日本一有名な悲劇のヒーロー | 歌い舞う静御前 | PS2「義経英雄伝」は超イケメン |
「牛若丸誕生井」。ここにあった井戸から産湯をとったという。600年以上前(応永年間) に石碑を建てた記録が残っており、室町時代から既に観光名所になっていたようだ |
胞衣(えな)塚。牛若丸の胎盤 とヘソの緒が埋められたという |
義経の首が埋葬されたと伝えられる神奈川県藤沢市の白旗神社。境内に供養碑が建っている |
兵庫県淡路市「静の里公園」にて。 向かって左側が静御前、右側が義経の墓(2000) |
2人、仲むつまじく並んでいる (淡路島は静の故郷) |
宮城県栗原市の栗駒小学校 | 校舎の裏の判官森と呼ばれる小山 | この山をドンドン登っていくと… |
なんと義経の墓がある!左右に陣旗つき! 義経の首は鎌倉に送られたが、胴は義経の友人・ 沼倉小次郎高次が自領の判官森に埋葬したという |
江戸時代に建立された大きな供養碑。その足下には、 一関観光協会が大河ドラマ『義経』の前年(04年)に 建てた「源九郎判官義経公御霊安らかに」が立つ |
供養碑は江戸期のものだが 手前の五輪塔は鎌倉期。 高次が築いたと思われる |
義経が散った居館・高館からの眺望。雄大な北上川と束稲山 | 芭蕉の句碑「夏草や 兵どもが 夢の跡」 |
義経が自刃した居館跡に義経堂が建てられている | 内部には義経像が鎮座! | 義経堂横の「源義経公供養塔」 |
平泉の石碑「源義経衣川古戦場跡」 |
岩手四大戦役記念碑(阿弖流為の役、前九年の 役、後三年の役、衣川平泉の役の戦没者を追悼) |
「義経公妻子之墓」義経が涙ながらに刺した妻子 の墓。金鶏山の千手院から改葬された(平泉) |
左から義経招魂碑、御曹子供養塔、静御前の墓、記念塔、歌碑(JR栗橋駅前) |
新しくなった「静女之墳」 | 旧墓石は風雨を避けるため厨子内に安置されていた | 左に旧墓石、右に新墓石が並んでいる |
奥州平泉に落ち延びた義経を慕って京都から平泉に向かった静は、下総国(千葉北部)で「義経討死」の報を聞いた。悲しみにくれた 静は出家するために京へ戻ろうとしたが、長旅の疲れから当地で病に倒れ他界したという。侍女の琴柱(ことじ)がこの地にあった 高柳寺に亡骸を葬った。1803年、墓碑がないことを哀れんだ関東郡代・中川忠英が「静女之墳(しずかめのはか)」を建立した。 |
義経招魂碑 | 「静女所生御曹子供養塔」なんと2人には子どもがいた! |
「静御前七百五十年祭慶讃記念塔」 “750回忌”というBIGスケール |
歌碑「舞ふ蝶の 果てや夢みる 塚の蔭」 1806年に村人たちが建立した |
「静女塚碑」 この塚の伝承が漢文で刻まれている |
尼御前(あまごぜん)像。切ない表情が胸にくるデス… | 石川県加賀市の尼御前岬 |
東北へ向かう義経一行の中にいた尼御前は、この先にある「安宅(あたか)の関」の取り締まりが厳しいことを 聞き知って、足手まといにならないようにと、義経の無事を祈ってこの岬から身を投げたという。わーん! |
「源義経上陸の地」 山形県鶴岡市鼠ヶ関にある |
“上陸の地”の浜辺。ここから弁慶と上陸した のか!?鼠ヶ関は奥羽三大関所のひとつ |
鼠ヶ関所跡には「勧進帳の本家」とあった。“勧進帳”といえば石川県 小松市の「安宅の関」が有名だけど、ここは本家と主張していた |
高松市屋島の源平古戦場。浜辺に陣を張る平家を 義経は背後の山から急襲。平家は大パニックに! |
屋島の「血の池」。武士たちが血刀を洗った為、 池が赤くなり血の池と呼ばれるようになった |
屋島の「義経鞍掛の松」。阿波・勝浦 から上陸した義経は、この松に鞍を 掛けて休息してから平家を奇襲した |
新潟県上越市・観音寺の兜(かぶと)池。北上する義経が観音寺に宿泊した際、夢枕に仏が立ち、 「身分を隠すため鎧や兜をこの池に捨てろ」と告げた。従った結果、無事に関所を突破できたという |
