦はアナキストの大杉栄、伊藤野枝を殺害。亀戸警察署では軍が社会主義者・川合義虎、労働運動指導者・平澤計七など13人を殺害。平澤は首を切り落とされた。 ※朝鮮人を虐殺から懸命に救おうとした日本人もいた。横浜の鶴見警察署長・大川常吉は、朝鮮人300人を署内に保護した。興奮した千人の群衆が「朝鮮人を殺せ!」と警察署に殺到すると、大川署長は大声で一喝した「朝鮮人が毒を入れたという井戸の水を持ってこい。私が目の前で飲む。異状があれば朝鮮人は諸君に引き渡す。異状が無ければ私に預けよ!」「朝鮮人を殺す前に、まずこの大川を殺せ!」。一升ビンの井戸水を飲み干した大川の対応に、群衆は理性を取り戻して引きあげた。また、横須賀鎮守府長官の副官・草鹿龍之介大尉は、在郷軍人の武器放出要求や実弾使用申請に対し断固として許可を出さなかった。
●1932.1.8 桜田門事件…陸軍始観兵式を終え帰途についた昭和天皇の馬車が皇居・桜田門外に差し掛かった際、朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が手榴弾を投げつけ、近衛兵一人が負傷した。犬養毅首相は辞表を出したが慰留。同年10月10日、李奉昌は処刑された。終戦の翌年、在日韓国・朝鮮人らが遺骨を発掘し、朝鮮にて国民葬が行われた。李は白貞基(ペク・チョンギ)、尹奉吉(ユン・ポンギル)らと共に“義士”としてソウルの孝昌公園に埋葬された。 ●1938.2.26 陸軍特別志願兵令…日中戦争が勃発した当初は、日本の外地であった朝鮮及び台湾では徴兵制が施行されていなかった。だが、戦争の長期化により1938年2月に朝鮮人に対して陸軍特別志願兵令が施行され、朝鮮人日本兵が戦線に送られることとなった。終戦時の日本軍737万人(陸軍571万、海軍166万)に対し、募集枠は初年が406人、1943年(徴兵制に切り替わる前の最後の年)が6千人と非常に少ない。これは植民地側の人間に武器を持たせることへの懸念があった為。 ※1943年の志願者は30万人で倍率は50倍という高さ。この数字をどう見るか。日韓併合から約30年が経ち、多くの若者は生まれた時から既に“日本人”になっており皇民として立ち上がったのだろうか。朝鮮人日本兵の証言では「徴兵時の建前は“募集”だったが、最初から半島の村ごとに兵員の割り当て人数が決まっていた」という。隊内で反乱を起こされては大変なので、思想的に危険人物でないか、大目に志願させてふるいにかけるためではないだろうか。これについてはさらなる考察が必要。ちなみに海軍の志願兵令は1943年7月27日から。13人の朝鮮人日本兵が神風特攻隊として散った。
〔NHK教育 ETV特集『韓国・朝鮮人戦犯の悲劇』〕(冒頭5分。これだけでもズシリと来る) 日本の戦争に動員され戦犯として裁かれた朝鮮半島の人々を取材。終戦後、BC級戦犯5700人が捕虜虐待・住民虐殺の罪で裁かれ、934人が処刑になったが、23人は半島出身だった。半島出身者は捕虜監視員をさせられた。6人で500人の捕虜を監視し、逃がすと自分が殺された。軍では虐げられ、日本軍の二等兵にさえ敬礼させられた。 /捕虜監視員は命じられて病気の捕虜を鉄道建設の現場へ連れて行った。結果、多数の捕虜が命を落としたことから、戦争犯罪として死刑となった(日本占領地では連合軍捕虜の27%が死亡)。韓国人は死刑台の上で「独立万歳」と叫んだ。“日本兵”として扱われ、処刑される韓国人は、死に対して納得がいかなかった。 /元BC級戦犯の李鶴来(イ・ハンネ)さんはタイの捕虜収容所の監視員。死刑判決を受けたが減刑され、懲役20年となった。巣鴨プリズンで刑期を終えて半島の故郷へ戻った仲間は、「戦争協力者」「対日協力者」として非難された。釈放後に2人自殺した。サンフランシスコ講和条約で日本国籍を奪われ、日本人ではないので遺族年金も何もない。63年放置され家族は崩壊した。「日本人の場合は同じ戦犯、死刑囚であっても、自分の国の為に戦って死んでいくんだという心の拠り所がある。私たちには祖国の為に尽くしたという慰めがなかった。それがすごく辛い」。 ●1938.5.5 国家総動員法施行…日中戦争の長期化にそなえて、軍需動員など強力な統制をはかるために立法。議会の承認をはぶいて勅令(ちょくれい、天皇の命令)だけで運用する前例のない法律であり、立法権を無視された議会は反発したが、政府は陸軍の圧力を背景に制定を強行した。総動員法の施行後は「国民徴用令」「新聞紙等掲載制限令」「価格等統制令」「生活必需物資統制令」「国民職業能力申告令」など多数の統制令がつくられ、法案の拡大解釈により思想統制、肉体労働の強制、集会・大衆運動の制限など、国民生活は軍事一色になっていく。 ●1939 国民徴用令/強制労働…日本国内の労働力不足を補うため、朝鮮では「募集」という名の強制連行が開始された。企業による「募集」方式で効果があがらなかった為、1942年に朝鮮総督府が徴発業務を一元化する「官斡旋」方式が導入される。そして1944年からは「徴用」方式となり、行政機構や警察権力を動員して強制的な徴用が始まった。1939年から1945年までの6年間に強制連行された朝鮮人は、大蔵省の1947年の調査で約73万人(不況や朝鮮戦争により自分の意思で来日した人もいるけど、この73万人は国が関わった強制連行)。連行された朝鮮人の約半数の35万人強が炭鉱で働かされ、これは全炭鉱労働者の3分の1以上に相当した。連行された人々は、他に製鉄所、港湾、道路建設などで労働に従事させられた。過酷な労働環境で負傷、死亡する者も多く、逃亡や反抗事件も多発。秋田県の花岡鉱山では1年間で中国人労働者418人が死亡し蜂起事件が起きた。
