『紅白梅図屏風』(200年後のクリムトと通じる世界がある) |
光琳の最高傑作。50歳ごろ師・宗達の『風神雷神図屏風』を模写して圧倒された彼は、師に胸を張って「これが光琳だ」と言える作品を残そうと決意し、晩年にこれを描いた。左の白梅が老木、右の紅梅が若木で、両者の間を流れる川は「時の流れ」を象徴している。左右の屏風を真ん中を見ると、左側は枝が鋭角のV字を、右側は川と枝が曲線のV字を作っている。このような直線と曲線の対比や、梅の“静”と水流の“動”、老木と若木、抽象的な川に対してリアルな梅と、画中の何もかもが呼応し相対する構成は神がかりとしか言いようがなく、舌を巻かずにはいられない。常人には思い浮かばない発想で、天才と称される所以だ。 |
『燕子花(かきつばた)図屏風』 |
1701〜04年頃に制作された初期作品。各縦1.5m、横3.6mという大画面(六曲一双)に群生する燕子花が描かれている。よく見ると所々が同じ構図になっており、染物模様のように同型を繰り返し使うこと(型置き技法)で、全体にリズム感を与えている。もちろん、この「型」を使うという発想は、呉服商の経験からきているのだろう。使用された色は極端に少なく、群青と緑青(ろくしょう)のわずか2色のみ。本作は『伊勢物語』の九段目「東下り」の段をモチーフにしている--「都には自分の居場所がないと思った在原業平は、同じ気持を共有していた友人たちと、京から愛知へ道に迷いつつ下り、八橋にたどり着く。川のほとりで食事していると目の前には燕子花が咲き乱れていた。そこで友から“かきつばた”の5文字を上の句にして歌を詠めと促された業平はこう歌った。“唐衣/きつつなれにし/つましあれば/はるばるきぬる/旅をしぞ思ふ”(着慣れた着物のように親しく思う妻が都にいるのに、私はこんな遠くまで来てしまった)。これを聞いた友人たちは思わず飯の上に涙を落とした」。美しく洗練された画面構成は光琳ならでは。国宝。 |
『秋草文様小袖』 | 『椿図蒔絵硯箱』 | 『八橋蒔絵硯箱』 |
1999 この時は光琳独りぼっち | 2003 再訪したら右に弟・乾山がいた!墓地もリフレッシュ! |
日本の美術史には装飾美を究めた「琳派(りんぱ)」という流派がある。この一派が大変ユニーク。普通、一門というのは血縁関係があったり、直接の師弟関係があるものだけど、琳派の師弟は直接会ったことがないばかりか、生きている時代も全然違う。始祖は江戸初期の俵屋宗達で、その技法を受け継いだのが80年後の尾形光琳、さらに100年を経て酒井抱一らが後に続いた。“師弟”とは言うものの、教えを乞うにも師匠はずっと昔に他界しているので、修業方法はもっぱら作品模写。とにかく徹底的に師匠の作品を写しまくり、構図の妙や色彩方法を自力で学びとった。そしてこの流派の中で、作品の華やかさから代表格に見られているのが尾形光琳であり、その名から一字を取って現在琳派と読んでいる。 本名、方祝(まさとき)。5歳年下の弟は京焼の名手・乾山。生家は京都の裕福な高級呉服商。父は多趣味な風流人だったので光琳も自然と絵が好きになった。また、ひい婆さんの弟は天才工芸家・本阿弥光悦であり、洗練された工芸品が日常生活の中にあった。1687年(29歳)、父が他界。莫大な遺産を受け継いだ光琳だが、ボンボンの彼は経済観念がゼロ、湯水の如く金を使いまくる。女性関係も派手で、30代に4人の子をもうけているが、母親は全部別。その中の一人からは奉行所に告訴され慰謝料を払っている。商売の呉服屋が薄利多売の新興商人の台頭で傾き始めても、放蕩三昧は止むことなく資産はみるみる減少。