あの人の人生を知ろう
【 20世紀最高のピアニスト〜グレン・グールド賛歌 】

Glenn Gould 1932.9.25-1982.10.4 


  

23歳で衝撃のレコード・デビュー!グールドがピアノに向かうとあらゆるクラシックの古典が新曲になった








背後がグールド家の墓、
手前はグレン単独の墓
グールドが眠るカナダの墓地は公園に近い。
サイクリングやジョギングをする人がいっぱい
「愛する息子グレン・グールド」とあった



2000 2009
墓に彫られていた楽譜、バッハの『ゴールドベルク変奏曲』は子守歌。
グールドは安らかに眠っていることだろう

天衣無縫のピアニスト、グレン・グールド!彼がピアノに向かうとあらゆるクラシックの古典が新曲になった。グールドは僕のヒーローであり、No.1愛聴ピアニストだ。その愛すべき人柄や数々の「伝説」を、生涯と共に紹介しよう!

グールドは1932年9月25日にカナダ・トロントで生まれた。父は毛皮商、声楽家の母方の遠縁には作曲家グリーグがいる。3歳から母にピアノの手ほどきを受け、1940年にわずか7歳でトロント王立音楽院に合格した。音楽理論を学びめきめきと演奏技術が上達し、12歳でトロントのピアノ・コンクールに優勝する。
1946年(14歳)、トロントでベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第4番(第一楽章)』を演奏してコンサート・デビューし、同年秋にトロント王立音楽院を創立以来最年少となる14歳で卒業、しかも成績は最優秀だった。翌年、初の個人リサイタルを行う。

1歳のグールド。かわいい! 少年グールド。犬と仲良く連弾

1955年(23歳)、1月ワシントンDCの公演でアメリカ・デビューを果たし、ワシントン・ポスト誌は「いかなる時代にも彼のようなピアニストを知らない」と絶賛。同月のニューヨーク公演で米国CBSを唸らせ、同社と終身録音契約を締結。ファースト・アルバムとして、アリアと30の変奏で構成されるバッハ『ゴルトベルク変奏曲』を録音した。
翌1956年(24歳)、『ゴルトベルク変奏曲』が発売されると、従来のバッハ作品のストイックなイメージを覆す、弾けるように躍動感あふれる演奏が大センセーションを巻き起こす。タイム誌は「風のような速さの中に歓喜を感じる」と評し、アルバムはルイ・アームストロングの新譜を抑えてチャート1位を獲得、世界的に注目を集め、同年のクラシック・レコードの売上ベストワンを記録した。保守的な批評家はグールド独自のバッハ解釈を糾弾したが、彼は時代の寵児となった。
同年、ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタ『第32番』を収録。
※1955年版バッハ『ゴルトベルク変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=GH-AVPVdYuM
※ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第32番』第2楽章 https://www.youtube.com/watch?v=UMYHKFU7-2M

1957年(25歳)、グールドは初の欧州演奏旅行に出発。時代は冷戦まっただ中であり、北米の音楽家として戦後初めてソビエト連邦で公演を行った。この公演はクチコミで満席になり「バッハの再来」と讃えられ、東欧圏を含めてさらに名声が高まった。ドイツではカラヤン指揮ベルリン・フィルとベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』を共演する。同年、バーンスタイン指揮コロンビア交響楽団とベートーヴェン『ピアノ協奏曲第2番』共演。
1959年(27歳)、ザルツブルク音楽祭に出演。北米大陸出身のピアニストが、保守的なドイツ、オーストリアの楽壇で喝采を浴びたことは画期的だった。同年、バッハ『イタリア協奏曲』を収録。
※『イタリア協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=qfq0PdbQtPY
1960年(28歳)、名盤として知られるブラームス『間奏曲集』を収録。同年、作曲に挑戦し『弦楽四重奏曲Op.1』を書く。
※ブラームス『間奏曲集』 https://www.youtube.com/watch?v=Az9c8Skylhk
※『弦楽四重奏曲Op.1』冒頭  https://www.youtube.com/watch?v=8nsNEhNWGlQ
1961年(29歳)、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルとベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番』共演。
1962年(30歳)、ライブでブラームス『ピアノ協奏曲第1番』をバーンスタインと共演し、自分のテンポを貫く。指揮者の指示に従わないグールドにバーンスタインは閉口する。
1963年(31歳)、歌曲『じゃあ、フーガを書きたいの?』を作曲。