また、軍要員として朝鮮からは15万人が動員された。従軍慰安婦については後述する。 ●1940.2.11 創氏改名…朝鮮人の姓名を日本式の氏名に変えさせる政策。朝鮮式の姓をやめて日本式の氏にすること(創氏/義務)と、日本式の名に改めること(改名/任意)が、1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に朝鮮総督令で制定された。目的は朝鮮の男系血族を中心とする家族制度を、日本の戸主を中心とする家族制度にあらため、朝鮮人を天皇制のもとに皇民化するもの。朝鮮の人々は、名前を変えること自体より、家制度の導入に抗議していた(朝鮮は夫婦別姓)。 ※保守派の中に「創氏改名は強制でなかった」論がある。実際はどうなのか。当時の朝鮮人口は2300万人。登録申請期間(2/11〜8/10)の初日、行政機関の職員は祝日を返上して届出を待っていた。ところが当日の届出はたった48件!日本側は朝鮮人からの「熾烈なる要望」に応えて創氏改名を実施したという立場。「天皇陛下の温かい思召しによって、朝鮮人も日本式氏を名のることが許された」という。本当にそうであれば、我先にと役所へ申請にくるはず。
創氏届出の月別統計は、戸籍総数428万2754戸のうち、2月に届け出たのは1万5746戸、つまり全体の0.36%だけ。翌月も4万5833戸で1.07%のみ。半年間の届出期間の中間日、5/20時点でも届出総戸数は32万6105戸で、総戸数の7.6%に過ぎなかった。
危機感を抱いた総督府は様々な弾圧に乗り出した。「創氏をしない者は、非国民もしくは不逞鮮人と断定して、警察手帳に登録し査察、尾行を徹底すると同時に、優先的に労務徴用の対象者にする。あるいは食料その他物資の配給対象から除外する。行政機関に一切採用しない。現職者も漸次免職」「創氏をしない者の子女に対しては各級学校へ入学、進学を拒否する。教師が叱責するなどして児童の哀訴によってその父母が創氏するようしむける」「創氏しない朝鮮人の名札がついている荷物は鉄道局や運送店が取り扱わない」「期限までに届け出なかった場合には、戸主の姓を自動的に“氏”にする(法定創氏)」等々。これによって後半3ヶ月で約300万戸を創氏させ、創氏率79.3%を達成した。
痛ましいことに、柳健永(ユ・コニョン)、薜鎮永という、命を断って抗議した者も出た。柳健永の遺書「(日韓併合で)とうに国が滅びるとき死ぬこともできず、30年間の恥辱を受けてきたが、彼らの道理にはずれ人の道に背く行いは、聞くに耐えず見るに忍びず…いまや血族の姓まで奪おうとする。(略)柳健永は、獣となって生きるよりはむしろ潔い死を選ぶ」。柳健永は、総督府、経学院、中枢院に創氏改名の抗議書を送り、毒を仰いで7/24に自決した。 麻生太郎元首相いわく「満州で仕事がしにくかったから、名字をくれと言ったのが、そもそもの始まりだ」。その言葉は、食糧配給、就職、進学で差別して申請させた実態とあまりに差がある。 ※個人の名前どころか国名を「韓国」から「朝鮮」に変えたのも日本。自分の国の名前を他の国に決められるなど、それこそ愛国心に理解のある保守派なら辛さと屈辱感が分かると思う。
※参考にした外部サイト(数字はこちらから)
※参考にした外部サイト(麻生発言について)
●1941.12.8 太平洋戦争勃発…日本がイギリスやアメリカ合衆国に宣戦布告。1944年に朝鮮徴兵令施行。 ●1945.8.9 ソ連軍侵攻…スターリンは1945年2月のヤルタ会談において、「ドイツ降伏から3ヶ月以内にソ連は日本に参戦する」と英米と密約を結んでいた。5/8にドイツが降伏したことから、3ヶ月後の8/8にソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦。翌8/9零時から日本支配下の満州と朝鮮に侵攻を開始した。 ●1945.8.14 トルーマン米大統領が「北緯38度線で朝鮮を分割、日本軍を武装解除」とソビエトに通告、スターリンは同意した。 ●1945.8.24 浮島丸事件…浮島丸は青森県大湊の海軍施設部で働いていた在日朝鮮人を帰国させるため、朝鮮人3735人、日本人乗組員255人を乗せて大湊から釜山に向けて8/22に出港した。