死刑制度の是非について
2007.1.7
昨年末にフセインが処刑されたこともあり、複数の方から死刑制度そのものの是非を問うメールを頂いた。正月の間は死刑の重い話題をサイトに書くのはどうかと思い今日まで触れなかった。僕はずっと迷い続けてきた。性対象の幼児殺人や金銭目当てで一家全員を殺した犯人は、感情的には死刑しかあり得ない。他人の命を奪った以上、命で償うほかない。愛する者を失った遺族にすれば極刑すら生ぬるいと思う。死刑制度は国家が遺族の代わりに仇討ちし、社会秩序を維持すること。死刑判決後に被害者遺族が「あの子は帰って来ないが、これでやっと仏壇に報告できる」と涙ぐんでいるニュースを見ると、死刑は残された者の為にも必要だと思う。
しかし、そう考える一方で、以下の3つの廃止理由にも説得力を感じている--- (1)冤罪(無実)の可能性 先月中旬「'89年以来、米国の死刑囚ら188人がDNA鑑定で無実を証明」という新聞記事があった。釈放された人々は平均12年間も服役していたが、処刑されていれば取り返しがつかなかった。日本でも近年、4名の死刑囚が冤罪になった。人間が裁判をする以上、100%間違いがないなどあり得ない。 (2)犯罪抑止力になっていない 死刑賛成派は「死刑が凶悪犯罪の抑止力になる」と主張するが、欧州では死刑廃止後に重大犯罪が激増したという事実はなく、米国内のデータでも廃止州での凶悪犯罪の発生率は総じて低く、死刑の“犯罪抑止説”には説得力がない。
(3)生命の絶対的尊重 “人間一人の命は地球より重い”と子ども達に教えているのに、国家が合法的に殺人をしていいのかという問題がある。
国連総会で死刑廃止条約が'89年に採択されたように、世界の潮流は完全に死刑廃止に流れている。'07年1月の時点で、死刑を廃止or執行停止中の国は約128カ国なのに対し、死刑を実施している国は60カ国であり、両者は倍近くまで差が開いている。主な先進国で死刑執行を続けているのは、米国、日本だけだ。あとはアフリカや中東、中国・北朝鮮など非民主的な国が大半。
死刑廃止はEU加盟の条件であり、ヨーロッパではベラルーシ(旧ソ連)以外の全ての国で死刑制度は事実上消え去った。また、あまり知られていないが米国でも約3分の1の州が死刑を廃止・停止している。日本政府は国連から廃止に向けて取り組むよう2度勧告を受けており、ここまで来ると死刑にこだわっている人間の方が道徳的に間違っているような気がしてくる。 欧州連合は『生命の絶対的尊重という基本ルールは各国政府も適用を免れることはできず、遵守しなければならない。さもないと、この生命尊重のルールの信頼性と正当性は損なわれてしまう』と声明を出しているが、これは確かに筋が通っている。死刑反対派の友人が「相手と同じ事をしないから裁く権利がある」と言う時、僕は明確に反論できない。 これらは「加害者にも人権があるから大切にしろ」というような、被害者の命を軽んじたり、遺族の気持をかえりみない死刑廃止論とは別種のものだ。 「命の尊さを訴える為に“死刑”にする」という矛盾。冒頭にも書いたように、僕は死刑制度の是非について迷っている。でも悩んでいる間は、もし二者択一を迫られたら「反対」を選びたい。迷っているうちに執行されると、失った命は二度と戻らないからだ。そうは言っても、僕の身内が殺されたら犯人を許せる自信はない…。死刑廃止国の人々は「復讐したい」という気持をどうやって克服したのだろう。やはり、「殺人犯の命でさえ奪えないほど人間の命は尊いんだ」という強い意志で国民の合意がなされているのだろうか。 ※誰でも生まれた時は真っ白な赤ん坊であり、環境によって偉人にも死刑囚にもなりうる。死刑囚は社会が作ったという事実を認めなければ、犯罪はいつまでもはびこるだろう。 【追記】 フセインが死刑になったというニュースを聞いた時、僕は当然だと思った。数千人のクルド人を毒ガスで虐殺したハラブジャ事件を始め、秘密警察を使って反体制派を拷問・処刑したことの因果応報だと思った。しかし、CNNがオンエアした処刑前の映像を見て、死刑の論議云々に関係なく、本能的に死刑は人間のやる事じゃないと感じた。フセインに同情する気持はさらさらない。だが、1分後に処刑される人間の顔を見ると、人が人を殺すことは狂気以外の何ものでもないと痛感した。既に無力と化し、丸腰で何も出来ない人間を殺す、その虚しさ。 