●32歳で演奏会を中止

1964年、32歳のときに人気の絶頂で突然コンサート活動の中止を宣言し、3月28日のシカゴ公演を最後に聴衆の前から姿を消してしまう。それまで世界各地で計253回の演奏会をこなし、世界的ピアニストとして引っ張りだこだったグールドのコンサート引退表明は、衝撃となって世界を駆け巡った。グールドには「客の咳払いやくしゃみ、ヒソヒソ声が気になって演奏に集中できない」という神経質な性格もあったが、最大の理由は音楽家としてのポジティブな向上心にあった。

グールドいわく「聴衆の中には、ピアニストがいつ失敗するだろうかと手ぐすね引いて待っている連中がいる。彼らはローマ時代に闘技場に集まった群集や、サーカスの綱渡り芸人が足を踏み外すのを心待ちにする観衆と同じだ。その結果、演奏家は失敗を恐れるあまり、いつもコンサート用の十八番のレパートリーを演奏することになる。すっかり保守的になって、もしベートーヴェンの(ピアノ協奏曲)3番が得意曲だったら、4番を試してみるのが怖くなるというように」「レコーディングによってコンサートの地獄のストレスから演奏家は解放される。演奏会の為に同じ曲ばかり練習するのではなく、新しい楽曲にどんどん挑戦してゆけるし、失敗を恐れずにありとあらゆる解釈を試せる」。
以後、グールドはレコードスタジオ、ラジオ、テレビなど観客のいない場所で録音専門のピアニストとなって自己の芸術を高めていく。同年、トロント大学法学部より名誉博士号を授与。

1965年(33歳)、バッハ『平均律クラヴィーア曲集第1巻』を3年がかりで収録完了。夏場にホッキョクグマが暮らすカナダ北部チャーチルへ旅行する。
1966年(34歳)、ストコフスキー指揮アメリカ交響楽団とベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番“皇帝”』を収録。同年、米国人作曲家ルーカス・フォスの妻で、グールドの1歳年上の画家コルネリア・ブレンデル=フォス(1931年生/当時35歳)と恋に落ち、二児の母であるコルネリアに結婚を申し込んだ。彼女の気持ちも大きく傾いていく。
1967年(35歳)、コルネリアが2人の子を連れトロントに転居してくる。グールドは喜び2人は愛を育んだが、コルネリアはグールドを襲った神経症の発作に動揺する。病院での治療を勧めたが、グールドは自分が病人であると認めず、コルネリアは子どもたちのことを考えてプロポーズを断り、週末はカナダ国境の近くに住んでいる夫の元へ子どもを会わせる生活が始まる(車で1時間半の距離だった)。
同年、カナダ放送協会(CBC)がグールド製作のラジオドキュメンタリー「北の理念(The Idea of North)」を放送。その後も“孤独三部作”となる「遅れてきた者たち」「大地の静かな人々」が放送された。この年、ベートーヴェン『月光ソナタ』を収録(情感もヘッタクレもない超高速月光)。
1970年(38歳)、モーツァルト『ピアノ・ソナタ第11番 トルコ行進曲』を収録、演奏の遅さが話題となる。
※モーツァルト『トルコ行進曲』終楽章 https://www.youtube.com/watch?v=ZYUi8S61eAc

