【 あの人の人生を知ろう〜アイヌの光となった知里幸恵 】




知里(ちり)幸恵 1903.6.8-1922.9.18(享年19)/アイヌ文化継承者

2010年「銀のしずく記念館」が開館!
知里幸恵の原稿や遺品の資料館
知里幸恵が弟に宛てた長い手紙
美しい字で綴られていた
言語学者・金田一京助が
知里幸恵に出した葉書

記念館の裏手に知里幸恵の生家が建つ
生家のすぐ近くに綺麗な川が流れていた
知里幸恵の彫像

〔はじめに〜アイヌの歴史〕
北海道はもともとアイヌという、大和民族とは異なる民族が住んできた土地。アイヌとはアイヌ語で「人」を意味する。アイヌモシリは「人間の大地」、ウタリは「同胞」の意。集落は「コタン」と呼ばれる。アイヌは9世紀後半に北海道全域に広がり、独自文化が13世紀までに成立。人々は熊や狼、さらに水、火、風など自然の要素に具現化された神を崇拝し、文字を持たない民族ながら北海道・樺太・千島列島を中心に一大文化圏を築き、物々交換による交易を行った。
平安時代末頃から道南への和人の進出が始まり、1443年、津軽の豪族安東氏が南部氏との戦いに敗れて北海道に逃げ渡ったことを機に、和人による本格的な移住が始まった。和人は下ノ国(函館周辺、安東氏が守護)、上ノ国(江差、蠣崎氏が守護)、松前(下国氏が守護)など道南に館を設けて、数百人が居住し交易を行った。
アイヌと和人の初めての大規模衝突は室町時代後期、1457年の「コシャマインの戦い」。その前年に、アイヌ青年が和人と口論して殺害される事件があり、アイヌの人々は反発、首長コシャマインの武装蜂起に発展した。約1万人のアイヌ軍が、安東氏の館(城)を次々と襲って戦を優位に進めたが、七重浜でコシャマイン父子が射殺され、リーダーを失ったアイヌ軍は崩壊する。ちなみにコシャマインの戦いの10年後に京都で「応仁の乱」が勃発、戦国の世が到来した。

室町末期の1515年、本州に面した渡島(おしま)半島のアイヌ首長ショヤコウジ兄弟が蜂起。劣勢に立たされた和軍の武将・蠣崎光広(かきざき・みつひろ)は、和睦を装って酒宴を開き、松前大館(松前城)に兄弟を招待。宝物を渡すふりをして油断させ、背後から兄弟を襲い斬殺した。他のアイヌも蠣崎氏の軍勢に皆殺しにされ、この戦いは終結した。その後、蠣崎氏はアイヌ首長と平等交易の協定を結び、当初、アイヌは政治的な支配も受けなかった。
1593年、秀吉が蠣崎氏に朱印状を与え、蝦夷島の支配権を公認。蠣崎氏はアイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで苗字を松前に改めた。

〔江戸時代のアイヌ〕
1604年、松前慶広は家康より「蝦夷地の交易はすべて松前藩の許可が必要である」とするアイヌ交易の独占権を公認され、幕府は松前慶広を松前藩初代藩主とする。松前藩はアイヌから獣皮・乾燥鮭・ニシン・鷹の羽(矢羽用)・海草を入手し、対価を米・鉄製品・漆器・木綿などで支払った。
1663年に有珠山が噴火し、多くのアイヌが被災、命を落とす。松前藩も打撃を受け、財政難から対アイヌの交易レートを3倍に値上げした。
その6年後(1669)、アイヌと松前藩の全面戦争「シャクシャインの戦い」が勃発。北海道中南部・日高地方のアイヌの首長シャクシャイン(1606-1669)が、交易の不平等に怒りをつのらせ、アイヌモシリ全域に松前藩の打倒を呼びかけた。かねてから和人の収奪や酷使に不満を感じていたアイヌは、白糠(しらぬか/東部釧路付近)から増毛(ましけ/中部西岸)まで東西で2千人が一斉蜂起し、和人の商船を襲撃、19隻の船が被害にあい、船頭や鷹匠、砂金掘りなど東蝦夷地213人、西蝦夷地143人の和人356人が殺害される大事件となった。
幕府にとっては約30年前の島原の乱以来の戦乱であり、江戸城に衝撃が走り、徳川家綱は松前藩主(5代)・松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広(旧2代藩主)に指揮官として出陣を命じた。アイヌ軍は南西部の長万部(おしゃまんべ)まで迫ったが、松前藩は東北諸藩の支援を得て多数の鉄砲でアイヌ軍に反撃、さらに松前藩に味方する部族を取り込み、シャクシャイン軍を室蘭、登別、苫小牧、本拠地の日高地方へと後退させた。同年10月、冬を迎えて蜂起アイヌ軍は長期戦に備えたが、松前藩は鎮圧が遅れると幕府から改易(所領没収)されてしまうため、早期終戦を求めて和議を申し出る。松前藩が提示した条件は、「シャクシャインらの助命と引き換えに賠償品の宝物を提出せよ」というもの。シャクシャインはこれを受け入れ松前藩の陣営を訪れるが、和睦の祝宴で(またしても)毒殺される。アイヌ側は首長14人が騙し討ちにされ、松前藩士は帰路が長距離になるため首級の代わりに耳を持ち帰った。その後も3年間小競り合いが続き、反乱を鎮圧した松前藩は、アイヌから七ヵ条の起請文(きしょうもん)をとって絶対服従を約束させた。一方、融和策として米と鮭の交換レートを緩和した。
※繰り返し和睦の場で暗殺されるアイヌの首長。交易民族であるため、神聖な交渉・儀礼の場を冒涜する行為は想像もできず、そこにつけ込んだ卑劣な騙し討ちに僕は憤りを覚える。

