卑弥呼の墓と言われている箸墓(はしはか)古墳入口。 この先は宮内庁が調査禁止に。公開して〜!(1999) |
9年後に再訪。この前週、新たに大規模な周濠が 発見されたと報道され、考古学ファンを湧かせた |
弥生文化博物館 の卑弥呼復元像 |
「倭迹迹日百襲姫命 大市墓」とある |
箸墓古墳の全景。一帯はとってものどかデス |
この角度から見ると、手前が方形で奥が円に なっている「前方後円墳」というのがよく分かる |
前面部分を横から | 背後の円墳部分。樹木の真ん中に“穴”が | ポッカリと開いておりミステリアス |
上空から。全長280メートル! (画像/エンカルタ総合大百科) |
【参考】 長野県更埴市の森将軍塚古墳。 完成当時の古墳はこの様に石で覆われていた。 (上部にズラリと並んでるのは全部埴輪!) |
景初三年(239年)制作の画文帯神獣鏡。 何と卑弥呼が生きていた時のものだ! (画像/エンカルタ総合大百科) |
『曽根遺跡群 平原遺跡』 |
この1号墓から多数の女性用副葬品が発掘され 巫女的な女王の墓と考えられている |
周囲には田畑が広がり、ゆっくり ゆらゆらと時間が流れていた |
伊都国歴史博物館には発掘時の様子が再現 されている。駅から少し離れているが、充実 展示で考古学ファンにはお薦めの博物館! |
一般の国立博物館でも1、2点しか展示されて いない国宝指定の銅鏡がここにはズラリ! |
ガラス勾玉や瑠璃管玉など国宝の装飾品が ザックザク。これらがたった1人の女性の墓 から出て来たという。ということは…!? |
付近には32×31mという日本最大級の 弥生王の墓『三雲南小路遺跡』がある |
ここから出土した銅鏡の数は弥生〜古墳時代 の中で最も多く、後の大量副葬の先駆けだ |
この甕棺(かめかん)がワンセットで王の棺。 互いの口を上下に合わせて密封していた |
王宮(主祭殿)は高さ16.5m、13m四方という巨大さ! | 1800年前の卑弥呼が生きていた時代の姿を復元! | 王宮と見張り台の楼閣。楼閣はあちこちにある |
1階では諸侯が会議をしている | 最上階では卑弥呼(?)が神託を受けていた |
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は弥生時代の巨大遺跡。南北1km以上、甲子園の10倍となる約40ヘクタールの土地から、周囲を二重の堀で囲まれた大環濠集落や王族の墳丘墓、約3千もの甕棺(かめかん、昔の棺)が見つかっている。また、高さ12mの物見櫓(やぐら)跡があったり、傷を受け首がない人骨や鉄の矢じりも出ており、文献に残る邪馬台国のように戦争していたことが分かる。 |
まさに戦闘国家。高い柵が都市をグルリと一周 | 写ってる人間と比べてみて! | 堀の深さもかなりのもの。突破不能 |
遠方から見ると柵がずっと続いているのが分かる | 外堀の柵を越えても今度はこの内堀の柵が待っている | 王宮を囲む内堀の柵。難攻不落! |
吉野ヶ里には鳥のオブジェが多い。魔除けや守護神だったのかも | 居住エリアにある王の家の鳥。ちょこんと乗ってて可愛い |
歴代の王の墓(北墳丘墓) | ここからは14基の甕棺(かめかん)を発掘 | 甕棺の中はこうなっている | 被葬者が抱きかかえていた立派な銅剣 |
吉野ヶ里遺跡の北外れにある日吉宮。このように木を全体にくくり付けた 鳥居を見たのは初めて。これにはどういう意味が含まれているのだろう? |
謎の鳥居をくぐると日吉宮の本殿が見えてくる。ここを卑弥呼の墓と考える学者も いる。確かに“日吉”という太陽と関係ある名は日巫女=卑弥呼を彷彿させる |
西都原古墳群は日本最大の古墳銀座!この土地には300基以上の古墳がある!これ以上の規模の 古墳群が見つかっていない以上、ここが邪馬台国という可能性は否定しきれない |
古墳の向こうにまた古墳 | 右を見ても左を見ても古墳、古墳 | まさに古墳尽くし!これほどとは思わなかった! |
