愛国リベラル史観・近代史年表〜日本と東南アジア編
〜日本軍占領時代の東南アジア 1941-1945〜
2011.12.19
1942年時点の日本領
シンガポール /マレーシア / ベトナム / タイ / ビルマ(ミャンマー) / インド / フィリピン /インドネシア / ニューギニア
香港 / ラオス / ブルネイ / オーストラリア / グアム / 南洋諸島 / 千島列島・北方領土
インパール作戦 / ガンジー声明 / (フィリピン戦)皇軍兵士の告白 /名将今村閣下! / 戦争と財閥
〔はじめに/年表作成のきっかけ〕
先の大戦について、僕は昔からひとつの疑問を抱いていた。「日本は白人からアジアの植民地を解放するために戦った」「日本のおかげでアジアの独立が早まった」という意見に触れるにつれ、それでは東南アジアでは独立記念日に日本に感謝するための大規模なイベントがあったり、現地の教科書に「日本に占領されて良かった、日本は独立の恩人」と記載しているのだろうかと。確かに一部有力者には日本を讃える人もいるようだが、それが経済援助目当てのリップ・サービスでないのなら、日本人は“聖戦”で310万人も命を失っているわけだし、一国くらい「日本感謝日」なる祝日を制定してくれてもいいはず。 ところが、外務省が1987年にアセアン(東南アジア諸国連合)各国で行った世論調査は次のようなものだった。
●大戦中の日本について「悪い面を忘れることはできない」 インドネシア:33% マレーシア:32% フィリピン:36% シンガポール:41% タイ:24%
1987年といえば、もう終戦から42年も経っている。ところが「悪い面を忘れることはできない」という人が3人に1人。シンガポールでは4割だ。直接占領しなかったタイでも4人に1人。もしも、このアンケートに「独立を助けた日本に感謝すべき」と外務省が加えていればどんな結果になっただろうか。僕が調べた限り、アセアン各国で現職の国のトップが日本の戦争を讃えた記録は見つからなかったし、アセアン各国の歴史教科書には、日本軍占領時代の苦難の日々、日本の戦争行為への糾弾だけが記されていた。「アジア解放の正義の戦争」をしていたはずの日本軍は、フィリピンで住民の抗日ゲリラに終始悩まされていたし、最初は親日的だったインドネシアやビルマでも、結局は反日闘争が展開されるようになった。そこから見えてきたのは以下の構図だ。 『補給を軽視し“現地調達”を原則とした大本営→食糧を日本軍に奪われ、働き手を基地建設などにかり出される地元民の不満→軍票(日本が作った現地通貨)乱発で超インフレ→約束していたはずの独立もない→これなら欧米の支配の方が良かった→反日運動を憲兵が弾圧→反発を抱いた急進派が抗日武装蜂起→日本軍が反乱指導者を逮捕・処刑→住民の怒りが爆発、全国規模の抗日ゲリラが誕生→ゲリラは一般住民に紛れ込んでいるので疑心暗鬼になった日本軍の一部が住民虐殺→ゲリラと連合軍が連携して日本軍に抵抗』 規模の違いはあれ、日本占領地のほとんどで上記の流れになっている。しかし、このことを日本では学校の授業できちんと教えていないため、「正義の戦争」論が保守派を中心に幅広く支持されている。僕だって日本人として、あの戦争が真にアジア解放の聖戦であればどんなに良かったかと思う。でも、以下の年表を見て頂くと分かるように、多くの現地住民が日本軍に殺害されており(特にインドネシアとフィリピン)、その現実から目をそらして“聖戦”と言っていては相手国民への非礼になる。日本政府は終戦後にインドネシアの独立運動に加わった日本人義勇兵約800人を賞賛するどころか、1991年まで50年近くも「脱走兵」扱いとし、軍人恩給の対象外としていた。マレーシアで独立のために戦った元マレー人民解放軍・田中晴明さんいわく「大東亜共栄圏とかなんとかと駆り立てられて、これは良いことだと思ってマレーに行ってみると、事実というのは、ただ英国の植民地を日本が取った、戦争で横取りしたという、そういう感じを受けた。日本が来たために現地の人はどれだけ苦労したか。食料なども、豊富なところなのに、ほとんど日本が取り上げてしまって、マレーの人は本当に苦労したんですよ」。 この年表は日本占領中に起きたことを国別(約15カ国)にまとめてあり、残虐行為も包み隠さずに書いている。でもそれは戦争犯罪を告発するのが目的ではない。侵略した側は侵略された側以上に、自らが与えた被害を知っておく義務があり(それが誠意というもの)、国際化社会にあってアジア出身者と交流する際に、こちらの無知が相手を傷つけることを避けるためだ。負の歴史を学ぶのは自虐ではなく人としての道理。そして、戦争がどれほど人間性を失わせるものかを知ることが、新たな戦争を抑止することになるし、犠牲になった人々の命を無駄にしないことに繋がると思う。 ※中立を心がけ、日本軍だけでなく連合軍のやったことにも触れていマス。アメリカのとの戦闘(主に玉砕戦)については「近代史年表〜日本とアメリカ編」にアップ(ニューギニアとグアムの住民殺害事件のみこちらに)。香港は東南アジアじゃないけど対英戦ということでこの年表に。
★参考資料…『世界戦争犯罪辞典』(秦郁彦ほか/文藝春秋)、『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』(越田稜/梨の木舎)、『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝ほか/産経新聞社・扶桑社)、『戦争案内』(高岩仁/映像文化協会)、『歴史修正主義の克服』(山田朗/高文研)、『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『昭和天皇』(古川隆久/中公新書)、『昭和の名将と愚将』(半藤一利・保阪正康/文藝春秋)、『レイテ戦記』(大岡昇平/中央公論社)、『天王山』(ジョージ・ファイファー/早川書房)、『ルソン住民虐殺の真相・狂気』(友清高志/徳間文庫)、『虚構の特攻隊神話・つらい真実』(小沢郁郎/同成社)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、『日中戦争〜兵士は戦場で何を見たのか』(NHK)、『沖縄 よみがえる戦場』(NHK)、『さかのぼり日本史 とめられなかった戦争』(NHK)、『日本はなぜ戦争へと向かったのか』(NHK)、『シリーズ証言記録 兵士たちの戦争』(NHK)、『責任なき戦場〜ビルマ・インパール』(NHK)、ウィキペディア、ほか多数。 |
〔太平洋戦争に至る経緯〜すべては日中戦争の誤算から〕
1937年7月7日に北京郊外の盧溝橋から始まった日中戦争は、軍中央の楽勝予想とは裏腹に、中国の徹底抗戦を受けて戦線は拡大、短期戦どころか先の見えない泥沼に落ち込んでいった。日本は「中国がずっと抵抗を続けているのは、欧米諸国や在外中国人(華僑)が支援しているから」と考え、インドシナ(ベトナム)やビルマ(ミャンマー)が中国への支援物資の運送ルートと見ていた。だが当時のインドシナはフランス領であるため手出しができない。そんなおり、1939年9月に欧州で第二次世界大戦が勃発。ドイツは周辺国を次々と占領していった。1940年6月14日にパリが陥落すると、仏の新首相ペタンはドイツと休戦協定を結んで親ドイツ政権を築いた。フランスの屈服を知った日本は、中国補給ルートを遮断する絶好の機会と捉え、3ヶ月後の1940年9月、フランスに圧力をかけてインドシナ北部に日本軍の進駐を認めさせた。その4日後に日独伊三国同盟が締結される。 1941年6月、ドイツがソ連に電撃侵攻。日本は対ソ戦を考えて北方の兵力を充実させてきたが、独ソの激突で極東におけるソ連の脅威はなくなった。北の緊張が解け、軍部は南方に熱い視線を向ける。「ドイツとの戦いで英蘭仏は疲弊しており、今なら資源に恵まれた東南アジア(英領マレーシア、蘭領インドネシア、仏領南部インドシナ)に軍事的進出が可能ではないか」。南進論の声が大きくなり、独ソ戦開始の翌月、日本はシンガポールを空爆圏内におくインドシナ南部に軍を進駐させた(南部仏印進駐)。
これが大誤算だった。米国が激怒したのだ。かつて米国も満州の利権を狙っていたが、あれよあれよと言う間に日本に獲られてしまった。そして今度は米国の植民地フィリピンに日本軍が近づいて来ている。何度も警告しているのに南下をやめない。日本はアメリカから7割、蘭領インドネシアから3割の割合で石油を輸入していた。日本が戦争できるのは米国のおかげだ。米国にしてみれば、自分たちが輸出した石油を使って米国の利権を奪おうとしているわけで、たまったものではない。かねてから日本の大陸進出に抗議していたルーズベルトは、米国内の日本の資産を凍結し、「石油の全面禁輸」に踏み切った。この禁輸措置に日本軍部は大きなショックを受ける。石油の備蓄は2年分しかない。急進派は石油が切れる前に戦争をすべきと考え、御前会議で軍部は「短期決戦なら勝算はある」と訴えた。
1941年12月8日、石油全面禁輸から約4ヶ月半、かくして日本海軍による真珠湾奇襲攻撃が敢行され、陸軍は東南アジア各国に上陸した。
