他者の心の自由を奪う法令に安易に賛成しちゃいけない
【日の丸・君が代強制と内心の自由について】
(維新の会)教育基本条例案に反対!(2012.1.12)
〜なぜ僕が不起立教師を擁護するのか〜
日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」。 この美しい条文とその精神を守る為、教職員への「君が代起立強制条例」に反対する意見を書きたい。 2011年6月3日、大阪府議会において橋下知事(当時)率いる“大阪維新の会”が提出した、「国歌斉唱時に教職員の起立を義務付ける条例案」が可決された。内心の自由や基本的人権を制約する危険な条例であり、民主、公明、共産のみならず、保守の自民でさえ反対に回った。だが、維新の会は過半数の議席を押さえており、採決の結果は賛成59票、反対48票。同条例は成立した。 橋下氏は「次はクビにできる罰則条項を盛り込むつもり」と公言している。国歌で起立しないとクビなんて、そんなの普通の自由主義国じゃあり得ない。このまま黙っていると間違いなく府議会で罰則条例が可決されてしまう。何年も自分のサイトで芸術家や文学者という内面の表現者を熱烈に支持し、応援してきた僕が、こんな北朝鮮や中国のような非民主的な条例に賛成できるわけがない。 “愛国心”についてネットで語ると議論がヒートしやすいので、慎重に言葉を選び、強制賛成派の人にも受け入れられるような反対論を目指して以下に記したい。 誤解がないよう先に書いておくけど、僕は日本各地にある歴代天皇124代の墓をすべて墓参し(室町・北朝の天皇まで墓参)、鹿児島・知覧(神風特攻隊基地)や靖国神社・遊就館で、ゼロ戦や人間魚雷「回天」で散った若者の遺書に涙し、ニューギニアやトラック諸島など南方戦線を訪れ戦跡(日本兵慰霊碑)で合掌し、沖縄でも海軍司令部壕や守備隊自決の地を訪れ、ロシアではシベリア抑留者墓地に墓参し、頭山満や北一輝にも墓参し、皇居で催された今上天皇御即位二十年記念特別展に大阪から足を運び、中国のチベット弾圧に反対するためダライ・ラマ法王日本代表部でいろいろ勉強し、能や歌舞伎、文楽といった日本の伝統芸能、そして浮世絵や仏像彫刻など日本美術をこよなく愛し、様々な日本文学を愛読し、邦画では黒澤全作品を鑑賞するなど、文化・芸術面も含めて日本への愛は筋金入りだ。 建国記念日に橿原神宮(神武天皇の皇居跡)に行くなど、行為だけを見れば右派そのもの。っていうか、右翼でも全天皇陵を墓参した人はそう多くないだろう。 その一方で、先の大戦を侵略行為と考えてるし(調べれば調べるほど侵略※根拠詳細)、朝鮮民衆への“三・一運動”弾圧は黒歴史だし、皇室への敬意は守り継がれた文化の保持者としての敬意であり、作られた身分差別としての皇族崇拝に違和感を持っているので(子どもにまで“さま”とか敬語を使うのはやり過ぎ)、僕のような人間は戦時中なら「非国民」として獄中行きだ。こんなに日本を愛しているのに、僕の“愛し方”ではダメなのだ。権力者の望む愛し方だけが“正解”であり許される。だが、過去の負の部分をなかったことにして、都合の良いことだけを教えるなら、文化大革命や天安門事件をスルーする中国共産党と同じだ。 起立しない教師は日本を愛してない訳じゃない。むしろその逆。保守の中には「日本が嫌いなら出て行け」と一方的に“不起立=反日”と決めつける人がいるけど酷い誤解だ。不起立教師は国旗と国歌だから抵抗しているんじゃなくて、かつて侵略戦争の象徴だった日の丸と君が代だから教育者として葛藤している。戦時中に教師は国家・天皇への忠誠を教え込み、子ども達を次々と戦地に送り出した。それゆえ学校行事では、特に卒業式という、子ども達を新たな世界に“送り出す”晴れの場では、過去に重みを感じている教育者であればこそ、君が代を歌うことが出来ないんだ。右とか左とかそういうレベルの話じゃない。 強制反対派から「国旗国歌を新しく作り替えろ」という意見があまり出て来ないのは、国旗国歌を変えても過去の事実は変わらないし、負の歴史を含めて今の日本があるからだ。現実逃避せず、全部受け止めた上で「不起立」という選択をしている。 僕は公務員であっても良心に従って行動する権利があると思っている。なぜなら、近代史を見れば分かるように、国だって過ちを犯すことがあるからだ。“お上の決めたことには従え”“全員ロボットになれ“なら戦前と一緒。「国から給料を貰ってるんだから、国(政府)に従うのは当たり前、嫌なら民間に行って抗議しろ」という意見を聞く度に、どうしてそこまで国の権威を強調して個人の内面を軽視するのかと、ホント悲しくなってくる…。現在、公務員の数は400万人(国家公務員100万人、地方公務員300万人)。400万人全員が指導者の決めたことにはいっさい反論できないって、そこまで公務員を縛ることはないと思う。そんなことを言い出したら、公務員に選挙権があることすら「中立性を損なう」と問題になる。反民主的な職務命令には抗議の声をあげる権利があり、教育者であればいっそう心の自由が尊重されねばならぬと考えてマス。 ※国が過ちを犯すのは戦争だけじゃない。いま問題になってる原発だって、ズブズブの安全基準を見逃してきたのは国の過ちだ。 「戦争と君が代をいつまでも結びつけない」「もう昔のことだ」と克服できた人もいれば、「まだ真の意味で戦後になってない」と君が代を前に立ちすくむ人もいる。反戦の立場から卒業式の度に悩み苦しんでいる人を、僕らの社会は権力者が作った“ルール”で強制排除していくのか、それとも「思想・良心の自由は重要」と保護していくのか、どちらの市民社会を選ぶのかが問われている。 「君が代」の“君”は、戦時中は明らかに天皇だったし、国歌法制化の審議でも政府統一見解で「天皇と解釈するのが適当である」となっている。「オリンピックやワールドカップで君が代を歌えるなら、教育現場でも君が代を歌えるだろ」とか、そういう単純な問題じゃないんだ。 「あの戦争は日本だけが悪いんじゃない」「どの先進国も侵略行為をやっていた」という意見もあるけど、本来の日本人の美徳ってそうじゃないだろう。それは盗人猛々しいというもの。たとえ同じ事をした連中が言い訳しても、自分に過ちがあれば潔く謝罪するのが日本人の美学だ。僕は自分の子どもの担任には「みんながやってたから罪はない」と開き直る人より、過去の過ちをちゃんと見つめて反省し、未来への教訓としていける人間になって欲しい。 これは、都合の悪い事実から目を逸らさないというプライドの問題でもある。欧米諸国が植民地でやったことを知らん顔しても、日本だけはちゃんと迷惑をかけた国の人々に真心が伝わるよう謝罪して、より深い意味で“美しい国”になって欲しいんだ。謙虚になることで日本に自信がなくなったり、愛国心が消えはしない。むしろ過去を反省しない方が、恥ずかしくて日本に自信を持てない。これは全然自虐なんかじゃない。自らの否を認められるという誇りの問題だ。 若い人に知って欲しいんだけど、「日の丸」「君が代」は1999年まで法律上の“国旗・国歌”じゃなかった。それくらい賛否の議論があった。1985年の調査では、大阪府下で卒業式に君が代を斉唱した公立高校はゼロ(!)。法律が可決されたのは、公明党が自民と蜜月関係になっていく過程で賛成票を投じたからだ。僕はこの時、公明党を支持している友人に疑問をぶつけた。「創価学会の創立者、牧口常三郎さんは戦時中に不敬罪で検挙されて獄死し、幹部は根こそぎ逮捕され、機関誌も廃刊命令を受け大弾圧されたのに、なんで国旗国歌法に協力するんだ?」。友人いわく「自民がタカ派路線を突っ走らないよう、公明が側でブレーキをかけてるんだ。