薄命の英雄、源義経は河内源氏・源義朝の九男で、母は常盤御前。京都出身。幼名は牛若丸で頼朝は12歳年上の異母兄。義経が生まれた同じ1159年、父義朝は「平治の乱」で清盛に戦いを挑むが敗走、再起を誓って東国へ逃れる途中で部下の裏切りで殺された。清盛は義朝の首を都で晒し、敵対した者をことごとく斬ったが、12歳の頼朝はまだ幼いということで助命され伊豆に流される。翌年、美しい常盤御前に対し、清盛は1歳の義経を助ける事を条件に妾になれと強要。常盤は我が子の為に清盛に従った。義経は6歳に成長すると鞍馬寺に預けられた。10歳の時に自分が源氏の義朝の子であると知り、以後、打倒平家を誓って武芸に励む。※鞍馬山で彼に武芸を教えた天狗は山伏を指すと思われる。 1174年(15歳)、平家の勢力圏から逃れる為に、遠く奥州平泉(岩手)の藤原秀衡を頼り、当地で6年を過ごす。1180年8月、頼朝が妻・政子の父・北条時政の力添えを受けて伊豆で挙兵。「富士川の戦い」で快勝し、黄瀬川(静岡清水町)で陣を張る頼朝の元に、義経は秀衡配下の佐藤忠信兄弟ら80騎と共に馳せ参じる。頼朝・義経は協力して平家を倒すことを誓いあった。 頼朝は平家との全面対決を前に、まず東国に強固な権力地盤を築く必要があった。カリスマを演出し、東国武士団の比類なきリーダーであることを内外に見せ付けるためには、家来の前で弟を特別扱いするわけにはいかない。ナンバー2は必要なかった。しかし政治的な駆け引きに縁がなかった義経は「東国武士の団結最優先」という兄の真意を察せなかった。この年、頼朝は弟に馬の引き役を命じるが、彼は他の家来と同格になるのが嫌でこれを断り、最終的には引き受けたものの頼朝を憤慨させた(頼朝爆発5秒前)。 頼朝の挙兵から1ヵ月後に、長野でも従兄弟の木曽(源)義仲が蜂起する。 1183年(24歳)、義仲は勝ちまくって快進撃を続け、平家を「都落ち」に追い込んだ。しかし、戦いに次ぐ戦いで兵たちは疲れきっており、しかも西国は飢饉で食料も少なく、義仲軍のモラルは完全に崩壊。彼らは都一帯で民衆への略奪や暴行を繰り返し「平家の方がマシだった」と人々の間に失望が広がる。頼朝は義仲軍の狼藉を“源氏の恥”と捉えて討伐を決意、まず状況を把握する為に先遣隊で義経を伊勢に置いた(この時、義経はまさかこれが鎌倉の見納めになるとは夢にも思わなかっただろう)。すると都の後白河法皇から「上洛して義仲を討って欲しい」と院宣(いんぜん)が出た。これを受けて頼朝は弟の範頼(のりより、義経の異母兄)を大将に大軍を派遣する。 ※「院宣」は法皇の公文書。ちなみに「勅書(ちょくしょ)」が天皇の公文書、「令旨(りょうじ)」が皇太子や親王の公文書。 1184年(25歳)、義経・範頼は伊勢で合流し都を目指す。迎え撃つ義仲は増水した宇治川の橋を落として対峙するが、義経軍は川を果敢に突破し、義仲軍を蹴散らした(宇治川の戦い)。義経は初陣で見事に勝利を飾り、京の人々から喝采された。 ●合戦、また合戦 こうして源氏側が内部抗争をしている間に、平家は再び力をつけて神戸まで迫り、一ノ谷に堅固な陣を張る。後白河法皇は新たに平家追討の院宣を発令。源氏軍は二手に別れ、範頼軍(主力部隊6万)が東から、義経軍(1万)が西から本陣を攻めた(一ノ谷の戦い)。平氏軍は必死に防戦し、源氏軍は突撃しては矢を浴びて撤退するなど、戦局はこう着状態に陥る。この戦況を一変させたのが義経率いる70騎の別働隊。彼らは本陣背後の崖の上から攻め降りてきたのだ!(義経の“ひよどり越え”。彼は鹿が降りるのを見て馬も可能と判断した)。平氏軍は突如として陣内に現れた奇襲部隊によって大混乱になり、我先にと海上を目指し四国・高松の屋島へ逃げていった。源氏軍は平家の主な武将の8割近くを討ち取る大戦果を挙げ、義経は京都に、範頼は鎌倉に凱旋した。そして頼朝は義経の縁談をまとめて「郷(さと)御前」(河越重頼の娘)と結婚させた。 ここが頼朝・義経の蜜月のピークだった。