1971年(39歳)、バッハ『平均律クラヴィーア曲集第1巻』を5年がかりで収録完了。
1972年(40歳)、カート・ヴォネガットのSF小説を映画化した『スローターハウス5』(ジョージ・ロイ・ヒル監督)の音楽を監修、本作はカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞。同年、5年間続いていたグールドとコルネリアの蜜月は終わる。コルネリアの夫が仕事でニューヨークに転居し、従来のように子どもたちを週末に会わせることが出来なくなったことから、彼女はグールドに心惹かれながらも夫の元へ帰った。グールドは諦めることができず、ニューヨークまで追っかけてトロントに戻るよう懇願した。死後に見つかったグールドの手紙には「それでも世界の誰よりも好きで、一緒に時間を過ごすだけで天国にいる気分になった」と書かれていた。グールドは別れた後も2年間毎晩のように彼女に電話をかけ、やがて彼女に説得されて電話をやめたという。
1973年(41歳)、優雅なバッハ『フランス組曲』(全6曲)収録完了。 https://www.youtube.com/watch?v=JJMl9FdffYs
1976年(44歳)、演奏技術を要求されるバッハ『イギリス組曲』(全6曲)を5年がかりで収録完了。
https://www.youtube.com/watch?v=UueQWNjv7_k&list=PLyrS5_ErY3KSZ4dIdMFA7cvJqPqdAn0kC
1977年(45歳)、地球外知的生命体への人類からの“挨拶”として、惑星探査機ボイジャー1号&2号にグールド演奏のバッハ『平均律第2巻前奏曲とフーガ・第1番ハ長調』のレコードが針と一緒に積み込まれ、打ち上げられた。
※グールドの『平均律第2巻第1番』。なんでNASAは有名な第1巻・第1番にしなかったんだろう? https://www.youtube.com/watch?v=7c_uorJ9f7o
1981年(49歳)、レコードデビュー以来26年ぶりにバッハ『ゴルトベルク変奏曲』を再録音する。グールドはデビュー・アルバムが過大評価されすぎと感じていた。同年、ラジオで夏目漱石『草枕』の第1章を朗読。グールドは漱石の『草枕』とトーマス・マンの『魔の山』を20世紀の最高傑作小説に選んでおり、『草枕』は異なる訳者のものを4冊も持っていた。
※1981年版バッハ『ゴルトベルク変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=NvtoaHaG6ao

●突然の死

1982年、1月にブラームス『2つのラプソディー』、2月にブラームス『4つのバラード』、9月初頭にリヒャルト・シュトラウス『ピアノ・ソナタOp.5』を収録。これが最後のピアノ録音となった。
※ブラームス『4つのバラード』 https://www.youtube.com/watch?v=gECYL1-BEmc
※リヒャルト・シュトラウス『ピアノ・ソナタOp.5』 https://www.youtube.com/watch?v=xemgqKGl9VE
9月8日、トロント交響楽団を指揮しワーグナー『ジークリート牧歌』を演奏。意図せず音楽家人生の最後を指揮者として締めくくることになった。9月27日、脳卒中で倒れトロント総合病院へ搬送される。1週間後の10月4日、父親が延命措置の停止を決断し、グールドは他界した。まだ50歳の若さだった。一説にはアスペルガー症候群の治療薬の飲みすぎで脳卒中になったとも。死の床には、枕もとに書き込みだらけの『草枕』と聖書があった。生涯独身で愛犬バンコーと暮らしていたことから、遺産の半分は動物愛護協会に寄付された。後世に残した最後の映像記録は、奇しくもデビュー・アルバムと同じ『ゴールドベルク変奏曲』だった。没後、カナダでグレン・グールド賞が創設され、メニューインや武満徹が受賞した。

