来日当時、20代半ばの彼 | 悲惨な状況だった日本美術界を全身全霊で再興した! |
アーネスト・F・フェノロサ。米国の日本美術研究家。マサチューセッツ州セーラム(現ダンバース)出身。日本に黒船が来航した1853年に生まれた。13歳の時に母が病没。1870年に17歳でハーバード大学に入学して哲学を学び、4年後に首席で卒業した(卒業時の成績は99点!)。その頃から徐々に絵画に興味を持ち始め、24歳でボストン美術館に新設された絵画学校に入学する。 1878年(25歳)、父が世間に馴染めずに自殺。両親を失って放心状態の彼の耳に入ったのが、ハーバード大に出された東大の求人情報だった(前年に渡日して教鞭をとっていた動物学者エドワード・モースが募集)。キリスト教社会では自殺が神の冒涜にあたり、父のことで社会の冷たい風に晒された彼は、この求人情報に運命的なものを感じ、同年夏に新天地・JAPANに渡った。9月から東大で哲学や経済学を教える。 ※当時の日本は先進国の欧米に追いつく為に、学者・技術者・軍人などの多くの欧米人を「お雇い外国人」として高給で雇い入れていた。ピーク時の1874年は500人以上が招かれ、明治期全体では3千人にのぼった。しかし、1877年の西南戦争で財政難に陥り、次第にその数は減っていく。ちなみにフェノロサが来日する直前に大久保利通が暗殺されている。 フェノロサは来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と記した。彼は古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国の古寺を旅した。 やがて彼はショックを受ける。日本人が日本美術を大切にしていないことに。明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。写楽、北斎、歌麿の名画に日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派、土佐派といったかつての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。 特に最悪の状況だったのが仏像・仏画。明治天皇や神道に“権威”を与える為に、仏教に関するものは政府の圧力によってタダ同然で破棄されていた。また全国の大寺院は寺領を没収されて一気に経済的危機に陥り、生活の為に寺宝を叩き売るほど追い詰められていた。財政難の地方では最初から寺領を狙って廃寺が行なわれるケースも多々あった。 ※廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)…日本人の手で日本文化を破壊した最悪の愚行。1868年、明治維新の直後に神仏分離令が発布され、各地の寺院、仏像が次々と破壊された。約8年間も弾圧が続き、全国に10万以上あった寺は半数が取り壊され、数え切れぬほどの貴重な文化財が失われた(薩摩では一時期全寺が潰される苛烈なものだった)。地方の行政官は中央政府に手柄(成果)を報告して出世しようと廃寺の数を競った。 今では信じ難いが、『阿修羅像』で有名な奈良興福寺の場合、寺領の没収と同時にすべての僧が神官に転職させられ、せっかく戦国時代の兵火から復興した伽藍を再び破壊し、三重塔や五重塔が250円で売りに出された。また塀が取り払われ境内は鹿が遊ぶ奈良公園となり、最終的には誰もいない無住の荒れ寺となってしまった。五重塔は焼かれる直前に周辺住民が火事を恐れて阻止したという。また、別の寺では政府役人の前で僧侶が菩薩像を頭から斧で叩き割って薪(たきぎ)にしたという話もあるほど、仏教界は狂気染みた暴力に晒された。 フェノロサは寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がった。自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に素晴らしいかを事あるごとに熱弁した。1880年(27歳)、長男カノーが誕生。