相田みつをさん | 墓所は故郷足利の法玄寺 | 有名な『にんげんだもの』 |
『つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの』(相田みつをの50代後半の言葉)。
詩人・書家として知られる相田みつをは、1924年5月20日に栃木県足利市で生まれた。本名は光男。雅号、貪不安(ドンフアン)。父は刺繍職人。6人兄弟の3男であり、相田は次兄・幸夫(ゆきお)をよく慕っていた。相田がまだ3、4歳の頃、小学生の幸夫がよく紙芝居を見に連れ出してくれた。その際、家が貧乏で飴を買わずに遠くからタダで見ていた為、あるとき幸夫が紙芝居屋に襟首を掴まれ引きずり出され、皆が見ている前でぶん殴られた。兄一人なら逃げることができたが、幼い弟がいるため捕まったのだ。幸夫は殴られても泣かずにじっと弟を見つめ、紙芝居屋は「強情なヤツめ」と何度も殴った(『歯をくいしばってがまんをしたんだよ 泣くにも泣けなかったんだよ 弟のわたしがいっしょだったから』)。 幸夫は新聞社の模擬テストで県一番に輝いた秀才だったが、家計を助けるため長兄・武雄と同様、小学校を出た後は費用の掛かる旧制中学に通えなかった。そして2人の兄の稼ぎのおかげで4人の弟妹たちが中学に行けた。相田が中学に進むと幸夫は懇々と諭した。「みつを、中学校ってのは下級生を殴るという噂を聞いたけれども、無抵抗な下級生を殴るのは一番野蛮だぞ。無抵抗なものを絶対に殴るなよ」「足袋の穴は恥ずかしくない。その穴から太陽を見ていろ」「どんなにひもじくても、卑しい根性にはならないでくれ」。 そんな優しい兄たちの人生を戦争が狂わせた。 1937年、13歳のときに日中戦争が勃発し、最初に幸夫が兵隊にとられた。出征前に幸夫は弟に言う。「お前なあ、男として生まれてきた以上、しかも中学校に我々の働きで行かせてやったんだから、自分の納得する生き方をしてくれよ。世間の見てくれとか、体裁よりも、自分の心の納得する生き方をしてくれよ」。 幸夫は北京で憲兵隊に回され、自身の調書の書き方ひとつで中国人は即死刑になった。ある日、幸夫から「読んだら燃やせ」「この戦争は間違っていた」と秘密の手紙が相田家に届いた。「自分はいま思想犯の調書を書いているが、捕まえてくるのは北京大学の学生が多くみんな秀才だ。弟を見るようでとても殺すに忍びない。彼らから“どう理屈をいっても武器弾薬を持って他人の国に入って来るのは根本的に間違っている”と言われると二の句が継げない。中国の将来性のある青年を銃殺刑にするのは可哀相だから、なんとか自分の配慮でみんな無罪釈放できるように調書を書いている」。 1941年8月(17歳)、相田家に悲痛な電報が届く。「相田幸夫殿、山西省の戦闘において、左胸部貫通銃創を受け、名誉の戦死」。弔問客が帰った後、母は幸夫の遺影に向かって叫んだ。「幸夫、なんで死んだ、勲章も名誉も母ちゃんはいらない、おまえさえ生きて帰ればなんにもいらない、ユキオ!!ユキオ!!ユキオー!!」。 その後、幸夫の死を看取った戦友Tから手紙が届く。幸夫は撃たれた後2時間ほど生きており、しきりに故郷の親兄弟を心配していた。「死んでゆく自分はいいけれども、両親や弟妹たちの嘆き悲しむ様を想うとそのことが一番つらい」。そして戦友Tは“読んだら必ず焼却して欲しい”と断った後、兄の最期の言葉を記した。「戦争というものは人間の作る最大の罪悪だなぁ……」。同年12月、新たに日米開戦となり、今度は長兄・武雄が兵隊にとられ、1944年5月「ビルマにて戦死」と訃報が届いた(当時、ビルマでは『インパール作戦』の最中。当作戦の日本軍死傷者は5万以上。死者は大半が餓死。武雄もこの作戦で犠牲に)。母は2人の子どもを奪われて気も狂わんばかりになり、85歳で没した際も、臨終前に「武雄!幸夫!」と叫び続けていた。 相田は兄たちを失った後、何か困ったことがあると墓参りに行き「あんちゃんなぁ、どっちの道選んだらいいかなぁ」と石塔と相談するようになった。「私は何かに迷うと、もし、あんちゃんたちが生きていたら、自分がどういう生き方をすれば喜んでくれるだろうかと考えるんです。そして、いつでも、あんちゃんたちが喜ぶ方の道を選ぶんです。私は今日まで、あんちゃんたちに守られて、こういう人生を生かしてもらってきたのです」。 ※相田みつを『三人分』より〜「三人分の力で頑張れば どんな苦しみにも耐えられるはずだ 三人分の力でふんばれば どんなに険しい坂道でも 越えられるはずだ 三人分の力を合わせれば どんなに激しい波風でも 何とか乗り切れるはずだ そして 三人分の力を合わせれば 少なくとも 人並みぐらいの仕事は できるはずだ たとえ私の力は弱くとも…」「三人分とは 一人はもちろんこの自分 気の小さい 力の弱い だらしのない 私のこと あとの二人は 戦争で死んだ二人の兄たちのこと 豊かな才能と体力に恵まれながら 戦争のために 若くして死んで行った 二人のあんちゃんのこと 学問への志を果たすこともなく 人並みの恋の花すらさかすことなく 青春の固い蕾(つぼみ)のままで死んでいった 二人のあんちゃんのことです わたしの仕事は いつもこの二人のあんちゃんといっしょ だからわたしの仕事は 三人で一ツです」。 戦時の中学には必須科目に軍事教練があり、相田の通う学校には教官として軍から少佐が直接派遣されていた。前任者のときに、相田から筆を借りた友人たちが、その筆を使って日の丸に映画女優の名前を書いた事件が起き、朝礼で犯人探しが行われた。友人たちはシラをきり黙り込んだが、相田は筆を貸した責任を感じ名乗りをあげた為、「アカ」として教練不合格になっていた。相田は新しい教官から、兵器庫の屋根を傷つけたイタズラ犯と決めつけられ、全く無関係なのに体罰を受けた。身に覚えがない相田は罪を認めず、激怒した教官は軍刀を抜いた。 「貴様は上官の俺に反抗するのか!上官に反抗するのは天皇陛下に反抗するのと同じだぞ!」「自分ではありません。殺されても自分ではありません!」。この時の相田は教官と刺し違える覚悟だったという。殺気を感じた教官は刀を納めた。相田は“天皇の名前さえ出せばどんな無理でも通った時代”と振り返る。 「たとえどんな生徒であっても、自分の持っている権力を笠に着て相手の人格を全面的に抹殺するような叱り方は、一生恨みを残すだけで、何の効果もありません。人間を育てる教育者としては最低だと思います。(略)そして、こういう人間の一番始末におえないことは、威張り散らすそのことを“勇ましくてカッコいい”と、本人が思っていることです。戦時中の軍人の中には、そういう単細胞がいっぱいいたのです」。 1942年(18歳)、市内の寺で行われた短歌会にて、生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応老師と出会い、在家のまま禅を学び始める。続けて歌人・山下陸奥に師事し、19歳からは書家を志して岩沢渓石に師事した。20歳で軍に召集されたが出征前に敗戦を迎える。間もなく相田は書の才能を開花させ、1954年(30歳)、書道界で権威ある『毎日書道展』に入選を果たした。同年、相田は足利市で初の個展を開き、千江夫人と結婚する。この後、技巧派の書家として『毎日書道展』に7年連続で入選している。 30代になった相田は、伝統的な書で高評価を得つつも、閉鎖的な書道界に違和感を持つようになり、シンプルで短い「詩」をぬくもりのある易しい字体の「書」と融合させた独特の作風を完成させた。 相田は書道教室を開いていたが、妻と2人の子を抱えて生活費が足りず、“ろうけつ染め”を学んで風呂敷や暖簾を制作したり、地元商店から包装紙デザインの注文をとるなどしてギリギリの生活を送っていた。「私は、誰とも競争しない生き方をしたかった。私の学んだ禅の教えは、勝ち負け、損得を越えた世界を生きることにあったからだ」「不思議なもので真剣に歩き続けていると、いつかは仕事をくれる人にめぐり逢える。世の中はそういうもんです」。 1960年12月。相田は『私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだ。それが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではない。その仕事が何であるかを見つけ、そのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに人間として生まれてきた意義と生きてゆく喜びがあるのだ』と書く。男36歳、覚悟の言葉だ。 1974年(50歳)、仏教学者・宗教家の紀野(きの)一義がベストセラー『生きるのが下手な人へ』の中で相田のことを紹介。また1984年(60歳)の初詩集『にんげんだもの』がミリオンセラーとなって相田ブームが起きた。3年後に刊行した第2詩集『おかげさん』(1987)も約25万部のベストセラーとなり、各地での講演も増えた。あるとき講演先で、相田は反物の行商をしていた亡き父を知るお婆さんに「あなたのお父さんは仏さまのような大変いい人でした」と言われた。相田いわく「私は涙が出るほど腹の底から嬉しかった。親の財産というのは、何も遺(のこ)さなくていいけれども、“あんたのお父さんは大変いい人でしたよ”という、その一言が、我が子に残す一番いい財産じゃないかと思うんです。