中将 | 孫次郎 | 般若 |
●中将…貴族や天皇、平家の武者の亡霊にもちいる、福来が制作した能面。モデルは平安時代随一のイケメン、在原業平だ。目が印象的だけど、僕は何かを訴えようとする口元にグッとくる。なんて感情的豊かな口元なのか。おはぐろや眉墨は当時の貴族の風習。「清経(きよつね)」「忠度(ただのり)」「雲林院」「融(とおる)」「玄象(げんじょう)」などで使用。 ●孫次郎…孫次郎制作の能面。若くして病で亡くなった孫次郎の妻がモデル。ジッと見てると、どれだけ孫次郎が彼女を愛していたかヒシヒシ伝わってくる。面の裏に「オモカゲ」と彫られているのが、また泣ける。室町時代から600年以上も残ってきたのもスゴイ。重文。 ●般若…女性の髪が描かれているように、これは女性の怒りと悲しみを同時に表現した傑作だ。下を向くと悲哀の極みに、正面から対峙すると憤怒の極みに表情が激変する。「葵上」「道成寺」「黒塚(安達原)」などに使用。 |
【世阿弥】 能役者、能作者。幼名藤若丸、鬼夜叉、実名元清。世阿弥は芸名・世阿弥陀仏の略。父観阿弥の英才教育で猿楽能(物真似が中心の芝居)を学び、1372年、父が京都で名声を得るきっかけとなった醍醐寺7日間公演に9歳で参加している。1375年、「観世座はスゴイ」という噂を聞いた当時17歳の3代将軍足利義満は、京都・今熊野で初めて猿楽能を鑑賞し、これにハマった。観阿弥の演技が素晴らしいだけでなく、共演した12歳の美少年世阿弥の愛らしさにメロメロになった。以降、義満は観世座の熱心な後援者となる。 義満の世阿弥に対する寵愛ぶりは相当なのもので、3年後の祇園祭の折には、山鉾を見物する義満のすぐ背後に世阿弥が控えていたという。側近たちはこれを嫉妬し、内大臣は当日の日記に「乞食のやる猿楽師の子どもを可愛がる将軍の気が知れない」と書きつけている。 1384年(21歳)、父が巡業先の静岡で急逝。世阿弥は悲しみの中で観世流の2代目を継ぐ。その後もひたすら稽古を重ねて芸を磨いていく中で、彼を刺激したのは父と同世代で近江猿楽のリーダー格・犬王(道阿弥)の存在だった。観世座の能が大衆向けで演劇色の濃い、物真似中心の「面白き能」であったのに対し、犬王の能は優雅で美しい歌舞中心の「幽玄能」だった。義満は情緒があり格調のある犬王を世阿弥以上に寵遇する。犬王は天女の舞を創始するなど舞の名人でもあり、世阿弥も素直に犬王を絶賛、もろに影響を受けて自身の能も内面を表現する幽玄能に変化していった。 1400年(37歳)、「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」など父の遺訓をまとめた能楽論書『風姿花伝(花伝書)』を著す。風姿花伝は芸術の技術論ではなく精神を論じた書であり、このような書物は世界にも殆ど例がない--- 能役者が観客に与える感動の根源は「花」である。「花」は能の命であり、これをどう咲かすべきか、「花」を知ることは能の奥義を極めることである。 桜や梅が一年中咲いていれば、誰が心を動かされるだろうか。花は一年中咲いておらず、咲くべき時を知って咲いている。能役者も時と場を心得て、観客が最も「花」を求めている時に咲かせねばならない。花は散り、花は咲き、常に変化している。十八番の役ばかり演じることなく、変化していく姿を「花」として感じさせねばならない。「花」が咲くには種が必要だ。花は心、種は態(わざ、技)。観客がどんな「花」を好むのか、人の好みは様々だ。だからこそ、能役者は稽古を積み技を磨いて、何種類もの種を持っていなければならない。牡丹、朝顔、桔梗、椿、全ての四季の「花」の種を心に持ち、時分にあった種を取り出し咲かせるのだ。 ※「家、家にあらず。次ぐをもて家とす」と言うのも。血縁者が「家」となるのではなく、真に芸を継ぐ者を「家」とする厳しいものだ。 