よくぞ来日して下さいました!ウェルカム・トゥ・ジャパン! |
1998年、鑑真の唐招提寺は世界遺産に認定された | 創建は759年。約1250年も昔! | 受戒のための最も神聖な場所、戒壇堂 |
本尊を安置する大きな金堂 | 鑑真和上の墓所へ続く道。木漏れ日が良い感じ | こちらが墓所の入口。ちょっと緊張 |
森林浴をしながら真っ直ぐ進むと墓前に出る | まるで京都の苔寺のような美しさ |
初巡礼時。石段の上にお墓(2000) | 10年後に再訪。和上さま、お久しぶりです!(2010) | 墓前には巡礼者がいっぱい! |
和上のお墓のアップ。墓所は唐招提寺境内の北東に位置する(2010) | 背後からも撮影。この角度だと山中に見える |
平城遷都1300年祭の目玉として復元された、実物大・遣唐使船!飛鳥・奈良時代の渡航は命がけ!(2010) |
唐の僧で、日本律宗の開祖。上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身。701年、13歳の時に父に連れられ大雲寺を訪れた際、仏像を見ているうちに身体の奥底から感動が込み上げてきて出家したという。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。そんなある日、鑑真のもとへ2人の日本人僧侶が面会を求めてきた。
《“名僧”探して苦節10年〜栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)》
「戒律」という言葉には2つの意味があり、各自が自分で心に誓うものを「戒」、僧侶同士が互いに誓う教団の規則を「律」という。奈良時代初期、日本の仏教界にはまだ公の戒律がなく、僧侶は納税の義務が免除されたことから、重税に苦しむ庶民はどんどん僧侶になっていた。朝廷は税収の減少に頭を悩ませていたが、国策として仏教を信奉している以上、僧を弾圧する訳にもいかない。とはいえ“にわか僧侶”たちには仏法を学ぶ姿勢もなく、風紀は乱れまくっており由々しき事態だった。 仏教の先進国・唐では、新たに僧を志す者は、10人以上の僧の前で「律」を誓う儀式『授戒』を経て、正式に僧として認められた。この制度を朝廷は日本に導入しようと画策する。つまり、国家が認めた授戒師から受戒した者だけを僧に公認すれば、一気に僧の数が激減するし、僧侶個々人の質も高くなると考えたのだ。
ところが国内には正式な授戒の仏法を知る者が誰もいなかった。そこで興福寺の2名の僧侶、栄叡と普照が「遣唐使船で渡航し、授戒を詳しく知る名僧を連れて来るべし」と勅命を受けた。
当時、遣唐使は文字通り命がけだった。派遣された12回のうち、無事に往復できたのは5回だけ。半分以上が遭難していた。不安はあったが、世の荒廃を憂いた2人は勇気を出して乗船した。特に栄叡は農家出身で重税の厳しさも分かっており、日本の仏教界に行動規範となる「律」が導入されれば、節度ある生き方が美徳とされ、朝廷にも良い影響が広がって善政に繋がり、社会が良くなって欲しいと願った。
733年、2人を乗せた第9次遣唐使は無事に大陸に到着したが、それからが大変だった。唐は国民の出国を禁じており、密出国の最高刑は死罪だった。国法を破ってまで日本に来てくれる名僧など簡単には見つからず、遭難の危険がある渡航には弟子や周囲が反対した。壁にぶつかって行き詰まり、苦悩する栄叡と普照。しかし、もっと大変な知らせが届いた。予算不足で次の遣唐使が来ないというのだ!「あり得ない!」激しく動揺しながらも、とにかく授戒師を探し続ける2人。唐の各地をさすらい、7年目には極度のホームシックから任務を諦めて帰国方法を模索した。それでも踏ん張って9年目に入った時に、2人は過去4万人に授戒を授けてきた名僧・鑑真の存在を知る。鑑真は仏道を究めていただけでなく、貧民や病人の救済など社会活動に力を注ぎ、民衆から大師として仰がれていた。「うがー!もう、この人しかいないッ!」。