●重度の細菌恐怖症

ゴッホ、ベートーヴェン、ダリ、平賀源内…昔から天才と変人は紙一重と言われてきた。グールドも間違いなくその一人。彼が奇人と呼ばれたのは、まず独自の風貌にある。極度の寒がり屋で、夏でも厚い上着の下に分厚いセーターを着込み、ヨレヨレのコート、マフラー、毛皮の帽子を身につけていた(大抵は黒一色)。ズボンはだぶだぶ。常に厚い手袋をはめていたが、手袋の理由は防寒だけではない。グールドいわく「もしもの時の防衛用」。異常なまでに潔癖症(細菌恐怖症)の彼は他人との接触を極端に嫌い、握手さえ「万全を期して」避けていた。電話の向こうで咳が聞こえ「風邪がうつる」ので切ったという話まで残っており、それが冗談と思えないところがグールドならでは。また、いつも大瓶のポーランド産ミネラルウォーターと大量のビタミン剤(5瓶分)を持ち歩き、周囲から大丈夫と言われても絶対に水道水を飲まなかった(ロシア公演では晩餐会への出席を拒否!)。非常に少食で1日に1回のみ、普段は少量のビスケットとフルーツジュース、サプリメント(ビタミン剤、抗生物質)しか取らなかったという。深夜3時のレストランで毎回同じ席で同じものを食べていた。

  グールドといえばこの服装 1974年・トロントにて(42歳)

●ピアノが歌い、椅子が歌い、グールドも歌う

演奏スタイルも奇抜だった。演奏前に洗面所にこもり、両手をお湯に半時間浸して温めた後、彼がステージで腰掛けるのは有名な『グールド専用椅子』。彼は父親が作った床上35.6cmの極端に足の短い特製折り畳み椅子をいつも持ち歩き、この専用椅子でなければ演奏を拒否した。時々録音にキーキー音が入ってるのはこの椅子の“歌”だ。そして、椅子が異常に低い為に、彼が座ると胸の高さに鍵盤がくる。手首は鍵盤の「下」だ。演奏時は物凄く猫背になり、今にも鼻が鍵盤にくっつきそう。口の悪い批評家はその特異なスタイルを指して「猿がオモチャのピアノを叩いているようだ」と冷やかした。彼は音楽に没入すると体を揺らしながら演奏するが、その揺れは曲のリズムと合っていない。

  鍵盤が目と鼻の先!長身なのに子どものよう(50歳)






リハ中にオケをほったらかしにして30分も高さを調節し、
指揮者セルを激怒させたことも。
グールドはタイム誌が掲載した当エピソードを否定して
いるが、椅子の高さを調整したことは認めている。
体感時間の問題であり、セル本人が証言していること
からも、これに近い出来事はあったと思う。

グールドは和声よりも対位法を重視したことから、ペダルをほとんど踏まず、音楽の構造美を表現した。それゆえショパンではなくバッハのカノンやフーガを熱愛し、単色の音色とリズムを強調して対位法を際立たせるため、スタインウェイ製ピアノを改造しタッチを軽くしていた。“ペダル無用”とこれ見よがしに足を組んで演奏することもあった。

極めつけは、演奏しながらのハミング!グールドのCDにはこんな注意書きが書かれている。『グールド自身の歌声など一部ノイズがございます。御了承下さい』。ピアノの音色と共に、朗々と歌い上げるグールド。彼の唸り声や鼻歌に、録音の技術スタッフが怒って「楽譜に歌のパートはないぞ!」と指摘すると、「感情を抑えて、黙りこくって演奏なんか出来ない!」と逆ギレ。イジワルなインタビュアーに「演奏しながらなぜ歌うんですか?」と聞かれた時は、「あなたは私のピアノを聞いていないのか?」と逆にやりこめた。

  歌いまくりのグールド

動画〜グールドの鼻歌(3分)。途中で立ち上がり最後は演奏大爆発!(バッハ/パルティータ2番)


●指揮者よりエライのさ

幾多の指揮者を激怒させたのは、演奏中に片手があくと、その手で指揮を始める癖だった。個人リサイタルならともかく、オーケストラとの共演でも振り続けるので、「ステージに2人も指揮者はいらない」と指揮者の怒りを買った。帝王カラヤンは「君はピアノより指揮台がお似合いだ」と嫌味を言い、バーンスタインは「もうやってられない」とベートーベンのピアノ協奏曲全集の録音を途中でボイコットした。評論家にも指揮癖を非難されたグールドは一言、「手を縛って演奏することは不可能だ」。