以後はボタンの掛け違いの連続。頼朝は朝廷から支配を受けない武家政権を目指していたので、頼朝の許可がなければ官位を貰えないシステムを作ろうとしていた(無許可で官位を得ることを家来に禁止していた)。しかし義経は、自分が官位を授かれば源氏全体の名声に繋がると考え、兄の許可を受けずに任官する。しかも役職が検非違使(けびいし、京都の治安機関のトップ。判官とも言う)。検非違使になることは鎌倉の政治に参加しないということ。頼朝の構想を身内の義経がブチ壊しにしたのだ。頼朝は弟の官位習得を売名行為と見なし、朝廷権力を凌駕する武家政権を目指している矢先に、官位を貰って喜んでいる義経の振る舞いに腹を立てた。(頼朝爆発4秒前) 1185年(26歳)、頼朝は義経を平氏討伐軍から外し、範頼に指揮を一任する。だが、追い詰められた平氏の抵抗は凄まじく、遥か関東より遠征してきた源氏軍は食料も乏しく戦線崩壊の一歩手前になった。瀬戸内海の制海権も依然として平氏にあり、頼朝はやむなく義経を再起用する。攻撃目標は屋島の平家本陣。張り切って四国へ出航しようとする義経だが、頼朝の重臣・梶原景時と次の2点で喧嘩になった。「逃げる時に備えて船の前方にもオールを付けるべき」と主張する景時に対し、義経は「臆病者め」と一蹴。暴風雨を理由に「嵐が去ってから海に出ましょう」という景時に、「この天候の中を攻撃して来ると思うまい。その油断をつくのだ」と義経も譲らない。食糧が不足し、兵士たちは自分の鎧(よろい)を売るほど窮しており、これ以上戦を先延ばしにできぬと義経は考えた。 義経はわずか5隻(150人)だけで、荒波に出航した。徳島・勝浦に到着した彼らは地元の武士を味方にしながら香川・高松に進撃し、屋島の平氏本陣を背後から夜襲した。大軍に見せる為に方々に火を放ちながら突撃する。海側からの攻撃だけを想定していた平氏軍はこの奇襲に動転し、またしても海へ一目散に敗走していった。海上で我に返った平氏は敵が少人数だと分かり引き返してきたが、矢戦の最中に景時の主力部隊が彼方から接近してくるのが見えたので、西の海へ退却していった(2月19日)。義経の兵は景時らを「今ごろ来ても遅いわ」と嘲笑し、景時はメンツが潰れた。 ※当時は現代と違って戦の時間が決まっており、夕刻には「今日の戦はこれまでじゃ!」と双方が休戦タイムに入った。この「屋島の戦い」では夕刻に平氏側が船に竿を立てて扇を差し「これを射てみろ」と挑発、源氏方の那須与一が見事射抜いて両軍から歓声が起きるという一幕もあった。平氏の兵は船の腹を叩いて敵の与一を称賛したという。このように戦の中にも信頼関係があり、馬を射るなど卑怯な手は恥とされた。正面から戦って打ち破ってこそが真の勝利であり、義経十八番の「背後からの攻撃」「寝静まった敵陣への夜襲」は、武士社会ではホントはとても不名誉なことだった(汗)。 ●壇ノ浦の戦い 源氏側には元々水軍がなく、海戦は苦手だった。しかし、勝利の気運に乗って一気に平氏を殲滅(せんめつ)すべく、平氏の独壇場とされる海戦にあえて挑んでいく。源氏軍は平家最期の本拠地・下関(彦島)に向かい、屋島合戦から一カ月後の3月24日、最終決戦「壇ノ浦の戦い」の幕が上がる。 開戦前、またしても義経と景時が衝突した。「先陣は私が引き受けます。義経殿は大将なので後方に控えて下さい」「何をおっしゃる、大将は頼朝公であり、私は貴殿と同じ立場だ。私が先陣を切る」。景時は聞こえよがしに独り言を呟く「ふん。生れつきこの殿は侍を率いる器ではないわ」。頭に血が昇った義経は刀に手をかけた「そなたこそ日本一の愚か者よ!」。景時も刀に手をかけ激しい口論になる。さすがに周囲の者が止めに入った「これ以上大事を前に争えば、平家につけ入る隙を与えますぞ!鎌倉公(頼朝)がこの騒ぎを聞いたら何と嘆きになるか」。頼朝の名を聞いて両者とも我に返った。義経は望み通りに先陣を切ったが、「部下に手柄を与えないリーダー」として東国武士の気持が離れていく。 