ところが米軍総司令部から日本艦船に対し、「24日18時以降の運行禁止」命令が出たため、浮島丸は最寄りの舞鶴港に寄港することになった。舞鶴港は軍港であり、周辺はB29が港を使用不能にするために機雷を撒いていた。24日夕刻、浮島丸は触雷して沈没、朝鮮人500人以上、日本人25人が死亡した。 ●1950.6.25〜1953.7.27 朝鮮戦争…日本降伏後、朝鮮半島はアメリカとソ連の占領管理下に入る。1948年8月、アメリカ管理下の地域が大韓民国の樹立を宣言し、李承晩(イ・スンマン)が大統領に就任。翌月にソ連管理下の地域が北朝鮮となり、金日成(キム・イルソン)が首相に就任する。両者は米ソの支援を受けながら、祖国統一を掲げて対峙する。 1950年6月25日早朝、突如として朝鮮人民軍が“南半部を解放するため”38度線を突破、南進する。同日、国連安保理は北朝鮮非難決議を採択、27日に加盟国に韓国への軍事支援を勧告した。開戦3日後の6/28、朝鮮人民軍はソウルを陥落させた。ソウルが落ちた2日後、在日米軍が釜山に上陸し、北上を開始。沖縄駐留のB-29は北朝鮮を爆撃した。7月7日、東京の連合国軍最高司令官マッカーサーを国連軍総司令官に任命し、16カ国からなる国連軍が編成された。
だが、国連軍の参戦にもかかわらず朝鮮人民軍の猛攻が続き、開戦3ヶ月後に、国連・韓国軍は半島の片隅(釜山・大邱)に追い込まれた。9/15、国連軍がソウル近郊の港町、仁川に上陸作戦を決行、ここから起死回生の大反撃が展開され、9/26にソウルを奪回、10/1には韓国軍が38度線を突破してさらに北進した。国連総会は武力による朝鮮統一を承認、10/19にはとうとう平壌を陥落させた。
この戦況を見て、新たに中国人民義勇軍が北朝鮮を助ける為に参戦し、12/4に平壌を朝鮮人民軍と共に奪い返した。さらに翌年1月4日にソウルを再占領。戦局が目まぐるしく変化した。国連総会で中国非難決議が採択され、3/14には国連・韓国軍はソウルを再奪回した。その後、戦線は38度線を境に一進一退が繰り返され、マッカーサーは中国本土とシベリアに原爆攻撃を主張。トルーマンは4/11にマッカーサーを解任した。最前線では原爆こそ投下されなかったものの、細菌弾や毒ガス弾まで飛び交った。
1951年6月23日、ソ連が休戦を提案、関係各国はこれを受け入れ休戦交渉が始まった。2年間の交渉を経て、1953年7月27日、ようやく板門店で休戦協定が調印された。この戦争で国連・韓国軍側は50万人近い戦死者と100万人ほどの負傷者を出し、朝鮮人民軍・中国人民義勇軍側は約100万人の戦死者とほぼ同数の戦傷者を出した。民間人の死亡者、行方不明者は南北あわせて200万人以上にのぼったという。
国連軍の兵站基地となった日本は朝鮮特需で経済復興を成し遂げ、同年9月に連合国48カ国との間でサンフランシスコ講和条約に調印、主権を回復した。
※朝鮮戦争は、韓国では「六・二五動乱」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼んでいる。
●1965.6.22 日韓条約…国交正常化を目指し、日韓基本条約で外交関係を樹立。同時に日韓漁業協定、賠償請求権問題の解決と経済協力に関する協定、在日韓国人の法的地位および待遇に関する協定、文化財および文化協力に関する協定などを一気に締結。対日賠償請求権は、無償贈与3億ドル、政府借款2億ドル、3億ドル以上の民間借款などの供与が確認された。この日、竹島の帰属問題は棚上げされた。また日本は賠償金ではなく“独立祝賀金”という立場をとった。 〔植民地時代に人口や耕作地が増加しているのは日本の善政の証拠?〕 ●人口ついて…「日本が支配した時期に人口が増加しているのは善政の証拠」という意見がある。だが、日本の朝鮮統治による人口増加率が年平均1.2%だったことに対し、同時期の米国のフィリピン統治は倍近い2%、フランスのラオス統治も1.8%。この時代は医学の発展により、世界的に人口が増えており、半島の人口増加を善政の証明とするには無理がある。こちらのサイトでは上記データと共に、中国共産党の支配下で人口が2.1倍になったと指摘している。保守が唱えるように人口増加で植民地政策を正当化するならば、一党独裁の中共政府も評価することになるけれどそれでいいのだろうか? ●米の生産量について…朝鮮から日本へ輸出された米の量は、1912年の291万石から、1928年の740.5万石に倍以上も伸びている。ところが、朝鮮人一人当たりの米消費量は、同時期に772石から540石に減っている。増産された米が朝鮮人の腹に入っていない。「飢餓輸出」になっている。ちなみに1928年の日本人一人当たりの米消費量は1129石で朝鮮人の2倍強だ。 ※参考にした外部サイト(データはこちらの『間違いなく日本の朝鮮統治は全てが悪』から) 〔イザベラ・バード『朝鮮紀行』の悪用〕 1895年に朝鮮を訪れたイザベラ・バードは感想を次のように綴った。 「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい」「推定25万人の住民は主に迷路のような道の“地べた”で暮らしている」「路地の多くは…家々から出た糞、尿の
