愛国リベラル史観・近代史年表〜日本と台湾編
〜今こそ真の和解を、そしてあなたの義憤は他国にではなく日本社会の改革に!〜

2011.9.12

〔はじめに/犬が去って豚が来た〕
東日本大震災に際して、200億円を超える莫大な義援金が集まった台湾。アジアの中でも親日ぶりが際立っており、台湾では日本の芸能人も大人気だ。植民地時代(1895〜1945)に台湾第2の大きさを誇るダム“烏山頭水庫(うざんとうすいこ)”を造った八田與一(はった・よいち)は今でも慕われている。
ただ、今の親日感情だけを見て、「日本の統治が成功した証拠」「台湾人は日本の植民地政策に感謝している」と結びつけるのは、あまりに短絡的すぎる。いま台湾が親日なのは、日本が50年統治した後に大陸からやって来た、蒋介石と国府軍の統治があまりに酷すぎたからだ。台湾には「犬(日本)が去って豚(国民党)が来た」という言葉がある。犬はうるさくても役に立つが、豚はただ貪り食うのみという意味だ。僕らは台湾の人々の好意に甘えるだけじゃなく、抗日運動の弾圧、産業の乗っ取りなど、日本が台湾を統治した50年間にやったことも事実として記憶しておかねばならない(卑屈になれと言ってるんじゃなく、良心の問題として)。

日清戦争後に台湾は日本領土となり、政府は台湾総督府をおいて植民地統治を開始した。海を渡った日本人は45万人。皇民化の名の下に「日本語使用を徹底」「新聞の漢文欄禁止」「改姓名奨励」と同化政策をとり、台湾の寺院を破壊して日本の神社を建てた。日本は鉄道・道路などインフラ整備や教育制度の充実をはかったが、その一方で、選挙権を与えず、議会も設置させず、「二等国民」として差別をした。台湾人の感覚では、日本人が一等国民、朝鮮人・琉球人が二等国民、台湾人は三等国民の扱いであったという。

〔産業の乗っ取り〕
台湾最大の産業は製糖業。日本が植民地にする前には、台湾人が経営する製糖工場が1117カ所あった。その後、三井物産“台湾製糖”が独占的に経営し、戦争末期には台湾人が経営する製糖工場は0カ所になっていた。
●台湾人が経営する製糖工場の推移
1901年 1117カ所
1912年 223カ所
1922年 112カ所
1945年 0カ所(壊滅)
このような植民地支配に対し、統治当初に台湾人の死者1万人を超える抗日運動があり、1920年代には漢族系台湾人が抗日民族運動を展開し、1930年に台湾中部で原住民による抗日蜂起(霧社事件)が起きた。それでは、日本と台湾の近代史を年表から紐解いていこう。

★参考資料(視点が偏らないよう、保守、リベラル、両方に目を通してます)
『世界戦争犯罪辞典』(秦郁彦ほか/文藝春秋)、『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝ほか/産経新聞社・扶桑社)、『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』(越田稜/梨の木舎)、『戦争論』(小林よしのり/幻冬舎)、『新しい歴史教科書』(藤岡信勝/扶桑社)、『戦争案内』(高岩仁/映像文化協会)、『歴史修正主義の克服』(山田朗/高文研)、『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『日本はなぜ戦争へと向かったのか』(NHK)、『シリーズ証言記録 兵士たちの戦争』(NHK)、『日中戦争〜兵士は戦場で何を見たのか』(NHK)、『さかのぼり日本史 とめられなかった戦争』(NHK)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、ウィキペディア、ほか多数。

僕はいかなる政党、政治思想団体、プロ市民団体、宗教団体にも属していません。単純に「何があったか」、事実を知りたいだけです。


(ショートカット) 台湾征服戦争 / 匪徒刑罰令 / 霧社事件 / 皇民化政策 / 植民地化の光と影 / 台湾征討


【近代史年表 日本と台湾】

●1895.4.17 下関条約…日清戦争に勝利した日本は、下関条約で清国に台湾の割譲を認めさせた。翌月、割譲反対派の清国人官僚らが「台湾民主国」の建国を宣言。

●1895.5.29-1902 台湾征服戦争/台湾平定作戦…上陸した日本軍に対して、台湾民主国軍(清国の残兵)や一部の台湾住民が抗日義勇兵となって武力抵抗を開始。日本政府は陸軍中将・能久親王(皇族)を師団長とする近衛師団を台湾に派遣し、北部から掃討戦をおこなった。義勇兵が天然の要塞である山岳地帯にこもって激しく抵抗した為、2ヶ月後に大本営は増派を決定。最終的に約76000人の兵力(軍人約5万、軍夫2万6千人)を投入した。
ゲリラ戦に手を焼いた日本軍は、抗日派の疑いのある村をまるごと殺戮するといった強硬手段に出る。これが台湾人のさらなる反発を呼び、蜂起が拡大した。特に、南西部(雲林地方)攻略で一部の日本兵が婦女子を強姦殺害したため、これが報道されると郷土防衛のため多くの台湾人が義勇兵に加わった。日本軍は赤痢・マラリア・脚気にも苦しめられ、10月になってようやく台南に達する。戦闘開始から5ヶ月後、台湾民主国の総統・劉永福は大陸へ逃亡し、初代台湾総督・樺山資紀(かばやま すけのり)が11月18日に全島平定宣言を発した。