  スタジオ録音でもやっぱり“指揮”している

バーンスタインは情熱家肌であり、その分グールド絡みの逸話も多い。駆け出しのグールドをバーンスタインがNYフィルに招いた時のこと。20代半ばのグールドはカーネギーホールへ出番2分前に着く大物ぶりを見せ、セーターのまま舞台に出ようとするのでバーンスタインは必死で阻止したという。最も有名なのは1962年にブラームス・ピアノ協奏曲第1番で組んだ時の「ライヴ弁明事件」。当時バーンスタイン44歳、グールド30歳。本番直前までバーンスタインのテンポにグールドが従わなかったことから、演奏前にバーンスタインが客席に向かって「今から始まる演奏のスピードは私の本意ではない。ここから先はグールド氏の責任だ」と、前代未聞の敗北宣言をしたのだ。頑固なグールドに根負けし、指揮者が演奏者に合わせた形になった。後日のグールド「あのスピーチの時、僕は舞台裏で笑いをこらえるのに必死だった。無理を聞いてくれたバーンスタインに感謝した」。グールド、あんたすごいわ。







練習中に火花を散らすバーンスタインとグールド。
バーンスタインはグールドの音楽論に一目置いていて
「グールドの言葉は彼の弾く音符のように新鮮で
間違いがない」とも言っている

「グールドはバッハの最も偉大な演奏者である」(スヴャトスラフ・リヒテル)
「グールドは私にとって永遠のアイドルだ」(ウラディーミル・アシュケナージ)
「グールドより美しいものを見たことがない」(レナード・バーンスタイン)
「結局、彼は正しかった」(ユーディ・メニューイン)
「芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある」(グールド)
「私はピアニストではなく音楽家かピアノで表現する作曲家だ」(グールド)

※ショパンを弾かないピアニストも珍しい。グールドはショパンを「感情過多」と軽蔑し、たった1曲(ピアノ・ソナタ第3番)しか演奏しなかった。彼に言わせるとモーツァルトも装飾性を「グロテスク」と断罪、さらに「死ぬのが遅すぎたのだ」とも。グールドはモーツァルトが指定した装飾記号を無視するなど、悪いところを「直してあげて」弾いたという。グールドが意図的に反復記号を無視するため、そこは彼の才能を認めるリヒテル他からも批判された。
ショパン『ピアノ・ソナタ第3番』 https://www.youtube.com/watch?v=arfYFtc7hlw
※前期ロマン派の正規録音作品はジュリアード弦楽四重奏団とのシューマン『ピアノ四重奏曲op.47』のみ。
シューマン『ピアノ四重奏曲op.47』 https://www.youtube.com/watch?v=koEho0UBI0g
※愛用のピアノは1945年製スタインウェイを改造したもの。晩年はヤマハの音も好み、最後のゴルトベルクの収録はヤマハで行った。
※ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第17番 テンペスト』貴重な動画 https://www.youtube.com/watch?v=J4DxTCT0R8c
※ベートーヴェン『創作主題による32の変奏曲』貴重な動画 https://www.youtube.com/watch?v=bVrUaiL2gz8
※ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第28番』の第1楽章を「ベートーヴェンの作品で1番好きである」と述べている。だが正規の録音はない。
※自宅の郵便受けをファンにドライバーで壊されかけたことがあり、グールドは日頃から「誰かに見張られている」と恐れていた。
※グールドは日本映画『砂の女』(勅使河原宏監督)を100回以上見たという。
※グラミー賞を4度受賞。
※グールドとフォス夫人コルネリアの関係はリンク先が非常に詳しい

