【 あの人の人生を知ろう 〜 釈迦編 】

“釈迦”ゴータマ・シッダールタ/Sakhya
B.C.463(565?560?).4.8-383(485?480?).2.15




デリーの国立博物館にて なんと!釈迦の舎利(遺骨)! 事実上、この博物館がお墓ということに
これが釈迦の骨であることや、分骨の経緯を記した当時の碑文と共に、釈迦の故郷で発掘されたッ!









大抵の人はびっくりして立ちすくむ この大小2個の容器に納骨されていた 側にあった骨の拡大写真。ひょえ〜!
















直径28m、高さ43mという巨大なダメーク・ストゥーパ(仏塔)。“ダメーク“の意味は「法の
仲介」。ストゥーパには釈迦の骨(仏舎利)が納められている。下段が石で上段がレンガ。
壁面は細かなレリーフ 右下の人間と大きさを比べて欲しい







5人の修行者に行った初めての説法を再現。この時、
森に住む鹿たちも一緒に説法を聞いたという
「サールナート(鹿野苑)」だけあって鹿が多い。
奈良で鹿が大切にされるのも説法を受けたから
めっさワンパクな子どもたち(笑)








八角形という珍しいチャウカーンディ・ストゥーパ(サールナート) シルエットが非常に美しい 門にあった法輪(チャクラ)

ガンダーラで発掘された釈迦像。めっさカッコイイ!
(あのイケメンズのギタリスト!)
奥に見える山に釈迦は修行でこもっていた!(スジャータ村)








この菩提樹の下で釈迦は悟った!
(ブッダガヤ)
黄金の布が敷かれた場所に釈迦は座っていたッ!

高さ52m(!)のマハーボーディ寺院。
手前に見えるのはストゥーパだ

北インド、現ネパールの小国カピラバストゥ(千葉県サイズ)の釈迦族の王子、釈迦牟尼(むに=聖者)。本名ゴータマ・シッダールタ(ゴータマは“最上の牛”、シッダールタは“目的達成”の意)。仏教界では「釈尊」(釈迦牟尼世尊)という。“悟りを得た者”という意の「仏陀(ブッダ)」とも呼ばれる。父は国王・浄飯王(じょうぼんのう)、母は妃の摩耶夫人(まやぶにん、マーヤ)。伝承では、摩耶夫人がお産で実家に里帰りする途中、ルンビニー園で産気づき右脇から(!)産まれたとされている。しかも釈迦はいきなり7歩進んで、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」(世界にこの命は一つだけ、だからこそ全ての生命に価値があり尊い)と宣言したという。
※仏教では4月8日に釈迦誕生を祝う儀式を「花祭り」「灌仏会(かんぶつえ)」と呼ぶ。釈迦の仏像(赤ちゃんだけど立ってる)に甘茶をかけて祝福する。

  第一声が「天上天下唯我独尊ッス!」。さすがは釈迦だぜ!

摩耶夫人は出産の影響で体調を崩し、釈迦は生後1週間で母を失う。王は後妻に摩耶夫人の妹を迎えた。釈迦は16歳で結婚、長男ラーフラをもうける。17歳の時、郊外に出かける為に東南西北の城門を通過すると、その度に門外で老人、病人、死人、出家者を見かけ、これをきっかけに人生の苦しみをどうすれば克服できるのか悩み始め、ついに29歳で王子の身分を捨て出家した。彼を連れ戻す為に5人の従者が追いかけて来たが、5人は王子の胸中を知って行動を共にするようになった。