●1941.12.8 極東アジアにおける英軍の最大拠点シンガポール攻略を目指し、真珠湾攻撃に合わせて日本軍がタイ南部やマレー半島北部に上陸。シンガポールの英軍の大砲は全て海に向いているので、日本軍は背後(陸上)から攻撃を加えようとした。 ●1941.12.10 シンガポールを守っていた英国の最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが、サイゴン(南部仏印=ベトナム南部)から飛び立った日本の爆撃機約80機の猛攻を受けて轟沈。作戦行動中の主力艦が航空機に撃沈されたのは史上初。ウィンストン・チャーチルは著書『第2次世界大戦史』にこう記している「この戦争でもっとも衝撃的だったのは、『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』喪失の報告だった」。これによってマレー半島のどの海岸からも日本軍が大挙上陸可能になった。英軍には戦車がなかったが、日本軍は約300両もの戦車を送り込むことに成功した。 ●1942.1.31 日本軍はマレー半島をハイスピードで南下し、シンガポールに隣接するジョホールに到着。途中の山岳部で豪州軍200人が逃げることなく全滅するまで抗戦したことから、日本軍は豪州兵に敬意を表し、彼らの墓に「我々の勇敢なる敵オーストラリア兵のために」と刻んだ巨大な木の十字架をジェマールアン郊外に建てた。2/8、日本軍はジョホール海峡の岸に大砲400門を並べてシンガポールに砲撃を開始。ジョホールからシンガポールへの水の供給を止めた。 ※この迅速な南下には世界的に類例のない「銀輪部隊」が活躍したが、その自転車のかなりの台数が“現地調達”という収奪品だった。
●1942.2.14 英軍病院襲撃…“マレーの虎”山下奉文(ともゆき)中将率いる第25軍は2/9に英軍の極東最大拠点シンガポールへ上陸。英印軍第44旅団の兵士が英軍のアレクサンドラ病院の一角にたてこもって抗戦したことから、第18師団(師団長は盧溝橋で日中戦争を始めたあの牟田口)歩兵第55連隊が病院に突入。軍医たちは赤十字の旗を降ったが、日本軍は非武装の軍医、衛生兵、ナース、患者の区別なしに発砲、銃剣で約30人を殺傷した。その後、降伏した約200人を付近の建物に詰め込み、翌日に次々に殺害していった。正確な被害者数は不明だが、事件後に牟田口師団長が英側に部下の暴行を謝罪している。 ●1942.2.14 バンカ島事件…シンガポール陥落の直前に豪州陸軍のナース65人を含む民間人300人が船で脱出したが、同船は日本機の爆撃で沈没し乗客の多くがバンカ島を目指して泳いだ。ビーチに泳ぎ着いて日本軍に投降した男子は全員が処刑された。65人のナースのうち、21人が銃殺され、12人が溺死し、32人が捕虜となったが、栄養失調とマラリアで8人が息絶え、終戦まで生き残ったのは24人。事件の責任者と推定された折田大隊長は1948年に獄中で自殺。 ※陥落前にシンガポールを出港した50隻のうち40隻が日本軍によって沈められた。
●1942.2.21-3.31 昭南粛清事件/華僑虐殺…華僑(かきょう)とは中国本土から海外に移住した中国人のこと。彼らは抗日戦争中の中国を支援するため資金を送り続けていた。2/15にシンガポールを陥落させた第25軍の山下奉文中将は残敵掃討作戦を発令、3月末までに3度にわたって華僑に対する“選別”を実施、敵性ありと判断した者を「厳重処分」(裁判なしの処刑)に付した。この大粛清は攻略前から予定されていたもの。1/28の時点で鈴木宗作参謀長から大石正幸中佐(野戦憲兵隊長)に「軍はシンガポール占領後に華僑の粛清を考えており、相応の憲兵を用意せよ」と命令が下っている。“厳重処分”となった人々はトラックに乗せられ、チャンギー海岸、ボンゴール海岸で機銃掃射された。英軍検察官は日本軍に虐殺された犠牲者を6千人と推定。シンガポール攻略戦の砲撃で死亡した市民、占領中に処刑、獄死した犠牲者の総数は、当時の昭南特別市政庁の厚生科長・篠崎護いわく「1万9千人から2万人」。マレーシアの中学生用歴史教科書には「シンガポールで4万人の華僑が殺戮され、マレー半島全体では10万人以上の華僑が殺害された」とある。 この苛烈な処置の背景は3つ。
(1)第25軍はスマトラ、ビルマ方面へ主力が転戦することになっており、残った警備兵力では民衆蜂起に対応できないため(シンガポールの人口は80万人)、反乱の可能性を完全に封じるべく弾圧した。
(2)華僑義勇軍がシンガポール島のブキテマ攻防戦で激しく抗戦し、日本軍に多くの死傷者が出たことから、日本兵には華僑に対する憎悪が広がっていた。後日ブキテマの中国系住民は男女子どもを問わず虐殺されている。
(3)産業を乗っ取るためには、経済を握る華僑が邪魔だった。山下中将はマレー半島の華僑代表に、当時マレー半島に流通していた通貨の50%にあたる5千万ドルを提出するよう命じている。家財道具を売り払っても金額が不足した中国人には、植民地経営の主力銀行・横浜正金銀行(天皇家が大株主)から借金させて5千万ドルを奪取している。これで経済の中心にいた中国系企業は息の根を止められた。また、“選別”では肉体労働者は釈放して知識人だけを虐殺している。
※“選別”はやりすぎとして、現場の憲兵隊(大石隊)から軍司令部へ“慎重な対応を”と意見具申があった。だが鈴木参謀長は「山下軍司令官が決めたこと。本質は掃討作戦であり命令通り実行を望む」と昭南警備司令官の河村参郎少将に命じ、大石隊も従うしかなかった。戦史研究者の間では、作戦主任参謀・辻政信が粛清を発案し、作戦参謀・朝枝繁春が命令を起草し、山下軍司令官が黙認・発令したとする見方が多い。辻政信は粛清の各現場で「シンガポールの人口を半分に減らすくらいの気持ちでやれ!」と怒鳴り散らしていたという。
・日本軍はシンガポール占領後に市内の食糧・物資を取り上げたため、価格は終戦まで上がり続けた。1942年と1945年を比較すると、米価は150倍、卵350倍、砂糖142倍、石鹸100倍、インクペン73倍、腕時計118倍と、何もかもが高価になった。 ・占領中、教科書は日本語で印刷され、毎朝生徒は日本の方向に遙拝して君が代を歌わなければならなかった。
・シンガポールの戦争記念公園の“血債の塔”(日本占領時期死難人民記念碑)は、塔の台座部分に戦後発掘された日本軍による犠牲者の遺骨が埋葬されている。また同公園北方の「孫文記念館」(晩晴園)には、日本軍によって虐殺された市民の遺品が展示されている。それらの遺品の中には子ども用品も含まれている。
【マレーシア】(旧英領マラヤ) マレーシアの中学生向け教科書には「当初、マレーの人々は日本のアジア解放のスローガンを信じていたので、日本が進出してくることに地元住民の激しい反対はなかった。後になってやっと現地の住民は日本が約束を守らないことに気づいた。日本人はマレーをまるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪った。日本の支配はイギリスよりずっと酷かった」「多くのマレー人はイギリスを支持し、日本人を憎んだ。日本人はスパイ組織を設立し、次のことをする者は誰でも逮捕された。(1)反日思想を持つ人間と交流する(2)日本人の行政について文句を言う(3)日本に協力する現地人をからかう(4)英国王または女王の写真を掲げる。そして逮捕された者は憲兵隊に尋問された。憲兵隊は罪のない人間を罪人だと自白させる為、手足の爪を抜く、水責め、電気ショックなど様々な残酷な拷問を行った。日本占領時代は国民が恐怖に脅えた暗い時代だった」「日本占領時代、物資を欧米に輸出したり外国から物資を買うことが出来なくなった。日本は軍票を乱発し、卵1個の値段は1941年12月には3セントだったが、1945年には35ドル(約1167倍)になった。砂糖1カティは1941年に8セントだったものが1945年は120ドル(1500倍)にもなった」「日本軍は日本国歌と国旗に尊敬の念を抱くよう強制し、学校では日本語を教えた。毎日生徒は日本の方角に向かって最敬礼して天皇に対する崇拝の念を表すよう強制された。そして人民を愚昧にするため、新聞、雑誌、放送局のニュースは禁止された」。