1756年、本州では津軽半島で漁業に従事していたアイヌに対し、弘前藩が同化政策を実施。本州のアイヌ文化が急速に失われる。
1789年、アイヌと和人の最後の大きな武力衝突「クナシリ・メナシの戦い」(国後・目梨の戦い)が勃発。目梨は知床半島。クナシリで交易を請け負う和人の悪徳商人・飛騨屋久兵衛の不公平な商取引や強制労働(肥料製造)、アイヌ女性たちへの目にあまる陵辱行為(性病蔓延)に反発したアイヌが蜂起し、飛騨屋の支配人・番人ら23人を殺害する。メナシのアイヌもこれに呼応して商人や商船を襲い、計71人の和人が犠牲となった。松前藩が鎮圧し、蜂起の中心となった38人のアイヌは処刑、また飛騨屋に対しても責任を問い「場所請負人(交易委託者)」の権利を剥奪した。幕府はアイヌ蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、場所請負制を幕府直轄とした。
1457年の「コシャマインの戦い」から1789年の「クナシリ・メナシの戦い」にかけての332年間に24回のアイヌ蜂起があったが、最終的に和人がアイヌを制圧した。
探検家で幕臣の最上徳内(もがみ・とくない)は蝦夷地でアイヌから「クナシリ・メナシの戦い」の経緯を聞き、『蝦夷草紙』に「松前藩支配下のアイヌほど悲惨なものはない。これは地獄だ」と書き記す。徳内は、江戸や京都の人間が喜ぶ異国の装飾品は、松前藩の強要でアイヌの男が異国に身を売り、妻子が草の根を掘って食べて得たものだと糾弾した。

1800年、伊能忠敬が蝦夷を測量。
1807年、天然痘が大流行し、わずか1年間でアイヌの総人口の約4割弱が亡くなった。
1809年、樺太が島であることを間宮林蔵が確認。
1845年及び翌年に、探検家で“北海道”の名付け親、松浦武四郎が蝦夷地を探訪。松浦は旅人に対するアイヌの優しさに心を打たれ、13年間で6度も蝦夷地を訪れる。松浦は虐げられたアイヌの生活を記録し、著作で「アイヌの人々はとても親切で学ぶべきことは多い」と江戸の人々に訴え、アイヌ文化を遊びながら知ることが出来る“双六”まで作って偏見を取り除こうと尽力した。
1858年に松浦は『近世蝦夷人物誌』を出版すべく箱館奉行所に原稿を提出したが、和人の蛮行を糾弾したためか出版のゆるしがでなかった。55年後の明治末、没後24年も経った1912年にやっと活字に。同書には99人ものアイヌが登場し、豪勇、貞節など28項目の中で紹介された。松浦はアイヌが野蛮でなく、情を重んじ親孝行であり、むしろ優れた徳を備えていることを記した。一方、冷酷な和人によってアイヌが悲惨な境遇に追い込まれていることを知らしめた。
「この地の夷人(アイヌ民族)は、16〜17歳になると男女の区別なくクナシリ(国後)やリイシリ(利尻)等へ強引に移動させ、そこで使役させる。女は番人(見張り)・稼人等の慰みもの(妾)とし、その夫は離れた土地の漁場に追いやり働かせる。アイヌの男性は昼夜の別なく酷使され、その苦しみに耐えられず病に就くものは倉に放置し、一服の薬も、一切の食事も与えない。」(近世蝦夷人物誌)