釈迦は当初、2人の仙人のもとで思想を学んだが、どの教えも彼を満足させず、釈迦は5人の修行仲間と共に苦行に突入した。しかし、体を痛めつけたり断食をしても悟りに至る事はなく、“何事も極端に走るのではなく中道が肝心”と苦行の無意味さに気づき、35歳で6年続けた苦行を止めた。他の苦行者は彼を脱落者として嘲笑した。
釈迦はネーランジャラー河の岸辺で村娘スジャータが作ってくれた“牛乳がゆ”を食べて体力を回復させると、ガヤー村の菩提樹の下で静かに座禅を組んで瞑想に入った。悪魔が悟りを妨害する為に大軍を送ったが、釈迦はこれをことごとく調伏し、瞑想開始から49日後の12月8日未明に悟りを開き、彼は「菩薩(修行者)」から「仏陀(覚醒者)」となった。ガヤー村は後に仏陀が悟った場所として“ブッダガヤ”と呼ばれるようになる。
※魔物を打ち倒して悟りを得たことを、仏教では「降魔成道(ごうまじょうどう)」という。これを祝い12月8日には成道会(え)が行なわれる。

  釈迦苦行像(ラホール博物館)。ここまで苦行した!お腹ペコペコ!
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●釈迦の悟り
釈迦は「苦」を克服する為に何を悟ったのか。結論から言うと「執着を捨てろ」ということ。

世のすべてのものは移ろいゆく。恋愛感情や若さがそうであるように、どんなに「今のまま変わらないで」と願っても、いっさいが例外なく変化していく。人は世界が常に変化しつつある「無常」なものと頭で分かっていながら、欲望が心に生まれると「無常」として受け止められなくなる。煩悩(欲望)が判断を誤らせ、永遠に変化しない「常なるもの」と錯覚させる。そして、相手の心変わりを非難しては嘆き、失ってしまった物をいつまでも惜しみ悔やむ。
釈迦は“縁”をキーワードにして、「苦」の根源に迫った。結果、万物が変化するという事実を認めない「無知」が「迷い」を生み、迷いが「欲望」を生み、欲望が「執着」を生み、執着が「苦しみ」を生むとする結論に至った。「無常」という真実をあるがままに受け入れることでしか心の平安(悟り)は得られないのだから、心が勝手に真実を曲げて解釈しないようにしっかりと現実を直視し、すべてのものに対する執着を断てと釈迦は説いた。
釈迦は「無常」を受け入れた時に、初めて人は解脱(げだつ)できるとした。
※解脱…煩悩の苦しみを克服して安らいだ自由な境地に至ること。また解脱には「輪廻から解放される」という意味もある。以下に続く。
 
●輪廻(りんね)転生について
仏教では各人の業(ごう、カルマ=善悪の行為)によって魂が六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)を輪廻するとされている。輪廻している魂は「迷いの状態」とされ、果てしのない再生から解脱する(自由になる)事を仏教は究極目標にしている。解脱を目指して善業を積む--これは来世にもっと善良な魂となる為に、現在の生活で善業を行なおうという前向きな思想だ。ところが現代(特に新興宗教)では、「前世の行いが悪かった」「祖先の大罪のせいだ」と過去の業ばかりを脅迫まがいに強調し、善行の理由が過去の禊(みそぎ)になっている。この場合、前世の業で人生は定まっており、現世ではどんな努力も無駄という考えに陥りやすくなる。過去をことさら重視せず、現在の自分を見て、よりよい魂となる為に善い行いをするべきだろう。
※魂が死後に生まれ変わるという考え方は、古代ギリシャでプラトンやピタゴラスも説いており、釈迦の誕生以前からインドにあった思想だ。
 
●すべて空なり
仏教の「空」は虚無を意味する空ではない。人の命は肉親と繋がっているだけではなく、これまで食べてきた全ての命とも、日光や水、酸素を生む植物、この宇宙にある全てのものと繋がっており、誰しも他から切り離されては存在できず、あらゆる物質と溶け合っているという、極めて深い感動的な意味での「空」だ。この世の全てが巨大なひとつの生命であること、これを一文字で表したものが「空」だ。ゆえに「色即是空、空即是色」(世の全てが空であり、空はまた世の全てである)となる。※あなたは私であり、私はあなたであり、鳥も、花も、星も、道端の石ころまで同じ存在である…グッとくるね。

   「ハッ!」悟りの瞬間!(手塚治虫『ブッダ』愛蔵版4巻から)