●1941.12.8 マレー半島上陸…真珠湾攻撃の1時間前に日本陸軍が上陸した。最終目標はフィリピン攻略。 ●1942.1.22 英軍捕虜殺害…ジョホール州バクリ付近の日本軍のチャンギー俘虜収容所(パリト・スロン)を視察に訪れた元近衛師団長・西村琢磨中将が「捕虜を処分せよ」と下命、約150人の英軍捕虜(オーストラリア兵110人、インド兵40人)が機関銃の一斉射撃で処刑され、亡骸はガソリンで焼却された。 ●1943.10.10 アピ事件…日本軍は1942年2月にボルネオ島(当時英領)を制圧し軍政をしく。創設されたボルネオ守備軍は、日本からの補給に頼らない“現地自活”を方針とした。その結果、島内に食料や日常必需品の不足を引き起こし、また道路や飛行場建設のために多数の青壮年が徴用されたことから、原住民の反日感情が高まり武装蜂起に至った。約300人(原住民200人、華人100人)の反乱軍は警察署や日系企業を襲撃し、軍は2週間をかけてこの反乱を鎮圧した。約60人が殺害された日本側は、反乱軍の首謀者アルバート・クォックを探し出すため数千人を拷問にかけ、250〜300人が処刑された。クォックは無実の人々が拷問にかけられるのを止めるために自首し、斬首された。戦後2人の憲兵が処刑の責任者として死刑となった。 ●1945.2-6 サンダカン死の行進…日本の南方総軍は連合軍がボルネオ島の東岸から上陸すると考えて第37軍(約2万人)を配置していた。だが、1945年1月末に、連合軍が西岸から上陸する気配を見せたため、主力部隊と捕虜を東岸サンダカンから西岸ラナウへ移動させた。“移動”といっても山岳地帯、湿地帯、密林の中を260kmも行軍するわけで、捕虜を移送した日本兵582人のうち73人が死亡している。だが、捕虜の悲惨さはそれどころではなかった。サンダカンには飛行場建設のために約2200人の連合国捕虜(英兵&豪兵)がいたが、終戦まで生き延びた者は逃亡に成功した6人だけ。約1200人がマラリアと飢餓によって収容所で死亡し、残りは西岸へ徒歩移動の途中か、到着後に死亡した(歩けなくなった者は射殺せよと命令が出ていた)。 ・“死の行進”第1陣(2月)→453人中、114人が死亡。移動に2週間。ラナウ到着後も約4ヶ月で333人が死亡した。
・“死の行進”第2陣(5月)→536人中、353人が死亡。移動に26日もかかり犠牲者が増えた。
・“死の行進”第3陣(6月)→288人の全員が50kmもいかないうちに全員死亡。
出発地点のサンダカン収容所には約50人の捕虜が取り残され、自然死を待っても死ななかった23人は全員射殺された。6/26の時点で西岸ラナウには第1陣の生存者6人と、第2陣の生存者183人の計189人の捕虜がいたが、8/1(終戦2週間前)にはたった33人に減り、その後17人が射殺され6人が逃亡に成功した。壮絶。
戦後、ボルネオ捕虜収容所長・菅辰次中佐は自決、戦犯法廷で司令官・馬場正郎中将とサンダカン分所長ら4人が死刑となった。
日本軍の降伏後、連合軍の東南アジア司令部が3週間近く英軍をマレーシアに進駐させなかったことが、無政府状態、恐怖政治を引き起こす原因になった。華人の抗日軍を討伐する際に日本軍はマレー人の警官や義勇軍を動員したことから、華人にはマレー人への敵対心があり、戦争末期の頃にはモスクが焼き討ちされるような事態も起きていた(マレー人はイスラム)。日本軍が撤退した地区に抗日軍が入り、日本軍に協力的した警官や密告者が人民裁判にかけられ即刻処刑された。これらにマレー人は危機感を持ち、抗日軍であろうと一般華人であろうと報復の対象にしてしまう。11月にはキキール村落で200人以上の華人がマレー人に虐殺され、井戸に婦女子が投げ込まれた。進駐英軍は戦時中の抗日運動に報いるため華人優遇政策をとり、マレー人との間に何年も確執を残すこととなった。 日本は終戦後、マレーの人々の独立を認めず、イギリスに植民地のまま返還することに決めた。だから、イギリス占領軍がマレーに乗り込むまで、独立運動を弾圧する必要があった。1945年9月5日、日本軍は共和国建設を目指した人民委員会の主要メンバー10人を捕らえ、暴行、拷問を加え、虐殺した。「日本の軍隊が欧米諸国の支配からアジアの人々を解放して独立させるために大東亜戦争を始めた」と信じた人はここでも裏切られた。 しかし、マレーの真の独立のために戦い続けた旧日本兵もいた。
※現在、日本人もよく訪れる観光地ペナンは、日本軍の空襲で大きな被害を受けている。
※日本軍によるマレー住民虐殺の実態は、日本軍の公式文書「陣中日誌」(歩兵第十一連隊第七中隊陣中日誌)に詳しい。
●1941.12.25
英軍捕虜の虐殺…12/18に香港上陸戦を開始した日本軍は砲台陥落の際に約25人の英軍投降兵を銃剣で刺殺。12/25、英軍ヤング総督が日本軍に降伏して香港は陥落したが、一部の英兵が抗戦を続けたことが日本兵を怒らせた。そして降伏後の夜、英陸軍病院を占領した日本軍が、約25人の病院スタッフ(ナース含む)と約60人の患者を虐殺した。事件4日後、両手両足を縛られ刺し殺された50体以上の遺体を生存者が目撃。
フランス領インドシナ(仏印)は現在のベトナム・ラオス・カンボジアにあたる。日中戦争が長期化すると、連合国が行う中国への支援・補給を日本は阻止する必要性に迫られた。対中支援はインドシナやビルマ(ミャンマー)を通して行われ、インドシナでは“ハノイ・ルート”と呼ばれる対中支援ルートがあったが、インドシナはフランス領であり容易に手を出せなかった。東南アジア全体を睨んだ前線基地にするためにも、日本はインドシナを必要としていた(サイゴンからシンガポールに爆撃可能)。
1940年6月、欧州でドイツがフランスに勝利。フランスが弱体化したことでインドシナに介入する隙が生まれた。3ヶ月後(9月)、日中戦争の行き詰まりを打開すべく、フランスに強要して「北部仏印進駐」を成功させた。フランス植民地軍はインドシナ北部から撤退し、日本はハノイ・ルート遮断に成功した。
1941年4月「日ソ中立条約」を結んで北方を固めた日本は、同年7月、インドシナを“フランスと共同で防衛する”という口実で「南部仏印進駐」を開始した。だが、日本軍がベトナム南部へ展開したことに米国は激怒し、ルーズベルトは石油の全面禁輸に踏み切った。半年後に日米開戦へと至ると、日本はインドシナ総督ドゥクーに軍事協定を結ばせた。その内容は「フランス植民地政府は日本軍に食糧を供給し、兵舎を建設し、日本軍の安全を保証する為にインドシナにおける社会秩序を維持しなければならない」という対日従属的なものだった。
日本の教科書には「北部仏印進駐」(1940.9)と「南部仏印進駐」(1941.7)に関しては語句だけが載っている程度。進駐後の現地住民の被害や抗日運動については全く記載がない。日本軍進駐後、インドシナの民衆は日本とフランスの二重の支配を受けることになった。フランス植民地政府は減税するどころか重税を課し、1939年から1945年の間にフランスのインドシナ予算の総収入は倍増している。 1945年3月9日に日本軍がクーデターでフランス植民地政府を滅ぼした後、ベトナム、ラオス、カンボジア3国の国王に“独立”を宣言させたが、実権は終戦まで日本が握っていた。ベトナムではホー・チ・ミン(グエン・アイ・クォックの変名)率いるベトナム独立連盟(ベトミン)が抗日闘争を繰り広げ、北ベトナム各地で武装蜂起を展開した。
●1945.3.12 ランソン事件…北部インドシナ(ベトナム)に駐屯していた日本軍は、戦局悪化にともない、連合国軍が上陸するとインドシナのフランス勢力は敵側にまわると予測。“明(あきら)作戦”を実施してフランス勢力をインドシナから一掃しようとした。3/9、まず日本側はフランスの高級将校らを会食に招き、現場で憲兵が彼らを拘束。同じタイミングで日本軍が戦闘を開始し、ランソンのフランス要塞群を攻略した。この攻防戦で最大の要塞を落とした際に多数のフランス兵が降伏し捕虜となる。日本軍は敵からの反撃に備えて捕虜管理に兵を割くことが出来ず、歩兵第225連隊は次の作戦で移動するため、3月12日夜に捕虜300〜500人を銃剣と軍刀で処刑した。要塞守備隊のルモニエ少将は、他のフランス兵に対する降伏命令の署名を拒否したため斬首された。処刑命令を伝えた小寺大隊長は戦犯裁判の公判前に自決、捕虜殺害に関わった4人が死刑となった。 ●1945.1- ベトナム飢餓…日本がインドシナに求めた最も重要な物資は米。それが、1945年初頭の数ヶ月の間、ベトナム北部で破滅的大飢饉を発生させる原因となった。100万人以上が命の危機に直面し、犠牲者数から言えば南京事件以上のもの。駐留日本軍への供出用にフランス植民地政府が安価で備蓄米の強制買い付けを行い市場の米が不足し、さらに連合国軍の日本軍への空爆で鉄道・船舶などの大量輸送手段を破壊したことにより南北が分断状態になり、南部からの米が北部に届かなくなった。それでなくても、北部農村は日本軍によってジュート(黄麻)など軍用作物・工業用植物の作付けをに強制されており米は減っていた。トドメのように天候不順による大凶作、洪水被害による疫病の発生が重なり、日本軍の人災と自然災害によって膨大な餓死者が出た。 1945年9月2日にホー・チ・ミンが読みあげたベトナム民主共和国の独立宣言では、この飢饉による犠牲者の数を「200万人」としている(犠牲者数は諸説あり、日本が30万人、フランスが70万人、旧南ベトナムが100万人、旧北ベトナムが200万人。1957年の日本・南ベトナム間の戦時賠償交渉では100万人がベースとなった)。
ラオスの高校生用歴史教科書では「日本は植民地の住民をだますために大東亜共栄圏のスローガンを掲げて、それぞれの国に偽りの独立を与え、日本の目的や利益の為に傀儡政権をつくりあげた」と解説。
当初、タイは比較的に親日ムードがあった。1941年春、タイとインドシナの国境紛争を調停に入った日本が、タイ側有利に交渉をまとめたからだ。