〔明治維新後〜強引な同化政策〕
1869年(明治2年)、明治新政府は石炭など豊富な天然資源を獲得するため、そして南下するロシアを牽制(けんせい)するため、アイヌ民族に相談なくアイヌモシリを日本領土とした。蝦夷地は松浦武四郎の命名で「北加伊道(北海道)」と改称される。アイヌに心を寄せていた松浦は、アイヌの人々が互いに「カイドウ」と呼び合っていたことから、北のカイドウ、北加伊道と名前を考案した。松浦は「ここはアイヌ民族が暮らす大地」という思いを込めた。翌年、松浦は明治政府のアイヌ弾圧に抗議し役職を辞任している。
北海道では開拓が本格的に開始され、屯田兵や農民が次々と入植し、和人の人口は増加。当時、道内にいたアイヌ約2万人に対し和人は約12万人に達した。森林伐採などアイヌの聖地を開発したい政府は、土地を所有物と考えないアイヌの人々を騙して二束三文で土地を奪った。そして没収された土地は、外からやって来た開拓民に安価で払い下げられた。
1871年、「旧土人学校」(アイヌ学校)が設立され日本語の使用を強制、教育が日本語で行われた。また、アイヌブリ(アイヌの習慣)の耳輪、女子の入れ墨が禁止される。民族教育は皆無であった。
1873年、地租改正によりアイヌの土地も私有財産と見なされたが、地権という概念を持たない多くのアイヌが、自分の耕地を焼酎一本など格安で騙し取られ、移住を余儀なくされた。
1875年、ロシアと「樺太・千島交換条約」が締結され、樺太アイヌ841人が北海道・宗谷に移住。翌年、彼らは石狩に強制移住となり農業開拓に従事させられたが、森や坂など畑作に適さない不毛な土地をあてがわれ、不慣れな農耕に苦労し、洪水、コレラ、天然痘に襲われ、たった7年で移住樺太アイヌの半数となる400人以上が亡くなった。
1883年、政府は乱獲防止を理由にアイヌ文化を象徴する鮭漁を禁止する。そもそもアイヌは資源保護を意識し、上流で産卵後の鮭(あとは死ぬだけの鮭)を捕獲していた。
1889年、アイヌの食料として許されていたシカ猟が禁止される。鮭、鹿という主食が獲れなく、食生活の変化でアイヌは病気がちになった。
1899年に「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌは旧土人という名のもとに差別的に「保護」された。文面では、農業希望者のアイヌへの土地無償附与、貧困者への農具給付や薬価給付が定められていたが、その実態は、農耕に適さない荒れ地に無理やり移住させ、生活の中心だった狩猟の場を取り上げるなどで、アイヌの人々は極度の貧困に追い込まれた。
政府は狩猟民族の生活の核となる、鮭、熊、鹿を獲る権利を奪い(狩猟の禁止)、言葉を奪い(学校教育の場でのアイヌ語の禁止)、名前を奪い(日本式に改名)、人間としての尊厳を奪った。最後に待ち受けるものは先住民の“自然消滅”だった。これらの差別的施策により、多くのアイヌが極貧生活を送り、民族としての誇りすらもてない境遇に陥る。アイヌ文化では自殺者は地獄で永遠の苦しみを受けると信じられているにもかかわらず、同化政策に絶望して死を選ぶ者もいた…。
こうした状況を変えるきっかけとなったのが一人の少女の活躍だった。

〔知里幸恵、かく生きたり〕
大正期のアイヌ文化伝承者、知里幸恵(ちり・ゆきえ)は1903年6月8日に現・北海道登別市(札幌の南約100キロ)に生まれた。父は農牧畜業。1歳のときに日露戦争が勃発している。
幸恵の祖母はアイヌの口承の叙事詩“カムイ・ユカラ”の謡い手。幸恵はユカラを身近に聞いて育った。6歳のときに旭川の伯母・金成(かんなり)マツのもとに祖母と移住。マツは松葉杖が必要な生活をしており、手助けするためだった。