その証拠に、小渕首相は可決されても強制しないと言っている」。 実際、国旗国歌法をめぐる衆院本会議で、小渕首相は「政府は国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません」と答弁していた。野中官房長官(当時)も「強制的ではなく、自然に哲学的に育まれていく努力が必要」と考えを示した。でも、僕はめちゃくちゃ不安だった。すぐに拡大解釈されはしないかと。 懸念は的中した。今や処罰が当たり前になった。各地の教育委員会は法制化を理由に、全国の公立学校で日の丸掲揚、君が代斉唱を強力に押し進め、法制化からたった4年で卒業式での実施率がほぼ100%になった(特に都教委@石原知事は04年春の卒業式で193人を懲戒処分する徹底ぶり)。国旗国歌法に罰則がないのに、職務命令違反で罰しようとする。懲戒となった教員は担任から外されるなど露骨な報復を受けた。「公務員なんだから職務命令を守れ。従えないなら民間企業に行け」、このような論理だけが前面に出て、過去の戦争や天皇神格化を反省するという教師の思いは微塵も考慮されなくなった。 橋下氏はツイッターで「公務員なら君が代に敬意を払え」と府内1701校の教員約5万5500人に対し、一方的に意見を押し付けるだけで歴史的背景に目を向けようとしないし、「身分保障に甘えるな」と見当違いの批判をしている。不起立教師をワガママな駄々っ子としてしか見てないことに驚くばかり。ワガママ?福沢諭吉は「自由とわがままとの境は、他人の妨げを為すと為さざるとの間にあり」と言っている。静かに座しているだけのことが、他人の何の妨げになるとういうのか。 ※これについては、逆に“45秒立って口をパクパクするだけのことがなぜ無理なのか”を根気よく起立強制派に説明する必要がある。 また、橋下氏は「これは君が代問題ではない。教員は職務命令を無視できるのか?の問題」と言うが、その職務命令が内心の自由を保護する憲法とモロにぶつかっている事実を見ようとしない。式典の進行を妨害した訳でもないのに、「起立は社会常識」として“ルール違反者”のレッテル貼りで問題をすり替えている。 「規則を守る、守らない」の問題ではない。一部の人々の思想が「正しい」と定義され、法律化してしまうことが問題なのだ(それが許されるならナチス党政権下のユダヤ人弾圧も正しいことになってしまう)。 ------------ ●橋下維新「自虐史観でない教科書を」 大阪市会で決議提案へ(産経ニュース) 大阪府の橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」の大阪市議団は21日、愛国心や公共心育成が盛り込まれた改正教育基本法と新学習指導要領に沿って中学校教科書を採択するよう求める要望書を今月中にも市教委に提出する方針を固めた。同じ趣旨の決議案を9月定例市議会にも提出する方針。 市議団幹部は「新学習指導要領に基づく検定に合格した教科書にも、依然として一部自虐的な内容がみられる」と指摘。「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーらが執筆した自由社の教科書や、同会から分かれた「日本教育再生機構」のメンバーらが執筆した育鵬社の教科書を、「最も改正教育基本法の趣旨に沿った内容」としている。(2011.6.22) →知事が率いる「維新の会」は条例可決からわずか半月で歴史修正主義の教科書採択を求める動きを見せている。知事の“これは思想問題じゃない”発言と、繋げて考えるなという方がムリ。過去の戦争の美化を背景とした君が代起立強制と受け止めざるを得ない。 ------------ 国民の義務は納税や勤労であり、国歌斉唱での起立じゃない。僕の学生時代は日の丸・君が代がなくても、粛々と卒業式は行われていた。むしろ強制が始まってからあちこちで混乱が出ている。教育委員会は卒業式に監視員を送り、着席している生徒が多い学校は、「しっかり指導しろ」と校長に圧力をかけている。都教委はクラスごとに何人座っているかまでカウントし、担任を処罰している。事実上、生徒への間接的な強制になっており、橋下知事の君が代起立条例はその動きを加速するものだ。 既に大阪では処分覚悟で不起立を貫く教師は激減し、今年4月の入学式で不起立だったのは府立高校教員約9千人中わずか38人だ。橋下氏はこの38人を目の敵にし、府議会で「3回違反で免職(クビ)」条例を通すつもりだ。ちなみに都教委の場合は不起立1回で戒告、2回で減給、3回で停職。橋下案は“免職”なので石原知事顔負けの厳罰だ。 11年3月に東京高裁は日の丸・君が代をめぐる教職員167人の処分を「懲戒権の乱用」として取り消す判決をしている。この時はまっこと嬉しかった。ビバ・デモクラシー。 しかし、卒業式でただ一度だけ起立を拒否して戒告処分を受けた元教諭が、定年後に不起立を理由に再雇用を拒否された事例では、5/30に最高裁が「秩序の確保が必要であり校長の職務命令は不当ではない」と元教諭の訴えを退けた。職務命令は合憲とだけ論じ、不採用の当否は判断しなかった。 “秩序の確保”とはなんぞや。45秒間黙って静かに座っていただけで、他人の斉唱を邪魔していない。まして演奏を中止させた訳でもない。思想弾圧もいいところ。最高裁に対しては昨年8月にノーベル物理学賞受賞者の益川敏英さんや作家の赤川次郎さんら506人が、都教委の日の丸・君が代強制を批判した上で、「人権保障の最後の砦として、最高裁判所がその名にふさわしい人権感覚のあふれた判決を」とアピール文を発表していたのに、その声は届かなかった。 ただ、判決の補足意見で「強制が教育現場を萎縮させるのであれば、教育の生命が失われることにもなりかねない」とは付いた。それが分かってるなら原告勝訴でいいじゃないか。少数者の権利を保護することは司法の大切な役割であるはず。 卒業式で、その日一曲歌わないだけで、何十年も毎日授業をやってきた教師をクビにしようとか、再雇用させないとか、その発想はあまりに時代錯誤だ。どうして「ああ、この人は歌わない人なんだな」で終わらず、“厳罰を与えよ”になってしまうのか。 職務命令違反というからピントがぼやける。ハッキリと「国旗国歌不敬罪」と言えばいい。起立強制派は、国旗国歌に反対する自由が日本にあることが許せないのだろうか。思想の自由がある民主国家では気に入らないのだろうか。北朝鮮のようにしたいのか。僕は橋下氏の脱原発発言を高く評価しているし、市民目線に立った発言に何度も拍手を送ってきた。それだけに、この「君が代起立斉唱」>「思想・良心の自由」という判断が残念でならない。 「学校はルールを守ることを教える場所だ。教師が破ってどうする」という意見もよく聞くもの。確かに学校はルールを学ぶ場だけど、同時に「社会にはいろんな考えを持つ人がいる」ことを学ぶ場でもある。その意味では、“先生ですら意見が分かれることがある”と知り、多様な価値観が存在していることを学ぶ絶好の機会だ。「権力者が求める価値観を持たねば処罰される」なんてことを教える場じゃない。それに、ルールは日常の学校生活で知っていくことで、卒業式でしか教えられないものじゃない。 憲法94条には「地方公共団体は“法律の範囲内”で条例を制定することができる」とある。僕にしてみれば明確に第19条「思想及び良心の自由」の保障に違反しているのだから、起立条例可決はあり得ない。教育基本法16条1項でも、教育に対する“不当な支配”を禁止している。憲法99条は「公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う」とあり、憲法違反の通達や条例に従ってはならぬとある。