1408年、45歳の時に義満が死去し、4代将軍義持の治世に。義持は猿楽能よりも田楽能(豊穣を祈り笛鼓を鳴らす賑やかな歌舞)を好み、その名手・増阿弥を寵遇した。増阿弥の持ち味は賑やかであるはずの田楽の中で、尺八を使う「冷えたる能」。尺八の渋い音色は舞を“冷えに冷えた”美にした。都は増阿弥が主催した公演ばかりになり、世阿弥の出番が減ってしまった。しかし、世阿弥の長所は柔軟さにある。彼はこのライバルを妬むことなく、「花」を生み出す幽玄美が、高められたところにあるものが「冷えたる美」と悟り、増阿弥から「冷え」を学んだ。このように世阿弥の芸は生涯にわたって高め続けられた。また、立ち止まって能という芸の深さをじっくり考える時間ができたこともあり、能楽論を次々と執筆していった。 世阿弥は自分が父から観世座を受け継いだ年頃に長男・元雅がなったことから、60歳で出家し、元雅を第3世観世大夫に指名した。そして能作書『三道』を次男に、1424年(61歳)には元雅に能楽論秘伝書『花鏡(かきょう)』を送り、そこに「初心忘るべからず」「命には終わりあり、能には果てあるべからず」「ただ美しく柔和なる体、これ幽玄の本体なり」等の言葉を刻んだ。この年の醍醐寺清滝宮の猿楽能では2人の息子と甥の音阿弥(世阿弥の弟の子)の3人が共演するなど、後継者に恵まれて穏やかに隠居生活を送っていた。 1428年(65歳)、義持が他界すると6代将軍義教が就任した。ここから世阿弥の人生はどん底まで沈んでいく。義教は兄弟の義嗣と仲が悪かったので、義嗣に気に入られていた世阿弥を嫌い、また能役者も世阿弥よりも音阿見を好んでいたので、世阿弥に露骨な迫害を加え始めた。 66歳、世阿弥親子は突然御所への出入りを禁じられ、翌年には元雅が猿楽主催権を奪われ、義教はそれを音阿弥に与えた。こうした事態から未来に希望を失った次男は猿楽師を辞めて出家してしまう。 1432年(69歳)、元雅は都での仕事がなくなり地方巡業に出て、旅先にて32歳の若さで病没する。元雅の遺児はまだ幼児で観世家を継げず、観世座は崩壊した。世阿弥は元雅のことを父観阿弥を超える逸材だと思っていただけに、この死は耐え難いほど辛いものだった。しかも義教は世阿弥に後継者がいなくなったことを理由に、音阿弥に観世4世家元を継がせることを強要してきた。世阿弥は大和で大活躍していた娘婿の金春禅竹(28歳)に4世を譲るつもりでこれに抵抗したところ、将軍に謀反した重罪人として逮捕され、実に71歳という高齢で佐渡に流されてしまう。 1441年、暴政を行なった義教が守護大名の反乱で暗殺されると、一休和尚の尽力で78歳になっていた世阿弥の配流も解かれ、娘夫婦の元に身を寄せ80歳で亡くなった。 650年の長き伝統からユネスコの世界遺産(無形文化遺産)に指定された能楽。観阿弥が基礎を築いた物真似重視、ドラマ性優先の猿楽能を、子の世阿弥は美しい歌舞を中心に置き、深い精神性をたたえた幽玄美を表現する「夢幻能」に発展させ、今日に至るまで人々に愛される芸術に昇華させた。世阿弥は稽古そのものが人生というほど優れた能役者であり、50作以上の演目を作った文才ある劇作家であり、多くの理論書で美に熱弁を振るう思想家だ。彼にとって物真似は役に成り切る為に対象を忠実に写す絵画のデッサンであり、幽玄は心に感じた情緒を描く絵画の色彩となり、芸の基本はこれら物真似と幽玄にあった。 現在、能の演目は全部で240番。このうち確実に世阿弥の作品だと判明しているのは『高砂』『忠度』『実盛』『井筒』『江口』『檜垣』『砧(きぬた)』『老松』『頼政』『恋重荷』『野守(のもり)』『西行桜』など50番以上ある。そしてこれらがすべて傑作揃いというからスゴイ!「能を舞うだけでは能を究められない、作ってこそ奥義に到達できる」と考えた世阿弥は、歌舞と幽玄の魅力を最大限に引き出せる理想的な作品を自分の手で作った。