●1941.12.8 タイ陸軍と交戦…タイは1939年に欧州で第二次世界大戦が勃発するといち早く中立を宣言した。日本軍はシンガポール攻略を目指し、“通過目的”でタイ南部に上陸したが、タイ政府の許可を得る前に上陸したため海岸線で交戦状態になった。一部地区では40時間も戦闘が続き、タイ側に150人、日本側に250人の戦死者を出した。12/21、「日本タイ間同盟条約」が締結される。この同盟に基づいてタイも英米両国に宣戦布告をするが、タイ側は日本の圧力を理由にするため、宣戦布告は摂政3人分の署名が必要なのに2人しか書いていない(1人は当時雲隠れ)。戦後、宣戦布告は不成立と主張した。 ※日清戦争&日露戦争の天皇による開戦の詔勅(しょうちょく)には「国際法の遵守(じゅんしゅ)」の一文があったのに、12/8の宣戦の詔勅にはなかった。南部仏印進駐でタイの対日感情の悪化を懸念していた陸軍は、上陸作戦でタイの中立を犯す可能性があったので、天皇が嘘をつくことを避けるため、「国際法の遵守」の文言を削除することにこだわった。
●1942.6.28-1943.10.25 泰緬(たいめん)鉄道建設…1942年3月にビルマ(ミャンマー)を占領した日本軍は、来るべきインド侵攻に備えてビルマへの補給ラインを確保する必要があった。海路輸送は米潜水艦の攻撃で輸送船が次々と撃沈されて困難なことから、大本営はタイとビルマの密林地帯を結ぶ全長415kmの鉄道建設を決定する。迅速に完成させねばならず、タイ側とビルマ側の両方から着工した。5年間と見られていた建設期間を大幅に短縮し、1年4ヶ月で完成させたが、そこには1日14時間労働という虐待があった。建設には連合国の捕虜約6万2千人が投入され、このうち約20%にあたる約1万2619人が死亡した。他に賃金労働者として、ビルマ人約10万6千人(死者4万人)、マレー人約8万人(死者4万2千人)が働いたが、半数近くが死亡する凄まじく劣悪な環境だった。栄養失調による衰弱でコレラ、赤痢、マラリアに感染し多数が絶命した。また、賃金こそ払われていたが、日本人監督によるビンタや軍靴の足蹴りが横行し脱走者が続出した。他に死者数は不明だが、インドネシア人4万5千人、日本軍1万2千人も投入されている。地元のタイ人がいないのはバーンポーン事件(後述)の影響。戦後の戦犯裁判で36人の泰緬鉄道関係者が捕虜に対する非人道的扱いを理由に死刑となった。現在、鉄道建設の拠点カーンチャナブリー市内には、連合国捕虜の共同墓地や戦争記念館がある。 ※靖国神社には泰緬鉄道を走ったC56機関車が“奉納”されている。
〔バーンポーン事件/文化の違い〜東南アジアでは頭部に触ってはいけない〕 タイ、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)、ベトナム、カンボジア、ラオスなど東南アジア一帯の仏教圏では、頭が体で一番上にあることから最も神聖な場所と考えられている。頭には魂、精霊、仏などが宿り、他人の頭に触ることは最大限の侮辱的行為となる。それゆえ、子どもの頭を撫でるという習慣もない。一方、日本は軍隊内で連日のようにビンタや鉄拳制裁が行われていたことから、アジアの占領地において日本人的な感覚から地元民を些細なことでビンタした為に、深い憎しみを植え付けるケースが多々あった。また、足は最も下にあるため、足で何かを示したり、足の裏を見せることも侮辱となった。当然、他人を蹴ることは非常に無礼なこと。日本兵は「もたもたするな!」と地元民を蹴るなどし、こうしたことも無用な屈辱感を与えることとなった。
泰緬鉄道の建設にあたって、当初は地元のタイ人を日雇いで募集していたが、建設開始の約5ヶ月後(11/24)、バーンポーンで連合軍捕虜に煙草を差し入れをした「僧侶」(タイの僧侶は民衆から非常に尊敬されている)を日本兵がビンタするというトンデモないことをやってしまう。これは大騒動になり、鉄道工事部隊の日本軍宿営地が報復で夜襲され、将校など数名が射殺された。そして、タイは比較的に親日国であったのに、タイ警察と日本兵が衝突する事態に発展する。日本側はタイ政府に「首謀者の僧侶を極刑にし、死者に賠償金8万バーツを払う」ことを要求。だが、タイでは僧侶を法で罰することが出来なかった。困り果てたタイ側に助け船を出したのが、事件の翌年にタイ国駐屯軍(第18方面軍)司令官に就任した中村明人(あけと)中将。中村司令官は「首謀者の極刑は撤回、賠償金8万バーツは受領後に日本からタイ側に寄贈し、2年前の戦争勃発時に日本軍との交戦で戦死したタイ軍人の遺族のために役立てる」と提案、この見事な解決策で事態を収拾した。中村司令官は改めて駐留日本兵に「タイ人の風習を尊重し頭に触れてはいけない。頭部への殴打はもってのほか」と通達し、バーンポーン事件以降のタイ人雇用は中止された。
※参考にした外部サイト/バーンポーン事件
1991年にノーベル平和賞を受賞したアウンサン・スー・チー女史。その父親アウンサン将軍は反ファシスト人民自由連盟を作って日本軍と戦った独立の英雄だ。日本の保守論客は将軍の娘であるスー・チーさんが、なぜあれほど国民に慕われているか考えるべき。日本はビルマを解放しようとして占領したのではなく、日中戦争におけるビルマからの中国支援ルートを遮断することが目的だった。
陸軍大佐・鈴木敬司は日米開戦前から諜報機関“南機関”を率いて、ビルマから英軍を追い出し独立を勝ち取ろうとする人々を支援していた。南機関によって武器供与や戦闘訓練を受けたビルマ人30人が、建国物語に登場する「30人の同志」として後世まで語られる事になり、彼らのリーダーがアウンサン(アウンサン・スー・チー女史の父親)だった。1941年12月26日、アウンサン将軍らは約1500人(半年後2万3千人)のビルマ独立義勇軍を組織し、日本軍と共に英軍との戦闘を開始。1942年3月、独立義勇軍はラングーン(ヤンゴン)を占領し、さらにインド国境まで英国軍を掃討した。5月にはビルマ全土を制圧し軍政が布告された。鈴木大佐はアウンサン将軍らに英軍追放後は早期の独立を約束していたので、早急にビルマ独立政府を作り上げることを軍上層部に訴えた。ところが、南方軍参謀・石井秋穂大佐は「まずは単なる行政担当機関を作らせ、軍司令官の命令下に管理するのが順序」などと、のらりくらりと対応した。ビルマを独立させたくなかった日本は、1942年6月、アウンサンらに肩入れしていた鈴木大佐を近衛師団司令部付へ転属させて南機関を閉鎖し、翌月にはビルマ独立義勇軍を解散させ、兵力を約8分の1(3千人)に減らしたビルマ防衛軍に再編させた。1943年8月、日本は戦局の悪化からビルマの戦争協力を得るため、傀儡政権を立て形式的には独立を認めた。 ビルマの中学生用歴史教科書→「日本はビルマに形ばかりの独立を与えた。行政機関の各部署には日本人顧問が必ず任命されていた。日本の銀行は全く保証のないない紙幣(軍票)を際限なく発行し、ビルマ経済を破壊した。価値のない紙幣で米や穀物を買い、時にはそれさえ払わずに持ち去ることもあった。外国貿易は三井や三菱といった日本の大企業に独占されていた。国民は貴金属を強制的に供出させられ、男子は労務者として狩り出された。日本支配下では、食糧、衣料品、住宅、医薬品が欠乏し、マラリア、ペスト、天然痘が蔓延した。国民は貧困に苦しんだが、日本人に取り入り、不法なやり方で利得を狙った者は潤った」「ビルマ政府にはファシスト日本が許容した権限があっただけである。一般国民は憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。こうしたファシストの弾圧の結果、人々は怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声が全土に広がった」「1944年8月(インパール作戦で日本が敗北した翌月)、アウンサン将軍は新政権を指して“紙上の独立”に過ぎないと演説し、反ファシスト人民自由連盟を結成。連合軍指導部から武器援助を得るようになった。1945年初頭から始まった“イワラジ会戦”で日本軍が英印軍に敗北したのを契機に、ビルマ国民軍は人民独立軍と改称。1945年3月27日、アウンサン将軍指揮の人民独立軍と各地のゲリラが一斉に武装蜂起を決行し、英印軍の到着前にラングーンから日本軍を追い出し占領した」 ※教科書の中で三井や三菱といった私企業が固有名詞を出されて批判されていることに驚く。
※アウンサン将軍は1947年7月19日、政敵のテロによって32歳の短い生涯を終えた。
★1945.7.8 カラゴン事件…南ビルマのカラゴン村(人口約千人)の村民が英軍に物資を提供するなど協力的だったことから、日本軍歩兵第215連隊第三大隊の大隊長・市川清義少佐が“敵対村”と判断、村民のうち男性をモスクに、女性と子どもを集会所に連行した。英軍の動きに関する情報を訊きだした後、男174人、女195人、子ども266人の計635人が銃剣(弾薬節約のため)で虐殺された。死者は井戸に放り込まれた。千人の村の過半数が殺され、また多くの子どもが殺害されたという悲惨さもあって、戦後の戦犯法廷は市川大隊長を絞首刑に、3人の将校を銃殺刑とした。 【インド】(旧英領)
