武士であり学者でもあった | 進撃する大塩たち。中央、3門の大砲をひくのが見える | 日本一タフなおやっさん |
大塩家の菩提寺・成正寺は、大阪駅と 大坂城の中間地点、大阪のド真ン中にある(2010) |
成正寺の本堂背後にある大塩家の 歴代墓。大阪大空襲の焼夷弾で 焼けてしまい、一部が砕けている |
「寛政11年」(1799)という から、非常に古い墓! ※平八郎の子ども時代! |
1999年の初巡礼時。労を ねぎらいカロリーメイトを献上 ※成正寺の本堂前 |
9年後に再訪すると境内が整備され、雰囲気が 激変していた!こざっぱりとキレイになってた(2008) |
さらに2年後、再々巡礼。墓前はいつも花が 絶えないけど、江戸時代は“大罪人”大塩の 墓を造ることは許されなかったという(2010) |
『大塩の乱に 殉じた人々の碑』 |
手前が殉死碑、奥に見えるのが大塩父子。大塩自身 の墓よりも、庶民の供養碑の方が遥かに大きかった。 あくまでも民衆第一!(1999) |
再訪すると3基並んでいた墓と石碑が 本堂の左右に分かれていた(2008) ※奥の方に大塩父子の墓が写ってます |
2016年、初めて本堂に位牌があることを知る |
住職に見せて頂き感動! |
中央が大塩、左に関係者の位牌、右の 「大義院士行日尚居士」はおそらく嫡男 |
江戸後期の陽明学者で大塩の乱の首謀者。大阪出身。父は大阪町奉行所与力(よりき)で大塩家は禄高200石の裕福な旗本だった。号は中斎。幼くして父母を失い、祖父母に育てられる。13歳頃、与力見習いとして東町奉行所に出仕、1818年(25歳)正式に与力となる。「与力」は今で言う警察機構の中堅。署長が奉行で、与力は部下の「同心」たちを指揮している。翌年には吟味役(裁判官)となり、裁定に鋭い手腕を発揮した。大塩は20代から陽明学を学んでおり、職務を通して陽明学の基本精神“良いと知りながら実行しなければ本当の知識ではない”を実践していく。
大塩が吟味役となって驚いたのは、奉行所がとてつもなく腐敗していたことだった。ある日、彼が担当した事件で当事者から菓子折りが届いた。中味は小判という“金のお菓子”だった。これが日常茶飯事であるばかりでなく、同僚の中には自ら賄賂を要求する者が多数いることを知り愕然とする。捜査に手心を加えることも、半ば公然と行なわれていた。つまるところ、奉行所は腐りきっていた。 内部告発の為に証拠を集める大塩は、西町奉行所(奉行所は東と西がある)にとんでもない与力がいることを知る。この弓削という男は裏社会の犯罪組織のボスで、手下に恐喝や強盗、殺人まで行なわせて自身は遊郭で遊び暮らし、与力という立場を利用して捜査を妨害する大悪党だった。 大塩は徹底的に戦う決意をし、大阪各地に潜伏する弓削の手下を片っ端から摘発、弓削のシンジケートを壊滅させた。弓削は自害し、大塩は没収した3千両という莫大な金銭を貧民への施し金とした。ところが事件はこれで収まらなかった。捜査の過程で、複数の幕府高級官僚が不正に加わっていた証拠を掴んだのだ!「余計なことをするな」「大人しくしていろ」と幕府中枢部から圧力を受けた大塩は、身の危険を感じて同棲中の恋人を親戚の家に匿ってもらい、腹をくくって巨悪に立ち向っていった。 1830年(37歳)、大塩が不正行為を暴いた一大スキャンダルの裁決が発表される。それは大塩を深く失望させる内容だった。幕府高級官僚の悪事は揉み消され、小悪党の3名が遠島や改易処分になってこの事件は幕が下ろされた。そして処分の一ヵ月後、大塩を陰ながら応援してくれていた上司が辞任。これに連座する形で、名与力として人望を集めていた大塩も、職を養子・格之助に譲って奉行所を去った。こうして大塩の25年にわたる奉行所生活が終わった。 これに先立つ5年前(1825年)、大塩は32歳の時に、私塾『洗心洞』を大阪天満の自宅に開いていた。教えていたのは陽明学。彼は学者としても広く知られており、与力や同心、医師や富農にその思想を説いていた。塾の規律は厳しく、朝2時に講義が始まり、真冬でも戸を開け放していたが、門弟は増える一方だった。奉行所を隠居した大塩は、一介の学者として学問の道を究めようとし、1833年(40歳)“知”は“行動”が一致して初めて生きるとする「知行合一」を説いた『洗心洞剳記(さつき)』を刊行する。