汚物を受ける穴か溝で狭められている」「ソウルの景色のひとつは小川というか下水というか水路である。蓋のない広い水路を黒くよどんだ水がかつては砂利だった川床に堆積した排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく」「ソウルには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もない。結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない」
ネットでよく見かけるコピペだ。だが、このソウルの風景は第1回韓国訪問の記録。イザベラはその後、清国、日本を旅して、翌1896年10月に朝鮮に戻る。折しも大韓帝国では「光武改革」が進行中だった。彼女は驚嘆した。
「ソウルの多くの区域が、なかでも特に〈南大門〉と〈西大門〉の付近が文字どおり変貌していた。両脇に石積みの深い運河があり石橋のかかった、狭いところで幅五五フィートの大通りは、かつてコレラの温床となった不潔な路地のあったところである。狭かった通路は広げられ、どろどろの汚水が流れていたみぞは舗装され、道路はもはやごみの“独壇場”ではなく、自転車が広くてでこぼこのない通りを“すっ飛ばして”いく。“急行馬車”があらわれるのも間近に思われ、立地条件のすばらしいところにフランス系のホテルを建てる構想もある。正面にガラスをはめこんだ店舗は何軒も建っているし、通りにごみを捨てるのを禁止する規制も強化されている。ごみや汚物は役所の雇った掃除夫が市内から除去し、不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東でいちばん清潔な都市に変わろうとしている!」
(『朝鮮紀行』イザベラ・バード/講談社学術文庫 P543〜544) 併合の18年前にソウルには韓国資本で市電が開通している。明らかに彼女は2回目の訪問の驚きを強調したいが為に、1回目の光景をあそこまで辛辣に記している文脈に見える。ただ、彼女は最後のまとめで「外部の影響によって初めて朝鮮は変革が可能となった」と指摘しているので、日本や列強の介入を批判しているわけではない。僕が言いたいのは、紀行文の主旨は2回目の感動にあるのに、1回目の方だけをネットに貼るのはちょっと違わないかということデス。
〔福沢諭吉“脱亜論”の真実〕 ●1885.3.16 福沢諭吉“脱亜論”…福沢諭吉は差別主義者か、そうでないのか。政治系のネットでよく見かけるのが、以下の『脱亜論』コピペ。 ---------------------------------
日本の不幸は中国と朝鮮である。この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、
日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
「東アジア共同体」の一員として その繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は、大陸や半島との関係を絶ち、
欧米と共に進まなければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。
福沢諭吉 「脱亜論」(明治18年)
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『学問のすゝめ』で「大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり」と書いている諭吉と、『脱亜論』で過激発言をしている諭吉が僕の中でずっと一致しなかった。そこでいろいろ調べて分かった事がある。諭吉は朝鮮や清の政府権力を批判しても、民族全体を蔑視したことはなかった。それに原文には「国際的な紛争の場面でも“悪いのはお前の方だ”と開き直って恥じることもない」にあたる文章はない。以下、気付いたことを色々。
(1)「脱亜入欧」という言葉を諭吉の信念の如く思い込んでいる人がいるけど、諭吉が「入欧」という言葉を使った事は一度もなく、「脱亜」という単語も使用されたのは「脱亜論」1編だけ。つまり「脱亜入欧」が諭吉の思想の核にあったわけではない。
(2)しかも「脱亜論」は諭吉主宰の『時事新報』(1885年3月16日付)の社説ではあるが、あくまでも無署名であり、諭吉が書いたという証拠はない。複数の人物が社説を書いており高橋義雄など別人の起稿ではないか。その証拠に、諭吉自身は掲載の前も後も「脱亜論」に言及したことがない。
(3)「脱亜論」掲載時、この社説は世間で全く話題になっておらず、発表から48年が経過した1933年(満州事変2年後)に、岩波『続福澤全集・第2巻』へ収録されるまで忘れられていた。