この視点から見れば、不起立教師は憲法を忠実に守っている。良心に基づく不起立教師と、それを免職という言葉で脅迫して意に従わせようとする権力者。思想の自由を認めない為政者は、中東の独裁者や金正日と同じだ。橋下氏はあんなに猛烈に金正日を叩いているのに、やってることが重なるのは本人としても不本意ではないのか。 旧日本軍の首脳はアジア解放を大義名分にする一方で、補給線を極端に軽視し、兵士の食糧は現地調達を基本にしていた。日本軍に身内を殺されたり、少ない食糧を徴発され飢餓に苦しんだ人は、日の丸や君が代にトラウマ的な負のイメージを持っている。肉親を殺されたアジア、特に中国の人々にとって、日の丸や君が代は侵略のシンボルであり、そのような人たちにすれば、橋下氏がやろうとしていることは、ドイツにおいて卒業式でナチの軍旗を掲げて旧ドイツ国歌やナチ式敬礼を教師に強要するのと同じように映るだろう(日本人には全く異なるものでも)。 これは想像力の問題なんだ。被害者の感情に共感できる人を、共感できない人が罰しようとしているわけで、あまりに理不尽すぎる。「60年以上昔のことでも、いまだに苦しんでいる人がいるかも知れない」、こう想像することは人間として大切なこと。加害者にとっては「過ぎた話」でも、被害者にとっては現在進行形の苦しみで、まだ歴史の1ページなっていなんだ。 学校という場所は、世間にはいろんな考え方があることを学ぶ所でもある。式典進行を妨げる行為をするなら問題だけど、立たない教師がいたところで何が問題なのか?様々な教師がいることを各家庭で親が話せば良いし、子どもにとっても「あの信念はどこから来るのだろう」と戦争について考えるきっかけになる。 愛国心を育むのは歴史教育でなく、現在の世の中のあり方。“自己責任”という言葉で弱者を切り捨てる社会、汚職に手を染める政治家や天下り先確保に奔走する官僚、利益のためなら経営倫理などどこ吹く風の大企業、サービス残業で疲れ果てた親、先進国では類を見ない自殺大国、こうした問題を改善するのが最優先なのに、教師を強制的に起立斉唱させても、それをもって子どもが国に誇りを持つとは思えない。恒常的な大人社会の腐敗を正すことこそが何より重要。愛国心を国民に強要することで国家の体を維持しているような国は、そんなことでしか求心力が保てないわけで、先があまり長くない。 最後に。思想・信条の自由、表現の自由は何世紀にもかけて民衆が獲得してきた大切な権利だ。これを手に入れるためにどれほど多くの命が消えていったか。何千、何万というレベルじゃない。そんな簡単に手放していいものじゃない。保守論客で国旗・国歌に敬意を払えと言っている人に、自分と意見の異なる人に敬意を払えない人がなんと多いことか。君が代強制への拒否はマナー違反でも非常識でもなく、憲法で正当に保障された思想・良心の自由という権利。その大切な自由をワガママだと思い込まされている人に言いたい。他者の心の自由を奪う法令に安易に賛成しちゃダメだ。僕のような“風変わりな”愛国者を容認するのか、法を作って駆逐するのか。日本は前者であって欲しい。人間はそれぞれ歩んできた人生が異なるのに、思想が一色に染まってる方が不健全だ。 現在の天皇陛下が、教育現場での国旗国歌の強制に反対した有名なエピソードを紹介し、このコラムを締めくくる。2004年10月28日、当時の東京都教育委員・米長邦雄氏が赤坂御用地の園遊会で陛下と交わした会話。 陛下:教育委員会として本当にご苦労さまです。 米長:はい、一生懸命頑張っております。 陛下:どうですか? 米長:日本中の学校に国旗を揚げて、国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます。 陛下:ああそうですか。 米長:今、頑張っております。 陛下:やはり、あれですね、強制になるという事でない事が望ましいですね。 米長:ああ、もう、もちろんそうです。本当に素晴らしいお言葉を頂きまして有難うございました。 ※“大阪維新の会”が大躍進した春の統一地方選では、同会のマニフェストに「君が代起立条例」はなかった。府民は地域活性化や財政改革の手腕に期待して維新の会に投票したのに、選挙後の最初の議会に出してきた重要条例案の一つがマニフェストにない「君が代起立条例」って、それは違うだろう。知事は「不起立教師の存在を知って」提出したというけど、反骨教師がいるのは何年も前から分かってたハズ。条例にするなら全候補者のポスターに「“維新の会”は全教師の内心の自由を否定し、国旗に向かって強制的に起立斉唱させます。どんなに真面目な先生でも国歌斉唱の45秒間座っていれば問答無用でクビにします。不起立の理由が侵略戦争の過ちを繰り返したくないという思いでもクビ、とにかく逆らえば全員クビ」と書くべき。府議会第2会派の公明党は、これまで党是に掲げてきた平和・人権を今こそ前面に出し、知事に抵抗して欲しい。 ※保守の一部は今も“日教組憎し”と息巻いているけど、既に体制側に全面降伏したボロボロの日教組を相手にいつまでシャドーボクシングしているのだろう。日教組は1995年9月の定期大会で、「学習指導要領を認める」「最高議決機関は職員会議でなく校長」「任命主任制度への反対闘争を終結」「日の丸・君が代強制への反対闘争の棚上げ」という文部省(当時)との協調路線を宣言し、最盛期に約9割あった組織率は、今や3割以下になっている。 ※日中戦争について一言。保守派は「中国側から満州とか上海租界に攻撃してきた。侵略を始めたのは中国」という。実際の最初の攻撃はどっちとか、そこに日本軍がいた事実はスルーしたとして、たとえ正当防衛であったとしても、はるか内地の南京や重慶まで攻略するのは理由として無理がある。大陸だけで100万人も兵を送っているわけだし。「中国を支配せねばロシアが攻めてくる」論にしても、日露戦争後はロシア革命で大混乱が起き、さらにドイツと緊張関係があったあのタイミングで、日本侵略まで考えていた明白な証拠(文書)って、まだ見たことない。 ※かつて日本がファシズムに走ったとき、多くのメディアは警鐘を鳴らさなかった(むしろ煽った)。今回の「国歌起立強制条例」や最高裁の「職務命令・合憲判断」に対しては、以下の報道機関がちゃんと反対意見を社説に載せたことを、未来の日本人のために記録しておく。→朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、中日新聞、北海道新聞、沖縄タイムス、琉球新報、信濃毎日新聞、西日本新聞、中国新聞、徳島新聞、南日本新聞。また、反対声明を日弁連と大阪弁護士会が出した。 ※僕と同じ強制反対派の人、勇気を出して公の場でも語りましょう。ネット界では大型掲示板だけ見てると賛成派の声が大きく聞こえるけど、ライブドアブログでは反対派の方が多い。 |