戦端が開かれたのは壇ノ浦の複雑な潮流が安定する正午頃。当初の戦力比は平氏軍800隻、源氏軍300隻で圧倒的に平氏が有利。しかし、義経の政治工作が効いて紀伊・熊野水軍、伊予・河野水軍(頭目の孫が一遍上人)、阿波・田口水軍が源氏に寝返り、船数はほぼ互角になった。とはいえ、戦闘が始まると海戦に手馴れた平氏が巧みに潮流を利用して戦いを有利に進めていく。「このままではイカン」義経は劣勢挽回の為に当時はタブー(禁じ手)だった非戦闘員殺し、つまり武器を持たない漕ぎ手に矢を浴びせたのだ。これは馬を狙う事と同じで武士にあるまじき卑劣な行為とされていた(あの〜)。午後に入って潮の流れが逆になり平氏の船は押し流され、源氏軍の掟破りのダーティー・ファイトで漕ぎ手を失った平氏は全軍が身動きできなくなった。九州へ逃げようにも既に範頼の大軍が制圧しており、この状況を受けて平氏軍から裏切り者が続出、夕刻には勝敗が決定的になった。 平家側は鬼武者と呼ばれた平教経(のりつね)と知盛が最後まで奮戦していた。教経は手持ちの矢が尽きると両手に刀を握りしめて源氏の船に乗り込み、四方八方で斬りまくった。これを見た知盛は使者を教経に送り、「もう勝敗は期したのだから、あまり罪作りな事をなさるな。それとも良い敵でも見つけられたか」と伝えた。教経は“狙うは大将・義経のみ”と悟り、血まなこで義経を探し回った。ついに発見すると鬼神の形相で迫った為に、圧倒された義経はピョンピョンと船の間をジャンプして逃げてしまった(義経の八艘跳び)。教経は武器も兜も全部海へ捨てて吠える「見ての通り武器はない!勇気のある者は俺を生け捕りにしてみろ!」。しばらく誰もビビッて近づかなかったが、力自慢の3人組が刀を振り上げて襲い掛かった。教経は一人目を海へ蹴落とし、あとの2人を両脇に挟んで締め上げ「いざ汝等、死出の旅路の供(とも)をせよ」と海中へ道連れにした(享年25歳)。 平教盛・経盛の兄弟は互いの手をとり、鎧の上に碇(いかり)を背負って海に沈んだ。資盛、有盛、行盛の3人も手と手を組み碇を背負って海に跳び込んだ。清盛の妻時子は安徳天皇と草薙の剣(三種の神器)を抱いて身を投げ、女御たちも入水していく。至る所で平家一門が沈んでいった。 知盛は舟の舳先に立ってその一部始終を見届けた後、「もはや、見るべきものは全て見た」と呟き、体が浮かばぬように鎧を二重に着込んで波頭に消えた。(享年33歳) ところが、平家一門が自決しているのに、総大将の宗盛は入水する気配はまったくナシ。ただ船から四方を見渡すばかり。家来達はあまりに情けなく思い、宗盛の傍を走り抜ける振りをして背中をドンと押して海へ突き落とした。しかし、宗盛は手ぶらなので沈まず、泳ぎも達者なので結局は生け捕りにされた。義経は「女性は救うべし」と命令を出していたので、安徳の母・建礼門院徳子(清盛の娘)など数人が入水後に引き上げられた。 壇ノ浦合戦図 ●義経、茫然自失 鎌倉に大勝利の報告が入った当初、頼朝は弟に恩賞を与えようとしていた。だが、源範頼と梶原景時から義経に関する抗議の書状が届いた。範頼は「頼朝に報告せず何でも独断で物事を進める」「あまりに家来に厳しく些細なミスで処罰する」「自分に一任された九州の管理に介入してきた」と訴え、景時は「高慢なので誰も心から従っていない」「手柄は自分一人のものと考える」「法皇を頼朝より重んじる」「24名の家来が義経の真似をして勝手に官位を受けた」「私が忠告すれば私まで処罰される雰囲気」と激しい怒り(というか憎しみ)をぶちまけた。頼朝はかつて戦場で景時に命を救われたことがあり、これらの中傷をまともに信じてしまう。(頼朝爆発3秒前) 頼朝は考える。弟をどう処断すべきか。確かによくやってくれたが、新時代に向けて大切なのは東国武士団の絶対の団結だ。結束を乱すスタンドプレーがこのような深い亀裂を残した。将兵たちに規律を守らせる為に、ここは厳しくする必要がある。頼朝は決断を下した。