1999 墓は直径50mの円墳 | 2005 藁葺き屋根の改修中! |
本名、厩戸(うまやど)皇子。名前の由来は、厩(馬小屋)の前で産まれたからとの伝承もあるが、出生地の「厩戸」(明日香村・橘寺付近に昔あった地名)や蘇我氏興隆の地「馬屋戸」(奈良・御所市)からきているとする説が有力。一度に10人の話を聞き、各々に的確な答えを返したことから「豊聡耳」(とよとみみ)とも呼ばれた。 太子が生まれた古墳時代末期は、百済を通じて仏教が伝来(538年)してから約40年が経った頃。政局では仏教を崇拝する蘇我馬子と、日本古来の神道を信奉する物部守屋が激しく対立していた。国際派の馬子は「アジア各国が仏教を信奉しており、日本もこれを採り入れ世界の仲間入りをするべき」とし、守屋は「そんなことをすれば天照大神など日本の神々の怒りに触れる」という保守勢力の代表だった。太子のお婆ちゃんは父方が馬子の姉、母方が馬子の妹(皆父親が蘇我稲目)。蘇我氏の血をひく太子もまた少年期から仏教に傾倒していた(後の太子の妻は馬子の娘・刀自古)。馬子が百済から伝わった弥勒像を自邸に安置すると、10歳の太子が供養に訪れたという。 585年(11歳)、太子の父親・第31代用明天皇が即位したが、ほどなく父は病に臥した。父は天皇として初めて公に仏教に帰依する。587年、13歳で父は他界。馬子は先代の第30代敏達(びたつ)天皇の妃で太子の父の妹、額田部(ぬかたべ)皇女(後の推古天皇)を皇位継承者に推し、一方、物部守屋が敏達天皇の弟・穴穂部皇子を推した事で、ついに両者は戦場での直接対決となった。この戦乱では太子も蘇我軍として戦場に出る。当初、戦いは物部氏に有利に進んでいたが、太子が仏像を彫って四天王に勝利祈願したところ、自軍の矢が守屋に命中し形成が逆転、物部氏は滅亡した。 戦後、額田部皇女は弟の崇峻(すしゅん)天皇を即位させたが、崇峻天皇は馬子と仲違いして即位から5年目に暗殺された(この時代の天皇はホント命がけ)。これを受けて額田部皇女が初の女性天皇として即位し、推古天皇となった(592年)。翌年、推古の甥っ子で皇太子の聖徳太子が、19歳で摂政となり天皇の補佐に当たった。太子は就任直後に、四天王へかつての戦の感謝を込めて日本最古の官寺(国の寺)・四天王寺を建立する。 この593年の摂政就任の4年前に、大陸には約370年ぶりの統一王朝・超大国『隋』が誕生しており、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が覇権を競っていた。日本は100年以上も中国と公式に交流を持っておらず、大陸の情報が極端に不足していた。太子は渡来した高僧から隋が高度な文明社会を築いていることを聞かされる。隋には法律と官僚制による優れた行政システムがあり、政治に儒教を導入して役人に道徳を重んじさせ、首都長安では仏教芸術が花開いていた。当時の日本は大豪族が一族の利益を求めて互いに争い、民衆の暮らしは常に困窮しており、あまりに政治制度が立ち遅れていた。太子は先進国の隋と国交を結ぶことで、最先端の文化・技術を採り入れると共に、交流を通して日本の国際的地位を向上させようと思った。馬子も太子と同じ考えであり、両者は協力して改革に取り組む。 596年(22歳)、まずは国内初の本格的仏教寺院の法興寺(現飛鳥寺)を完成させた。五重塔と伽藍を備えた荘厳な寺院だ。大和政権は百済人を中心として、優れた建築術・彫刻技術を持つ者を大量に受け入れており、渡来人は宮廷人口の3分の1にまで達した。その意味でも出身国の関係なく互いの心を結ぶ仏教が益々重要になった。 そして600年(26歳)、ついに太子は120年ぶりに使者を大陸に派遣する。隋を建国した文帝は官僚の登用に際し、貴族が世襲制で就任していた伝統を廃して、真に優秀な人材を確保する為に、全ての人々に登用の機会を与える科挙(国家試験)を導入した人物。日本の政治システムを問われた使者は、大和政権に法令もなく政治的に未成熟だったことから、天皇の権威を全面に出す為に古来の日本神話を引き合いに出してしまう。文帝は呆れ果て「倭国(日本)の政治は道理にかなっていない。指導して改めさせねば」と語り、使者は外交関係を結んでもらえなかった。 日本にとって屈辱的とも言える、この第1回遣隋使の失態は『日本書紀』には記載されておらず、中国側の歴史書にのみ載っている。 発奮した太子は馬子との共同執政の中で中央集権化を進め、603年(29歳)に官僚制の基礎となる冠位十二階を、翌604年(30歳)には十七条憲法を制定していく。 