名の由来はもちろん“狩野”だ。同年、フェノロサは文部省に掛け合って美術取調委員となり、学生の岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始した。 こうした活動を通してさらに日本美術の魅力の虜になった彼は、考えを一歩前進させる---“浮世絵や仏像など過去の作品ばかり振り返っていてはダメだ。日本人は新しく芸術を生み出すべきだ!”。 1881年(28歳)、滅亡寸前の日本画の復興を決意したフェノロサは、日本画家たちに覚醒を求める講演を行なう。「日本画の簡潔さは“美”そのもの。手先の技巧に走った西洋画の混沌に勝ります」「日本にしかない芸術があるのです!」。西洋文明へのコンプレックスに支配されていた日本人はビックリ。新政府は日本が芸術の世界では一等国と勇気づけられ、フェノロサの演説を印刷して全国に配布した。 1882年(29歳)。日本画の第1回コンクール(内国絵画共進会)の審査員として招かれたフェノロサは、会場の隅に展示されていた『布袋図』(七福神)の奔放でおおらかな世界に見入った。作者は狩野芳崖(ほうがい)。粗末な紙に描かれていた。もっと芳崖の作品を見たくなった彼は、自分の足で家を探し出して訪問する。ところが芳崖は面会を拒否!「お断りだ!毛唐(けとう)なんかに絵が分かるか!」。 ※この時芳崖は54歳。彼はかつて天才絵師として狩野派画塾のリーダーを務めた男。好奇心旺盛で他派の絵も学び師匠と大喧嘩、その“法外”さから芳崖と名乗った。20代で山口・長府藩のお抱え絵師となったが維新のあおりを受け40歳を過ぎて失職。今は貧困のどん底で、陶器の下絵塗りで生計を立てていた。 芳崖はフェノロサをただの物好きな外国人程度にしか思っていなかった。しかし彼は翌日もやって来た「どうか話を聞いて下さい!」。芳崖は鑑識眼を試すために毛利家に伝わる古い絵を見せてみた。フェノロサは作品の見所を完璧に語り尽くした。彼は芳崖の目を真っ直ぐに見て力説する。「あなたはもう一度筆をとるべきです!日本美術は大切な宝なのです!あなたほど優れた才能を持っている方が絵を描かないのは国家の悲劇です!」。 芳崖は言葉が出ない。さらにフェノロサは続ける。「今後、あなたが描いた絵は必ず全て買い取ります。迷惑でなければ、絵に専念できる家も提供させて下さい」。芳崖は日本人が見向きもしない自分の絵を、親子ほども年の離れたアメリカ人が必死でその価値を説くことに激しく感動した。2人は固い握手を交わし、フェノロサはこの翌年から芳崖に生活費の支給を始めた。 1883年、フェノロサは日本人が愛する“幽玄”の精神を学ぶ為に能楽師の梅若実に入門する。 1884年(31歳)、彼は政府の宝物調査団に任命され、文部省職員となっていた岡倉天心と、再び奈良や京都の古社寺を歴訪する。この調査の最大の目的は法隆寺・夢殿の開扉。内部には千年前の創建時から『救世(くせ)観音像』(等身大の聖徳太子像)があるものの、住職でさえ見ることができない“絶対秘仏”だった。法隆寺の僧侶達は、「開扉すると地震が襲いこの世が滅びます」と抵抗したが、フェノロサは政府の許可証を掲げて「鍵を開けて下さい!」と迫った。押し問答を経てようやく夢殿に入ると、僧侶達は恐怖のあまり皆逃げていった。観音像は布でグルグル巻きにされている。 フェノロサは記す--「長年使用されなかった鍵が、錠前の中で音を立てた時の感激は、何時までも忘れることが出来ない。厨子(仏像のお堂)の扉を開くと、木綿の布を包帯のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高いものが現れた。布は約450mもあり、これを解きほぐすだけでも容易ではない。ついに巻きつけてある最後の覆いがハラリと落ちると、この驚嘆すべき世界に比類のない彫像は、数世紀を経て我々の眼前に姿を現したのである」。救世観音は穏やかに微笑んでいた!立ち会った者はその美しさに驚嘆し声を失う。世界は滅ばなかった。 ※現在、春と秋に救世観音が特別公開されるのはフェノロサのおかげ! この年、彼は有志を募って「鑑画(かんが)会」を結成。会の主旨は「あらゆる方法を駆使して日本美術を復活させる」こと。“昔は良かった”という骨董品の研究ではなく、伝統にのっとった上で、新時代の日本美術を生み出そうとした。