●1987年夏・沖縄で起きたこと〜日の丸焼却事件とその背景 (2012.2.8) 先日、ある人から「不起立教師は、たかが1分間起立して口をパクパクする真似がどうして出来ないのか。それで角が立たず丸く収まるのに」と質問され、結局そこのところが伝えきれてないから、僕がいくらここで憲法第19条(心の自由の保護)の価値を訴えても、教師の苦悩が届き難いのだと感じた。そして、僕は一番大事なことを語り忘れていたことに気づいた。日の丸・君が代を教育現場に導入するに当たって、生徒がどれほど反発したかということだ。不起立教師の話ばかりで、生徒のことを語っていなかった。1985年から卒業式での義務づけが始まり、僕はその時高校3年だったから、当時の混乱をすべて覚えている。特に沖縄では立て続けに大きな事件が起きたので、それを紹介することで、不起立教師に貼られている“変わり者”“自己中心者”というレッテルが正当なものではないことを証明したい。 1987年10月26日、沖縄県読谷村(よみたんそん)でその“事件”は起きた。沖縄初の国体において、ソフトボール競技の開始式の最中に、スコアボード上の日の丸を地元住民の知花昌一さん(当時39歳/スーパー経営)が引きずり下ろしライターで焼却したんだ。知花さんは“国体の開始を15分遅らせた”ことを理由に威力業務妨害で逮捕された。何が知花さんを駆り立てたのか。 太平洋戦争の沖縄戦では県民約60万人のうち、現地徴兵された島民も含めて20万人が死んだ。実に、3人に1人だ。米軍が上陸したのがまさにこの読谷村であり、日本軍が本土上陸の時間稼ぎのために内陸部へ撤退した後、取り残された村民はガマと呼ばれる2つの洞窟に逃げ込んだ。シムクガマに逃げ込んだ約千人に対し米軍が投降を呼びかけると、人々は「米兵は赤鬼」「降伏者は非国民」と日本軍から教え込まれていた為に、投降を拒否して竹槍で突撃しようとした。偶然、避難民の中にハワイへの出稼経験者2人がいて(比嘉平治氏、比嘉平三氏)、「アメリカ兵は一般人を殺害しない」と人々を説得し、さらに2人が米軍と交渉したことで、 殆どの住民が助かった。 だが、もう1つのチピチリガマでは「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と82名が集団自決してしまう。このうち半数以上の49名が子どもだった。自決と言っても赤ちゃんは自分で死ねない。“米兵に殺されるくらいなら自分の手で”と親たちは我が子を包丁、鎌、ナイフで刺し、油に火を放った(最初に18歳の娘さんが「お母さん、私を殺して」と叫び、それが引き金となって集団自決が始まった)。 それから27年後の1972年5月15日、沖縄は日本に返還された。島民は米軍基地が撤去されると期待したが、変わったのは国籍だけで基地の大半はそのまま残った。「本土防衛の捨て石となって県民20万が死んだのに…」と、沖縄の人々には日本政府への不信と失望が渦巻いた。復帰の13年後(1985年)、中曽根首相が靖国神社を公式参拝し、文部省は全国の公立学校に式典での日の丸掲揚、君が代斉唱を徹底するよう初めて通達を出す。2年後の沖縄国体に皇太子が出席するため、日の丸・君が代なしで国体を行う訳にいかなかったという背景もある(正式に日の丸と君が代が国旗・国歌となったのは、これより14年後の1999年)。この通達を受けて沖縄の教育現場では大混乱が起きた。1985年時点で、掲揚・斉唱している学校はゼロ。県教育委員会から校長や教頭に猛烈な圧力がかかった。 通達の翌々年(1987年3月※国体の半年前)、卒業式を迎えて沖縄では生徒達の反乱が続発した。 ●北谷高校…卒業生400人が「日の丸掲揚」に抗議し、会場内に入らず外で待機。学校側が掲揚を断念したことで、卒業生は会場内に入り大きな拍手の中で式が始まった。 ●中部高校…全卒業生が「会場に日の丸があれば、舞台の菊の花を撤去して抗議の意思を表そう」と事前に申し合わせ、一人一人が菊の花を持って退場。さらに一人の卒業生が日の丸を舞台の下に放り投げた。教頭と生徒との言い合いの後、ついに卒業生が「もう式はやらなくていい」と一斉に退場。結局、掲揚は中止され卒業式が再開された ●読谷高校…女子生徒が壇上から日の丸を引き下ろし、友人と共に3人で旗の撤去を訴える。その生徒に向かって教頭は「あんた、成人だったらこれは犯罪行為だよ」と叱りつけると、生徒は「誰が賛成しましたか!生徒は賛成しましたか!」と叫ぶ(卒業式の主役である生徒には掲揚について何の説明もなかった)。彼女は会場を飛び出すと、旗を体育館横のドブに突っ込んで塀の外に投げ捨てた。この様子が記録された『ゆんたんざ沖縄』(6分)がYouTubeにアップされていた。この動画だけいきなり見ると、ドライな人は彼女の絶叫に、“何を熱くなってるんだ”と引いてしまうかも知れないけど、背景にある読谷村の筆舌に尽くし難い歴史を考えると気持ちを分かってもらえると思う。事件後、読谷村では女学生を非難する声は出ず、賞賛の拍手が圧倒的だった。 6月、塩川文部大臣(塩じい)が教育委員会総会で「国旗・国歌を大切にする教育を積極的に進めてほしい」と要請。 8月、沖縄国体が近づき今度は「君が代」が問題となってくる。 ●豊見城中学校…吹奏楽部の一部生徒が君が代の練習を断り、国体開会式の参加を取り消された。部員は一人ずつ職員室に呼ばれ「演奏するか、しないか」を問われ、親から「国体に出られるかどうかの踏み絵にするのはおかしい」と声があがった。 10月、国体2週間前。 ●沖縄市立山内中学校…テニス競技の開会式で君が代合唱予定の女子生徒たちが斉唱を拒否し合同練習がストップ。「学校が歌えと命令したら絶対に国体に出ない」と反発。 ●浦添市立仲西中学校…吹奏楽部の生徒たちが演奏を拒否し、国体事務局が父母に演奏させるよう要請する。生徒は最後まで君が代演奏を拒否したため、国体当日は電子オルガンの演奏に差し替えられた。 そして、冒頭に記した秋の沖縄国体が始まる。日本ソフトボール協会会長の弘瀬勝氏は、競技会場となった読谷村に対して、「日の丸掲揚、君が代斉唱をしなければ別の場所で開催する。他県での開催も考えられる」と通告し、何年も前から国体開催の準備をしてきた村長は苦悩の末に従うことを選んだ。 弘瀬氏が競技前日にチビチリガマ参拝を行うことが発表されると、集団自決で家族を失った村民が“参拝を阻止しよう”と話し合った。ガマの前に集まったソフトボール協会関係者に知花さんは「ここは日の丸・君が代によって教育された村民が多数自決した場所だ。そこに参拝するということが、どういうことなのか考えてほしい」と訴え、弘瀬氏には「日の丸を押しつけたあなたがなぜ参拝するのか」と抗議した。 この翌日、知花さんは野球場で日の丸を下ろし火を放った。胸の内に、読谷高校卒業式の女生徒の行為に、大人として応える義務があるという思いもあった。知花さんは警察出頭前に会見を開き、“読谷村は米軍の上陸地点だった”“今も村の47%が米軍基地”と切り出した。 「沖縄は天皇・日の丸・君が代によって、徹底的に教育され『動物的忠誠心』とまで言われたほどに、戦争に動員されていった。その結果が20万人の戦死者であり、集団自決なのです」「集団自決は自分が愛するからこそ、自分の手にかけていくという、親が自分の子どもを、兄弟を手にかけていくという、想像を絶する悲しい出来事です」「日の丸を先頭に君が代を歌い、天皇を崇拝し、総動員されていったのが沖縄戦なのです」。そして、同地に住む者として日の丸掲揚は受け入れられないこと、スポーツに『日の丸・君が代』は必要ないこと、読谷村は国体成功のために一丸となって準備を進めてきたことを語った。 この事件は大きな波紋を呼んだ。脅迫電話が続き、2日後の深夜に知花さんが経営するスーパーが放火され、店舗の一部が焼けた。6日後には、右翼が真っ昼間にハンマーを手に店に殴り込みをかけ、買い物客がいる前で店内をメチャクチャに破壊した。そして右翼はこともあろうに、集団自決のあったチビチリガマ前の『世代を結ぶ平和の像』を無惨に砕き、銛(もり)を地に突き立て「国旗燃ヤス村二平和ワ早スギル天諌(てんちゅう)下ス」と書かれたビラが貼り付けられた。 前述したように、僕はこれらの報道をずっと新聞やニュースで見ていたので、“政府はめちゃくちゃなことをする”と憤っていた。ロードローラーで人の心を押し潰していくように見えた。そして、国旗国歌法が可決する際の「政府は国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません」という首相答弁が“なかったこと”にされていく過程をリアルタイムで見てきた。今だって全国の0.6パーセントの面積しかない沖縄の地に、75パーセントもの米軍基地が集中しており、素直に日の丸・君が代に向き合えない人がいると思う。普天間のことにしろ、政府の冷淡な対応が続いているし。こうした、戦中、戦後の経緯を踏まえて、不起立教師は立てないでいる。愛国心がないからじゃない、苦しみを感じている人に共感できるからだ。旗や歌は愛国心を計るバロメーターではなく、自国の文化への深い愛こそが、真の愛国心だと僕は思っている。 |