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釈迦はブッダガヤで悟った後、さらに49日間禅を組んだまま悟りの法悦の余韻にひたり、人生はここに極まったとして何も食べず死を選ぼうとした。するとインド神話の創造神・梵天(ぼんてん)が目の前に現れ、彼に「悟りの内容を人に伝え広めなさい」と3回告げたという。釈迦は伝道にあたり、最初に5人の苦行仲間がいるバラナシ郊外へ向かい、サールナートの鹿野苑(ろくやおん)で初の説法“初転法輪(しょてんぼうりん)”を行なった。
当初は釈迦を馬鹿にしていた彼らは教えに感銘を受け、初の仏教教団(サンガ)を結成した。他の宗教者が弟子を引き連れて加わる現象も続き、教団はすぐに千人以上になった。

続けて古代インドの強国、マガダ国のビンビサーラ王が帰依(入信)したことを皮切りにコーサラ国など諸国の王にも帰依する者が出てくる。釈迦は弟子の人材にも恵まれ、二大弟子となる舎利弗(しゃりほつ)、目連(もくれん)が教団に加わった。

40歳の時に父が死去し、故郷へ10年ぶりに戻って説法を行なうと、これに感動した妻や息子ラーフラ、いとこの阿難(あなんだ)、提婆達多(だいばだった)らが出家して弟子に加わった。釈迦がブッダガヤで悟りを得てほんの5年ほどで、基本的な伝道環境の大半が整い、教団の秩序を保つ為に様々な戒律が定められていく。
 
諸王や大商人には経済的な援助を申し出る者も現れ、説法道場や安居(あんご)の場として最初の仏教寺院となった祇園精舎(コーサラ国の首都シュラーバスティーに設立)や竹林精舎(マガタ国の首都ラージャグリハに設立)を寄進した。釈迦は以降45年間、1250人の弟子とガンジス川中流地域でひたすら伝道活動を続けてゆく。
※安居…釈迦はたとえ昆虫であれ殺生を禁じており、雨期に出歩くと虫や小動物を意図せず傷つけてしまうこともあるから、一門は1ヶ所に集って小屋を建て、3ヶ月の雨期が終わるのを、勉強会を開きながら待った。この集いを安居という。死の前年の安居は祇園精舎で開かれたと記録されている。
 
73歳、釈迦を手厚く保護してくれたマガダ国ビンビサーラ王が息子の阿闍世(あじゃせ)に殺害された。即位した阿闍世は自分の行いを激しく後悔し、阿闍世は父以上の仏教の保護者になっていく。
そして80歳。精力的に説法を続けてきた釈迦だが、さすがに体力も落ち、旅先で食中毒にかかった。豚肉料理またはキノコによるものと言われている。釈迦はクシナガラ郊外の沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で、頭を北、顔を西に向け横たわると、高弟や信者たちが見守る中、「悲しまなくていい…私が説いた教えと戒律が、死後にお前たちの師となろう。ただ一切は過ぎていく。怠ることなく修行を完成しなさい」と最期に語って入滅(他界)した。
※仏教では釈迦の死を涅槃(ねはん、吹き消されたという意味)と呼び、2月15日の涅槃会で釈迦を追悼している。涅槃には“煩悩の火が吹き消された状態”という意味もあり、この場合は悟りの境地を指す。元々はサンスクリット語の「ニルバーナ」であり、涅槃はその当て字。

   長谷川等伯筆の『仏涅槃図』。動物までが号泣している!