32歳、救世観音と出会った翌年、フェノロサはキリスト教を捨て仏教徒となった。滋賀・三井寺(園城寺)にて受戒し諦信の法名を授かった。 ※彼が仏教に帰依した背景として、仏法や仏教美術への純粋な感動があったのはもちろんだが、故郷の“事件”も遠因にあるだろう。彼の生地セーラムは、1692年に西洋史上悪名高い魔女裁判で約200名の女性が告発され、25名が処刑・拷問死したという狂信的に保守的な町だ。セーラムの風土への嫌悪感が仏教に関心を向けさせたのかも知れない。 1886年、58歳の芳崖はフェノロサと出会ってから4年の間、日本画に西洋画の遠近法や陰影法を融合させるなど、日本画の革新を目指して日々格闘していた。フェノロサの文化財調査に同行し、1ヶ月に50箇所も奈良の寺々を巡り、毎夜その日に見た仏像を思い出してはスケッチした。そして彼は8ヶ月をかけて芳崖=フェノロサ組の力作『仁王捉鬼図』を完成させる。 この仁王の絵で芳崖は日本画の色の限界を超えた。画面全体が色彩にあふれ、文字通り色の洪水なのだ。この当時、西洋では印象派が花盛り。「日本画の数の限られた色数の顔料(絵の具)では、油絵の豊かな色には対抗できない」そう考えたフェノロサは、芳崖の為に海外から化学合成で作られた鮮やかな顔料を取り寄せた(特にイエロー)。この作品は大きな話題を呼び、若い画家たちを刺激した。 同年、フェノロサ、天心らは欧米の美術界の現状を調査する為に渡航する。 次の年、芳崖の妻が逝去した。尊大、横柄と言われた芳崖だが、彼は8つ年下の妻にだけは頭が上がらず「観音様」と呼んでいた。芳崖は死に打ちひしがれ絵筆が止まってしまう。帰国したフェノロサはそんな彼に「この絵をもう一度描いてみてはどうですか」と1枚の作品を見せる。それは3年前に芳崖がパリ万博に出品した「観音図」。フランスで個人所有になっていたものを彼が買い戻してきたものだった。芳崖の心の中で、妻と菩薩の2人の観音、西洋画のマリアが融合した。彼は伊画家・ジョルジョーネの「聖母子像」の模写を試みるなど、仏画での聖母子像に挑んだ。芳崖は1年をかけて『悲母観音像』を描き上げ、完成4日後に肺病で亡くなった。凄絶な人生だった。※この絵は芳崖が最後に金粉を撒いたので柔らかく金色に輝いている。
1888年(35歳)、岡倉天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感。そして日本初の芸術教育機関、東京美術学校(現・東京芸大)を設立し初代校長となった。フェノロサは副校長に就き、美術史を講義する。※東京芸大の敷地には開校の由来を刻んだ石碑があり、フェノロサの姿が描かれている。 1890年(37歳)、ボストン美術館に日本美術部が新設されフェノロサのもとへ「学芸員になって欲しい」と依頼が届く。折りしも日本政府との契約が満期終了となり、彼は帰国の途に就く。日本政府はこれまでの労をねぎらい勲三等を授与した。同年、ボストン美術館東洋美術部長に就任し、日本美術の紹介に尽力する。1893年、シカゴ万博で審査委員を担当。 1896年(43歳)、2度目の来日。東京高等師範学校教授となる。この年、夫人と共に三井寺・法明院を訪ねた。法明院は彼を仏門に導いた和尚が前住職を務めている。フェノロサは法明院の茶室「時雨亭」で寝起きし、同院には今でも愛用の地球儀、望遠鏡、蓄音機などが保存されている。 1897年、これまでのフェノロサの調査を元にして、文化財を国宝に指定して保護する「古社寺保存法」が制定!※フェノロサは60カ所以上の社寺、約450品目の美術品を調査した。 1898年(45歳)、3度目の来日。上野で『浮世絵展覧会』を開催し、英文付きの目録を作成し自ら解説を書いた。能楽論を執筆。 1901年(48歳)、『北斎展』開催のため来日。これが最後の日本訪問となった。 1908年、ロンドンで開催された国際美術会議にアメリカ代表委員として出席し、滞在中に心臓発作で急死した。