《冠位十二階》 朝鮮諸国の冠位制度を参考に、儒教の徳目を現わす言葉「徳・仁・礼・信・義・智」をそれぞれ大小にわけて12階(大徳〜小智)を定め、位ごとに色分けした冠(帽子)を授けたもの。紫を頂点に、青・赤・黄・白・黒と続き、さらに色の濃淡で身分の差がひと目でわかった。血縁に関係なく働きぶりによって冠位を上下させ、格の低い氏族の出身者でも頑張れば高い地位につけた。これは律令制の位階制の源となる。 《憲法十七条》 日本初の成文の法令集。太子が理想国家の実現へ願いを込めて作った、官僚の行動倫理。仏教や儒教の長所を導入した。(以下抜粋) 第1条「和をもって貴しと為す。協調・親睦の気持ちをもって論議せよ」 第2条「あつく三宝(仏・法・僧)を敬え。本当に極悪な人間はまれであり、正道(仏道)を知れば従うものだ」 第4条「官僚は礼の精神を根本とせよ。上に立つ者に礼があれば、民も必ず礼を守り、国家は自然に治まる。その逆も然り」 第5条「官僚は欲を貪(むさぼ)らず民の訴えを公正に裁くように。近頃の訴訟を治める者は賄賂が常識となり、賄賂を見てから訴えを聞いている。裕福な者の訴えはすぐに受け入れられるのに、貧乏な者の訴えは容易に聞き入れてもらえない。もってのほかだ」 第6条「悪を懲らしめて善を勧めよ。へつらいあざむく者は、国家や人民を滅ぼす鋭い剣である」 第8条「官僚たちは、朝早く出勤し、夕方は遅く退出せよ。公務はうかうか出来ぬものだ。一日かけても全て終えるのは難しい。遅く出勤すれば緊急の用に間にあわないし、早く退出しては必ず仕事をやり残してしまう」 第10条「心の怒りを絶ち、人が自分と考えが違っても怒ってはならない。人それぞれに考えがあるのだ。自分は必ず聖人で、相手が必ず愚かということはない。皆ともに凡人なのだ。これをよく踏まえ、相手がいきどおっていたら、自分を振り返って自らに過ちがないかと恐れよ」 第12条「地方官は勝手に税をとってはならない。国に2人の君主なく、みな天皇の臣下である」 第16条「春から秋までは民を使役してはいけない。民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕が為されなければ、何を着たらよいのか」 607年(33歳)、第1回遣隋使の不面目から、冠位十二階、十七条憲法を制定し、前年には金色に輝く飛鳥大仏を法興寺に安置させ、この年には仏教の総合大学・法隆寺を建立した。外交官の小野妹子は血縁ではなく能力によって登用された公式の冠位を持つ人間。もう政治システムも仏教美術(文化レベル)も以前の「倭国」ではない。リベンジの体勢は整ったッ!7月3日、太子は『日本書紀』に記されている“第1回”の遣隋使を派遣する。妹子が謁見したのは、3年前に父(文帝)と兄を暗殺して2代皇帝に即位した暴君・煬帝(ようだい)。聖徳太子が記した国書の文面はこうだった。 「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々」 “日が昇る東の国の天子(天皇)が、日が沈む西の国の天子(皇帝)に手紙を送ります。お元気ですか?” これを読んだ煬帝は激怒。隋は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅を属国扱いしていたが、島国日本はさらにその下の後進国と見なしていた。そんな国が対等に振舞うばかりか、隋を没落国家のように「日没する国」とは無礼千万。しかも「天子」という中国の皇帝にしか使われぬ尊い言葉を日本の王に使うとは何事か。煬帝は隋の外交官に「今後、無礼な蛮族の書はワシに見せるな」と命じるほど憤慨する。 妹子は処罰されそうになったが、このころ隋は高句麗への遠征で苦戦しており、「ここは高句麗の背後に位置する日本と手を結んだ方が得策」と、煬帝は友好姿勢をとることにした。また、妹子が公式な官位を持つ外交官であったことから、日本には整った官僚制度があり交渉が可能だと分かった。翌年、隋の外交官が初めて飛鳥の地を踏み、朝廷で国書を読み上げ日本式の礼(4度お辞儀をする等)を執った。太子の「これからは対等な関係で行くのでヨロシク」という目論見は、ここに見事成就した。 以降、数度にわたる遣隋使、遣唐使の派遣で多くの留学生・学僧を送り、彼らが吸収した知識を国政に反映させ、日本は国力を高めていった。 遣唐使船 晩年の太子は未来の国を造る若い人材を育てる為に、政治の第一線から離れ、教育者として斑鳩宮(法隆寺東院)で仏典の研究に没頭する。太子は20歳の頃から仏教の慈悲の心の実戦として、民の救済の為に力を尽くしてきた。四天王寺には貧しい人の為の施薬院(薬局)、療病院(病院)、悲田院(飢えた人を救い身寄りのない老人を世話した社会福祉施設)などを設けていた。