「許可なく官位を受けた24名は鎌倉を追放」「頼朝に忠を尽くす者は、今後、義経に従ってはならぬ」。 仰天したのは義経。裏切る気持ちは全くないと弁明書を鎌倉に送った。だが、これがマズかった。この時点で会いに行くべきだった。頼朝は「これまで官位の件など何も報告して来ないのに、こんな時だけ送ってくるとは。それもわずか一通!これで済ませるつもりか!」(頼朝爆発2秒前) 義経は宗盛を鎌倉へ護送しつつ気分は凱旋モード。弁明書さえ届けばこんな誤解はすぐ解け、功績を讃えてくれると信じきっていた。ところが、鎌倉の一歩手前で「鎌倉へ入ることまかりならぬ。しばし待て」と警備に足止めされてしまう。腰越で兄の怒りが解けるのを待つが、半月経っても音沙汰なし。義経はもう一度筆をとり『腰越状』を記す。 ※『腰越状』抜粋…「当然恩賞があるべきはずのところ、恐ろしい讒言(ざんげん、悪口)によって、莫大な勲功を黙殺されたばかりか、義経は犯した罪もないのにお咎めを受け、ただ為すことなく血の涙を流しております。事実を調査せず、鎌倉の中へさえ入れられませんので、私の思うところを申し上げることも出来ず、むなしく数日を送りました。このような事態に至った今、兄上の顔を見る事も出来ないのならば、骨肉を分けた兄弟の関係が既に絶え、前世からの運命も極めて儚く、縁は何の役にも立たないのでありましょうか。亡き父以外に、誰が私の悲しい嘆きを申し開いてくれましょう。誰が憐れみをかけてくれましょうか」 腰越状を読んだ頼朝は胸を動かされ(爆発3秒前に戻る)、京都に帰して少し様子を見ることにしたが、義経は真心を込めた『腰越状』が無視されたと思い込み、ついにブチ切れた。腰越を去る時に「この恨みは平氏への恨みより深い」「頼朝に恨みがある者はついてこい」と悪態をついてしまう。これはすぐさま頼朝に伝わり、義経に与えた平氏の旧所領24ヶ所を全部没収した。(いっきに頼朝爆発1秒前へ) 義経は近江(野洲市大篠原)で宗盛を斬首し京都に戻る。義経の配慮で宗盛父子の胴は一つ穴に埋葬された。都に入ると野心あって頼朝と対立していた叔父・源行家が「こうなれば西に独立国を作しましょうぞ」と接近。頼朝は景時の子・景季を都に送り、義経と行家が手を組むのか調べさせる。頼朝が「行家討伐令」を伝えて反応を探ると、「今は病気なので、治り次第に作戦を練る」との返事。頼朝は弟が行家と内通し“時間稼ぎ”をしていると見なし義経追討を決断する。(ちゅど〜ん!頼朝メガ爆発!) 4ヶ月後、義経は刺客60騎の襲撃を受けて兄との関係は修復不可能と悟り、行家と結んで挙兵に踏み切った。後白河法皇に頼朝追討の発令を求め、従わないなら皇室全員を引き連れ九州で挙兵すると告げ、法皇は「頼朝追討」の宣旨を下した。しかしその直後、朝敵にされて怒った頼朝が、6万の大軍を都に送ると聞き及び、態度を180度変えて、今度は頼朝に求められるまま6日後に「義経追討」の宣旨を下す。(このあたり、後白河法皇が“日本一の大天狗”と頼朝に言われる由縁) 義経は焦った。とにかく味方の武士が集まらない(200騎オンリー)。彼に恩賞として用意できる所領がなかったことが何より痛かった。西国で再起を図るべく大阪湾に出た義経だが“平家の呪い”と言われる暴風に吹き戻され、元々少なかった家来とさらに離れ離れになる。義経は女人禁制の吉野山に身を隠す前に、かつて平氏追討の戦勝祝賀会で見そめた愛妾の白拍子(踊り子)・静御前(17歳)と別れる。都に戻ろうとした静は従者に裏切られて荷を奪われ、頼朝勢に捕らえられた。 1186年3月(27歳)、鎌倉に送られた静御前は義経の逃亡先を尋問されるが、彼女は本当に何も知らない。ならばと、世に名高い舞の名人ゆえ、源氏の繁栄を祈る舞を鶴岡八幡宮に奉納せよと命じられる(政子も“噂の彼女の芸を見たい”と頼朝にねだっていた)。 静は自分たちを酷い目にあわせた頼朝の為に舞うなど恥辱の限りと、体調の不具合など難癖をつけて固辞していたが、頼朝に厳しく強要されて、とうとう舞うことになった。