(4)さらに18年が経った1951年、戦後になって歴史学者・遠山茂樹が「脱亜論」を“発見”し、アジア侵略論の源流として紹介した。
(5)近年、「脱亜論」の原文から一部分のみを抜粋し意訳したものを保守が好んでネットに流している。
(6)諭吉自身は朝鮮人を蔑視するどころか、朝鮮近代化への大きな情熱を持っていた。慶應義塾に朝鮮人留学生を積極的に受け入れ、朝鮮文化発展の為に私財を投じて朝鮮最初の新聞を発行し、ハングル活字を鋳造させた。
(7)諭吉は朝鮮にも封建制度を終わらせる維新が必要と考え、近代化を目指す朝鮮開化派の金玉均(きん・ぎょくきん)らを全力で支援した。1884年12月4日、朝鮮で開化派が決起し「甲申事変」が勃発。このクーデターで開化派は新政府を樹立したものの、清軍の介入によって三日天下に終わった。
(8)金玉均など開化派の中心人物は日本に亡命し、諭吉は保護に奔走する。一方、朝鮮にいる開化派の家族は、見せしめのため三親等(曾祖父母〜曾孫)まで捉えられ、恐ろしく残虐な方法で処刑された。
(9)「脱亜論」が掲載されたのは「甲申事変」のクーデター失敗から約3ヶ月後。仮に諭吉が起稿したとすれば、文中にある「朝鮮国に人を刑するの惨酷(ざんこく)あれば」「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」などは、開化派処刑への激しい義憤から叩き付けたもので、差別意識から書かれたものではない。
(10)つまり、「脱亜論」は諭吉が書いたものか分からないし、また、書いたとすれば“朝鮮近代化の夢=甲申事変の挫折”という背景を知る必要があり、その後は2度と諭吉が「脱亜論」を語っていないことからも、この社説をもって「あの諭吉も中国・朝鮮人の愚かさを語っている」とする右派も、「諭吉は差別主義者だ」と糾弾する左派も、共に的外れとしか言いようがない。
〔いわゆる“従軍慰安婦”について〕 ●“慰安婦の強制連行はなかった”と主張する安倍晋三氏は、2012年11月4日、米国の新聞に「日本軍による強制連行を裏付ける資料はなく、発見された公文書によれば強制募集や誘拐を禁じていた」とする意見広告を、“賛同者”となって掲載した。呼びかけ人は櫻井よしこ、西村幸祐、藤岡信勝などウルトラ保守“有識者”で構成された「歴史事実委員会」。 果たして“強制連行”は狭義の拉致行為だけを指すのか? (1)“看護婦の仕事がある”“将校への給仕”“工員募集”などと、嘘の募集広告で日本人・朝鮮人の悪徳ブローカーに騙されて戦地へ連れてこられ、無理やり慰安婦にされた女性が「家に帰して」と懇願しても返さなかった。 (2)日本軍は各地域の有力者に「A村からは5人、B村からは8人の慰安婦を出させろ」と武力を背景に強要していた。 (3)女性たちが募集業者に騙されていると知りながら、移送に日本軍が直接あるいは間接に関与した。 ---これらはどれも、僕にしてみれば強制連行と同義だ。1942年9月時点の陸軍専用慰安所は約400カ所で、軍当局の要請により設営された。1日に15〜20人の相手をさせられ(水木しげる氏は“80人”も目撃している)、彼女たちは心身がボロボロになっても慰安所が軍の監視下にあり脱出できず、また支払われた金銭=軍票は終戦と同時に貨幣としての価値を失い紙屑同然となった。 直接日本軍が女性をトラックに詰め込んで慰安婦にした決定的な事実として、インドネシアで起きた“スマラン事件(白馬事件)”が知られている。1944年2月、民間抑留所にトラックで乗り付けた軍人たちは17歳以上の独身オランダ人女性を整列させ、16人の少女をジャワ島スマラン慰安所に連れ去った。彼女たちは高級将校専門の慰安婦にされ、軍刀で脅迫され暴行を受けた。戦後の戦犯法廷で、当事者の大久保大佐が公判中に自殺、池田大佐が発狂、岡田少佐は死刑、能崎中将が懲役12年となる。事件当時、日本の第16軍上層部はスマランの該当慰安所を閉鎖し少女たちを親元へ帰したが、この一例だけでも安倍氏が賛同した広告「日本軍による強制連行を裏付ける資料はなく…」は誤りだ。オランダ人が相手でもこのような行為をしているのに、差別用語で見下していた中国・朝鮮の女性に同様の行為をまったくしなかったなど到底考えられない。 ※意見広告の「発見された公文書によれば強制募集や誘拐を禁じていた」についても、該当の公文書(陸軍通牒)にそんな文章はないと他サイトで具体的に論破していた。 そもそも若い女性が出稼ぎに追い込まれた朝鮮半島(特に農村地帯)の貧困は、日本による農地収奪が原因だ。都会でも経済を握っていたのは日系企業。保守“有識者”の中には「仕事で慰安婦を選んでおいて被害者ヅラするな」と言う人物も多いが、その意見は彼女たちが騙されて慰安婦にされたことをスルーしているうえ、なぜ彼女たちが日本の支配下でそこまで貧困に苦しんでいたのか歴史を理解しておらず神経を疑う。 ネットでは安倍氏に代表されるような「慰安婦問題はでっちあげ」とするグループに、証拠を集めて冷静に反論を試みているサイトも多い。