釈迦の死を悲嘆したマガダ国王・阿闍世は、釈迦の教えが誤って一人歩きをしないように、本当に釈迦が言ったことと、言ってないことをハッキリさせる為、釈迦の弟子500人(五百羅漢)を集めて教えを合議によってまとめさせた。これを“結集(けつじゅう)”という。彼らは互いの記憶を検証しながら聖典を編纂した。二大弟子の舎利弗、目連は既に他界していたので、教団二代目の大迦葉(だいかしょう)が座長となり、釈迦生前の秘書役・阿難がお経(説法)を、床屋出身の陽気なムードメーカー・優波離(うぱり)が律(教団の戒律)を編集主任となってまとめた。教義を一本化する為にこうした結集は後年にも行なわれ、100年後に700人が集まった第2回結集が、200年後にアショーカ王の下で1000人が集まった第3回結集が、2世紀頃にカニシュカ王が500人を集めた第4回結集が開催されたと伝わっている。弟子達のこうした努力の結実が、今に伝わる数々の経典である。

釈迦の亡骸は火葬され、舎利(しゃり、遺骨)は周辺8大国の王たちの求めで分けられた。各舎利はストゥーバと呼ばれる供養塔に納められ、遺骨以外にも髪や爪、所持品を納めた塔が建てられ、これら全てが崇拝の対象になった。
B.C.250年頃、インド史上最大の名君アショーカ王は、仏教を広めるためにストゥーバから仏舎利を取り出し、それを8万4千個に分けて同数のストゥーバを建てた。ちなみに、ストゥーバという言葉は日本に伝わった時に卒塔婆(そとうば)と置き換えられる。現代で卒塔婆といえば墓石の背後に立てる供養板のことをいうが、当初は大陸からもたらされた仏舎利を祀る供養塔=墓を指した。※五重塔などの“塔”という字は、「卒塔婆」の“塔”からきている。“塔”は墓なのだ。
供養塔は時が経つにつれ、遠くからでも見えるように高くなっていく。塔のてっぺんが舎利の納められたストゥーバだ。つまり、塔はてっぺんを遠くの人に見せるものであり、そこから下はただの付け足しともいえる。

世界最古の木造建築として、ユネスコの世界遺産に日本で最初に登録された法隆寺は、五重塔のてっぺんと内部中心の柱の2ヶ所に仏舎利が納骨されている。…しかし本当に釈迦本人の骨が、はるばる海を渡って奈良までやって来たのだろうか。僕は失礼とは思ったが、恐る恐る法隆寺でお坊さんに尋ねてみた。疑って反省。インドからどんなルートで奈良まで来たのか、また、舎利が分骨を重ねて小さくなっていく過程を詳細に記した巻物が現存するそうだ。遺骨は米粒ほどの大きさで、毎年元旦から3日間、午後1時に仏舎利を前にして「舎利講」という公開法要をしているとのこと。思わず高さ31.5mの巨大な墓に手を合わせた。


【おまけ〜仏像の誕生】
仏像が出現したのは入滅後500年以上経ってから。これは釈迦が「私の姿を拝んでどうしようというのか」と偶像を否定したことによる。また、仏陀となった偉大な釈迦の姿は、もはや人の手で表現できないと思われていた。それゆえ、人々は釈迦の象徴として法輪(仏の教えが広まる様子を輪で表現。インド国旗の中央にも描かれている)や、仏足石(釈迦の足跡を刻んだ石。姿がNGなので足跡を拝んだ)、菩提樹などを礼拝していた。
500年も仏像を造らずにいた人々が仏像を彫り始める…いったい、その当時何が起こったのか。原因はイランやアフガン一帯を支配していた戦闘騎馬民族クシャーン帝国の大侵略だった。クシャーンのカニシュカ王は残酷無慈悲でインド北部に虐殺と破壊の嵐が吹き荒れた。人々は山中に逃げ込み、クシャーンの軍隊が通過するのを息を殺して待ち続ける。この時、精神的に極限まで追い詰められ、心の拠り所としたものが仏教であり、目に見えてすがれるものとして、藁をも掴む思いで刻み始めたのが釈迦像だった。
征服者カニシュカ王はやがて釈迦の教えに触れて心を入れ替え、仏教の大保護者として歴史に名を残すようになる。王は帝国内の貨幣に釈迦像と「ブッダ」の名を刻印した。また当時の遺跡からはカニシュカ王の頭上に釈迦が鎮座する図柄の壷なども発見されている(これはかなり感動的。カニシュカが完全に釈迦に身を委ねている)。
初期の仏像がギリシャ彫刻のように彫りが深いのは、B.C.330年頃にアレキサンダー大王の遠征軍がペルシャを越え北インドまで制圧し、ギリシャ美術を持ち込んだ為だ。
(オススメ仏像/イケメンズ)
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※仏教徒は釈迦の誕生、降魔成道、初転法輪、入滅を4大事件に選び、これらに縁のある地、ルンビニー園、ブッダガヤー、鹿野苑、クシナガラを四大聖地に定めている。
※十大弟子の目連は地獄に落ちた母親を神通力で救ったという。これが故事となり、死後の肉親を迎える「お盆」(盂蘭盆会、うらぼんえ)が始まった。
※名古屋の覚王山日泰寺には、タイ王室から譲り受けた確実に釈迦のものとされる舎利が納められ、日本仏教の全宗派が合同で寺を管理している。
http://mujintou.lib.net/dharma/bukkyo/buddhatop.htm ←釈迦の聖地を美しい写真で綴っているサイト

