本気で世界を変えようとした男
【 あの人の人生を知ろう〜チェ・ゲバラ 】
Che Guevara 1928.6.14-1967.10.9
『1960年頃、世界で一番かっこいい男がチェ・ゲバラだった』(ジョン・レノン)
『チェ・ゲバラは20世紀で最も完璧な人間だ』(サルトル)
「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると
言われるならば、何千回でも答えよう、“その通りだ!”と」(チェ・ゲバラ)〜ゲバラのカッコ良さは異常!笑顔がまた良い!
★爆走!闇タクシーでゲバラに巡礼 2000年12月4日午前10時。僕はキューバの首都、ハバナにいた。 キュ−バ革命の英雄であり、圧政への世界の抵抗運動の象徴だったチェ・ゲバラの墓を探し出し、墓参を果たすという大いなる野望を持って。 しかし、この悲願の成就を阻む大きな壁が2つあった。“時間”そして“お金”だ。 AM8時に船でハバナ港に入港し、翌日の昼過ぎに同船が出港するため滞在時間は約30時間。 「ハバナは大都会だけど、30時間もあれば楽勝じゃん」 僕は国民的英雄ゲバラの墓は首都ハバナにあると始めから信じ込んでいた。 ところが! 観光局の職員に墓所を尋ねてみると、首都にあるどころかハバナから約300キロも離れた地方都市サンタクララに眠っているというではないか!300キロといえば東京〜名古屋間に匹敵する距離。 “そんな遠くまで行って明日の出港に間に合わなかったらどうしよう”…頭を抱え込んだ。 交通手段がこれまた大問題。 キューバはアメリカから40年近く経済封鎖されており、慢性的な石油不足に陥っていて公共の長距離バスがない。鉄道があったので時刻表を調べてみると、なんとサンタクララ行きは一日にたった1本(14時発)だけ!しかも所要寺間が約10時間! 切符代は1000円程度と安かったけど、向こうに着いても明日の昼までに帰ってこれない…。 観光局の職員は国営タクシーに乗ることを勧めたが、値段を聞いて地獄の1丁目に突き落とされた。 グヘーッ、300ドル以上かかると言うのだ!(基本通貨はペソだけどドルも有効) カード支払いはNGと言われ、手持ちのドル札は全部かき集めても168ドルしかなく、 「ぐぬぬ…、もはやこれまでか」 泣き濡れて床にバッタリ両手をついた。 “なんでハバナに埋葬せんのじゃ〜” ここまで来て墓参を断念せねばならぬ悲しさ。すっかり打ちひしがれていると、その様子があまりに哀れだったのか、職員がそっと耳打ちしてくれた。 「違法だけど、闇タクシーがあるからあたってみたら…」 闇タクシーとは何か。 キューバのタクシーは3つの形態に分かれている。 【国営タクシー】…普通にメーター制で走っている。 【個人タクシー】…ドライバーとの交渉で値段が決まる。彼らは国にタクシーの登録料(営業料)を一定額納めることで、正規のタクシー業を営んでいる。 【闇タクシー】…国に登録料を払わず、こっそりタクシー業をしている悪党。 この時点では、闇タクシー=個人タクシーと思っていた。 それで、その職員から教えてもらったタクシー銀座、ハバナ旧市街の議事堂周辺に行ってみた。なるほど、そこには見渡す限りズラリと個人タクシーが集まっている。さっそく値段交渉の開始。 「あの〜、サンタクララに行きたいんですが」 「サンタクララ!?そんな遠い所まで行けないよ…」 ヌヒョ〜ッ、誰もサンタクララに行ってくれないのだ!
事情はこうだ。 経済封鎖のあおりから、個人タクシーの車はどれも1950〜60年代のアメ車ばかりで、車体はベコベコ、ミラーは折れてぶら下がってるという風体。最高速度が60キロでは、確かに遠距離はキツイ。何より故障で立往生したらもう一巻の終わりだ(実際、彼らも見知らぬ土地での故障を一番恐れていた)。 つまり、彼ら個人タクシーはハバナ市内の近距離専門だったのだ。 そうこうしてる内に2時間近く経ってしまい、追い詰められた僕はノートに大きく“サンタクララ”とマジックで書いて 「ポルファボール、サンタクラーラ!(誰かサンタクララへ連れてって)」 と絶叫しまくった。 すると、初対面のくせに“ハロー、マイフレンド”と満面の笑みで近づいてきた人物がいた。この男、神か悪魔か…。 その不気味なまでに陽気な男は、年の頃30代前半、体格のガッシリした兄ちゃんで、“アミーゴ”と笑顔で握手をしてくると同時に間髪を入れず“サンタクララまでお金を幾ら出す気なのか”と聞いてきた。 前回にも書いたが、手持ちの168ドルに対し国営タクシーの相場は300ドル。僕は恐る恐る 「1…1…120ドル」 と言うと、彼は天を仰いで 「ノーッ!せめて170ドルだ!」 「1…125ドル」 「俺には2歳の子供がいるんだ、150!」 「130」 「140」 最後は互いに歩み寄って135ドルで落ち着いた。僕は内心小躍りした。135ドルは大金だが、相場の半額以下ではないか! 男は名をカルロスと名乗った。 さあ、さっそく出発だ!と思いきや、カルロスが何やら真剣に電話をし始めた。時々声高になってエキサイトしている…徐々に僕にも事態が分かってきた。 カルロスは車を持っていないのだ。 彼は額の汗を拭きながら電話をかけまくり、4人目にしてようやく車を持つ友人と話がついたようだった。 僕らはまずガタガタの個人タクシーに乗って郊外へ向かい、カルロスの友人・ホセの家を目指した。 僕は何が何だか分からずドギマギしていたが、こうなれば事の成り行きを最後まで見届けてやろうと腹をくくった。 ホセは比較的に新しい車を持っていた!本当に乗り心地の良い車で、ちゃんと4枚の窓は開閉するし、驚いたことに冷房まで付いていたのだ。 ホセは35歳の小柄で物静かな男。はにかむように笑う照れ屋だった。“もしホセがラオウのような極悪人だったらどうしよう”と心配してたので、彼となら往復600キロも平気と胸を撫で下ろしていたら、 「OK、レッツ・ゴー!」 助手席のカルロスが前方を指差した。ちょっと待て、アンタも行くんかいッ!? 思わず目が点になったが 「俺も英雄ゲバラの墓には行きたかったんだ」 と聞いて、なるほど、ガソリンが貴重なキューバでは遠いサンタクララの街に行く機会など滅多にないのだと了解した。 ホセもまた“初めてなのですごく楽しみだ”と、まるで遊びにいくノリだ。 要するに、2人とも他人の金でサンタクララに行けるので喜んでいたんだ!