この間、日本軍に殺された台湾民主国軍、義勇兵、住民の死者は計14000人。また、日本軍の死者も4806人(戦死者164名、病死者4642名)、軍夫7000人(推定)にのぼった。病死者を含むと、日清戦争全体における日本軍の死者の半数が台湾平定によるもの。台湾民主国の建国自体は富裕層や官僚によるものだったが、日本軍による虐殺などに対する反感が、台湾全土での郷土防衛戦を引き起こしてしまった。
平定宣言の翌年に再び雲林地方で抗日義勇軍が蜂起すると、日本軍は見せしめの無差別報復で4295戸の民家を焼き払い住民が殺害された。1902年まで7年間にわたり、各地で自治権を求めるゲリラ的な抵抗が発生し、7年間で32000人が日本軍や警察の手で殺害されたともいわれている。

●1896 台湾総督府通達…総督府民政局の内務部長・古荘嘉門は台湾人の反日感情を和らげるために、警察に以下のことを通達した。(1)物品の使用には相等の代金を支払うこと(2)台湾人を叱責や鞭打ちをせず、とくに地方の名望家には敬意を払うこと(3)台湾語を習得すること(4)風俗習慣を尊重すべきこと(5)日本人商人の横暴や詐欺を防止すること(6)台湾人婦女に猥雑行為を行うのを防止する事(7)土匪だけでなく日本人の犯罪にも留意すること---。
このように常識的なことをわざわざ通達せねばならない(つまり守られていない)ことが、反日感情の原因を直接物語っている。

★1898 匪徒(ひぞく)刑罰令…日本は自身に統治能力があることを植民地大国のフランスや英国に示すため、早急に抗日闘争を根絶させる必要があった。第四代総督・児玉源太郎とその右腕、民生局長・後藤新平は、住民の抵抗運動を抑えるため、『匪徒刑罰令』を施行する。略奪、殺傷だけでなく、建物、標識、田畑を破壊した者は死刑、未遂であっても死刑、しかも法令の発令以前に遡って摘要されるという、内地ではあり得ない厳しいものだった。総督府警察が匪徒=犯罪者と見倣せば、たとえ未遂でも死刑にできたことから、日本に逆らう台湾人政治犯に片っ端から匪徒刑罰令を適用し、条令施行後の5年間で3000人が処刑された。

●1915 西来庵(せいらいあん)事件…台南庁のタパニー(玉井郷)で発生した抗日武装蜂起。首謀者の余清芳は台湾総督府警察の元警察官。武装蜂起前に計画が発覚したことから、余清芳らは山間部に潜伏してゲリラ戦を展開した。1957人が逮捕され、866人が死刑判決を受けたが、あまりに死刑囚が多いことから、最終的にはこの蜂起で殺害された日本人95人と同数の95人が処刑された。

★1921 台湾議会設置誓願運動…台湾人の自治を求め、台湾人からなる議会を設置し、法律と予算を審議する権利を要求した運動。日本の国会に台湾議会設置の請願書が提出されたが、内閣はこれを却下した。原敬首相いわく「(議会がなくても)内地同然になった例がある。琉球だ」。議会設置の誓願運動は14年間続けられたが、最後まで認められることはなかった。

★1930.10.27 霧社(むしゃ)事件…最大にして最後の抗日蜂起事件。台中州の山地、霧社地区のタイヤル族が、日本人からの日常的差別や強制労働などに抗議し武装決起。住民側は約千名が殺害された。事件のきっかけは、タイヤル族の結婚式の宴の場を通りかかった日本人巡査に、族長モーナ・ルダオの息子が「一緒に宴に参加しませんか」と手を取ったところ、“原住民の宴は不潔だ”と巡査がステッキで叩いて拒絶したこと。タイヤル族は名誉を重んじる部族。祝いの場で、皆が見ている前で侮辱された族長の息子は巡査を殴打してしまう。巡査側が謝罪を受け入れなかったことから、父ルダオは「日本は必ず報復してくる」と判断、過酷な使役や過去の日本軍への恨み、ルダオの妹が別の巡査に捨てられた屈辱もあって、先手を打って巡査のいる警察署を襲撃する。そして、武器弾薬を奪い、一帯を制圧する際に日本人134人を殺害した。
この深刻な事態に、軍部はすぐさま歩兵連隊、飛行連隊、重砲兵など約1200人を投入。台湾総督府も警察部隊約1200人、人夫約1000人、タイヤル族の親日派約330人を戦闘に参加させた。