※ユカラ(ユーカラ)…アイヌ口承文芸のうち、節(ふし)をつけ韻文で語られる叙事詩。人間の英雄を主人公とした戦闘・恋愛の長編叙事詩である英雄詞曲(人間のユカラ)と、自然神(カムイ)などが主人公でサケヘ(リフレイン)を挟んで謡われる神謡(神々のユカラ)がある。
幸恵は7歳になるとアイヌ児童だけを集めた小学校に通い、“立派な日本人”になるための同化教育を受けた。国の政策で“アイヌは劣った民族”と思い込まされて育つなか、努力して日本語を勉強し、14歳の時にアイヌ女性として初めて旭川の女子職業学校に合格する(4位の得点)。彼女はただ1人のアイヌの生徒として通い、作文と習字を得意とする成績優秀な少女であったが、ある日同級生から「ここはあんたの来るところじゃない」と言われてショックを受ける。

1918年(15歳)、幸恵が劣等感に包まれていると、東京から言語学者の金田一京助が、アイヌの言葉や民話を記録するため祖母を訪ねて来た。カムイユカラを熱心に書き留める金田一の姿を見て、幸恵は“今まで否定されてきたアイヌの文化を学者が必死に学ぼうとしている”と驚く。彼女が「私たちのユカラはそんなに価値のあるものでしょうか」と思わず尋ねると、金田一はこう答えた。「世界の五大叙事詩に入るくらいアイヌのユカラは価値のあるもので、自分の全財産を注ぎ込んでも良いと思うくらいだ」「アイヌの伝承は、あなた方が決して劣った民族ではないという何よりの証拠なのです」。世間ではアイヌ文化やアイヌ語は野蛮で劣等だとまでいわれていたが、金田一は祖母を「最大の叙事詩人」と讃えた。
東京に戻った金田一は、「伝承をまとめる作業を手伝って欲しい」と幸恵にノートを送り、幸恵は金田一が抱くアイヌ伝統文化への尊敬の念にあらためて胸を打たれる。

1920年、17歳で卒業。幸恵はアイヌの口承文芸の重要性を自覚し、祖母から伝えられた神謡ユカラの文字化と和訳を決意する。当時は紙が貴重であり、ノートの1ページの半分にローマ字、半分にアイヌ語の和訳を書いた。それを金田一に送ると「もっと贅沢にノートを使って下さい。片側にアイヌ語、片側に和訳を書いて、余白には注釈を書くように」と指導を受ける。2冊目から約束を守ると、あまりに良い内容だったため、金田一は涙して喜び、民俗学者で出版も手掛ける柳田国男に「近代化で失われる前に本として残すべき」と説得、『アイヌ神謡集』の書籍化が決定する。その際、アイヌの伝承は多数あるため、どの物語を選んで載せるかを考える必要があった。東京と北海道で何度も葉書が飛び交った(20通が現存)。
同年、幸恵は心臓の弁がうまく開閉しない心臓弁膜症を発病する。

1922年、金田一から出版のため上京を促されるが、アイヌ青年と婚約していたし、父にも反対されて思い悩む。だが、アイヌ語や文化を本にして知らせたいと思う気持ちが勝り、周囲を説得し、5月に母に見送られて室蘭港から青森に出発した。手元には自らが編簒した『アイヌ神謡集』(アイヌ語と日本語の対訳形式による13編)があり、上京後は金田一家に同居して出版作業を助けた。
幸恵は初めて見る都会の喧騒に目を丸くし、都会人は目がキョロキョロと忙しそうで、余裕がないから神経過敏になってると感じる。きらびやかでモノが溢れる百貨店の感想は「私はただ別な人間の住む星の世界を見物にでも来たような気がした。自分で欲しい、身につけてみたいなどとは、ちっとも思わなかった」(日記)。
日記には力強いアイヌ宣言も記されている。「私はアイヌだ。どこまでもアイヌだ。どこにシサム(和人)のようなところがある。たとえ自分でシサムですと言い得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない。そんな口先だけでシサムになってなんになる。シサムになればなんだ。アイヌだからそれで人間でないということもない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。おお愛する同胞よ。愛するアイヌよ」。

アイヌでは世のあらゆるものに精霊が宿っていると考え、自然が与えてくれる食べ物に感謝を忘れずに生きている。幸恵は出版を通して、人間が本来大切にしてきたことを伝えようとした。ところが、『アイヌ神謡集』の出版作業で無理を重ねたことで同年8月に心臓発作を起こしてしまう。医者には安静を命じられたが、校正作業は最終段階に来ており、早くアイヌの伝承を世に送りたいという思いに突き動かされて校正を続けた。
そして1922年9月18日。「この本を出す事は命を失っても成し遂げる自らの使命」と考えていた彼女は、まさに原稿の最後の1ページのチェックを終えたその日の夜、容態が急変し、心臓麻痺によりわずか19歳3カ月で急逝した。東京に出て4ヶ月だった。同年、旧土人児童教育規程が廃止され、アイヌ児童への差別的な学校教育が撤回される。
翌1923年8月10日に『アイヌ神謡集』は柳田國男の編集による『炉辺叢書(ろばたそうしょ)』の一冊として出版され、アイヌの世界を広く知らしめた。