考えてみれば英語を話せるカルロスはインテリだ。ホセをはじめキューバっ子の多くはスペイン語しか通じない。道中どんなアクシデントがあるか分からないし、全員が初めての場所に行くわけだから、彼が助手席で地図を広げてナビゲーターをしてくれるのは心強かった。 動き出して最初にカルロスから警官対策の話になった。 「この車は闇タクシーで、政府の許可を得ていない。もし警官の検問があったら、日本人の君と俺は昔からのペンフレンド(!)で、親切心からサンタクララまで案内してあげてる、そういうシナリオで頼む。間違ってもお金のやり取りがあることを言わないでくれ」 “ほんとにこんなシナリオで大丈夫なのか”と内心思いつつ、口裏合わせをした。 そして、漢字が書かれた本(某『歩き方』)やノートはカバンにしまってくれ、と言われた。僕の顔はキューバ人には見えぬから意味ないぞと言ったら、アジア系キューバ人がいるので警官がそう思えば余計な質問はされない、との返事。 ホセは本格的に幹線道路へ入る前に闇ガソリン屋へ寄ると、怪しげな液体を買ってオイルタンクに流し込み始めた。 「あれはな、“薄め液”でガソリンを増やしてるんだぜ」 そう言ってカルロスは僕に目配せしたが、そんなことして途中で止まったらどうすんだよとハラハラした。 警官の検問などそうそうあるものでもないのに…と思ってたら、幹線道路に出たとたん事情を把握した。車を走らせてると道端でたくさんの人がヒッチハイクをしており、警官が車を誘導している。つまり、国民は皆兄弟ということで、空荷のトラックを見つけては警官が荷台に彼らを乗せてあげるよう指示していたのだ! キューバは貧しい国だが人々はめちゃくちゃ陽気だ。こういう助け合いの精神が行き届いてるから、社会も明るくなるのかと思った。 そう感じ入ってると、カルロスは 「今日はやたらと警官が多い。乗用車が止められる事はないと思うけど、後部座席の足元にタオルケットがあるから、俺が“ポリース!”と叫んだら素早く身を伏せ、それを被ってくれ」 と、のたまった。 ウ〜ム、まるで石橋を叩いて発見した小さな隙間に、アロンアルファを流し込んで渡るほどの慎重さ。さすがはプロ…などと感心してる場合ではない!おかげで彼が「ポリース!」と叫ぶ度に体を右へ左へ倒れさせ、大忙しだった。
ホセの超絶マシンテクニックはカリブの風を切り裂き、アベレージ110キロでサンタクララに乗り付けた。片道4時間ちょい。時間は16時半になろうとしていた。 僕は無事に到着したことを天に感謝した。なぜなら、ガソリンの残量を示す針は街に入る10分ほど前から、すでにゼロを指していたからだ。“サトウキビ畑が延々と続くこんな所でガス欠になったらどうすんだよ〜!”って、手の平はびっしょり濡れていた。 そして、いよいよゲバラとの感動の対面となったわけだけど、実はサンタクララの郊外から既に彼の墓は見えていた。街の中で一番高い建造物がゲバラの墓だからだ! ゲバラの霊廟だけでも15メートル近くあるんだけど、てっぺんに6メートルほどのゲバラ像が立っているので、おそらく全体では20メートルを超えていた(ガンダムですら18メートルだ)。 このカリスマぶり、一体ゲバラとはどういう人間だったのか。
●チェ・ゲバラという漢(おとこ) チェ・ゲバラ(キューバではゲバーラと言う)の本名はエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。1928年6月14日、アルゼンチンに生まれる。つまり、彼はキューバの英雄となったアルゼンチン人だ。“チェ”はあだ名で、意味は『心にくいヤツ』『(掛け声の)よっ、大将』。 19歳の時にブエノスアイレス大の医学部に入り、25歳で博士号(医学博士)をとっている。 彼は在学中に約1年間ラテンアメリカ全土をオンボロのバイクで放浪し、南米社会の極端な貧富の差に社会の矛盾を感じ、どう生きるべきか思い悩む。 特にインディオをはじめ、各地で少数民族が不当な弾圧を受けている現実に打ちのめされた。 『その頃私は医者としての個人的成功を夢見ていた。しかしこの旅を通じて考えが変化した。飢えや貧困を救うには注射だけでは不十分だ。社会の構造そのものを変革せねば。病人の治療より重要なことは、病人を出さないことだ』 彼は貧困層を取り巻く劣悪な住宅環境や、深刻な栄養不足を改善することこそが、自分の最優先課題だと考え始める。