大塩は著作の最後を「口先だけで善を説くことなく善を実践しなければならないのだ」と締めくくり、門弟と共に富士山に登り同本を山頂に納めた。 1833年(40歳)、冷害や台風の大被害で米の収穫量が激減し、米価は高騰した。凶作は3年も続き餓死者が20〜30万人に達する。世に言う「天保の大飢饉」だ。1836年(43歳)、商都大阪でも街中に餓死者が出る事態となり、大塩は時の町奉行・跡部良弼(老中・水野忠邦の弟)に飢饉対策の進言をする。凶作とはいえ“天下の台所”大阪には全国から米が集まってくる為、庶民は飢えていても米問屋や商家にはたっぷり米があったからだ。「豪商たちは売り惜しみをして値をつり上げている。人々に米を分け与えるよう、奉行所から命令を出してはどうか」と訴えたが、跡部は耳を貸すどころか「意見するとは無礼者」と叱責する始末。 さらに大塩を憤慨させることが。将軍のいる江戸に米をどんどん流して点数を稼ぐ為、奉行所は大阪に搬入されるはずの米を兵庫でストップさせ、それを海上から江戸に送っているというのだ。しかも米価を吊り上げ暴利を得ようとする豪商と結託しているからタチが悪い。飢饉につけ込む豪商らの米の買占めで、大阪の米の値段は6倍まで急騰した。一方で奉行所は大阪の米を持ち出し禁止にし、京や地方から飢えて買い付けに来る者を牢屋に入れ厳罰に処した。もうメチャクチャだ。あくまでも出世の為に組織の論理を優先し、利己的な考えに終始する為政者たち。 日々餓死者が出ているのに何の手も打たない大阪町奉行。大塩は三井、鴻池ら豪商に「人命がかかっている」と6万両の義援金を要請したが、これも無視された。「知行合一、このまま何もしなくていい訳がない」。大塩は言葉が持つ力を信じていたし、けっして武力を信奉する人間ではない。しかし、事態は一刻を争った。窮民への救済策が一日遅れれば、一日人命が失われる…。12月。ことここに及んで、大塩はついに力ずくで豪商の米蔵を開けさせる決心をした。堺で鉄砲を買い付け高槻藩からは数門の大砲を借りた。大塩が睨む最終目標は、有り余るほど大量の米を備蓄していた「大阪城の米蔵」だ。 蜂起の前に大塩は、門下生や近隣の農村に向けた木版刷りの檄文(げきぶん)を作成する。「田畑を持たない者、持っていても父母妻子の養えない者には、市中の金持ちの商人が隠した金銀や米を分け与えよう。飢饉の惨状に対し大阪町奉行は何の対策を講じぬばかりか、4月の新将軍就任の儀式に備えて江戸への廻米を優先させ一身の利益だけを考えている。市中の豪商たちは餓死者が出ているのに豪奢な遊楽に日を送り、米を買い占め米価の吊り上げを謀っている。今こそ無能な役人と悪徳商人への天誅を為す時であり、この蜂起は貧民に金・米を配分するための義挙である」。 1837年1月。大塩の同志連判状に約30名の門下生が名を連ねた。内訳は与力や同心が11名、豪農が12名、医師と神官が2名ずつ、浪人1名、その他2名。役人と百姓が主軸だ。 2月、民衆の窮状を見るに見かねた大塩は、学者の自分にとって宝ともいえる5万冊の蔵書を全て売り払い、手に入れた六百数十万両を1万人の貧民に配った(奉行所はこれをも“売名行為”と非難した)。そして檄文を周辺4カ国の貧農に配付した。そして一切蜂起の日時を、新任の西町奉行が初めて市内を巡回する2月19日、町奉行が大塩邸に近づく夕刻とした(2月の夕刻なら陽も落ち、闇に乗じて攻撃できる)。 決起の前日、大塩は幕府の6人の老中に宛て、改革を促す書状を送った。蜂起後に江戸へ届くはずの文面はこうだ。「公然と賄賂をとる政治が横行していることは、世間の誰もが知っているのに、老中様たちはそれを存知ながら意見すらおっしゃいません。その結果 、天下に害が及ぶことになったのです」。仮に蜂起が失敗しても、心ある老中が一人でもいれば改革を行なってくれるかも知れない、そう願った。 ※この書状は何者かの手によって、後日山中に打ち捨てられていた。 ●大塩の乱 蜂起当日の午前4時。門弟の与力2人が裏切り、計画を奉行所へ密告した。当直で奉行所に泊まっていた別の門弟が「バレた!」と大塩に急報する。事態急変を受け、大塩は午前8時に「救民」の旗を掲げて蜂起した!朝の大阪に大砲の音が轟く。