太子は高句麗の高僧・慧慈(えじ)に師事し、全ての人が慈悲心を大切にする平和国家の実現の為に、615年(41歳)、仏教の教科書となる『三経義疏』を作成した。人々が興味を持ちやすいように、膨大な仏典の中から選んだ「三経」は、“誰でも必ず仏に成れる”とシンプルに説く「法華経」、唯一女性が主人公の仏典「勝鬘(しょうまん)経」、問答式で親しみやすい「維摩(ゆいま)経」を選んだ。 622年(48歳)、前年暮れに太子の母が亡くなると、年が明けて太子も床に伏し、2月に入ると4人の妻のうち膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が他界する。そして、翌22日に太子も逝去した。『日本書紀』は人々の様子をこう記す『王族・諸臣及び天下の百姓ことごとく、長老は愛児を失うが如く、幼い者は父母を亡くした様に、泣き涙する声が巷に満ちた。耕す男は鋤を手にとらず、杵を突く女は杵をとらず、皆「日月が光を失い、天地が崩れ落ちたようだ。今後、誰を頼りにすれば良いのか」と嘆いた』。享年48歳。わずか3ヶ月で3人が亡くなっていることから伝染病ではないかと言われている。 太子は27歳の時に、墓所の候補地を既に決めており、他界する2年前に自身の廟を造っていたが、その際、自分の子孫を“残さないように”と、風水の吉兆に逆らって「あそこの気を断て、ここを断て」と命令したと言う。これは“一族の繁栄=幸せの絶対条件”とする時代にあって驚くべきことだ。権力を誇る者の愚かさや、物部氏のような大豪族が滅んでいく様を見てきた太子ならではの強烈なエピソードだ。 大阪府南河内郡太子町の叡福寺北古墳(太子墓)は直径50m、高さ100mの円墳で、内部は横穴式石室になっている。太子、母、膳郎女の3人が合葬されていることから「三骨一廟」の墓となった。724年に聖武天皇が伽藍を建て、太子信仰が盛んになるにつれ、太子の墓や遺品を伝える同寺は霊場となり、空海、親鸞、日蓮などの名僧が巡礼し、不動明王、愛染明王は空海作と伝えられる。周辺は“王家の谷”と呼ばれ、推古、敏達、用明、孝徳天皇陵などがある。 《後日談》 推古天皇が病没した時に太子と妻・蘇我刀自古(とじこ)の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を擁立する動きがあったが、馬子亡き後に蘇我氏を束ねていた蘇我蝦夷(えみし、馬子の子)はこの即位を封じた。推古天皇と連続で蘇我氏系の山背大兄王が天皇になると、反蘇我氏勢力との対立が深刻化すると判断したからだ。しかし、蝦夷の子・蘇我入鹿が政治の実権を握ると、入鹿は彼の手足同然になっていた別の皇子の擁立を企て、依然として皇位継承の有力候補にあった山背大兄王の存在が邪魔になった。 太子の他界から21年後の643年、入鹿は山背大兄王が住む斑鳩宮を襲撃。山背大兄王はいったん生駒山に逃れる。家臣から「東国へ逃げて再起を期し、入鹿を討ちましょう」と意見されるが「挙兵して入鹿と戦えば勝てるだろう。しかし私のことで戦乱になって苦しみ傷つくのは百姓たちだ。そんな事態を引き起こすくらいなら、私の命を入鹿にくれてやろう」と、斑鳩寺に舞い戻り、山背大兄王は一族22人もろともに首をくくって自害した。ここに太子の血は絶えた。太子をよく知る蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激しく怒ったと伝えられる。この事件の2年後、大化の改新で蘇我氏は滅亡した。 ※太子&馬子が忍者を初めて使ったとされている。太子は伊賀の服部氏族や甲賀の大伴細人を使って各地の情報を収集し、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に崇峻天皇や敵対豪族を暗殺させたとのこと。 ※実は日本書紀に「聖徳太子」という呼称は出てこない。死後130年経って編纂された『懐風藻』で初めて出てくる。太子の師・恵慈がその死を知って“太子は聖(ひじり)の徳を持っていた”と詠嘆したことによる。 ※現在法隆寺にある国宝仏像・法隆寺釈迦三尊像は太子と等身大に造られている。他界の前年に止利仏師(とりぶっし)が彫り始めたもので、太子の死後に完成した。止利は像の背後に太子追悼の銘文を刻んだ。 ※現在、東京の最高裁判所には太子が十七条憲法を制定する場面が描かれた絵が飾られている。 |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
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