国内に句碑が500基以上もある、愛されまくりの“昭和の芭蕉” | 19歳の山頭火 | 56歳、死の前年の山頭火 |
7年間を過ごした『其中庵』にて 「雨の日は雨を聴く」 |
JR新山口駅前の山頭火像 「まったく雲がない笠をぬぎ」と台座に復元自筆で刻まれていた |
「何を求めて風の中ゆく」 「あたたかく人も空も」 |
山頭火の生誕地。石碑と投句箱があった (山口県防府市) |
清酒『山頭火』が 供えられていた |
「空へ若竹のなやみなし」 「酔うてこうろぎと寝ていたよ」 |
愛媛県松山市の山頭火終焉の地へ(2008) | 山頭火が人生の最後にたどり着いた場所 | 彼はここを「一草庵」と名付けた |
この庵を紹介してくれた知人に捧げた句 「おちついて 死ねそうな 草枯るる」 |
山頭火は8ヶ月後に他界した |
一草庵を横から。後方部分は後世に増築された ので、元の小さな庵に戻す予定とのこと! |
大正・昭和の俳人。季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を詠んだ。本名は正一。山口県防府の大地主の家に生まれる。父は村の助役を務めたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、これに苦しんだ母は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げた。井戸に集まった人々は「猫が落ちた、子供らはあっちへ行け」と山頭火を追い払ったが、彼は大人たちの足の間から母の遺体を目撃し、心に深い傷を残す。現・防府高校を首席で卒業した後、早稲田に入学。しかし22歳で神経症の為に中退して帰郷する。この頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しており、立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、彼は父と酒造業を開始する(24歳)。27歳で結婚、子を持つ。
10代中頃から俳句に親しんでいた山頭火は、28歳から“山頭火”を名乗って、翻訳、評論など文芸活動を開始。31歳、俳句を本格的に学び始め、俳句誌に掲載されるようになる。34歳、実力が認められて俳句誌の選者の一人になるが、翌月に「種田酒造場」が倒産(酒蔵の酒が腐敗するなど2年続きで酒造りに失敗した)。父は家出し、兄弟は離散する。山頭火も夜逃げ同然で妻子を連れ九州に渡った。翌月、古書店(後に額縁店)を熊本市内に開業するがこれも失敗。36歳、弟が借金に耐え切れずに自殺。37歳、行き詰った山頭火は職を求めて単身上京し、図書館で勤務するようになる。38歳、熊本にいる妻から離婚状が届き判を捺した。40歳、神経症の為に図書館を退職。翌1923年に関東大震災で焼け出され、熊本の元妻のもとで居候となる。 42歳、熊本市内で泥酔した山頭火は市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こす(生活苦による自殺未遂と言われている)。市電の中で転倒した乗客たちは怒って彼を取り囲んだが、現場に居合わせた新聞記者が彼を救い禅寺(曹洞宗報恩寺)に放り込んだ。翌年これが縁で山頭火は出家して耕畝(こうほ)と改名、郊外の味取(みとり)観音堂の堂守となった(43歳)。生きる為に托鉢(たくはつ)を続けて1年余が経った1926年(44歳)、4月に漂泊の俳人尾崎放哉が41歳の若さで死去。山頭火は3歳年下の放哉の作品世界に共感し、句作への思いが高まり、法衣と笠をまとうと鉄鉢を持って熊本から西日本各地へと旅立った。この行乞(ぎょうこつ、食べ物の施しを受ける行)の旅は7年間も続くことになり、その中で多くの歌が生まれていく。 最初に向かったのは宮崎、大分。九州山地を進む山頭火は旅始めの興奮をこう詠んだ-- 「分け入っても分け入っても青い山」。 続いて中国地方を行乞し、46歳で四国八十八ヶ所を巡礼。小豆島では憧れの放哉の墓を訪れた。1930年(48歳)、思うところがあり過去の日記を全て燃やす-- 「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」「こころ疲れて山が海が美しすぎる」。 1932年、50歳を迎えた山頭火は、肉体的に行乞の旅が困難となり、句友の援助を受けて山口県小郡の小さな草庵に入り「其中庵(ごちゅうあん)」と命名する。湯田温泉にも近く、ここに7年間落ち着くことになる。