私は、こんな嬉しい言葉を聞いたことがありませんでした」。 2つの詩集が話題になり、長年の苦労が報われたその矢先に悲劇が訪れる。1991年、自転車を避けようとして転倒し足を骨折、さらに脳内出血を起こして12月17日に足利市内の病院で急逝した。享年67。相田は成功後も作品制作に妥協せず、印刷による墨の微妙な色の変化や、印刷位置の小さなズレを理由に、印刷済みの色紙千枚を廃棄したことも。長男・一人との最期の会話では「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」と夢を語っていたという。 他界翌年に自伝的な遺稿集『いちずに一本道いちずに一ッ事』が出版され、翌々年には遺作集『雨の日には……』が刊行された。没後5周年の1996年、銀座に『相田みつを美術館』が開館(後に丸の内・東京国際フォーラムへ移転)。以降も日本各地で展覧会が催され、『生きていてよかった』(1998)、『じぶんの花を』(2001)と出版が続き、多くの人々から愛され続けている。※2006年時点で作品集とカレンダーは800万部を超えるベストセラーになっている。 『あのときのあの苦しみも あのときのあの悲しみも みんな肥料になったんだなあ じぶんが自分になるための』(死の前年の詩)。 『自分の番 いのちのバトン』相田みつを 父と母で二人 父と母の両親で四人 そのまた両親で八人 こうしてかぞえてゆくと 十代前で千二十四人 二十代前では---? なんと百万人を越すんです 過去無量の いのちのバトンを受けついで いまここに 自分の番を生きている それが あなたのいのちです それがわたしの いのちです 〔参考文献〕遺稿集『いちずに一本道いちずに一ッ事』を中心に、『生きていてよかった』『にんげんだもの』など作品集。他にエンカルタ総合大百科、Wikipediaなど。 |
【相田みつを語録&一部に本人の注釈】
『いいことはおかげさま わるいことは わるいことは身から出たさび』 『途中にいるから中ぶらりん 底まで落ちて地に足が着けば ほんとうに落ち着く』 『セトモノとセトモノとぶつかりッこするとすぐこわれちゃう どっちか柔らかければだいじょうぶ やわらかいこころを持ちましょう』 『うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる うばい合えば憎しみ わけ合えば安らぎ』 『おかげさん』 ※「つまづいたりころんだりしたおかげで少しずつだが自分のことがわかってきました。あやまちや失敗を繰り返したおかげで人のことをいう資格のない自分に気がつきました。そして---いざという時の自分の弱さとだらしなさがよくよくわかってきました。だからつまづくのもおかげさま、ころぶのもおかげさまです」。 『出逢いが人間を感動させ感動が人間を動かす 人間を動かすものは難しい理論や理屈じゃない』 『花はただ咲く ただひたすらに ただになれない人間のわたし』 『どうころんでもおれのかお』 『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』 ※「雨の日を天気のいい日と比べて「悪い日」だと思う、人間(自分)中心の考えをやめること。雨の日には雨をそのまま全面的に受け入れて、雨の中を雨と共に生きる。風の日には風の中を、風と一緒に生きてゆく、という意味です。そしてこの場合の雨や風は、次から次へと起きてくる人間の悩みや迷いのことです」。 『あんなにしてやったのに 『のに』がつくとぐちが出る』 『そんかとくか人間のものさし うそかまことか仏さまのものさし』 『しあわせはいつも自分のこころがきめる』(34歳) (ただいるだけで)『あなたがそこにただいるだけでその場の空気が明るくなる あなたがそこにただいるだけでみんなの心が安らぐ そんなあなたにわたしもなりたい』(56歳) 『つまづいたって いいじゃないか 人間だもの』1980年頃(50代後半) |
足利市・法玄寺の寺墓地の中腹付近 | 中央の石柱に「相田みつを此処に眠る」とあった | 戦死した2人の兄(幸夫、武雄)の墓が隣接して立つ |
相田さんの自筆で「相田家之墓」と刻まれた墓石。数多くの素晴らしい言葉、本当にありがとうございました! |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
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