(1728-1779) 波乱万丈の人生! |
江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家。あらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチ!本名、国倫(くにとも)。高松藩足軽白石良房の三男。24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行、世人の注目を浴びる。
本草学者として名を成した彼は、高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ脱藩する(33歳)。この際、高松藩は源内を「仕官御構(おかまい)」に処した。これは他藩へ仕官することを禁止するものだ。源内は自ら“天竺浪人”と名乗り、秋田秩父での鉱山開発、木炭の運送事業、羊を飼っての毛織物生産、輸出用の陶器製作、珍石・奇石のブローカーなど、様々な事業に手を出した。また静電気発生装置“エレキテル”、“燃えない布”火浣布(かかんぷ、石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を生んだ。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内だ。
一方、画才、文才も惜しみなく発揮。油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武(「解体新書」の挿絵画家)らに西洋画法を教えた。浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生した。
作家としてのペンネームは浄瑠璃号「福内鬼外」、戯作号「風来山人」となかなかシャレている。35才の時に書いた『根南志具佐(ねなしぐさ)』『風流志道軒伝』は江戸のベストセラーとなり、明治期まで重版が繰り返される。後者は主人公が、巨人の国、小人の国、長脚国、愚医国、いかさま国など旅するもので、江戸版ガリバー旅行記といった感じだ(鎖国中でもあり、源内が生れる2年前に英国で刊行されたばかりのガリバー旅行記を読んでいたとは思えない)。
『放屁(ほうひ)論』ではまず「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」と屁の形態を論じた後、当時江戸に実在した屁の曲芸師(三味線の伴奏や鶏の鳴き声を奏でた)を引き合いに「古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人は誰もいない」と称賛。さらに半ば自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師と言った。つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。…いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っている。 ※ちなみに「土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。 多方面にわたる才能を持ちつつも、キワモノ扱いされて当時の社会に受け入れられず、やがて彼自身も世間に対して冷笑的な態度を取り始める。著作では封建社会をこきおろす作品を発表し、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露した。
晩年(1778年)、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって人間不信、被害妄想が拡大し悲劇が起きる。自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時のこと。源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図がない。とっさに“盗まれた!”と思った彼は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高し、ついに2人を斬り殺してしまう。だがその図面は、源内の懐ではなく、帯の間から出てきたのであった…。発狂した源内は、厳寒の小伝馬町の牢内で獄死した(享年51歳)。 源内の墓標を建てたのは、彼と同様に好奇心が強かった無二の親友、杉田玄白。玄白は「ああ非常の人。非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」と源内の墓標に刻んだ--。 墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と彫られている。
1928年に墓を管理していた総泉寺が移転したが、墓はそのまま残された。3年後の1931年(昭和6年)、旧高松藩当主・松平頼壽が築地塀(ついじべい、土壁)を整備し、1943年に国指定史跡となった。 (ほんと、もし彼が中世イタリアに生れていたなら、間違いなくルネサンスの巨人として人類の歴史に名を刻んでいただろう) |
広島県の鞆(とも)の浦にある『平賀源内 生祠(せいし)』。“生祠”とは優れた 人物を生前のうちに祀った“やしろ”のことだ |
源内は長崎で蘭学を学び江戸に戻る途中で 当地の溝川家に滞在し、村人に陶法(源内焼)を 伝えた。これに感謝した溝川家が1754年(源内の 死の15年前)に、彼を神としてここに祀ったという |
墓所はちょっと分かりにくい。『史蹟 平賀源内先生之墓』の石碑が目印 |
住宅街の中に源内の墓所がポツンとある ※隣家が管理しているらしい |
以前は毎月第1土・日と命日の18日しか 墓参できなかったが、いまは毎日公開に? ※近所の人が管理しているらしい(2004) |
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