●十大弟子…釈迦の1250人の弟子の中の高弟10人。
(以下、仏師西村公朝さんの一行解説)
舎利弗(しゃりほつ)天才肌の一番弟子/智慧第一
目連(もくれん)もうひとりの高弟、超能力者/神通第一
阿那律(あなりつ)眠らない修行でついに失明/天眼第一(釈迦の従兄弟)
優波離(うばり)もと理髪師の愛嬌者/律第一
富楼那(ふるな)商人あがりで説法上手/説法第一
迦旃延(かせんねん)わかりやすい教えの伝道の達人/論義第一
須菩提(しゅぼだい)“空”をもっともよく理解した人/解空第一
羅羅(らごら/ラーフラ)お釈迦さんのひとり息子は荒行者/戒行第一
大迦葉(だいかしょう)教団の二代目は清貧の人/頭陀第一
阿難(あなん)お釈迦さんのハンサムな秘書役/多聞第一


●日泰寺(にったいじ)〜タイから日本にやってきた釈迦の御真骨



名古屋市の日泰寺。タイ国王から贈られた仏舎利
(釈迦の骨)を安置する為、1904年に創建された
各宗派が仏舎利を取り合いにならぬよう、日泰寺
はどの宗派にも属さない単立寺院になっている
仏舎利は本堂から少し離れた奉安塔の
中。手前にリアルな入滅像が横たわる



「釈尊御真骨奉安塔」 仏舎利はこの奥、高さ15mのガンダーラ式の塔の中 土台だけチラッと見えている。ありがたや!(2010)

世界最古の木造建築・法隆寺。五重塔の礎石の中に仏舎利が置かれたと記録(593年)されている



  
手塚治虫文化賞(2009)を受賞!なんと釈迦とキリストの爆笑友情物語!作者に仏教の知識があるからこそ書けるギャグの数々。脱帽ッス!


《あの人の人生を知ろう》
★文学者編
・宮沢賢治
・太宰治
・小林多喜二
・樋口一葉
・梶井基次郎
・清少納言
・近松門左衛門
・高村光太郎
・石川啄木
・西行法師
・与謝野晶子
・茨木のり子
●尾崎放哉
・種田山頭火
●松尾芭蕉
・ドストエフスキー

★学者編
●南方熊楠
●湯川秀樹

★思想家編
●チェ・ゲバラ
・坂本龍馬
●大塩平八郎
・一休
・釈迦
・聖徳太子
・鑑真和上
・西村公朝
・フェノロサ

★武将編
●明智光秀
●真田幸村
・源義経
・楠木正成
●石田三成
・織田信長




★芸術家編
●葛飾北斎
・尾形光琳
・上村松園
●黒澤明
・本阿弥光悦
・棟方志功
・世阿弥
・伊藤若冲
●グレン・グールド
●ビクトル・ハラ
●ベートーヴェン
●ゴッホ
・チャップリン

★その他編
●伊能忠敬
・平賀源内
・淀川長治
●千利休

●印は特にオススメ!

※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)



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