蜂起側は山間ゲリラとなって50日以上抵抗を続けたが、軍部は山に隠れるタイヤル族を炙り出すために100発の毒ガス弾を使用し、これを鎮圧する。ルダオは自決し、息子は戦死。反乱に加わったタイヤル族約1200人のうち、約640人が死亡、婦女子を中心に約300人が自決した。投降して収容されたタイヤル族を、警察から報復を煽動された親日派タイヤル族が襲撃し、さらに210人が殺害される。
日本軍は暗号を使って毒ガスの実戦使用を隠していたが、現地の政治結社・台湾民衆党がこれを察知し、「今回の暴動に対し国際間(ジュネーブ議定書)で使用禁止された毒ガスをもって攻撃したのは非人道的行為である」と抗議電報を日本政府に打った。霧社事件翌年の帝国議会では、現地調査を行った全国大衆党の議員が「千数百の軍隊を派遣し、機関銃を乱射し、飛行機を飛ばし、最後には毒ガスまで使っているが、なぜこれほど惨酷な討伐方法を用いたのか」と追及した。

●1937 皇民化政策…日中戦争の勃発時、台湾には約500万人の漢民族がいた。つまり、日本は領土内に敵と同民族を抱え込むことになった。17代台湾総督・小林躋造(せいぞう)は、天皇中心の国家主義のもと、台湾人を強制的に日本人へと変える政策=“皇民化”というスローガンを掲げる。学校や新聞などで中国語を禁止し、日本語の使用を強要。日本語を話せないとバスが乗車を断った。皇民化政策は人の名前の変更にまで及び、台湾では「改姓名」が行われた。職場では改姓名が昇級条件になっており、人々は仕方なしに、みな改姓名をした。様々な形で日本の文化が台湾人に叩き込まれ、民族性が奪われていった。
※判任官(役人)の給料は、内地人が160円、台湾人が100円だった。仕事内容は同じでも歴然とした格差があった。

●1938 宗教弾圧…台湾人が拠り所にしてきた宗教への弾圧を開始。道教寺院や廟の参拝を制限し、建物を取り壊した。各地域で寺院や廟に奉られていた神々の像が集められ燃やされた。家庭にある神像を役所に持ってくるよう命じ、従わない者は29日間刑務所に拘留した。破壊した台湾の寺院や廟の木材を使って日本の神社が次々と建てられ、人々に参拝を強制した。台湾全島の神社の建築に、近隣の台湾人が駆り出された。

●1944.9 徴兵制度/台湾人日本兵…陸海軍は1942年から志願兵を募集していたが、太平洋戦争の激化により1944年9月から徴兵制度が施行された。終戦まで軍務に従事した台湾人は8万人を越え、軍属として徴用された者を含むと約21万人の台湾人が日本軍と共に戦った。そして、中国や南方戦線で3万名以上の台湾人が戦場で命を落とした。長年何も補償がなかったことが問題となり、1987年に台湾人戦没者遺族等への補償が決定され、日本政府は90年代に戦病死者及び重傷者を対象に一人200万円の弔慰金を支払った。この金額は日本人戦死者遺族への補償に比べてあまりに少ないうえ、このお見舞い金があったのみで、給与は現在でも未払であり誠意が問われている。

終戦後、日本人と入れ替わって、大陸から続々と漢人が入って来た。台湾人は自らを“本省人”、戦後に渡来した漢人を“外省人”と呼んで区別した。当初は解放を喜んでいた本省人だが、政府、企業の重要ポストを外省人に独占され、あまりに汚職が横行するため、「こんなはずじゃなかった」と抗議の声をあげる。国民党政権(外省人)は反体制派を「共産主義者のスパイ」と決めつけて徹底的に弾圧し、1947年の『二二八事件』では、“民衆を煽った”として台湾人の知識階級が裁判抜きで処刑された。これら粛清・虐殺の犠牲者は2万8千人といわれている。1949年、蒋介石が大陸から逃れてきたことで国民党の独裁がさらに何年も続き、1989年に初めて民進党など複数政党が参加した選挙が実施された。