鑑真には多くの高弟(こうてい、トップクラスの弟子)がいて、各々の高弟がさらに千人規模の弟子をもっていた。栄叡と普照は最初から鑑真に渡日を懇願したのではなく、高弟の中から誰かを授戒師として遣わせて欲しいと熱望した。2人の叫びに近い思いを聞いて鑑真は強く心を動かされ、弟子たちに渡日の希望者を尋ねた。しかし、弟子達は生命の危険を心配して沈黙する。「ならば、私が行きましょう」。驚き反対する弟子達に鑑真は続けて言う「仏法の為に生命を惜しむことがあろうか。お前達が行かないのなら私が行く!」。師の揺るがぬ決意を聞き、弟子21人が随行することになった。すでに鑑真は54歳。さっそく海を渡る準備を進めた。 ところが!せっかく鑑真という素晴らしい名僧の快諾を得ながら、彼らはなかなか日本へ帰れなかった。隣国の日本があまりに遠かった!唐の第6代皇帝玄宗は鑑真の人徳を惜しんで渡日を許さなかった。必然的に、出国は極秘作戦となる。東シナ海を越えるのも命がけだが、出国するまでがまた大変だった。
《6度の渡日大作戦〜挑戦と挫折の11年》
・第1回…743年(55歳)。上海南方の霊峰・天台山に参詣するフリをして日本に進路をとる作戦を立てるが、渡航を迷っていた弟子が密告。しかも「日本人僧の正体は海賊」というトンデモ情報を港の役人に流した為に、栄叡と普照は検挙され4ヵ月を獄中で過ごす。
・第2回…744年(56歳)。頑丈な軍用船を購入し、仏像や仏典を山ほど積み込み、彫工、石工など85人の技術者・職人を乗せて出航!→暴風雨で遭難。船体を修理し再び外洋に挑むも座礁。寧波(ニンポー)付近へ無念のリターンとなった。
・第3回…744年。態勢を整えて再び出航しようとしたところ、鑑真の渡日を惜しむ何者かの密告で、栄叡が再び投獄され失敗。鑑真は栄叡を助ける為に奔走し、最終的に栄叡は「病死扱い」で獄中から救出された。
・第4回…744年。長江近辺からの出航は監視が厳しく困難となり、福州(台湾の対岸)から渡航しようと南下する。しかし、またしても弟子が鑑真を引留める為に当局へ密告。鑑真は官憲に捉えられ揚州まで送還される。一方、栄叡と普照は逃亡し南京以西の内陸部に潜伏する。
・第5回…748年(60歳)。ブラックリストに載っていた栄叡たちは依然監視下にあったが、隙をついて出航する。この時は極悪巨大暴風雨の直撃を受け、半月間も漂流し、遠く海南島(ベトナム沖)まで流されてしまう。そして悲惨なことに、揚州に引き返す途中で、過酷な旅と南方の酷暑で体力を消耗した栄叡が他界する。遣唐使船で大陸に来て15年、ここまで頑張って来たが、栄叡はついに祖国の地を踏めなかった。親友・普照や鑑真は彼の死を心の底から悲しみ、鑑真自身もまた眼病で失明してしまう。
・第6回…753年(65歳)。ついに日本から20年ぶりに第10回遣唐使がやって来た!日本側は帰国便で鑑真と弟子5人を非合法で連れ出す作戦に出る。遣唐使船は4隻600人の大船団。「1隻でも日本にたどり着ければ仏法を伝授できるように」と鑑真らは別れて乗船した。ところが出航直前になって、唐側官憲の厳重な警戒を恐れた遣唐大使が「やばい!絶対バレる」と鑑真らを下船させてしまう。だがこの時、副大使が独断でコッソリ自分の船に鑑真一行を乗せた(お手柄!)。
11月16日出航。沖縄、種子島と東シナ海を北上していく。嵐に遭遇して大使の船は南洋に流されたが、副大使の船は持ちこたえ、1ヶ月後の12月20日に鑑真と普照は薩摩の地を踏んだ。第1回の密航計画から11年、6度目の正直で悲願が達成された。