さらに1693年(35歳)には金を貸していた大名に債権を踏み倒され回収不能になり、弟に金を借りにいく始末。そしてついに破産した。 弟の乾山は物静かで読書を好み、孤独を愛する男。兄弟は正反対の性格だ。「兄上は根本的に生き方を変えないと、このままでは兄上の為にもならない」と彼は手紙をしたため、自身は趣味で習っていた陶器づくりを商売にする為に、腰を入れて仁清から陶法を学び、6年後に自分の窯を構えた。自活する弟の姿を見て光琳も絵筆で立つ決心をし、巨大な屋敷を売り払い、正式に入籍して家庭を持ち、狩野派の画法を習い、40歳頃から光琳の名で作品を発表し始めた。出だしは好調。1701年、43歳で絵師として栄誉ある位・法橋に叙せられた。 ところが光琳の浪費癖は直ってなかった。絵が売れて後援者(パトロン)がついたことで、またしても借金に借金を重ね、1703年(45歳)、自宅を抵当に入れ、江戸に住む後援者を頼って上京する事態になる。この、江戸での生活も辛かった。注文をとるために連日朝から晩まで武家屋敷をまわってはお世辞を言い、描きたい絵ではなく、依頼通りの絵を描く。「俺は何をやっている?貧乏でも自分の望む絵を描くべきじゃないのか?」光琳は江戸生活に5年で見切りをつけ、京都に戻る(1709年)。この50歳の帰郷には、弟・乾山を助ける意味合いもあった。 その頃京都の乾山は、陶器作りだけでは生計が成り立たず、新たに焼き物店を開き再出発しようとしていた。そこで絵師として知名度のある光琳が乾山の作品に絵付けするようになった。乾山が焼き、光琳が描く。かつて弟がしてくれたように、今度は兄が弟に力を貸してあげたんだ。ここに美術史上最強の黄金タッグが結成され、数々の傑作が生れていった!光琳は絵付け作業がとても楽しかったようで、描かれた絵は笑顔の七福神など、のびのびとして微笑ましいものが多い。 さて、狩野派に学んで筆をとった光琳だが、自分が創造しようとする美世界は、この画法では表現しきれぬと以前から違和感を感じていた。そして『風神雷神図屏風』で知られる80年前の絵師・俵屋宗達に熱い視線を注ぎ始め、私淑(ししゅく、心の内で師と仰ぐこと)を決意。斬新な構図で縦横無尽に筆を振るった師匠の作品を、繰り返し模写することで自由な発想力を培い、光琳はそこに優美できらびやかな装飾性を練り込んで、師の魂を受け継ぎつつ発展させた。絢爛豪華な「光琳デザイン」の誕生だ。今に伝えられる彼の作品の大半は、以降の8年間に制作されたもの。 光琳が本格的に作品を発表したのは1701年(43歳)から没年の1716年(58歳)までの15年間のみ。その短い活動期間に多数の名品を残して旅立った。乾山は兄の死後も30年近く生き、晩年は江戸に上がって筆を握り、文人趣味の優れた書画などを残した。 豪奢な生活は光琳の家計を火だるまにさせたが、一流の美術品に触れ続けたことで審美眼を養えたのも事実。派手さがあっても決して下品ではなく、華やかで垢抜けている光琳デザインは、屏風以外にも、うちわ、着物、硯箱、印籠、百人一首、陶器絵など、工芸品を含めていかんなく発揮された。これらジャンルを越えた幅広い創作活動から、日本美術史上最高のデザイナーとされている。 光琳と乾山の菩提寺は1788年の大火で焼け落ち、墓も行方不明になった。光琳百回忌の際、かつて光琳が宗達に私淑したように、熱心に琳派を学んでいた酒井抱一は、「長江軒青々光琳墓」と刻んだ墓を建立した。光琳の向かって右隣には乾山が眠っている。 |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
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