医学部を卒業後、ペルーの診療所に行くはずが途中でグアテマラの内戦に遭遇。グアテマラでは左派政権が大地主の土地を没収して貧しい農民たちに分配したが、これをきっかけに富裕層や米国に支援された反政府軍が攻撃を開始。ゲバラはグアテマラ政府軍の一員として戦うが敗北しメキシコへ脱出する。そこで運命的に出会ったのが、生涯の盟友となるキューバ人の青年弁護士、フィデル・カストロだった。 カストロはキューバ国内で反政府運動に参加していたが、厳しい弾圧を受けてメキシコに潜伏していたのだった。 《キューバ革命に参加》 1950年代のキューバは米国の属国同然で、土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本の手に渡り、首都ハバナはマフィアが横行する無法の歓楽街となっていた。しかもキューバ政府の要人は独裁者バティスタ将軍を筆頭に米国にゴマをする者ばかり。巨額の黒い金が支配層間で動いていた。 そのバティスタ軍事政権を打倒する為に、カストロは武装した同志82人と今まさに祖国に戻らんとしていた。情熱的に巨悪と立ち向かうカストロの生き方に感銘を受けたゲバラは、軍医として彼らに同行することを決意し、1956年12月、キューバへの密航船に同乗した。 ときにカストロ29歳、ゲバラ28歳。 アルゼンチンから世界へ ところがこのキューバ上陸作戦は事前に情報が漏れており、海岸にはバティスタの政府軍がズラリと待ち構えていた。上陸時の激戦でメンバーの4分の3以上が死に、付近の山に逃げ込んで助かった者はわずかに17名。それも武器と食料の大半を失って…。 普通なら絶望してしまうところだが、この時にカストロが語った言葉がすごい。 「俺たちは“17人も”生き残った。これでバティスタの野郎の命運は尽きたも同然だ!」 戦車や戦闘機で武装した2万人の政府軍に対して、17名の革命軍でどうやって戦うのか。さすがのゲバラも、カストロが悲嘆のあまり発狂したのではないかと真剣に心配したという。 しかしカストロには、本当に勝算があったのだ。 キューバ人の大半を占める貧農は、普段から徹底的に支配層から抑圧されていた為、戦闘が始まれば必ず自分たちを支持すると確信し、事実そうなった。 これには、彼ら革命軍が農村で食料や物資を調達する際、必ず農民に代金を支払ったことも大きな要因だ。略奪が日常茶飯事だった政府軍とは決定的な差になった。 また、医者のゲバラは戦闘が終わると自軍だけでなく、負傷した敵兵にまで必ず治療を施した。こうした仁義話はキューバ全土にすぐに広まり、政府軍の中からもゲバラたちの仲間に加わる者が出た。 古今東西のゲリラ戦を研究し尽くしたゲバラは、政府軍の意表をつく様々な作戦を立案し、最少の人数で最大の戦果をあげ続けた。 一方、カストロは情報戦の重要性も熟知しており、積極的に内外のジャーナリストに取材をさせた。これでいくらバティスタが隠そうとしても革命軍の連戦連勝ぶりは民衆に伝えられ、ますます支持を得たのだった。 上陸から2年後、サンタクララがバティスタ軍との最終決戦の地となった。ゲバラは7倍の敵に対し、兵力の少なさを悟られぬよう複数の地点から攻撃を開始。また敵の退路を絶つ為に軍用列車を破壊した。パニックに陥った政府軍は雪崩をうって投降し始める。“ゲバラは捕虜を殺さない”という噂がこの投降を加速させた。 サンタクララ陥落の報を聞いたバティスタ将軍は、恐怖に駆られ国外へ逃亡する。 1959年1月2日、民衆の大歓声に迎えられ革命軍はついに首都ハバナへ入城し新政権を樹立させた。首相に就いたカストロは若干31歳、国銀総裁のゲバラは30歳という、若者たちの政府が誕生した。
ゲバラとカストロはすぐさま新生キューバの建設にとりかかる。 まず国民全員が文字を読めるよう教育を無償化すると共に、政府軍が使っていた全ての兵舎を学校に変え、文盲一掃運動に取り組んだ。続けて医療の無料化を実現した後、少数の大地主が独占していた土地を国有化、米国資本が牛耳っていた企業の国営化などをすすめ旧勢力の激しい抵抗を受けつつも独自の国家作りに挑戦した。 国民全員の家賃を半額にするなど、過激な政策をどんどん実行していった。 キューバ革命で最も煮え湯を飲まされたのが隣国アメリカだ。 キューバ全土の土地や電力、鉄道などの巨大な利権と、ハバナ歓楽街のブラックマネーを一度に失った米国は、革命政府に憎悪をたぎらしCIAを暗躍させ、爆弾テロ、米軍傭兵部隊の上陸作戦など様々な方法でゲバラたちを倒そうとした。 1962年、米国の破壊工作にブチ切れたカストロは、ソ連(当時)の強力を得て核武装に踏み切ろうとした。マイアミの目の前に核弾頭を突きつけられてはかなわんと、米国内はパニックになった。 これが俗に言う『キューバ危機』である(最終的に米国の圧力にソ連が屈し、核配備は流れた)。
《ゲバラは戦い続ける》 ゲバラが国立銀行総裁になって一番最初にしたことは、自分の給料を半分以下にカットすることだった。工業相になってからは自ら建設現場で働いたり、工場のラインに立って作業を手伝った。サトウキビの収穫期には農園で汗を流し、とにかく人々の中へ自ら飛び込んでいった。これは彼にとって美談でも一過性のパフォーマンスでもなく、いつもの“ごく普通の光景”であった。 仕事場には誰よりも早くきて、帰りは誰よりも遅く、労働者に交じって食事をするゲバラ。国民の間でどんどん彼の人気は高まっていった。 ※ゲバラはパワフルに各地の工場や畑に出かけていった!そこにもゲバラ、ここにもゲバラ!