●1943-44 ベンガル大飢饉…餓死者150万人、飢餓が生んだ疫病等の病死が200万人、計350万人が死亡した大飢饉(死者数は日本人の戦争犠牲者310万人を上回っている)。飢饉の原因は次の3つ(1)日本軍がビルマなどを占領した結果、東南アジア地域からインドへの米の輸入が途絶してしまった(2)植民地軍隊へ優先的に食糧供給(3)英国による輸送船の大量接収。この最悪の大飢饉のなか、1943年12月5日に日本の陸海軍航空部隊はカルカッタを爆撃した。狙いは米英が集積した軍事物資であったが、これによって良好だったインド民衆の対日感情は一変し、インド農民組合は「日本が勝てば戦争が長引き、インド独立を遅らせる」という見解を発表した。 ●1943-45 アンダマン・ニコバル島事件…インドの東側、ベンガル湾に浮かぶアンダマン島とニコバル島では、兵力1万人以上に達した駐留日本軍が、占領末期に多くの島民を英国のスパイ容疑で殺害した。英軍に海上封鎖され、物資不足から疑心暗鬼に陥った結果である。海軍関係では1944年1月に住民44人が銃殺されたアンダマン事件、1945年8月初めにビルマ人9人を銃殺したスチュワート・サウンド事件、同時期に387人が餓死したハヴェロック島事件などがある。陸軍関係では1945年島民約80人が銃殺されたニコバル事件、62人が銃殺されたタルムグリ事件などがある。戦犯件数は両島だけで34件にのぼり、BC級戦犯として44人が死刑となった。 ●1944.6.22 日本傷病兵焼殺…インド・アッサム州ミッションを攻略した英軍は、日本軍の野戦病院を襲撃し、退避できなかった100人以上の日本軍傷病兵(歩兵第60連隊)をガソリンで焼くなどして殺害した。これは国際法「戦地軍隊における傷病者の状態改善に関する条約」(1929/ジュネーブ条約)に違反する残虐行為だ。 〔インド洋における日本軍第八潜水戦隊の捕虜処分〕 1942年に大島駐独大使はヒトラーから「潜水艦戦は商船を撃沈するだけではだめだ、英米はいくらでも船を造るから、急には養成できない乗員を皆殺しにすべき。ドイツはこの方針を採る。日本もそうすべきだ」と勧告を受けた。この報告書は海軍トップの永野軍令部総長(1947年巣鴨プリズンで病死)に渡った。1943年2月末、軍令部の金岡大佐(サイパンで戦死)がトラック諸島の第六艦隊司令部に「撃沈した敵の商船乗員は徹底的に処分すべし」と下命。その後、以下の潜水艦による事件が起きる。
1943.12.14 「呂110」号が英船Daisy
Moller号を撃沈した際、救命ボート上の乗員127人のうち55人を機関銃掃射で殺害。
1944.3.26 「伊37」号が蘭船Tjisalak号を撃沈した際、生存者98人を艦上で処刑。
1944.7.2 「伊8」号が米船Jean
Nicolet号を撃沈した際、生存者96人を甲板に放置して潜行。これには次の経緯があった。艦長は捕虜を銃殺に処すつもりだったが、航海長や機関長付が「戦争とはいいながら、あまりに武士道に反する」と抗議し、艦長が「敵の物質力は無限であり人員を減らすことが勝利に繋がる」と説明していた。そこへ敵哨戒機の逆探知を受け、やむなく急速潜行となった。4日後、現場を奇跡的に通りかかったインド船が23人を救助。「伊8」号艦長の有泉大佐は終戦後に日本へ帰還する船内で自決した。
他にも「伊37」号の英船British Chivalry撃沈、「伊26」号の米船Richard Hovey号撃沈、「伊12」号の米船John
A.Johnson号撃沈の際に救命ボートへの機銃掃射が行われているが死者数は不明。
※潜水艦部隊以外でも同様のことはあった。有名なのは1944年3月の『ビハール号事件』。巡洋艦「利根」が英商船ビハール号を撃沈した際、生存者を収容すると共に、救命ボートが利根に向かってきた為それらも収容した(3/9)。捕虜の総数は104人。司令部から艦長に「捕虜を処分すべし」と指令がくるが、艦長は「いまだ尋問中」「処分せずに労働作業に従事させたい」と意見具申。しかし、司令部の方針は変わらなかった。艦長と副官は助命嘆願を続け、士官捕虜15人、女性2人、インド人20人がジャカルタ港で降ろされたが、3/18(撃沈9日後)に残りの捕虜67人が後部甲板で処刑され遺体は海中に投棄された。
マニラ市庁舎の大ホールに日本軍侵略を描いた歴史壁画があるように、日本軍は抗日運動の強い地域では老若男女の区別なく住民を皆殺しにした。3年半の占領期間に110万人以上のフィリピン人を殺害している。
日米開戦前、日本のフィリピン侵攻を予測したルーズベルトは、フィリピン兵13万人と米軍を合体してアメリカ極東軍(ユサッフェ)を組織し、指揮官にマッカーサーを任命した。本間雅晴中将率いる陸軍第14軍は、1941年12月8日にフィリピンに上陸し、多くの犠牲者を出しながらも3週間後、1942年1月2日にマニラを無血占領した。総司令官マッカーサーはバターン半島に撤退後、「アイ・シャル・リターン」と告げて3/11に豪州へ脱出。日本軍は掃討戦を経て4/9にアメリカ極東軍を降伏させた。
アメリカは日本のフィリピン占領の前から、フィリピンの独立を約束していた。だがら、日本は他の占領地とは異なり、できるだけ早くフィリピンを独立させる必要があった。1943年10月、日本は侵攻を正当化するために傀儡ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン共和国の“独立”を宣言させた。
フィリピンの高校生用歴史教科書→「1942年1月2日、日本軍マニラ占領の翌日から軍政が始まった。夜間外出禁止令が全マニラに施行され、火器、弾薬、その他の武器すべてが没収された。日本軍に敵対するいかなる行動も罰せられ、日本人を1人殺せば、フィリピン人の有力者2人を射殺するという軍の布告が出された。全てが日本支配下に置かれ、銀行、教会、工場、印刷所、学校、劇場は軍当局の厳重な監視を受けた。フィリピン国旗の掲揚は全面的に禁止された。国歌及びアメリカの歌を唄うことも許されなかった。日本の軍票がフィリピンの通貨に代わって配布された」「日本はフィリピン独立宣言以前に、政党活動をすべて禁止し、その代わりにカリバピ(新生フィリピン奉仕団)を設けた。カリバピはフィリピン大統領を選出したがこれは日本の傀儡だった。フィリピン人はアメリカとその民主主義の価値観の方に忠実であった。そして一般市民は抗日ゲリラに全面協力し、食糧やお金を与えた。日本軍はフィリピン人の心まで征服することは出来なかった」。 フィリピンの小学校4年生用歴史読本→「ゲリラは日本と戦い、ゲリラは人々の希望となりました。日本兵はゲリラに復讐するため、フィリピン人のスパイを使いました。日本人は、スパイがゲリラとみなした人々にとても残忍でした。捕らえた者たちを拷問し、要塞に閉じ込めました。捕まった者たちに仲間の名を言わせました」。 ●1942.4.10 バターン死の行進…アメリカ極東軍降伏時の捕虜数は、米兵が約1万人、比軍が約6万2千人、合わせて約7万2千人にも達した。日本側は約50キロ離れたオドンネル収容所まで列車と徒歩で向かわせたが、米比軍は約3ヶ月もバターン半島に立てこもっていたことから、降伏時に栄養不良、マラリア、赤痢で衰弱しており、行軍中に米兵約600人とフィリピン兵約1万人が絶命し、収容所に着いてからも米兵約1600人、フィリピン兵約16000人が死亡した。日本兵は「捕虜になることは恥」と教え込まれており、米比軍の将兵が恥じる様子もなく捕虜になったことを軽蔑していた。その心理もあって、行進から遅れた者を“怠け者”として刺殺、銃殺、生き埋めにしており、終戦後に第14軍司令官・本間雅晴中将、輸送責任者・河根良賢少将、現場責任者・平野庫太郎大佐が戦犯として銃殺刑になった。 ※「バターン死の行進」は米兵の死がクローズアップされがちだけど、フィリピン兵が約2万5千人も死亡(収容所含む)していることも記憶に留めるべき。
※多くの抗日ゲリラは豪州のマッカーサー司令部と連絡を取りながら戦った。
●1944.10.20 マッカーサー再上陸…1942年3月に豪州へ脱出していたマッカーサー将軍は、650隻もの強力な艦隊と10万5千人の米兵を率いてレイテ島に上陸した。2年半ぶりのフィリピン帰還だった。レイテ海戦で初めて特別攻撃隊(特攻隊)が体当たり攻撃を行い、さらに人間魚雷回天などが出撃した。 ●1944.12.14 パラワン島事件…フィリピン・パラワン島の日本軍守備隊は、米軍機の空襲で破壊された飛行場の補修工事に捕虜の米兵約150人を動員していた。12月14日午後、「米軍機が来襲した」と偽って防空壕へ導き、全員が入ったところでガソリンの入ったバケツと手榴弾を投げ込んだ。138人が無残に殺害されたが、命がけで逃げ出した12人が抗日ゲリラに助けられ、米軍勢力圏にたどり着いた。※生存者 ●1945.2.3-3.3 マニラ市街戦…米軍がルソン島(マニラがある)に上陸すると、山下奉文大将率いる第14方面軍は持久戦を選び山地にこもった。しかし、岩渕三次少将率いる1万数千人の陸海混成部隊はマニラ脱出の機会を逸し、玉砕覚悟で米軍を待ち受けた。2/3、米軍がマニラに突入し3週間にわたる凄絶な戦いが始まる。約70万人のマニラ市民は米軍に協力的で、ゲリラとなって日本軍と戦うケースもあった。市民への疑心暗鬼にとらわれた日本兵は、聖パウロ大学で994人を虐殺し、北部墓地で約2千人を処刑し、サンチャゴ監獄でも集団殺害を行った。米軍との激戦の末、マニラの街の半分は日本軍に焼かれ、残り半分は日本軍への米軍の砲撃で破壊された。2/26に岩渕司令官が自決し、3/3に米軍は戦闘終結を宣言。日本軍の死者は約1万2千人、米軍戦死者は1010人、フィリピン市民の犠牲者は約10万人にのぼった。米軍の砲撃で命を落とした市民も多いという。戦犯法廷で山下大将は死刑となった。 ※山下大将がバギオで降伏した際、降伏式に立ち会ったのは、1942年2月にシンガポールを山下大将に引き渡したパーシバル副将軍と、バターンで日本に降伏した後に満州の捕虜収容所から救出され、前日に東京湾ミズーリ号上の降伏式で署名したジョナサン・ウェインライト中将だった。