ただし、彼女は頼朝の為ではなく、堂々と義経を慕う心を歌い舞った。居並ぶ鎌倉武士が身を乗り出して聴き入る。 「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 (吉野山で白雪を踏み分け、山深く入ってしまったあの人の足跡さえも今は恋しいのです) 「しづやしづ 賤(しづ)のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」 (おだまき=麻糸の玉がくるくる回転するように、「静、静」と呼ばれた昔に戻れたらどんなに良いでしょう) 彼女のプライドを見せ付けた命がけの抵抗だった。一同は感動し袖を濡らしたが、頼朝は立腹する。「わしが聞いていることを知っていながら、反逆者を慕い別れの歌を舞うとはもってのほかじゃ!」。だが政子は違った。「(政子と頼朝も駆け落ちした故)静の気持はよく分かります。愛しい人と離れる不安は耐え難きもの。ここは別れてなお慕う彼女の貞節を誉めるべきです」。政子は自分が着ていた衣を褒美として与えた。 妻に諭されて頼朝の勘気は収まったが、静はまだ自由の身になれなかった。子を宿していたので鎌倉で産むよう命じられたのだ。頼朝は「女子なら見逃すが男子の場合は諦めよ」と、若い静に覚悟をするよう伝える。果たして生まれてきたのは男子だった。泣き叫ぶ静の腕から赤子は取り上げられ、由比ヶ浜の海に沈められた。静は半狂乱になる。頼朝、非情。 9月、半年の鎌倉幽閉を経て静は自由の身となり京都へ帰った。静が鎌倉を去る時、政子や大姫(頼朝の長女)たち女性陣は、彼女に同情してたくさん贈り物を送った。※大姫は父・頼朝に、愛する許婚者・源義高(木曽義仲の子)を謀殺されており、自分の運命を重ねたようだ。 ●終焉の地、奥州へ 一方、義経は興福寺や延暦寺など寺社を転々と移っていた。京や奈良を焼いた平氏を倒した義経は、僧侶にとって英雄であり、頼朝に「かくまうなら兵を送る」と脅迫されても、寺社はまず義経を安全圏まで逃がしてから「既に出発しました」と事後報告した。同年、行家が捕縛され斬首。 1187年、ますます捜査の手は厳しくなり、追っ手が迫った義経は、少年時代に6年間を過ごした奥州平泉の藤原氏を最後の頼みとして、山伏姿に変装し北上する(同行者はたった6人)。 藤原秀衡はまだ存命しており、義経が朝敵となっているのを知りながら、我が子同然に迎え入れてくれた。義経は数年ぶりに心から穏やかな時間を過ごす。 ※義経と繋がりのある女性といえば静御前ばかりがスポットを浴びるけど、実は正妻の郷(さと)御前も特筆に値する女性だ。奥州で義経は家族3人で幸せに暮らしているが、これは郷が幼い娘を連れて、はるばるやって来てくれたからだ。実は義経が頼朝との戦を決心した時に、郷は一度離縁され、故郷の武蔵国に帰るよう言い渡されていた。これは謀反人の自分と結婚していたら、郷の実家・河越氏に害が及ぶと心配したからだ(事実、親族から戻って来いと言われていた)。しかも乳児がおり、過酷な逃避行の道連れはムリ。もともとこの縁組は頼朝が取り決めたものであり、河越氏に咎めがあるのも変な話だ。しかし、郷の父は領地を没収され、兄は出仕停止の処分を受けている。つまり、郷は離縁されたのに実家に戻らず、「自分は正妻だから」と本人の意思で奥州へ向かったことが問題になったのだろう。初めは政略結婚でも、最後は心から愛し合っていた。 だがしかし、8ヶ月で藤原秀衡が病没。秀衡は遺言で息子・泰衡に、「義経を将軍に立て鎌倉に対抗し、彼の命を全力で守れ」と残した。奮い立った義経は再起を図って西国の武将に決起を促す使者を送ったが、この使者がソッコーで捕まり、逆に奥州に潜伏していることがバレてしまう。後継者となった泰衡は頼朝と朝廷の双方から義経の身柄を引き渡すよう命じられたが、頑なにこれを拒否して義経を守った。 1189年、業を煮やした頼朝は、泰衡に対して大軍を送ると脅迫し、奥州藤原氏の滅亡を恐れた泰衡はついに頼朝に屈した。