…ところが!ゲバラが本当にスゴイのはこっから。 1965年、37歳になった彼は突如失踪した。彼は自身の信念によってキューバを去ったのだ。アルゼンチン人のゲバラは、キューバにおける自分の役目は終わったと判断し、貧困と搾取に苦しむ新たな国へ、再び一人のゲリラとして向かったんだ。国家の要人という地位を投げ捨て、再び過酷なゲリラ生活に帰っていった。 ゲバラはアフリカで戦い、続いて南米ボリビアへと転戦した。
彼は毎日欠かさず日記をつけていた。そこには“圧制者からの解放”という崇高な目的と同時に、仲間の裏切り、束の間の平和、食糧難に苦しみ高地をうろつき回る日々の様子が綴られていた。 『1966年12月24日、クリスマス・イブに捧げられた一日。(中略)最後にはみんなで集まって楽しい時間を過ごした。ハメをはずした者もいた』 『1967年5月13日、げっぷ、おなら、もどし、下痢の一日。オルガン・コンサートもかくやと思われる』 これらは捕われの身となる前日まで書き続けられた。 そして運命の1967年10月8日、ボリビア山中でCIAのゲバラ追跡部隊に指揮されたボリビア軍に捕らえられ、その翌日、全身に弾を撃ち込まれて射殺された。捕虜として収容所へ送られるのではなく処刑されたのだ。最期の言葉は上官の命令でゲバラに銃口を向け、ためらう兵士に叫んだ「ここにいるのは英雄ではない。ただの一人の男だ。撃て!臆病者め!」。39歳の若さだった。 ゲバラの遺体はすぐにヘリコプターで近くの町バージェグランデまで移送され、そこで“ゲリラのリーダーが死んだ証拠”として、見せ物のように晒された。人々が見学に訪れると、ゲバラは目をしっかり見開いたまま死んでいた。その死に顔があまりに美しかった為、「まるでキリストだ」と胸で十字を切る者までいたという。 ゲバラはキューバを去る時、カストロに別れの手紙を送っていた。 『フィデル、僕は今この瞬間多くのことを思い出している。初めて君と出会った時のこと、革命戦争に誘われたこと、準備期間のあの緊張の日々のすべてを。死んだ時は誰に連絡するかと聞かれた時、死の現実性を突きつけられ慄然とした。後に、それは真実だと知った。真の革命であれば、勝利か死しかないのだ。 僕はキューバ革命で僕に課せられた義務の一部は果たしたと思う。だから僕は君に、同志に、そして、君の国民達に別れを告げる。僕は党指導部での地位を正式に放棄する。大臣の地位も、司令官の地位も、キューバの市民権も。今、世界の他の国々が、僕のささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だから出来ないが、僕には出来る。別れの時が来たのだ。 もし僕が異国の空の下で死を迎えても、最後の想いはキューバ人民に向うだろう、とりわけ君に。僕は新しい戦場に、君が教えてくれた信念、人々の革命精神を携えてゆこう。帝国主義があるところならどこでも戦うためにだ。永遠の勝利まで。革命か、死か』
※参考資料…『ゲバラ日記』、『エンカルタ百科事典』、『世界人物事典』(旺文社)、TBS『世界・ふしぎ発見!』ほか。 ------------------------------------------------------------- 歴史上には様々な“英雄”がいる。その多くは圧制者を倒す過程には目を見張るものの、いざ当人が権力を手中にすると傲慢な支配者となって民衆を抑圧し、保身にいそしむ事が少なくない。しかし、ゲバラは違った!いったん権力を手にした革命家が、自らその地位を放棄して再び苦難の中に身を投じる、そんな例は殆ど聞かない。 彼は純粋なまでの左派だけど、思想的な立場の違いを超えて、ゲバラが貫き通した『心の声に忠実に生きる』という姿勢に共鳴する人は数多く、特にラテンアメリカでは「英雄の中の英雄」としてリスペクトされ続けている。実際、チリでも、ペルーでも、ブラジルでも、ゲバラの肖像画を街のあちこちで見ることが出来た。 ハバナ市内のお土産屋では、ゲバラのTシャツが20種類近く売られており、有名な革命広場では、夜になると彼の顔が壁一面に浮かびあがる。 ※日本でも近年は彼の顔がプリントされたTシャツをよく見かけるようになったね。
一方、カストロの肖像画はどこにもなかった。これはぜひ特筆しておきたい。 米政府はカストロを悪魔のように宣伝しているけど、街のどこを探しても、彼を賛美するポスターも銅像もなかった。国民に個人崇拝をこれっぽっちも求めていないのだ!社会主義国から連想する、笑ってしまうほど巨大な国家元首のモニュメントは、キューバでは見当たらなかった。 ホセやカルロスにカストロをどう思うか聞いたら 「う〜ん、たまにドジを踏むけど、俺や皆にとって愛すべき兄貴みたいなもんかな」(カルロス) 「確かにキューバは貧乏だけど、40年もアメリカに経済封鎖されちゃ仕方ないさ。少なくとも、誰も餓死しないんだからカストロはよくやってるよ」(ホセ、訳・カルロス)