●墓巡礼〜グールドに逢いたくて

2000年7月、僕はグールドからもらった沢山の感動の御礼を伝える為に、彼が眠るカナダ・トロントに向った。当時は本格的にネットが普及する前で、分かったのは「トロントに墓がある」ことだけで、墓地の場所も名前も分からなかった。だが、グールドといえば国民的音楽家であり、トロントにさえ行けば容易に墓前にたどり着けると予想していた。ニューヨークでガーシュウィンやバーンスタインの墓参を終えた後、マンハッタンの長距離バスターミナルから深夜便に乗車。予定では早朝にカナダとの国境にあるナイアガラの滝を見学する計画だったけど、運転手さんの「間もなくトロント、間もなくトロント」のアナウンスで飛び起きた。あれ?ナイアガラは?うわっ、寝過ごしたか!っていうか、国境でパスポート見せてませんが!?現在はチェックが少し入るらしいけど、2000年の時点ではそれくらいユルユルだった。あまりに多くの人が日常的に国境を行き来するため、パスポートにスタンプを押すとアッという間にページが埋まるため、今でもスタンプは押さないとのこと。
トロントはカナダ南東部オンタリオ州の州都で、280万人が暮らすカナダ最大の他民族国際都市。“トロント”は先住民の言葉で「人の集まる場所」。バス停のあるダウンタウンは市庁舎やトロント大学、多くの商業ビルが建ち並び賑やかだ。ランドマークは高さ553mのCNタワー。
時計は朝8時。とにもかくにも、グールドの墓地の名前を調べるためにダウンタウンの観光案内所に向かった。到着すると若い男女のスタッフが2人いたので、英語に自信がない僕はピアノを弾く真似をしながら「グレン・グールドさんのお墓はどこですか」と尋ねた。2人は顔を見合わせ「あなた聞いたことある?」「僕は知らない」。そして「トロントにお墓があるの?」と逆に質問された。え?えーっ!?まさかの展開だ。確かに亡くなって約20年、彼らはまだ幼稚園か小学生、ピンとこないのも無理はない…とはいえ、あのグールドですよ、あのグールド…。
僕は大通りに出てビル街で立ちすくんだ。まいった。情報が集まる観光案内所で何も手掛かりがないとなると、いったいどうすれば…。途方に暮れていると、視界に巨大CDショップ『HMV』の建物が目に入った。「HMVにはワンフロア丸ごとクラシック・コーナーがあるはず、何か手掛かりがあるかも」。藁をも掴む思いで入店し、エスカレーターでクラシック売り場へ。開店直後でお客さんはほとんどいない。レジには若い女性店員が1人。「あのう、グールドの墓がトロントにあると聞いたのですが、どこにあるかご存知ですか?」。女性店員は「グールドは私も好きだけど、墓は聞いたことないです」。ガーン、もう駄目だ。軽い目眩をおぼえレジカウンターに両手をついていると、左肩を背ろからポンポンと叩かれた。立っていたのは中年の男性店員。「お墓って聞こえたんだけど、グールドの墓だよね?フッフッフッ…私が教えてあげよう」。なんと!その店員は墓所を知っていた!そしてよく見ると、首からグールドのブロマイドを掛けているではないか!大ファンがここに!彼は「口で説明するより書いた方が早い」と地図を手書きしてくれ、一番近い地下鉄駅から墓地に最寄りのDavisville駅まで駅が何個あるとかお役立ち情報も書き込んでくれた。墓地の名前は「マウント・プレザント(Mount Pleasant)墓地」と判明した。現在はカナダ国定史跡とのこと。嗚呼、ありがとうございます!
















グールド・ファンの親切な店員さん!
胸元に“あのお方”のブロマイドが光る

それから1時間後、ダウンタウンの6km北にあるマウント・プレザント墓地にたどり着いた。そして、今度はその墓地の広大さに仰天した。墓地の端から端まで2.5kmあり、横断するだけで30分以上かかる。管理人さんいわく「20万人以上が埋葬されてます」「に、に、にじゅうまん?」。グールドの墓石は「section 38, row 1088, plot 1050」にあり、事務所でもらった墓地マップを片手に20分ほど探し回った。そしてついに夢にまで見た彼の墓前へ。グールドの墓にはピアノの形のレリーフと、彼の音楽芸術の代名詞とも言える『ゴルトベルク変奏曲』の楽譜が刻まれていた!頭の中で彼の音楽が流れ始め、胸がいっぱいになり膝をつく。両親からの「愛する息子グレン・グールド」との言葉もあった。『ゴルトベルク変奏曲』は子守歌とも伝えられてきた。墓石に刻む楽譜としてこれ以上相応しいものはない。この墓標の下で安らかに眠っていることだろう。ありがとう、グレン・グールド。