春夏秋冬の表情を見てみたい | 訪れたのは朝7時半。青々とした緑が目に染みる | 内部の石室が公開されている古墳もある |
宮内庁による、『男狭穂(おさほ)塚・女狭穂 (めさほ)塚 陵墓参考地』の案内板 |
日本最大の円墳=男狭穂塚はニニギノミコト、九州最大 の前方後円墳=女狭穂塚はコノハナサクヤビメの墓と 伝わる。円墳の男狭穂塚を卑弥呼の墓とする説も |
宮内庁が立入禁止にしており望遠で撮影。分り難いけど この林の奥がニニギノミコトの墓。土が盛り上がってる |
少し離れた場所から。おそらく右の山がニニギノミコト (=卑弥呼?)、左の山がコノハナサクヤビメのハズ! |
西鉄天神大牟田線の塩塚駅 |
なんて、のどかなんだろう。 だが地名はめっさ邪馬台国っぽい |
隣接するみやま市大神(おおが)の女山の旧名は 「女王山」。付近の城跡を卑弥呼の墓という人も |
この一帯は2005年3月の合併で柳川市になるまで、住所は「福岡県山門郡大和町」だった!“山門郡”だけでも邪馬台国っぽいのに、 “大和町”という2段重ね!魏志倭人伝の記録が九州を指しているのなら、山門郡大和町という地名はまさにその名残ではなかろうか!? |
美しい西大門。夕日で朱が一層映えている |
宇佐八幡宮本殿。この奥に三神が祀られている |
中央の二の御殿で祀られるヒメオオカミ(比売大神)。 比売=ヒメ(日女)&巫女=ヒメコ=卑弥呼? |
三の御殿。日本書紀にはこの神功皇后を 卑弥呼と示唆する文章が書かれている |
宇佐神宮境内の亀山神社。小山になっているのでここが卑弥呼の墓という研究者もいる |
こちらは伊勢神宮・内宮(ないくう)。アマテラスの別名はオオヒルメノムチ。“ヒルメ”とは 「日につかえる巫女」。そこから天照大神=日巫女=卑弥呼と考える学者もいる。(2008) |
箸墓古墳と三輪山(奥)という夫婦のラブラブ・ツーショット! |
ご神体の三輪山(みわやま)と巨大な大鳥居(2008) |
本殿はなく拝殿だけがある。 人々は背後の三輪山を拝む |
巳の神杉(みのかみすぎ)は、 根元に神の化身の蛇が棲む霊木 |
奈良県桜井市三輪の大神神社は、三輪山そのものが御神体なので本殿はなく拝殿だけがある。三輪山周辺は古墳時代初期の前方後円墳が多数あり、ここが邪馬台国や大和政権の発生地と考える学者も多い。祭神は『日本書紀』に登場する大物主神(オオモノヌシノカミ)。 ※拝殿の裏手にある三ツ鳥居は参拝者からは見えないけれど、神社の事務所で申し込めば拝殿の奥まで無料で案内してもらえる。三ツ鳥居は3つの鳥居が1つに合体した珍しいもので、僕はここでしか見たことがない。※残念ながら写真撮影は禁止だった |
大物主神は蛇の姿と伝わり、蛇の好物&願いを丸呑みして欲しいという思いから、卵を捧げる 参拝者も多い。大物主神は酒の神でもあり、酒造家の信仰対象となり日本酒が捧げられている |
鳥居は一般のような赤い鳥居ではなく 木に縄がかけられた素朴なもの |
倭迹迹日百襲姫命が仕えた第10代崇神(すじん)天皇の 古墳。スッキリして非常に美しい!崇神天皇は初めて 畿内の外まで治めた天皇だ※奈良県天理市(2008) |
1998年に“卑弥呼の鏡”と呼ばれる「三角縁神獣鏡」が33面 も発見され、畿内説を補完した黒塚古墳。4世紀初頭に造 られた全長約130mの前方後円墳※奈良県天理市(2008) |
【 邪馬台国の風俗など〜『魏志倭人伝』現代語訳@エンカルタ百科事典 】
●邪馬台国の位置