1997年7月。処刑されたゲバラの骨が、ボリビアの空港の滑走路の下から見つかった。ボリビア政府はゲバラの埋葬された場所が“反政府運動の聖地”になることを恐れ、ずっと遺骨は不明と公式発表していた。ところがゲバラの埋葬に立ち会った当時の関係者が、 「ワシも、もう歳じゃ。このままチェの埋葬場所を喋らず死ねば、永遠に謎のままになっちまう」 と公表したから大騒ぎ。この年はちょうど没後30年。ボリビア政府は発想を転換し、観光名所にすることで外貨を得ようと発掘に全面協力。ついにゲバラの骨が発見された。 遺骨はキューバに空輸され、ゲバラゆかりのサンタクララで国葬が行われた。証言がなければいまだにチェの墓はなかったわけで、ボリビア人のお爺さんにはホント感謝したい! ●墓参、そして再びハバナへ かくして僕ら3人は車から降り、丘の上に建つゲバラの霊廟と向き合った。ホセとカルロスは2人して同じように腕を組み、無言のままゲバラの像を見つめていた。周囲には数名の観光客と墓を警護する2人の男しかおらず、とても静かだ。夕暮れ時の心地よい風が我々の間を通り抜けてゆく--。 “あなたから、たくさんの勇気をもらいました…ムーチャス・グラシアス!(ありがとう)” 墓前では、ゲバラの生き様にどうシビれたかや、今の世界情勢はこうだとか、あなたの死の同年翌月に僕は生まれたとか、半時ほど日本語でチェに喋りまくった。生きてたら日本語は通じないだろうけど、ソウル・トークは言葉の壁を越えるのでOKなのだ(と信じている)。
帰りにカルロスが“せっかくここまで来たんだしちょっと観光しよう”と言うので、車で街中をグルグル周った。 「あの〜、ガソリン…」 って僕が言ってんのに、カルロスはわれ関せず。冷静なホセが必死でガソリン・スタンドを目で探してるのが首の動きで分かった。結局、僕とカルロスが街を観光してる間に、ホセが給油してくるという段取りになった。ホセはとにかく人が良い。 しかし、なぜカルロスが観光にこだわったのか理由を聞いて納得した。彼はこの街に、ゲバラが最終決戦で破壊した軍用列車の一部が博物館として残っていることを知っていたのだ。カルロスは片っ端から道を尋ねまくって、一目散に鉄道跡地を目指した。15分ほど歩くと、なるほど脱線した列車がそのまま革命博物館になっていた。カルロスはパネルや展示品を色々と熱心に解説してくれた。 ホセとの約束の場所に戻ると、彼はノンストップで運転して疲れたのか座席を倒してスヤスヤ眠っていた。僕は“もう少し寝かせてあげよう”とカルロスの顔を見たら、カルロスは「もう観光したし早く帰りたい」と言って(アンタな〜)、次の瞬間には窓を叩きまくっていた。 帰途。 街を出る前にやはり怪しげな闇スタンドで謎の液体をホセは買い、カルロスは出発したときと同じ説明を、これまた同じ目配せをしながらしてくれた。闇スタンドのオヤジは僕らに甘いコーヒーを入れてくれた。 それから4時間の間、再びノンストップでハバナを目指した。ただ一度だけ、写真タイムを要請。広大なサトウキビ畑に沈んでゆく深紅の夕陽に圧倒された…! やがて、とっぷりと日が暮れた。幹線道路に街灯はなく、漆黒の闇の中を滑るようにひたすら突き進んだ。
ハバナに戻った時は、もう21時半をまわっていた。 読者の方は、ひとつの疑問を持っている思う。昼頃に出発して、今まで食事はどうしていたのかと。信じられないと思うけど、3人とも懐が寂しかったので何も食わず我慢したんだ。 否、正確に言うと、カルロスが持っていた1枚の板チョコを3分割し、9時間以上かけてチビチビ食べていたんだ。ホセ35歳、僕33歳、カルロス31歳という三十路3羽ガラスが、チョコの破片を分け合う姿は、ある意味とてもユーモラスだったと思う。 ホセはハバナの中心街まで僕とカルロスを送り届け、郊外の自宅に帰って行った。僕はホセと別れる前に肩を抱き合った。彼は本当に一人で頑張って運転してくれたので、ちょっとウルウル。僕は決してリッチではないけれど、135ドルの約束に対して150ドルを手渡した。だって、日本で9時間半タクシーを飛ばしたら、こんな値段じゃすまないもんね…。 カルロスとの別れ際、彼が少しだけ家に来ないかと言うので驚いた。実は今日、娘が2歳の誕生日なので、一言祝ってやって欲しいというのだ。 “俺には2歳の子供が…”と言ってたあの話は本当だったんだ!サンタクララで早く帰りたいと言ったのも、娘のバースデーの為だったのか。カルロスって、けっこういいヤツじゃん! 近くのアパートの3階に上がり部屋に招待されると、婆ちゃん、奥さん、弟、チビちゃんの4人が22時というのに皆起きていて、テーブルにはケーキが置かれていた。僕は色んなお菓子を薦められジーンときた。 しばし団らんの後、時間が時間なので早めにおいとまをした。 カルロスはアパートの下まで見送りに来てくれたが、最後の言葉が 「アミーゴ。マリファナを買わないか?」 ギャフン。カ、カ、カルロス…。 午後10時半、かくして僕は港に戻ったのであった。 グラシアス&アディオス!ホセ、カルロス、チェ・ゲバーラ!!