〔抗日ゲリラと日本軍〕 1942年春に日本軍が島国フィリピンを占領した直後から、各島で民衆が「フクバラハップ」など抗日ゲリラとなって戦った。その数、実に100組織27万人。代表的な例として中部パナイ島の状況を紹介したい。同島に駐留したのは独立歩兵第37大隊約2000人。ゲリラ側は1万〜2万人もいて、待ち伏せ攻撃、施設爆破、地雷の埋設などで抵抗した。これに手を焼いた日本軍は翌年夏から半年にわたって討伐作戦を開始する。しかし、一般住民とゲリラの区別が容易につかず、焦燥感から暴走する部隊が出てきた。同隊の熊井大尉いわく「住民2、3人の首をバサバサと斬り落とし、1人だけ残して(情報を)白状させた」「ゲリラを捕らえると、豚か鶏を料理するようにいとも簡単に処刑した」。ゲリラ側の記録ではこの討伐戦で約1万人の島民が殺害されたという。米軍が再上陸すると日本軍は山中へ退却し、終戦後に投降した。
●1945.3.4 リパ大虐殺…フィリピン戦では「抗日ゲリラ掃討」を名目に、日本軍による住民虐殺が全土で多発した。フィリピン全体で最も多くの老若男女が殺されたのがマニラ南方、ルソン島バタンガス州リパ市ルンバン。一家に10人〜15人の家族がいたとしても、そのうちの1人、2人しか生き残ってはいない。事件は米軍のマニラ奪還から約10日後に起きた。午後11時すぎ、ルンバンの全住民約千人が川の土手に集められ、男性は後ろ手に、女性は数人ずつ紐で縛られた。最初に男たちが日本兵に包囲され、銃剣で脇腹や背中を刺されていった。次は女性と子供。皆殺しだった。午前3時すぎまで虐殺は続き、村は抹殺された。日本軍は陣地構築作業にルンバンの村人を使役していたので、米軍に情報が流れぬよう口封じで殺害されたものとみられる(村にゲリラはいなかった)。戦後、千柱以上の遺骨が同地区の慰霊堂に納められ、堂内にはフィリピン語で「戦争中の1945年3月4日、日本人に殺された千人以上の老若男女の遺骨をここに埋めたことを知らしめる」と刻んだ石版が掲げられた。虐殺の生存者は傷の後遺症で満足に仕事をできない人がいるが、日本政府からは全く補償金が出ていない。 この地域には「藤兵団」と呼ばれる総兵力約1万2千人の部隊が配備されていた。兵団長は歩兵第17連隊長の藤重正従大佐。「藤兵団」が虐殺を行ったのはリパだけではない。ラグナ州のカランバ、ロスバニオス、バイ、サンパブロ、そしてバタンガス州のバウアン、タナワン、サンニコラスなど、合計2万5千人に及ぶ住民が虐殺された。これらは1945年2月初めに米軍が同地域に進攻して来た時に始まり、「藤兵団」が敗北・撤退するまでの1カ月半続いた。
※参考にした外部サイト
●1945.6 ラムット川の悲劇…ルソン島北部を逃避中の在留邦人の集団(民間人と傷病兵)が、ラムット川の氾濫で橋が崩れ足止めされていたところを、米空軍機(P51編隊)と戦車から集中攻撃を受け1000人以上が殺害された。※日本軍の隊列と誤認?しかし攻撃中に民間人が混じっていることは分かったはず。米軍もまたこのような虐殺を行った。 〔日本軍と捕虜〕 日本軍は日露戦争や第一次世界大戦期において敵捕虜を大切にし、国際的に高く評価されていた。しかし、その後の日中戦争以降、“捕虜は恥”という考え方がはびこり、捕虜となった兵士は日本人であっても日本国民から軽蔑の対象となっていった。日本兵が捕虜とならず自決したのは、捕虜になれば故郷の家族が村八分にされるからであった。勝ち戦が続いていた戦争前半はジュネーブ条約(捕虜の権利を定めた国際法)を遵守していたが、戦局の悪化と共に気持ちに余裕がなくなり、捕虜の虐待、殺害が多発するようになる。日本占領地の連合軍捕虜の死亡率は30%で、ドイツの収容所の5%に比べるとかなり高いものになっている(内地の捕虜死亡率は10%)。
インドネシアの中学校用歴史教科書には、日本によるヒトとモノの収奪の実態が詳細に描写されている。
「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。その実態はどうであったか。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争の為に搾り取られた。ジャワ島とスマトラ島は陸軍によって、その他の地域は海軍に支配された」
「インドネシア民族に対する日本の圧政は、実に非人間的なものであった。自然資源と労働力の搾取は徹底的に行われた。民衆はわが国の歴史に例のない苦難を体験した。日本占領時代には全ての政党は解散させたれた」
「あらゆる耕作地は日本軍政府に監視された。収穫物の販売は独占され、価格も日本軍政府によって決定された。それはオランダ東インド会社による香料の独占と、どこが違うだろうか。農地にするという理由で行われた森林伐採は、ジャワ島だけで50万ヘクタール(管理人注・甲子園球場13万3千個分)に及んだ。思慮を欠いた森林伐採は土地の浸食と洪水の原因となった。浸食は土地の肥沃度を低下させ、灌漑に不可欠な水源を涸れさせた。洪水は稲作を破壊し、食糧増産どころか、逆に収穫は減少した。農民たちは田を耕す為に家畜が必要だったのに、日本軍は食用に家畜を大量に殺した。こうして農業生産が減少していったのに、民衆は収穫の80%を日本軍政府に引き渡すよう強制された。飢餓で多くの人々が死んでいった」
「多くの民衆が無理やりロームシャ(強制労働者。日本語の労務者が語源)にされた。ロームシャたちは、橋、幹線道路、飛行場、防衛拠点、防空壕といった、日本の防衛のために重要であった建設工事に強制動員された。ビルマ、タイ、インドシナなど国外で労働させられた人々もいた。その待遇は極めて残酷で、彼らが労働中に少しでも不注意だったりすると、平手で叩かれ、銃で殴られ、鞭で打たれ、足蹴にされた。これに抵抗したものは殺害された。健康は配慮されず、衣服は満足に支給されなかった。食糧は米食ではなくタピオカ粉の粥で、それも一日一回であり、量も限られていた。その結果、何千人ものロームシャは二度と故郷に戻ることがなかった。彼らは働かされていた森林で世を去ったのだ」
※西スマトラのブキティンギでは日本軍の地下司令部建設に3000人のロームシャが動員され、完成時には機密保持のため全員殺された。戦後の賠償交渉で労務者の動員総数は、インドネシア側が400万人、日本側が14〜16万人で大きくかけ離れている。日本軍が1944年11月に行った調査では約210万人と出ている。
●1942.2.6-2.20 ラハ事件…海軍の呉第一特別陸戦隊はアンボン島のラハ飛行場を制圧する際、豪州軍から猛烈な抵抗を受けて多数の死傷者を出した。3日間の激戦後に豪州軍は降伏。その際、日本軍に損害を与えた迫撃砲隊をよりわけ、報復のために約310人を銃剣で刺殺した。戦後、発掘された豪州兵の遺体の手足には電線が数珠つなぎに巻かれていた。 ★1943.10 ポンチャナック事件…戦局の悪化にともない、ボルネオ島に駐屯する日本兵の数が減っていくと、駐屯部隊は住民の反乱を恐れて、反日的な住民の摘発に明け暮れるようになる。実際、日本人による現地人への高圧的な態度や、シンガポール、マレーシアで行われた華僑虐殺により反日傾向が高まっていた。こうした不穏な空気の中で日本側が現地人に対する猜疑心を募らせていたところ、元ボルネオ州知事J・B・ハガ(オランダ人)に抗日陰謀の嫌疑がかかる。日本軍は「予防的措置」として元知事を銃殺し、知事と近い立場にあった人間を片っ端から検挙・処刑した。1943年10月から8ヶ月間の犠牲者の総数は、インドネシア側資料が4000〜2万人、日本側資料が1486人〜2130人となっている。死者が多数にのぼることから、インドネシア側はこの虐殺事件を日本の過酷な植民地支配に対する民族の誇りをかけた反乱として、処刑された蜂起指導者を歴史的に高く位置づけている。戦後、海軍第22特別根拠地隊司令官・醍醐忠重中将ら13人が戦犯として刑死。 ※「ポンチャナック事件」を知っている日本人は殆どいない。現地では教科書に載るほど有名な事件だが、加害者の日本の教科書には載っていない。これでは犠牲者が浮かばれない。