思わず耳を澄ませたくなる
(2000年7月、トロントにて)
素晴らしい音楽を有難うございましたッ!
(2009年7月)

※再巡礼の際、トロントのCBCラジオ・ビル前のベンチに設置されたグールドの座像を訪れた。等身大のグールドと同じベンチに座れるなんて、彫刻と分かっていてもテンション爆上げ。ひっきりなしに人が座ってはツーショットの記念写真を撮っていた。グールドは愛されてるね。

(参考文献:映画「グレン・グールド27歳の記憶」「グレン・グールドをめぐる32章」、エンカルタ総合大百科、ブリタニカ百科事典ほか)


《グールド巡礼2009》







約10年ぶりの墓参!背後がグールド家
の墓、手前はグレン単独の墓
グールドが眠るカナダの墓地は公園に近い。
サイクリングやジョギングをする人がいっぱい
「愛する息子グレン・グールド」とあった


《市民の憩いの場〜グールド像百景2009》

トロントのCBCラジオ・ビル。
この前にグールドの座像が設置されている
厚着でコロンコロンの
有名なこの写真が→
こうなった!

トロント市民を見守るグールド

住所…250 Front St West ,Tronto / Canadian Broadcasting Centre




立ち止まって見つめるマダム 同じポージングで至福のショット 若い女性にモテモテのグールド



家族連れが男の子とグールドの記念写真をパシャリ この子、最初は帽子を触ってたけど… 「チーズ」で鼻に指を突っ込んでた!(笑)


●浅田彰氏によるまとめ〜グールドの5大特徴
(1)行儀の悪い座り方
(2)極端に低い椅子・高さ35cm
(3)弾きながら歌う
(4)曲のリズムと合わない体の揺れ
(5)自分の演奏への指揮


※グールドの入門にはベスト盤CD『リトル・バッハ・ブック』が良い曲ばかりでおすすめ!(もち、本人の歌声入り)
※坂本龍一をして「旅先に必ず持って行く究極の1枚」と言わしめた至福のCDが『ブラームス間奏曲集他』
※人間味のある人物像に迫りたい人は記録映画『グレン・グールド 27歳の記憶』が充実しています!



★本物のグールド・ブームの到来か!?
08年末に発売された坂本龍一のグールド選。
あえて「バッハなし」というのが斬新!
★最新情報!1992年にリリースされた6枚組み
LD-BOXが、遂に世界初DVD-BOX化!
収録時間は怒濤の629分!


《あの人の人生を知ろう》
★文学者編
・宮沢賢治
・太宰治
・小林多喜二
・樋口一葉
・梶井基次郎
・清少納言
・近松門左衛門
・高村光太郎
・石川啄木
・西行法師
・与謝野晶子
・茨木のり子
●尾崎放哉
・種田山頭火
●松尾芭蕉
・ドストエフスキー

★学者編
●南方熊楠
●湯川秀樹

★思想家編
●チェ・ゲバラ
・坂本龍馬
●大塩平八郎
・一休
・釈迦
・聖徳太子
・鑑真和上
・西村公朝
・フェノロサ

★武将編
●明智光秀
●真田幸村
・源義経
・楠木正成
●石田三成
・織田信長




★芸術家編
●葛飾北斎
・尾形光琳
・上村松園
●黒澤明
・本阿弥光悦
・棟方志功
・世阿弥
・伊藤若冲
●グレン・グールド
●ビクトル・ハラ
●ベートーヴェン
●ゴッホ
・チャップリン

★その他編
●伊能忠敬
・平賀源内
・淀川長治
●千利休

●印は特にオススメ!

※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)



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