倭人は帯方郡東南の大海の中の山島に国をつくっている。もともと100余国にわかれており、漢王朝に朝貢してきた。今は30カ国が使者をおくってくる。 帯方郡から倭国にいくには、朝鮮半島西岸沿いを船でいき、馬韓をへて、しばらく南にいき、しばらく東にいくと、倭国の北岸の狗邪韓国につく。その間、7000余里。はじめて海を横断し、1000余里で対馬国につく。そこの大官は卑狗といい、副官は卑奴母離という。離れ小島で、面積は400余里四方ほど。うっそうとした森林におおわれ、しかも山はけわしい。南に海をわたって1000余里で一大国〔一支国(壱岐国)か〕につく。 また海をわたって1000余里で末盧国につく。陸路を東南に500里いくと伊都国につく。そこの大官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚という。1000余戸あって代々の王もいるが、女王国の属国である。帯方郡からの使者が往き来するときは、いつもここで駐留する。ここから東南100里で奴国、東に100里で不弥国につく。 船で南に20日いって投馬国につく。そこから南に船で10日、陸を1カ月ほどいくと邪馬壱〔台〕国につく。ここが女王が都をおいているところである。 ●倭の習俗と社会
男はみな入れ墨する。もぐって魚・貝をとるときに大魚や海獣の害をさけるためだったが、のちに飾りになった。この国は、会稽郡東冶県の東にあたるらしい。
男子は中国のように冠をつけず、みずらを結い、布をかぶっている。体には横長の布をまきつけている。女子は髪をたばねて、単衣の布の中央に穴をあけ、そこから頭をだして着ている。稲・麻を植え、カイコをやしない、絹糸をつむいでいる。ここには牛、馬、トラ、ヒョウ、ヒツジ、カササギがいない。矛(ほこ)・楯・木弓を武器とし、竹の矢は鉄か骨の鏃(やじり)である。
気候は温暖で、年中生野菜を食べ、裸足(はだし)で生活している。まるでおしろいのように、朱を体にぬっている。飲食には高坏(たかつき)をつかい、手づかみで食べる。棺はつくるが外箱はなく、地面にうめて上に塚をきずく。人が死ぬと10余日は喪に服して肉を食べず、喪主は号泣し、ほかの人は歌舞・飲酒する。埋葬がおわると家族みんなで水浴びにいく。倭人が中国などにわたるときは、持衰という男が髪もとかさずシラミもとらず、衣服もあらわず、肉を食べず、女も近づけないで、ひたすら謹慎している。もし航海がうまくいけば褒美をあたえられるが、一行が病気や損害をうければ殺された。
物事の初めや往来には、焼いた骨にはいったひびをみて吉凶を占う。
人はみな酒好きで、100歳や80〜90歳くらいまで長生きする人が多い。支配層はみな4〜5人、一般人でも2〜3人の妻をもつが、女子はみだらでなく、嫉妬(しっと)しないし、盗みなどもしないので訴えごとが少ない。
●支配の実態
法をおかすと、軽ければ妻子が奴隷にされ、重い場合はその家族・一門が滅亡させられた。上下の身分差は厳然としてあるが、お互いに信頼している。税物を収納する建物がある。国々には市場が開かれ、物資の交換がなされ、大倭が不正のないよう監督している。
女王国の北の伊都国に一大率がいて諸国の監察にあたっているので、各国は彼をこわがっている。
支配層の者にあうと一般人は道をゆずって草むらにはいり、命令をつたえるときは一般人はひざまずいて両手をつき、承知したら「あい」という。
●卑弥呼像
倭国はもともと男子を王として70〜80年ほど経過したが、国内がみだれ、連年抗争をくりかえした。そこで卑弥呼という女性をたてて王とした。卑弥呼は鬼道(呪術)に通じていて、よく民衆をみちびいた。年をとっても夫をもたず、弟が国政を補佐している。人前にたたず、1000人の女奴隷をはべらせている。ひとりの男だけが食事の給仕と伝言にあたり、卑弥呼の部屋に出入りしている。その王宮は物見の楼閣や柵などの防衛施設がととのい、武装兵士にまもられている。
●魏との関係
238年(景初2、実際は景初3)6月、卑弥呼は大夫の難升米を帯方郡に派遣し、魏の天子(明帝)に謁見と朝貢を申しでてきた。帯方郡太守の劉夏は使者に難升米らを魏の都の洛陽まで案内させた。