『アイヌ神謡集』 …7世紀頃に形成されたユカラ(叙事詩)から13の小編が、ローマ字表記によるアイヌ語原文と日本語の対訳形式でおさめられている。「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに…」など、和訳の美しさから珠玉の名著と賞賛されている。幸恵は序文にこう記した。
「その昔、この広い北海道は私たちの先祖の自由の天地でありました。それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第次第に開けてゆく。その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が、末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。激しい競争に敗残の醜さを晒している今の私たちの中からも、いつかは2人3人でも強い者が出て来たら、進みゆく世と歩みを並べる日もやがては来ましょう」。
この序文はアイヌ同化政策の本質を描き、和人にとってもアイヌの伝統・文化・言語・風習を知るきっかけとなった。
金田一は同書について「神様が惜しんでたった一粒しか我々に恵まれなかった」と嘆いた。だが、こうして幸恵の手でカムイユカラが文字として後世に残された。文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績であり、明治時代に入り絶滅の危機にさらされていたアイヌ民族に自信を与え、誇りを取り戻す転機となった。弟の言語学者・真志保(ましほ)はアイヌ初の北海道大学教授となった。

〔その後、先住民族として〕
1927年、伯母の金成(かんなり)マツが幸恵の遺志を受け継ぎ、ユカラのローマ字筆記を登別で開始。のちに紫綬褒章を受章。
1961年、日本政府が国内における少数民族としてのアイヌの存在を認めないため、「北海道ウタリ協会」が設立される。同協会は国がアイヌを先住民族であることを認め、また同化政策や差別で苦しめられたアイヌに対する政治的・経済的権利保障を求めた。
1970年、函館市にコマシャインの戦いの慰霊碑が建ち、和人とアイヌの双方を慰霊。
1977年、徳川幕府が1804年に建立した厚岸郡の国泰寺(こくたいじ)山門脇に「アイヌ民族弔魂碑」が設置される。碑文にはこう刻まれている。
「由来厚岸(釧路地方)は美しい自然と資源に恵まれたあなたたちの楽土であった。しかるにその後進出した和人支配勢力の飽くなき我欲により財宝を奪われ、加えて過酷な労働のために一命を失うものすら少なくなかったと聞く。けだし感無量である。我等はいま先人に代わって過去一切の非道を深くお詫びすると共に、その霊を慰めんため このたび心ある人びとと相計り東蝦夷発祥のこの地へ、うら盆に弔魂の碑を建てる』(1977年8月15日)。アイヌ侵略について「過去一切の非道を深くお詫びする」とこれほど明言している石碑があるとは!
1978年、『アイヌ神謡集』が岩波文庫で改訂刊行される。
1986年、中曽根康弘首相による「日本単一民族国家」発言。
1994年、アイヌ初の国会議員が誕生。参院にてアイヌの萱野茂(社会党)が比例代表繰り上げ当選。
1997年、「アイヌ文化振興法」が制定され、初めてアイヌ民族の存在が法律により認められ、「北海道旧土人保護法」は廃止された。ただし、アイヌを「先住民族」と認定せず。
2003年の生誕100年をきっかけに幸恵の再評価の声が高まる。
2006年、ノーベル文学賞作家のフランス人ル・クレジオが、『アイヌ神謡集』フランス語版の出版報告に幸恵の墓を墓参。
2007年、国連総会で先住民族の権利に関する国際連合宣言(先住民宣言)が採択される。
2008年6月、アイヌ問題に対する理解が広がり、国会にて「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択された(「認める」決議ではない)。同年、NHK『その時歴史が動いた』で幸恵の人生が取り上げられ幅広く存在が知られる。
2009年、アイヌ語がユネスコにより「危機に瀕する言語」として、最高ランクの「極めて深刻」の区分に分類された。2007年の推定では、約1万5000人のアイヌの中で、アイヌ語を流暢に話せる母語話者は10人のみ。
2010年、「知里幸恵 銀のしずく記念館」が生誕地にオープン。幸恵の遺品や未出版の直筆原稿、神謡集の初版本など資料を中心に、アイヌ文化継承に尽力した先人に関わる約300点を展示。
2014年、自民党・道民会議に所属する小野寺まさる議員(当時)が道議会で「アイヌが先住民族かどうかは非常に疑念がある」「我々の祖先は無謀な、むちゃなことをアイヌの人たちにやってきてはいない。そういう自虐的な歴史を北海道で植え付けるのはいかがなものか」と暴言、アイヌ社会に衝撃を与える。
2015年、野田サトルがアイヌ文化を取り上げた人気冒険漫画『ゴールデンカムイ』連載を開始、アニメにもなりアイヌ・ブームが起きる。
2016年、文部科学省が中学校の教科書検定で、アイヌ民族について従来の「狩猟採集中心のアイヌの人々の土地を取り上げて、農業を営むようにすすめました」という記述を「狩猟や漁労中心のアイヌの人々に土地をあたえて、農業中心の生活に変えようとしました」と、正反対に“修正”するよう指導。文科省の言い分は、明治政府は“アイヌ民族を保護したかった”。実際の方針はあくまでも「同化政策」であり、畑作に専念させ、従来のアイヌの狩猟を中心とした生活と文化を葬り去ることだった。
同年、長万部町に「シャクシャイン古戦場跡碑」建立。アイヌ軍と松前軍との最大の激戦地の跡。松前軍は騙し討ちで勝利しており、碑文に「戦いの勝ち負けは、生き方の善し悪しを意味してはいない」と刻まれる。
2019年、国会はアイヌの誇りが尊重される社会を実現するための施策推進法を制定。ついに北海道の先住民族であることが明記された。
2021年、民放の情報番組でアイヌ民族の紹介後に「あ、イヌ」と犬のイラスト付きで芸人さんが発言。この芸人さんにも、犬の絵を描いた人も、字幕テロップを付けた人も、もちろん悪意はない。でもこの言葉は、アイヌ民族が和人から長年侮蔑的に、そして典型的なイジメの言葉として使われてきたもので、トラウマを呼び起こすタブー中のタブーだった。当該コーナーは録画パートであり、オンエアまでに多くの人間が関わっていたが、民族名に「犬」という言葉をかける行為の差別性に誰も気づけなかった。政府の加藤勝信官房長官は会見で「アイヌの人々を傷つける極めて不適切なものであり、誠に遺憾」「担当部署を通じてテレビ局に厳重な抗議を申し入れた」とし、「アイヌの人々がいわれのない差別を受けない社会全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に向け、アイヌの歴史、文化などに関する教育活動や広報活動などを通じ、国民の理解を深めるよう引き続き努力する」と述べた。この素早い的確な対応は、単一民族発言の頃と比較して隔世の感がある。

