『待月』(1926) | 『序の舞』(1936) |
団扇を手に昇り来る月を待って いる『待月』…あうう、この気品! |
「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。一点の卑俗 なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなの です」(松園) ※右腕の裾が捲くれている。激しい動き(情熱的に生きた)の直後の静寂だ |
『焔(ほのお)』(1918) | 『焔』製作中の松園 |
光源氏の愛人・六条御息所が、正妻の葵上に 嫉妬して生霊となった姿だ。怨念を込めて乱れた 髪を口で噛むなど、なんともオドロオドロしいッス… |
松園自身「なぜこのような凄絶な作品を描いたのか自分でも分からない」 と語り、この作品の発表後、3年間なにも展覧会に出品しなかった。 その約20年後、様々な苦悩を克服して描かれたのが、先の「序の舞」だ。 |
京都出身。本名津禰(つね)。父は生れる二ヶ月前に他界していた。家は葉茶屋で、母が女手一つで彼女を育て上げる。子どもの頃から絵がたまらなく好きだった松園は、小学校を卒業すると、京都に開校したばかりの日本最初の画学校に12歳で入学する。しかしカリキュラム優先の学校よりも、尊敬する師匠の内弟子となって修業する方が身になると思い翌年退学、鈴木松年に師事する(1888年)。めきめきと腕をあげる彼女は“松園”の号を与えられた。親戚や周囲には彼女のこうした生き方を非難する声も多かった。明治の世では「女は嫁に行き家を守ることが最上の美徳」とされており、教育を受けたり絵を習うということは中傷の対象だったのだ。
1890年、第3回内国勧業博覧会に出品した「四季美人図」が英国皇太子コンノート殿下の買上げとなり、彼女は15歳にして一等褒状を受け、「京に天才少女有り」と世間から俄かに注目されるようになった。新たな画法を学ぶべく師匠を幾度と変えていった松園は、20歳から京都画壇の中心人物・竹内栖鳳(せいほう)に師事する。やがて27歳で妊娠。相手は最初の師匠松年と言われているが、先方に家庭があるため松園は多くを語っていない。彼女は未婚の母の道を選び、世間の冷たい視線に耐えながら長男松篁(しょうこう)を出産する。※松篁は成長して画家になり文化勲章を受章している。
私生活がどんな状況でも、早朝から絵の勉強を怠らなかった彼女。その絵筆はますます冴え渡り、各地の展覧会・博覧会で作品が高く評価された。飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍する松園は、「女のくせに」とライバルの男性画家たちから激しい嫉妬と憎しみの対象になった。それは晩年に松園が「戦場の軍人と同じ血みどろな戦いでした」と記すほどで、女性の社会進出を嫌う保守的な日本画壇の中で、ひたむきに、孤高に絵筆を握り続けた。 誹謗や中傷が渦巻く中、1904年(29歳)には、展覧会に出品中の『遊女亀遊』の顔が落書きされるという酷い事件も起きる。会場の職員から絵を前に「どうしますか」と尋ねられた松園は、「そのまま展示を続けて下さい。この現実を見せましょう…」と語ったという。 小柄な松園だが精神力は鋼のようだった。描かれる女性達はどれも凛として気品に満ちており、画風はどこまでも格調高かった。1907年(32歳)に始まった文部省美術展覧会(文展)では、毎回のように入選&受賞を繰り返し、第10回からは“永久無鑑査”となる。多くの人々が作品に魅了され、以降、帝展、新文展、日展の審査員となる一方でニューヨーク万国博覧会に出品もした。 しかし、社会の偏見とは敢然と戦った松園だったが、40代に入って年下の男性に大失恋し、スランプに陥ってしまう。1918年(43歳)、そこから生れた作品が問題作『焔(ほのお)』だ。清らかな美人画を描き続けてきた松園が刻んだ、女の怨念の世界。題材となったのは、光源氏の愛人・六条御息所が、正妻の葵上に嫉妬して生霊となった姿だ。能面では白目に金泥を入れると「嫉妬」を表現する面になる。この絵でも金泥が入っており、乱れた髪を口で噛むなど何ともオドロオドロしい。松園自身、「なぜこのような凄絶な作品を描いたのか自分でも分からない」と語り、この作品の発表後、3年間展覧会への出品を一切断つ。しかし皮肉にも、この作品が松園の評価をさらに高めた。それまで彼女を単なる美人画描きと否定していた連中は、凄まじい情念が込められた『焔』に、松園のすごみに圧倒された。 1934年、ずっと影で松園を支えてくれていた母が死亡。その2年後の1936年、61歳の松園は代表作となる『序の舞』を完成させる。それは女性が描く“真に理想の女性像”だった。様々な苦悩を克服して描かれたのは、燃える心を内に秘めるが如く、朱に染められた着物を着て、指し延ばした扇の先を、ただ真っ直ぐに、毅然として見つめる女性だった。「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなのです」(松園)。 1948年(73歳)、女性として初めて文化勲章を受章。その翌年74歳で逝去した。現代の画壇では「松園の前に松園なく、松園の後に松園なし」とまで言われている。 「気性だけで生き抜いて来たとも思い、絵を描くために生き続けて来たようにも思える」(松園) ※近代日本の美人画の代表的作家は、西(京都)の松園と東の鏑木(かぶらき)清方。松園の3歳年下だった鏑木は、若い頃を回想して「松園の作品は自らの目標であり、裏返しても見たいほどの欲望にかられた」と記している。 |