4月末に泰衡は500騎で義経の住む衣川の館を襲撃し、弁慶ら側近が最期の抵抗をしたものの、「もはやこれまで」と義経は仏堂に入って法華経を読み、共に死ぬと願う妻子を斬った後、「鎌倉の犬侍ども、義経の死に様をしかと見とどけよ」と火をかけ自害した。まだ30歳の若さだった。弁慶は無数の矢が刺さり仁王立ちのまま絶命していており、馬にぶつかって倒れた。義経を最後まで支えたのは、乱暴ぶりで寺を追放された弁慶や元山賊の伊勢三郎義盛らわずかに10人。いずれも組織と相容れないアウトローたちだった。 ※藤原泰衡は義経を討ったが、結局頼朝は5ヵ月後に28万という超大軍(関ヶ原合戦で戦った18万よりさらに10万も多い)を派兵して奥州藤原氏を滅ぼした。“どうせ攻められるなら義経を殺すべきでなかった”と泰衡は深く後悔したのではないか。 1192年、天下を統一した頼朝は鎌倉幕府を開いたが、そのわずか7年後(1199年)に落馬が原因で死んだとされている。ハッキリとした事情が分からないのは、吾妻鏡から頼朝の死の前後の部分がごっそりと欠如しているから。それゆえ北条家による暗殺説も根強い。5年後(1204年)に長男の頼家が、1219年には次男の実朝が暗殺された。平家は清盛が太政大臣に昇りつめて僅か18年で滅亡したが、頼朝もまた幕府を開いてから27年、3代でその血は絶えた。 義経は悲劇の英雄として多くの伝説が残っている。義経の影武者・杉目小太郎は平泉にて義経の身代わりで自害し、北海道に逃れさせたという(小太郎の供養塔が宮城・金成町津久毛にある)。実際にアイヌの村に「義経神社」があり義経の木像が祀られているなど、「北海道逃亡説」は単純にトンデモ話と言えないものがある。北海道西部の積丹(しゃこたん)半島の神威(かむい)岬には、義経がここから旅立ったこと、その折に義経を慕っていたアイヌの娘チャレンカが別れを悲しんで身投げしたとの伝承もある。明治に入ると、北海道からさらに大陸へ渡り、チンギス・ハンとなって世界最大の帝国を作ったとする説まで生まれた。 義経に生きていて欲しいという後世の人々の願いが、これらの伝承からひしひしと伝わってくる。 ●墓 平泉・高舘で自刃した義経の首は鎌倉へ送られたが頼朝は首実検をせず、代わりに梶原景時、和田義盛にさせた。確認後に捨てられた首を、まだ牛若と名乗っていた鞍馬時代の師・聖弘上人が貰い受け、神奈川・藤沢の白旗神社付近に埋葬したという。やがて塚の盛り土は消えて宅地になり、“首洗い井戸”は現存するものの、首塚碑は動かされ元々の正確な場所は不明になった。胴体の方は、親交のあった沼倉小次郎の手で、彼の領地・宮城の栗駒町に運ばれた。そして沼倉判官森に五輪塔(胴塚)を築いて丁重に葬ったとされる。判官森の裏手の森は弁慶森と呼ばれている。
義経公没後810年となる1999年、神奈川に葬られた「首」と宮城の「胴」の霊を合わせ祀る御鎮祭が白旗神社で行われ、境内に鎮霊碑が建立された。
また、淡路島の東海岸「静の里公園」(淡路市)にも義経の墓があり、静御前の墓と仲良く並んでいる(町史跡指定)。静は義経の死を知ると菩提を弔う為に剃髪して尼となり、同地に隠棲したという。この地は頼朝の妹の夫・一条能保の荘園であり、彼女は一条家に預けられて当地に眠ったとも、静の母・磯禅師が淡路島の出身であり縁をつたって移り住んだとも伝えられている。