そして大半の曲が650年前に完成した当時と同じ詞章(ししょう、脚本)で演じられている。和歌を詠むように響く言葉、心に染み入るメロディーの楽曲は、時代を超えて人々の胸を打つ詩劇になっている。 ※世阿弥が能の美について記した能楽論は『風姿花伝』『花鏡』『至花道』を含め21種に及ぶ。 ※世阿弥の作曲法の基本は、種(題材)、作(作曲)、書(作詞)。これに序(発端)、破(主体)、急(結末)の三則を当てはめる。 ※和歌においても「幽玄」は最高の理想美とされている。謡(うたい)の幽玄、舞の幽玄、鬼にさえ幽玄がある。 ※金春禅竹も作能し、『定家』『玉葛』『小塩』『賀茂』『芭蕉』『楊貴妃』など名作を残している。 .--------------------------- 【観阿弥】 能楽、観世流の創始者。幼名観世丸、通称観世三郎。本名清次(きよつぐ)。観阿弥の名は法名・観阿弥陀仏の略称。伊賀出身。平家の流れを汲む服部元成の三男と言われている(子の世阿弥も先祖が服部氏と語っている)。母親は楠木正成の姉妹とされ、足利の治世なので、ずっと本名を隠していたという。 中世以前の人々にとって最大の娯楽は猿楽と田楽だった。猿楽とは、奈良時代に大陸から伝わった軽業(曲芸)や物真似、奇術などを見せる芸で、身のこなしが猿のように軽快なことからそう呼ばれた。田楽は田植えの際に豊穣を祈った農村の歌や踊りが演目となったもの。 父は猿楽師の養子であり、兄と共に猿楽を受け継ぐ(兄は宝生流の始祖)。妻の出生地、現・名張市小波田で20歳のころ新しく結崎座を旗揚げした。近畿一円の猿楽座や田楽座はそれぞれが有力な寺社の後援を受け(結崎座は春日興福寺、法会の後の余興を担当)、互いにライバルとして技を磨きあった。 芸に対する観阿弥の向上心は非常に強く、従来の猿楽だけでは満足できず、田楽の一忠(いっちゅう、公演は死傷者が出るほど観客が興奮した)、曲舞(くせまい)の乙鶴という他分野の名人からも真髄を学んだ。そして、元来メロディーの美しい大和猿楽に、田楽や曲舞の跳ねるように躍動するリズムをミックスさせた、全く新しい猿楽を誕生させ室町の芸能に新風を吹き込んだ。観客が熱狂をもってこれを受け入れたことから、以後観阿弥は、結崎座の中の演能チームを「観世座」の名で独立させ、さらに精力的に活動し続けた。 観阿弥は大男だったが、猿楽で育んだ物真似の才能で女性から子どもまで器用に演じ分けて観客を沸かせ、舞も披露して人々のハートを鷲掴みにした。また、地方公演では各郷土の好みを織り交ぜるなど工夫を凝らし、自らもペンを取り、台本を書き作曲もした。とにかく先人の長所をどんどん取り入れて、猿楽を進化させていった。1363年、30歳の時に元清(世阿弥)が生まれる。 一座は京都にも進出し、1372年(39歳)、醍醐寺での7日間の公演が大きな評判となる。41歳の時に、観世座フィーバーの噂を聞いた3代将軍足利義満が京都・今熊野で初めて猿楽能を鑑賞し、たちまち観阿弥親子(世阿弥は当時まだ12歳)の虜になり、以降、将軍家の大きな支援を受けることになった。観阿弥はこの時に『翁』(おきな)を舞っており、当1374年が「能楽元年」とされている。その10年後(1384年)、駿河の守護職今川氏の要請で浅間神社で舞った後、巡業先で体調を崩し51歳で客死した。 ※『卒都婆小町』『四位少将(通い小町)』など小野小町を題材にした謡曲や『自然居士(じねんこじ)』を作曲した。 |