その12月に、天子は卑弥呼に「親魏倭王卑弥呼に詔する。おまえははるばる大夫の難升米と都市牛利をつかわし、男女の生口(技術奴隷)と班布を献上してきた。おまえの忠孝をいとおしく思い、親魏倭王として紫綬のついた金印をあたえる。郡太守に付してとどけるからうけとりなさい。国内を安定させ、礼儀をととのえなさい。使者の2名もその労をねぎらい、それぞれに官職と青綬のついた銀印をさずける。返礼として赤地蛟竜文様の錦、縮みの粟粒(あわつぶ)文様の毛氈(もうせん)、深紅の布・紺青の布をあたえる。また特別に紺地の句文錦、細班華文様の毛氈、白絹、黄金8両、5尺の刀、銅鏡100枚、真珠、鉛丹(仙薬)をあたえる。帰国したら国中の者たちにみせ、中国がおまえをいつくしんでいることをよく知らせなさい」と詔した。
240年(正始元)郡太守の弓遵は使者をつかわし、少帝の詔書と印綬を倭国にとどけ、黄金と絹帛、刀、銅鏡、采物などをさずけた。倭王は上表文して感謝の言葉をのべた。
243年、倭王は伊声耆や掖邪狗ら8人の使者をおくって、生口、倭錦、赤青の絹、綿衣や短弓などを献上した。
245年、少帝は倭の難升米に帯方郡経由で黄色の中国軍旗をさずけた。
247年、郡太守の王?が政府にきていう。卑弥呼はもともと南にある狗奴国の男王の卑弥弓呼と仲がわるい。倭国は載斯烏越を帯方郡に派遣してその戦況を報告してきた、と。そこで中国は塞曹掾史(地方官)の張政を派遣し、少帝の詔書と中国軍旗を難升米にさずけ、狗奴国や動揺する倭の諸国に檄文をおくり、卑弥呼にしたがうよう告諭した。
●卑弥呼の後継者
卑弥呼は死んだので、大きな高塚をきずいた。その直径は100余歩分ほど。いっしょに奴婢100人あまりが葬られた。そのあとに男子の王がたったが諸国は服従せず、抗争がつづいて1000人あまりの死者がでた。そこでまた卑弥呼の一族の女で13歳の壱与〔「台与:とよ」の誤りか〕を擁立して王とした。これによって、国内はやっとおさまった。
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★卑弥呼の居館か 奈良・纒向遺跡から3世紀前半の建物跡が出土 2009.11.10 サンケイ
邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡など2棟が見つかり、市教委が10日、発表した。倭国の女王、卑弥呼が活躍した時代(2世紀末〜3世紀前半)とほぼ一致。中国の歴史書・魏志倭人伝には「卑弥呼の宮室(宮殿)は楼観や城柵(じょうさく)を厳かに設け」と記され、卑弥呼の居館の可能性が浮上し、邪馬台国畿内説をさらに有力にする一級の資料になりそうだ。 大型建物跡は、東西2間(1間3・1メートル)、南北4間(1間4・8メートル)分を確認。西側は6世紀後半の水路で壊されていたが、市教委は建築様式などから、西側にさらに2間分延びていたと推測している。建物の規模は東西12・4メートル、南北19・2メートルで床面積は238平方メートルとなり、邪馬台国九州説の有力候補地・吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)の大型建物跡(156平方メートル)を大幅に上回ることが分かった。 柱穴に残された痕跡から、柱は直径約30センチで、柱の間には床を支えるため直径15センチ程度の束柱(つかばしら)を立てるなど堅固な構造だったとみられている。 大型建物跡を復元した黒田龍二・神戸大准教授(日本建築史)によると、高床式の入り母屋造りで高さ約10メートルと推定。直径50センチ以上の太い柱を用いた弥生時代の大型建物と異なり、比較的細い柱でも造ることができる最先端の技術があったことがうかがえるという。 大型建物跡の西側では、棟持(むなもち)柱をもつ建物跡(東西5・3メートル、南北8メートル)も確認。これまでの調査でさらに西側で2棟の建物跡が見つかっており、計4棟が方位を合わせて東西に並んでいたことが判明した。このうち大型建物跡など3棟は、さくで囲まれていたという。 これらの建物群跡の外側は東西約150メートル、南北約100メートルにわたり、周囲より1メートル以上高台になっていることから、市教委は高台の範囲を宮殿の外郭、さくで囲まれた部分を内郭と想定。