〔植民地化の光と影
日本は植民地経営で欧米に対抗意識を持っており、道路、鉄道、港湾、水道、電気、通信など、台湾の公共インフラ整備に大金を投入し、教育水準も飛躍的に向上させた。だが、植民地開発でインフラを整えるのは、けっして地元民の福利が主要目的ではない。いかに植民地から効率よく収奪して利益をあげられるか考え、採掘した資源を運ぶために鉄道を敷くのであり、付随効果として住民の生活向上があった。日本はセルロイド製造に必要な樟脳(しょうのう)を輸出するため、小さな入り江だった基隆(キールン)を大型船が入れる港に作り替え、南北400キロを結ぶ鉄道を建設して輸送ルートを確保し、樟脳貿易で現在の価値で年間100億円の収入を上げた。日系企業が次々と進出して経済を握り、民族の誇りを踏みにじる同化政策が続けられた。
台湾人にとって、教育や施設が与えられたことは「メリット」、自由を制限されたことは「デメリット」。韓国編にも書いたけど、民族や個人にとって、文化や信仰、歴史や言語をないがしろにされる「デメリット」よりも価値のある「メリット」などあるのか。建物は壊れても簡単に新しいものを作り直せるが、アイデンティティーを否定され、傷ついた心はそういうわけにはいかない。奪ったものの大きさを理解することなく、「〜してやった」という発言の傲慢さが、さらなる反感を呼び相手を傷つける。

〔最後に〕
NHK『JAPANデビュー』の台湾特集で、日本統治のプラス面を語った台湾人のインタビューが放送されなかったとして、保守系メディア“チャンネル桜”が独自に再取材をした。ところが、チャンネル桜の意図とは裏腹に、日本人による台湾人差別にスポットが当たってしまった。「チャンコロといっていじめられた」「配給は日本人が白砂糖で台湾人は黒砂糖だった」「日本人の教授から“台湾人はくさい”といっていじめられた」「(医大生時代に)日本人の助教授は台湾人の患者を見向きもしなかった」「日本人は差別とか侮辱とかやっていた」「日本やアメリカでガーガー言ってる台湾人(金美鈴?)、名前は言いませんが、なんで台湾帰ってこないんだ、台湾帰ってきて民族運動やれといいたい。向こうに籍があるんだから台湾人じゃなくて日本人なんだよ」。
台湾人が「日本のおかげで発展した」というのは良い。でも日本人が「我々が台湾を“発展させてあげた”のだ」というのはデリカシーに欠ける。台湾平定作戦とそれに続く熾烈な弾圧にもかかわらず、今こうして台湾の人々が未来志向で親日感情を持ってくれていることに、心から感謝している。台湾を旅していると、そのフレンドリーさに感動を覚えずにいられない。優しい笑顔の人々!

〔捕捉:統治前の台湾征討
1874 台湾征討…明治維新から6年。新政府の政策に士族の不満がうっ積していたことから、その怒りを海外に目を向けさせる格好の材料として、台湾に漂着した琉球人が先住民の襲撃を受けて54人が斬首された事件に大久保利通らは注目する。そして事件から3年後の1874年5月、台湾に約3500人の海外派兵を行なった。前月に木戸孝允はこの侵攻に反対し、参議の辞表を叩き付けて明治政府を去っている。日本は1871年に日清修好条規を締結しており、その第1条は「互いの領土を侵越しない」だった。出兵は修好条規違反であり、また、日本は出兵を清に事前に連絡しなかったことから、日清修好条規締結に尽力した清の宰相・李鴻章は、駐清日本公使に対して「日本の言語道断の裏切り行為であり、私は皇帝や民衆に対して合わせる顔がない!」とテーブルを叩いて激怒した。一時は清との開戦の危機が迫ったが、駐清英公使の仲介で日清間の協定が成立し、日本は多額の賠償金を条件に台湾から撤兵した。
※ちなみにこの時、“日本国の琉球民”を台湾先住民が襲ったことを清国が謝罪していることから、一部中国人が主張する“沖縄は中国のもの”に根拠がないことが分かる。この事件の21年後(1895年)に、年表の前半に記した台湾征服戦争が始まった。

「(日本の行動が)真に植民地を解放するという聖者のような思想から出たものなら、まず朝鮮・台湾を解放していなければならないのです」(司馬遼太郎)



《時事コラム・コーナー》

★愛国リベラル近代史年表/日本と中国編
★愛国リベラル近代史年表/日本と韓国・朝鮮編
★愛国リベラル近代史年表/日本と台湾編
★愛国リベラル近代史年表/日本とアメリカ編
★愛国リベラル近代史年表/日本と東南アジア編
★昭和天皇かく語りき
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★日の丸・君が代強制と内心の自由について
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★普天間基地を早急に撤去すべし
★マジな戦争根絶案