【お能の基本情報〜これだけは押さえておきたい】 ★ステージ上で主役がバックミュージックに合わせて歌い踊るわけで、ジャパニーズ・ミュージカルと思って 気軽に楽しもう。初演から650年という超ロングラン作品もいっぱい。全部で200前後のレパートリーがある。能の役者はシテ方、ワキ方、狂言方、囃子方(はやしかた)に大きく分かれている。 ●シテ方…主役。仕手。観世(かんぜ)流、宝生(ほうしょう)流、金春(こんばる)流、金剛流、喜多流の5派。喜多流は江戸時代に金剛流から分かれた。金春流が最も古い。 ●ワキ方…脇役。高安(たかやす)流、福王流、下掛(しもがかり)宝生流の3流。 ●子方…子役。 ●ツレ…シテを補佐する助演者。シテツレ。ワキにつく場合はワキツレと呼ばれる。 ●狂言方…狂言を担当。室町からの大蔵(おおくら)流、江戸からの和泉(いずみ)流の2流。能の演目で前場面と後場面を繋ぐ解説者(進行役)として登場する時は「アイ」と呼ばれる。 ●囃子方…笛・小鼓・大鼓・太鼓という4種の楽器奏者の総称。 ※笛方…能管と呼ばれる竹製の横笛を吹く。一噌(いっそう)流、森田流、藤田流の3流。 ※小鼓(つづみ)方…右肩に小鼓を乗せて打つ。幸(こう)流、幸清(こうせい))流、大倉流、観世流の4流。 ※大鼓方…左ひざに大鼓を乗せて打つ。葛野(かどの)流、高安流、石井流、大倉流、観世流の5流。 ※太鼓方…大きな鼓を2本のバチで打つ。観世流、金春流の2流。 ●地謡(じうたい)…コーラス部隊。
★基本プログラム お能には「神・男・女・狂・鬼」と呼ばれる5つの基本プログラムがある。この5種類の舞台の合間に4回の狂言が入る。能で幽玄を味わい、狂言に爆笑する、この組合せが最強。現在は1日に全部やるなんて滅多にないけど、演目の順番を選ぶ目安になっている。 1.翁(おきな)…能の基本演目。邪悪を打ち払い、天下泰平、五穀豊穣を祈る。能世界の精神的支柱。 2.初番目物…神の能。「翁」の次に演じられる。代表作は「高砂」「弓八幡」「竹生島(ちくぶしま)」など。神が人々に寿福を与える祝言気分がいっぱいの演目。 3.二番目物…男体の能。修羅物ともいう。源氏や平家など武将の霊が無念の過去をふりかえる。「八島(やしま)」「忠度(ただのり)」「清経」など。 4.三番目物…女体の能。鬘物(かずらもの)ともいう。「平家物語」「伊勢物語」「源氏物語」などのヒロインが、舞に託して過去と変わらぬ恋するキモチを語る。「井筒」「熊野(ゆや)」「羽衣」「野宮(ののみや)」「松風」など。舞を楽しもう。 5.四番目物…他の4種に納まらない物語がここに入るので雑能物と呼ばれる。狂女を描くものが多い。「道成寺」「葵上」「隅田川」「三井寺」「班女(はんじょ)」「安宅」「善知鳥(うとう)」「俊寛」など、ドラマチックな作品が並んでいる。 6.五番目物…鬼や精霊が超人的な能力で活躍する。鬼畜物、切能(最後に演じるので)とも呼ばれる。「土蜘蛛」「石橋」「船弁慶」「殺生石(せっしょうせき)」「紅葉狩」「鞍馬天狗」「猩々(しょうじょう)」など。賑やかな能が多く、観客は楽しい気分で家路につく。 《狂言》お能と一緒に上演される喜劇。近年は単独公演も多い。「末広がり」「福の神」「靱猿(うつぼざる)」など約300番の演目がある。主人公は太郎冠者(たろうかじゃ)という名の召使が多い。他に大名、僧、商人、次郎冠者などが登場。主役はシテ(能と同じ)、脇役はアドと呼ばれる。 能・狂言は650年の歴史が評価され2001年に世界遺産(無形文化遺産)に指定された。能舞台は全国に約70ヶ所あり、南仏など海外にもある。野外の薪(たきぎ)能は大人気で、全国300ヶ所で演じられている。 ----------------------------- 世阿弥の墓は一休が住職をした京都大徳寺真珠庵にある。しかし同庵は建物自体が重要文化財に指定されており、内部は非公開!それゆえ、1999年の特別公開に合わせて訪問した。でも、「公開は寺内のみで、一般の方は墓地に入れません」とガードが固く玉砕。僕は“特別公開中に行った為に、かえって普通の観光客と思われ逆効果だったのかも”と考え、4年後に再訪した。お寺の玄関先で随分食い下がったけど、やっぱりけんもほろろ。観世家の人は世阿弥の命日に墓参しているらしいので、かくなるうえは観世家に接近し、同行させてもらうしかないのか…と、僕は頭を抱え込んだ。 |