《淡路島以外にも静御前の墓は至る所に!》どの墓の伝承もそれなりに説得力がある。 ●埼玉・栗橋町の光了寺。過去帳に静の戒名「巌松院殿義静妙源大姉」があり、1189年9月15日に他界したとある。寺宝に後鳥羽院が雨乞いの褒美で静に与えた舞の衣装もあるという。付近に「静ケ谷」という村があり、彼女は奥州へ向かう途中、この地で義経の死を知ったという。 ●長野・大町市社地区松崎の牛立山薬師寺。戒名は「勧融院静図妙大師」。付近に母・磯禅尼の供養碑もある。 ●香川・大川郡長尾町の長尾寺。「静御前得度乃寺」の石柱あり。町内の静屋敷跡に、かつて母と住んでいたらしい。10月13日を命日としている。 ●香川・木田郡三木町。下高岡の願勝寺と井戸鍛冶池西堤防の側にあり、静の死を看取った下女の琴柱も横に眠っている。命日は1192年3月14日。24才没。母の墓は井戸川橋の東側。 ●新潟・栃尾市の高徳寺。長旅の疲れと病で、この地で息を引き取ったという。北条政子が静を供養する為に建てた庵が高徳寺になった。1190年4月28日没。 ●福島県郡山市には、義経の訃報を聞いた静が1189年3月28日に身投げしたという「美人ヶ池」や供養の為の静御前堂がある。(この日付だとまだ義経は死んでないけど…) ●前橋にも静の墓。 ※京都・竹野郡網野町磯は静の生まれ故郷とされており「静神社」が建立されている。 《雑感》 「朝廷の権威を無価値」にする武家政権を築こうとした頼朝と、「朝廷の権威を後ろ盾」に源氏の力を巨大にしようと考えた義経。2人の目指す方向はあまりに違っていた。また、頼朝のバックボーンである東国武士団は完璧な一枚岩ではなく、何より結束を強化することが最優先課題であり、軍全体が一丸となって行動することに意義があった。「皆で勝ち取った勝利」、これが重要であり、スタンド・プレーは必要ない。どんなに武勲を挙げても、東国武士団との間に深い亀裂を残しては意味がないのだ。まして、身内にさえ羨望される官位の任官は最も慎重を要すること。これらについて義経はあまりに無頓着すぎた。 頼朝は弟の所領を没収して東国武士たちに分け与えたが、義経には屈辱的でも、「頼朝公はそこまで我ら東国武士団を思って下さっている」と支持基盤はいっそう堅固になった。逆に言えば、弟にそこまで鬼に徹せねばならぬほど、長引く戦乱で団結力が揺らいでいたのだ。しかし、義経には兄の胸中を察することが出来なかった。兄もまた弟が純粋に誉めてもらいたくて奮闘している気持を信じきる余裕がなかった。それがこの兄弟の最大の不幸だろう。 いずれにせよ、義経本人がどれほど人間的魅力に溢れていたかは、彼をよく知る周囲の人間が証明している。悲惨な境遇でも最期まで裏切らなかった弁慶たち、身の危険を顧みずに義経を愛し抜いた郷御前、静御前の2人の女性。彼ら、彼女達にとって、義経はそこまで愛するに値する人物だったのだ。 ※1193年、範頼も義経同様に謀反の嫌疑をかけられ頼朝に殺された。頼朝、身内を殺しすぎ。 ※梶原景時は義経以外にも他人を失脚させることが度々あり、頼朝の死後は鎌倉から追放された。後に新将軍の擁立を画策して殺された。 ※当時は一夫多妻制。義経は側室が24名もいたが、これは一度でも関係を持った相手は必ず生活の面倒を見るという、彼の情の深さと言われている(好意的解釈)。 ※比叡山の僧兵・武蔵坊弁慶は千本の刀を奪い取る願をかけ、ちょうど千本目が義経だった。勝てば刀をゲット、負ければ相手の家来になるという約束で五条大橋にて戦い、義経のスピードに対応できず完敗。以後、最強の側近となった。 ※『平家物語』は義経を「色白で反っ歯の小男」と記しており、大山祇神社に奉納された甲冑から身長は約150cmと言われている。母親の常盤は絶世の美女と記録されているので、義経美男子説はそこからきているようだ。 ※義経の伝説の半分は、同時代の近江の源氏・山本義経のものという説がある。 ※合戦時は赤旗が平氏カラー、白旗が源氏カラー。この“赤と白”の戦いは大晦日の紅白歌合戦に継がれている(同番組は当初、源平歌合戦とも言われていた)。 ※義経が中国の兵法書『六韜(りくとう)』の「虎巻」を学んだことから、成功の書を「虎の巻」と呼ぶ。 ※ドラえもんの静ちゃんの名字は「源」。つまり、源義経と静御前から名付けられた。 |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
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