今回の調査区域は内郭の西半分にあたるという。 市教委の橋本輝彦主査は「建物の中心軸をそろえた極めて計画的な構造。方形で区画した飛鳥時代(7世紀)以降の宮殿構造につながる可能性もあり、国内最古の都市の中枢部が分かる重要な成果だ」と話した。 石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)の話 「建物の大きさだけでなく、建物群の中心軸が東西一直線に並んでいる点がすごい。これほど計画性のある建物群の遺構が見つかったのは古墳時代を通じて初めてだ。外郭もあり、復元されたら壮観だろう。祭祀(さいし)空間なのか政治空間なのかは現段階では分からないが、卑弥呼の館の可能性はある」
★国内最多銅鏡81枚 - 卑弥呼と関係か【桜井茶臼山古墳】 2010年1月8日 奈良新聞 初期ヤマト政権の大王墓とされる、桜井市外山の大型前方後円墳・桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初め)で、国内最多となる81枚以上の銅鏡が副葬されていたことが分かり、県立橿原考古学研究所が7日、発表した。鏡の形式も最多となる13種類以上で、「卑弥呼の鏡」説もある中国・魏の年号入りの「三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡」もあった。「邪馬台国論争」にも影響を与える古代鏡研究の貴重な資料になりそうだ。
昨年実施した60年ぶりの再調査で、石室内の土中から銅鏡片計331点が出土。最大縦11.1センチ、横6.3センチで、多くは1〜2センチの細かな破片だった。盗掘時に割られたとみられ、完形品や本来の位置を保った遺物はなかった。過去に見つかった53点を含む破片計384点を調べたところ、81枚以上の鏡があったことが判明。国内最多だった平原遺跡1号墳(福岡県)の40面を大きく上回ることが分かった。
13種類以上の後漢から三国時代の中国産や国産の鏡を確認。半数近くが直径20センチ以上の大型鏡で、国内最大級の内行花文鏡(直径約38センチ)もあった。黒塚古墳(天理市)などに比べ、三角縁神獣鏡以外の鏡が多かった。 また、「是」の字が残る破片(縦1.7センチ、横1.4センチ)を3次元計測した結果、「正始元(240)年、陳是作鏡…」との銘文が入った蟹沢古墳(群馬県)の三角縁神獣鏡と一致。正始元年は邪馬台国の女王・卑弥呼の使者が帰国した年とされ、魏から贈られた「銅鏡100枚」の一つとする説も。県内での出土は初めてで、今後、専門家の論議を呼びそうだ。 同研究所の菅谷文則所長は「日本国家初期の『最高の王』の力を示す成果。今までの理論を超えた鏡の組み合わせで、今後は広い視野を持つことが必要だ」としている。このほか、ガラス製管玉や石製品なども見つかった。 |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
★文学者編 ・宮沢賢治 ・太宰治 ・小林多喜二 ・樋口一葉 ・梶井基次郎 ・清少納言 ・近松門左衛門 ・高村光太郎 ・石川啄木 ・西行法師 ・与謝野晶子 ・茨木のり子 ●尾崎放哉 ・種田山頭火 ●松尾芭蕉 ・ドストエフスキー ★学者編 ●南方熊楠 ●湯川秀樹 |
★思想家編 ●チェ・ゲバラ ・坂本龍馬 ●大塩平八郎 ・一休 ・釈迦 ・聖徳太子 ・鑑真和上 ・西村公朝 ・フェノロサ ★武将編 ●明智光秀 ●真田幸村 ・源義経 ・楠木正成 ●石田三成 ・織田信長 |
★芸術家編 ●葛飾北斎 ・尾形光琳 ・上村松園 ●黒澤明 ・本阿弥光悦 ・棟方志功 ・世阿弥 ・伊藤若冲 ●グレン・グールド ●ビクトル・ハラ ●ベートーヴェン ●ゴッホ ・チャップリン ★その他編 ●伊能忠敬 ・平賀源内 ・淀川長治 ●千利休 ●印は特にオススメ! |
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