上記コラムについて“義務化賛成派”の方からたくさんのご意見を頂きました。すべての方に個々に返事を書くのは物理的に不可能なので、主な意見は以下の10個に集約されると思い、この場を借りて見解を書かせて頂きますね。 (1)学校式典の主役は生徒であり、生徒のためにも起立すべきでは。 →“生徒のために”という論理の前提にあるのは「生徒は起立を望んでいるに違いない」というもの。もちろん起立を望む子はいます。しかし、サイト読者の高校生や知り合いの学生さんにも「“卒業式は子ども達のため”と言って起立することが当然と語る大人がいるけれど、私のように“座っていて欲しい”と考える子どもだって存在しているんです」という子がいます。不起立を嬉しいと感じている生徒の存在が、起立を強制したがる人の頭から抜け落ちているように思います。 ※僕なら自分の子が中高生になって「不起立の先生のせいで大切な式典が汚された」と思っていたら、「いろんな意見を持てる民主主義は素晴らしいじゃないか。心の自由が大切にされる日本に生まれて良かったね」って伝えるなぁ。 (2)立ちたくない教員は立たなくていいのであれば、制服を着たくない生徒は着なくてもいいし、学校行事に参加したくない生徒は参加しなくてもいいことになってしまうのでは? →「規則>内心の自由」か「規則<内心の自由」かを考える時に、重要なのは動機や理由ですよね。制服を着たくない理由、学校行事に参加したくない理由が、ちゃんと納得できるものであれば、僕はその生徒の気持ちを否定しません。君が代で“立てない”教師の理由は「大事な子ども達を2度と戦地に送りたくない」「戦争を風化させたくない」であり、その理由であれば僕自身は納得できるので、立たなくても問題に感じません。そもそも、四半世紀前は大阪府下で卒業式に君が代を斉唱した公立高校はゼロ校でした。君が代の起立斉唱が「職務命令になった」のはごく最近なんです。それを「ワガママ教師」というイメージで橋下&石原知事やメディア(特に産経)が流していることに理不尽さを感じています。 (3)胸に一物含むものがあっても、起立して場に合わせるのが大人ではないか。式典後にデモなり運動なりなんなりすれば良い。 →複数の若者からこの意見を頂き、今の日本の一部の若者の「体制順応度」の高さに目まいを感じました。欧州の若者たちは「表現の自由の抑圧」「思想の弾圧」を少しでも匂わせるものには、過剰なまでに反発します。元気ありすぎのデモ連発。それが正しいか間違っているかは別として、「場に合わせるのが大人ではないか」という意見は、体制側をニンマリとほくそ笑ませるだけかと…。「反体制派はKY」と、不都合な“大人じゃない人”は異端に認定され叩かれる。僕が権力者なら「日本の(一部の)若者はなんて従順でコントロールしやすいんだろう」と万々歳です。とにかく、あまりに内面の自由の価値を低く見過ぎているように感じます。むしろ若者には「大人であろうと正しいと思ったことを貫いて欲しい」と反骨教師(ラストサムライ)にエールを送って欲しいのですが…。r(^_^;) ※日本の大人も、僕を含めて相当ダメダメですが、あくまでも頂いたご意見には、義務化賛成派は若者が多く、反対派は大人が多っかたという事実を述べています。 (4)国歌斉唱時に起立もしない者は教師になる資格がない。公務員がそういう思想を持っているということが問題。 →まるでどこかの共産国家のようではありませんか。愛国心のカタチの多様性を認めず、内心の自由を徹底して否定し、あまりに国家に力を与えすぎると、国民は自分で自分の首を絞めることになるのでは(戦前の治安維持法のように)。不起立=反日ではないのです。 (5)自分たちの国歌や国旗にいつまで卑屈にならないといけないのか。国歌・国旗を蔑(ないがし)ろにしてはいけない。公務員は国旗国歌を否定してはいけない。 →不起立の教師は卑屈になっている訳でも、蔑ろにしている訳でも、否定している訳でもないのです。その旗のもと、その歌のもとで、戦争を行い、また子ども達を戦場に送り出したという事実が“こだわり”となり、苦しみ、葛藤しているのです。そもそも、戦争への反省は過ちを繰り返さない為に必要であり、「反省=卑屈」という図式ではないと思います。戦争体験者が高齢となり少なくなってきた今、教育者が戦争の記憶を風化させないことは大切なことではないでしょうか。 (6)「個人の心の自由」は尊重されるべきだが、公序良俗に反しない範囲での“自由”に過ぎない。不起立教師は“自由”を履き違えている。 →くどいようですが、45秒間静かに座っているという、ただそれだけの行為が“公序良俗に反する”とは僕には思えません。特に若い人に法律を誤解している人が多いのですが、そもそも「国旗国歌法」には罰則条項がないのです。制定時に君が代を歌わないという自由を保障しているからです。しかし、内面のことなど無視して、どうしても歌わせたい人がいる。「強制する法律がなければ作ればいい」、そのように考えて大阪に誕生したのが、全国初となる「君が代斉唱起立強制条例」であり、これから秋に可決しようとしている「起立しなければクビ条例」なんです。教育界への国旗国歌導入には大きな混乱があり、広島では校長が自殺する悲劇がありました。保守派は日教組が校長を追い込んだということをさかんに吹聴していますが、こちらのサイトに、『亡くなった校長は「君が代」をやる意志は全くありませんでした。だから、文科省からきた辰野裕一教育長に対して手紙を書いています。「私は解放教育、人権教育をやってきた人間として、身分制を称える歌(君が代)を歌えということは、自分の中で、教育者として矛盾を感じます。この矛盾をどういうふうに解決したらいいのかお教えください」というものです』とあります。また、『(自殺当日である)日曜の朝、教育委員会の人事の誰かが(校長の自宅)に押しかけ、その1時間半後かに納屋で首を吊っているんです。これは明らかに殺人です』とも…。 “公序良俗”というものは「ゴミを道に捨てない」「妊婦さんに座席を譲る」というような誰もが納得できる事柄であり、このように議論があるものにその言葉を使うことに違和感を持っています。 (7)いつまでも戦争と君が代を絡めるのは止めて欲しい。 →事実として、君が代は戦争と直結していた時代があったうえ、戦争で肉親が犠牲になった被害者がまだ存命中です。“絡めるな”というのは酷(こく)ではないかと…。 (8) 公務員なら国の方針に従うべき。ちゃんと法律に従って日の丸に向かい、君が代を起立斉唱すべき。民間会社で職務命令に従わない社員はクビ。 →公務員には中立性が求められるため、内面の自由に一定の束縛があるのは仕方ないですが、他人の斉唱を妨害する訳じゃなく、45秒間座っている程度の自由であれば、自由と民主主義を掲げる国家では保障するべきではないでしょうか。「座ってるせいで気分を害された」と怒ってる人は、もっと他者に寛容であって欲しいです。