★1944.2 白馬事件/強制慰安婦事件…日本占領下のインドネシアでは15万人以上のオランダ人が捕虜収容所と民間人抑留所に収容され、うち2万人が女性だった。第16軍司令部は好待遇を条件に白人女性の慰安婦を募ったが、中には無理やり連行してくる部隊もいた。1944年2月、民間抑留所にトラックで乗り付けた軍人たちは17歳以上の独身女性を整列させ、16人の少女をジャワ島スマラン慰安所に連れ去った。彼女たちは高級将校専門の慰安婦にされ、軍刀で脅迫され暴行を受けた。2ヶ月後にこのことを知った日本の第16軍司令部は驚愕し、直ぐさま該当慰安所を閉鎖、彼女たちを家族の下へ戻した。戦後の戦犯法廷で、事件当事者の大久保大佐が公判中に自殺、池田大佐が発狂、岡田少佐は死刑、能崎中将が懲役12年となる。慰安婦関連で死刑判決が出たのはこのスマラン事件が唯一。法廷は慰安婦になった35人のうち25人が強制だったと認定した。 ※ジャン・ラフ=オハーンさんの怒りの証言。 ●1944.10.27 ババル島事件…顔の殴打を最大の侮辱と捉える現地の風習を日本人が理解不足ゆえに起きた悲劇。ババル島に駐屯している陸海軍は、住民から不当に安い価格で食糧や煙草を差し出させていた。これに抗議したエンプラワス村の村長を軍嘱託の日本人が殴打したところ、これがきっかけとなり日頃の抑圧に激怒した島民たちが蜂起。問題の嘱託と密偵を殺害し、海軍見張所や憲兵屯所を襲撃した。これに対し、日本軍守備隊は報復討伐を行い、エンプラワス村の住民716人のうち、婦女子を含む400〜500人を虐殺した(インドネシア側の資料では犠牲者704人)。事件を記録した第五師団参謀部報告書は添削、修正が多く、実態が不明。第五師団長・山田清一中将は後に自決。 ●1945.2.14 ブリタル事件…戦争末期になると、日本軍は兵力不足を補うため、インドネシア人による補助部隊ペタ(PETA:郷土防衛義勇軍)を編成した。ペタは補助部隊とはいえ、駐留日本軍の2倍に達する3万8千人の大兵力。やがてペタの内部では、占領政策に対する不満や、日本兵のペタ兵に対する無礼な態度から、反日武装蜂起の気運が高まっていく。ペタ・ブリタル大団(東部ジャワ)のスプリヤディ小団長ら410人は、反乱計画を日本側に察知され準備不足のまま武装蜂起に踏み切った。反乱軍は刑務所を襲撃して政治犯ら258人の受刑者を解放し、警官宿舎や憲兵隊を襲撃した。日本側は全面衝突を避け、親日派のペタ部隊に投降の説得に当たらせた。この策が功を奏し、(1)蜂起軍の責任を追及しない(2)武装解除しない(3)ペタ将兵の待遇改善、これらを条件に反乱軍は投降した。主要メンバーは6人が死刑となった。ちなみに、スプリヤディ小団長は蜂起の初期段階で山にこもり消息不明になっている。終戦後、ペタはインドネシア正規軍の中核となり、スプリヤディは行方不明のまま国軍創始者の一人に列せられている。 ●1945.10.15 スマラン事件…敗戦後、日本軍守備隊は連合軍が進駐するまで2ヶ月間、“現状維持”を命じられていた。一方、インドネシアは8/17に共和国独立を宣言。人民保安団(国軍)を組織し、日本軍に武器の引き渡しを要求した。だが、守備隊上層部は、武器を渡すと戦犯として処罰される可能性があり、本土への復員が延期されることを恐れ、これを拒否し続けた。その結果、対日感情が極度に悪化していく。10月14日夜、連合軍の上陸が4日後に迫り、焦ったスマラン(中部ジャワ)の人民保安団は在留邦人の軍政関係者を一斉拘束した。翌日、守備隊が邦人救出のため人民保安団とついに軍事衝突。インドネシア側の犠牲者は1000〜2000人と言われている。収容所を解放したとき、既に日本人約180人が殺害されていた。 スマランでは日本軍とインドネシア側が交戦したが、他地域では日本軍が武器を渡して衝突を避けたケースも多い。武器を手に入れたインドネシア独立派は、英印第5師団25000人、兵力10万のオランダ軍を相手に戦いを挑み、1949年7月にインドネシア共和国の最終的な独立が実現した。インドネシア人に同情した旧日本兵は、700人以上が自発的に独立運動に参加し、部隊の訓練を行ったり最前線で活躍し、半数以上が戦死している。この独立戦争で女性や子どもを含む40万人がオランダ軍の犠牲になったという。
終戦後に独立戦争を援助した日本兵はほんの一部であり、大半の日本軍は連合軍との間で1945年8月26日に結ばれたラングーン協定(旧宗主国が治安維持を日本軍に依頼)に基づいて、旧宗主国(英仏蘭)側について治安維持活動を行ない独立運動を弾圧した。個人として独立運動を支援した日本人はいるけど、日本軍の組織としては弾圧側にまわったのが事実。
〔インドネシア独立義勇軍に入った元日本兵たち〕 インドネシアやマレーシアなどの東南アジアでは、“アジア解放”の言葉を信じて戦い、敗戦後も帰国せず独立運動に身を投じた日本兵もいた。インドネシア独立義勇軍に参加した元日本兵は700〜903人。彼らは戦死・行方不明者534人と犠牲を出しながら、再占領をもくろむオランダ軍と戦い続けた。文字通り、他国の独立のために戦い、しかも実戦を熟知しているため先頭に立って銃を握った。インドネシア政府は彼らを独立戦争の英雄“45年組”と讃えて軍人恩給を支給した。45年組は陸軍病院に無料で入院でき、没後は国軍葬を経て独立戦争の英雄として英雄墓地に葬られる。一方、日本政府の対応は極めて冷淡で、1991年まで50年近くも“45年組”を脱走兵扱いとし、軍人恩給の対象外(!)としていた。日本政府の軍人恩給を受け取れたのはわずか21名。金額は一人当たり平均48,280円しかなく、しかも受給はこの一回限りだった。ある“45年組”の言葉「我々としては金額など問題外で、日本の軍人恩給が支給されたことによって、脱走兵ではなく戦時中に日本が働きかけたインドネシア独立のための職務を果たしたのが認められたと判断して、大喜びでこれを受け取ったのです」。
※45年組は1963年にスカルノ大統領令でインドネシア国籍を付与された。ただし、同国では「自力独立」を固く信じていたので、元日本兵が協力した事実は長年タブーとされ、80年代に入ってから公に認められるようになった。現在、45年組はインドネシアで「45」の数字が入った特製帽子をかぶる栄誉を受けているとのこと。
※参考にした外部サイト
ブルネイは三重県ほどの面積の小さな国だが石油資源が豊富なため日本軍の重要目標だった。
ブルネイの中学生用歴史教科書→「日本軍は米の収穫時期になるとほとんどの穀類を奪っていったので、ブルネイの人々は米不足に陥った。またマラリアが流行していたのに、日本陸軍はその蔓延を予防しようとしなかった(病院を管理下に置いていたのは日本軍)。日本陸軍が修復したのはブルネイ〜トゥトン、ブルネイ〜ムアラの道路のみだった。この2つの道路を日本軍が修復したのは石油のパイプラインをひくためであった」「日本軍は退却前にセリア油田を破壊し、反日運動を組織したと思われる人々を殺害した。日本陸軍がブルネイから立ち去ると新政府がイギリス軍政の下に置かれた。食糧・衣料が全住民に無料配布された。病院で看護が受けられるようになり住民の健康は快方に向かい、貿易も徐々に再興した。日本陸軍撤退から1ヶ月後、軍政から民政に移った」。
●1945.6.10 ラブアン守備隊玉砕…ボルネオ北部(ブルネイ地区)のラブアン島に英豪軍が上陸し、日本軍守備隊(独立歩兵第371大隊)約440人が玉砕。占領初期の司令官・前田利為中将(1942年9月に搭乗機が墜落)は陸軍士官学校同期の東條英機のことを「頭が悪くて先が見えない男」と批評し、東條が首相になると「宰相の器ではない。あれでは国を滅ぼす」と危ぶんでいた。 【ニューギニア】(西側・旧蘭領、東北・旧独領、東南・旧豪領) ●1943.3.16 秋風事件…駆逐艦「秋風」は東部ニューギニアのカイリル島にいた26人の外国人(神父12人、修道女11人、教会が保護した中国人の子ども3人)を、そして、マヌス島でも神父や宣教師、農園主ら外国人約40人を乗船させた。当初の軍命は海軍の前線基地ラバウルへの移送だったが、海上で外国人全員を殺害するよう司令部から命令が下る。艦長・佐部少佐は60余人の神父ら外国人を目隠しのうえ船尾に連れて行き、小銃の一斉射撃で集団処刑を行った。翌年、秋風は米潜水艦の魚雷で沈没。 ●1944.7 ティンブンケ事件…東部ニューギニア・ティンブンケの日本軍守備隊(第41師団歩兵239連隊)が米豪連合軍に爆撃されたことから、守備隊の浜政一大尉はティンブンケの村民が敵と通じていると疑った。そして、同村と対立関係にあるコログ村民を引き連れて報復攻撃を行った。日本軍はティンブンケ村の男性99人、女性1人を村の中心に集め、軍刀、銃剣、機関銃で虐殺した。事件の50年後、1994年にティンブンケの首長ラクが来日し、日本軍が行った虐殺、レイプ、人肉食などの戦争犯罪に対する補償を訴えたが、日本政府は「サンフランシスコ平和条約で解決済み」として門前払いにした。
【オーストラリア】 ●1942.2.19 ダーウィン空襲…オーストラリア本土、ダーウィン市の軍港を狙った日本軍の艦載機242機による空襲。9隻の船舶が沈没し251人が死亡。負傷者300〜400人。鉄道や燃料タンクなど補給線となるインフラも攻撃したことから、民間人にも死傷者が出た。真珠湾攻撃の総量を凌ぐ弾薬が使用されたという。日本軍は1943年11月まで97回の空襲を行った。 ※オーストラリア本土を100回近く空襲していることを知らない日本人は多い。