計画が早まり仲間が集まらず最初は25人で与力朝岡宅を砲撃し、続いて洗心洞(大塩邸)に火を放った。「天満に上がった火の手が決起の合図」と伝えていたので、近隣の農民が次々と駆けつけてきた。70名になった大塩たちは、鴻池善右衛門、三井呉服店、米屋平右衛門、亀屋市十郎、天王寺屋五兵衛といった豪商の邸宅を次々と襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していった。難波橋を南下し船場に着いた昼頃には町衆も多く混じり300人になっていた。島原の乱から200年目の武装蜂起は街のド真ン中で起きた。次なる目標は大阪町奉行、そして大阪城!「救民」の旗をひるがえし進軍する大塩たち。 ※出陣した東西の町奉行が砲声に驚いた馬から振り落とされ、こんな歌が流行った。「大阪天満の真ん中で、馬から逆さに落ちた時、こんな弱い武士見たことない、鼻紙三帖ただ捨てた」。 しかし、正午を過ぎると奉行側も反撃の態勢が整い、大阪城からは2千人規模の幕府軍が出てきた。幕府軍の火力は圧倒的だ。砲撃戦が始まると民衆は逃げ始め、大塩らは100余名になった。100対2000。私塾の門下生と正規軍では勝負にならない。大塩一党は砲撃を浴びながら淡路町まで退き、二度目の総攻撃を受け夕方には完全に鎮圧された。しかし火災は治まらず翌日の夜まで類焼し、「大塩焼け」は大阪中心部の5分の1(約2万軒)を焼き尽くした。 事件後の執拗な捜査で門下生たちは軒並み捕縛されたが、大塩と養子の格之助だけは行方を掴めなかった。最終的に、約40日間逃走した後、3月27日に市内靱油掛町の民家に潜伏しているところを包囲され、大塩父子は自ら火を放つと火薬を撒いて爆死した。享年44歳。 この乱で処罰された者は実に750人に及ぶ。重罪者31人のうち6名は自害、2名は他殺、1名は病死、そして17名は1ヶ月の間に獄中死している。仲間の名を吐かせる為に過酷な拷問が行なわれたと見られる(大塩の恋人も獄中死)。刑の執行まで生存していた者は、わずかに5人だった。 大塩には逃亡中に最も重い判決「重々不届至極」が下っており、幕府は爆死して黒焦げになった大塩の遺体を塩漬け保存し、門弟20人(彼らも遺骸)と共に磔(はりつけ)に処した。※ムゴすぎる…。 幕府はこの騒動が各地に波及するのを恐れ、反乱の実態を隠し「不届き者の放火騒ぎ」と封印しようとした。しかし、大塩が1ヶ月以上も逃亡したことで、広範囲に手配せざるを得なくなり、乱のことは短期間に全国へ知れ渡った。しかも爆死したことで人相確認が出来なかったことから、「大塩死せず」との噂が各地に流れてしまう。 乱から2ヵ月後の4月に広島三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こし、6月には越後柏崎で国学者の生田万(よろず)が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲い(生田万の乱)、7月には大阪北西部で山田屋大助ら2千人の農民が「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆を起こした。この様な大塩に共鳴した者の一揆や反乱がしばらく続いた。 大阪周辺の村に対して、奉行所は大塩の「檄文」を差し出すよう命じたが、農民たちはこれに従わず、厳しい監視の目をかいくぐって写筆し各地に伝えていった。 薩摩や長州といった巨大な大名でさえ、幕府に対して従順であるしかなかったこの時代に(龍馬はまだ2歳)、一個人が数門の大砲を用意して、白昼堂々と大阪の中心街でブッ放し、豪商の米蔵を打ち壊しながら奉行所や大阪城襲撃を目論んだ。誰がこんな事態を想像できよう。この事件は徳川政権を大きく揺さぶり、幕府の権威が地に落ちていることを全国に知らしめた。 とはいえ、大塩らが幾ら鉄砲や大砲を揃えた所で、幕府を敵に回して勝ち目などある訳がない。密告がなく予定通り決起しても、敗北が早いか遅いかの違いだ。大塩もそれが分かっているからこそ、蜂起前に資産を処分して貧民に配ったのだろう。要するに、一身を犠牲に庶民の救済を求め立ち上がったのだ。それはあの朝集まった25名の門下生も同じだ。