「人の数だけ価値観も多様だよね」と考えるのが成熟した市民社会ではありませんか。/あと、公務員が常に上からの命令に従わねばならぬかですが、国のトップが道を誤る可能性があることは歴史が物語っている訳で(ドイツや日本だけではなく、毛沢東、スターリン、金正日、ポル・ポト、“大量破壊兵器がある”のブッシュ等々)、時と場合によっては公務員にも抵抗する権利があると思います。 (9)不起立教師が人権や思想の深い思い入れがあって立たないのだ、と理解できる生徒はそんなにいると思えない。子ども達に伝えたい主張があるなら、まずそれを言葉で説明しないと「あの先生はなぜ立たないの?サボり?」と思われただけで終わる可能性のほうがずっと高い。 →これも複数の若者からの意見で、とても破壊力がありました。要するに、教育現場で戦争体験の語り継ぎが決定的に不足しているのです。だから先生の心境を想像出来ない。筋を通した不起立をサボリという言葉で表現されない為に、仮に不起立の理由をクラスで語れば、すぐに保守的な親から「ウチの子に妙なことを吹き込むな」とクレームが入ります。一方で、生徒からは「説明がないと不起立の真意が分からない」と言われ、不起立教師の心労は大変なものでしょう…。 (10)校歌が嫌いだからって、自分だけ座って校歌を歌わないのはダメなのに、何で不起立派の人は国歌ならそれがOKなんでしょうか? →決定的な違いは、校歌は戦争と関係がないことです。むしろ、「君が代」だけが歌わないと処罰されることに“何かおかしいぞ”と疑問を持って頂けると良いのですが…。 (11)国旗や国歌を変えても過去は清算されない。過去の歴史を今に繋がるものとして受け止めるために日の丸・君が代を受け入れるべき。 →これも不起立教師が誤解を受けている大きな点です。この国があり、今の自分がある、それはちゃんと分かっているのです。日の丸・君が代を変えろという声は不起立教師から殆どあがっていません。日の丸・君が代が憎いのではなく、歴史の受け止め方が、強制派の人とは異なるのです。過去に教え子を積極的に戦場へ送り出したことへの反省が、不起立という“表現”として出てきたもの。大事なことは、そういう少数派を数の力で排除するのか、しないのか、そこです。思想・表現の自由は民主主義国家の血肉です。 (後書き)強制派の中に、「教師への起立強制は仕方ないけど、生徒に強制することには反対」という人が数人いました。東京都では着席している生徒の数を調査して、その担任を罰するところまで来ています(条例がない時点ですらこの状況)。もし生徒が慕っている担任であれば「僕が座っていると先生が罰せられる」というプレッシャーで立つことになり、結局は生徒にも暗黙の強制になっているので、法の力で思想を規制することには安易に賛成せず、もっと慎重になるべきでは。現状は、思想信条の自由がないがしろにされすぎだと思います。一人でも多くの強制派の人が「不起立教師の考え方には賛成できないが、そのように考える権利は認めるし、法で罰則を与えることには反対だ」という立場になってもらえることを願ってこのコラムを終わります。 (以上、ご意見有難うございました) ★コラムへの賛成意見も一部紹介 ●私だったら起立しない教師がいたところで「あぁ、この人はそういう考えを持っているんだなぁ」と、その人の考えが一つ分かって良かったと思うだけです。そんなに(自分と異なることが)許せないものなんでしょうか?内面の多様性を認めること、受け入れることこそが大事だと思います。 ●(不起立教師の中に過激な人がいる事について)こうしたことは右だとか左だとかとは関係なく、本人の資質の問題なので、「左派は云々」みたいに一般化するのは無理があるのでは。そういうレッテルの貼り方は、アニメやゲームのマニアが犯罪を犯したからといって、他の全てのアニメやゲームのマニアも同一視する人たちと同じやり方だと思います。 ●「君が代問題」を論じるにあたり、あまりにマイノリティ(不起立者)への擁護が足りないということに危惧を感じました。「私はこう思う!」という意見表明がマジョリティからは嫌われ、弾かれる。…ジョージ・オーウェルの『1984年』を思い出すような光景です。正直私は怖いです。これが民主国家であるはずの日本の姿なのでしょうか。「出る杭は打たれる」と言います。しかし、思想および良心の自由における杭は、たとえそれが自分と意見を異にするものであっても絶対に打たせてはならないと思います。 ●(卒業式は)「生徒を送り出す重大な行事」であるゆえに立てないのだと思います。君が代が軍歌であると考えることは、過去への反省の表れです。戦争中の出兵に際して教師が責任を感じているからこそ立てないのです。 ●反対する人にとっては、まだ戦争は終わっていないのです。多くの日本人は真にケジメを付けて前向きになっているというのではなく、単に忘却しただけだと思います。心の問題を法では解けません。 ●これは個人の自由と権利の問題だと思います(当然ですが、他人を傷つける自由や命を奪う権利などありません)。自分の持っている権利はすべての人が等しく持っている、ということです。また「子供に規則を分からせる方法」は「教師が国歌斉唱に起立すること」しかないのでしょうか?もっと効果的な方法はあるのに、どうして(教師がルールを教える方法として)これを選ぶ必要がありますか? ●「文芸ジャンキーパラダイス」の目的、大げさに言えば存在理由ですが、それは「芸術を通した人類の相互理解」を果たすことでしょう。日々カジポンさんが仰っていることはそこに集約されます。今回の「君が代問題」がなぜジャンパラで取り沙汰されているか?その答えは「思想・良心の自由」を、文字通り血を流してかたち作ってきた、あるいは後世に残そうとした偉人たちの存在を、カジポンさんは見続けてきたからです。その偉人とはチェ・ゲバラであり、平塚雷鳥であり、ゲーテであり、ニーチェであり、カミュであり、ピカソであり、そしてベートーベンであったはずです。自身の思想を、苦しみながらも懸命に磨き上げてきた人間のドラマを、カジポンさんは読者である皆さんと共有したいがために本サイトは存在するのではないでしょうか?今回の君が代問題は、「『思想・良心の自由』が幾多の血と歳月をかけて培われたものであることの認識が足りない」ことがキーポイントです。いかに思想や良心を私たちが自由に扱えるかのありがたみや素晴らしさを、私たちはすでに忘れてしまっているのです。勿論その中には僕も含みます。普段、ちゃんとその“恩恵”を意識して「ああ、今日も自由に物事が考えられて幸せだなあ」とは思わないからです。自分と異質な考えを受け入れることがカジポンさんが常日頃仰っていることだと思いますし、またそういう思想を育てるのが芸術の役割ではないでしょうか。(サイト読者は全員管理人と同じ意見になるべきと言っているのではなく)“賛成or反対”の線引きが「職務命令・ルール」に依っていて、「思想・良心の自由」に依るものになっていないことに疑問を感じています。 ●確かに、公僕たる公務員や、国家秩序の大切さを子どもに教える先生が国歌斉唱時に起立しないのは良くないという意見は、一理あると思います。しかし、それを規制する法令を作るのは民主国家としてやりすぎです。この条例は一応民主主義に基づいた手続きで可決されたので、一見問題ないように見えます。しかし、民主主義の原動力たる自由を奪うことは、民主国家にとって自殺行為でしかありません。この手の失敗は過去に何度も繰り返されています(民主国家ドイツがナチスの独裁体制に一変した事実や、アメリカで行われた赤狩りなど)。 ●ナショナリズムは国家秩序を形作る上で重要ですが、本質的には区別と排除の論理ですので、国の内側にその矛先を向けるときは、細心の注意が必要です。それを自覚した上で「愛国心」を語らないと大変なことになります。国の内側に敵を探し始めた国の行く末は、とても悲惨なものです。 以上が強制反対派の主な見解です。様々なご意見有難うございました。「ジャンパラ論」を書かれた方の意見を僕が紹介するのは気恥ずかしさがあったのですが、過去の芸術家や思想家が死守してきた「思想・良心の自由」を守る為に、いま声をあげねばサイト開設からの十数年間をすべて否定することになると思っているので、サイトの存在意義に踏み込んで下さったのは嬉しかったです。 ※あと、当然のことですが、強制反対派の意見を載せたからといって、読者の皆さんが同じ意見であらねばならないとは考えていません。 |