翌754年2月4日(66歳)、鑑真は大阪難波、京都を経て平城京に到着!行く先々で熱烈な歓迎を受けた。鑑真は朝廷から仏教行政の最高指導者“大僧都”に任命される。4月、東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇ら440名に国内初となる授戒を行なう。755年(67歳)、常設の授戒施設となる東大寺戒壇院を建立。戒壇院の地下には仏舎利(釈迦の遺骨、米粒ほどの大きさ)が埋められており、ここで250項目の規律を守ることを誓い受戒した者だけを国は僧侶と認めた。これで乱れていた仏教界の風紀は劇的に改善された。
…だが、鑑真と朝廷の蜜月はこの時がピークだった。鑑真は僧侶を減らす為に来日したのではない。正しく仏法を伝えた上で、多くの僧を輩出するつもりだった。彼は全国各地に戒壇を造る為に仏舎利を3000粒も持参していた。一方、朝廷の本心は税金逃れの出家をストップさせること。両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われた。鑑真は自分が財源増収のため朝廷に利用されたことを知る。あの命をかけた渡航や栄叡の死は何だったのか。「こんなハズでは…」既に70歳。海を渡って唐に戻る体力はなかった。
759年(71歳)、そんな鑑真の境遇を知った心ある人が、彼に土地を寄進してくれた。鑑真は私寺となる『唐招提寺』を開き戒壇を造る。「招提」は“自由に修行する僧侶”という意。この非公式な戒壇で授戒を受けても、国からは正規の僧とは見なされなかったが、鑑真を慕う者は次々と寺にやって来た。鑑真はまた、社会福祉施設・悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児を世話するなど、積極的に貧民の救済に取り組んだ。
※同寺の敷地から鑑真の時代の食器が発掘され、そこには位のない一般僧侶を表す「大衆」の文字が書かれていた。
763年3月、弟子の忍基は日本初の肖像彫刻となる鑑真の彫像を彫り上げた。その2ヵ月後、鑑真は永遠の眠りにつく。西に向って結跏趺坐(けっかふざ、座禅)したまま息を引取ったという。享年75歳。来日から10年、唐招提寺創建から4年目の春だった。中国にいた54歳のあの日、2人の日本人僧侶が面会に来るまで、異国の私寺に骨を埋めることになるとは想像もしなかっただろう。今でも鑑真の弟子達は唐招提寺から全国へ布教の為に巣立っている。1250年前、こんな聖者が日本にいた。
※鑑真一行が乗り合わせた第10回遣唐使の帰国便4隻はまさに運命の分かれ道。大使の旗艦は南方マレー半島まで暴風に流され、漂着後は地元民と全く言葉が通じず、乗船者約200人の大半が殺された。
※帰国後の普照は東大寺、西大寺に入る。旅をしていた時の辛い飢餓体験からか、759年(帰国6年後)、旅人の為に都郊外の街道に果樹を植えるよう朝廷に進言している。
※761年、九州の大宰府・観世音寺と東国の下野国(栃木県)薬師寺にも戒壇が置かれ、日本の東西で受戒が可能になった。
※2010年まで唐招提寺は本尊を安置する金堂の解体修理が行なわれている。
※鑑真が中国で住職を務めていた揚州・大明寺は1966年に文化大革命で破壊され僧侶は追放された。その14年後、奈良の唐招提寺から国宝・鑑真和上座像が荒廃した大明寺に「里帰り」として運ばれた。この彫刻を拝観する為に21万人が訪れ、これを機に100名の僧侶が大明寺に戻って、立派に再建された。鑑真は千年以上経っても、まだ仏法に貢献しまくりだ。
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《あの人の人生を知ろう》 | ||
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