深酒は相変わらずで、当初は近隣の人々から不審な旅僧と見られていたが、高名な俳人が山頭火を讃えたこと、其中庵での句会に多数の句友が集まったことから、次第に彼への接し方が温かくなっていった。 ※山頭火の酒豪ぶりはハンパじゃなかった。本人曰く泥酔への過程は「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」であり、最初の「ほろほろ」の時点で既に3合だった。酒と俳句については「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」と語っている。 そしてこの年、出家からこれまでの作品をまとめた第一句集『鉢の子』が刊行される。九州、四国、中国地方を歩き続けた日々、山頭火の魂の遍歴がここに刻まれた。 ●第一句集『鉢の子』(抜粋)1932年 生死の中の雪ふりしきる 笠にとんぼをとまらせてあるく 歩きつづける彼岸花咲きつづける まっすぐな道でさみしい また見ることもない山が遠ざかる どうしようもないわたしが歩いている すべってころんで山がひっそり つかれた脚へとんぼとまった 捨てきれない荷物の重さまへうしろ あの雲がおとした雨にぬれている こんなにうまい水があふれている まったく雲がない笠をぬぎ 墓がならんでそこまで波がおしよせて 酔うてこうろぎと寝ていたよ 雨だれの音も年とった 物乞ふ家もなくなり山には雲 よい湯からよい月へ出た 笠へぽっとり椿だった 続けて翌年の暮れに第ニ句集が刊行された。 ●第ニ句集『草木塔(そうもくとう)』(抜粋)1933年 水音しんじつおちつきました すッぱだかへとんぼとまろうとするか かさりこそり音させて鳴かぬ虫が来た 何が何やらみんな咲いている 山のいちにち蟻もあるいている 雲がいそいでよい月にする (帰庵)ひさびさにもどれば筍によきによき 52歳、遠く信州に眠る江戸後期の俳人・井上井月(せいげつ)の墓参の為に東に向かう。井月は元長岡藩士。武士を捨てた放浪俳人で乞食井月と呼ばれた。しかし、信州に入ったところで肺炎となり緊急入院。墓参は果たせなかった。この秋、日記に「うたう者の喜びは力いっぱいに自分の真実をうたうことである。この意味において、私は恥じることなしにその喜びを喜びたいと思う」と記す。1935年(53歳)、第三句集を刊行。 ●第三句集『山行水行(さんこうすいこう)』(抜粋)1935年 夕立が洗っていった茄子をもぐ 山のあなたへお日さま見おくり御飯にする お月さまが地蔵さまにお寒くなりました 落葉を踏んで来て恋人に逢ったなどといふ ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない 何もかも雑炊としてあたたかく 閉めて一人の障子を虫が来てたたく ともかくも生かされてはいる雑草の中 山頭火は第三句集発刊から半年後の8月、睡眠薬(カルモチン)を多量に飲み自殺未遂を起こす。眠ってる間に体が拒絶反応して薬を吐き出し、一命を取り留めた。年末の日記に次の如く刻む「この一年間に私は十年老いたことを感じる。老いてますます惑いの多いことを感じないではいられない。かえりみて心の脆弱(ぜいじゃく)、句の貧困を恥じ入るばかりである」。 1936年(54歳)、第四句集『雑草風景』発刊。この年は関西、東京、新潟、山形、仙台、そして遠く岩手平泉まで旅をした。「ここまで来し水飲んで去る」(平泉にて)。 ●第四句集『雑草風景』(抜粋)1936年 日かげいつか月かげとなり木かげ なんぼう考えても同じことの落葉ふみあるく 悔いるこころに日が照り小鳥来て鳴くか 枯れゆく草のうつくしさにすわる 空へ若竹のなやみなし 何を求める風の中ゆく 1937年(55歳)、無銭飲食のうえ泥酔し警察署に5日間留置。同年、「藪にいちにちの風がおさまると三日月」「けふは木枯らしのはがき一枚」等を詠った第五句集『柿の葉』発刊。「自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人句集では許されないでもあるまいと考えて、あえて採録した。こうした私の心境は解ってもらえると信じている」。 1938年(56歳)、積年の風雪で其中庵は朽ち果て壁も崩れた為、新しい庵を探して旅立ち、山口市の湯田温泉に四畳一間を借り「風来居」と名付けた。友人たちがリヤカーで小郡から湯田まで荷物を運んでくれたという(約12km)。1939年(57歳)、1月に第六句集を刊行。 ●第六句集『孤寒(こかん)』(抜粋)1939年 ひなたは楽しく啼(な)く鳥も啼かぬ鳥も 藪から鍋へ筍(たけのこ)いっぽん 風の中おのれを責めつつ歩く なんとなくあるいて墓と墓との間 咳がやまない背中をたたく手がない 窓あけて窓いっぱいの春 春先に近畿から木曽路を旅し、6年前に肺炎で墓参できなかった井上井月の墓に巡礼を果たす。その墓前にて「お墓撫でさすりつつ、はるばるまいりました」。10月、山頭火は死に場所を求めて四国に渡り、小豆島で再び尾崎放哉の墓参をする。こちらも墓前で「ふたたびここに、雑草供へて」。年の暮れに松山で終の棲家となる「一草庵」をむすんだ。山頭火はこの庵を見て「落ち着いて死ねそうだ」と喜んだという。同年の日記より--「泊まるところがないどかりと暮れた」「こうまでよりすがる蝿をうとうとするか」「ついてくる犬よおまへも宿なしか」。 1940年1月、山頭火を慕う句友たちが「柿の会」を結成、一草庵で初句会を開く。翌月の日記に「所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守ろう」と刻む。3月、母の第四十九回忌には「たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと」と詠んだ。4月にこれまでの俳句人生の総決算となる一代句集『草木塔』(第二句集と同じ題名)を刊行。第一句集からの全ての句より自選して収めた。そして中国&九州地方の世話になった友人たちに『草木塔』を献呈する旅に出て2ヶ月後に一草庵に帰着。7月、「寝床まで月を入れ寝るとする」などを含む第七句集『鴉』を刊行。 10月10日の夜、一草庵で句会が行われる中、山頭火は隣室でイビキをかいていた。仲間は酔っ払って眠りこけていると思っていたが、実は脳溢血であった。会が終わると皆は山頭火を起こさないように帰ったが、虫の知らせを感じた者が早朝に戻ってみると、山頭火は既に心臓麻痺で他界していた。死亡時刻は推定4時。本人念願の“コロリ往生”だった。山頭火は生涯に8万4千句という膨大な数の作品を残し、この世を去って行った。享年57歳。最晩年の日記には「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから生まれたような一生だった」と書いた。辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」。旅を愛した山頭火は、地平線から立ち昇る明るい雲の中へ溶け込んでいった。 「前書きなしの句というものはないともいえる。其の前書きとは作者の生活である。生活という前書きのない俳句はありえない」。山頭火の生き様が死後人々に知られるにつれ、彼の言う「生活を前書きにした」句の人気はどんどん高まり、’70年代前半は17ヶ所だった句碑が、'90年代初頭に150ヶ所を数え、2006年には500ヶ所を超えているという。個人の文学碑の数としては山頭火が一番ではなかろうか。故郷の防府には生家跡が残り、市内だけで句碑が81基もある。 山頭火は他界の半年前に出した代表作『草木塔』の冒頭にこう刻んだ--「若うして死をいそぎたまへる母上の霊前に本書を供へまつる」。 ●墓 山頭火は生地の山口県防府市・護国寺に母フサと並んで眠っており、墓石には「俳人種田山頭火之墓」と彫られている。満州に渡っていた息子が急遽帰国し葬った。現在、護国寺の本堂では自筆句や愛用品が無料公開されている。また、元妻が住んだ熊本市・安国禅寺にも分骨墓がある。 |
山頭火が眠る防府市護国寺。山が美しかった | 宿で自転車を借りてやって来たよ(2006) |
護国寺の境内にはたくさんの句碑がある。ユニークだったのは、この 隠し句碑。『護国寺』の標の頭頂部にあり、背後の石段に昇らないと 見えない。刻まれた句は「風の中おのれを責めつつ歩く」と切なさMAX |
山頭火の故郷防府には、彼の句碑が 多数ある。これは市内の句碑第1号の 「雨ふる故里ははだしで歩く」 |
「俳人種田山頭火之墓」。夏の朝陽に照らされる山頭火。左隣は母フサ。 一升瓶が丸ごと供えられている墓を初めて見た。しかも2本!酒豪の山頭火らしい |
本醸造『山頭火』。小瓶やカップ酒を入れると トータル5本が墓前に。充実しまくり(笑) |
熊本市の分骨墓。妻・咲野と一人息子もここに | 「種田家之墓」 | 墓石左側の珍しい円筒型墓誌(2014) |
《あの人の人生を知ろう》 | ||
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