(P.S.)ゲバラの愛読書 彼が好んだ作家は、幼少期がデュマ、学生時代がフロイト、ボードレール、パブロ・ネルーダ。ゲリラになってからはゲーテやセルバンテスを愛読していたという。 (P.S.2)ゲバラの口ぐせ 「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」 (P.S.3)武装闘争は最終手段 「政府が、不正があろうとなかろうと、何らかの形の一般投票によって政権についている場合、または少なくとも表面上の合憲性を保持している場合には、ゲリラ活動には多大の困難が伴うだろう。非暴力闘争の可能性がまだあるからである」(『ゲリラ戦争』) (P.S.4)向こう見ずなドン・キホーテ 彼自身、そのドン・キホーテぶりを自覚してたようで、両親に宛てた手紙でそのことに触れている。両親にとっては以下の文面が遺書となってしまった。(署名のエルネストは彼の名前) 『もう一度、私は足の下にロシナンテ(ドン・キホーテの愛馬)の肋骨を感じています。盾をたずさえて、再び私は旅を始めるのです。もしかすると、これが最後になるかもしれません。自分で望んでいるわけではないが、論理的にはそうなる可能性があります。もしそうなら、あなた方に最後の抱擁をおくります。 私は、あなた方を心から愛していました。ただ、その愛情をどう表現したらよいのかを知らなかっただけです。私を理解していただくのは容易ではないのですが、今は、私を信じて欲しいのです。芸術家のような喜びをもって完成を目指してきた私の意志が、なまってしまった脚と、(喘息の為)疲れた肺を支えてくれるでしょう。この20世紀の小さな外人部隊長を時々想い出して下さい。 おふたりの強情な放蕩息子から大きな抱擁を送ります。〜エルネスト』 (P.S.5)子ども達への最後の手紙 『この手紙を読まねばならない時、お父さんは側にいられないでしょう。世界のどこかで誰かが不正な目にあっている時、痛みを感じることが出来るようになりなさい。これが革命家において、最も美しい資質です。子ども達よ、いつもお前たちに会いたいと思っている。だが今は、大きなキスを送り、抱きしめよう。〜お父さんより』 ※YouTubeにアップされているゲバラの肉声(1分10秒) ※青年ゲバラのバイク旅行の様子は傑作映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』(公式)で描かれている! ※俳優ジョニー・デップはゲバラのペンダントを肌身離さず身につけているという。男が憧れる男、それがゲバラ。 |
★ゲバラと日本〜ゲバラは来日していた! 《ゲバラ、訪日時に被爆地・広島を夜行列車でゲリラ的訪問》 [ 07年10月9日 毎日新聞 ] キューバ革命の英雄チェ・ゲバラが訪日団の団長として1959年に来日し、広島をゲリラ的に訪問した際、副団長と2人で大阪から夜行列車に飛び乗ったことが9日、分かった。副団長だったオマル・フェルナンデスさん(76)が明らかにした。 フェルナンデスさんは「チェは被爆地・広島訪問を熱望し、私と2人で大阪のホテルをこっそり抜け出し、夜行列車で広島に行ったんだ」と振り返った。 ゲバラは59年1月の革命後、同年6月から3カ月間、アジア・アフリカを歴訪した。訪日団長が当時31歳のゲバラで、副団長を2歳年下のフェルナンデスさんが務めた。7月中旬に来日、10日間滞在し、自動車工場などを視察した。アルゼンチン出身の医師であるゲバラは、予定になかった広島の被爆地訪問を強く希望したが、日本政府の許可が出なかったという。業を煮やしたゲバラは大阪のホテルに滞在中、「ホテルを抜け出して広島に行くぞ」と決断。オリーブグリーンの軍服姿で大阪駅で切符を買い2人で夜行列車に飛び乗った。 「被爆者が入院する病院など広島のさまざまな場所を案内され、私同様、チェも本当にショックを受けていた」とフェルナンデスさん。帰国報告の際にゲバラは、フィデル・カストロ国家評議会議長(当時は首相)に「日本に行く機会があれば、必ず広島に行くべきだよ」と強く勧めたという。カストロ議長は03年3月に広島を訪問。フェルナンデスさんは「フィデルはチェとの約束を守ってくれた」と感激した。 ※ゲバラは家族にあてた絵ハガキに「広島を訪れ、ますます闘うエネルギーがわいた」と書いた。 ※原爆ドーム訪問後にゲバラが通訳に言った言葉「日本はこんなにひどい事をされたのに、アメリカの言いなりになっているのか」。 |
★僕は映画『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳別れの手紙』を全肯定ッ!! チェ・ゲバラの伝記映画2部作をレビュー。「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」(チェ・ゲバラ)。最初は民衆の為に立ち上がった革命家が、最終的に自らの権力に固執する暴君と成り果て死んでいったことが幾度あったことか。“堕ちた英雄”の話はゴマンとある。その中で、死の瞬間まで理想を求めて戦い続けたのが、アルゼンチン人の医者でありながらキューバ革命を成功させ、ラテンアメリカのカリスマとなったチェ・ゲバラだ。