●主要国の国旗・国歌の位置づけ〜海外ではどうなっているのか (2012.2.5) 米国ではCEO(企業トップ)1人あたりの年収は、1970年に労働者45人分=社員が500万なら2億2500万だったのが、2006年は1723人分=86億円(!)まで超爆増。ここ30年でとてつもない格差が生まれた。 2011年秋から始まった米の反格差デモは、真冬になってしばらく動きがなかった。このまま沈静化していくかと思いきや、2012年1月28日、カリフォルニア州オークランド市で約400人が逮捕されるという過去最大規模の反格差デモが起きた。この騒動を伝えた報道写真の中に、アメリカ国旗を焼いているものがあり衝撃を受けた。国旗焼き捨ては君が代不起立どころじゃない過激なものだ。画像を見る限り焼いているのは米国の普通の青年たち。タリバン兵じゃない。果たして星条旗を焼く彼らは“反米的”で愛国心がないのか?僕が感じたのは、「1%の金持ちと99%の貧乏人という、今のアメリカは俺達の理想からかけ離れすぎている」という現状への怒りだ。国旗が憎いのではなく、旗が象徴する国の体制に対する抗議の意志。自国を愛するがゆえの行為であり、民主国家の“表現の自由”ここに見たりという思い。国旗は時と場所で意味合いが異なる。デモで焼却している彼らでも、五輪では1位選手の星条旗に感動すると思う。人々はそれが分かっているから、メデイアも彼らを売国奴と騒ぎ立てないのだろう。 しかし、自由の国アメリカでも、以前は国旗焼却という行為が、表現の自由に含まれるかどうかが、連邦最高裁まで巻き込む騒ぎになったことがあった。
アメリカ合衆国憲法は1788年に発効した世界最古の成文憲法。成立の3年後(1791年※モーツァルト没年)、“連邦政府の権限が強くなり過ぎないよう制限をかける”ことを目的に、トマス・ジェファーソンらが提案した人権保障規定『権利章典』(修正10条)が実施された。最も有名なのは“修正第1条”で、市民の信教、言論、出版、集会の自由、請願権を保障している。「連邦議会は国教を樹立してはならない。信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない。言論や出版の自由、人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない」(修正第1条)。 それから約150年後、戦時中の1943年にウェストバージニア州の学校において、宗教上の理由で星条旗への表敬を拒んだバーネット姉妹が退学処分となり裁判になった(国旗を国家の偶像と見なした姉妹は、偶像礼拝を禁じた戒律に従った)。このバーネット事件の連邦最高裁判決は「国旗への表敬強制は憲法修正第1条の目的である、知性および精神の領域を侵犯するものである」。 以降、近年に至るまで、数多くの同様の判決が出た。以下は、教育社会学者の藤森修一氏がまとめた星条旗に関する判決一覧。 ●1970年 フロリダ地裁判決 「国旗への宣誓式での起立拒否は、合衆国憲法で保障された権利」 ●1977年 マサチューセッツ州最高裁 「バーネット事件で認められた子どもの権利は教師にも適用される。教師は、信仰と表現の自由に基づき、国旗への宣誓に対して沈黙する権利を有する」 ●1977年 ニューヨーク連邦地裁 「国歌吹奏の中で、星条旗が掲揚されるとき、起立・着席の選択は個人の自由である」 ●1989年 連邦最高裁判決(テキサス州法が国旗焼却を犯罪としていることへの判断) 「我々は国旗への冒涜行為を罰することによって、国旗を聖化するものではない。これを罰することは、この大切な象徴が表すところの自由を損なうことになる」(カジポン注。僕が控えた当時の新聞記事には次の一文もあった「星条旗はこれを侮蔑視する者さえも保護する」。同判決には条件がある※詳細後述) すると、この判決に不満を持った米の政治家が、同年秋に上院で国旗焼却を罰する“国旗保護法”を成立させた。そして…。 ●1989年 連邦最高裁判決(“国旗保護法”に対する判断) 「国旗を床に敷いたり、踏みつけたとしても、表現の自由として保護されるものであり、国旗の上を歩く自由も保証される」 ●1990年 連邦最高裁判決 「連邦議会が成立させた国旗保護法は言論の自由を定めた憲法修正1条に違反する」※詳細後述 以上、WEBから要約。本当にこの通りなら、実にリベラルな判決で個人的には嬉しいんだけど、1999年に文部省(当時)がまとめた資料を見て、僕は混乱した。『4.諸外国における国旗,国歌の取扱い(1)』という項目の米国を見ると、「(国旗の)尊重義務及び侮辱に対する罰則も連邦法で規定」とあった。うおーい!罰則あるじゃん!そこでさらに調べ続けて、ついにヒントとなる貴重サイトに出合った。この問題を徹底的に調べている人がいた!1989年のテキサス州法・国旗焼却罪に対する連邦最高裁の判断は、「政治的デモンストレーションに適用される限りにおいて違憲」というものだった。つまり、イタズラなどで焼却するのは有罪、政治的デモンストレーションで焼却するのは無罪ということだ。そしてこの判決に反発して連邦議会が同年に制定した国旗保護法についての1990年の連邦最高裁判断は、「国旗保護法という法令自体は合憲だけど、やはり政治的主張で焼却した者を罰するのは違憲」というもの。藤森氏のまとめだけ見ると、まるで米国では国旗に何をしても良いみたいに思えるけど、国旗冒涜に関する罪は存在している。あのまとめを好意的に解釈すると、「国旗焼却という行為は政治的アピールしか考えられず、しかもその場合は無罪なんだから、事実上、米国では国旗に何をしても許されると言っていい」となるんだろうけど、やはりそれでは説明不足というか、保守派から「まるで国旗保護法そのものに違憲判決が出ているような書き方だ!」って叩かれると思う。ちなみに、米国において国旗を掲揚しなかった場合の罰則規定は見当たらなかったとのこと。 あと、先の文部省ページによると、 「(3)連邦法により,国旗掲揚中の国歌演奏に際しては,国旗に向かって起立することが規定されている(学校での義務付け規定は特にない)」 とのこと。(学校での義務付け規定は特にない)の一文は文部省が入れたもの。掲揚&演奏中は起立する義務はあるけど、学校式典で掲揚・演奏を義務づける規定はないということか。 さらに、米国以外の主要国はどのように学校で国旗・国歌を扱っているのかを調べてみた。橋下氏&大阪維新の会が成立を狙っている“君が代不起立教師は解雇”条例と比較したいという気持ちもあった。 ●イギリス (国旗)学校内に国旗が掲げられたり、学校行事において国旗が掲揚されることはない。 (国歌)学校行事において演奏されることはない。 ●ドイツ (国旗)特に規定はなく各州に扱いは任されている。 (国歌)同上。 ●フランス (国旗)国旗掲揚の義務を定める法令はないが、全ての公的機関で掲揚。 (国歌)通常、学校では演奏されない。 ●イタリア (国旗)公立学校では正面入り口上部に掲揚されている。 (国歌)通常、演奏される機会はない。 ●ロシア (国旗)学校での国旗掲揚を義務づけた法令はないが式典で掲揚。 (国歌)学校での国歌演奏を義務づけた法令はないが式典で演奏。 ●中国 (国旗)学校は毎日国旗を掲揚し、また毎週一度及び特別な記念日に国旗掲揚の儀式を行わなければならない。※通常、毎月曜に儀式。 (国歌)学校は国旗掲揚の儀式及び慶賀の式典、スポーツ大会等において、国歌の斉唱を求められている。 ※ここまでの主要国のソースは先述した旧文部省のレポート。 ●日本 (国旗)政府指導により学校式典で掲揚。 (国歌)政府指導により学校式典で演奏。橋下氏は起立しない教職員は例外なくクビにすると明言、条例が可決目前。 このように、欧州では国旗に比べて国歌の扱いがアバウトなのが分かる。英国ではそもそも学校行事で掲揚・演奏自体がなかったりする。逆に突出して厳格なのは一党独裁政権の中国だけど、大阪の場合はさらにそれの上をいく「解雇」という、世界でも類を見ない罰則規定を導入しようとしている。中国よりも内心の自由をないがしろにすることについて、橋下・石原氏の意見を聞いてみたい。「中国の国歌・国旗強制は悪、日本の国歌・国旗強制は善」って言うのかな。 教育社会学者の藤森修一氏はもっと多くの諸外国における国旗国歌の扱いについて調査しており、リンク先の後半で紹介されている(調査データは1985年のものでちょっと古い。でも参考になる)。何カ所か恣意的(左派寄り)であってもデータが丸ごと間違っていると反証している人は見当たらず、一定の信憑性はあると思う。※保守系サイトで部分的に間違いを指摘しているページがあったけど、その保守系サイトもまた、原文を都合の良いように書き替えている記述があり、僕的には右派も左派も自説に有利なように解釈するので、どっちもどっちと思った。でも、文部省(現・文科省)サイトの主要国比較は、政府機関のものなので中立性が高い資料と思ってる。 |
【追記】最高裁判決が出ました!! ★君が代処分訴訟 最高裁初の判断〜減給、停職など重い処分を取り消し (2012.1.16 NHK NEWS WEBから転載)
卒業式などの式典で、君が代を斉唱する際に起立しなかったなどとして処分を受けた東京都の公立学校の教職員およそ170人が処分の取り消しを求めた裁判で、最高裁判所は、「減給以上の重い処分は慎重な考慮が必要だ」という初めての判断を示し、教員2人の停職処分と減給処分を取り消しました。 この裁判は、卒業式などの式典で、君が代を斉唱する際に起立しなかったなどとして停職と減給、それに戒告の処分を受けた東京都の公立学校の教職員およそ170人が「処分は重すぎる」と主張して起こしたものです。16日の判決で、最高裁判所第1小法廷の金築誠志裁判長は「減給以上の重い処分を選択するときは慎重な考慮が必要だ」という初めての判断を示しました。そのうえで停職処分を受けた教員1人について、「過去2年間に3回、起立しなかったことだけを理由に停職処分にするのは重すぎ、著しく妥当性を欠く」と指摘し、処分を取り消しました。また、別の教員1人の減給処分も取り消しました。一方、戒告の処分については、「裁量権の範囲内だ」として取り消しを求めた教職員側の訴えを退けました。君が代を巡っては、公立学校の式典で起立や斉唱を教職員に命じる東京都教育委員会の平成15年(2003)の通達について、最高裁は去年5月、憲法に違反しないという判断を示していますが、16日の判決で処分については一定の歯止めをかける形となりました。一方、大阪市の橋下市長は、府知事だった去年6月、君が代の斉唱を公立学校の教職員に義務づける条例を全国で初めて成立させたのに続き、同じ違反を3回繰り返せば直ちに免職にするという重い処分の規定を盛り込んだ条例案を提出しています。また、大阪市でも条例化を目指す姿勢を明らかにしており、16日の判決はこうした条例の処分の基準にも影響を与えることになります。 判決について、停職処分が取り消された原告の河原井純子さんは「判断が分かれてしまい残念ですが、処分に一定の歯止めをかけたということで、現場で萎縮する教員に対して少し背中を押すことができると思う」と話していました。また弁護団は「最高裁が初めて処分の取り消しを命じたのは非常に重大で評価できる。大阪でも君が代斉唱を巡って議論が行われているので、大きな影響を与えると思われる」と指摘しました。一方、東京都教育委員会の大原正行教育長は、教員2人の処分が取り消されたことについて「厳粛に受け止める」という談話を出しました。
〔翌17日の僕の日記から〕 公務員に対する懲戒処分には次の4種類がある。最も重いものがクビの「免職」。2番目が「停職」(1年以下)。3番目が「減給」(1年以下、給料の2割以下)。そして一番軽いものが“注意処分”である「戒告」だ。 「東京都の“君が代不起立教師”に対する減給・停職という重い処罰はやりすぎ」と、最高裁が示した初判断に胸が熱くなった。僕はずっと不起立教師の処分に反対してきた。不起立教師は愛国心がないわけじゃなく、愛国心のカタチ(日本を愛すればこその反戦思想)が権力者の求める愛国心と異なるだけだ。それに、教師たちには「かつて愛国心を振りかざして積極的に子ども達を戦場へ送った」という自責の念がある。僕の友人(教師)は「五輪やW杯では君が代に感動できても、学校式典では足がすくむんだ」と複雑な心境を吐露していた。まさに心の問題。それだけに最高裁判断を注目していた。 ぶっちゃけ、判決前の僕の予想は悲観的だった。昨年5月に、「起立斉唱を教職員に命じる都教委の通達は憲法に違反せず、戒告処分は裁量権の範囲内」という判決が出ていたからだ。心の自由を軽視した判決に落胆した。ところが、昨日の判決は停職処分を受けた教員について、「過去2年間に3回、起立しなかったことだけを理由に停職処分にするのは重すぎ、著しく妥当性を欠く」と指摘し、処分を取り消した!また、別の教員1人の減給処分も取り消した。つまり、最高裁は「戒告(最も軽い注意処分)まではいいけれど、減給や停職は行き過ぎ」と判断したんだ。 “戒告処分”は減給でさえなく、あくまでも“注意”レベル。出世を考えないのであれば教師にとって実質的に無害の処分。戒告が認められたのは残念だけど、「停職容認」というもっと悪い判決もあり得ると思っていたので、「停職」教師ばかりか「減給」教師まで救済されたのが嬉しかった!民主主義は死なず。 言い方を変えれば、この最高裁判断は「君が代不起立だけでは戒告までしか出来ない」ということ。橋下氏は『“3回不起立で即免職”条例』を制定しようとしているけど、停職どころか減給さえ否定されたのに、免職条例が認められるはずがない。橋下氏は弁護士出身であり、最高裁判決の重さは充分理解しているだろう。この判決を受け、民主国家の価値観は「内面の自由を大切にするルール>君が代起立斉唱のルール」と認識して欲しい。個人の権利が軽んじられる近隣の独裁国家や共産国家と日本が同じになるのはゴメンだ。行政が愛国心の形を決めるのはおかしい。 僕は、愛国心とは自国の文化を愛することであり、起立斉唱の声の大きさで決まるものと考えていない。ユネスコの世界無形遺産に選ばれた日本の古典芸能“文楽”を「二度と見ることはない」と切り捨て、助成金を大幅カットした橋下氏がドヤ顔で愛国心を語る姿に違和感ありまくりだ(脱原発の姿勢にはとても共感しているんだけど)。 |