〔墓巡礼〕
当初、知里幸恵は金田一京助により東京・雑司が谷墓地の金田一家の墓所に埋葬されていたが、半世紀後の1975年に登別市富浦墓地に眠る伯母・金成マツの十字架の右隣に改葬された。墓地入口に、幸恵とマツの功績を讃える案内板が立っている。JR室蘭本線・富浦駅下車、徒歩7分(北600m)。
アイヌ語の墓地は「トゥシリ」、墓標は「クワ」。伝統的な木製の墓標は、旭川ではエゾニワトコの木で作る。先端が尖っている槍型墓標が男性で、女性の場合は裁縫の針型であり、てっぺんが平らか丸くなっている。旭川の旭岡墓地(通称アイヌ墓地)はアイヌ様式の墓を現代に伝え残す極めて重要な墓地となっている。
僕はアイヌ世界を学ぶため、「アイヌ民族博物館」(白老町/現ウポポイの一部)、「二風谷アイヌ文化博物館」(平取町)、「川村力子(かねと)アイヌ記念館」(旭川)の3箇所を訪問、自然に対する敬意あふれる暮らしに感銘を受けました。旭川では石狩川上流のアイヌ民族の聖地「神居古潭(カムイコタン)」に足を運び、奇岩が続く峡谷で川の音を聴き、神聖な空気に身を浸しました。「カムイ」は神、「コタン」は村。
ネットではアイヌに対する心ない言葉、誤った歴史観が見受けられますが、大ヒット漫画『ゴールデンカムイ』で多くの人にアイヌ文化への理解と敬意が生まれたことは素晴らしい出来事です。

知里幸恵が眠る北海道登別の富浦墓地 知里幸恵の墓 左隣の十字架は伯母・金成マツ(紫綬褒章)