1.8月8日は世阿弥の命日!墓参に最もふさわしい日だ。はっきり言ってこの日がダメなら、他の日に行っても絶対に無理だろう。※同年は561回忌。区切りのいい600回忌は約40年後。その頃自分はもう80才近くで生きているかどうかさえ分からない。会わせてもらえるまで、とにかく毎年この日に訪問し続けるしかないと腹をくくった! 2.お供え用にお花と線香を携える。墓参がかなわぬときにはせめてお供えだけでもしてもらおう!(今までは線香だけ。しかもカバンの中にしまってたため、観光客と思われたのだろう) 3.酷暑であったがTシャツはやめ、半袖ボタン付シャツ、長ズボンで巡礼。 4.世阿弥への思いの深さを証明するため、以前に訪問していた奈良県川西町の世阿弥生誕の地(&観世流発祥の地)の石碑の写真を持参する。 5.昼間は観世家も来て住職も忙しく、取り次いでもらえないと思い、夕方の一息ついた時間帯に訪問。 |
1999 通常は非公開の真珠庵。特別公開中に足を運ぶ! |
2003 すぐそこまで来てるのに、無念!指先の壁の裏側が墓地 |
大徳寺名物『拝観謝絶』のバー(竹棒)の前にて 「頼むぞ…お花と線香、威力を発揮してくれ!」 |
門脇の小さな木戸から入ると、見事な造形美の松が あった。ここまで末広がりのめでたい松は初めて見た。 |
一休さんも住職を務めた真珠庵。建物自体が重要 文化財であり年に一回でも公開されればいいほう。 |
この写真を見せた。奈良県川西町に ある面塚。世阿弥生誕の地だ |
父・観阿弥はこの地で観世流を 生み出した。“観世発祥之地”とある |
住職に案内された墓地へ続く道。 ドキドキ、バクバク… |
ついに聖地に到着!この敷地に世阿弥さんがッ! なんかもう、興奮し過ぎて真っ直ぐ歩けない |
住職さん「そこに井戸水があるのでお使い下さい」 おお〜ッ!さすがは室町時代からある墓地じゃ! |
「こちらです。先に戻っていますので、 どうぞごゆっくり」 5年越しの思いが ついに実現した。夢にまで見た瞬間だ! い…い…生きてて良かった!! |
「ハハーッ!」たまらず身を投げ出す! 能という、この世のものとは思えぬ幽玄 で美しい芸術を残してくれたことへの 感謝の言葉を心の中で吠えまくった。 |
小さな墓石が2つ。親子で仲良く並んでいた。 文字はひどく風化していて、どちらが世阿弥 か分からなかった。(このサイトをご覧になった 専門家の方、情報をお待ちしています!!) |
今年(04年)の夏は暑い!冷たい 井戸水でほてった墓石をヒンヤリと 冷やす。2人ともめっさ気持ちよさ そう。ホント、会えて良かった!! |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
★文学者編 ・宮沢賢治 ・太宰治 ・小林多喜二 ・樋口一葉 ・梶井基次郎 ・清少納言 ・近松門左衛門 ・高村光太郎 ・石川啄木 ・西行法師 ・与謝野晶子 ・茨木のり子 ●尾崎放哉 ・種田山頭火 ●松尾芭蕉 ・ドストエフスキー ★学者編 ●南方熊楠 ●湯川秀樹 |
★思想家編 ●チェ・ゲバラ ・坂本龍馬 ●大塩平八郎 ・一休 ・釈迦 ・聖徳太子 ・鑑真和上 ・西村公朝 ・フェノロサ ★武将編 ●明智光秀 ●真田幸村 ・源義経 ・楠木正成 ●石田三成 ・織田信長 |
★芸術家編 ●葛飾北斎 ・尾形光琳 ・上村松園 ●黒澤明 ・本阿弥光悦 ・棟方志功 ・世阿弥 ・伊藤若冲 ●グレン・グールド ●ビクトル・ハラ ●ベートーヴェン ●ゴッホ ・チャップリン ★その他編 ●伊能忠敬 ・平賀源内 ・淀川長治 ●千利休 ●印は特にオススメ! |
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