●1943.5.14 病院船セントール撃沈…オーストラリア東海岸ブリスベーン沖合にて潜水艦「伊177」号が豪州の病院船「セントール」号を撃沈、299人が死亡した。「伊177」号は64人を救助した。 【グアム】 ●1944.7.12 デュエナス神父処刑…日本軍は1941年12月10日にグアムに上陸し、1日で島内を制圧した。その際に米軍守備隊の6人が逃亡、5人は発見と同時に処刑されたが通信兵ジョージ・ツィードは島民にかくまわれて生き延びた。日本軍の捜索隊は、島の宗教的リーダーで島民から深く敬愛されているデュエナス神父が情報を持っていると判断し、公衆の前で拷問した後に、最後まで口を割らない神父を処刑した。ツィードはその前日に沖合の米艦に救助されていた。 ●1944.7.15 メリッソ村民虐殺事件…米軍再上陸の6日前、日本軍はグアム島南部のメリッソ村民の中から、家族に米軍関係者がいる者や体格の優れた者16人を連れだし手榴弾で殺害した。翌日にも30人の男性が村から連行され殺害された。その4日後、激怒した村民が日本軍守備隊員に報復攻撃をかけ、十数人を殺害する。なぜ守備隊が村民を虐殺したのかは、上陸した米軍との戦いで関係者が玉砕したため不明だ。上陸部隊と連携した反乱を恐れたのだろうか。 【南洋諸島】 ●1944.2-7 トラック病院事件…中部太平洋トラック諸島のデュブロン島(夏島)の第4海軍病院で、米軍捕虜8人を生きたまま解剖(処刑)する生体解剖が行われた。これは院長の岩波浩軍医が、731部隊の陸軍軍医が行っていた生体解剖を「海軍でもぜひやってみたい」と意気込み実施されたもの。岩波軍医は捕虜にブドウ状球菌を注射したり、止血器を取り付けて解剖を行い、生き残った2人の捕虜を“爆風実験”のため1mの距離でダイナマイトを爆発させた。足を引き裂かれても絶命しなかった為、最後は毒薬を注射して殺害。戦後、この事件の捜査過程で、軍医長・上野千里が別件で捕虜2名を生体解剖したことが発覚。クロロホルムで麻酔をかけ肋骨や内臓の一部を取り出した後、傷口をテープで止め斬首した。前者は「二月事件」、後者は「七月事件」と呼ばれる。戦犯法廷で岩波軍医は絞首刑、上野軍医長は終身刑となった。 ●1943.11.26 ぶえのすあいれす丸事件…南太平洋ビスマーク諸島の沖合で日本の病院船「ぶえのすあいれす丸」が米爆撃機の攻撃で撃沈され158人が死亡した。病院船はジュネーブ条約によって攻撃・捕獲の対象にならないと合意されており、米軍による明確な国際法違反。翌年11月にも日本の病院船がマニラ沖で爆撃され32人が死亡している。 ●1945.4.8-8.10 ヤルート島事件…マーシャル諸島のヤルート島にて、第64警備隊司令・升田仁助海軍少将が、抗日的と判断した島民21人を銃殺に処した。升田少将は終戦後に自決。 ●1945.8.19 オーシャン島事件…現キリバス共和国のオーシャン島(バナバ島)に駐留していた日本軍・第67警備隊(500人)の指揮官・鈴木直臣少佐は、終戦4日後に島民140人を断崖絶壁に並べ次々に射殺させた。占領中に加えた島民への弾圧が発覚するのを恐れたもので、戦犯法廷は鈴木少佐ら4人の将校を死刑とした。 ●1945.9.20 ナウル守備兵“死の行進”…豪州陸軍・第二軍団は復員待ちの日本兵(ナウル守備兵)をブーゲンビル島トロキナの収容所へ移送する際、多くの兵が栄養失調にあるにもかかわらず10マイルの徒歩行進をさせ、また到着後もマラリアの感染を放置したことから600人以上の日本兵が死亡した。この命令を発した豪州軍サベージ中将は何の咎も受けていない。不条理なり。 ●1942.5 マダガスカルの戦い(南洋諸島ではない)…あまり知られていないけど、なんと日本海軍はアフリカ大陸沖のマダガスカル島まで進出していた。、ヴィシー・フランス軍の増援要請を受けて潜水艦5隻が出撃し、英国の戦艦ラミリーズを大破させた。 【番外編 日本とソビエト】 ●1945.8.9 ソ連軍侵攻…スターリンは1945年2月のヤルタ会談において、「ドイツ降伏から3ヶ月以内にソ連は日本に参戦する」と、英米と密約を結んでいた。5/8にドイツが降伏したことから、3ヶ月後の8/8にソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦。翌8/9零時から日本支配下の満州と朝鮮に侵攻を開始した。 スターリンは「千島・樺太交換条約」(1875)で日本に帰属した千島列島と、日露戦争に敗北して日本へ譲渡した南樺太を奪回したかった。それゆえ、終戦翌日、トルーマンに対して「千島全島と北海道の北半分」をソ連領とすることを要求した。だが、トルーマンが北海道割譲を拒否したばかりか千島列島に米軍航空基地を作る動きを見せたことから、スターリンは米国より先に千島を占領する必要があると判断。ソ連軍はミズーリ号における降伏文書調印の9月2日を終戦と考え、軍事行動を起こした。
※ノモンハン事件や満蒙開拓民虐殺など、満州を舞台にした戦いは「日本と中国編」に記載。
●1945.8.18 ソ連軍北方領土侵攻…日本が8/15に降伏したにもかかわらず、終戦3日後の深夜に突如としてソ連軍が千島列島東端の占守(しゅむしゅ)島を奇襲侵攻。同島は「樺太・千島交換条約」で日本領土となっており、ソ連に対しての最前線であったことから、国境警備の拠点として第5方面軍・第91師団が駐屯しており激戦となった。当初のソ連軍上陸部隊は8363人、火砲218門。対する日本軍は同島一帯に陸軍約2万3千人、海軍約1500人、戦車64両、航空機8機、火砲200門を擁しており、ソ連軍増援後も何度も押し戻した。日本側は無用な戦闘を避けるため、当日午後及び翌日の2度にわたり、ソ連側に停戦を求める軍使を派遣。ソ連側が即時武装解除を要求したので、「停戦はするがすぐに武装解除はできない」と返答。ソ連軍の攻撃が止む気配がないため、第91師団は21日に総攻撃を予定したところ、大本営から「戦闘行為を停止し、武器を引き渡せ」と指示が届く。これを受け、降伏文書に正式に調印した。日本軍の死傷者は1018人、ソ連軍の死傷者は1576人(死者516人)。捕虜となった第91師団の日本兵1万2千人は、ソ連側に恨みを買っていたことから、シベリアで最も過酷な地域に抑留された。調印翌日夕刻(8/22)、ソ連極東軍総司令官ワシレフスキー元帥は「北海道上陸作戦」の撤回電報を前線に打電した。 ●1945.8.22 避難民輸送船の悲劇…終戦時、樺太には16万人もの在留邦人がおり、周辺海域の日本艦船が避難民輸送のために樺太に向かった。一方、ソ連海軍は「北海道上陸作戦」支援のため潜水艦12隻を日本海に配備、各艦長に「航行中の敵船舶をすべて撃破せよ」と下命していた。また、8/22にワシレフスキー元帥から攻撃中止命令が出てからも、通信事情により25日になっても届いていない潜水艦もいた。 その結果、避難民を乗せた3隻の船舶が魚雷で撃沈され、乗船者の合計約5250人のうち、約1700人が海没してしまった。
・小笠原丸…20日樺太出港。乗船者702人。小樽に向かって北海道西岸を航行中、8/22夜明け前にソ連潜水艦L-12の魚雷を受けて沈没。生存者は海岸にたどり着いた62人のみ。640人が死亡。
・新興丸…21日樺太出港。乗船者約3800人。小樽に向かって北海道西岸を航行中、8/22早朝にソ連潜水艦の魚雷を受け、大破浸水しつつ留萌(るもい)港に入港。犠牲者約400人。
・泰東丸…20日に樺太出港、乗船者780人。小樽に向かって北海道西岸を航行中、8/22の10時頃、ソ連潜水艦L-19から魚雷を受けて沈没。6時間後に日本船が漂流していた143人を救出した。約500人が行方不明。その後L-19は宗谷海峡の機雷原で沈没し、ソ連海軍にとって大戦最後の喪失艦となったためウラジオストックに乗組員の顕彰碑が建立された。
〔最後に〕 当年表は、この地域に散っていったすべての人命を無駄にしないために作成した。もっと生きられたはずなのに、日本軍の進駐で命を奪われた占領地の住民。そして、大義を信じて東南アジアに渡ったにもかかわらず、望まない住民弾圧を強いられ、インパールやフィリピンの密林で死に追いやられた日本兵たち。その無念を思い、ひたすら文献を調べキーボードを打ち続けた。
保守論客は、戦後の歴史教育が自虐的で、“反日教師”が負の歴史ばかり教えていると批判している。この年表を作り終えた僕にしてみれば、「どこが?」と言わざるをえない。むしろ負の歴史なんて教えてないに等しい。アジアの教科書に接して初めて侵略の事実を知るという歴史教育のお粗末さ。ガンジーは「独立に日本の手は必要ないし我々が自分で実現する」と言っていた。従軍した司馬遼太郎も「アジア解放をいうなら、最初に手本として台湾と朝鮮を独立させるのが筋」と指摘している。 古来から日本人の美徳とは“謙虚さ”であった。「アジア独立は日本のおかげ」論はその対局。今世紀に入って、東南アジア各国の日本への好感度はあがっていると聞く。アセアンの人々は、今の日本が戦前の日本と完全に訣別していると信じている。一部の人間が事実誤認の歴史認識を(たとえ善意や使命感からであっても)広めることで、日本人全体の信頼を損なう事態に僕はなって欲しくないし、この年表がそのような保守派の誤解を解くものになればと願っている。 ※右派であろうがリベラルであろうが、日本を愛する気持ちは同じ。歴史問題の対立を乗り越えて、より良い国を作ってきましょう! |