〔アイヌ神話〕
アイヌ民族の神々の物語は、神謡(ユカラ)と呼ばれる口承文芸で伝えられてきた。神謡には自然神を主人公とするものと、文化神を主人公とするものがある。王権にかかわるような政治的な神話は存在しない。アイヌの神(カムイ)には序列があり、クマやシマフクロウ、シャチ、オオカミは位が高い。人々が日常的に祈る神は、火の神、水の神など。人間が自然界の恵みに対する礼儀を忘れると神は不機嫌になり、シカやサケを地上におろさず飢饉になる。一方、神は人間から祀られ供え物をされ、感謝されることによって神の世界での株があがることから、アイヌの神と人間は、対等の互恵関係といえる。
国づくりの神がアイヌモシリ(人間の大地)をつくったときに、最初に生えたのはドロノキ(ヤナギ科)で、次にハルニレ(ニレ科)が生じた。神は人間に火を授けるためドロノキで火起こしをしたが失敗し、悪神たちが生まれる。だが、ハルニレで火起こしに成功し、善神たちが生まれた。女神ハルニレの美しさにみとれた雷神がハルニレの上におち、人間型の文化神アイヌラックルが生まれ、このアイヌラックルが人間に生活の知恵を授けた。
アイヌの世界観には、神々のすむ世界「カムイモシリ」、人間のすむ世界「アイヌモシリ」、魔物がすむ世界「テイネモシリ」がある。神は、カムイモシリにいるときは人間の姿をしているが、霊魂なので人間からは見えない。時々、神は動物の姿となり、肉や毛皮というお土産を持ってアイヌモシリを訪れる。クマの場合は、人間に毛皮を脱がせてもらい、肉をとってもらって霊とならなければカムイモシリに帰れない。そのため、神が再び人間の世界にお土産を持って遊びにくるように、丁重に霊送りの儀式をおこなう。「イヨマンテ(イオマンテ)」と呼ばれる飼い熊送りの儀式はその代表例。悪人は魔物がすむ地下のテイネモシリへ行く。
イヨマンテ(熊送り)…神が仮装して人間界に現れたのが動物であり、その動物の皮や肉の仮装を脱がせ霊を神の国へ送り返す儀礼。アイヌは熊を神の使者として神聖視し、集落で2〜3年丁重に飼育した小熊を弓矢で殺して村人で食し、供物を供えて歌舞で霊を神の国に送り返す。

〔人口と伝染病について〕
1669年の「シャクシャインの戦い」の時期に、梅毒などの性病が蝦夷地に発生しており、アイヌを制圧した和人が広めたものと思われる。天然痘や梅毒などの感染症で、アイヌの人口は1804年に2万3797人であったのが、1873年には約5千人減少して1万8630人となった。また、年頃の男女を和人が性の対象や労働力として連れ去るため、アイヌの村は人口が減る一方であった。松浦武四郎は『近世蝦夷人物誌』でアイヌの人口減少を嘆いている。1821年に交易地の知床・シャリ(斜里)会所に366戸1326人が住んでいたのが、1849年に173戸350人と、27年間で4分の1にまで激減していた。
その後回復して2006年に23782人に増えているが、2017年の調査で道内のアイヌ人口は約1万3000人と11年間で急減している。あまりに減りすぎており、背景に個人情報保護の立場から調査に協力する人が減っていること、出自を隠して子孫に伝えない人もいるため、自身がアイヌであることを知らない人も多数いることが考えられる。「道内に10万人、関東に1万人」とみている研究者もいる。
※アイヌ民族の現在の定義は「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人。

〔アイヌから見た同化政策〕
アイヌの方のツイッター投稿でとても参考になったものがあります。ある人が「アイヌの同化政策って保護を前提の政策ですよね?」とツイート、それに対する回答です。
2013年11月12日 野良アイヌ・ルプネイケ→
「通りすがりのアイヌです。まず同化政策が保護だとおっしゃいますが、それは同化を行う側の言い分にしかすぎません。実際にそれがどのような経緯でなされたのか知る必要があります。初めての同化政策は幕末から始まります。
ロシア船が北海道沿岸をはじめ頻繁に現れるようになり、アイヌとの接触も多くなってからです。エトロフ島にいた和人に対するロシア船からの砲撃など、緊迫する北辺で露日の領土画定の話し合いがされ、日本側は「アイヌは古くより自分側の人間である、日本人であるからアイヌの居住する所は日本領である」と主張した訳です。そう主張する中で実態がないと困る訳で、当時松前藩から蝦夷地を召し上げ直轄していた幕府は風俗改めや和名への改名を行う訳ですが、当時の記録では多くのアイヌは嫌がり、中には自殺する者もいた。自殺と言っても和人の感覚の自殺と違います。アイヌは自殺すると地獄に行って永遠の苦しみを受けると考えるから、自殺するのは余程の事です。」
「明治2年(北海道には明治元年がない)以降開拓使が北海道を統治、殖民開拓政策が進むなかで、どさくさまぎれにアイヌの抹殺が図られました。学制令、教育令が出され学校が創られていく中で、アイヌは除外されました。それは言葉が通じないと言えばそれまでだけど、何故言葉が違うまま放置したかと言えば、当然自分達の住む土地を勝手に無主の土地として奪う和人に抗議ができないようにです。それでも旭川などは当時札幌にしかなかった裁判所へ訴訟を起こしています。これは「コノモノタチ、邦語に通ゼズ(日本語を理解せず)」と却下されています。こういう中で、このままでは黙って殺されると感じたアイヌ達はアイヌ語をまずは棄ててでも日本語を学んでいきました。」