和歌山生まれ。中学時代から「明星」「スバル」に歌を投稿していた。17歳の時、地元の文芸講演会で反保守的な言説をとった為に無期停学の処分を受ける。翌年上京。与謝野寛の新詩社に入り、続けて永井荷風の『あめりか物語』に感動、荷風に師事した。小説を書き始めた春夫は25歳の時に「西班牙(スペイン)犬の家」を執筆、芥川から好評を得る。春夫と芥川は同じ年齢。2人は意気投合した。谷崎潤一郎(当時32歳)の推薦で本格的に文壇へデビューし、耽美主義の影響を受けた1919年(27歳)の『田園の憂鬱』が高い評価を受け、芥川と共に次世代作家として世間から注目される。 しかし、この頃から春夫は約10年間に及ぶ苦しい片想いを体験していく。好きになった女性が谷崎の夫人千代だったのだ。谷崎夫婦には幼い娘がいたが、夫の気持ちは妻の妹に移り、愛情は冷め切っていた。当初、春夫は千代に同情を寄せていたが、やがてそれが恋心になった。深く愛する人に手が届かない、しかもその人はとても寂しい境遇にいる…。春夫の苦悩を察した谷崎は妻と別れる約束をしたが、離婚の直前になって心境が変化、絶望した春夫は谷崎と絶交した。谷崎との関係を断絶したので、もう夫人とも会えない。春夫は神経症になり故郷紀伊に閉じこもった。そして谷崎夫婦の沈黙の食卓を思い出し、苦渋に満ちた胸の内を『秋刀魚の歌』として記した。 『秋刀魚(さんま)の歌』(抜粋) あはれ 秋風よ 情あらば伝えてよ、 夫を失はざりし妻と 父を失はざりし幼児とに伝えてよ ― 男ありて 今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり さんまを食ひて 涙をながす、と。 さんま、さんま、 さんま苦いか塩っぱいか。 そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。 あわれ げにこそは問はまほしくをかし。 冷たい秋風に思いを託さねばならない孤独、流れ落ちる涙、そういった物悲しさが詰め込まれた詩。この『秋刀魚の歌』を収めた第一詩集『殉情詩集』が1921年(29歳)に出版されると、多くの人が胸を打たれた。 親友の芥川とは共著で漢訳詩集を出す相談をしていたが、1927年、芥川が35歳で自殺してしまい衝撃を受ける。その2年後、図らずも単独で出すことになった漢訳詩集『車塵集』の扉に、春夫は「芥川龍之介のよき霊に捧ぐ」と刻んだ。 1930年(38歳)、8月19日。新聞各紙の報道に世間が仰天した。谷崎、千代、春夫の3人の連名による関係者への挨拶状が掲載されたのだ。「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り…」なんと、谷崎と千代の電撃離婚と千代と春夫の電撃結婚の同時報告だった。谷崎と春夫の交際は従来通りだという。社会はこれを「夫人譲渡事件」(失礼だなぁ)と呼んで大騒ぎした。 1935年(43歳)、芥川賞が設立されると春夫は初代選考委員になる。戦後も戯曲、歴史小説、随筆、評論、童話、紀行文と各ジャンルで精力的にペンをふるった。辛口の批評の中にも詩心のある作家であり、その門弟は3千人といわれている。1960年(68歳)、文化勲章を受章。1964年、自宅でラジオ録音中に「私の幸福は…」と言いかけ、心筋梗塞で急逝する。享年72歳。 |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
★文学者編 ・宮沢賢治 ・太宰治 ・小林多喜二 ・樋口一葉 ・梶井基次郎 ・清少納言 ・近松門左衛門 ・高村光太郎 ・石川啄木 ・西行法師 ・与謝野晶子 ・茨木のり子 ●尾崎放哉 ・種田山頭火 ●松尾芭蕉 ・ドストエフスキー ★学者編 ●南方熊楠 ●湯川秀樹 |
★思想家編 ●チェ・ゲバラ ・坂本龍馬 ●大塩平八郎 ・一休 ・釈迦 ・聖徳太子 ・鑑真和上 ・西村公朝 ・フェノロサ ★武将編 ●明智光秀 ●真田幸村 ・源義経 ・楠木正成 ●石田三成 ・織田信長 |
★芸術家編 ●葛飾北斎 ・尾形光琳 ・上村松園 ●黒澤明 ・本阿弥光悦 ・棟方志功 ・世阿弥 ・伊藤若冲 ●グレン・グールド ●ビクトル・ハラ ●ベートーヴェン ●ゴッホ ・チャップリン ★その他編 ●伊能忠敬 ・平賀源内 ・淀川長治 ●千利休 ●印は特にオススメ! |
|