特に説得力があるのはコチラのページ。戦後の旧日本兵の回想記ではなく、戦時中にリアルタイムで記録された生々しい兵士の手記を数多く紹介している。戦後の回想でも慰安婦問題が国際問題化する前に書かれたものが中心。衝撃的なのは、慰安所の劣悪な環境だけでなく、大量の“日本人慰安婦”の存在だ。彼女たちは日本国内から日本人ブローカーに騙されて慰安所に送られた。室町時代や江戸時代の話ではなく、ほんの数十年前の話だ。戦後になるまで、日本ではこのように奴隷交易同然のことが国家ぐるみで行われていた。従軍慰安婦の問題は韓国との関係で語られがちだけど、もっと広範囲な女性全体の人権問題として捉え直すべきものと痛感。また、日本人相手でも平気で騙すような違法ブローカーであり、何人も半島に渡って同様のことをしていのは火を見るより明らか(保守右派は朝鮮人ブローカーに全員が騙されたことにしたいようだけど)。 水木しげる氏は出征先ニューギニアの出来事をこう記している。「敵のいる前線に行くために、「ココボ」という船着場についた。ここから前線へ船が出るのだ。そういうところには必ずピー屋がある。ピー屋というのは女郎屋のことである。(略)ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。日本のピーの前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。これを一人の女性で処理するのだ。僕はその長い行列を見て、一体いつできるのだろうと思った。一人三十分としてもとても今日中にできるとは思われない、軽く一週間くらいかかるはずだ。しかし兵隊はこの世の最期だろうと思ってはなれない、しかし…いくらねばっても無駄なことだ。僕は列から離れることにした。そして朝鮮ピーの家を観察したのだ。ちょうどそのとき朝鮮ピーはトイレがしたくなったのだろう、小屋から出てきた。とてもこの世のこととは思えなかった。第一これから八十人くらいの兵隊をさばかねばならぬ。兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。と、トイレに行った朝鮮ピーを見て思った。よく従軍慰安婦のバイショウ(賠償)のことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが…やはり「地獄」だったと思う。だからバイショウはすべきだろうナ」。(参考リンク。その後、彼女たちは病院船で移動する際に潜水艦にやられ全員死亡したとのこと。賠償することさえ不可能になった) 陸軍軍医・早尾乕雄中尉が1939年に書いた報告書『戦場に於ける特殊現象と其対策』を現代文に訳。「出征者の性欲を長く抑制させることは、中国人女性への暴行に繋がると気をきかせ、兵站(へいたん、補給機関)が中国にも早速に慰安所を開設した。主な目的は性の満足により将兵の気分を和らげ、皇軍の威厳を傷つける強姦を防ぐことにあった。それでも地方での強姦数は相当あり、また前線でも多く見かける。内地(日本列島)では到底許されぬことが、敵の女だから自由になるという考えが非常に働いているために、中国の娘を見たら憑かれたようにひきつけられて行く。従って検挙された者は不運なだけで、陰にはどれ程あるか解らぬと思う。部隊長は兵の士気昂揚のためと見て知らぬ振りを通したことさえあった。日本の軍人は何故にこの様に性欲の上に理性が保てないかと、私は大陸上陸と共に直ちに痛嘆し、戦場生活1年間を通じて終始痛感した。しかし、軍当局はあえてこれを不思議とせず、さらにこの方面に対する訓戒は耳にしたことがない。軍当局は軍人の性欲を抑える事は不可能だとして、中国の女性を強姦せぬ様にと慰安所を設けた。だが、強姦は非常に盛んに行われ、中国の良民は日本軍人を見れば必ず怖れた。将校は率先して慰安所へ行き、兵にもこれをすすめ、慰安所は公用と定められた。心ある兵は慰安所の実態(騙して連れてきた)を知って、軍当局を冷笑していた位である」。 米国紙に「慰安婦問題はでっちあげ」意見広告を出した国会議員リスト37名。こういう議員のせいで「日本は戦争を反省してない」と言われ続け国益を損なってる。 【民主党/当時】柴崎正直(岐阜)、田村謙治(静岡)、花咲宏基(岡山)、福島伸享(茨城)、松原仁(東京)、三浦昇(山口)、向山好一(兵庫)、吉田泉(福島)、渡辺周(静岡)、金子洋一(神奈川/参)。長尾敬(大阪)は署名後に自民党へ!11名。 【自民党】安倍晋三(山口)、伊東良孝(北海道)、稲田朋美(福井)、金子恭之(熊本)、北村誠吾(長崎)、下村博文(東京)、新藤義孝(埼玉)、高市早苗(奈良)、竹本直一(大阪)、古屋圭司(岐阜)、松野博一(千葉)、山本有二(高知)、塚田一郎(参・新潟)、西田昌司(参・京都)、山谷えり子(参・比例)、山本順三(参・愛媛)、義家弘介(参・比例)、上野通子(参・栃木)、江藤晟一(参・比例)、岸宏一(参・山形)、岸信夫(参・山口)、有村有子(参・比例)、磯崎仁彦(参・香川)、熊谷大(参・宮城)、世耕弘成(参・和歌山)の24名。 