●第1部『チェ 28歳の革命』ゲバラ役のベニチオ・デル・トロはこの熱演でカンヌ映画祭の主演男優賞に輝いた。監督は当サイトのトップ最上段にある言葉「芸術を生むために日々努力をしている人に感謝します。僕は芸術なしでは生きられない」で知られるスティーブン・ソダーバーグ。この映画はもともとキューバ時代の華々しい活躍ではなく、あまり知られていない晩年のボリビア時代を描く目的で製作が始まった。しかしボリビアでの失敗と悲しみは、キューバでの成功を描くことで、それがコントラストとなっていっそう浮き彫りになると、最終的にキューバ編を含めた4時間超えの大作となった。 冒頭、ゲバラがメキシコでフィデル・カストロと出会い、キューバの腐敗しきった独裁政権を倒す為に船で出発。キューバ上陸後はゲリラを組織して、島の東側から徐々に西進を開始する(最初はたった17人)。優れた戦術で2万人の国軍を相手に連戦連勝、誠実なゲバラは人望が高く、多くの民衆がゲリラに加わり、わずか3年で首都ハバナを陥落させ勝利する(第1部はここまで)。 …と、ストーリーだけ書けば盛り上がる要素満点なんだけど、大抵の映画批評サイトでこの映画はメタメタに叩かれている。観客の心を掴もうというサービス精神が完全に欠けているからだ。例えば-- (1)アルゼンチン人のゲバラがなぜキューバ革命への参加を決めたのか、その過程が描かれてないので、ゲバラの人物像を知らない人はスムーズに感情移入できない。 (2)史実では、キューバ上陸の際に待ち伏せ攻撃にあい約80人の仲間のうち4分の3を失っている。このエピソードは完全にカット。Why?その壮絶な戦いを前半に見せていれば、観客は後の戦いをもっと応援するし、勝利の度に感無量になるのに〜! (3)ラストにハバナ入城のシーンがないなんて詐欺ッスよ!実際のニュース映像でゲバラたちがハバナ市民から熱狂的に歓迎されたのを知ってるだけに、「さあ今から首都に入って歓喜の凱旋パレードだ!」と、感動の大エンディングを待ち受けていたら、車でハバナに向かうシーンで唐突に“完”。しかも、若いゲリラが戦利品でゲットした高級車を乗り回していたので、怒ったゲバラが「今すぐにそれを帰してこい!俺たちは泥棒じゃない!」と説教&肩をすくめているとこで“完”。思わず椅子からズリ落ちそうになった。2部構成とはいえ中途半端すぎる。大群衆に喝采で迎えられる劇的なラストシーンなら、観客はカタルシスを感じて“いや〜、盛り上がったね”となるのに…。あうう、もったいない。 それでは、この映画は「駄作」なのか?答えは映画に何を求めるかで違ってくるだろう。ハリウッド的な派手な戦闘シーンや、“聖者ゲバラ”の感動エピソード&カリスマ・オーラ爆裂を期待していたら20点。しかし、あざとい演出や“ここで泣いて下さい”的な音楽を排除し、実際のゲリラ活動の大半を占めるであろう地味な行軍やキャンプ生活を丁寧に描くことで、「チェという人間と一緒にいること、それがどんな感覚かを味わって欲しい」(監督)という、“ゲバラと空気を共有する”一体感を味わいたければ85点だ。そして僕は後者だった。 とはいえ、多くの観客は“ゲバラがどんなヒーローだったのか見てみたい”という気持で劇場に足を運んだと思うし、それ故のガッカリ感も分かる。もっとエンターテインメント性に重きを置いて、アクションとロマンスをふんだんに入れ、ラストの大勝利を見せて爽快ハッピーエンドという作り方をしていれば、それが全部事実なだけに、タイタニック並とは言わなくてもかなりの大ヒットが期待できたハズ。彼の存在がより多くの人に伝わる好機を逃して残念とも思う。だがしかし!その路線のゲバラ映画は、今後も登場する可能性は充分にあるし、定石通りの見せ方なら簡単に製作できるだろう。このようにリアリティを追求し、移動の休息中に読書をしている姿や、持病のぜん息で苦しんでいる様子、貧しい村人を治療したり、仲間の喧嘩を仲裁している普段のゲバラを通して、稀代の英雄と寝食を共にする感覚を味わえたことは、ゲバラ・ファンとしてこれ以上ない喜びだった。 ●第2部『チェ 39歳別れの手紙』 ゲバラが処刑されるまでの最後の11ヶ月を描く。第1部ではキューバ革命という“勝ち戦”を描いており、ゲリラ仲間には希望があり陽気なムードメーカーもいて、ジョークを言い合う余裕もあった。ところが、第2部はもう最後に死ぬことが分かっているので、ひたすら状況が悪化して行くのみ。胃がキリキリしっぱなし。ソダーバーグ監督いわく「素晴らしい冒険物語を描きたかったのではなく、偉大な思想を行動に移そうとする時の難しさを掘り下げたかった」。主演のデル・トロは25kg減量して撮影に挑み、筆舌に尽くしがたい凄味を出していた。 ゲバラは「キューバ革命は成功したが世界にはまだ虐げられた人々が大勢いる」と、キューバ政府の大臣の地位を捨て、愛する家族とも別れ、ただの一介のゲリラとして旅立つ。目指したのは南米の中心に位置する軍政ボリビア。そこで革命を成功させ、周辺諸国を次々と独裁者の圧政から解放する計画だった。 