だからこそ、大火で焼け出された人々は、大塩らに怒りをぶつけるどころか、「大塩さま」と呼んでその徳を称えた。※事件後、市中で大塩を賞賛したとして数十名の逮捕者が出ている。 大塩の先祖は家康から直々に愛用の弓を賜ったという直参の旗本。彼は真面目に与力という要職を勤め上げ、ずっと体制側にいた元幕府役人だ。そんな男が幕府の政治に反抗したという事実は、幕府だけでなく諸大名にも強烈な衝撃を与えた。たとえ半日で鎮圧されても、彼らの死は無駄ではなかった。つまり、幕政に不満を持つ人々に、それまでは考えもしなかった“幕府は刃向かえるもの”という選択肢を心の中に芽生えさせた。これは30年後の明治維新へと繋がっていく。 ●墓 江戸時代、“大罪人”大塩の墓を造ることは許されなかった。維新から30年後にようやく建立されたが大阪大空襲で破壊、1957年に有志が墓を復元した。大塩父子の墓よりも『大塩の乱に殉じた人々の碑』の方が5倍近く大きい。後世に建てられたものとはいえ、墓にまで“民衆第一”という思想が現れている。 ---------------------- ●大塩が撒いた檄文から(原本は長文なので一部抜粋) 役人はただ下々の人民を悩まして米金を取立る手段ばかりに熱中し居る有様。大阪の奉行並びに諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻し米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一斗位の米を大阪に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、ひどい事を致している。何れの土地であつても人民は徳川家御支配の者に相違ないのだ、それをこの如く隔りを付けるのは奉行等の不仁である。 大阪の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つていて未曾有の有福な暮しを致しおる。彼等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ、又は自己の田畑等を所有して何不足なく暮し、この節の天災天罰を眼前に餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、この際四民が難渋している時に当つて、絹服をまとひ芝居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つているのは何といふ事か。 天下の為と存じ、血族の禍を犯し、此度有志の者と申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐し、続いて驕りに耽つている大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等は夫々分散配当致したいから、摂河泉播の国々の者で田畑を所有せぬ者、たとひ所持していても父母妻子家内の養ひ方が困難な者へは右金米を取分け遣はすから何時でも大阪市中に騒動が起つたと聞き伝へたならば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい、これは決して一揆蜂起の企てとは違ふ。 此度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類していると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは詰るところは殷の湯王と周の武王、漢高祖、明太祖が天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ。ここに天命を奉じ天誅を致すものである。 天保八丁酉年 摂河泉播村々 庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ ※飢饉は天災ではなく人災である(大塩平八郎) |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
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