【維新】 平沼赳夫(岡山)、中山恭子(参・比例) 頭が痛いのは、この広告に安倍氏が賛同署名をしたのは自民党総裁になってからのこと。この事実が国際的にどういうメッセージになるか。安倍氏を批判する動きは自民内部に見えない。このままでは自民の公式見解は「日本軍は“詐欺”や“人身売買”を見て見ぬ振りしただけで強制してないから我が国は謝罪しない。これが“美しい国”!」という開き直りになる。それが日本人の美徳として世界に認知されるとでも?勘弁して欲しい。でも状況を前向きに考えることも出来る。自民党は衆参両院で201人の議員がいるのに、賛同者は24人に過ぎなかった。9割の議員はサインしていない!それは希望だ。 ※国連人権委員会「日本軍の慰安所制度は1926年の奴隷条約における国際慣習法に違反する性奴隷制度であり、女性への著しい人権侵害である」。 ※保守論客はよく「現代の価値観で当時を裁くな」と言うけど、当時の価値観から見ても慰安婦制度は刑法第226条及び第227条、民法第90条、娼妓取締規則、婦女・児童売買を禁ずる国際条約、奴隷条約(1926)、強制労働条約第29号(1930)などに違反している。 ※「いつまで過去の罪を謝罪せねばならぬのか」という意見に答えるならば、最低でも安倍氏のように戦争犯罪を否定する人物が国家の中心にいるうちはダメだろう。何万票も集めている時点で「日本人は反省してない」と受け止められて当然。「慰安婦問題は日韓基本条約で解決済み」という意見も論点ずらしというか、韓国が個別請求権を放棄した日韓基本条約は1965年に締結されたが、慰安婦問題が浮上したのは1992年。これほどの人権侵害を“後から分かった”から黙殺というのは非情すぎる。心の傷が大きすぎ、そして差別されるのが怖くて被害を名乗れなかっただけなのに…。 ※ネットで池田信夫氏が「慰安婦問題は朝日新聞が捏造した」「植村隆記者の誤報が騒ぎの発端」と触れ回っているが真っ赤な嘘。朝日の記事は1991年。だがそれより4年前の1987年8月14日に「読売新聞」が次の記事を掲載している「従軍慰安婦とは、旧日本軍が日中戦争と太平洋戦争下の戦場に設置した「陸軍娯楽所」で働いた女性のこと。昭和十三年から終戦の日までに、従事した女性は二十万人とも三十万人とも言われている。/「お国のためだ」と何をするのかも分からないままにだまされ、半ば強制的に動員されたおとめらも多かった。/特に昭和十七年以降「女子挺身隊」の名のもとに、日韓併合で無理やり日本人扱いをされていた朝鮮半島の娘たちが、多数強制的に徴発されて戦場に送り込まれた。彼女たちは、砲弾の飛び交う戦場の仮設小屋や塹壕(ざんごう)の中で、一日に何十人もの将兵に体をまかせた。その存在は、世界の戦史上、極めて異例とされながら、その制度と実態が明らかにされることはなかった」。(資料リンク) ※保守の冷泉彰彦氏からも「河野談話」(謝罪談話)の訂正はマイナスという意見があり、氏の主張を以下に要約→ ・「軍による強制連行はなかった」という訂正に成功したとしても、全く「日本の名誉回復にはならない」。一言で言えば「強制連行はしなかったが、管理売春目的の人身売買は行なっていた」という「訂正」を行なうということは、旧軍の名誉にもならないばかりか、そのように主張することで、21世紀の現在の日本という国の名誉を著しく損なう。つまり、日本という国は現在形で「女性の人権に無自覚な国」だという烙印を押されてしまう。
・「強制連行の事実」を否定できても軍人による「強姦」の汚名は晴らせない。現在の世界的な人権の感覚からすれば、「本人の意に反して家族の借金を背負って売春業者に身売りされ、業者の財産権保護の立場から身柄を事実上拘束されている女性」というのは「性奴隷」以外の何物でもないからだ。また「本人としては不本意ながら売春行為を事実上強要され、一晩に多くの男性の相手をさせられた」ということは「強姦」のカテゴリに入る。
・「米軍も日本の占領にあたっては売春婦を用意させた」とか「ベトナム戦争に参戦した韓国軍も似たような行為をした」など「20世紀の後半になっても他にも例があるではないか」という「反論」も多く見られるが、ここにも誤解がある。ここで挙げた米国や韓国の事例に関しては「大っぴらにはやっていない」のだ。
・「狭義の強制連行はなかった」という主張は、裏を返せば「当時の法制や慣行に則した広義の強要はあった」ということであり、「やっていたと堂々と認める」という話に他ならない。これは大変異様なこと。20世紀に起きた「交戦地帯における兵士相手の管理売春の強要」を21世紀の国連加盟国の政府が「狭義の強要よりは反道徳的ではない」と主張する、それも「大っぴらに主張する」というのであれば、理解される可能性は限りなくゼロに近いと考えるべき。