【追記2】 現在、日本の刑罰に終身刑はない。無期懲役でも実際は20年以上服役すれば“仮出獄”できるので、被害者遺族にとって無期懲役は甘すぎる刑罰に映るだろう。死刑を廃止するなら終身刑の導入が必要だ。 【追記3】 歴史トリビア。昔は人権意識も今ほど高くなかったから、反逆者や盗人は片っ端から死罪になってるイメージがあるけど、なんと日本では約350年も死刑が廃止されていた時期があった。深く仏教を信仰していた第52代・嵯峨天皇が818年に死刑廃止を宣言し、武士の世の始まりとなる1156年の「保元の乱」まで、実に347年間も都では死刑が廃止されていたんだ。世界の歴史を見渡しても、これほど長きにわたって死刑が廃止されていた国は類を見ないという。 |
※コラムの感想について、サイト掲示板から
《反対》 >「加害者は生きてるから未来があるが、死んだ人間に未来は無いからほっといても良い」とでも言うのでしょうか… そんな極論を語る死刑反対派には出合ったことがありませんが、その廃止論は反対派からも支持されるとは思えません。 僕はコラムを書く際に意識的に「加害者の人権」という言葉を排除しました。凶悪な連続殺人鬼の人権保護を訴える気はサラサラないからです。そういう部分で廃止の立場をとっているのではないのです。 ●「殺人犯の命でさえ奪えないほど人間の命は尊い」 ●「相手と同じ事をしないから裁く権利がある」
犯罪者の人権云々ではなく、ただひたすら「命そのもの」の重みに対する社会の姿勢として、死刑という刑罰は筋が通らないと思うのです。ただし、「終身刑では納得出来ない」という遺族の気持は、解決できない問題として残ります。そこが、僕が消極的な死刑廃止論者である由縁です。
>何が悲しくて凶悪犯の生活を保障せにゃならんのでしょうか。 まったくその通りだと思います。しかし、その憤りを胸に抱いたままで、僕はなおも死刑は廃止すべきだと思います。お金の問題ではなく、気持の問題でもなく、生命自体の尊さゆえに。 《賛成》 >仮に死刑制度がなくなったとすれば、人を殺したものが法の名の下でさえも殺されないのはなぜか、それを子どもたちに考えて欲しい。命の大事さを法が示すなら、法が命を奪ってはならない。
このご意見に深く共感しました…! |
※終身刑導入に日弁連が“反対”。そういう考えでは、結局、死刑廃止もできないということに気づけ!日弁連は国民感情を分かっていない!
【日弁連、終身刑反対の意見書 「処遇困難に」】 2008年11月19日アサヒ・コム 死刑と無期懲役刑の間に終身刑を設ける議論が国会で出ていることをめぐり、日本弁護士連合会は18日の理事会で、導入に反対する意見書を賛成多数で可決した。厳罰化が進み、現行の無期懲役刑でも実質的に終身刑に近い事例があることを問題視。「仮釈放のあり方を見直し、死刑の存廃について検討することなく、終身刑を創設することには反対」と主張している。 終身刑をめぐっては、死刑に反対、賛成両方の立場から導入を目指す意見がある。来年5月に裁判員制度が始まるため、「死刑と無期懲役刑のギャップが大きすぎて裁判員となる市民の心理的負担が大きい」という点からの賛成論も出ていた。 意見書では、無期懲役刑の仮出所者でも平均服役期間が30年前後に達しており、50年以上服役している受刑者もいるなど、すでに終身刑に近い状態があると指摘。仮釈放のない終身刑を導入すれば受刑者が希望を失い、刑務所での処遇が困難になると危機感を表した。 さらに、「死刑と無期懲役の差が大きすぎる」という意見も根強いことから、現行の無期懲役刑に、判決の時点で10年、20年、30年といった「最低服役期間」を段階的に設ける試みにも言及している。 |
↓要確認
朝日新聞企画室・原裕司 「冷たい言い方のようだが、殺されてしまった被害者の人権など、とっくに消えてしまっている。 人権を言うなら、生きている加害者の人権こそ保護するべきなのである」 極刑を恐れし汝の名は―昭和の生贄にされた死刑囚たち』(洋泉社,1998)より 上は2chでよくコピペされ出回ったもの 下は実際の文章 冷たい言い方になるが、名誉とかプライバシーなどを除けば、死んでしまった 被害者に人権という意味はなくなる。 被害者の人権ではなく、被害者の遺族への補償だろう。 要するに、被害者遺族の救済をどうするかであって、死刑執行とは直接的な関係はない。 |