勝算はあった。キューバのようにゲリラが潜める山岳地帯があり、ボリビア共産党から物資食料の支援を受ける根回しもしていた。ところが、ゲバラがソ連のことを「帝国主義の共犯者」と批判したことから、親ソ派のボリビア共産党から過激派扱いされて援助を断たれ、米国に支援されたボリビア軍精鋭部隊がゲバラを執拗に追跡した。最大の悲劇は、ゲバラたちが貧しい農民のために頑張っていたのに、ボリビア軍が流したデマの為に農民の支持を得られなかったことだ。 軍はゲバラたちを「キューバ人の侵略者」「外国人の山賊」などと農民に吹き込み、ゲリラを見た農民たちは逃げ出し居場所を軍に通報した。また脱走ゲリラが軍に捕まり作戦を自白したのも痛かった。次第に追い詰められ、もともと50人しかいなかったゲバラの仲間が1人、また1人と散っていく。少ない戦力で奮戦するも多勢に無勢、ついにゲバラは軍に拘束され、裁判抜きで翌日に処刑された。 多くの映画評で、この第2部は第1部以上にボロボロの点数が付けられている。単調といわれた第1部でさえ、一応見どころとなる大きな市街戦があった。しかし第2部は山岳地帯で小競り合いがたまにあるだけで、前作以上に娯楽性が皆無&ストーリーにメリハリもなく、人間ゲバラに興味のない人には2時間の“苦行”だったと思う。僕は第1部を見て、この2部作は通常の“映画的興奮”を求める作品じゃないことが分かったので、最初からスイッチを切り替え、ゲバラの過酷な行軍を見届ける覚悟で挑んだ。見終えた僕の点数は100点だ。 「我々が作り出したエピソードはひとつもなく、すべて入念なリサーチで事実と認められたもの」(監督)というどこまでも誠実な作り。前作以上にゲバラを間近から見つめ続けた本作は、ゲバラ信者として100点以外に付けようがない。すぐ側で目にした彼の言動の一つ一つに心が動いた。 武力による革命には安易に賛同できないけれど、「人間による人間の搾取をなくしたい」というゲバラの気持ちは良く分かる。彼はモラルや正義を重視し、腐敗や私欲とは無縁の誇り高い男だった。たとえ部下でも、農家の食料を略奪したり女性を暴行すれば許さなかった。彼の辞書には「妥協」という文字が無いので、一緒に行動するのは大変だ。食料も弾薬も乏しい。それでも、“虐げられた貧しい人々を救いたい”というゲバラについていく、そんなゲリラたちの想いと共に行動した2時間は、僕の人生の中で決して無駄な時間ではなかった(ゲバラのぜん息の呼吸音がまだ耳から離れない。それくらい彼が近くにいた)。ゲバラが銃殺されるシーンだけ、カメラが彼の目線になったので、ゲバラと共に自分も地面に崩れ落ちた気がした。 最後に特筆したいのは、この映画にエンディングの音楽がなかったこと!過去にも曲なしエンディングはあったけど、スタッフロールは比較的に短かった。本作はスタッフの数が多く、長い時間、ずっと無音の中に身を置くことになる。この無音という“演出”は、ある意味、音楽以上に感情を揺さぶった。音楽がないので他に集中するものがなく、暗い画面を見ているうちに、ゲバラの人生を振り返り始める。キューバでの情熱の日々、フィデルや家族と遠く離れたボリビア山中での逃避行、孤独な死…。理想や正義感が空回りし、作戦は失敗、農民にも部下の一部にも裏切られて39歳で死んでいったゲバラが、とにかくもう可哀相で可哀相で、無意識に涙が溢れてきた。それは僕だけじゃない。ほぼ同時に場内のあちこちから鼻をすする音が聞こえてきた(静かなのでよく響く)。特に僕の左前に座っていたおじさんは号泣。右の方でもおじさんが爆涙していたので、おそらく団塊の世代は学生運動の挫折を経ているので、ゲバラのことが他人事と思えず、あんなにも泣けたんだと思う。 一方、後ろに座っていた若者3人は「つまらん、途中で寝た」「何も伝わってこない」と、全くゲバラに同情していない。なんという温度差!これは別にあの若者たちに感受性がないわけじゃなく、再び日本に熱い政治の季節が訪れたら、この2本の映画が若者にもリアリティを持って輝き出し、高く再評価されると確信している。 「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、『その通りだ!』と」(ゲバラ) ※追記。サイト読者の方から「第2部は短いエンドタイトルが最初に流れました」「曲はおそらくメルセデス・ソーサの“共和国の庭園にて”です」と情報を頂きました(有難うございました!)。僕は思い出せないのですが、感動で記憶が飛んでいた可能性が大です。DVDが出たら確認します!
※映画のテーマ的には従来ならミニシアターでひっそり上映される内容。ゲバラの伝記映画が巨大シネコンで大々的に上映されるとは公開前に思ってなかったので、僕はそれだけでも嬉しい。 |
Tシャツなどのゲバラの肖像はこの写真がモトになっている! |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
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