・「河野談話の見直しをしたい」をするなら1つだけ方法がある。それは「狭義の強制連行や強要はなかった」という事実関係の訂正をするのと同時に、「現代の価値観」に照らして、「広義の強制」つまり「事実上の人身売買であった管理売春が、派遣軍に帯同される形で行われていた」ということに関して、その反道徳性に対して厳しく批判をすること。これに加え、現代の日本は女性の人権という問題に極めて真剣に取り組んでいくという宣言を行う必要がある。女性の人権という点では、日本は実は様々な問題を抱え、先進国だけでなく中国を始めとする新興国との比較でも決して十分とは言えないのが実情(国連オブザーバーの世界経済フォーラムが2012年版の「男女格差報告」で日本は135カ国中101位、主要国最低と発表)。仮に「狭義の強制はなかった」という訂正がしたければ、こうした点を誠実に述べることで初めて国際社会は聞く耳を持つ。
・旧軍に対して過剰なまでに「名誉回復」を追求するという姿勢を続けることは、日本の「国体=国のかたち」が戦前戦後で同一であるような誤解を与える。そうなれば、「現在の日本も軍国日本と同一の枢軸ファシスト」だなどという、中国などの理不尽な批判を勢いづかせることになる。
・米国の新議会「第112議会」は女性議員の進出が目覚しく、上院では定員100名中20名、下院は定員435名中78名が女性という史上最高の人数となっている。間違っても慰安婦問題の取り扱いを誤って、現在の日本という国そのものが「女性の人権の敵」として、米議会のターゲットにされるようなことがあってはならない。
〔最後に〕 「日本が支配したおかげで国土が発展した、植民地にも良い面がある」、保守論客が好んで使う言葉だ。その論拠は鉄道網を整備し、産業を発展させ、人口を倍増させた云々だ。これは甘すぎるのでは。手に入れた植民地から効率よく収奪するために生産力を高め、インフラを整えるのは、植民地政策の原則だ。日本が自分の為にやっていることを「発展させてやった」なんて僕は言えない。
そもそも、もし日本による韓国併合が半島の人々にとって良いものであるならば、なぜ「三・一独立運動」が瞬時にして全国に広がったのか。民族にとって、文化や歴史、言語をないがしろにされる「デメリット」よりも価値のある「メリット」などあるのか。建物は壊れても新しいものを作り直せるが、アイデンティティーを否定され、傷ついた心はそういうわけにはいかない。僕なら誇りを傷つけてまで発展したくない。
以前、僕はソウルの北外れにある刑務所歴史館を訪問した。そこは多数の政治犯が日本の官憲に処刑された場所だ。だが、歴史館でもらった小冊子には、一言も「日本は謝罪せよ!」なる文言はなかった。また、独立記念館の入口にある言葉は『過去の不幸な歴史の加害者を許すことは出来ますが、これらは決して忘れてはならないことです。日帝占領期の歴史を展示することは、過去の苦痛を記憶することだけが目的ではなく、共に発展的な未来を目指そうという意思の表れなのです』とある。
韓国の一般の人々は、半世紀も前のことを謝罪して欲しいというよりも、日本人が過去の歴史を学ぶことを第一に望んでいる。被害者数や法律の上での「正しさ」にこだわるあまりに、相手を嘘つき呼ばわりする態度は、過去を忘れ去ろうとする姿勢に映ってしまう。奪ったものの大きさを理解することなく、「〜してやった」という発言の傲慢さが、どれほど相手を侮辱し失望させることか。日本人の美徳である謙虚さを忘れてはならない。 「(日本の行動が)真に植民地を解放するという聖者のような思想から出たものなら、まず朝鮮・台湾を解放していなければならないのです」(司馬遼太郎) |
【在日問題関係のデマ検証で参考になるサイト】 ●政府統計(厚労省)における「新受刑者中暴力団加入者の国籍」 「暴力団員の3割は在日」というコピペがネットに出回っている。08年の新受刑者3265人の国籍を調べると、日本3191人、韓国・朝鮮63人、中国5人、米国2人、不明4人となっており、暴力団全体の1.9%しか韓国・朝鮮人はいない。97.7%は日本国籍。受刑者データを見る限り「3割が在日」というネット情報とまったく辻褄が合わない。 ●“在日特権”に関するデマ…外国人全体が持っている権利を混同したデマが多い。コメント欄でも論戦。 ●韓国のことわざに関するデマ…嫌韓派がよく引用する、韓国人が自分勝手であるかのようなことわざは、真意がねじ曲げられていたり、実際に存在しなかったりするものが大半。日本語にも「旅の恥はかきすて」「秋茄子は嫁に食わすな」など悪意をもって紹介されそうなことわざが色々ある。 ●人権擁護法案に関するデマ…正確な知識を!っていうか、日本の人口約1億3千万人に対して、在日は約60万人しかいない。わずか約215分の1の在日に「乗っ取られる」とか…。危機感を煽るほど、それって日本人のことを馬鹿にしているのと同じでは(汗)。 ●民団新聞に関するデマ…投稿者の名前以外は全く別の内容に変えられている。こういうパターンが本当に多い。誰かが書き込んだ捏造を無批判に書き写し、あちこち貼るのは要注意。 |