〔アイヌと名作文芸〕
鶴田知也『コシャマイン記』(小説)(1936)芥川龍之介賞受賞
菊田一夫作詞、古関裕而作曲『イヨマンテの夜』(曲)(1949)
高畑勲監督『太陽の王子 ホルスの大冒険』(アニメ映画)(1968)原作がユカラを題材にした人形劇
矢野徹『カムイの剣』(小説、アニメ映画)(1970、1985)
手塚治虫『シュマリ』(漫画)(1974-1976)
野田サトル『ゴールデンカムイ』(漫画、アニメ)(2015-)舞台が明治末期の北海道や樺太。傑作!
『永遠のニシパ〜北海道と名付けた男 松浦武四郎』(テレビドラマ)(2019)松本潤主演

〔語源がアイヌ語の名前〕
札幌(サッ・ポロ・ペッ)
昆布(コンブ)
ラッコ(ラッコ)
トナカイ(トゥナカイ)
十和田(トワダ)、気仙 (ケセン)、遠野 (トーノ)、三内(サンナイ)

〔知っておきたいアイヌ語〕
イランカラプテ(こんにちは)
スイウヌカラアンロ(また会いましょう)
ヒンナ(おいしい)
ピリカ(美しい)
カムイ(神)
チセ(家)
ベツ/ホロ/ナイ(川)
ヌプリ(山)
コタン(村)
ワッカ(水)
モイ(湾)
ノッ(岬)
カップ(崖)
イチャルパ(慰霊祭)
ウポポイ(みんなで歌う)



ポロト湖畔に建つアイヌのチセ(家) 巨大なコタンコロクル(村長)像 アイヌの音楽と踊り
2014年に訪れた白老(しらおい)のポロトコタンでアイヌ文化に触れた。2020年から民族共生象徴空間「ウポポイ」の名で呼ばれている

アイヌの日用品などを展示 アイヌの葬式。墓標は木 アイヌの村では小熊を飼育
旭川には北海道で最古、1916年開設のアイヌ記念館「川村カ子ト(かねと)アイヌ記念館」が建つ

『二風谷アイヌ文化博物館』 外海でも漁が可能なほどの大きさ ボウガンも使用(仕掛け弓?)
平取町の『二風谷(にぶたに)アイヌ文化博物館』は巨大カヌーが展示されるなど、アイヌ研究には必見の博物館

アイヌの聖地カムイコタン(旭川)
空気が澄み、川のせせらぎが響く

アイヌの墓標は男性が槍型、女性が裁縫の針型で、
女性の場合は上部が平らなバージョンや、
上部が円形で糸通しの穴が開いたバージョンがある

北海道・国泰寺(こくたいじ)の「アイヌ民族弔魂碑」
僕の知る限り、アイヌ民族へ最も真摯に謝罪した碑文
なんと国泰寺に本物の
釈迦の骨が入った舎利塔が
徳川幕府が1804年に建立した厚岸郡の国泰寺に、1977年に「アイヌ民族弔魂碑」が設置され、碑文にこう刻まれた。
「由来厚岸(釧路地方)は美しい自然と資源に恵まれたあなたたちの楽土であった。しかるにその後進出した和人支配勢力の飽くなき我欲により財宝を奪われ、
加えて過酷な労働のために一命を失うものすら少なくなかったと聞く。けだし感無量である。我等はいま先人に代わって過去一切の非道を深くお詫びすると共に、
その霊を慰めんため このたび心ある人びとと相計り東蝦夷発祥のこの地へ、うら盆に弔魂の碑を建てる』(1977年8月15日)。

知里幸恵の姪で「銀のしずく記念館」館長(当時)の横山むつみさんと(2014)


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※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)



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