享年55歳。戒名は「玄智院明徹諦信居士」。彼は生前に「墓は法明院に」と願っており、翌年、分骨された遺骨が三井寺・法明院に埋葬された。眼下には琵琶湖が広がる。 ※フェノロサについて「貴重な日本美術を海外へ流出させた」と批判する意見がある。日本に残っていれば100%国宝指定を受けていた作品は、尾形光琳『松島図屏風』、雪舟『花鳥図屏風』、住吉慶恩『平治物語絵巻』、伝狩野永徳『龍虎図屏風』など。しかし、どんな資格があって日本人が彼を批判できるのか?流出させたのは日本人自身だ。フェノロサは日本人が気づかなかった“美”を日本画に見出し、価値が分かるから購入したのであり、彼が集めた2万点の美術品はボストン美術館が大切に所蔵・展示している。 日本人は自らの手で仏像を破壊し、古寺を廃材にした。寺宝や浮世絵が古美術商の店頭に並んでいても日本人は買わなかったし、誰も美術品と思わず欲しなかった。そんな自分達のことを棚に上げて、フェノロサを非難するなんてちょっと酷すぎる。来日した医師ビゲローは書く「維新後に名品が大量に市場にでたのは、二つの原因による。ひとつは経済的に困窮した貴族層が値段の見境なく売り出したこと、もう一つは日本人の間に極端な外国崇拝があること」。フェノロサも天心に呟く「日本人が売るから買い求めるのですが、本当にもったいないことです…」。 フェノロサは日本の美術や文化を単なる酔狂やポーズで好んでいたのではなく、本気で愛していた。能楽を習い、茶室に滞在し、改宗して仏教徒にまでなった。日本美術への眼識の高さは名匠さえ唸らせるものであり、日本美術界の未来まで考えて美大開校の為に奔走するなど、その愛情の注ぎ方は極めて熱く誠実なものだった。 彼は日本政府に美術品を収蔵する施設として帝国博物館の設立を訴え、西洋一辺倒の日本人に「日本美術の素晴らしさに気づいて欲しい」と心から願って活動した。その行動の核に純粋さがあったからこそ、頑固者の芳崖は彼を受け入れた。岡倉天心との古寺調査は国宝誕生のきっかけとなったし、海外に日本美術の魅力を紹介することで日本の国際的地位を高めてくれた。フェノロサは日本美術にとって、ひいては日本国の恩人と断言できる! ※聖林寺の十一面観音もまた、フェノロサによって1887年に秘仏の封印が解かれた。 ※最終的に日本政府が美術品の輸出に歯止めをかけたのは1933年。すでに膨大な美術品が流失した後だった。 ※明治期に浮世絵の第一級品が大量に流失し、今の日本には殆ど残っていない。しかし、膨大な数の浮世絵が西洋に流れたからこそ、モネやゴッホもそれらを所有し、大きなジャポニズムの流れが築かれた。 ※文献によっては彼が芳崖を知ったのは1884年の第2回絵画共進会出品作『桜下勇駒図』『雪山暮景図』とする説もあるが、83年に生活を援助し、84年には芳崖が古寺調査に同行するほど親密になっていることから、やはり出会いは82年・第1回のようだ。 ※1895年の日清戦争の勝利から明治政府は狂っていく。フェノロサなど海外の日本美術の愛好家は、花鳥を愛で和歌を詠む日本人と、熱病にとりつかれた様に戦争に突入していく日本人の姿とのギャップに当惑した。 ※欧州で最初に日本文化を広めたのはオランダ商館の医師シーボルト。彼は日本滞在時に収集したものを1830年にオランダの自宅で公開し、日本文化が広まっていくきっかけとなった。本格的に日本美術が紹介されたのは1862年のロンドン万博で日本館の出展作業(漆器239点など総数600点以上)に関った英国の外交官(初代駐日英国公使)ラザフォード・オールコックの著作『大君の都』(1863)。彼は「日本の美術工芸品はヨーロッパの最高水準の製品に匹敵する」と記した。オルコックは1860年(まだ江戸時代)に外国人として初めて富士山にも登頂している。 |
「フェノロサさん、有難うございました!」日本美術の大恩人に感謝ッ! |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
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